第4節 明治37年

第545回 2023年3月29

1 明治37年、岡倉天心の行動

 岡倉天心の行動にとって、明治37年という年は重要な意味をもった年である。この年、天心は横山大観・菱田春草・六角紫水を伴って、アメリカに乗りこんでいる。それは明治31年からはじまった日本美術院の運動の一環としては、国内での巡励展を終えて新たに海外に向けた巡回展の開始という意味を持っているし、天心個人の思想的立場からすれば、明治26年に中国での美術調査を終え、明治34年には、インドにおいて東洋美術の根源を見定めたのちの行動であり、それはあたかも西洋に打ち勝つだけの武器を蓄えた勇士が果敢にも、敵の本拠に乗りこんだかの感がある。

 まず美術院の機関誌である「日本美術」の記事に従って、その行動の跡を追ってみると、明治37年2月号に「岡倉・横山・六角氏の渡米」として「二月八日に梅川楼にて送別会あり、同一〇日横浜出帆の伊豫丸にて発途」(日本美術61)と記されている。翌3月は訂正記事で「前号には菱田春草氏の同行を誤脱したれば、三三に追加し置くべし」(日本美術62)とある。4月号では「岡倉覚三氏ー行は3目2日紐育(ニューヨーク)着にて、茲に横山六角両氏を留め、同倉氏のみ同月二四日ボストン府に入りし由。氏は同所に暫時滞在するものの如し……」(日本美術63)となっている。

 このとき日本に残されて経営難の日本美術院で、「日本美術」の編集にあたっていたのは塩田力蔵であったが、彼は次の5月・6月号で「鳴呼日本醜術院(日本美術院滅亡史)」と題して、天心の無責任を糾弾した。美術院はその時、岡倉以下4名の主要メンバーを欠いていただけでなく、下村観山はすでに前年よりイギリスに留学して不在であり、木村武山も日露戦争に従軍するという状態であった。塩田が天心を無責任と見たことは組織論の立場からすれば当然の見解であるが、下村観山の留学についても天心の誘導によるものであることを考えると、天心にとっては組織よりも個人の方に重点が置かれていたことは確かである。そもそも、日本美術院そのものが綿密に練りあげられてできた組織ではなくて、天心の東京美術学校辞職に伴って、突発的に出現したものであったのだから、組織というよりもむしろ共同体という感じが強い。大観・春草は確かに天心の弟子であったといえるが、彼らの中に弟子を取るという意識が欠落しているのは、このことの現われであろう。大観は、春草と語り合って、弟子はとるまいと固く約束したと言われる。

 滞米中の天心は、日本の美術院のことは一切忘れて、キューレーターとしての仕事に没頭している。「日本美術」8月号には、天心について「渡米以来殆ど直信に接せぎるも、目下ボストン・ミュージアムに在りて、同館陳列の東洋美術品の目録編製中なりとの事」(日本美術67)とあり、11月号には、「岡倉氏よりは別に音信なきも、横山氏よりは時々美術雑誌の寄贈などあり、六角氏よりも時に用便の私信だけ来る。……(中略)……岡倉氏は其目録編製のため日々同館へ出勤せられ居り候。又六角氏も同館の雇となり、美術品(重に蒔絵類)の修繕に取掛り居り候。横山氏はニューヨークにて展覧会を開き、好結果なりし由にて来る一一月頃当地(注・ボストン)にて開会せんと、目下当地に滞留揮毫中」(日本美術70)と記されている。その間、日本にあっては洋画との対立緩和工作とも考えられるが、塩田力蔵が天心の宿敵ともいえる洋画家の小山正太郎を美術院に招いて、「日本画の発達に就て」と題した講演会を開いたことは、この間の事情を象徴している。尚、付け加えて言うならば、日本美術院の機関誌であるはずの「日本美術」に、岡倉に同行した菱田春草のことが、訂正として一度あげられただけで、全く無視されてしまっているのは、不思議という他ない。

 とにかく、美術院内部で天心に対する不信感が高まっていたことは事実で、それは明治34年に突然天心がインドにゆき、帰国後は大観・春草をインドにゆかせるという行動以来、過熱してきたものだった。しかし、日本に残した美術院の停滞を犠牲にすることによって、岡倉天心は、この年に世界へと飛躍することができた。彼の渡米の目的はボストン美術館での目録作成という地味な仕事であったが、それは二つの華々しい出釆事の影に隠れてしまっている。つまり一つは9月24日のセントルイス万国博を記念した講演「絵画における近代の問題」であり、一つは10月の「日本の覚醒」の出版である。

