1955~59年

第405回 2024年3月3日 

野郎どもと女たち1955

 ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ監督作品、原題はGuys and Dolls、ゴールデングローブ賞作品賞、主演女優賞(ジーン・シモンズ)受賞。フランク・シナトラとマーロン・ブランドが共演する、ニューヨークを舞台にしたミュージカル映画である。悪に手を染める博打うち二人が、結婚に至るまでの展開を、ドタバタ喜劇として追っている。

 一方はチンピラ二人を加えた三人組のアニキ分にあたる男(ネイサン・デトロイト)で、賭博場を開いて客からの参加料を稼いでいる。警察の締め付けが厳しくて、警部補(ブラニガン)が目を光らせ、賭博のできる場所がどんどん少なくなっていく。恋人(アデレイド)もいるが酒場の歌手で、14年越しの付き合いだが、まだ結婚もしないままだ。女は男がバクチをやめるまでは、結婚はしないと言っている。実家の親には、この男と結婚をして、5人も子どもがいると偽っている。

 もうひとりは一匹狼の博打うち(スカイ・マスタースン)で、先の男と賭けをする。教会組織の伝道所に属し、第一線で働く娘(サラ・ブラウン)に取り入って良い仲になって、ハバナにまで遊びに行けるかに、1000ドルを賭けている。娘は街から賭け事をなくそうと立ち上がっていて、その組織の急先鋒であり、軍曹という役職をもっている。堅物なので、ヤクザものと付き合うわけはないと見ての賭けだった。娘に近づいて、何とか仲良くなろうとする経過が、みどころとなっている。1000ドルは、それがなければ、賭博場を借り出して運営ができなくなる数字で、どうしても手に入れたいものだった。

 軍服のようなそろいの赤いユニフォームを着て、太鼓を伴った鳴り物入りで、町をねり歩き、キャンペーンをしている。娘が善行をすすめる街頭演説をすると、その前に屋台を張って、あやしげな商品を、通りがかりの人に売りつけて、嫌がらせがされている。教会のことばに耳を貸そうとした者も、そちらになびいてしまい、営業妨害された伝道所の一団は場所を移動している。集会をしても人が集まらず、本部からは閉鎖の通知をもらっている。男が娘の気を引こうと言い寄るのは、罪人仲間を12人集めて、集会に連れてくるという約束からだった。

 娘ははじめ相手にしていなかったが、この男が意外と聖書の知識があり、出典のまちがった記述を指摘してもいて、聖書は12回も読んだと言っている。これによって、いちもく置き出した。気を許してしまうのは、集会への動員と引き換えに出された交換条件をのんで、ハバナに同行して、娘がミルクを注文したときだった。

 しだいに口がなめらかになってくるのは、アルコールが混じっていたせいだ。口当たりがよいので相手の分まで飲み、さらに、お代わりまでしている。酔っぱらって今まで経験したこともない恋愛気分を味わうことになる。これまで抑圧されてきた女心をさらけ出して、男にからんでいる。ダンス場では大乱闘になるが、軍曹はさすがに勇ましく強かった。男は冷静で、今ならまだ最終便に間にあうと、時間を気にしている。

 深夜に帰宅すると往来でキャンペーンに出ていた伝道仲間たちに出くわす。このとき留守にしていた伝道所が、賭博場として使われていたことを知る。犯人が逃げたあと警察がやってきて、娘は尋問を受けている。ヤクザものといっしょにいたことで、不審がられている。この男も賭博者なのだが、今回は目をそらせるおとり役にまわったのだと、警部補はにらんだ。それを聞くと娘も誤解をして、自分がだまされたのだと気づき、男と決裂した。

 それでも男は、娘との約束をはたそうとして、博打仲間を教会の集会に誘うが、反応を示すものはいない。イチかバチかのギャンブルに打って出る。負ければ男は全員に1000ドルを出すが、勝てばみんなが集会にゆくという賭けだった。娘は男を遠ざけたものの、メランコリーにとらわれている。同じ伝道師である叔父がそのようすを、そばで気づかいながら、姪の恋心を言いあてていた。当日夜の集会の時間が来たが、伝道所には誰も集まっていない。

 本部からの女性の幹部(カートライト将軍)が来ていて、現状を確認してこの支部の閉鎖を決定しようとしたとき、男に誘われて仲間が続々と入ってくる。12人どころではなく、満席になって集会がはじまる。男はひとりそれに加わらず、町を去ると言って出ていった。愛をなくして失意の末の判断だったのだろう。途中で警部補が顔を見せ、先日の賭博犯の捜査にやってきた。集会に出ている男たちを指差して娘に問うと、はじめてみる顔で、知らない人たちだととぼけてくれた。

