集めた!日本の前衛—山村德太郎の眼 山村コレクション展

2019年08月03日~09月29日

兵庫県立美術館


2019/8/31

 またしてもコレクションである。このところ申し合わせたようにコレクターを主役にした展覧会が続いている。松方コレクションと原三渓コレクションがいま同時並行で走っている。少し前は平成から令和に代わる記念に皇室コレクションが紹介された。こう続くと美術館の自主企画というよりも、影で大きな力が働いているのかと勘ぐりたくなってくる。経済人が主役になると、芸術学の話が経済学の話に変貌するようで、私はあまり好まない。

 批判的に見始めたのだが、これがなかなかいい。山村硝子の社長の道楽の話だと割り切っていたが、最初の出会いが津高和一。コレクションのはじまりに津高作品が並ぶが、抜群のセレクションだと感心する。西宮にこの人がいたから現代美術のコレクションが始まったのだという気がした。関西に根ざした前衛美術の幸運なスタートだった。

 次には私にとっても懐かしい斎藤義重の作品が並んでいた。関西からの脱皮の出発点となったかもしれない。バックには東京画廊が付いていた。マーケットに組み込まれていくことにもなるのだろうが、その後の「具体」への傾斜は、関西の前衛との共闘の宣言のように受け止められる。パフォーマンス集団に再制作を依頼するという疑問符も、単にアートナウという感覚よりも、歴史的評価への執着からきたものだろう。同時に経済的波及効果も狙われたかもしれない。

 作品の大きさからみて、個人的鑑賞のレベルを越えていることは確かで、モニュメントの建設という見果てぬ夢は、松方や大原コレクションとも共通するものだろう。でもやはり、コレクションの全貌を調査研究するというスタンスはコレクター礼讃に終始してしまい、作家は十把一絡げで済まされてしまいそうな危惧がある。

 パトロンを中心に芸術を語るという邪道は、ルネサンスをメディチ家の盛衰に帰するようなことで、またしても経済学に回帰してしまう怖れがある。足利家の美術や徳川家の美術という名の枠組みを解消しないと、美術はなかなか民衆のものにはなってくれない。そんな時はいつもモノとしては残らないパフォーマンスに純度の高い芸術性を感じてしまうのである。


by Masaaki KAMBARA