第9章「快楽の園」地上の楽園

第723回 2024年3月8日 

地上の楽園

ボスの絵はイマジネーションをくすぐるような作品群で知られ、地獄のおどろおどろしい、怪物の出てくるもの、ことに聖アントニウスの誘惑から最後の審判の地獄の場面を特徴としていた。ここでは地獄の幻想ではなくて、楽園の幻想が描かれている。

「快楽の園」の左翼パネルはエデンの園。この話は前回のテーマだった。ここでは中央パネル(図1)の地上の楽園の話である。地上の楽園(アースリーパラダイス)という言い方がある。楽園はどこにあるかという話の中で、この世のどこかにあるということで、コロンブスも探しに行った。しかし結局はこの世にはなかったという結論が出た。実際にはあったが今はなくなってしまっていると判断したのと、地上にはなくて天上にあったのだという考え方も一方にはあった。パラダイス自体が天上の楽園と地上の楽園となり、空中で浮かんでいたり、地上のどこかから入って行けるルートがあるのだとも、いろんな考え方が錯綜してきた。

人間のイマジネーションの問題なので、どんなふうに考えようと自由だ。絵画上で言えば、だれがどんなふうに考えてきたかという、時代によっての変化や、すごい想像力に驚嘆することになる。同じ地上の楽園という概念をもちながら、一人の作家の頭の構造を知る手掛かりにもなっていく。

エデンの園という場所と地上の楽園はどのような関係で、同じなのか違うのか。地上の楽園がある限りでは天上の楽園もあるだろう。もう一つの概念として天国がある。天国と地獄という。これらはどんな関係になっているのか。ボスが描いたのが地上の楽園かといわれると確定しているわけではない。快楽の園というタイトルは、ボスが自分で名づけたわけではない。解釈をめぐってはさまざまだ。この場所は画面の構成からすると、エデンの園があって中央画面があって、地獄につながっている。背景の山並みをたどっていくと、エデンの園の背景がそのまま中央画面につながっている。雰囲気的にも大差ない。あえていえばエデンの園では早朝のすがすがしい空気が感じ取れる。それに対して中央場面は早朝からは少し時間がたったようだが、色彩的には断絶はない。地獄との間には大きな断絶がある。地獄では闇の世界が展開していく。

図1 ボス「快楽の園」中央パネル

第724回 2024年3月9 

ノアの洪水

 ただちがうのはエデンの園では登場するのは、アダムとイヴと父なる神の三者だけだった。中央画面では男女の裸体が数多くうごめいている。ボスがここで描いた人間の数は、数えてみると600人以上はいるだろう。人類の誕生でははじめにアダムが生まれて、次にイヴがいて、二人しかいなかったはずだ。その後子孫が繁栄していく。あまりにも増えすぎると悪人も増えていく。神は怒ってそれらを罰するという話がいくつか出てくる。一つはバベルの塔の話だ。天にまで届くような塔を建てようと、人間は一致団結しようとした。それを神は怒って塔をつぶしてしまう。旧約聖書の創世記に出てくる話だ。それともう一つはノアの洪水という話。ボスにも「ノアの箱舟」を描いたパネルがある(図1)。洪水の直前には人間は増えすぎていた。飲んだり食ったり欲望の限りを尽くしていた。それに対する神の怒りが爆発して、ノアの家族だけを残して人類を絶滅させる。アダムからノアまでに人があふれかえるようになっていた。

図1 ボス「ノアの箱舟」

第725回 2024年3月10 

ボスの異端説

 ボスの絵では人間はアダムとイヴ以降の快楽をむさぼる姿に見える。裸体が氾濫して快楽の園というタイトル通り、人間の肉欲を描いたようだ。肉欲に対する罰として、こんなことをしていては地獄に堕ちる警告のように、右パネルの地獄図が描かれる。絵画構成で言えば、左に楽園、右に地獄、中央には現世がある。この形式は最後の審判に対応するものだ。この世で肉欲をむさぼっていると地獄行きだというのが通例の読み方である。