 天心一行がニューヨークに着いたのは、この年の3月2日であったが、すでにそれ以前の2月16日の新聞「イヴニング・テレグラム」に天心の紹介がされている[i]。それは親日家として知られるオペラ歌手エマ・サースビーのインタヴュー記事であるが、すでに日露戦争がはじまっていた頃で、彼女は「日本は勝つにちがいない」と語り、前年に日本に滞在した時に岡倉覚三のあついもてなしを受けたこと、天皇に会ったことなどを和服姿のサースビー嬢の写真三枚とともに載せている。この記事では天心について「著名な日本の考古学者(アーケオロジスト)であり、美術の権威者であって、この国のウイリアム・モリスと称されている」と紹介され、Mr.Kakasu Okakuraと誤記されている。カカス・オカクラという誤記は、すでに前年の明治36六年(1903)にロンドンのジョン・マレー社から出版された「東洋の理想」の時にはじまったもので、岡倉をウイリアム・モリスになぞらえるのも、同書の序文でニヴェディタが行なったものであった。さらにNemo Park Estateという表題で、ネモ・パークが岡倉の所有する広い地所であって、そこに美術院(the Hall of Art)として知られる画派の若き芸術家たち40人の住居があることを伝えているが、Nemo ParkはUeno Park(上野公園)の筆記体の読み違いであった。

 天心一行は3月2日にニューヨークに到着し、サースビー宅に宿泊するが、同6日には和服のままでカーネギーホールでの音楽会に出向いており、7日の「ニューヨークタイムズ」にはそのこととともに岡倉の紹介がされている[ii]。ここで天心の渡米の目的として、ボストン美術館蔵の日本版画及び絵画の分類ということがあげられており、すでにイギリスで「東洋の理想」を出版し、アメリカでも刊行される予定であると伝えている。

 その後、3月20日の「ニューヨークタイムズ」にも、天心を中心にして日本美術院の紹介がされており、そうした紹介記事を御膳立てにして、4月3日に、ニューヨークのセンチュリー・アソシエーションで日本美術院のはじめての海外展として大観・春草の二人展を開くことになる。同展のカタログで天心は自ら筆を取って、美術院を日本の新しい古派(New Old School)として紹介している。一見矛盾した言い回しであるが、それは天心の一貫した考えでもあった。天心にとっては復古は同時に革新であらねばならなかった。ボストン美術館での古美術の目録づくりは、常に日本美術院の紹介という革新的事業と一体となってこそ、はじめて天心には意味を持ちえたのである。そして両者を支えていたものが、天心の詩的発想に他ならない。

 上記の二つの仕事では、天心はいわば脇役として働いているのだが、この年一躍天心を有名にした「絵画における近代の問題」と「日本の覚醒」では、披の詩的発想が開花したといってよい。前者が講演によってなされ、後者が執筆によるものであったことは、天心の両面の才能を象徴的に語っている。しかも、それらがともに英語による表現であった点に、天心の意図があり、複雑さがある。

 「絵画における近代の問題」の講演は、ルーブル美術館長の突然の欠席により、偶然天心に転がり込んだ幸運であったが、それが観客を魅了しえたのも、天心が道理上の納得ではなく、感性的な訴えを武器としていたからであった。「日本の覚醒」はすでに渡米前から準備されていたものであるが、ここでも天心は歴史を語りつつも、つねに現代を問題化してゆこうとしている。当時の書評の一つが次のように語ったのは確かに的を得ていた。

 「ここに書かれているのは、知られるべきものとしてではなく、感じられるものとしての歴史である。それは論理的知性の所産というよりはむしろ、印象であり、鑑賞であるといえよう[iii]」。

 つまり、天心は歴史の真実をここで論争しようとしているのではなくて、彼が直接実感しえたアジアの現実を一人の情熱詩人として、あるいは遥々と訪れた旅人として訴えたのだった。


[i] The Evening Telegram-NewYork,Tuesday, February 16,1904.

[ii] The New York Times,March 7,1904.

[iii] The Nation, December 22.1904.p.509.

第546回 2023年3月30

2 明治37年、下村観山のケンブリッジ展出品画

 現在「帰猟の図」と名付けられている下村観山の作品を語るにあたっては、多くの事実が背後に横たわっている。本作は「観山画集」(大日本絵画)には紹介されていないが、観山の数少ない滞欧作の一点であるという点で重要であり、さらに日本美術院のアメリカでの巡回展に出品されたものと推定できる点でも意味がある。

