アカデミー作品賞

1969 「オリバー!」/1968 「夜の大捜査線」 /1967 「わが命つきるとも」/1966 「サウンド・オブ・ミュージック」 /1965 「マイ・フェア・レディ」 /1964 「トム・ジョーンズの華麗な冒険」/1963 「アラビアのロレンス」 /1962 「ウエスト・サイド物語」 /1961 「アパートの鍵貸します」/1960 「ベン・ハー」 /1959 「恋の手ほどき」/1958 「戦場にかける橋」 /1957 「八十日間世界一周」/1956 「マーティ」/1955 「波止場」/1954 「地上より永遠に」/1953 「地上最大のショウ」/1952 「巴里のアメリカ人」 /1951 「イヴの総て」/1950 「オール・ザ・キングスメン」 /1949 「ハムレット」 /1948 「紳士協定」 /1947 「我等の生涯の最良の年」 /1946 「失われた週末」 /1945 「我が道を往く」 /1944 「カサブランカ」/1943 「ミニヴァー夫人」 /1942 「わが谷は緑なりき」 /1941 「レベッカ」 /1940 「風と共に去りぬ」 /1939 「我が家の楽園」/1938 「ゾラの生涯」/1937 「巨星ジーグフェルド」/1936 「戦艦バウンティ号の叛乱」/1935 「或る夜の出来事」 /1934 「カヴァルケード」/1933 「グランド・ホテル」/1932 「シマロン」 /1931 「西部戦線異状なし」/1930 「ブロードウェイ・メロディー」 /1929 「つばさ」/

第156回 2023年4月13日

つばさ1927

 ウィリアム・A・ウェルマン監督作品、原題は Wings。アカデミー作品賞、ちょっと古すぎるかもしれないけれど、これは見ておいたほうがいいですよという映画を集めてみた。第1回の作品賞である。無声映画だが2時間をこえる大作である。ドイツ軍に対してアメリカの若者が空中戦にいどむ。二人の友情物語とも取れるが、ひとりの女性を争う恋のライバルでもあって、コンパクトに入れた写真をめぐって、恋の駆け引きが展開する。恋人の名が裏書きされた写真を別の男が手にしているという、勘違いから起こった思い込みが、真実の明かされないまま続いていくという点が興味深い。裏書きを知らないままにもっている。もうひとり別の娘がからんで、恋物話は複雑になるが、戦争映画としての迫力は、無声映画であることが弱点とはなっていない。ことに空中戦での戦闘機の一騎打ちはスピード感があり、筋の展開とは関係なく見どころとなっている。

 敵の戦闘機を奪って逃走して、友人の手に掛かって誤射されるという無念な結末は、悪いのは友ではなく戦争だといって慰めてやるしかないものだろう。お守りはいつも身につけていた。ひとりは恋人の写真が入ったコンパクト、もうひとりはクマのミニのぬいぐるみだった。テーブルにクマが置き去りにされたときは、見るほうもハラハラしたが、結局はぬいぐるみだけが帰宅して、母の手に渡された。四枚に引き裂かれた写真は、悲恋を伝えたまま片思いの男の手に残った。裏書きを見せまいとして引き裂いた思いやりが、そこにはこもっていた。生き残ることで知ったのは、愛するよりも愛されることの喜びで、その幸せをかみしめて映画は終わる。

第157回 2023年4月14日

西部戦線異状なし1930

 ルイス・マイルストン監督作品、アメリカ映画。原題はAll Quiet on the Western Front。アカデミー作品賞と監督賞の2部門を受賞。英語を話しているので戸惑うが、ドイツの若者が従軍をする話である。フランスとロシアに進軍するが、戦況は思わしくない。学徒出陣ということになるが、教室では教授が学生たちに向かって志願兵になることを勧めている。学生の目は異様に輝いていて、催眠術にかかったように集団での仲間意識が高揚して、入隊への統一行動となった。洗脳の恐ろしさが伝わってくる。

 さっそうと軍服に身をまとって入隊すると、理想と現実の落差に驚き、殺し合いに行くことの恐れと虚しさに直面する。銃殺を覚悟しなければ、もはや後もどりすることはできない。銃を手にした短期間の特訓をへて、戦地に送られると、仲間が一人づつ死んでゆく。発狂して精神病院に収容された学友もいた。殺したくないのに殺さなければならない。主人公も負傷して、何日かの休暇を家族とともに過ごし、母校へも出掛けてみた。かつての教授が同じように学生を鼓舞していた。体験談を話すように言われて、教授の意に反して戦争の虚しさを訴えた。罵倒の声も聞こえ、学生には伝わらなかった。再度前線に戻されると、ふと飛んできた蝶に気を取られ、手を伸ばした途端に撃たれて、あっけなく死んでしまった。それでも西部戦線異状なしと伝えられた。個人の死など問題にはならなかったのである。

第158回 2023年4月15日

或る夜の出来事1934

 フランク・キャプラ監督作品、原題はIt Happened One Night。アメリカ映画、アカデミー作品賞はじめ5部門を受賞。現実には起こりそうもないが、いきな話である。ことに花嫁の父のくだす判断と言動がいい。人を見る目のない娘がほんものの愛に気づくまでの物語。虚栄に生きる娘が、愛するパイロットとの結婚を反対されたことに反発して家出をする。大富豪の娘であることから、新聞だねになるが、ふとしたきっかけでしがない新聞記者と出会い、これを記事にしようとして交換条件を出して、娘を助けるべく一肌脱ぐことになる。ふたりしての逃亡の目的は娘の願いをかなえて、愛を成就させてやることだったが、その間のロードムービーは、だんだんとふたりの距離を縮めていく姿を写し出していく。

 クライマックスは娘がみずからの愛に気づき、新聞記者に告白するところだが、男はためらいを見せたあと、車で去ることから、思わぬ方向に話が展開してしまう。娘の行方を探そうとして、父親は多額の懸賞金を用意していた。「ローマの休日」へとつながるような新聞記者との恋愛や「卒業」を思わせる結婚式での逃走場面は、とんでもないドタキャン劇ではある。しかし、だれと結婚しても同じだと捨てばちになってあきらめかけた娘の背中を押してやる父親の行動には、ぎりぎりまで娘の幸せのみを思う気持ちが切々と伝わってくる。新聞記者に対して何度も繰り返して娘を愛しているのかと、本心を問いただす親心は、娘が金目当てだと結論づけたことへの否定の確信だったはずだ。「ジェリコの壁」はベッドをへだてる紳士のあかしとして用いられている。娘の告白はそれを自力で乗り越えてやってきたのだった。クラーク・ゲーブルはのちの「風と共に去りぬ」につながる頼もしさとジェントルマンシップをここでも備えていた。苦味走った微笑みの魅力がひかっている。

 父親に顔をあわせて記者が請求したのは、数十ドルの実費に過ぎなかった。加えて娘の育てかたが悪いとも苦言を呈した。記者に裏切られたと思い込んで娘が父のもとに戻ったとき、新聞は親が折れて、反対された愛が実を結んだと美化して書き立てた。しかしこの愛の勝利はもう一度根底からひっくり返されることになる。華々しく目に映っていたパイロットの虚栄を父親は、はじめから見透かしていたのかもしれない。娘がそれに気づくことを願い続けていたのだろう。それは懸賞金以上の慰謝料を払ってでも、結婚を破棄させてまでも手に入れさせたいものだった。

第159回 2023年4月16日

ゾラの生涯1937

 ウィリアム・ディターレ監督作品、アメリカ映画、原題はThe Life of Emile Zola、アカデミー賞作品賞はじめ3部門を受賞。ゾラとセザンヌがパリの狭い部屋に同居しているところから映画ははじまる。ともに売れない小説家と画家である。パリというイマジネーションの宝庫に育てられ、芸術愛に目覚めた若者だった。ゾラが先に名をなして、セザンヌはそれと入れ替わるように、故郷の南仏へと帰っていく。ゾラは引きとめるが華やかなデビューを果たした旧友とともには居づらかったにちがいない。ゾラの目には、そのときのセザンヌは負け犬と映っていたはずだ。セザンヌが評価されるのは晩年になってからだが、20世紀に及ぼした影響からすると、ゾラをうわまわっていたかもしれない。ふたりは中学校の頃からの友人だったが、ゾラはパリ生まれであり、セザンヌのように帰るべき故郷はもたなかった。

 ゾラの描く社会の底辺に生きる生活のリアリティは、大衆の支持を受けるが、上層階級や権力者からはうとまれる。ヒット作を量産してゆくなかで、自分の立ち位置を見失っていく。うまいものを食い、よい家に住み、生活の質があがることで失われたものも少なくない。アカデミー会員に選ばれるという世俗的野望にとらわれていた頃に、ドレフュス事件が起こる。無実の罪で投獄され、フランス陸軍の不正の犠牲になっていた。ドレフュス夫人が訪ねてきて、ゾラに助けを求めたとき、関わりたくないという態度と、名声を得て保身にまわっている対応は明らかだった。置いていった証拠資料に目を通しながら、正義感がよみがえらなかったなら、ゾラの今日の評価はなかっただろう。そこから社会活動家としてフランス自由思想の誇りを取り戻すことになる。ロンドンへの逃亡は、信念の挫折、敗北を意味したが、その退却が前進の転機となるものだった。

 ドレフュスが無罪を勝ち取ったとき、その功労者のひとりであったゾラは一酸化炭素中毒で死んでしまった。タイミングがよすぎる展開は謎めいてみえるが、支持者が多いだけ敵も多かった。軍国としてのフランスを、まるごと敵にまわしていたと言ってもよい。罵声の響くなか法廷で語る長ゼリフは説得力をもって映画を引き締めていた。セザンヌとの友愛とその破綻も描かれているし、ナナのモデルになった女性も登場する。サクセスストーリーから、それをかなぐり捨てて、出世欲を排除して真実の人間主義へと成長する姿に学ぶべきところは多い。セザンヌがゾラから去ったのは、世俗的成功に邁進する姿を見たときだった。ゾラの書いた小説ではセザンヌは苦悩の末、自殺する。友の故郷への退却は敗北と目に映ったのだろう。ドレフュス事件に関わる姿を知ったとき、セザンヌのわだかまりは解消したはずだ。その時はまだセザンヌはゾラと対等な成功者ではなかったが。

228回 2023年7月18

風と共に去りぬ1939

 ビクター・フレミング監督作品、アメリカ映画、マーガレット・ミッチェル原作、ヴィヴィアン・リー主演、原題はGone With the Wind。アカデミー作品賞をはじめ10部門で受賞。4時間におよぶカラー大作である。南北戦争を背景にして勝気な娘の流転の物語。舞台はジョージア州アトランタ近郊にあるタラ。戦争前夜、娘の恋心が向けられた相手は、別の女性との結婚を決意していた。簡単にいえばフラれたということだ。派手で人目をさらう美人であったので、プライドが許さない。名はスカーレット・オハラ、アイルランドの血を引く南部の娘である。

 相手はアシュレーといい、自分と似た性格のつつましい女性メラニーを、結婚相手に選んだということだ。多くの男からちやほやされ、この男もそのひとりだったのだろう。自分にはないつつましさに惹かれたにちがいない。映画として見る限り、特に目立ったところはなく、ごく普通の常識人にしかみえないが、わがままを受け入れてくれる優しさと包容力は備えていたようだ。

 そんな主人公を興味深げに見つめている男がいた。派手で男ぶりがよく、見るからにハリウッドスターを地で行くような、苦み走った伊達男なのだが、誘ってもスカーレットはなびいてはこない。名をレット・バトラーといい、クラーク・ゲイブルが演じている。自分とは同じタイプの人間なので、魅力を感じないのだ。

 この2組のカップルが織りなす波乱のドラマが展開していく。わがままな女が、傲慢な男を嫌うのはよくわかる。つつましい男が、家庭的な女を選ぶのもよくわかる。しかしこの4人がドラマをつくりあげるためには、片思いを忘れきれないという強い欲望が必要だった。スカーレットは結婚後もアシュレーを追い続けるし、バトラーも嫌われているのを知りながらもスカーレットに執着し続けている。

 時代の波にさらわれるように、南部の風土が崩壊する。風と共に去りぬとは、美しい住み慣れた土地の消滅を言っている。アメリカを二分する内戦だったが、都市が地方を従える近代化の波に逆らうことはできなかった。奴隷制度に支えられた南部の豊かさを守ろうとして、南部の男たちは従軍した。アシュレーもまた負け戦を感じながら、スカーレットにメラニーを託し、守っていてほしいと言い置いて出ていった。スカーレットは言い寄ってきた男を受け入れて結婚していたが、すぐに戦地で死亡してしまった。悲しみもなく、喪服を着るのさえ気が進まなかった。

 スカーレットはアシュレーとの約束を守り続ける。恋敵のメラニーは、みごもっていた。北軍による攻撃の続くなか、医者の手を借りることもできず、黒人の召使いを手助けに、アシュレーの子を取り上げた。戦火のなかの逃亡を助けたのはバトラーだった。安全地帯にまで送り届けて、バトラーは従軍すると言って去ってゆく。スカーレットがバトラーを頼もしく思う一瞬である。北部の事情に通じていて、戦争の無益を感じていた。これまでの興味はもっぱら金儲けに向かっていた。

 ここまでが前半でスカーレットは故郷のタラに戻って再起をちかう。後半のはじまりは、焼け野が原になったタラでのゼロからの出発で、妹たちを従えて懸命に働く姿があった。北軍の支配は重税をかけてきた。メラニーは病弱のままスカーレットのもとに身を寄せている。300ドルの税金のやりくりがつかず、バトラーの消息を聞きつけて訪ねたが、囚われの身で、借り出すことができなかった。事業家であった妹の求婚相手を誘惑して、自分との結婚を決め、その資金力によって難を乗り切ることができた。もちろん恨みを買うことにもなった。