 こういう普通の読み方に対して、意義を挟む研究者もいる。それは快楽の園の中央画面に描かれた場面があまりに美しく、肉欲や快楽が批判されているとは思えない。肉欲をむさぼるなというメッセージだとすると、もっとこの場面は痛々しい表現になってよさそうに思う。男女がカップルをなして仲睦まじく戯れているような光景が目立っている(図1)。この場面を否定してはいないのではないかという考え方が提出される。それがボスの異端説として結晶する。まともなキリスト教の信者ではなくて、異端の宗教結社に属していたという学説が出てきた。いまだにはっきりとはしないが、主流としては肉欲を戒めるものと読んでいる。

現代ではプラド美術館に所蔵されるが、祭壇画の形式で、もともとは教会の主祭壇に置かれるべきものだ。裸体が氾濫するような絵は教会に置いたとは考えにくい。その後の調査でこの作品にちがいないとされるものが、ボスの没後一年後にブリュッセルで見つかった。ある貴族のたくさんあるコレクションの一点として所蔵していた。注文主もおそらくこの貴族ではないだろうかということになっている。来客時にボスの変わった絵があるので、珍品として見せていたのではないか。閉じたところは天地創造の三日目だが、開くとカラフルな人間が裸体で氾濫する画面が出てくる。閉じたところはグリザイユというねずみ色一色だが、開けたときの落差を見せどころにしていただろう。

図1 ボス「快楽の園」中央パネル部分

第726回 2024年3月11

青春の泉

天地創造三日目からエデンの園を経て地獄に至る、中央に位置するこの画面はいったいどこなのだろうか。裸体で男女が戯れている楽園の描写はボス周辺を探るといくつか似た場面に出くわす。ドイツのクラナッハや、ボスよりも少し前のファン・アイク、あるいはイタリアのジョバンニ・ベリーニなどの作品が、ここでは問題になってくる。コロンブスが新大陸を発見する前後の話で、いろんな情報が錯綜するなかでイメージされてきたものだ。クラナッハの描いた「青春の泉」と「黄金時代」という主題がある。

 ボスのものを部分的に見ていて気づくことがある。無数にいる人間はすべてが若者である。年寄りもいないし赤ちゃんもいない。同じ年齢の男女だけのようだ。世界を映すのならば老人もいれば子どももいて当然だろう。青春の泉あるいは若さの泉という主題があり、これと関連をもっているのかもしれない。泉に向って病人や老いて体が不自由なひとがやってくる。そこにつかると若さを取り戻す。伝説的なものだが民衆的な図像として、かなり描かれていた。クラナッハのものがよく知られる(図1)。裸体が一人二人ではなくて、かなり人数がいて、庭で戯れているという点で共通する。泉は確かにボスと同じく中心部分にある。中心に噴水があり、ごつごつとした岩山もあり、構造的にはボスに似るが、泉にやってくる人物を見ていると、ボスのように全員が若者ではない。

図1 クラナッハ「青春の泉」部分

第727回 2024年3月12

黄金時代

「黄金時代」のほうは、泉も足をつけているところが出てくるし、輪になって踊っているところ、男女が寝そべっているところがあり、ボスのものには近いかもしれない(図1)。この主題は神話世界から出てくるもので、キリスト教の宗教的テーマではない。ギリシャローマの神々の時代に由来するものだ。金の時代、銀の時代、銅の時代、鉄の時代と続く。ヘシオドスという歴史家が考えた歴史区分である。キリスト教ではこの世の誕生は6日で完成する。6日間で世界をつくり、7日目を安息日にした。

ギリシャ時代の発想ではまず黄金の時代があって、銀、銅、鉄という金属の区分によって時代が展開する。今の歴史観からしても石器時代という石の時代があるし、金属になってからだと青銅器が使われていて、その後鉄が登場する。クラナッハには「銀の時代」という絵もあり、黄金時代との比較が可能だ。黄金時代では男女がグループになって戯れていて、牧草地には木が茂り、まわりが囲われている。

