第10章 15世紀のフランドル絵画

ファン・デル・ウェイデンの位置/ブルージュ/ロベール・カンパン/メローデ祭壇画/ファン・デル・ウェイデンの作品/聖ルカと聖母子/ボーヌ祭壇画/周辺の画家

第342回 2022年8月20

ファン・デル・ウェイデンの位置

 ファン・アイクと同時代、同じフランドル地方で活躍した画家ロベール・カンパンとその弟子ファン・デル・ウェイデン、さらにはその後ブルージュを中心に黄金時代を築くメムリンク、ダーフィット、そして北ネーデルラントの画家バウツ、異色の名匠ファン・デル・フースなどの傑作が生まれる。舞台となるブルージュは雰囲気のある町である。ファン・アイクの後を受けたメムリンクからプールビュスへという画家の系譜がある。ほとんどの名前はファン・アイクの影に隠れてしまっている。日本ではまだ十分には紹介されていないが、15世紀のフランドル絵画の典型的な作例である。

 ファン・アイクの後を受けてネーデルラント絵画を展開させていった画家たちの内ではロヒール・ファン・デル・ウェイデン(1399/1400-64)が重要だ。ファン・アイクのもっている神秘性をより劇的ドラマティックなものに変えていった画家だ。ファン・デル・ウェイデン様式がヨーロッパ中に広まっていく。もちろんファン・アイクのものもイタリアに大きな影響を与えたが、ファン・デル・ウェイデンはそれをさらに目に柔らかな感じに変化させ、穏やかな感じで見るものにほっとさせるような安心感を与えた。ファン・アイクのほうは神秘めいていて、さまざまな隠し事があるようで、それを読み解くおもしろさが出てくるが、ファン・デル・ウェイデンはそういう謎解きではなくて、絵としての完成度をめざした人だと思う。

 彼には師匠がいたようで「フレマールの画家」といわれてきた人物だ。このころには「〇〇の画家」というのがよく出てくるが、これは名前が確定されていなくて、たとえば聖母マリアばかりを描いた画家なら「聖母マリアの画家」と名付けられる。そういう名がつけられていて、本名はながらくわからなかった。しかし作品を様式的に並べてみると同じ手になるものと確信できるものがある。それらをいわゆる目利きたちが整理して順序だてていく。主要な作品があればそれに引っかけて名前をつける。「ライン川上流の画家」など奇妙な名もたくさん出てくる。

 「フレマールの画家」もフレマールの修道院に由来する作品が基準作として知られることからくる。この基準作を中心にそれに似たような作風のものを集めてくる。15世紀のものとなると作品は残っているが作者のことについてはほとんど知られていないということが多い。作品は探せば似通ったものが相当数見つかり、それを一列に並べると何となく若がきか、中期の頃か晩年のものかは、目がききだすとわかってくる。勘に頼った科学性のない根拠ではあるが、作品歴をたどっていく。生涯の記録というのも画家が見つからない以上どうしようもない。しかし作品中にはモデルとして誰であるかがわかる人物が出てくることもある。そうするとそれが当時の宮廷の誰だということがわかれば、その年恰好から作品がつくられた制作年を推定で割り出すことができる。そういう細かな作業をへながら大まかな流れをスケッチしていく。

 フレマールの画家もそういうかたちで何となく年代付けをしていった。その後ロベール・カンパン(1375c.-1444)という名が見つかって、それがフレマールの画家の正体らしいということになった。いまでは定説になり「フレマールの画家」の名は消えてしまった。この画家の場合ファン・アイクと比べると年齢も似ていて、ロベールならむしろ先輩格にあたる画家だということがわかった。するとネーデルラント絵画はファン・アイクが出発点だということになっていたが、ロベール・カンパンの方が存在としては大きいのではないかということにもなった。

 フレマールの画家のもとでファン・デル・ウェイデンが仕事をして、こちらの方はいくつも記録が残っていて、イタリアにも記録の残る作品がある。本人も1450年にイタリアに行っている。ネーデルラントの画家がイタリアに行くというのは、この時代ではまだ少ない。16世紀になるとイタリアに行って勉強をしないと話にならないという慣行ができあがってくるので、猫も杓子も絵画修行にイタリアに向かう。この頃はまだ独立独歩で、イタリア影響も受けないし、イタリアに対して影響を与える方が多い時代だ。ファン・デル・ウェイデンのイタリア行きも学びに行ったというよりも、油彩画の技法を教えに行ったという方が正しいかもしれない。自分のつくった作品をごっそりもって自分はこんなことができるのだというデモンストレーションが考えられる。