 戦争終結の知らせが入り、南部の男たちが帰還してくる。アシュレーは捕虜になったことを知り落胆する。ある日徒歩でアシュレーが戻ってくる。メラニーは狂喜して駆け出し、抱擁を交わしている。スカーレットも走りかけるが、黒人のメイドに引き止められる。スカーレットの暴走にいつも目を光らせている頼もしい常識人だった。アシュレーとふたりになったとき、スカーレットはふたりで逃げようともちかけるが、アシュレーの良識はそれを否定して、彼女の気持ちをタラという土地に向けさせ、スカーレットも納得する。

 次のバトラーの登場は、北軍から解放され、資産家としてのたのもしい姿だった。スカーレットの軽はずみな行動から、その報復に向かった夫やアシュレーを北軍の手から救って帰ってきたとき、アシュレーは負傷していた。スカーレットはその姿に動揺して、介護を尽くしたが、バトラーが伝えたのは、間に合わずスカーレットの夫は命を落としたということだった。スカーレットには悲しむ素ぶりもなかった。それでもバトラーはスカーレットを見限ることはない。

 3度目の結婚相手として結ばれることになったのも、バトラーの財力によるものだった。抱き寄せてもスカーレットは冷静だった。子どもの誕生により、絆は深まるかに見えたが、落馬事故で愛娘が死んでしまう。バトラーは怒りで小型の愛馬を撃ち殺した。スカーレットに土地を愛することを教えた父も同じく落馬で首の骨を折って死んでいた。落胆するふたりを励ますのはメラニーだったが、心労がたたってあっけなく命を落とす。死に瀕した床でメラニーはスカーレットを呼び、アシュレーを頼むと伝え、バトラーの愛に答えるよう言い残す。大いなる矛盾である。

 ここに至りバトラーは身を引く決意をする。やっと身勝手な女に愛想をつかしたようにみえる。スカーレットの引きとめるのを、振りほどいて去っていった。スカーレットは第二子を宿していたが、そのときバトラーは誰の子だと聞いた。スカーレットはあなたの子でなければよかったと言って揉み合いになり、階段を踏み外して転げ落ち流産をしてしまったのだった。

 売り言葉だったのか、本心だったのかはわからない。修復の余地はないようにみえるが、スカーレットはタラに戻って、明日また考えようという言葉を残して、バトラーが引き返すことに思いを馳せた。故郷の夕暮れの光景が明日の希望をつないでいる。やっと自分の愛に気づいたのか、あるいはまだまだ利用価値のある男だと算段したのだろうか。生き抜く活力を備えた強さを前に、独身主義を自認していたはずの伊達男も翻弄され、敗北してしまったことは確かである。肩を落として去ってゆく姿は哀れであった。この名作を、美貌を武器にしたたかに生き抜く女の物語と見ることにした。

第229回 2023年7月19

レベッカ1940

 アルフレッド・ヒッチコック監督作品、アメリカ映画、ローレンス・オリヴィエ、ジョーン・フォンテイン主演。アカデミー作品賞ほか2部門で受賞。ヒッチコックお得意のサイコミステリーに属するのだろうが、ラブストーリーでもある。主演は作品名からはレベッカなのだが、最後まで出てこない。主役の出てこない映画というのもあっていい。出てこないから絶世の美女を思い浮かべることができる。語られる伝説や残された衣装や部屋などから、見る者の心に鮮明にイメージが創り出されていく。大富豪の嫁として若くして亡くなった女性の人となりが、噂として語られていく。才色兼備を誇り、海に小舟を出して難破してしまった妻を忘れられない富豪は、マンダレイという豪邸を離れてモンテカルロで、ホテル暮らしをしている。最愛の妻の面影の残る住まいには居たたまれないように見える。マキシムといいローレンス・オリヴィエが演じている。

 イギリスから南仏への旅行にお供でついてきていた娘が、この富豪と出会い、見初められ、妻の座を獲得する。最初の出会いは深刻な顔をして崖から海を見つめる姿を自殺と勘違いしたことからはじまった。娘はスケッチブックを手にしていた。父親は無名の画家だったが、けっして裕福でも才能豊かでもない。年齢はかなり開きがあったが、突然のプロポーズでそのまま結婚をして、あこがれのマンダレイに連れていかれる。門を入ってからも、車はなかなか屋敷にたどりつかない。何十人もの奉公人が出迎える。取り仕切る女性リーダーがいて、ダンヴァース夫人と呼ばれるが、何とも不気味だ。レベッカに心酔してきたことから、比較しながら、新妻を冷ややかな目でみている。大邸宅での食事は夫婦の距離は遠い。広くて部屋をまちがっている。娘はレベッカがどういう女性だったかを知りたくて、探りはじめるが、立ちはだかって、意地悪な言動が続いていく。窓を開け放ち飛び降りさせようとまでする。レベッカのことに触れると、主人は急に血相を変えてしまう。狂気に近いものがあるが、愛していたがゆえの悲しみの反応だと思っていた。

 レベッカの遺体は、少し離れた海岸に打ち上げられ、夫が確認していた。暴風雨の日に船が難破して、海底を捜索中に、レベッカの乗っていた小舟が見つかった。そこには遺体も残っていたというのだ。主人は新妻に真実を告げる。レベッカがとんでもない悪妻で、自分はずっと憎んでいたことを知る。不倫の末、妊娠して、相手の子どもを宿していた。相手は自分のいとこだったが、夫の仕事をサポートする仲間にも色目を使っていた。夫はレベッカを船に乗せて殺害して、船底に穴を開けて沈めたと告白した。海岸の死体をレベッカだと言ったのも偽りだった。あっと驚くような事実を前に、新妻は何とかしようとする。このことは自分たち以外には誰も知らないのかと確認していたが、何を意味しているのだろうか、気にかかる。

 不倫相手がゆすりはじめてくる。船の穴は内部から開けられていた。レベッカが自殺をするはずはなかった。妊娠を知らせる手紙を直前に不倫相手は受け取っており、そこには逢い引きの場所まで書きつけてあった。さらにレベッカが秘密裏に医者にかかっていたことがわかり、警察をともなって訪ねていく。そこでどんでん返しが起こる。妊娠はしていなくて、末期ガンであったことが判明した。警察の担当者は主人と昔からの知り合いであり、自殺を断定した。新妻は先にマンダレーに戻っていたが、レベッカの不貞にも気づいていた女リーダーが、屋敷に火を放って死亡し、すべては焼き尽くされた。

 新妻は無事に脱出していた。ふたりが抱き合うところで映画は終わり、ハッピーエンドとなるのだが、主人が新妻に告白した事実はどうなるのだろうか。ふたりの秘密として重い十字架を背負ったまま生き続けることになるのか。死期を悟ったレベッカが他人の子の妊娠を伝えて夫の怒りを誘い、殺されようとした演出は、嫌われた夫をもて遊ぶ最後の選択だったようにもみえる。レベッカの勝利だと感慨深げに、自身の敗北を認めるシーンも確かにあった。

第162回 2023年4月19日

わが谷は緑なりき1941

 ジョン・フォード監督作品。アメリカ映画、アカデミー作品賞はじめ5部門を受賞。イギリスの産業革命を支えた炭鉱労働者の姿は、日本でも石炭をエネルギーとする近代社会を象徴した負の遺産として共通するテーマとなるものだ。ここでは炭鉱に働く一家の過酷な労働の姿が浮き彫りにされている。多くの従業員をかかえ、経営者と労働者の貧富の差は、歴然としており、娘だけは見染められて経営者の息子の嫁におさまる。本心は優しい牧師を愛していた。貧しい牧師も同じ思いだったが、幸福にしてやることができないことをわかっていて、神に捧げた下僕であることから身を引いた。娘は嫁いだあとも忘れることができず、メイドたちともなじめず疎外されていた。牧師とのことが噂されると、ついには牧師は教会を追われることにもなってしまう。

 男兄弟は六人いた。全員父のあとを継いで炭鉱で働いている。下の弟だけが歳が離れていて、学校に上がり、牧師に習ってラテン語も学んだ。この少年の目を通して一家の歴史が伝えられていく。聡明な一家の期待の星だったが、父と兄たちに従い、炭鉱に働くという選択をする。父は残念がるが、この少年は当然のように、自身の運命と使命感に従ったようだ。

 長男は落盤事故で死んだ。次の二人は優秀な労働者で家計を支えていたが、給与が上がりすぎたという理由で、突然の解雇を言い渡される。幼い弟たちが安く使われることになるのだ。続く二人は労働条件の悪化から、新天地を求めてアメリカに渡った。父もまた坑内の事故で死んでしまうと、あれだけ頼もしくにぎやかだった家庭なのに、残されたのは母と末の息子、それに死亡した長男の嫁と赤ちゃんがひとり、一家はばらばらになってしまった。長男の嫁と生まれたばかりの子どももは、父をなくしてこれからどうするのだろうか。事故の保証もない時代であり、組合ももたず労働者は泣き寝入りをしている。牧師と娘は結ばれるのだろうか。社会的弱者に降りかかるさまざまな不安を感じ取りながら、社会のかかえる矛盾を考えることになる。

 この事実を伝えるナレーターとして聡明な六男がいたという点が重要だ。ラテン語まで学んだこの子が別世界に行ってしまったらどうだろう。労働者として炭鉱にいなければこの物語は語られなかった。我が谷は緑なりき。原題はHow Green Was My Valley、過去形を用いた昔話としてこの物語ははじまるのである。

第163回 2023年4月20日

ミニヴァー夫人1942

 ウィリアム・ワイラー監督作品。アメリカ映画、原題はMrs. Miniver。アカデミー作品賞はじめ6部門を受賞。ドイツがポーランドに侵攻し、イギリスが参戦したころのロンドン郊外の家族の話。建築家の家庭ははじめ高級車や贅沢品を買うゆとりがあったが、空襲がはじまると、心の余裕がなくなり、重苦しい気分がただよいはじめてくる。夫と三人の子どもを見つめるミニヴァー夫人を中心にして、戦時下での悲惨なエピソードが綴られていく。

 いつも顔を合わせる駅長がミニヴァー夫人と名づけてバラの花を品評会に出品するのをきっかけにして、ミニヴァー家の長男が、この村の名家の娘と知り合いになる。駅長のバラのできが素晴らしく、品評会を主宰する老婦人の孫娘が、ミニヴァー夫人を訪ねて、駅長の出品を取り下げてほしいと依頼する。例年祖母の出したバラが第一位になるのを常としていたからである。夫人はこれを受け入れようとするが、同席していた長男が、出品の自由を主張して、潔癖なまでの正義感を見せつける。あまりに激したこともあって、その後、娘に謝罪しようと手紙で誘い出すのだが、本心はこの娘そのひとに魅了されてしまったようだった。

 両親もこの娘を気に入って結婚の約束をするまでに至るが、名家の格式は敷居が高い。息子はまだ大学生だったが持ち前の正義感は空軍のパイロットになることを決めていた。婚約の喜びもつかのま、従軍すると両親も婚約者も、戦闘機の音が聞こえるたびに気が気ではない。ドイツ軍の空襲が激化するなかで、長男ではなく、娘のほうが撃たれて死んでしまう展開は、予想できないものだったので驚かされる。祖母はひとりとり残されることになるが、品評会で駅長のミニヴァー夫人が第一位になって祝辞を述べた直後の爆撃によるものだった。

 バラに名をつけるならわしは古くからあったが、高位の女性名に限られていた。祖母ははじめこの名を嫌悪していたが、結婚を認めてからは、ミニヴァー夫人とは自分の孫娘のことにもなるので、誇らしく思っていたはずだ。爆撃によって青空が見える自宅が残った。壁も天井もなくした教会が、同じく青空の中で再開され、詩篇の一節が読まれたのちに紹介されたのは悲しい出来事で、新婚の嫁とともに駅長の死が伝えられた。

232回 2023年722

カサブランカ1942

 マイケル・カーティス監督作品、ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマン主演、アメリカ映画、原題はCasablanca。アカデミー賞作品賞ほか3部門で受賞。ドイツ軍が侵攻を続けるアフリカのフランス領カサブランカで、サスペンスタッチで展開する脱出劇。背景にはこの地がリスボンを経由してアメリカに行く中継地であったという事情がある。ビザが発行されなければ自由の地を求めて飛び立つことはできない。ナチスの強制収容所から脱走したチェコ出身のレジスタンスの指導者が、妻をともなってここに逃げ込んでくる。ドイツ軍が占領しているが、まだフランス領なので、軍は簡単には手出しをすることができない。警察はフランスの管轄であり、ドイツ軍は敵であるが支配者なので、署長はドイツの言いなりになりながら、フランスのレジスタンスを応援してもいる。

 主人公はここで酒場を経営しているアメリカ人で、ハンフリーボガードが演じている。酒場はカジノも併設して稼いでいる。美男子とは言えないが、大人の雰囲気をかもす背筋のしっかりした好漢、クールガイである。裏街道を行くが、ボスとしては頼もしい。よからぬ理由でアメリカを去り、パリにいてレジスタンスの運動にも参加したが、ドイツ軍によるパリ陥落のおりに逃れてカサブランカにやってきた。政治活動よりも金儲けに目が向いている。パリにいた頃に知り合って恋愛関係になった女性がいたが、悲しい別れをしていた。列車で一緒にパリを離れる約束であったが、すっぽかされたのである。謎を残したままオスロからきた北欧の美女の面影を今も引きずっている。まぶしいまでのバーグマンの目の輝きは魅力的で、「君の瞳に乾杯」と意訳されて、男が決めゼリフを連発するのもわかる気がする。黒人のピアニストがパリ以来同行しているが、思い出のピアノ曲「時の過ぎ行くままに」はながらく封印してきた。