黄金時代では、金は最高の金属で、限りあるもので埋蔵量は減っていく。中世を通じて減少する金を生みだすことができないかと、錬金術が始まり、それが化学の出発になっていった。塵を集めてきて黄金をつくるというような、不可能なことを考え始める。金は混じりけのないもので、柔らかくこれを使って道具をつくったとしても、人は殺せない。やがて金から銀に目が移っていく。銀は食器になるが、まだ柔らかく武器にはなりにくい。そこで次に銅が出てきて、銅剣や銅矛などの武器がつくられた。銅も柔らかく加工はしやすいのかもしれない。次に鉄が登場することで、銅は一歩後退する。武器としての完成度も高い。鉄の時代に入ると人類は殺戮が繰り返される。逆に言えば金の時代は殺し合いはなく、平和な時代だった。楽園を形成していた。銀の時代になるとクラナッハの絵画のようにあちこちでいさかいは起こるが、たたき合いどまりだ。黄金時代は喧嘩すらなく、戯れの時代だった。猫がじゃれているような状態である。銀の時代ではじゃれていたものが引っかき始める。銀は食器だけでなく、武器にもなるということだ。フォークやナイフで人殺しもできるということだ。エスカレートして人間はどんどん、凶暴になっていく。こういうギリシャ的歴史観からすると、人間の歴史は破滅へとたどるもののように見える。

図1 クラナッハ「黄金時代」ミュンヘン

第728回 2024年3月13

至福千年

キリスト教の歴史観からすると、楽園という概念を前提として、それを位置づけるために、世界の成り立ちを、6日間で世界をつくったという。1日は神々の世界のことで、人間世界では1000年にあたるのだと考えた。7日目は安息日という、平和な時代である。そして最後の審判がやってきて天国と地獄に分けて完結する。キリストが天上にいて審判を下す(図1)。6000年で世界は完成し、次の1000年は平和な時代が続く。至福千年という概念がある。その千年を終わると最悪の事態が起こる。審判があってこの世が壊滅する。この千年間続く平和な時代をここでボスは描いたのではないかという考え方も出てくる。

終末思想はキリスト教世界では何度となく繰り返されていく。フィオーレのヨアキムというイタリア人の修道士がこの世の終わりについて書いて、イメージ付けをする。最後の審判という絵画に反映するが、ボスの場合も最後の審判の形式をとりながら、選択のしようがない。左翼はエデンの園であって天国ではない。右翼は地獄そのものであり、一方方向にエデンの園からはじまって現世の快楽を経て、地獄に落ち込んでしまう。全員が地獄に行きつく図である。

図1 ボス「最後の審判」部分

第729回 2024年3月14

最後の審判

ボスはここに神話的世界を導入したのだろうか。聖書の範囲でつじつまを合わせておく必要がある。そうしないと右側の地獄の説明がつきにくい。

最後の審判はこの世にやってくる最後のテーマだ。天国行きと地獄行きにふるいわけられる。「快楽の園」を見る限りでは、最後の審判で左右に分けていくのと対応する形をとるが、一方は天国ではなくて、エデンの園が描かれる。他方は地獄である。ふつうは審判を下されたあと、天国に行くか地獄に行くかの二者択一である。天国へは階段を上る姿が描かれる(図1)。ところがここではエデンの園というのは、かつてアダムとイヴがいた場所である。つまり天国ではない。天国(ヘブン)の概念は、場所として地上には想定されていない。天上の話といってよい。天国を地上に探す話にはならなかった。エデンの園については、神が東のはずれに庭を置いたという記述にもとづいて考えてきた。それが見つからないという話を前章ではした。

ここではエデンの園が見つからなかったことを前提にしながら、まだまだあるぞと思われていたのが、この絵が描かれたころの話だ。コロンブスがアメリカ大陸を発見し、そこで見つかった文物が伝わってくるころだ。実際には見たことはないが、聞いただけの話で、いろんなふうにイメージを膨らませていける時代でもあった。ボスのこの絵には新大陸のもっているイメージがかなり入り込んできていると考えると、現在あるエデンの園がこういうかたちで描き出されたのではないか。ないという結論が出る直前の話だ。これがもう二、三十年先に描かれたものだとすると、楽園は壊滅してなくなってしまっていたということになっていただろうから、こんな描写にはならなかっただろう。これも一つの解釈なので、これがどこの場面であるかというのは、確定されていない。聖書を下敷きにして、ある一節の光景だというのではなくて、独創的なイメージ世界だということもできる。最終的な結論に至るまでに、この画面に隠された細部を見ていくことで、つかめるものがないだろうか。

