アジアのイメージ 日本美術の「東洋憧憬」

2019年10月12日(土)~2020年1月13日(月・祝)

東京都庭園美術館


2019/11/29

 何気なく見ていたモチーフも、再考してみると重要なメッセージを含んでいるのだと、気づかせてくれた。チャイナドレスが描かれた時代背景を、これまで考えることはなかった。安井曽太郎の名作も、日本がアジアに覇権を広げていく時代を象徴的に語っている。同じく安井が描いた花の絵に用いられた壺は、染付けや青磁など東洋産のものだ。そんなことを気にすることはなかったのだが、西洋画の花の絵にアジアの壺が盛んに描かれた一時代があった。西洋画に登場するオリエンタリズムは、西洋が目を向けたエキゾチシズムだったが、西洋を学んだ東洋人画家に、やがては自覚を促すものとなっていった。

 いつの間にか後戻りできない状況が、ゆっくりと浸透してくる流れが、絵画に描かれたモチーフの変遷を通して見えてくる。そら恐ろしい歴史の既成事実が、絵画を証言として、視覚化されていく。正義と良心の発露であったものが、とんでもない加担者としての歴史認識の前で、愕然とする。そんな警告を含んだ、質の高い展覧会だった。今ならまだ間に合うという切実な思いは、切迫感を伴って、希望の名のもと、展示品のセレクションに反映している。

 中国の文化遺産を目の当たりにした画家たちの筆跡には、ただ偉大なものに触れた驚きと崇敬の念しか感じ取れないが、ディテールにまでこだわった描写は、所有に向けた欲望を内に含んでいる。秀吉の朝鮮半島への挙兵は、茶碗を求めての美と求道の名を借りた略奪のことだったともいう。岡倉天心のアジア・イズ・ワンという三語が、恐怖を伴って響いてくる。本展で繰り返し掲示された地図には、盛んに中国奥地に「新京」という聴き慣れない都市名が書き加えられている。北京と南京に対抗して東京と名づけたのち、新たに建設した首都を、名をもって既成事実とするものだった。

 過去の恥部を暴露するだけの消極的主張を前に、現代の東洋憧憬として三例があげられているのが興味深い。「アジアの幻想」というタイトルで田中信行、岡村桂三郎、山縣良和が選出されている。それぞれ漆芸、日本画、ファッションを出発点とするが、大きく領域をはみ出して、アジアンテーストを加えた造形に挑んでいる。ここで選ばれたアジアのキーワードは、漆(うるし)と白澤(はくたく)と狸(たぬき)である。

 田中信行の漆芸は、写真で見る限りは、抽象彫刻にしか見えない。その伝統的光沢は、東洋の神秘を宿しており、西洋化した形態にカモフラージュされながら、内にひかる漆の神秘を隠し込んでいる。西洋化した目には、浅はかにも漆の光沢はガラス造形にさえ見えてしまうかもしれない。しかしガラスとの差異があるとすれば、それはガラスが光を引き出そうとするのに対して、漆は光を閉じ込めようとしているようにみえる。ガラスが白光だとすれば、漆は黒光、ガラスが発光だとすれば、漆は吸収光ということになろうか。太陽光と月光の比較も成り立つかもしれない。

 岡村桂三郎が描き出した白澤という霊獣は、無数の目によって成立している。近づくとさらに無数の鱗を伴っている。魚類か爬虫類かも定かではないが、目だけの霊獣である饕餮(とうてつ)の末裔であることは確かで、中国では青銅器文化のはじまりから生息していたものだ。以前、平塚市美術館での個展で、日本画とは思えない巨大な壁と化した屏風絵に接したときには気づかなかったアジアの神秘が、トーンの地響きの中に根づいていたようである。

 山縣良和の狸には、ユーモラスに見せかけながらも、怨念と恨みに満ちたアジアの悲しみが埋め込まれている。2017年の東京都庭園美術館での「装飾は流転する」という展覧会では、他を圧倒して一人舞台だったのが、私の記憶にも新しい。そこではファッションとしての服飾をはみ出して、死の葬列がインパクトをもって迫っていた。ここでも狸のまわりに広がった縄が、沖縄の暗喩となっているのに気づくのは困難だが、可愛い抜け殻とはいえ、狸の剥製のもつ死の暗喩は、動物愛護者ならずとも強烈に目に突き刺さる。感性の鋭い鑑賞者は、その光景に嘔吐をもよおすかもしれない。ともに思い切った問題作だと思って見続けた。


by Masaaki KAMBARA