 リーダー格のアニキ分は着々と賭博場の準備を進めていた。シカゴからゲストも招いて大掛かりな計画だったが、1000ドルのあてはまだ確実ではなかった。警察の目を逃れて、下水道に集まってもいた。伝道師たちのパレードを窓越しにのぞいていたが、娘がいないし、いつも娘の尻を追いかけている男もいないのがわかると、落胆して気絶してしまった。1000ドルはあきらめたが、伝道所に目をつけたのも、このことからの思いつきだったのだろう。

 胸に赤いバラをつけて酒場で集まっていたときがあった。警部補が現れてあやしむが、仲間が機転を効かせて、この集まりはアニキの結婚式を控えての相談だと言い逃れた。それを聞きつけると、フィアンセは大喜びをし、親にはどう連絡しようかと悩んでいる。男はまじめな顔をして、14年前の日付けで知らせればいいと答えている。男も博打ではなく、結婚の打ち合わせであればよかったのにと、思いはじめていたにちがいない。

 罪人が集まって、伝道所での集会は成功した。男たちは正直に懺悔をしている。アニキも懺悔をし、男との賭けについても告白した。1000ドルの賭けをしていて、相手は負けたと言ったというのだ。娘は確かにいっしょにハバナの夜を楽しんでいて、勝っているはずだった。それを聞いて娘は、まだ続いている集会をあとにして、男を追っていった。不安を残したまま、日が明けると、二組の結婚式が祝われていた。男は見つけ出されて引き戻されたということだ。ハッピーエンドは、もう一人の男も、14年をかけてやっとギャンブルから足を洗ったということになる。

第406回 2024年3月4

七年目の浮気1955

 ビリー・ワイルダー監督作品、トム・イーウェル、マリリン・モンロー主演のアメリカのラブコメディ、原題はThe Seven Year Itch、ゴールデングローブ賞主演男優賞受賞。妄想家の男(リチャード)が、結婚七年目の浮気に取り憑かれることになる。ニューヨークのマンハッタン島では夏の暑い期間、亭主を残して家族は長期の避暑に出かける。その期間、男たちは仕事に励むが、家族から解放され、浮気心を起こすことも少なくない

 この慣習は500年前の先住民がいた頃から引き継がれたものだ。主人公もまた期待に胸をふくらませる。5歳の子どもをつれて、妻は列車で旅立つ。夜の10時には電話をすると言い残していた。妻が電話をよこしてくる心理分析もされている。夫は現在38歳で、コンビニに置く25セントの小説本を扱う小さな出版社に勤め、部長の地位にある。社長も同じように、つかのまの独身生活を楽しんで、はめをはずそうとしている。小心者の主人公は、妄想をいだくのが、精一杯だった。妻を相手に自分がどれだけ言い寄られてきたかを自慢している。今も勤務先の秘書がそそぐ視線を迷惑がるのだが、妻は夫の話を受け流して、相手にもしていない。

 彼らは一軒家に住んでいるが、3世帯の他人がそれぞれの階で区切られて、同居していた。1階部分を占有しているが、2階の住人がしばらく不在となり、短期間だが金髪の美女が引っ越してきた。玄関は一つだが、中はプライベートが保たれている。はじめて玄関で出くわし心をときめかした。主人公がソファでくつろいでいて、席を立った瞬間に、上から植木鉢が落ちてきた。少し遅れていれば頭を直撃していただろう。手すりから顔を出して謝ったのは、彼女だった。男は降りてきて一杯どうかと、顔を見るなり思わず誘っていた。10時に電話がかかってくるのが、いまいましい。

 クーラーの効いた快適な部屋を気に入った娘は、暑苦しい2階に戻ろうとはしない。1階には階段があり、もとは2階とつながっていたが、部屋貸しをするので、今はふさがれている。娘は自由に行き来できるように、床をはがしてしまった。クーラーの前で、胸をはだけて涼む姿も気になるが、男と親しくなって映画を見に行った帰りに、地下の通気口から吹き出す風に、スカートがめくれあがる場面も、有名な古典的ショットとなったものだ。こだわりのないおおらかさは、この女優の輝きをなすものだろう。

 女はCM女優だと言っていて、テレビに出ているようで、警戒心はなく誘いには簡単に乗ってくる。男の妄想はさまざまに羽ばたいているが、いざとなると躊躇してしまう。来ると言った娘がなかなか降りてこない。音楽も用意して、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番で行こうと考えている。残念ながら女にはクラシックの趣味はなかった。子どもの引くピアノの連弾を楽しむことになった。男は医者から禁酒禁煙を言われて、ながらく従ってきたが、簡単に禁を犯してしまっていた。