 ある日酒場でこの曲とヴォーカルが流れてきて、目をとめると逃亡者の妻として、彼女がそこにいた。突然の出会いに夫は二人の関係を勘づいたようだった。主人公は酒場は多くあるのに、なぜここに来たのかと苦悶し再会を呪った。パリでの別れの理由が明かされていく。すでに女は結婚をしていた。パリで捕まった夫は強制収容所に送られ、脱獄に失敗して殺されたと聞いていた。その頃に出会って恋愛に発展したのが、この主人公だったというわけだ。結婚をしていることを隠したままでいたが、夫が生きていてパリ近郊でかくまわれていることを知ると、夫のもとに戻ったということになる。彼女が述懐していうには、夫のもつ気高い思想に共鳴して、尊敬が愛に変わったのだった。パリでの新たな出会いは互いに惹かれ合う自然な結びつきで、生活の喜びと楽しさを、対等に共有しあうものだった。どちらがほんものの愛なのかは、本人にもわからないが、二者択一を迫られることになる。

 アメリカへの脱出は、主人公が鍵を握っていた。ドイツ軍が発行した通行証を一枚隠しもっていたのである。夫はそれを手に入れようとするが断られた。それを知ると妻が訪れてくる。パリの思い出がよみがえる。主人公は自分もアメリカに戻りたかったので、一緒にアメリカに行こうと持ちかける。とりあえずこれで先にアメリカに行って、自分はあとで追いかけるという手はずだった。この提案が実は夫の出した結論でもあった。一枚しかない通行証で妻を逃して、自分はここに残るというのである。この回答を前にして、主人公が考えあぐねて最終的に判断したのは、粋な男気を見せるものだった。

 あなたはアメリカに渡ってレジスタンスの活動を継続すべきだと相手に伝え、二人を逃して、自分は身を引き、残ることになる。昨夜、彼女が来たことも明かし、偽りの愛を語ってまでも通行証を手に入れようとしたのだと言った。警察署長を巻き込んでの画策だったので、署長には逆のことを伝えて、みずからの逃亡の援助を頼んでいた。飛行場で二人を逃すと、真意に気づいた署長には拳銃を突きつけた。追ってきたドイツ軍の司令官は、管制塔に電話をして飛行機を戻そうとした。ポケットには銃を忍ばせている。拳銃を構えたとき、いち早く主人公が発砲して撃ち殺してしまった。駆けつけた警官に対し、署長は犯人は逃げたので探せと指示した。あたりは霧が立ち込めていた。署長はこの粋な別れを演出した謙譲の美学に感銘を受けたようだった。昨夜の約束とは異なった結果に驚く女の濡れる瞳に向けて、最後のことばをかけた。4度目の決めゼリフだった。リスボンに向けて飛び立つ飛行機を署長とふたり見つめていた。署長とは金銭的にも持ちつ持たれつの関係にある。そこにはくされ縁に引きずられた友愛が読み取れた。これで借りができたとすれば、署長にはまたカジノで稼がせてやることになるのだろう。石原裕次郎の曲に「粋な別れ」というのがあったのを思い出した。

第176回 2023年5月4日

我が道を往く1944

 レオ・マッケリー監督作品、アメリカ映画、原題はGoing My Way。ビング・クロスビー主演。アカデミー作品賞をはじめ7部門で受賞。経営難におちいった教会に派遣された、型破りの新任神父の奮闘の物語。45年も勤めた老神父がいるが、考え方が古く、寄付金も集まらない。老朽化の補修のため借金をしており、債権者から取り立てられている。

 ミュージカル仕立てになっていて、主人公のクロスビーはプロの歌手だけあって、歌いはじめると聞き入ってしまう。近隣の不良グループを集めて聖歌隊を組織する。練習を嫌がらず続けていけるのも音楽の力だろう。ハーモニーがそろい始めると、心地よさにうっとりとして、不良の顔だちが天使のような表情に変わっていく。きよしこの夜やアヴェマリアをはじめコーラスの聞きどころも盛り込まれている。

 神父は聖職につく前には、音楽を手がけていて、プロのオペラ歌手にも友人がいる。懇意の女性歌手が神父を売り込み、サポートをして、聖歌隊のコーラスに上演の機会を与える。神父は作曲もして資金不足を補おうとするが、正統派では相手にされず、くだけた調子のポピュラーソングが、音楽関係者の目にとまった。

 教会の立て直しが軌道に乗りはじめたとき、突然に火災が起こり教会は全焼してしまった。老神父は意気消沈するが、若い神父は落胆することなく再建に向けて奮い立った。この二人の神父の心のかけひきが見どころとなっている。神父は後継者として派遣されたが、老神父を立てて、自分はサポートにまわろうとする。赴任への道すがら子どもたちの草野球に加わって、打球が民家のガラス窓を破ったことから、幸先の悪いスタートとなった。老神父は苦情を聞かされて、第一印象からよくない。神父を更迭できないかと司教のもとに出向くが、新任がサポートではなく引き継ぎだと知ることになる。自分の時代は終わったと自覚して、黙って教会を去るが、行くあてもなくみじめな姿で帰宅する。自分の席もなければベットも食事もないのだ。現役引退の悲哀を感じさせる場面だが、新人神父の思いやりが輝きを放つところでもあった。再建に確信が得られた頃に、神父に転勤の命が降りた。経営難になっている別の教会への派遣だった。老神父はジョークをとばして、前任者に疎まれて、司教に訴えられないように気づかってみせた。

第164回 2023年4月21日

失われた週末1945

 ビリー・ワイルダー監督作品。アメリカ映画、原題はThe Lost Weekend。アカデミー作品賞はじめ4部門を受賞。アメリカ社会でのアルコール依存症の現実が、まるごと投射されたような映画である。立ち直ることの困難さは、最後まで影を落としている。ハッピーエンドに落とし込めてはいるが、たぶんまた駄目だろうという予感が宿る。売れない作家でアル中患者なのだが、なぜかよくもてる。酒さえ飲まなければユーモアのセンスに満ちた好人物なのだ。

 趣味もいい。オペラを見ていて、酒を飲む場面が出てきて、忘れていた禁断症状が起こり、たまらなくなり席を立ち帰ろうとするが、クロークに預けたはずのコートが自分のものではなく女ものだった。終演まで待って、持ち主と交換するのがきっかけで、恋愛へと発展する。コートにはウィスキーの小瓶が忍ばせてあったのである。女性はタイム誌に勤めるキャリアウーマンだが、この作家に惹かれ、アルコール依存症と知ってからも、自分の力で克服させたいと親身になっていく。

 作家は兄の家に居候をしており、兄も弟を何とか立ち直そうと力をつくす。兄の誘いで週末を悪の巣窟である都会から離れて、いなか暮らしをする予定でいたが、それもアルコールのために列車に乗り遅れ、失われた週末となってしまった。酒場や酒屋をまわり酒を手に入れようとするが、兄が手をまわしていて拒絶される。現金ももたせてもらっておらず、商売道具のはずのタイプライターを質屋にもっていったり、はては財布を盗みさえした。禁断が惨めさを凌駕する。

 幻覚は部屋の壁からネズミが顔を出し、それをコウモリが捕らえて食いちぎる。迫力のある映像はこの病気の症状を実写しているようで恐ろしい。破滅型の人格がさらに加速して、恋人のコートをもって質屋を訪れて手にしたのは現金ではなく、以前に質にいれて取り戻した拳銃だった。女は何とかとどめようとしてコートを借りる口実で、男もののコートを肩にかけたとき、ふたりは出会いを思い出すことになる。

 見ていて過去の回想なのか、自分が書こうとしている小説の場面なのかがわからない箇所があった。アルコール依存症を克服するまでの小説を書くために、アルコール依存症になるという破滅型の作家志向はわからなくはないが、自殺者の心境を小説にしたくて自殺するようなもので、結局は小説にはならないものだろう。「黄金の腕」をもったアルコール依存症を描いた名作もあったが、ともに病めるアメリカを描き出したものだが、酒を嗜まない者にはオールマイティとはいえない。アカデミー賞で4部門も受賞したというのは、映画界ではよほど実感を持って受け止められたということだろうか。サクセスストーリーにするためには、極限状況で書いた小説がヒットするという展開も考えられるが、そんな陳腐な結末よりも、どこまでも愛の力を信じる人の存在が、一人でもいるのだというほうが、より説得力のあるエンディングとなっていたように思う。

第172回 2023年4月30日

我等の生涯の最良の年1946

 ウィリアム・ワイラー監督作品、アメリカ映画、原題はThe Best Years of Our Lives。アカデミー作品賞はじめ9部門で受賞。戦争が終わり同郷の3人が復員するところから映画ははじまる。もちろん戦争の相手国は日本だった。同じ車に乗り合わせたが互いに初対面だった。ひとりは大尉で若くさっそうとしている。もうひとりは軍曹だが、年長で優秀な銀行員だった。3人目は水兵でセーラー服を着ているが、両腕を失い、義手を付けている。それぞれに戦争の傷痕を心身に残して、不安な帰宅となった。その後も顔を合わせつきあいが続き、友情が築かれていくなかから、物語は進行していく。

 幸福に包まれたのは軍曹だった。結婚をして20年になるが、妻と男女の子ども二人が、喜んで迎えた。もとの銀行に復帰することもでき、復員兵の貸し付け担当という重要な任務をまかされる。ときおり記憶力が飛んでしまうのは、戦争の後遺症であるのかもしれない。つじつまの合わない返答を繰り返し、見ている私たちも不安になるところもあった。担保を取らないで人物のみを見た信用で融資を決め、責任を問われたりもしたが、上司の信頼は厚く、ことなきを得た。

 義手の水兵には婚約者がいた。隣家に住む娘だったが、帰宅したとき両親とともに喜んだが、両腕のないことに気づくと、驚きは隠せず、母親は泣き崩れた。訓練のおかげで、みごとな義手さばきだったが、本人には興味本位で見られたり、見て見ぬふりをされるのがつらく、必要以上に卑屈になっていく。婚約者は今まで通り結婚を望んでいるが、彼は身を引こうと考えている。見るに耐えかねて相手の両親が出した結論は、娘を親類の家に引っ越しさせるという選択だった。ぎりぎりの別れの寸前で後押しをしてくれたのは、大尉からのアドバイスのことばだった。

 大尉には結婚をして間もない妻がいた。実家に戻ると両親はいたが、妻はそこにはいないで、ひとりで部屋を借りて、町に住んで仕事をしているらしかった。一瞬大尉の顔にかげりが浮かんだのは見落とせない。軍曹の一家と酒場で出くわし、誘われるままに酔っ払い、軍曹の娘にひかれたようだ。娘のほうも気になっていて、好奇心から妻のことを知りたがっている。若いのに軍人としては将校であり、頼もしくみえ、これまでも女性たちを魅了していたにちがいない。勇敢に戦闘機を率いて部下を死なせたことがトラウマとなって、ときおり悪夢にうなされている。妻も帰宅を喜んだが、軍隊時代にもらっていたような給料が期待できず、不満を募らせていく。娘がこの妻に会ってみると、夫の悪口を語り、派手好きのだらしない性格のように思えた。夫婦仲は良くないといううわさも聞いた。

 娘が安い給料で店員をしている大尉に会いに出かけたのも、愛するがゆえのことだったが、男のほうも感情が高まって、別れ際にキスをしてしまう。帰宅して娘は意を決して両親に、率直な気持ちを打ち明けるが、妻帯者との交際は認められるわけはない。父は大尉を呼び出して娘と会わないよう叱責すると、納得してその場で娘に電話を入れた。大尉は帰宅すると見知らぬ男が来ており、妻は離婚を口にして出て行った。気持ちを殺してがまんをしないよう友にアドバイスをするのは、自分に向けての励ましでもあったようだ。

 義手の水兵は正直なこころを打ち明けることで、ハッピーエンドが訪れた。結婚のお披露目に集まったなかには、大尉もいたし、軍曹の娘もいた。愛するふたりの結婚を見ながら、互いに意識をしているようで、大尉は娘に近づいていった。町を離れようとした飛行場で、廃棄される前の無数の戦闘機に出くわして、それらを解体する仕事につくことになったのを、娘は知っていた。戦争の傷痕からやっと開放される喜びを噛みしめながら、友の結婚の喜びにまぎれて、ふたりは抱き合って二度目の口づけをかわしていた。

第230回 2023年7月20日 

ハムレット1949

 ローレンス・オリヴィエ監督、主演。アカデミー賞作品賞はじめ4部門で受賞。シェークスピア原作。デンマーク王子の復讐の物語。舞台は霧の立ち込める闇におおわれた中世の城郭である。最愛の父親の王が死に、悲嘆にくれる息子の姿からはじまる。友人のホレーショが亡き父の亡霊をみたとハムレットに伝えた。次の日の同じ時刻に出かけると、確かに現れて何かを言いたげであった。引きとめるのを制して、亡霊についていったハムレットは、父の死は蛇に噛まれたとされていたが、事故ではなくて暗殺だと知る。ヒッチコックのサスペンスをみるような神秘的な城郭が写し出されている。

 犯人は弟で、庭で眠っているときに、耳に毒薬を注ぎ込まれたのだと教えた。弟は王を継承し、王の妻を妃に迎えていた。名君だった父とは比べものにならない叔父であり、夫の没後まだ間もないのに再婚してしまった母親も許すことはできなかった。亡霊は無念を伝え復讐を願ったが、母親には危害を加えないようにと付け加えた。ハムレットは母親を叱責し、このとき「弱きもの汝の名は女」という声が聞こえた。

 復讐を誓ったが、王にさとられないように、他言を避けて、策をめぐらし、狂気を装うという方法を思いついた。大臣の娘オフィーリアを愛していたが、恋が理由で気がふれたようにみえた。オフィーリアは恋人の急な変貌に、気を揉んでいる。兄がいてデンマークを離れてフランスに向かうことになっていた。次期王となる身分不相応な望みを戒めて、軽はずみな行動を控えるように諭して、兄は「心配は最大の安心だ」と言い残して出発していった。