 まず、私がこの作品に興味を覚えたのは、絵の出来ばえというよりも、この作品が制作されてから今日に至るまでに辿つた遍歴についてである。ある意味ではこの作品は世界を一周したことになる。まず下村観山が、明治36年2月21日、横浜を立って、印度洋を通ってイギリスに向かう。そして、翌年イギリスでこの作品を制作してアメリカに送る。アメリカではケンブリッジでの日本美術院の展覧会に出品されたのち、ある親日家のコレクターのもとに残され、戦後ある事情から太平洋を渡って、福井にもたらされたということになる。

 その間の事実関係をもう少し詳しく語ってみると、観山がイギリスに留学した時、同じ日本美術院の仲間であった横山大観と菱田春草はインドにいた。彼らは約半年の滞在ののち帰国し、翌37年2月に今度は岡倉天心に伴ってアメリカに向かう。日本美術院の海外進出をざしての行動であった。しかし、4月にニューヨークで行なわれた初の海外展に参加したのは、大観と春草だけで、天心が何点かの日本画を賛助出品するにとどまっている。しかし、この展覧会が極めて好評を博したことは、「大観自伝」などからも知られており、大観は日本では20円(10ドル)ぐらいでしか買い手がないものが、この時は安いもので3000ドル高ければ12000ドルという値をつけたが,それでも高い方から順に売れていったと言っている。しかし、これは少しオーバーな表現であったようだ。確かに当時、大観・春草の描く日本画は、日本では「朦朧体」と呼ばれて、相手にするものがいなかったのだから、海外で評価をされたことは、大観にとってはそれ見ろというところであったろう。しかし、大観には申し訳ないがニューヨークでの売立ての記録と思われるものか残されていて、その時の展覧会の目録に手書きで値段と買った人の名が記されている。それを見る限りでは、Sold(売却)と記載されているのは各26点の出品中、大観で10点、春草で5点であり、大半は二〇〇〇ドル前後の値であったようである。

 ともあれ、考えていた以上に評判の良かったことに気を良くした大観・春草は11月にボストン郊外のケンブリッジで再び展覧会を開いた。この時に加わったのが、下村観山と六角紫水である。観山はこの時、もちろんロンドンにいたのだから、ケンブリッジに来たのは作品だけだということである。六角紫水は日本画家ではなかったが、やはり日本美術院のメンバーで、天心・大観・春草と共に渡米して、主に天心と共にボストン美術館にいて漆工の仕事に従事していた。

 ケンブリッジ展の目録を、フリア・ギャラリーからコピーして送ってもらったものが手元にあるが、それによると、春草が21点、観山が2点、大観が25点、紫水が5点の出品をしている。そのうち観山の作品名は、Fudo(不動)とReturn Home(帰宅)であり、後者がどうもこの「帰猟の図」にあたるのではないかというわけである。しかしこの目録に記載されているのは題名だけであり、寸法も写真も載せられてはいない。

 それではなぜこれが観山の出品画にあたるかというと「帰猟の図」の所蔵歴からということになる。現在、福井県内に大観・春草が明治37年にアメリカで制作した日本画が数多く現存するが、それらは旧白山家コレクションと呼ばれるものであり、本作もその一点であった。もともと福井県は岡倉天心の故郷ということで天心に関する資料は豊富なところであるが、こうした大観・春草の滞米作が現存するということは間接的には天心と関係なくもないが、全くの偶然のことと言ってよい。今は分散してしまったが、白山家のコレクションは、もとアメリカのサースビー姉妹が所有していたものである。姉のエマ・サースビーは声楽家として世界的に知られているが、この二人は岡倉天心との関係において重要な人物でもある。

 1940年にギプソン(R.M.Gipson)によってエマ・サースビーの大部の伝記が書かれている(The Life of Emma Thursby,New York)。その中から岡倉天心との関係を語った部分を訳出してみると、「1903年の春に、エマは友人であるオーリ・ブル夫人とともに日本に旅行した。ブル夫人がインドに旅立ったのちに、妹のアイナが加わった。日本での5カ月の滞在は楽しいものであったが、それは、サースビー姉妹が著名な日本の考古学者であり美術批評家であり文筆家でもある岡倉覚三とその夫人の来客として、ほとんどの西洋人には未知の日本文化を知る機会を得たからであった」。

  日本での天心のもてなしに対して、翌年に今度はサースビーの方がアメリカにやってきた天心一行にお返しをすることになる。

 「1904年の冬にエマとアイナは、ボストン美術館東洋部の設立のためにアメリカにやってきていた岡倉覚三とその友人である日本の著名な美術家、横山大観・菱田春草・六角紫水を自宅で歓待した。彼らの絵画の多くは、この時アイナ・サースビーによって準備された展覧会と売り立てを通してニューヨークにもたらされた」。