 イタリア時代に描いたものは構図的に少し違うものが出てくる。その当時のイタリアにあわせて自分のスタイルを少し変えたというふうにも見える。ファン・デル・ウェイデンの活動場所はトゥールネという今のベルギーの小さな町だ。ロベール・カンパンがこの町の出身で、そのもとで学んだということだ。

第343回 2022年8月21

ブルージュ

 ファン・デル・ウェイデン以降メムリンクという画家あたりからブルージュという町が大きくクローズアップされてくる。ファン・アイクも一時期ブルージュの町の公式画家という立場にあった。15世紀でのネーデルラントの文化の拠点はブルージュにあった。これが16世紀になるとフランドルの町でもブルージュからアントワープに拠点が移動していく。現在ブルージュに行くと観光都市として中世のままのたたずまいに出会えるが、町としては眠ってしまっている。19世紀末には中世の香りを残す町として文学のテーマになったり、絵画の舞台になったりした。現在ではここには市立美術館があって、ファン・アイクも含めて15世紀ネーデルラント絵画の上質の作品に出会える。

 もちろん大きな町としてはベルギーではアントワープやブリュッセルがあるが、当時の雰囲気を伝えるという点ではブルージュに行ってひとまわり歩くのが一番だ。そこにはメムリンクの作品を集めるメムリンク美術館もあって、それは中世の病院を改装して展示室にしたものだ。当時の修道院を柱にした医療システムが祭壇画に適切な場を提供している。

 メムリンクはファン・デル・ウェイデンのスタイルをさらにいっそう柔らかな甘美なかたちにしてしまっていて、北方のラファエロと呼ばれる。イタリアで言えばレオナルド様式がまずあってそれを見やすく優美なかたちにラファエロは変えていくが、それと似たような流れがファン・アイク、ファン・デル・ウェイデン、メムリンクという系譜のなかに見えてくる。絵画そのものが教会から注文を受けた宗教性の強いものから一般市民の生活のなかに入り込んでいくという流れがここに見えてくる。

 そのあとのヘラルト・ダーフィット(1460c,-1523)という画家も似たようなかたちでその後を継いでいく。そこまでがブルージュでの流れだ。ブルージュはその後も作家は何人も登場するが、ダーフィットあたりで一区切りついて15世紀が終わる。ブルージュは運河の町だが、当時は海から水路を引いて運河をつくっていた。ところが15世紀の末頃に運河に土砂が堆積してしまって、またたく間に運河そのものが機能しなくなってしまう。そこで今まで船の行き来をしながら海に出て貿易の拠点のようにして機能していたものが、水が流れなくなったとたん、そこでのすべての活動はストップしてしまう。

 水路がめぐるのに水自体が動かないというのは、時の停止を思わせ、町としての停滞につながる。それは中世がそのまま残ってしまうということでもある。水路のある町というのは、日本でいえば柳川のような雰囲気が残っていて、城下町的な古都の感じがただよう。倉敷の大原美術館の前のよどんだクリークも、その停滞が古都の風格をかもしだしている。ブルージュの機能の停止は、そこから海に向かって川口に広がる町アントワープに繁栄をもたらす。16世紀になるとアントワープが世界の貿易港としてのしあがってくる。16世紀を通じてアントワープの時代になって、17世紀になるとアントワープの伝統のなかから、次のバロックの巨匠であるピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)が出てくるという流れだ。やがてアントワープも17世紀を過ぎてからはさらに北方のアムステルダムに経済的な基盤は移されることになる。

 美術は経済力の豊かなところに、吸いよせられるようにして芽生えて発展していくという流れがある。メインストリームはブルージュという町と密接に関係して花開いた絵画芸術といっていい。

 同時代、ディルク・バウツ、ヒューホ・ファン・デル・フース、ヘールトヘン・トート・シント・ヤンスというようなもうひとつの画家グループは、ブルージュを取り巻く周辺に出てくる個性的な画家群だ。個性的な画家といってもファン・アイク以来の油絵を使って細かな細密描写で板の上に祭壇画を描くというスタイルはそのまま続いており、一見すると似たようなものではある。しかしよく見ると画家のもっている個性があって、その個性をふるいわけながら作品を並べ替えていく。今では作家によって相当な精度で作品が分類できるまでに至っている。マクス・フリートレンダーの「初期ネーデルラント絵画」全14巻は、そうした研究の成果であり、出発である。

