結 密室の祈り

第575回 2023年4月29


 斎藤義重のアウトサイダーとしてのまなざしは、何者にも属さない自由な思考への忠誠を通じて培われてきたように見える。そして彼のスタンスは私が考えるアウトサイダーのスタンスを裏切ることになる。彼の身の置き所は中央から一定の距離を置いた「近郊」ではなくて、大都会のど真ん中だったように思われる。確かに斎藤の晩年の風貌は、私には大都会に隠遁する仙人のように見えた。台風の目が極めて静かな隠遁の場にふさわしいものとするならば、確かにそこは中央を覗き見る死角でもあったのだ。私は自分の作品の中に身を置く斎藤義重を写し出した大辻清司の写真が好きだ。

 結びにかえて、私はひとりの日本画家の作品をあげておきたいと思っている。それは村上華岳の描いた仏画である。私が学芸員として勤めた美術館にそれはあった。日本画だから油絵のように常設はできず、一年の大半は収蔵庫に眠っていた。告白すると、しばしば用もないのにひとり収蔵庫に入って壁にかけてそれを眺めていた。学芸員という鍵の番人にだけ与えられた至福の時間だったと思う。たぶん私はその観音に恋をしていたのだろう。誰にも見つからないまま私はその密室での遊戯を楽しんでいた。誰にも見せたくない自分だけのものにしておきたかった。時折、展示室に並べられることになったときには嫉妬もした。共有を拒むコレクターの心情がわかったような気がした。

第576回 2023年4月30

1 村上華岳の仏画

 それは「蓮華座上観音」、横27.6、縦128.5cm、絹本に描かれた細長い軸装で、線を主体にして色彩をおさえたものである。落款は「華岳画」、印は「華」であり、ともに割合早い時期のものと思われる。華岳が仏画を盛んに描くのは晩年の昭和10年前後に集中しているが、これらのサインは一般に荒々しく個性的だが、それに比べてここにあるものは、初期の作品によく見られるような楷書体でていねいに記してある。また印も昭和10年前後に用いたものではなく、大正8年に描かれた華岳の初期の代表作「日高河清姫」などに用いられたものと同一である。顔だちも晩年の仏画に見られる厳しさに比べて、大正9年の国画創作協会出品画「裸婦図」に共通した柔らかい官能性に満ちており、大正末期あたりの制作かと思われる。

 淡い色彩は金泥と薄い緑色からなり、厳しい線のもつ宗教性をいっそう際立たせている。華岳自身は、「中世の純一な信仰に一番深い共鳴を見出した」として、ジオットオの絵からの感銘を語っているが、むしろこの緑の感覚は14世紀イタリアのシエナ派の絵をはじめて目にした者の感動と似ているといった方がよいかもしれない。もう少しいきすぎると甘くなってしまうぎりぎりの宗教性の表現がそこにはある。それは厳しさと甘美が同居する世界であって、その両極のエクスタシーの中に彷彿と信仰の姿が現われてくる。

 華岳の仏画のほとんどは、ぼんやりとした漠たる空気の中にその姿を現わす。その姿をもっと見たいと思いながらも、それ以上ははっきりと見えないという、そんな姿である。言いかえれば、それはまたかつて見た記憶をたどりつつ、もうそれ以上は思い出せないという、そんな線でもある。こうした実体に近づこうとするぎりぎりの格闘が、村上華岳の一連の仏画群には見られるのである。そこには、以前卒業制作に描いた「二月の頃」のような透明感はなく、すべてが不明確な、それでいてどうしても見たいという執拗な執着心が、繰り返し華岳に仏画制作を強いたのではなかったか。