 大観がサースビーに世話になったことは「大観自伝」の中にも触れられているが、大観がサースビーにあてた英文書簡からもうかがわれる。これらの書簡も白山コレクションの中に含まれている。今ここでそれらを紹介する余裕はないが、帰国後も大観はまめに消息をサースビーに知らせていたようである。そうした関係から大観・春草の滞米作のかなり多くをサースビーが所有することになる。そして、戦後、ある事情からこのコレクションが日本人のものとなり、福井県鯖江の白山家にもたらされたのである。

 このある事情に関わったのが西大井久太郎という人物である。彼は福井県武生町藤井病院長藤井亮造氏の甥で、武生中学在学中に退学して渡米した。アメリカに渡って一旗挙けようというわけである。1915年12月にニューヨークに着いた西大井氏は、サースビー家に仕え、その後20年余り親日家のサースビー姉妹のもとで日米親善に尽くすことになる。姉のエマの没後、遺産は妹のアイナの手に渡ったが、その後1938年(昭和13年)85歳になったアイナは良く仕えた西大井氏を嗣子として選び、遺産を相続させることになる。当時の新聞はこの朗報を大きく扱っている。10月24日付の郡新聞には「全米の話題浚ふ親日明朗篇」として「富豪サースビ一家の嗣子に日本人《飛込》金的射た西大井氏」という大みだしのもとで、西大井氏の顔写真と和服を着たサースビー姉妹の1903年訪日時の写真をのせており、11月15日の大陸日報でも同様の記事が伝えられた。

 さらに11月23日の The Japanese Timesでも「不景気裡の佳話」としてこのことが伝えられた。さらに雑誌「ニッポンとアメリカ」11月号では、「サースビ一家と西大井君の話」として吉田信行氏が詳しい事情を伝えている。その中でサースビー邸での大観・春草の制作について触れて「現にサースビー嬢邸宅で製作した作品は数百点を算し、大観・観山・雅邦・紫水氏等の傑作品は、今尚当家の特別家宝として、訪問の人々に日本芸術の精華を示し、その上日米親善を説くので来る者は皆感嘆して、この姉妹の為に指導させられて日米親善家となった者多く、日米親善会は其の為益々会員の数を増大したといふ」と伝えている。

 こうして、西大井氏の所蔵となった大観・春草の滞米作及び、天心とサースビーの交友を語る資料が、その後西大井氏の義弟であった鯖江の白山数真氏に贈られることになったのである。アメリカにあっては恐らく埋れてしまっていたであろうこうした資料が、日本に帰ってくることによって、天心にせよ大観にせよ、彼らの伝記の空白部分をうめる重要な手がかりとなったのである。近年、岡倉天心の研究が進み、ことに今まで知られなかったインド及ひ、ボストンでの行動が明らかになってきている。

 中でも堀岡弥寿子氏のアメリカでの研究は、多くの新事実を含んだものであり、サースビー姉妹との交友についても詳しく触れられているが、福井にもたらされた資料は、さらにそれを補いうるものと思われる。

 しかし、現在では、白山家のコレクションも分散して行方をきがすのが困難な状態になってきている。これらの調査及び収集は今後の美術館学芸員の課題の一つとなろうが、ここではその中に含まれる下村観山の作品を中心にして、現在に至る経緯を語ってみた。当初、私は白山家のコレクションの中で大観・春草・天心の日本画に混ざって、なぜ観山の作品が一点含まれているのか疑問に思ったが、次の六角紫水の追想を読んだ時その疑問は解けた。「私が横山君や菱田君と共にボストンに居た頃、下村君は丁度ロンドンに留学中で、愈々横山君などが展覧会を開催することになった時には、はるばる面白い作品をロンドンから送ってきた程である。そしてこれが極めて好評であったことは吾々共々大いに喜んだことであった」。そして、ケンブリッジでの展覧会の目録中に見出された Return Home がこれにあたるのではないかというのが、私の考えとなった。

 それではもう一点の出品画 Fudo(不動)はどこにあるかというと、可能性としてはアメリカに残されているということも考えられるが、私の考えでは現在山種美術館に所蔵されている「不動明王」が、どうもこれに近いのではないかと思う。というのは「帰猟の図」も「不動明王」もほぼ同寸法であり、共に「観山」の朱文円印が見られる。この印は観山の明治37年ラファエロ作「椅子の聖母子」の模写にも見られるように、滞英中に用いていたものである。さらに「不動明王」には、めずらしく観山は Kanzan と横文字のサインをしている。これは必ずしも根拠とはならないが、外国人に作品を見せるという前提があったため英文のサインを入れたと考えることは可能である。現在この作品は明治40年頃の作ということで紹介されているが、このことが明らかになれば、「不動明王」もまた明治37年のケンブリッジ展の出品作ということになるだろう。