図1 メムリンク「最後の審判」左翼パネル部分

第730回 2024年3月15

円環運動

 これをさらに細かく見ていくと、いくつかの気づきがある。中央に池があって、その周りを動物の背中に乗りながら時計と反対まわりに回っている(図1)。池の中にいるのは全員女性で、そのまわりをまわるのはすべて男性である。女性を中心に置いて、男は円環運動をしている。手前では男女が仲良く戯れているのが目立つが、中央では女性の裸体に興奮した男たちがめぐっている。ここでは女性の美に誘惑された男のとった行動のようにみえる。そう考えると左画面で出てきたエデンの園でのイヴの解釈と対応するようになる。リリス説というのがあったが、男を食い殺す悪女であると考えると、女性美に魅せられた男の愚かさが見えだしてくる。人間の愚かさを風刺するのが、ボスの一貫して取っていた方向性だった。そうした罪を告発しているとみるのがいいのかなと思う。

 左側の鳥の群れにいる人間を見ると、少しも楽しげではない。人間と鳥のサイズが逆転しており、鳥の発する鳴き声が人間の耳には大音響にとどろいて聞こえる。鳥のさえずりは音楽のようなものなのだが、ここでは拷問にも等しい。耳を覆って耐えられないようなポーズが見える。快楽をむさぼる中で苦痛もあらわれている。やがて右側の地獄に行くと、楽器を使いながら、人間を責めていく。

 聖アントニウスの誘惑で、中心部分で聖人が小さく描かれたのと同じように、ここでも対角線を取ると、その交わる部分に「卵」がある。錬金術の象徴でもあり、すべての始まりを意味する。男の頭にのせられて登場する。実寸はそんなに大きくないが、人物と比べれば頭ほどの大きさになる。画面全体からみると見過ごしてしまいそうな位置にある。

 あちこちに卵は登場する。割れた卵もある。この絵を閉じた画面ではガラス球に、卵から生命が孵化したように、生命誕生の前兆のような光景が描かれる。フラスコの中で生命体が培養され、土の中から現れ出るようにみえる。錬金術師が無生物あるいはゴミから黄金をつくる化学的な実験を思わせる。天地創造なので地球の誕生ということだが、生殖活動に通じるものでもある。 

図1 ボス「快楽の園」中央パネル部分

第731回 2024年3月16

数字のシンボリズム

中央で動物の背に乗る円環運動は、黄道十二宮に対応するものだ。星座を形成するウシやサソリなど動物が円環をなして回っている。宇宙の運行、星の動きが暗示されている。占星術的な解釈も成り立つ。時の流れの表現は中央部分にいる女性のグループ分けにも反映する。人数を数えると1,2,4,7,12人のグループであることがわかる。それぞれは時間に関係した数字だ。数字のシンボリズムがここには込められている。ボス自身が人数までしっかりと数えながら、描いていたのか。

前面に出てくる男女は別々ではなくて、なかむつまじく寄り添っている。さらにそれらを細かく観察していくと、男女のカップルだけではなくて、もうひとりの男の存在がそのまわりに発見される。男女がいてもうひとりのけ者にされたり、間に入り込んでくる男の存在が見えてくる。割り込んでくる闖入者に見える。たとえば妊産婦が一人いるが、透明のパラソルの中で3人の人物がいて、男女ともう一人の男である(図1)。男女の間を分け入るようにして後姿の男がみえる。女は頭から頭巾をかぶっていて、尼僧をイメージしたようだが裸体表現で、おなかがポッコリと膨らんでいる。画面中に子どもは一人も出てこないが、おなかには子どもがいることが暗示される。

図1 ボス「快楽の園」中央パネル部分

第732回 2024年3月17

トリオ

謎めいたトリオだがこれと線対照の位置にトリオが認められる。鳥の群れのコマドリのくちばしの先に位置している。男女がいて男が女の手首を握りながらこちらのほうを見つめている。この視線が気にかかり、この場面に目が留まる。手首のとらえ方がエデンの園で神がイヴの手をとらえたポーズに酷似している。この二人の横に樽があって、そこから顔と手だけを出している男がいる(図1)。この三人がトリオをなしているように見える。左右対称の位置であり、構図的にも決まった場所に重要なものを置いているということが、かなり綿密に計算されて描かれている気がする。

 こうした構図的な分析を進めていくと、中心には女性の水浴図があるが、対角線で区切ってその交点を見つけると、そこには練り歩く男の頭の上に乗せられた卵である。構図上の中心には卵がある。中心にありながらひとめでは気づきにくい。エデンの園の中心が丸い穴がうがかれて、そこにひそむフクロウだったというのと、似たような隠し込みである。卵は錬金術でいう原点で、割れていない卵である。後景では殻が割れた卵が描かれて対比をなす。右側の地獄の場面では、中央に木男という樹木人間がいる。樹木になった男の胴体部分が、卵の殻のように描かれている。ボスではフクロウとともに卵も頻出するモチーフだ。頭と同じほどの大きさをもち、背景のものは何十人もの人間が入り込んでいてサイズのバランスが逆転している。

