GERHARD RICHTER - ABSTRAKT

2021年11月19日~2022年4月17日

エスパス ルイ・ヴィトン 大阪


2022/3/11

 多くはないがゲルハルト・リヒター(1932-)の抽象作品の珠玉がそろえられた。日本での大規模な個展(2022年6月東京国立近代美術館)をひかえてのプレビューのようにみえるが、写真では見つからないオリジナルのもつ唯一無二の絶対性を、披露してくれたように思う。それはたたずまいとか、風格とかいう語で置き換えることのできる、確固とした自信のことだ。絶妙なサイズの必然がある。このイメージに対してはこのサイズでなければならないという至上命令のことだ。間伸びのした絵や窮屈すぎる絵はあるが、リヒターではぴったりのサイズに収まっている。目を細めにして見ると風景画なのに見開いて見ると抽象絵画なのだ。ときにそれは佐伯祐三が描いたパリの壁にさえ見える。両者が自由にゆききできるためには、絶妙な一瞬があるということだ。それはフォーカスにも似て、一点に集約するものだ。そこでは安定した世界が希求されていて、それゆえにあえてピントのずれた写真のような絵画をおもしろがって制作する視点も生まれてくる。

 写真としか思えない写実のテクニックを持った画家が、同時に抽象絵画を成功させるのは奇跡に近い。しかし写実絵画もピントをぼかし、色彩の粒に分解してしまうと色の斑点からなる抽象絵画に他ならない。その点では両者は同一なのだ。中世のステンドグラスのことを考えてみよう。そこに描かれた人物像は床面では抽象的色面を構成することになるが、これを逆にたどると床の色面は光源に向かって人物像へと収斂していくのだ。光は神であり、神はキリストという人のかたちを取って出現したということになる。ケルンの大聖堂に行けばそんなリヒター作のステンドグラスに出会うことができる。

 資本主義リアリズムを掲げるにはルイ・ヴィトンと結びつくのは必然的ではある。しかしそれが社会主義リアリズムに対立する語であるなら、旧東ドイツからの亡命という事情を抜きに語ることはできないだろう。社会主義が嫌うのが抽象絵画であるなら、リアリズムを抽象化する方法論を確立することが、自己のアイデンティティを築く方向となる。前衛というにはあまりにも高級感のある重厚な風格を宿していてクラシックでもある。画家の長者番付で最高のステータスをもつことも、ブランド志向にともなう資本主義の憂鬱であるなら、もっと荒削りな野生がかつては備わっていたという評価も出てくるはずだ。大阪でも東京と同じでルイ・ヴィトンの建物の正面玄関ではなく、右脇の勝手口にあるエレベーターで展示室に向かうとき、何とは無しに感じる異質感がある。それは純粋な美術鑑賞とは異なったもののように思える。


by Masaaki Kambara