 このような個性の塊のなかで最大のものとして、15世紀末にヒエロニムス・ボスがでてくる。ボスからその後のブリューゲルまでというのが、ネーデルラント絵画200年間の後半部分ということだ。前半はファン・アイクからヘールトヘンあたりまでをいう。

第344回 2022年8月22

ロベール・カンパン

 具体作をあげながら検討を進めよう。ファン・アイクのものと同じくロベール・カンパンのものは、作品をただ見るだけではなくて、読んでいくという手続きが必要だ。ファン・デル・ウェイデンになると絵は「読む」ものから「見る」ものへと変わっていく。ロベールの場合は何が描かれているか、何を意味しているかがまだまだ重要な時代だ。

 ロンドンのナショナルギャラリーにある「聖母子像」(1535c.)は、母親が赤ちゃんを抱いている絵で、もちろん聖母子像だが当時の生活風景、生活の一こまを垣間見せているような感じだ。ちょっとしたところに宗教的なシンボリズムを盛り込んでいて、読み込ませる絵の一点だ。

 スペインのプラド美術館にあるロベールの作品(1428c.)はまとまりのついていない絵でごてごてした印象が残る。もともとは大きな祭壇画の一部だったのだろうが、今は断片しか残っていない。見ると画面右側では聖母マリアがヨゼフと婚礼をしている。「聖母の結婚」というテーマはしばしば描かれ、イタリアでは先述したラファエロなどのものも知られる。マリアはうつむき加減で慎ましやかな娘という感じだが、ヨゼフの方はそうでもない。ヨゼフの場合は年老いた老人ふうに描く場合が多いので、その意味ではこれは中世の古いスタイルを温存している。

 ここで婚礼がゴシック教会という建築の前で描かれていることには意味がある。ゴシックの時代とその前のロマネスクのスタイルとの対比を左右で見せている。以前の古いスタイルの建築物と新しい様式の建築を置くことで、古い世界と新しい世界を対比的に描いている。ゴシック様式が新しいという限りでは、この画家の立ち位置は15世紀ではあるが、ルネサンスにはなく中世にあったということだ。写実的な当時のゴシック教会の一部を写実的になぞったものでもあるのだが、それを越えてシンボリックな意味を知らせようとしている。

 ブルゴーニュ公国の中心地ディジョンは現在フランスに属するが、当時はネーデルラント地方を統括する場所でもあった。ネーデルラントはディジョンから見れば周辺の地域であったが、文化のレベルからいうとディジョンよりも北のフランドルのもののほうが大きくクローズアップされてくる。ディジョンにはフランドルにいた画家の作品がこの時期に多く入り込んでいる。今でいえばフランスの美術館だが、15世紀前半期のネーデルラントの作品が数多く収蔵される。

 「キリストの生誕」(1420)もその一点だ。キリストは真夜中に生まれるので夜中の絵になるはずだが、ここではむしろ朝方あるいは夜が明けているところが設定となる。山の峰の間に太陽が昇り始めている。昇っているか沈んでいるかは絵のうえではよくわからないが、キリストの生まれることが太陽の昇ることと対応させられているようだ。これもひとつのシンボリズムだ。キリストが生まれるのは馬小屋か家畜小屋であり。ここでもそこに寝かされている。それも飼葉桶のようなわらの上に置かれる場合と、地面にじかに寝かされる場合とがある。ここでは地面に寝かされて冷たそうな感じがする。キリストは小さく描かれてマリアがここでの中心になっている。

 その後ろには父親のヨゼフがいる。ヨゼフはマリアとは夫婦なわけだがここではひげを生やした老人ということになっている。キリストからいえば手続き上は父親だが、本当の父親は神ということで、ヨゼフはマリアよりも低い位置でキリストを見守ることになる。ロウソクをもつがその光源を手で覆い隠す。これも象徴的なやりかたで、光の光源を隠すというのは、真実の光はキリストであって、ロウソクの光とは対比をなす。もちろん第一の意味はロウソクをもつということから、この場面は夜の場面だということだ。