 華岳の宗教的制作態度については、今まで多くのことが語られてきている。彼の「画論」中に見い出される「芸術は神と一になる修養の具である。製作は密室の祈りである」というフレーズは、たえず繰り返して引用されてきたものだ。確かにそこには一貫して芸術よりも宗教を第一義とする敬けんな信仰の姿が読みとめられるのであるが、いつもそれは神ともデーモンともつかないぎらぎらとした官能性を伴っている。その官能性は彼が「大阪の豊饒と多彩」(加藤一雄)に育てられたこと、大阪のもつ油ぎった庶民感覚に由来するとも考えられ、およそ敬けんな宗教性とは異質な性風俗を形づくる。

 初期の作品に見られる浮世絵を思わせるような風俗描写は、「義太夫の声の華やかな曇り、夏祭の露店に売る駄菓子の形、道頓堀の芝居に立つ幟の色」(加藤一雄)に代表される大阪的感覚にもとづいているが、やがて、そういった一切の俗物感覚から逃れようとして、華岳は全く異質の世界へと入ってゆくことになる。それが彼にとって「信仰」の世界であり「密室の祈り」であった。しかし、彼が逃れた場所が「密室」であったということは、信仰の世界に官能的欲望が引摺られていったことを意味する。このことを象徴するかのように、華岳は晩年神戸花隈の花街に居を構える。それは芸者屋の嬌声が鳴り響く世界であり、その中心に隔離された密室をもうけ、画家の厳しい修行の場とするのであった。しかし、この聖域は華岳にとって、俗世界の真っただ中に置かれているがゆえに意味があった。彼は「夜話」(昭和8年)と題した文章の中で次のように語っている。

 「人は何のかのといふが、この神戸の花隈といふところは住んで見て、かなり興味のあるところなのだ。あたりは全く芸妓の置屋、屋形といふものだらけであるが、しかも自分の家は、森閑としてまるで別世界のやうだ」。

 「密室」の完成を求めて、彼は様々な言葉で自己を戒めてゆく。「密室」であるためには内と外にはっきりとした断絶が必要であり、彼はその閉ざされた感情を「祈り」「信仰」「使命」「希願」などの言葉で確認し、自らを「線の行者」と呼ぶ。それは厳しい自己の戒律であるとともに、「性」とも「業」ともいえる高まりゆく欲望の深さをも、逆に暗示するのであった。そしてこの欲望は、禁欲生活の中に時として顔をのぞかせることがある。

 昭和2年につくられた華岳の詩に「あゝ一まいのひつじの毛皮」というのがある。「その無垢のすがたと柔軟の眼ざし、忽然として棒はこけおろされてなんぢのやさしき眼はとぢ、汝の皮ははがれし」と歌われるそれは、明らかに犠牲となる羊の姿、つまりキリストの受難を思わせるものでありながら、その信仰のうらに華岳の隠された欲望を暴露してもいる。

 

 あゝ一枚のひつじの毛皮

 つやつやとうづまけるそのやは毛よ

 うつくしきたをや女の肌へもなんその感触におよばず

 われ一枚のひつじの毛皮を肌へにつけて

 今ひそやかになんぢの香をかぐ

 かすかなる愛獣の匂ひをなつかしむ

 

こうした閉鎖的な黒い情欲のうねりは、「画論」中の別の箇所にも見い出される。「闇の中に嵐が吹く。まっ黒な深夜に、恐ろしい嵐が轟々と吹いてゐるのだ。その中を真裸で何物も身につけず駆けまはる。彼は目的もなくむやみにかけ廻る」。こうしたやり場のない闇に向かう情念は、密室においてはじめて芽生えてきたものである。その意味では、華岳にとって「太陽」はあまりにもまぶしすぎた。

 華岳の影を彩っているのは、太陽でなく人工の光であった。なるほど彼は「太陽」を気にはしていた。風流の根源は太陽にあるとして「太陽の光輝が自然界に光臨し、地球を光被し、月に光映し、月が人間界に光照する。月の光が葉末の露にも宿る」と語った。しかし、彼は太陽に「生命の豊かさ力強さ」を感じるが、それは「清浄」という感じではないという。そして、「清浄で透徹した月光のやうな生活でありたい」とも告白する。確かに華岳の描く世界は、月のような冷たい燐光のきらめきを思わせる。「清浄」という華岳の好む言葉には、信仰のうちに潜む青白い艶めかしさが含まれている。それは華岳が「かすかなる愛獣の匂ひをなつかしむ」と歌った感性でもあるのだ。