図1 ボス「快楽の園」中央パネル部分

第733回 2024年3月18

果実の象徴

イチゴも大きく扱われている。目立ったところにはないが大きなイチゴをかかえながら重たそうに歩く姿が見える。それは確かに快楽の象徴としてのイチゴだ。肉欲の重みということだ。ここでも背後にトリオとなってイチゴを食っているグループがいる。肉欲にふけるというよりも、じょじょに拷問に近いようなものになっていく。巨大なイチゴにかじりつく男の目はうつろだ。中央画面ではまだ責め苦までは見えてこないが、地獄に行くと普段は小さなものが巨大になって、人間を責め始めている。楽器が巨大になりのしかかってくる。日頃見慣れたものがメタモルフォーゼ(変身)をはじめていく。

鳥がたくさんいる。人間よりも一回り大きいサイズだ。鳥のまわりにいるが、耳に手を当てている姿がみえる。鳥の声を聞こうとしているようにみえるし、大音響に耳をふさいでいるようにもみえる。本来は鳥のさえずりは耳に心地よいもので、快楽を誘うものだが、サイズが大きくなると苦痛以外の何物でもない。

 よく見ないとわからないが、一つの枝から二つの果実が生えてきている。修復後の画像では二股に分かれる枝が消えてしまっている(図1)。一つは黒人の頭の上に位置するリンゴ、もう一つは男がかついでいるザクロかあるいはブドウだろう。ここにも隠された意味がある。リンゴはアダムとイヴの伝説から、悪に誘うきっかけになるものとして知られるが、ザクロは幼児キリストがしばしば手にするものだ。ブドウだとすると、こうした非常に大きなブドウをかつぎながら、二人の人物が前後で天秤のようにしている図像がしばしばでてくる。それは約束の地カナンから持ち帰った果実であり、神との約束のあかしとなるものだ。善の象徴として読み取れるものだ。ギリシャ世界ではブドウは酔っ払いバッカスのシンボルだが、キリスト教世界では意味は逆転している。フクロウが古代では賢者であったのが、中世キリスト教世界で愚者に変貌するのに一致している。こうした逆転劇を経てブドウ酒は聖なる薬となる。酔っぱらいのイメージと病気を治癒する、キリストの血であるという意味付けがされる。

図1 ボス「快楽の園」中央パネル部分

第734回 2024年3月19

無表情

中央の泉にいるのがイヴに似ているとすれば、まわりで円環運動をする男はアダムの置き換えか。中景の男の顔立ちはあまりよくわからない。前景では顔立ちははっきり描かれている。押しなべて特徴はあまりない。無表情で何を考えているかがよくわからない。動作そのものは思わせぶりで、あまり意味のないものだ。日常生活で何か目的があって、そのために動作をしているというのではない。料理をつくったり、目的地に向かったり、まっすぐ歩いたりというものではなさそうだ。一種の戯れであり、生産性のない、舞踊に近いものだ。右側には実際に手足を動かして踊っている人物もいる。生活に密着した動きではない。なかには脈をとったりする、エデンの園でのキリストとイヴの繰り返しにみえるものもある。女性はイヴしかいなかったが、男性はアダムと神がいて、すべてがアダムの繰り返しということも言えない。

トリオをなす男二人に女が一人という組み合わせは、三角関係を示し、仲のいい男女の間を、別の男が割って入ってくる。これによって静止した世界に動きが起こる。男女の愛を取り持つのではなくて、裂いていくような力が加わっていく。エデンの園での「アダムとイヴの結婚」のパロディとして見えてくる。前景の男女ははたして仲がいいのか。無表情はそれを読み取らせてはくれない。

イチゴにかじりつく男がいる(図1)。ここには表情がある。あまりうまそうではない。かじっている歯まで描かれていて、苦痛のようにもみえる。ボスは意味不明のまま投げ出していて、それによって解釈するおもしろさが出てくる。

図1 ボス「快楽の園」中央パネル部分