 画面のつくりかたはまだおさまりが悪く、構図の意識や奥行きの感覚はできあがっていない。夜にしては明るすぎてもいる。右側には聖書のなかには出てこなくて外典のなかに出てくる助産婦がふたりいる。神の子の誕生を疑ったので手が萎えてしまったという逸話にもとづくものだ。ひとりは後ろ姿を見せるが、北方では後ろ向きの姿が出てくるのは絵画の上では早い例だ。イタリアでの登場と対応させて考える必要もあるかもしれない。軒先に三人ほど農夫がいてバグパイプという楽器を持って頭から頭巾をかぶった男もいる。羊飼いがやってきてキリストを祝う。これは「羊飼いの礼拝」というテーマで「キリスト生誕」に続く話だ。その後三人の王様がやってくる「三王礼拝」へと続く。ここでは「生誕」と「羊飼いの礼拝」が統合されて構成されている。

第345回 2022年8月23

メローデ祭壇画

 ニューヨークのメトロポリタン美術館にはロベール・カンパンの代表作といっていい「メローデ祭壇画」(1427c.)がある。作品自体はそれほど大きくはないが、意味を読み取る絵の代表的なものだ。ファン・アイクの「アルノルフィニ夫妻像」のもっている意味などと同じく、一見すると見落としがちだがよく見てゆくといろんな隠し込みがされているというものの典型だ。

 ここでは中心になるのは受胎告知で、左に男女の寄進者が出てきて扉が半分開いていて鍵穴に鍵がかかる。そのバックにひとりひげ面の巡礼ふうの男が、意味ありげに入口に立っている。思わせぶりな感じがするものだ。右側はヨゼフで、大工仕事をしている。ねずみ取りを作っているようで、バネではさみつける仕掛けである。今は板に穴をあけているが、ねずみ取りそのものは窓の向こうに外に向けて出されている。

 ヨゼフは大工なので何をつくっても自由だが、受胎告知でなぜねずみ取りをつくらなければならないのかということである。これは日常の生活場面を写した風俗画的な要素が強い作例だと考えることもできるが、ねずみ取りにはいったい何の意味があるのだろうかと研究者たちは考えた。そしてアウグスティヌスの文章のなかに「悪魔のねずみ取り」というフレーズがあって、これがキリストの生誕と結びつくらしいということになった。ヨゼフがねずみ取りをつくっている作例は珍しいが、ここでは世俗的な宗教画として読み取ることができるだろう。

 日常生活の道具に「聖なるもの」を見ようとするのは、この画家の特徴だが、それはまた俗なるものこそが、聖なるものに通じるという禅宗の教えにも似た思考法だったようだ。祭壇画形式をとるがそんなに大きくないので、教会のなかに置かれたというよりも、市民生活の一部として入り込んでいたのだろう。裕福な市民階級の、日本で言えば仏壇にあたるところに置かれたものだろう。

 この作品で三つの画面を比べてみて、それぞれのちがいが見える。左は地上の場面でこの作品を依頼した男女の寄進者が、受胎告知を見ている。受胎告知の場面には窓があって、窓からは空しか見えない。空が見える限りでは、受胎告知は地上の一階部分で行われているのではなくて、もっと高いところに想定されているようだ。ファン・アイクのヘント祭壇画で描かれた受胎告知でも、屋根裏部屋のようなところで行われているようだった。塔の最上部にマリアがいて、そこに天使が舞い降りてきて、神の子が宿りましたよと言う。それに対して右側のヨゼフがいる場所は、窓の景色からすると一階部分というよりも二階あたりにセッティングされている。つまりこの作品を依頼した主というのは地上の存在であるという意味である。受胎告知でマリアがいるのは天上に近いところだ。そしてヨゼフは天上と地上を結ぶ中間地点にいるということだ。この位置関係がヨゼフを際立たせるのである。あわせてたぶんキリスト生誕の冬から換算できる季節の描き分けもされているだろう。

 こうしたシンボリズムに加えて中央の場面では、意味ありげな小道具が登場する。ファイアースクリーンという、暖炉の前で直接火があたらないように置かれた装置は、マリアの背後を被う円光の役目を果たすが、日常生活のありふれたものにすぎない。受胎告知につきもののユリの花は、たいていは大天使ガブリエルが手に持つ場合が多いが、ここではテーブルの上に水差しがあってそこに差してある。これは受胎告知を意味する目印(アトリビュート)だ。