第577回 2023年51

2 華岳のアウトサイド

 華岳の屈折した生い立ちと、複雑な境遇が、少なからず彼の倫理観に影響したことはまちがいない。父を早くなくし、母は再婚して行方知れずで、養子にもらわれて育った華岳にとって、実母に対する不信感が、理想なる母性を求める行動に現われたとしても不思議ではない。それが無数の観音條を生みだすエネルギーに転化したとも考えられる。母に対するこの哀しい記憶のゆらめきを、彼は次のように伝えている。「僕はごく小さい時に父母が道ばたで夜店を張っていて、僕は商品の傍らの寵の中に入れられていた。その辺に篝火(かがりび)が燃えていたことをかすかに覚えている」。恐らくこの篝火が華岳の観音像制作の原点となったと思われる。そして、花隈のアトリエを「光存堂画室」と名付けた。しかし彼の仏画の光源は、密室にともされたうす暗いろうそくの光というよりも、庶民感覚の底辺から差しこんだこの篝火という方がふさわしい。その記憶のゆらめきの中で、彼は見定め難い観音の実像をたどっていったのである。そしてそれは華岳の言う「肉であると同時に霊であるものの美しさ」に他ならない。

 華岳は「何かしらこの世でないものが描いてみたい」と言う。そしてまた「菩薩は写生のしようのない形心である」とも言う。そうした漠たる雰囲気の中で、彼は平伏すと同時にふるいつきたくなるような女神像を描くことになる。その微妙な語調は、谷川徹三が「その美しさの所在は、根にはなくして尖端にある」と述べたことに一致する。とらえたと思えば逃げてしまうようなもろさがいつも華岳の作品にはまつわりついている。それでいて常に作品は「大きな宇宙の意思と一つに融合する」ことを目ざしている。その細く見開かれた眼は、華岳のいう「久遠の女性」の清浄さを表わすと同時に、「人類の運命の始めから終りまで見知っている」ような眼なのである。アウトサイダーのもつ屈折した魂は、ここに至って浄化へと向かう。世の無情に対する恨みつらみを洗い流して、大海へと運び去るような美の久遠に、それは満たされていた。私は福井を出て、久しくこの仏画を目にしていない。ここに至って郷土ゆかりは、作者にゆかりはなくとも、作品が郷土に根づいてゆくことになる。村上華岳の場合のように縁もゆかりもない作者であっても、その作品だけが美術館に収蔵されたときから、はじまってゆくものだ。それはもはや日本美術である必要もないものだろう。

福井県にも他県の公立美術館と同様に西洋美術のコレクションがある。山梨県にとってフランソワ・ミレーは、今では切っても切れない関係となっている。私のいた頃に購入された西洋版画には、ミロドーミエブレイクなどがあったが、版画というジャンルで考えるならば、油彩画をメインとする絵画体系では、版画は美術のアウトサイドにあったのかもしれない。そうした近代絵画の巨匠たちに混じって、16世紀の古版画も収蔵されている。それらは知名度は高くはないが、版画というジャンルが輝きを見せた技法の勝利を確認できるものだ。エングレーヴィングという銅版技法は、江戸時代にオランダを通じて導入されたとき、日本人を魅了するものとなった。50点ほどのネーデルラント版画のなかで際立っているのはヘンドリック・ホルツィウスだが、ブリューゲルとレンブラントをつなぐ時代に位置付けられる。それはまた銅版画の全盛期にあたる。日本のアウトサイダーの余録として、それらが福井県に収蔵されているという点で、ドーミエやホルツィウスを取り上げておくこともできるだろう。