ミナ ペルホネン皆川明 つづく

2019年11月16日(土)〜2020年02月16日(日)

東京都現代美術館


2019/12/1

 「つづく」という語が、至るところで目につく。百年続くデザインをめざしての創業理念は、確かに一代の歩みを越えている。つまり継承という問題が浮上するということだ。服飾にとっては消耗という概念が、新陳代謝をうながし、生産性を上げてきた。ファッションは服飾であると同時に、流行のことだ。美術品のように保存されては成り立たず、いつも今を生きるアクチュアリティが、ファッショナブルな着こなしを演出してきた。

 そこに新しい提案として手づくりの耐久性と飽きない普遍性が、強調されてくる。ある種のアーツ&クラフト、民藝運動として、ミナペルホネンは起こってきたように思う。服飾だけでなく生活文化向上へと舵を取ることは、はじめから目に見えていただろう。ペルホネンがフィンランド語である点は、マリメッコと比較したくなるが、落ち着きのない活発さは、日本の美意識とはそぐわないように見える。

 日常生活に根ざした安定感は土に親しみ、くすんだ色調の目立たなさを志向する。それでいてよく見ると艶やかで、親しみのわく図様のリズム感に満ちている。通り過ぎて振り返るような趣きがあるならば、それは後ろ姿に反映する和服の美意識だろう。すれ違う何十メートルも前から、目につくものではない。それを「味わい」という語であらわすのだ。目で愛でるのではなく、口に含んで広がりを見せる食感を宿した服飾といってもいいだろうか。

 多くのファンを獲得しているが、いかんせん高い。庶民的には見えるが、高級ブランドを志向していることも確かで、格差社会が続く限りは、ステータスを築き上げることになるだろう。もちろん美術展はミュージアムショップを目的とするものではない。以前長崎で見て感嘆の声を上げたのと同じ演出が、今回も健在だった。椅子が壁面から垂直に立ち上がる。無重量感にくらっとなる一瞬だ。天井に達するまで婦人服が並べられる。400着もの衣服が一目に入ってくる体験などは、そんなにできるものではない。同業者はディテールに目を凝らして、盗み取ろうとしているに違いない。手の内を明かしても問題ないという自信は、これらが単なるアイデアだけのものではないという自負の表明だろう。写真撮影もオープンにして、閉鎖よりも発信のメリットに賭ける。

 長崎で見たとき、なぜ長崎なのか疑問をもったが、電波の発信地と見る限り、それは必ずしも東京である必要はなかった。各地での巡回展の役割を、無名の発信者に託される。そのためにはあっと驚くような空間演出が求められた。これまで展覧会通の目にも新鮮なものだったと思う。もう一度見たいと思っていたが、今回はたまたま東京だったということだ。加えて現代美術館の広いスペースでは、別の刺激的な企画にも出会うことができ、消化不良を覚悟してあわただしく時を過ごした。もちろんそこでは、長崎でのサンフランシスコのフィッシャーマンズワーフにも似た水辺の旅情を犠牲にしての話にはなる。


by Masaaki KAMBARA