 マリアを見ると横向きで本を読んでいる。本を読んでいるときに天使が耳元でささやく。テーブルの上にはロウソクが一本置かれるが、それは火が燃えているロウソクではなくて、火を吹き消した後に煙がすうっと上がるときのようだ。煙が上がるところが描かれるのも意味ありげだ。うしろにヤカンとタオルがかかるが、これもファン・アイクのヘント祭壇画に出てくる組み合わせと同じだ。そこでは金のたらいだったがそれがここではヤカンに変わっている。

 この受胎告知にはキリストが登場するが、小さく窓から室内に十字架を肩に背負いながら、光線に乗って幼児の姿で飛び込んでくる。赤ん坊のキリストが向かう先はマリアの下腹部であり、そこをよく見ると衣服のしわがまるで放射状に輝く光線のように見えてくる。これは明らかにそう見せようという工夫だ。キリストが十字架を担いで窓から飛び込んでくるというのも、マリアの処女懐胎、ヴァージニティを表現している。マリアはヴァージンを捨てないでキリストを身ごもったということになっている。それはありえないことで、光がガラスを破ることなく通過することと同一視して考えるのである。ガラス越しに光が入ってくる。キリストは小さな光の粒というセッティングである。

 いくつかあちこち謎めいた仕掛けを盛り込みながら、絵を読み取らせていく工夫がされている。キリストは光なのだということをわからせるために、光線をキリストの姿に重ねている。窓を通過してやってきているのだということも、これによってわかる。

 マリアの顔立ちはロベール・カンパンによくでてくるもので、この人物モデルを基準にロベールの作品をグループ分けできる。マリアは全身像で描かれ、バックには炎の先のほうが見えるようにしているが、いかにも現実のものを使いながらマリアの光輪を意味させる。仏教でも同じで光の輪を置く。キリスト教でも中世を通じてそのしきたりがあった。イタリアルネサンスではレオナルドのころにはそうした光の輪を頭上や背中に抱くというようなことはなくなってしまう。その意味では古いスタイルを残している。とはいえ光の輪とは決して見えないで、ファイアースクリーンであり、マリア自身も赤ちゃんに授乳をする日常の母親だ。授乳のマリアは伝統的な表現であるが、乳房を半分出してキリストの口に含ませるものもある。左のほうに窓があってバックに町並みの景色が出てくる。これもフランドル絵画では常にある仕掛けだ。室内画がずいぶん多いが、窓は必ずあって、そこから町並みが、それもキリストがいた古代の町並みではなくて、15世紀当時のブルージュなどの町を現実的に写し出している。

第346回 2022年8月24

ファン・デル・ウェイデンの作品

 ファン・デル・ウェイデンでは「十字架降下」(1435c.)がよく知られる構図だ。今は一枚の板絵であるがもとはもっと大きな祭壇画だっただろう。両翼の場面は現在見つからず断片で残される。現在は人物がかなり窮屈に入り込んでいる印象が残る。空間的な奥行きが当初の原作にはあったはずだ。ファン・デル・ウェイデンの持っている劇的な表現の仕方という点では、これが代表的だ。キリストの死を前にして涙を流す悲しみの表現はマグダラのマリアのポーズに反映し、指を複雑に絡み合わせながらうつむいている。日本人の悲しみの表現にはこうした大げさなポーズは珍しいが、ヨーロッパ絵画のなかでは時折出てくる。これが出てくれば悲しんでいるのだとわかる。そういう一つの意味を持った身振り言語として定着している。

 キリストが横たわって十字架から下ろされてくる。聖母マリアはキリストの死を前にして失神してしまっている。母と子ふたりのぐったりとした身体がパラレルになっている点は興味深い。キリストの左手とマリアの右手が、ともにだらりとしてまっすぐにたれており、身体だけではなく二本の手もパラレルになっている。構図的にも考え抜かれた作品で、キリストの顔は真横にうなだれ、他方マリアはまっすぐになっている。

 もう一方の手もキリストは指先をだらりと下に落とすのに対して、マリアの方は指先が上に向いている。このパラレリズムは生死の対比でもあるのだ。キリストの悲しみはマリアによって繰り返されるという神学的論拠を理解すると、この図像はわかりやすいものとなるし、ミケランジェロの「ロンダニーニのピエタ」で、キリストとマリアが寄り添うようにして支えあっていた理由も見えてくる。マリアのいまだ命を宿した指先は、彼女を支える若き聖ヨハネの力強い足と、地面に置かれた頭蓋骨の間に位置する。このときヨハネはキリストの生まれ変わりの役目をしている。洗礼者ヨハネがキリストに先立つメッセンジャーボーイとしての先触れだとすると、聖ヨハネはキリストの後触れだった。この聖人はキリストの死後、その足跡を記録する福音書記者となるだけでなく、エーゲ海のパトモス島に引きこもって、キリスト再臨の先触れをなす黙示録を書くことにもなる。

