凹凸に降る 小野耕石、滝澤徹也、中谷ミチコ、浜口陽三

2019年10月05日~12月22日

ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション


2019/12/1

 凹凸をテーマに浜口陽三をだしに使って、3人の若い現代作家の紹介にあてている。中谷ミチコは先に三重県立美術館で見ておもしろく、その後の展開を期待して訪れた。通り過ごせば見逃してしまうところが、この人の魅力だ。つまりは凹凸の凹の部分に秘密は隠されている。表面は平らに加工されているので、凹凸はないのが、平らな箇所は透明なので、話が複雑になる。つまり手では鑑賞できないということだ。その限りはこれが絵画であって彫刻ではないことになる。平面と立体の狭間、凹凸の問題として作品解釈は進展する。

 このトリッキーが神秘を帯びて、青白く妖艶にひかりだす。これまで貝殻のように閉ざされていた不定形が、今回はキューヴになった。そこでは立方体に埋め込まれた人体が、光を受けて輝きはじめる。人体が埋れた立体という限りでは、ミケランジェロを範にした彫刻の正統とも言えるだろう。サイコロはトリックの宝庫であり、キュビスムが絵画の革命であるという点で、この形の導入は興味深い。目を近づけて見ると、光の関係でぼんやりと人型が出現する。

 ミケランジェロが大理石の塊から人体を解放したように、キューヴは急に輝き出すのである。良質の大理石は透明感が高く、ミケランジェロの目にはうもれた奴隷のもがく姿が見えていたはずだ。日本文化の土壌に合わせれば、竹取物語という方が適切か。少女の顔立ちは、確かにかぐや姫を想起させるものだ。竹がひかる背景には、それが月からの使者であった暗示がある。中谷ミチコのキューヴも怪しい光を放っていたが、それもまた月光のもとでの輝きを条件とした。この日の展示室の照明は薄暗く、中谷にとっては最良だったが、浜口の版画の鑑賞にとっては最悪だった。キャプションも含めて、暗くてほとんど何も見えない。

 小野耕石は倉敷のひとだ。黒光りのする落ち着いた肌ざわりが、伝統工芸を彷彿とさせる。近年のパワフルな制作に、私も何度となく出くわしている。「7206版を刷り重ねたインクの塊の作品」という執念のリピートは、宗教性をも感じさせて祈りの造形に進化している。そこには黒光りのする重厚な書物が立ち上がる。それは聖書かもしれないし、悪魔の書かもしれない。繰り返し塗り重ねられた漆芸のように手の行き来が生み出した形であって、そこに自然に書物が立ち現れたとするならば、人の意志を超えて姿を見せた知の結晶と言えるかもしれない。自ずとページは開かれようとしている。もちろん文字の誕生以前のことではある。

 版画は圧縮された彫刻のことだと書いたことがある。キュビスムの絵画はトラクターで轢き殺してまでも、人体を平面にしたかった。そこでは横顔も後頭部も、正面像と同一平面上にある。何千回と刷り重ねれば版画は彫刻に戻るということだと納得した。

 絵画の分類で言えば、中谷が具象だとすれば、小野は具体、滝澤は抽象ということになるだろうか。抽象とは彫刻を無理やりに絵画にしたもののことだ。滝澤にはイメージメーキングという意志はないように見える。イメージが誕生する以前の世界の渾沌を問題にしている。地球が誕生した時、ガスに満たされた液体は、固体化する時間の熟成を経験する。やがて気体と液体が除かれて固体だけが残される。それが大気と水のない風景のことだとすれば、そこには固まった山や岩が見え出してくる。滝澤の絵画は、描かれた風景ではなくて、生み出された風景ということができるだろう。発酵という食品加工の現象が、造形表現に結実する。時の流れは全てをセピア色に染めていく。それは枯れ葉でもいいし、醤油でもいいが、土に戻る姿は、究極の風景画を形成する。


by Masaaki KAMBARA