 王の動揺を探ろうとして、毒殺場面のある芝居を開催すると、王は顔色を変えて、怒りをあらわにした。ハムレットの処分を考えるが、王妃の深い愛情を受けているので、殺害はできず、イギリスへの追放を考えた。ハムレットは父の死の真相を確信して、苦悶のなか、自死も選択に含めて名高い「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ」という言を発している。

 母親の寝室を訪ねたとき、カーテンの裏に人の気配を感じて、とっさに剣で突き刺した。王であったなら、そこで復讐は完了したのだが、オフィーリアの父親の大臣だった。王の言いなりで、王妃のご機嫌取りに終始した人物である。オフィーリアはこれを引き金に、悲恋に重ねて、父の死で気がふれて、川に落ちて溺れ死んでしまう。

 ハムレットはイギリス追放の途上にあってオフィーリアの死については知らない。イギリスには王からハムレットが到着すれば、殺害するよう手はずを進めていたが、途中の海難事故でイギリスには辿り着かなかった。ホレーショをともなってのデンマークへの帰路、墓掘り人夫と出会う。掘り起こされた頭蓋骨を眺めながら人の死を感慨深く思い浮かべていると、葬列が現れてオフェーリアの遺体が運ばれたのを知る。隠れていたハムレットは一行の前に姿をあらわす。王夫妻もいたが、兄が憤りをあらわにしてハムレットに迫った。この兄のハムレットに向けての殺意を利用して、王は画策をめぐらせる。兄の得意な大小2本の剣による試合を計画し、剣の先に毒薬を塗り、酒盃に毒をもることを提案し、兄もそれを受け入れる。

 試合の日、ハムレットの優勢が続くが、休息中に兄が近づき、剣先がハムレットの肩をかすめた。フェンシングのルールでは剣の先はカバーをされているはずで、ケガをすることはない。試合が再開され、相手の剣を叩き落とすと、ハムレットは剣先を確かめて、自分の剣を相手に渡して、試合を進めた。今度はハムレットの剣が相手を傷つけた。王はハムレットを讃えて、酒盃を勧めるが、王妃がそれを飲み干してしまう。王の悪事が明るみになり、姿を隠そうとするのに飛びかかって、ハムレットは復讐を遂げることができた。刺された王は愛する王妃に手を伸ばそうとしたがとどかなかった。母は許しを乞うて、オフェーリアの兄は不正をわびて、息絶えていった。ハムレットももうろうとした意識のなかで友のホレーショにあとを託した。友はハムレットの栄光を讃え、ことの一部始終を見届けた語り部となったのである。

第165回 2023年4月22日

イヴの総て1950

 ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督作品。アメリカ映画、原題はAll About Eve。アカデミー作品賞はじめ6部門で受賞。ニューヨークのブロードウェイからロサンゼルスのハリウッドへとアメリカのエンタメ業界が移動するころの、野望に満ちた、生き馬の目を抜くような芸能界の裏話。まだまだ演劇の権威は衰えてはいないが、映画が台頭し、それに色気を見せる俳優や脚本家やプロデューサーが、演劇論をひっさげながら競い合う姿が目に入る。著名な舞台女優に憧れて無名の女性があらわれる。名はイヴというから男を誘惑する人類最初の女性であることに気づかなければならないが、残念ながらそれはあとになってわかることだ。

 演劇好きで憧れの女優の舞台に日参するという熱心な一ファンに過ぎなかった。控えめで落ち着いた語り口をもつ聡明な娘の出現に、女優の友人たちも含めて好感をもちはじめる。女優は娘を気に入ってそばに置くが、秘書としての力量も抜群で、てきぱきと仕事をこなしていく。女優とパートナーの関係にある脚本家にも可愛がられると、8歳も年上だった女優は嫉妬を抱きはじめる。はじめは誤解だと思えたが、どうもそうではないようだ。老いと若さ、40歳を過ぎた大女優と20歳そこそこの演劇ずきの新人の対比がある。娘は生活をともにしながら女優を真似て、演技を盗み、代役をみごとにこなすまでにいたる。才能はあったのだろうが、裏工作をしての名声獲得だったことがやがて明るみになってくる。男を踏み台にしてスターへと登り詰めていくのだが、ゆっくりと化けの皮がはがれてゆく展開がスリリングだ。

 演劇観もしっかりしていて、美しいだけの映画界の新人女優とは対比をなしている。見たことのある顔だちだったので、エンディングで名前を追いかけると、下のほうに確かにマリリンモンローの名を見つけることができた。ハリウッド映画の象徴でもあり美しいが、まだここでは初々しさのほうが勝っている。天性の無垢な美と才気あふれる知性美の対比がそこにはある。

 芝居をしている芝居なので、虚構の構造が二重三重になっていて、くらくらとした眩暈(めまい)を引き起こすのもこのドラマの魅力だろう。芝居で嘘の演技をしているとすれば、そもそもが芝居は演技なのだから、嘘は二重構造になっている。嘘泣きをしているとわからないような嘘泣きをしないといけないが、あまりにわかりすぎると、演技力が疑われてしまう。舞台劇を写した映画ではないので、芝居に見えてはならないが、舞台人は日常生活がすでに演劇のように見える場合も少なくない。そんななかで要求される演技とはどんなものだろうか。

 はじまりとおわりはスターの座に着いたイヴの授賞式の場面であり、本編ではそこに至るまでの時間的経緯が語られ、その種明かしがされていく。イヴの偽りのスピーチに対して、当事者たちの偽りの賛辞が寄せられる。演劇的世界を扱いながら、これを映画というメディアを通して伝えられているという点に、もう一度思いを馳せておく必要があるだろう。セレモニーは映画のはじまりとおわりでは一続きのはずなのに、私たちの目にはまったく異なったものにみえるというのが、見落としてはならないポイントである。

 しゃれた場面がいくつかあった。女優の役を欲しがって女優の友人におどしをかけるが、女優が何も知らずに、自分には若すぎる役だといって降りてしまう。一件落着となるが、これが自然の法則である。授賞式のあと帰宅すると知らない娘が待ち受けていた。スターに憧れる聡明な姿がそこにはあった。これも自然の法則に従った落ちで、歴史は繰り返されていくことになる。


第182回 2023年5月16日

巴里のアメリカ人1951

 ヴィンセント・ミネリ監督作品、アメリカ映画、原題はAn American In Paris。ジーン・ケリー、レスリー・キャロン主演。アカデミー作品賞はじめ6部門で受賞。ミュージカル映画の成果だと思う。テンポの早い、息をつく間もないダンスのみごとさに圧倒される。ことにジーンケリーのタップダンスは神わざと言っていいものだ。ストーリーは単純な恋愛もので、失恋から急展開をしてハッピーエンドで終わるのだが、リアリティは残念ながら希薄だ。愛する男女が結ばれるのだから異存はないのだが、不自然を回避できたのは、その直前に失恋者の夢みる願望を、あまりにも長く踊りに託してみせたからだと思う。

 アメリカの元兵士が帰国せず、戦後パリに住み着いて、画家になろうと、屋根裏部屋の安下宿で暮らしている。仲間には売れない音楽家もいる。青空のもと絵を並べて売っていると、ひとりの中年女性が立ち止まって絵を買ってくれて、その後もパトロン関係が続いていく。彼女に連れられて食事に出かけたとき、隣の席にいた娘に一目惚れをして、強引に声をかける。レスリー・キャロンは不思議なことに「恋の手ほどき1958」のジジ役のときよりもずいぶんと大人になっていた。何度も誘ううちに女のほうも打ちとけて、やがて恋愛感情が芽生えてくる。パトロンも画家を愛していたが、自分の手で才能を見い出し、育てて個展をさせるという願望が勝っていた。

 娘には決まった相手がいた。歌手だったが恩人でもあり、親も含めてお世話になり、幼心に愛するようになっていた。歌手が成功して新天地をめざしてアメリカ行きが決まると、娘にプロポーズをする。恋愛のはじまっていた画家とは、決意をして別れを告げる。画家は落ち込んで悩みを仲間の音楽家に打ち明ける。このときピアノ伴奏を通して知人の関係にあった、問題の歌手がやってきて、結婚をすることになったと、喜びを伝える。すでに名前を聞いていた音楽家はふたりの相手が同一人物であることを知ることになる。同席していた画家の落胆を見て歌手がアドバイスをする。愛し合っているのかを確認し、それなら問題はないと後押しをする。画家は勇気を取り戻し、ふたりは愛の喜びを歌にして、たがいに喜びあっている。間にはさまった音楽家は、なんとも言えない複雑な顔をしている。娘を呼び出して画家は思いを告げるが、娘は結婚をしなければならない事情を話し、相手の名を伝えると、画家は驚くが身を引く決意をする。別れぎわに娘は画家を愛し続けると言った。

 パリを去る前日、大晦日のパーティで、二人は顔を合わせてしまう。男がベランダでパリの街並みを眺めていると、女がやってきて最後の別れを言い、抱き合ったのちその場をあとにした。そのときかたわらでふたりの会話を聞いていた歌手の姿がみえた。二人を乗せた車をベランダから画家は眺めている。窓越しに女の悲しそうな顔が見えている。そこから引き裂かれたパリを描いたデッサンを、非現実な背景にして、長い長いダンスの場面が続いていく。ジーン・ケリーとレスリー・キャロンのデュエットのダンスが素晴らしい。やっと終わったとき、現実に引き戻されると、車が戻ってきて娘は階段を駆け上がってくる。画家は階段を駆け下りて、二人は抱き合って映画は終わる。歌手にとって娘への愛は、肉親の子どもに対するようなものだっただろうし、女パトロンにとっても画家は若いツバメのようなものだっただろうから、この結末は最も自然な着地点だったということになるだろう。

第168回 2023年4月26日

地上最大のショウ1952

 セシル・B・デミル監督作品、アメリカ映画、原題はThe Greatest Show on Earth。アカデミー作品賞はじめ2部門で受賞。サーカスの巡業を続ける団員たちの人間関係を軸に、空中ブランコゾウの曲芸など、驚きの映像を通して、その醍醐味を楽しむことができる。危機に瀕したサーカス興行の存続のことしか頭にないボスの役をチャールトン・ヘストンが演じている。それと恋愛関係にある空中ブランコの花形団員との恋のゆくえが、メインテーマとなっている。

 空中ブランコに著名な男性スターをひとり雇い入れたことから、ブランコの主導権をめぐって、男女の対立がはじまる。ふたりは腕を競い合うが、そこで見せる演技はみごたえがある。やがてふたりが恋愛へと発展していくと、恋のトライアングルができていく。ボスは無骨な仕事人間、スターは優柔不断なプレイボーイである。ふたりの間に立って、女心が揺れ動く。

 技の張り合いからネットを貼らずに、難しい技にいどみ、男性スターは転落して、重傷をおう。この落下の場面も迫力があった。女は自分の意地のせいでケガを負わせたと罪意識が高まっていく。退院して戻ってくると、一命は取り留めたものの、片腕は麻痺したまま、再起は不可能になっていた。ライバル関係にあるサーカス団に移籍するとうそぶいたが、隠していた片手が動かないことがわかると、女は引きとめ今まで以上に寄り添おうとする。ボスも裏方での仕事を用意してやった。

 テントをたたみ、猛獣を貨物列車に乗せ、列車で次の町に移動中に、強奪事件と事故が重なって脱線し、ボスは瀕死の重傷を負う。列車の転覆も迫力あるシーンだった。このとき女は我がことのように動揺し、ボスが自分の最愛の相手であることに気づく。難しい血液型だったが、恋敵の男がたまたま同一であり、輸血を申し出て、一命を取り留める。女は人が変わったようにボスの仕事を受け継ぐ。生き残った人と動物を使って、サーカスを再開することを、使命でもあるかのように奔走するのだった。プレイボーイはその献身的な姿をみて、身を引く決意をする。顔には出さないボスほどに、恋人を失う痛みはないようにみえた。サーカスの再起はハッピーエンドで果たされた。

 何頭ものゾウが連なって演じる芸は、どれだけの調教時間が費やされたかと思わせるほど、みごとなものだった。リチャード・アヴェドンのよく知られるファッション写真を連想した。映像に定着することで、滅びつつあるサーカス文化の記録映画としても永遠の価値を高めるものとなった。その悲哀の構造は、ながらく画家のモチーフとしても生命を維持してきたものだった。ピエロの存在は、猛獣以上に重要なものだ。ここでも化粧を落とさないピエロが登場する。素顔を見せない訳ありの謎が、物語をスリリングにしている。

 俳優名ははじめの名列には出ていたのだろうが、その人物の顔写真がはさまれるシーンがある。どう見ても映画スターのブロマイド写真だった。あれっと思う一瞬だ。ジェームス・スチュアートなのだが、ヒッチコックのサスペンスでおなじみの顔だった。せっかくの美男も台無しにされていた。殺人犯として警察から追われる外科医だったが、ボスの緊急をようする輸血に一働きをする大事な役柄でもある。列車に乗り合わせて逮捕の機会をうかがっていた刑事までもがその助手役を務めるというのが、心憎い演出だった。ボスはこの逃亡者をなんとか逃そうとしていたが、治療を終えると手錠をはめられて連行されていった。

第166回 2023年4月23日

地上より永遠に1953

 フレッド・ジンネマン監督作品、アメリカ映画。原題はFrom Here to Eternity。アカデミー作品賞はじめ8部門を受賞。日米開戦前夜の話だが、それがわかるのは真珠湾攻撃が突然はじまってからのことだ。日本とは何の関係もない話だと見ていたが、零戦が上空を飛びはじめて、急に身を乗り出して、他人事には思えなくなってくる。予備知識があれば、はじめから身構えていただろうが、そうではないから、ここがハワイであることさえ、思ってもいなかった。