 キリストがはりつけになるところでは必ず人骨が出てくる。十字架の足元にはさらに頭蓋骨もある。これは実はアダムの骨だとされる。アダムは旧約聖書、キリストは新約聖書の登場人物であり、時代はぜんぜん違うが、キリストがはりつけになるのはゴルゴタの丘といって、しゃれこうべ、ドクロという意味だ。そしてゴルゴタの丘はかつてアダムが死んだ場所だと伝説的に言われていた。アダムが死んだ場所でキリストも死ぬことになるという因果関係を誰かが思いついた。旧約聖書の世界と新約聖書の世界を対応させ、結び付けてつじつまを合わせるという考えである。これはキリスト教正統化の作業のひとつだが、美術がこれに参加したということだ。広い意味ではルネサンスもまた古代の神話をキリスト教世界に引き込む作業のひとつだった。そしてこのアダムの頭蓋骨のくぼんだ目と、死せるキリストの足を支えるニコデモかアリマテヤのヨゼフの泣きはらした目を結ぶ線上に、キリストとマリアの4本の手と、一歩前に踏み出した聖ヨハネの左足が並んでいる。

第347回 2022年8月25

聖ルカと聖母子

 ファン・デル・ウェイデンの「聖ルカと聖母子」(1435)は、ファン・アイクの影響が強い一点で、同一作品が複数現存している。 ファン・デル・ウェイデンは、ロベール・カンパンの弟子だが、彼の作品を見ているとファン・アイクが試みていた工夫をそっくりまねていることに気づく。両方の長所をうまく融合させてファン・デル・ウェイデン様式を完成させたようだ。ロベール・カンパンは世俗的なものを宗教的に見立てて表現する。ファン・アイクは世俗的というよりも神秘的なヴェールに包まれており、これら両者の特性にドラマティックという特徴を加えたのがロヒールだ。その様式はポピュラーなものとなり、これをもとにいろんなヴァリエーションが出てくる。そのあとにはメムリンクが出てくるが、ファン・デル・ウェイデンと見分けがたい作例も多い。

 聖ルカはマリアを描いた肖像画家であり、キリストの伝記を書いた四人の福音書記者のひとりだ。マリアの絵を描いたということで知られていて、伝説的にその絵が残っていてマリアの顔の原型とされる。その後聖ルカは画家の元祖だということになって、聖ルカ組合という画家組合の守護聖人になってまつられる。そうした組合の一室に聖ルカがマリアを描いている絵が飾られるということも一般化する。この画題そのものはファン・デル・ウェイデン以降かなり出てくる。ベランダがあって二人の人物が手すり越しに向こうを見ているというここでの場面設定はファン・アイクと同じだ。「ロランの聖母」(1435)では聖母子を前にして貴族が手を合わせて祈るという肖像画をベースにしたスタイルであったが、ここではこうした宗教的人物に置き換えられている。

 川が流れて遠くまで見張らせるという設定もファン・アイクを踏襲している。これも実はこの川はヨルダン川であり、そこはキリストがその後聖ヨハネから洗礼を受ける川でもある。そしてその川はずっとさかのぼるとかつてアダムとイヴがいたエデンの園にまでつながっているという伝説があって、こういう場面で川がはるか後方までつながる描写は、その先には楽園があるのだというメッセージを含んでいる。これも旧約と新約の世界を対応させようという工夫のひとつだ。うしろ向きの人物を中景に描いて、見るものの目を誘導したということは、背後の風景が単なる背景ではないという表明でもあるのだ。

 ファン・デル・ウェイデンは祭壇画形式の作品をずいぶん描いている。それもオランダ・ベルギーだけでなく、ドイツ、フランス、イタリアの美術館にまで作品が残っている。当時からかなり大きな規模で注文を受けて作品を送り込んでいたのだということがわかる。ロベール・カンパンの場合のように写し出された日常生活の小道具を言葉のように読み取っていける図像学的な興味は少なく、ドラマティックな感情描写に方向性を見出していったようだ。キリストが十字架にかかるのを悲しんでマリアが柱にすがりつくような表現はきわめて感覚的なものだ。天使が空を飛ぶが、ブルーの衣服を身に着けていて、シルエットではあるが悲しみの表情を感じさせる。イタリアではジョットの天使にキリストの死に接して涙を流して悲しんでいるというのがあったが、それに対比できそうだ。

 この祭壇画の翼面に出てくるヴェロニカは、キリストが十字架を運んでいたときに汗をぬぐうためにハンカチを差し出した女性だ。そのハンカチにうっすらとキリストの顔が映し出されたという伝説がある。それがキリストを写した聖顔となる。キリストはどんな顔をしていたかはわからないが、ヴェロニカのハンカチが、先ほどのルカが描いたマリアの顔と同じように残されて今も伝えられている。キリストの顔は定着しその後同じ顔を描いていく。大体は髪の毛を真ん中から分けて細長く、口ひげを生やすというのがキリストの顔の定番だ。

 ファン・デル・ウェイデンがイタリアで描いたもののなかには、中心に「埋葬のキリスト」(1450)を置いて、構図的に異質なものがある。キリストの埋葬はしばしば描かれるが、十字架から降ろされた後で、足とわき腹には傷が見える。埋葬直前のポーズで、キリストのまわりに人物を配するというのは、ネーデルラントでは出てこないスタイルで、イタリア滞在後の作例とされる。

 ルーヴル美術館には三枚続きの横に長い祭壇画がある。それほど大作ではないが、キリストを中心に左にマリア、右に洗礼者ヨハネを置く。キリストは定番の顔立ちで、ファン・アイクのキリストもこれに近いし、ネーデルラントでの定形といえる。このポーズは「救世主としてのキリスト」と呼ばれるものだ。この三者のグループは「デーシス」という名称で図像的伝統を持つ。ファン・アイクの描いたヘント祭壇画でも中央にキリストがいて、左右にマリアと洗礼者ヨハネを置いた。この三人が一緒に出てくる図像は多い。

 キリスト生誕を描いた「ブラーデリン祭壇画」(1445-50)では寄進者が、キリストの正面に登場している。スポンサーがそういう聖なる場面にじかに登場するのは珍しい。ふつうは両端ぐらいに出てくるか、あるいは祭壇を閉じたときの裏側に出てくるものだ。キリストが生まれたその場面に描くというのは、何とも図々しい感じすらする。

 これはファン・デル・ウェイデンの柔らかな感じのする一点で、古い家畜小屋だが手前に一本の円柱が置かれる。ファン・デル・ウェイデンはあまりシンボリズムを使わない作家だが、屋根のみすぼらしい建物に対して、柱だけが立派な古代ローマふうのものだ。これもキリストが生まれるということを古い時代と新しい時代の対比で見せようとする工夫だ。同時にそれはその後キリストが受難の折に、縛られむち打ちされる柱をも暗示する。柱の脇にいる天使は、それぞれかわいらしいポーズと顔立ちをしている。大きな作品だが細かく見ていっても魅力的な逸品だ。

第348回 2022年8月26

ボーヌ祭壇画

 さらに大作として知られるのがボーヌの祭壇画(1446-52)である。ボーヌはフランスに属するブルゴーニュ地方の田舎町だ。そこに建てられた施療院の祭壇画としてファン・デル・ウェイデンに注文されたものだ。最後の審判がテーマとなるが、多くのベットの並ぶホールのように大きな病室の主祭壇にもとは置かれたものだ。

 現在ではそこは観光の名所になっていて、別の展示室に移動しているが、横に広がる大規模な作品だ。中央にキリストがいて虹の上に座っている。最後の審判は審判者キリストの代理である大天使ミカエルが、天国行きと地獄行きを秤によってふるいわけていく。左は天国に向かう者、右は地獄に落ちる者がいる。天上には諸聖人が雲の上に姿を見せる。最後の審判はキリストがやってきてこの世の終りを宣言する。いままで死んでいた人間を墓から引きずり出してきて、それぞれの魂の重さを計って、天国行きと地獄行きにわけていく。秤に人間がのるというのがよくでてくる図柄だ。