 上官の妻と浜辺で抱き合う下士官の姿を見て、ハワイであるなら、確かにロマンチックだったのだと、あとで知ることになる。軍隊での話なので、どこと戦闘状態にあるかは、当然気をつけているべきことだった。アメリカ映画だと多くはヨーロッパ戦線でドイツが悪役として登場する。ここでは酒と女にしか興味のない軍隊生活を映し出していて、主人公の若い兵士を演じるモンゴメリー・クリフトとその友人役のフランク・シナトラも、その上官役の曹長バートランカスターも、給料が入ると酒場で遊び、火遊びを楽しむことに余念がない。

 上官の妻の身の上を聞いて、下士官は結婚を思い描くようになるが、将校になることという条件を出される。若い兵士も酒場で働く女に夢中になり、結婚を考えはじめる。障壁を乗り越えてのハッピーエンドが期待されるが、ともに女の願いには従わずに、軍隊生活に戻っていく。最後は裏切られた二人の女がアメリカ本土へと向かう船のデッキにいて語り合っていた。ひとりは不実な夫との元の鞘にもどった。ひとりはハワイで稼いだ資金をもって故郷に帰り、堅実な結婚と生活をめざした。男は兵隊以外に稼ぐ道はなかったが、女はこの職業を嫌っていたようにみえる。

 実らない恋の理由は、ともに男たちの軍隊への執着のゆえだった。ことに日本の奇襲攻撃に出くわしてからは、戦わねばならないという愛国心のようにさえみえる。兵士は軍隊内部での暴力の犠牲になった友の仇を打ち、殺人者として軍から追われる身だった。元ボクサーであり腕には自信があった。女の実家に身を潜めていたが、防戦がはじまると軍に戻ろうとする。女は引きとめるが、戦うために戻るのだから受け入れてくれるものと確信していた。アロハシャツのままで軍服も着ていない。不審がられたが制止を聞かずに走り続けて撃ち殺されてしまう。下士官はこの兵士の死に立ち合ったが、以前から愛する女のことは聞いており、自分と似た境遇に身を置き、共感をいだいていた。

 将校になって愛を成就するという約束を断念したとき、人妻はあなたの結婚相手は軍隊なのねと語った。将校として組織を指揮するのではなく、下士官として兵卒との交流を維持し続けたかったのである。個人的な幸福よりも、国家の存亡へと目を向ける引き金が、日米開戦だったのかと思わせる。映画制作がされたのは戦後のことなので、戦意高揚の映画ではないはずだが、日本での戦後民主主義に根ざした自由の概念とは異なった風土を感じさせるものとなった。もちろん「自由」の概念を日本に植え付けたのはアメリカではあったのだが、、、。

第160回 2023年4月17日

マーティ1955

 デルバート・マン監督作品、アメリカ映画、原題はMarty。アカデミー作品賞をはじめ4部門を受賞。肉のかたまりを肩にかついで運ぶところから映画ははじまる。肉屋を営む34歳のマーティが結婚ができそうになるまでの話。主演はアーネスト・ボーグナイン、体型も容姿も誇れるものはないが、人間味あふれる演技が輝いていて、美しくもある。職業に貴賎はないというのが民主主義のルールだが、肉屋は職業の序列としては、血に汚れたものを扱っているので、忌み嫌われていたことがわかってくる。相手のクララは29歳の高校の女性教師、ニューヨーク大学を卒業したインテリだが、婚期を逸して両親と住んでいる。男は6人の兄弟姉妹がいるが、自分だけがひとり結婚ができずに、母親と暮らしている。ともに容姿には自信がない。ダンスパーティに行っても、いつもみじめな気分で帰ってくる。

 女のほうは医者との出会いをまわりのものがお膳立てするが、パーティ会場で相手が別の女に目が移り、肩透かしをくってしまう。ことの成り行きを見ていたマーティが近づいていくのがきっかけで、互いに身の上を語りあい、心を通わせあう。夜遅くまでいっしょにいて、マーティは自宅にまで誘いキスをせまるが拒否される。自信をなくして落ち込むが、次の日の約束をすることができた。日曜日なのでミサが終わったあと2時半に電話をすることにしていた。娘はからだを許すことはなかったが、約束を心待ちにしていることを、今日の出来事とあわせて両親に話す。遅い帰宅に両親はすでに寝室にいた。肉屋と聞いて父親は怪訝な顔をするが、ふだん無口な娘が饒舌に話す幸せそうな顔を見ると、明日になって電話がかかってくるのを、母親は祈っている。うぶな娘が遊ばれているのではという不安がよぎっていることも確かだ。

 マーティの母には姉がいて、そこに同居する甥っ子夫婦が訪ねてきていた。嫁と母の折り合いが悪く、大きな家で二人で暮らしているのなら、母を預かってくれないかというのである。マーティに相談すると、来てもらったらと、優しさにあふれるひとつ返事だった。母はマーティの結婚を望んでいたが、その日出会った娘については、器量が良くない(私はそうは思わないが)ことや、夜遅くついてきたことや、大学出は娼婦と同じだなどの苦言を呈した。学問は毛嫌いしているようで、大阪の商家でも勉強するとアホになるとよく言っていたものだ。イタリア系にもこだわったことから、一家は移民の家族であることがわかる。言われてみれば母も子もイタリア人の顔立ちをしているようだが、日本人にはよくわからない。姉の苦悩が自分にも降りかかってきた。嫁には同じイタリア系がいいと思っているようである。

 遊び好きのマーティの仲間も、別にもっといい女がいると言わんばかりに、この恋愛を認めようとはしない。無視されて四面楚歌のなかで、約束の電話もしないまま夜を迎えていた。娘は自宅で電話の鳴るのを待っている。両親とテレビを見ている姿が映し出されるが、ともに上の空で不安な気分がただよっている。悲しい最後だなと思ったとたん、仲間と酒場にいたマーティは、身をひるがえして、電話口に向かった。クララという名が聞こえた(正確には字幕がみえた)ので娘が出たことはわかるが、顔も写さないままジ・エンドの文字が入った。結ばれるにはこの先、まだ前途多難だろうが、希望を感じ取ることのできる心地よいエンディングになっていた。

第169回 2023年4月27日

80日間世界一周1956

 マイケル・アンダーソン監督作品、ジュール・ヴェルヌ原作。アメリカ映画、原題はAround the World in 80 Days。アカデミー作品賞はじめ5部門で受賞。大英帝国の崩壊が間近に近づいている1870年頃のロンドンでの話である。はじめに同原作者によるメリエスの無声映画「月世界旅行」がしばらく流れたあとで、旅行の話題が続き、80日で世界一周ができるかと、仲間うちでのギャンブルから、全財産をかけてこの無謀にチャレンジする男がいた。新しい召使いを雇い入れて旅に出る。

 パリからマルセイユまでを鉄道で、そのあと船旅を予定するが、トラブルでフランスを気球で南下することになる。パリの街並みを気球に乗って上空から撮影したダゲールを思い起こすものだ。風に吹かれて降り立ったのはスペインで、踊り好きで身の軽い召使いが一働きをすることになる。闘牛士の真似ごとまでして、観る者の観光気分を楽しませてくれる。

 スエズ運河を通ってインドに向かうが、そこでは葬祭に巻き込まれ、夫の死にともなって人身御供にされようとする若き妻を助ける。ここでも召使いが大活躍をする。娘はその後世界一周に同行することになる。インドを脱出してからは香港をへて横浜に着く。日本の描きかたが興味深い。明治初年にあたるが、まだ日本人は髷(まげ)を結っていて江戸時代の気分が残っている。鎌倉の大仏と富士山が強調されているのは、日本のイメージとして欧米に定着したものなのだろう。子どもの遊びとして「とおりゃんせ」が挿入されていたのも印象的だった。

 ここまでが第一部で、太平洋を渡る長旅にあわせてインターミッションが入る。帆船はサンフランシスコに至るが、アメリカでは日本に比べると文明化のちがいが著しい。西部開拓史の非情に比べれば、日本は平和そのものなのだったのがよくわかる。大陸間鉄道は近代化の象徴で、原野を線路がどこまでも続いている。酒場に群れるなかには、ピアノ弾きが振り返るとフランク・.シナトラであったり、酒場女をよく見るとマリーネ・ディートリッヒだったりして、ハリウッド映画のサービス精神を楽しませてもらった。馬と矢により襲撃する先住民との銃撃戦や鉄橋の崩落は迫力に満ちたものだった。

 世界一周の旅でヨーロッパ人の目に映ったなはインドと日本とアメリカだったというのが興味深い。19世紀末という時代考証を経た解釈のおもしろさは、観光旅行という新しい時代の到来を予告するものだ。80日を過ぎてしまい、賭けをしていた全財産をなくしたとあきらめたとき、気づいたのが、日付変更線をまたいだことだった。世界一周をしないと実現しないラッキーな一日があるという落ちは、インドの姫を妻にむかえるというハッピーと相乗効果となって、映画としては長い3時間に及ぶ世界一周が終わった。あまりにも有名になったテーマ曲が聞こえると、今では航空機が目に浮かんでくる。

第170回 2023年4月28日

恋の手ほどき1958

 ヴィンセント・ミネリ監督作品、原題はGigi、コレット原作のミュージカル映画。アカデミー作品賞はじめ10部門で受賞。ジジという名の少女が淑女へと変貌してゆく姿を、カメラが追っている。恋の手ほどきが教え込まれていくのだが、あまり功を奏したようにはみえない。舞台はパリ、着飾ったファッショナブルな社交界が写し出されている。アメリカ人はどこに行っても英語しかしゃべらないという皮肉をおもしろく聞いた。みんなフランス人なのにアメリカ映画なのでみんな英語をしゃべっているのを、棚に上げての揶揄に苦笑した。

 ジジには同居する祖母がいて、母親以上に親密な関係をもっている。母は売れない歌手のようで、一度も顔を見せない。歌う声だけが別室から聞こえてくるが、うるさいので祖母がいつもドアを閉めてしまう。祖母の妹がジジの教育係で、定期的に通って、淑女になるための訓練を受けている。大叔母が貴婦人にしようと教育に余念がないのは、何とかこの娘を玉の輿にのせたいがためである。著名な富豪の紳士ガストンが、この家に出入りしており、この少女を子ども扱いにして、遊び相手にしていたが、女らしくなっていくのを、ある日気づいて、見る目を変えていく。感情の行き違いもあって行きつ戻りつするが、最後はめでたく結婚にゴールインする。

 話の展開が波瀾万丈でドラマチックというわけでもなく、少女が成長して大富豪と結婚するという、ありふれた筋立てのようにしかみえないので、どこが見どころなのかを確かめるために、もう一度見ることにした。少なくとも高い評価を得た理由を、何とか自力で理解したいと思う。これでは感想文にもならない。

 2回目にしてわかったことがあった。かなりおもしろいのだ。注意して聞いていないと聞き流してしまう会話があるのだ。祖母の妹が語るセリフがあった。自分たちは結婚をしない人種なのだと言っている。これが実はキーワードなのだと考えると、これまでの不可思議が解決したように思った。気にも止めていなかったが、この家族には男性の姿が見えない。出てこないだけなのかと思っていたが、そうではないにちがいない。祖母と母と娘の三人がこの家には暮らしている。大叔母は一人暮らしのようだ。結婚をしないと子どもは生まれないというわけではないのだ。つまり彼女たちは全員、結婚をしない人種なのではないか。

 大叔母は宝石をたくさんもっていて、それを使ってジジに知識を植え付けている。これらはもらったもので、富豪や権力者の名があげられていた。葉巻の選び方も教えている。ジジは自分は吸わないというと、吸うのは殿方だという。つまりそういう教育なのだ。母親は習い事で歌の世界に入ってのめり込み、今も端役で目も出ない。祖母は憎々しげに習い事を嫌悪している。母親は声だけはしているが姿は見えないというのは、この家に男性が希薄だというのと、連動させて見せようとしているようだ。

 富豪の紳士がふらりとやってくる。ガストンはまだ若く30歳代の独身である。親しそうなので親戚なのかと思ったが、祖母との会話を聞いているとそうでもなさそうだ。ジジとも叔父と姪のように見えたが、それも違う。昔なじみであり、客なのだ。ごくふつうの町家であり、商売をしているふうではない。日本の花柳界のことを思い浮かべればと考えるが、その仕組みについて私はなにも知らない。あからさまな娼家であったなら、すぐに理解はできただろう。淫靡さもなければセクシャルなアイテムもなく、落ち着きのある安らぎと何気ない気品に満たされている。

 母は売れない歌手になることで、この人種のおきてを破ったが、娘もまた結婚をすることで、おきてを破ろうとしている。大叔母のようにさまざまな宝石を集めることができなくなってしまうのだ。しかしハッピーエンドとなって、祖母が喜んでいるところを見ると、このおきて破りは、けっして不幸なものではなかったようだ。大富豪はこれまで浮き名を流し、そのたびに新聞に書き立てられてきた。着飾った貴婦人にあきあきしていたのである。ジジの純朴さに喜びを感じ、そこに惹かれる自分に気づいたのだった。妻にむかえるという決断が、最後のセリフとなって映画は終わる。Finではなくthe Endだった。

第231回 2023年7月21

ベンハー1959

 ウィリアム・ワイラー監督作品、チャールトン・ヘストン主演、原題はBen-Hur。アカデミー賞作品賞をはじめ11部門で受賞。キリストの誕生から、磔刑までと歩調を合わせるように、ユダヤ人の青年ベンハーの苦難に満ちた歩みをたどる。ローマ帝国の支配下にあるエルサレムで、富豪の家系を引き継いだベンハーが、ローマ軍の指揮官になって戻ってきた旧友と再会し喜びあう。幼なじみのなつかしい思い出は共有していたが、支配者と被支配者とでは価値観は対立する。新しい総督が着任し、行進中に、屋上から身を乗り出して見ていて、あやまって瓦が剥がれて落下して、総督にあたる。妹をかばってベンハーが事情を説明するが、聞き遂げられず、反逆者とみなされ、ガレー船の奴隷として送られて、母と妹も囚われの身となる。友は事故だとわかっていてもかばおうとはしなかった。

 屈強な肉体に目をつけていたベンハーは、海戦で敵艦に襲撃されて沈没したとき、ローマ軍の長官を助けた。それ以前から長官は目をつけていて、剣闘士にならないかと誘ってもいた。漂流のあとローマ船に引き上げられ、命の恩人としてローマに連れてゆき、我が子のようにかわいがり、自分のあとを継がせようとまでした。馬術にもすぐれ、腕をあげるが、ベンハーはエルサレムに戻ることを希望し、長官もそれを許す。帰宅途上、四輪馬車の競走に情熱をもやすユダヤ人富豪に出会う。競技会があって優勝するのは例年ローマで、その騎手の名が今は敵となった旧友であることを知った。ここても名馬は育っていて、調教を待っていた。これならいけると確信したにちがいない、請われるままに競技会出場を決意する。

 4年ぶりに帰宅すると、家には使用人の父娘が住んでいた。母と妹は捕らわれたままで行方知れず、財産も没収されかけたが、かろうじて隠しおうせることができた。この娘は結婚が決まって父に連れられて主人に別れのあいさつに来たとき、ベンハーにみそめられていた。望んでゆく結婚ではなく、父との別れを惜しんでいた。ベンハーは他人の妻を奪った旧約聖書の王を引き合いに出して、今はそんな時代ではないといいながら娘の反応をみた。そのとき以来、心を通わせて、今も嫁がずに帰宅を待っていた。父のほうは捕らわれたときの暴行のあとが残り不自由な身になったが、収監中に出会った怪力の男をともない、3人で屋敷を守っていた。

 ベンハーは競馬の出場を伝えようと、ローマ軍に出向き、そこで司令官と顔を合わせる。ローマ軍長官の2世だというので顔を見るとベンハーであることに驚く。母と妹の行方を問いただすと、犯罪者のことなど覚えてはいないという返事だった。幼なじみで行き来していた頃は親しくつきあい、妹は好意をもち、あこがれをいだいていた存在だったはずだ。

 司令官の命を受けて部下の兵士が、母妹の消息を確認に出向く。地下牢に囚われていて、まだ生きているのは、置かれた食事がなくなっていることからわかるという回答だった。光のあたらない地下に降りていくと、ふたりとも業病にかかっていることがわかった。レプラだと思われるが、からだが崩れて見るも無惨な様相となり、人に伝染する。今ではハンセン病の名で呼ばれるものだ。ローマ時代にはキリストの祈りで奇跡的に治癒されたという話が伝わる。

 牢獄は消毒され、ふたりは牢から放逐される。行くすべもなく顔を隠しながら自宅にたどり着くと、使用人の娘が二人を目に止めた。ベンハーの無事も聞いて安堵するが、会おうとはしない。こんな姿を見せられないので、黙っていてくれと懇願し、業病の谷へと向かった。同じ病いの者が集まる、いわば隔離された姨捨山のことだった。娘は約束を守りベンハーにはふたりは死んだと伝えた。

 悲嘆にくれ復讐を誓って、競技会に情熱を燃やす。広い競技場が写し出され、競馬の場面はカーチェイスならぬ迫力に満ちたものだった。場内を9周をする競技だった。四頭立ての馬車をひとりで操縦し、ローマやユダヤなど10組に近いので、何十頭もの馬がいっせいに走り出す。CGはない時代なので、馬の調教を考えただけでも大変な撮影だったのだと察する。

 ローマは車輪の軸がドリルのように鋭く、近づいてきては、相手の車輪を壊してしまう。ベンハーとの一騎打ちになるが、鞭の打ち合いとなり、旧友は落馬して後続の車に引かれてしまう。ベンハーが勝利した。瀕死の旧友を見舞ったが、仲違いは解消することなく、友は息を引き取った。ベンハーは相手がつかんだ腕を引き離したが、それはまだ挑もうとする腕ではなくて、許しを乞う腕であったかもしれない。このとき母妹が生きていて業病だと知った。

 業病の谷を訪れて探しはじめると、自宅にいるはずの娘が食糧をもって訪れていた。食糧を置いて離れるとそれを取りにやってくる。ベンハーが近づこうとすると、付き添っていた怪力の男が制した。岩陰から母妹の姿を見ながら悲嘆にくれた。それでも救おうとしてふたりを連れ出すことになるのは、キリストとの出会いによるものだった。娘は救世主の訪れを信じてキリストのことばに耳を傾けていたが、ベンハーは信じてはいなかった。キリストの姿を見たとき、以前出会った人であることを知った。枯渇して死に瀕していたときに、一杯の水を飲ませてくれた人がいたが、その見知らぬ人に再会した。その時の見上げる目は神を見つめるそれだった。

 キリストのもとに二人を連れて行こうと決意したとき、キリストはローマ兵に捕まり、十字架を担いでいた。願いははたせなかったが、キリストがはりつけられた瞬間に雷鳴がとどろいて奇蹟が起きた。ふたりの体から病魔が消えていった。ベンハーがこれら三人の女性をだきかかえる姿があった。

 嘘のようなハッピーエンドではあるが、信じるか信じないかという問答に、その解答はあるのだろう。ながらく復讐の鬼になっていた男に、魂のやすらぎが戻った瞬間でもあった。汝の敵を愛するというのは、日本では三浦綾子が「氷点」で追求したが、常識とはかけ離れたキリスト教の論理である。ここでは、この信じ難い信仰が、ミラクルを呼ぶのだと教える話だった。敵はむかしは友だったというのは、古今の戦争をみるにつけ思いあたる真実だろう。このドラマがキリスト教にもとづく宗教劇だというのは、映画のプロローグがキリスト生誕までの長い光景からスタートしていたことからもわかる。

第171回 2023年4月29日

アパートの鍵貸します1960

 ビリー・ワイルダー監督作品、アメリカ映画、原題はTHE APARTMENT 。アカデミー作品賞はじめ5部門を受賞。ジャック・レモン、シャーリー・マクレーン主演。ジャック・レモン演じる保険会社のヒラ社員が、重役にまで昇進する話。仕事の能力はまったくないが、機転が効き愛想のいい正直な人間である。シリアスな内容なのでコメディにしておかないと、ひんしゅくを買うことになるだろう。アパートの自室を上司の浮気用に提供するという、とんでもないことをして出世をしていくサラリーマンである。

 交通便利で人目にもつかない。4人の課長が日替わりでそこを利用していた。かさならないように一本の鍵を使いまわしていた。曜日の調整も大変で、風邪もひけない。使用中は本人は外出していないといけないからだ。隣人からはレコードの音がうるさいや、女の出入りが激しく、品行が悪いなどと苦情が絶えない。さらに部長までが5人目の客として割り込んでくる。相手はエレベーター嬢だったが、この役をシャーリー・マクレーンが演じている。まぶしそうな目をしたチャーミングな女性である。

 主人公がこの娘に片想いをしていることから起こる騒動がスリリングでおもしろい。もちろん部長の愛人だとは知らないで、部長から部屋を提供する代わりに、不要になった舞台のチケットを払い下げられ、その娘を誘ってみる。彼女は約束があるからと断るが、8時半ならといい、劇場のロビーで会おうと言って別れた。部長には妻子があり、いつもは7時すぎの電車に乗ってかえるのだが、その日は離婚をほのめかして話が長引き、約束がすっぼかされてしまうことになった。

 部長には離婚をするつもりはなく、ただの遊びであることを、主人公は本音として聞かされていた。いさかいからコンパクトを投げつけられ、割れた鏡をみせながら苦笑してみせたのだった。のちの日にそのコンパクトを主人公は彼女から見せられるのだ。なにげなく出されたコンパクトを開くと鏡が割れていた。すべてを察することになり、落胆は一様ではない。彼女のほうも部長の悪いうわさを耳にする。何度も浮気を繰り返し、離婚をするといって引きとめるのは、常套手段であるらしい。

 クリスマスを前にして、部屋を部長に貸すが、家族へのプレゼントをもって先に帰ると、一人取り残された娘は、部屋にあった睡眠薬を衝動的に飲んでしまう。失意にあった主人公が、飲み歩いて帰宅したとき、彼女が寝ていた。自殺だとわかって大あわてをして、隣室は医者だったので助けを求める。一命は取り留めたが、医者は主人公の品行の悪さをとがめた。自分が悪人にならざるを得なくなったが、最愛の彼女とのふたりきりのクリスマスにもなった。スパゲティをつくってはしゃいでもいたが、彼女は部長を愛しているようで、別れきれないこともわかった。部長に会うように電話をするが、うまく処理してくれということだった。そのおかげでさらに出世をすることになる。

 はじめはデスクが無数に並ぶなかで仕事をしていたが、課長補佐に昇進すると、ガラス張りだが、ヒラ社員を見渡せる個室になった。それがさらに課長を飛び越えて、部長補佐になると完全な個室になった。それぞれが対比的に写し出されていて興味深い。高層ビルで上階になるほど地位は高くなるのである。

 映画は出世物語で終わるわけではなかった。部長は浮気を目撃していた秘書に裏切られて、妻に密告され、家を出てしまう。離婚することになったと娘に告げて、新年を祝うが、ここでどんでん返しが起こる。主人公は部屋の鍵を貸したくはなかった。まして愛する彼女が使うのはたえがたかった。じつは部長に退職を告げていたのだが、そのことを知ると部長が目を離しているすきに、娘はその場にはいなくなっていた。出世欲を捨てることで、もっと大事なものを得ることができたというさわやかな着地である。

第236回 2023年7月26

ウエスト・サイド物語1961

 ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンズ監督作品、アメリカのミュージカル映画、ナタリー・ウッド、リチャード・ベイマー主演。原題は、West Side Story。アカデミー作品賞はじめ10部門で受賞。ニューヨークのチンピラたちの縄張り争いを背景にしたラブストーリーである。ロメオとジュリエットを下敷きにしていて、バルコニーの場面も挿入されるが、大きく異なるのはジュリエットが生き残ることだ。生き残ることによって争い合うことの愚かさを、より明確に伝えようとしたようにみえる。主題をうわまわるダンスと歌が支えるミュージカルの魅力は、有無を言わさない。ダンス映画とみれば、主演はジュリエットの兄役のジョージ・チャキリスだろう。機敏な動きが、誰よりも輝きを放っていた。

 はじめに抽象絵画のような静止画が長く続き、バーンスタインの拡張高いオーケストレーションに魅了される。抽象絵画は空から見たニューヨーク島の高層ビル群であったことがわかるまでが序曲となっている。上空からのニューヨークは、カメラの目が降りてきて、路地での格闘技を思わせるダンスに移行する。

 ジェット団とシャーク団というふたつの不良グループは、アメリカにやってきた移民の子どもたちによる同胞意識に由来したもので、ニューヨークの吹き溜まりに暴力組織を築き上げていた。警察は監視しているがいつも手遅れだ。主人公のマリアはニューヨークにやってきたばかりで、兄がシャーク団のリーダーをしている。ダンスパーティで、この娘と運命的な出会いをするのが、もとジェット団にいて今は酒場の店員として働いているトニーで、いがみ合うグループのなかで愛を貫き通す。仲間のうちでマリアに心を寄せ、いつもエスコートをしている男がいた。チノという名で、彼の嫉妬をともなった復讐心が、のちに悲劇を生むことになる。雷に打たれたようなトニーとの出会いののちは、マリアには他のだれも見えてはいなかった。

 リーダーどおしで決闘をすることから、悲劇は動きはじめる。素手での申し合わせを破って、ナイフを握ったことから、トニーが仲裁に入ったが、マリアの兄はトニーに殴りかかってくる。仲裁に入ることのできる立場ではなかったということだ。マリアの願いを聞きとげて、駆けつけたのだったが、結果的にみるとヤブヘビになってしまった。マリアの兄が先に相手を刺してしまう。トニーを兄のように慕っていた間柄であり、思わずトニーはナイフをつかんで、勢いでマリアの兄を刺してしまったのである。二人は死に、パトカーの音とともに、仲間は散り散りになって逃げてゆく。

 マリアのもとに兄の訃報を知らせたのは、チノだった。殺したのがトニーだというとマリアは絶叫した。そのあとトニーがマリアの部屋に忍んでくる。激しくつかみかかるが、長くは続かなかった。兄を殺したと知っていても、愛がそれを上まわっていた。兄にはアニタという恋人がいたが、戻ってきて部屋のようすがおかしいことに気づいた。やっとドアが開いたとき、窓からトニーが逃げ去る姿を目撃した。愛する者を奪われる憎しみは、愛する者の心の葛藤も理解していた。

 警察がかぎつけてマリアを訪ねてくる。マリアはトニーとの逃亡を約束して、勤め先の酒場で落ち合うことにしていた。警察に気づかれないようにカモフラージュしながら、アニタに代わりに行ってもらい、少し遅れるとの伝言を託した。酒場では地下にトニーが隠れていた。主人は逃亡のための資金を頼まれて、現金を引き出しに外に出ていた。アニタが訪れるとトニーの仲間たちがいて、会わそうとはしない。無理やりに進むと男たちは暴行をくわえはじめた。主人が戻り助けるとアニタは憤りを露わにして、チノが拳銃をもちだしてマリアを殺し、トニーを探しまわっていると言い残して去っていった。

 主人が地下に降りて金を手渡して、ためらいながらマリアの死についてトニーに伝えた。トニーは絶望の果て、外に飛び出して大声で、チノを呼び自分も殺してくれと言いながら駆け回った。そのとき警察の尋問を終えたマリアが駆けつけてトニーを呼び止めた。トニーは一瞬夢みるような目になったが、現実だとわかると駆け出した。同時にチノが現れて銃の引き金を引いた。トニーはマリアに抱かれて息絶えた。マリアは立ち上がってチノの手にした銃を奪った。シェークスピアに従えば、マリアは銃で自殺するのだと思ったが、そうではなく駆けつけた警察の前で、泣き伏した。