 メムリンクにもこれにそっくりの「最後の審判」(1467-71)があるが、そこでは秤の重さが左右で逆になっている。魂は重い方が天国行きなのか、あるいは軽いほうがいいのかという疑問が起こってくる。もっともふたつの魂を天秤にかけているので、絶対的な基準はなく、魂の重さに関わらず、一方が天国で他方が地獄となる。これでは天国と地獄は半数ずつになる。時代が下がり、ヒエロニムス・ボスの描く審判図ではほとんどの魂が地獄に向かっている。そこでは天秤も登場しない。ボスの時代の世紀末的不安の中では、天国に向かうのは2万人に1人にすぎないという記載も見られる。

 閉じた画面に作品を依頼した二人の人物が登場する。中央には大理石彫刻ふうの人物像、左は腹に矢が突き刺さっている聖セバスティアヌス、右は聖アントニウスだ。「聖アントニウスの誘惑」というテーマでよく知られるポピュラーな聖人だ。「鈴」を手にして、足下には「豚」がいる。さらにT字型の杖というのが、アントニウスを見分けるときのアトリビュートだ。この二人の聖人は、実は病気の守護聖人として知られる。ことにセバスティアヌスは、ヴェネツィア派の絵によくでてくるがペストの守護聖人である。ペストが流行ったときに祈りが捧げられる。

 一方アントニウスはアントニウス病という奇病を直す聖人として知られるものだ。病院というシステムにマッチした聖人がここでは置かれている。上には受胎告知でマリアと大天使ガブリエルがいる。窓は出てこないが、ここでも奥まった屋根裏部屋のような雰囲気をもつ。

第349回 2022年8月29

周辺の画家

 ブルージュの町は、よどんだ水の運河が通りを交差する独特の雰囲気をもつ町だ。柳川の川くだりのように観光船が狭い運河を行き交う。建物は中世の街並みが色濃く残る。ベギナージュと呼ばれる半俗の女子修道院の中庭は落ち着いた絵になる風景だ。ときおり庭を白い頭巾をかぶっ女子修道僧が行き来している。いつも開かれていて隔離した祈りの空間ではなく、市中に敬虔な祈りが柔らかく拡散している。宗教性が世俗とみごとに協調し、現代と過去をつないでいる。

かつては病院でもあったメムリンク美術館には大規模な祭壇画が残る。「聖女ウルスラの聖遺物箱」(1489c.)も大振りではあるが、静謐な宝石のような輝きを放っている。箱を取り巻いてハンス・メムリンク(1430/40c.-94)が描いている。メムリンクには裸婦を描いた珍しい作品も残っている。バテシバを描いた縦長の断片だが、画面の後ろにはベランダがあってダヴィデ王がバテシバの裸体を見てみそめるところが描かれる。北方では数少ない裸婦像の秀作だ。「最後の審判」(1467)はファン・デル・ウェイデンとよく似た顔立ちをもつ。メムリンクの描く肖像画では額縁にファン・アイク譲りの目だましの細工が残される。

 ヘラルト・ダーフィット(1460c.-1523)もまたメムリンクに似た様式を伝える。何気なく描かれた犬の表現を追っていくとおもしろく、痒くて首の周りをかいているなど、さまざまなポーズをとっており、見て楽しいものだ。大きな宗教画の一部に描かれたものだが、世俗に流される面もあるが肩の張らないよさがある。マリアのキリスト逃避ではバックでヨゼフが栗の実を落としている。ユーモラスな光景だ。

 ディルク・バウツ(1410/20c.-75)は、同じ技法を身につけながらも個性が少し違ってくる。キリストの顔立ちも極端に細長く特徴的だ。「聖エラスムスの殉教」(1458)は内臓を糸巻きで引き上げていくというグロテスクなものだ。「悲しみのキリスト」も痛々しい表現が気にかかる。

 ヒューホ・ファン・デル・フース(1440c,-82)は、大作「ポルティナリ祭壇画」(1475c,)で知られる。この画家は精神に異常を来たし施設に隔離されたのち自殺する。技法的には優れた画家だが描かれた人物像に幾分異様な性格が見えるものがある。

 ヘールトヘン・トート・シント・ヤンス(1460c,-95c.)の描く人物の顔立ちは卵型をしたプリミティヴな楽しさがある。ドイツに出てくるロホナーと同質の味わいがある。特徴的で他の画家にはないものだ。ネーデルラントでもブルージュやアントワープよりも北方のオランダ地方に出てくる画家だ。ハーレムの町に画派の系譜がたどれる。ブルージュを中心としたフランドル絵画に対するオランダ絵画のルーツと見てよい。


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