 トニーの遺体を仲間の3人が運びはじめると、敵の2人が加わって手伝い、5人で運ぶことで、愚かな戦いの終わりを暗示した。その場にいた者が次々と去り、チノが警察に連れられゆく遠景で映画は締めくくられた。アニタがマリアに語ったことがあった。何も敵対する者を愛さなくても、仲間にもいい男はいるだろうにと。優しくエスコートしていたチノを指してのことばだったのだろう。

 運命的な出会いがあるとすれば、確かに美男美女による絵になるカップルであるのかもしれないが、私にはチノの気持ちのほうが魂に強く反響していた。チノに運命的な出会いは、まずは感じないだろう。何度もみた映画だが、風采のあがらないこの脇役に目を凝らしたのが、今回の成果となった。仏像鑑賞でも同じで、はじめは本尊に目がいくが、やがては四隅にいる四天王像へ、さらに何度も見ていると、踏みつけられている邪鬼のほうがおもしろくなってくるものだ。

第233回 2023年723

アラビアのロレンス1962

 デヴィッド・リーン監督作品、ピーター・オトゥール主演、イギリス映画、原題はLawrence of Arabia。映画二本分、4時間に近い大作である。アカデミー作品賞をはじめ7部門で受賞。歴史的な経緯が予備知識としてなければ、前半の話の展開は理解しにくい。トルコによる支配から開放してアラブ民族が勝利を得るまでの物語である。ここで大きな働きをするのが、イギリス軍兵士ロレンスだった。働きとともにはじめ少尉であったのが、少佐から最終は大佐にまで昇進する。

 単身でアラブ民族のなかに飛び込んで、めざましい活躍によって信頼を勝ち取る。多数の部族間の対立もあり、部外者であることでかえって中立的立場を保つことがてきた。先頭に立って指揮を取るに至るのだが、非人道的行為も目立ち、英雄視される一方で批判的な冷笑も少なくない。軍服を燃やしてアラブ人に成り切ろうとしても、青い目は変えようはなかった。

 一度は仕事を退いて田舎暮らしを希望するが、すでに名声を得ていた。報道記者もその動向を負っていて、軍は聞き遂げなどしなかった。トルコ軍を駆逐しアラブが勝利した。その中心にいたにもかかわらず、功をなしたとたんに戦後処理の会議のなかで、顧みられることはなくなり、さみしく去ってゆく姿があった。平和な時代には英雄は不要な存在だった。会議にいたのは3人で、アラブの国王と軍服とスーツを着たイギリス人二人が、戦後の支配を画策していた。

 ロレンスははじめから変人と噂されてもいた。みずから手をかけて射殺する姿が繰り返され、非道とも思える感情の高まりは、突撃命令で捕虜をとるなという指令をだしている。つまり皆殺しにするという意味である。戦争犯罪としての視察も行われている。身近にいて親しくしていた少年が負傷したのを敵に捕まると拷問を受けるといって撃ち殺す場面や、殺人を犯した者は同様に殺されるというアラブの掟に従って、問答無用の粛清もみずからがおこなった。このときも相手はよく知った仲間だった。

 殺伐とした光景もはさまれるが、大自然のかたちつくるクリアな撮影テクニックも、見どころとしては満喫できるものだ。砂漠をゆくラクダの軍団は絵になるもので、灼熱の過酷な自然ではあるが、エキゾチックな映像美を生み出していた。同行した少年が砂漠の砂地獄に落ち込んで、溺れ死んでしまう場面があった。馬の代わりにラクダによる戦闘場面は、意外と速い足取りに驚くが、迫力を感じさせるものとなっていた。冒頭はオートバイの暴走場面で、交通事故死を映し出すことで、ロレンスの波乱に満ちた生涯を暗示させ、本編のはじまりへとつなげていた。

 そもそもがイギリスがあいだに入る必要はないのだが、イスラム圏との戦いは十字軍の時代から引き継がれてきたものでもある。ここでは戦闘機や大砲を配備したトルコの近代的軍事に対して、アラブのラクダや馬の騎馬兵が立ち向かうという時代錯誤がある。それでも内陸からの奇襲作戦が成功して、海に向いて立つ大砲が使われることなく終わる姿が、虚しく映し出されていた。本来それは西洋が東洋を駆逐するためのものであったのだが、ここではイギリスが近代兵器を用いて全面的に戦争に参加しているわけではないという図式がある。

 アラブに同化したロレンスという特異なイギリス人がいたおかげで、これまでの戦争映画とは一線を画した映画が実現したということになるのだろう。馬とラクダが入り乱れた死闘は、日本の戦国絵巻を思わせるような兵馬による群像劇となっていた。西部劇で培われた撮影術といってもよいか。ラクダが暗示する異国情緒は、オリエントというこの地域が、西洋人にとっても聖地であり、キリスト教にねざした西洋文化のルーツであるという点で、死守すべき砦でもあったのだ。

第234回 2023年724

マイ・フェア・レディ1964

 ジョージ・キューカー監督作品、オードリー・ヘプバーン、レックス・ハリソン主演、アメリカのミュージカル映画、原題はMy Fair Lady。アカデミー作品賞ほか8部門を受賞。音声学の教授が街の花売り娘を、社交界に通用する貴婦人に育てる話。冒頭で登場する可憐な花のイメージとは対極にある花売り娘である。下品なしゃべり方がだんだんと矯正され、洗練されてゆくプロセスが見どころだ。最終的には舞踏会の席皇太子からダンスの相手に誘われるまでに至り、成功を喜ぶ姿があった。それに先立って初めての他流試合となった競馬場でのリハーサルでは、墓穴を掘ってしまったが、はじまりは音声学を身につければ、今のみじめな生活を脱することができるという期待からだった。はじめての出会いで軽くあしらわれた娘は、教授のもとに乗り込んで、授業料を払うのでレディにしてくれと頼む。教授は興味をいだいて育ててみようと思いはじめる。独身だったがメイドを何人もかかえる富裕な生活で、書斎も立派だ。授業料が必要なわけではない。

 まずは風呂に入れて衣服を着替えさせるところからはじめ、発音の矯正へと進めていった。快適な部屋も用意された。いつも出入りをしている友人の大佐がいて、興味をもち、よき相談相手になっている。発音だけでなく口汚ないスラングも少なくなっていったが、競馬場では興奮すると、我を忘れて失敗し、ひんしゅくを買うことになった。華やかなファッションで飾られた競馬場でのダンスシーンは、ストップモーションを用いてミュージカルとしての見せ場でもある。そこには教授の母親もきていて、引き合わされていた。運転免許でいえば路上に出た頃の話だが、庶民的な物言いに興味をもった貴公子がいて、見染められ求婚をされるが、教授は知っていてつまらない男だと軽蔑している。

 舞踏会の席では教授の教え子だという男が現れた。音声学で名を挙げており、偽りのレディを摘発するのに情熱を燃やしている。デビューで話題をさらっているこの娘に近づこうとするのを教授がさえぎるが、食い下がり最後は賭けに出て、ダンスの相手として娘を預けてしまう。しばらくして小声でうわさが広がりはじめている。教授は不安げにながめているが、小声がまわってきて、自分の耳にも入った。突然大声で笑いはじめたので驚くが、勝利を告げる雄叫びだったようだ。あまりに完璧な英語だったので、イギリスの貴婦人ではなく、デンマークの王女だという判断をくだしたのだった。イギリス人ならそんな完璧な英語はしゃべれないというのである。確かに笑えるジョークだ。

 帰宅して勝ち誇って教授は浮かれていたが、喜び会う家人たちをよそに、本人は浮かぬ顔をしていた。教授とふたりになったときに、爆発して泣きはじめた。自分はただの人形に過ぎなかったという思いからの涙だった。教授の産物であって自分には人格さえなかった。レディと言われても教授にとってはいつまでも花売り娘でしかなかったのだ。大佐はちゃんとレディとして見てくれていると不満をぶつけた。頼りない求婚者と結婚すればいい、好きなのなら大佐とでもいいと言いはなつと、娘は家を出て行ってしまった。

 教授はいらだちを残したまま、母親の家を訪ねると、そこに娘はきていた。またふたりのいさかいがはじまり、再度娘はたんかを切って出ていった。母親はよくやったと娘を応援している。教授は傷心をいだいて帰宅して、正直になって、娘がいなくなったことを嘆いている。娘のこの家にきたときの録音を聞いていると、娘がそっと戻ってきた。教授は椅子に沈み込んで、顔を背けて帽子で隠したが、声は喜びに変わっていたようだった。余韻を残す粋なラストシーンである。

 お互いが惹かれていることは見ている方もわかっているのに、どこまで引き伸ばすのかといらだちを感じるのは、現代の鑑賞者の反応なのかもしれない。昭和の美意識はふたりの意地の張り合いを時間をかけて楽しんだにちがいない。私も母親と映画館で見た記憶があるが、小学生がそこまで読み込んでいたとは思えない。オードリーの美貌を、初恋の相手のように、放心状態でながめていたはずだ。

 ミュージカル映画なので、何度見ても聴き慣れた歌が出てくると、それだけで楽しくなってくる。ミュージカル俳優ではないので、そんなに歌はうまいはずはないのだが、吹き替えであったとしても、演奏者もいないのにバックミュージックが聞こえるのと同じで、違和感は感じなかった。スペインでは平原に雨が降るという何度も出てくるフレーズは、耳にこびりついてしまう。英語を勉強するのによい教材で、発音を練習するのに繰り返し聞いて、覚え込んだ覚えがある

235回 2023年725

サウンド・オブ・ミュージック1965

 ロバート・ワイズ監督作品、ジュリー・アンドリュース主演、アメリカのミュージカル映画、原題はThe Sound of Music。アカデミー作品賞はじめ5部門で受賞。落ちこぼれの修道女マリアが家庭教師となって子ども7人と父親からなるトラップ家に挑む奮闘記録。ナチの圧政下で弾圧を受けるオーストリアのザルツブルクでの話である。はじまりは霧の晴れたアルプスの山々を飛行機でゆっくりと映し出しているが、低空飛行になると平原でひとり歌いながら踊る娘が登場する。大自然に魅せられて修道院に戻るのも忘れてしまった修道女だった。あわてて戻って僧服に着替えて、院長に呼ばれると日頃の態度をたしなめられ、ここを出て家庭教師に行かないかとの提案がなされる。退役した大佐の家庭で妻が亡くなって、7人の子どもがいるというのだ。修道院には向かないのを自分でも感じていて、バスを乗りついで訪ねると、執事が出てくるような大邸宅だった。手には小さなバックとギターをかかえていた。

 大佐は厳格で笛を鳴らして動物を調教するようにして、子どもたちに号令をかけていた。これまで家庭教師は何度もやめていったようで、前の先生は2時間しか続かなかったのだという。父親には抵抗があるが、子どもには自信があった。すぐに名前を覚えてそれぞれの子どもを観察している。母親が死んでまだ間がないことは、下の子が幼児であることからもわかる。長女は16歳で一つ年上の郵便配達の少年とのあいだに愛が芽生えていた。父親に電報が届けられるとそわそわとして夕食の席を外して、そっと出ていった。遅くまで話し込みダンスもして時間を過ごした。おまけに雷雨にあい、鍵がかけられてしまって、窓が開いていた家庭教師の部屋から入り込んで、秘密が知られてしまう。雷が鳴るたびにひとりずつマリアのもとにやってきて、全員が集まった。騒ぎを聞きつけて父親が現れて叱責する。長女の不在も問いただされるが、マリアがかばってやった。

 マリアは子どもたちの信頼をえた。父親は厳格ではあるがみんな父が好きだった。仕事で家を空けることが多く、規律を守るよう言い置いて出ていった。父親の留守のあいだに、子どもたちの心を開く手段は音楽だった。それはのちに父親の心も開いていく。ドレミの歌をはじめ、親しみやすい子ども向けの曲から、ドイツの占領下で故国オーストリアの抵抗を鼓舞するエーデルワイスに託した歌曲、さらにはラブソングと、3本だてのメロディがこの映画の基調をなしている。父親が長期間家を空けるのは仕事だけではなかった。愛人がいたようで、未亡人となった富裕な夫人との付き合いがはじまっていた。カーテンをそろえの衣服に改造して、山に誘い出してコーラスの練習をしている。子どもたちがコーラスをマスターした頃に、その夫人と資産家の友人を案内して父親が帰宅した。

 マリアの自由な教育方針に不満を抱くが、子どもたちの歌声を聞いたとき、忘れてしまっていた感性を取り戻したようだった。ギターを奏でてエーデルワイスの曲を歌うまでに至る。マリアには修道院に戻るよう言い渡していた。マリアも新しい妻がくるので、自分は必要ないと判断した。出ていこうとするのを引き止められた。音楽でやすらぎを取り戻してくれたからだった。マリアはホッとして喜びをにじませていた。子どもたちとの日々が続き、大掛かりなパーティーが開かれ、多くの来客が訪れた。マリオネットも披露され、子どもたちも得意満々だった。友人は例年の合唱コンクールを取り仕切っていたが、トラップ家の合唱団を推薦することを決めた。大佐はマリアを誘ってダンスを始めている。婚約者がそれを見つめながら、ふたりの関係にただならぬ予感を抱きはじめている。女の勘はそれとなくマリアに謎をかけてみる。ふたりは愛しあっているようだと言ってみた。マリアは我に返って、ここにいるべきではないと判断する。修道院に戻りたいという書き置きを残して家を去った。ここまでが前半である。

 後半のはじまりはマリアの立ち位置に婚約者がいて、子どもたちとボール遊びをしている。マリアは修道院に戻り、悶々としている。子どもたちが訪ねてくるが、会えずじまいで帰っていった。婚約者は子どもたちの相手をするのだが、持て余している。父親は母親になる人だと紹介するのだが、子どもたちは親愛のポーズはとるが、空々しいものだった。ある日、会いたいと念じていた子どもたちのもとに、マリアが戻ってくる。院長に諭されてのことだった。マリアは吹っ切れていたが、大佐から正式に婚約者を紹介されると動揺は隠せない。大佐はずっといてくれるかと聞いた。答えは新しい家庭教師が見つかるまでというしかなかった。子どもたちとは以前のような楽しい日々が戻っていた。大佐はベランダでぼんやりと外をながめている。視線の先にはマリアがうつむきながら歩いているのが写されている。婚約者が近づいてきて、それを見とどける。沈黙が続いてのち、大佐は顔を曇らせて口火を切り、婚約を解除したいといった。婚約者は予感していたようで、冷静に受け止めて、去る決意をした。

 マリアとの結婚式が写されるが、ハッピーエンドとはならなかった。大佐のもとに召集令状がとどく。反ナチの立場を取ることへの報復措置だった。戦地に送って亡き者にしようとする意図が読み取れた。占領下ではオーストリア人にもドイツからの召集がかかる。その日は晴れの合唱コンクールの当日だったが、大佐は家族を連れて脱出しようとした。静かに車を押しながら家を出たところに、逃亡を監視するドイツ軍が潜んでいて、どこに行くのかと尋問を受ける。とっさにコンクールに行くところだったと答えた。対応したのは昔の仲間だったが、今はドイツ軍に属し、大佐とは敵対している。ウクライナにも親ロシア派のウクライナ人がいるのと同様である。コンクールがすむまで待つと譲歩した。

 各地の聖歌隊を押さえて、トラップ一家が優勝を勝ち取った。審査発表で司会者が3位、2位に続いて優勝者の名を呼ぶのだが、だれも登壇してこなかった。逃げ出したとわかってドイツ軍は追いかける。修道院に逃げ込んで、かくまわれるが、追跡の手が伸びてくる。しらみつぶしに探している。声を潜ませて物陰にうずくまっている。隠れおうせたかと思ったとき、見つけたのは長女の恋人だった。郵便局をやめて従軍していた。ナチに魅せられた若者は多い。マスコミを操作するプロパガンダの勝利だった。拳銃を構えるが、大佐はひるむことなく近づいていき、ナチの非道を説いて、一緒に逃げようと誘う。銃を取り上げたとたんに、大声をあげて上官に知らせた。大佐たちは院長が用意してくれていた車で逃げた。2人の修道女が罪を犯しましたといって、見ると車のエンジンの部品を手にしていた。ナチに追いつかれることはなかったようで、アルプスの尾根づたいを歩いて進むトラップ一家が写し出されて、映画は終わる。アルプスの晴れ渡った青空は、重苦しい時代を背景にしながら、新しい家族が力強く新天地をめざす希望を伝えるものだった。

第173回 2023年5月1日

わが命つきるとも1966

 フレッド・ジンネマン監督作品、アメリカ映画、原題はA Man for All Seasons。アカデミー作品賞はじめ6部門で受賞。トマス・モアの伝記映画である。信念を曲げず反逆罪で処刑されるまでの姿を追う。16世紀、王の絶対権力の前で、イギリスに民主主義が根づくにはほど遠い時代であるが、言論の自由を貫いて礎を築いてきたこのような人物のいたおかげで、今日があるのだということがよくわかる。宗教上の教義はあるにせよ、国王の離婚に反対をしただけのことである。国王の横暴と狂気もよく表わされていたし、それにこびる臣下や宗教勢力も、昔ながらあい変わらずの権力下の構造だった。家族のことを思えば、そんなに意地を張らずにイエスの一言ですむものなのにと思ってしまう。モアは王に従うのではなく神に従ったのだという。

 イギリスにとっては重要人物だろうが、日本人にとっては、たいして興味を引く人物ではないかもしれない。ヘンリー8世やクロムウェルなど、聞き覚えのある人名も世界史の教科書どまりのものだし、トマス・モアについては「ユートピア」の著者として、おうむ返しに覚えているだけで、その業績の何たるかは興味の対照になっていない。アカデミー賞での評価を通して、あらためてこの人物の偉大を確認することになる。

 法廷での有罪を導くかつての友人の逆恨みによる偽証も、史実をうわまわるほどに劇的であり、ドラマを完結させるためには、クロムウェルとともに必須の対抗キャラクターとなった。欲に目がくらみ、主人公を引き立てる悪役としては、シェイクスピア劇の文法にそったもので、知られざるシェイクスピア戯曲の映画化をめざした王道のようにさえみえた。

 オーソン・ウェルズの巨体が、特異な存在感を示す枢機卿役で登場するが、ホルバインの肖像画に親しんでいると、トマス・モアの容姿も含めて、まるで絵から抜け出てきたようなリアリティを楽しむことができた。あるいはリアリティをも超えて、教会の腐敗を象徴する戯画的アイテムにもみえる。法廷でトマスの述べる長ゼリフは、意味を正確に把握するには予備知識が必要だが、格調高く、場内に響き渡る名調子は、説得力をもって聞きほれることのできるものだった。それにしてもトマスだけではない、簡単に首をはねられる時代なのに驚く。この蛮行は少しつまずけば、今もそんなに変わってはいないものだろう。

第177回 2023年5月5日

オリバー1969

 キャロル・リード監督作品、マーク・レスター主演、ディッケンズ原作のアメリカ映画、原題はOliver!。ミュージカルの映画化である。アカデミー作品賞はじめ6部門を受賞。孤児院で育った子どもが、幸せを手に入れるまでの話。あどけなさの残る美少年が輝きを放っている。奴隷のように売買される身のうえである。オリバーという名をもち、聡明な子であったが、スリの子どもと知り合い、仲間にされていく。そこには身寄りのない何十人もの子どもがスリの訓練を受けていた。老人がひとり子どもたちを統括して、教え込んでいたが、その日の稼ぎはみんな巻き上げられていた。さらにそのうえに凶暴なリーダーがいて、全体を仕切っている。

 子どもたち三人が組になってスリを働くのだが、ふたりが財布を抜き取って逃げ、新米のオリバーだけが取り残されて、つかまってしまう。現場に居合わせた紳士がオリバーの潔白を証明して救い出し、自宅に連れ帰る。そこまでが前半でインターミッションが入るが、話の展開はゆったりとしていて、歌や踊りを見せ場として、ミュージカルの醍醐味を味合わせる。

 後半になるとテンポの速いスリリングな展開が続く。ハラハラとさせる場面が目まぐるしく、みごたえが加速する。はじまりの場面では、前半の貧困の生活とは一転して、ふかふかのベットで眠るオリバーの姿があった。紳士の家で生活をするようになったのだとわかるが、泥棒仲間はオリバーの口から組織が明るみにでることを恐れて、力づくで取り戻そうとする。リーダーとその愛人が誘拐を計画するが、女のほうはオリバーの幸せな姿をみると、そのままにしてやりたいと思っている。

 紳士には家出をして行方不明になった姪がいた。可愛がっていたようで、部屋には若い頃の肖像がかかっている。オリバーに似ていることから、この孤児を引き取ることになったようだ。娘は孤児院で子どもを産み落としたのだという事情がわかってくるが、詳しいことは語られないままである。聞いていてはっとして、ひょっとするとと思わせる場面である。

 使いを頼まれてお金を届けに、町に出たオリバーを、無理やりに車に乗せて誘拐は成功する。家ではオリバーが帰ってこないので、金を持ち逃げしたとも、噂されていた。仲間たちはオリバーが帰ってきたことを喜んでいる。リーダーは逃げないように凶暴な番犬に見張らせている。リーダーの愛人は、この粗暴な男に惹かれて指示にしたがっている反面、何とかしてオリバーを救い出そうとする。酒場での大騒ぎにまぎれてオリバーを連れ出すが、勘づかれてしまい、リーダーは恋人の裏切りに凶暴性を増して、衝動的に女を殺してしまう。このとき飼い慣らされていた番犬が、言うことを聞かなくなってしまうのは、主人の狂気を感じたためだっただろうか。凶暴なはずの犬が、急に「人間的」になってしまう「演技」がおもしろく、みどころになっている。

 男はオリバーを人質にして、小脇にかかえるようにして逃げはじめる。犬を見つけた群衆は、この犬を追うことで犯人にたどり着くことになる。最後は警官の発砲によって、リーダーは撃ち殺されるが、空中で宙づりになったまま、死んでしまう映像は迫力に満ちている。スリの老教師は隠し持っていた金銀財宝を、逃走中に泥の水中に落として、無一文になって肩を落としていた。悪事から足を洗おうと思っていると、散り散りになって逃げていた子どものひとりが、老人を見つけて近づいてくる。自分が育て上げたテクニシャンのひとりだった。オリバーにはそれ以上の才能を感じていた。自分の仕事はこれしかないと、生きる意欲を取り戻し、ふたりが寄り添いながら歩む後ろ姿を写して映画は終わる。スリでさえ生きがいになるのだというペーソスを感じさせるユーモアで締めくくった。殺人の対極にある犯罪美の結晶は、芸術的でもあるのだ。

 オリバーは紳士の姪の子だったのだろうか。紳士はひとりもので財産が血筋に受け継がれるとみればめでたしめでたしなのだが、映画ではそんなことは一言もいっていなかったように思う。ただ姪に似ていただけだというほうが、奥行きのある豊かなストーリー展開となるだろう。もちろん原作を確かめてみる必要もあるが、映画が原作に忠実である必要もない。

第184回 2023年5月18日

パットン大戦車軍団1970

 フランクリン・シャフナー監督作品。アメリカ映画、原題はPatton。アカデミー作品賞はじめ七部門で受賞。アメリカ軍のパットン将軍の活躍を描いた戦争映画。星条旗をバックにした長い演説からはじまる。ドイツ占領下にあるアフリカからイタリア、フランスでは、アメリカ軍の活動があったが、とりわけ戦車軍団を率いたパットンの働きが際立っている。対するドイツ軍は名将ロンメルである。若い兵士を厳しく教育する姿は、非人間的で反発をいだかれるものだが、それによって死を未然に防ぐことができたのも事実である。野戦病院を見舞い、死者にひざまずく一方で、恐怖におびえる若い兵士を叱責し、殴りつけて前線に送るよう命じるパットンの姿は極悪非道にみえた。

 この非情が取りだたされると、マスコミからの厳しい批判を浴び、指導者としての地位が危ぶまれることにもなった。失脚しても意を曲げてはいないのに、頭を殴るのではなくてキスをすべきだったというジョークで対応したのは印象的だった。その後この兵士は勇士としての働きを残したという報告がなされていた。もちろん場合によれば、戦死の報告がされてもいいのだが、そのときには私たちの目にはまったく逆の思いが描かれてしまっただろう。危うい確信に支えられてのことだが、若い兵士を守るためには必要な手続きであったにちがいない。

 ピリピリとするような緊張感あふれる主演ジョージ・スコットの演技が際立っていた。時おり見せる笑顔が効果的で、軍人特有の人間臭をユーモアで香り豊かな機知に変貌させた。イギリスに招かれて婦人たちを前にしておこなった演説でのバーナード・ショウを引用してのジョークは気が利いている。イギリス人とアメリカ人は同一言語で意思疎通がはかられるが、仲良くならないのは同じ言語を使っているからだと切り返された。

 すぐれた戦術家としての秘訣が、古代からの歴史に負っているのだという信念も興味深い。アフリカでの任務でも、ドイツ軍に立ち向かう道をわきにはずれて、訪れたのは古代ローマの遺跡だった。カルタゴ時代のいにしえに想いを馳せて、戦術をねる詩人でもあった。人類はあいも変わらず殺しあいを繰り返しているという安堵にも似た普遍性と日常性を感じながら、風土の攻防を読み取っていく。戦場跡には風や香りのなかに戦いの記憶が残っていて、それを直感を働かせて嗅ぎ取ることが、戦略をめぐらす基本となるのだろう。軍人がいなくなることはあっても、警察官がいなくなることは、あまりにも危険な賭けのように思えるとすれば、この非情の指導者を否定できなくなってしまう。戦後になって生き延びた英雄は、戦勝国にとっても肩を落とした後ろ姿で描かれることになった。

第175回 2023年5月3日

シンドラーのリスト1993

 スティーヴン・スピルバーグ監督作品、アメリカ映画、原題はSchindler's List。アカデミー作品賞をはじめ7部門で受賞。3時間をこえる大作である。ひとりを救う者が世界を救うということばが印象的だった。車を売っていればもう10人救うことができたとシンドラーは涙ながらに言った。救われた1100人の一人ひとりが、墓に石を手向ける姿は、ドラマではない。実写であって、この映画が伝えるものを明確に写し出していた。

 ユダヤ人を救うという明確な意図ははじめからあったのだろうか。軍需産業によってナチスドイツを支える経営者が、まず考えたのは利益だった。アメリカに亡命した優秀なユダヤ人の知性が、アメリカに富をもたらしたのと同じで、それを利用するということがはじまりだったはずだ。生産性をあげるために彼らが必要だという考えが、やがて隠れ蓑になっていく。最後には生産性がゼロになったが、そのとき戦争は終わった。シンドラーもまた戦争犯罪者となった。ユダヤ人迫害に対する怒りは、全面にこだましている。ゲーム感覚でユダヤ人を撃ち殺すショッキングな場面が、繰り返し何気なくはさまるたびに、この思いは強められる。

 時代錯誤のモノクロ映画なのに赤いコートを着た少女が歩いている。ライフル銃の標的のように見える。有名なシーンだが、何度見ても美しい。その歩く軌跡を追いながら、見失いまた見つけ出す。その後赤いコートのゆくえが気になりながら、いつのまにか忘れ去って、モノクロのまま映画は終わる。あまり気にして見てはいなかったが、最後の墓参の場面はカラーの映像だったように思う。もちろん見直せばすぐにわかることだが、鮮明な印象が記憶に残っているということが重要だ。