 臆病な性格だったが、ピアノを並んで弾き終えたとき、急にオオカミになって襲いかかり、唇を奪おうとする。女にかわされるととたんに猫になってしまい、おとなしく引き下がる。妄想は、セクシャルなものにとどまらず、娘が歯磨き粉のコマーシャルで、テレビに自分を名指しであげて、告発するのを思い浮かべておびえている。

 はじめは若い娘と愛をかわす妄想だった。「地上より永遠に」のバート・ランカスター役にもなっていた。やがてそれが重荷となって脅迫感をともなって苦しめられる妄想へ、さらには避暑地に行った妻がアバンチュールを楽しんでいるのではないかという妄想へと広がる。干し草の上で、たくましい男にだかれて妻は寝そべっている。不安になった主人公は、2週間の休暇を取って、妻のもとに出かけて行った。金髪の美女は留守を守ることになった。結局は浮気にもならなかったのである。

第407回 2024年3月5

ピクニック1955

 ジョシュア・ローガン監督作品、ウィリアム・ホールデン、キム・ノヴァク主演、原題はPicnic、アカデミー賞美術賞、編集賞、ゴールデングローブ賞監督賞受賞。大学時代の友人を頼ってやってきた男が、友人の恋人と恋仲になってしまい、そこから起こる悲劇を描いている。主人公(ハル・カーター)は一文ももたなかった。貨物列車でやってきて、貨物列車で去っていく。庭のある家に目をつけて、ドアベルを鳴らし、庭のそうじをさせてくれと言っている。老婦人の一人住まいだったようで、腹を減らせているのを見抜いて、朝食に誘った。

 親切を感謝して、庭そうじをはじめるが、汚れたシャツを着ていたので、洗濯をしてやっている。この青年に好意をもったようだ。着替えることもなく上半身裸で作業をはじめると、もの珍しそうに隣家の住人がながめている。隣りに住むのは、女ばかりで母(フロー・オウェンズ)と二人の娘、それに間借りをしている、婚期を逃した独身の高校教師(ローズマリー・シドニー)だった。娘二人は肉体美に魅せられているが、母親と教師は、その非常識な姿に、嫌悪感をのぞかせている。父親はいないようだ。

 友人(アラン・ベンソン)は大会社の息子で、男はこの会社で働けないかと、頼ってきたのだった。旧友は再会を喜び、簡単に承諾して、大工場を案内している。男を気に入った老婦人は二人が大学の同窓であるのを聞くと、不思議がっている。男の経歴は少しずつ明かされていく。父親は飲んだくれで、貧困家庭だった。14歳で盗みをはたらいて、施設に入れられるが、フットボールの才能があったようで、大学に入ることができ、奨学金も手にした。友人は自身の軟弱さに比べて、野生的な友の姿に惹かれたのだろう。それがそのまま隣家の娘たちにもアピールした。

 はじめは妹(ミリー)の遊び相手として、冗談を言い合う仲になる。姉(マッジ)のような美人ではないので、コンプレックスをいだいて反抗的だったが、男の積極的な誘導にしたがううちに、恋心を芽生えさせたようにみえる。男のほうは子どもとしてしか見ていない。姉は美人なのでちやほやされるのに慣れているが、母親が妹のほうに優しいのは不満だ。母が述懐するには姉は両親がそろっていて愛が注がれたが、妹が生まれた頃に父親は家庭を捨てて去ってしまい、彼女はかわいそうな育ち方をしたのだという。

 波乱は年中行事としておこなわれている、村の若者たちが集まる「ピクニック」で起こった。男女が関係を深めるお祭りだが、娘のいる家でも着飾って参加する。主人公も友人に誘われている。男はこれまで、そんな社交の場に出たこともないのでためらうが、隣家の妹のエスコートが割り当てられた。姉は恋人であった社長の御曹司に付き添われて、例年競われるコンテストで、女王の座を仕留めようとしている。友人は娘に言い寄るが、娘はあまりうれしそうではない。目では主人公を追っているようで、主人公もまたこの娘が気にかかっている。妹といっしょにいても、ときおり憂鬱な表情を浮かべていた。

 夜を通して恋人たちが誕生する、お祭り独特の興奮気味の不思議な気分が漂っている。高校教師は営業に来る文房具店の独身者(ハワード・ベヴィンス)とカップルとなっていて、高揚したはてに結婚にまでたどりつく。出かけるときは、嫌っていたのに、いつのまにか打ち解けている。女のほうは別れがたいが、男のほうは酔いが醒めようとしている。男は帰宅しようとするが、女は結婚を迫り、承諾するまで帰してはくれない。とにかく明日の朝に話し合おうといって、その場を離れた。女のほうは同僚教師に声をかけて、結婚の準備をし、朝になって男が、やはり一人がいいと思い直して、断りを入れるつもりが、有無を言わさず、新婚旅行の車に乗せられていた。

 この文房具店の主人のもとに、昨夜主人公がやってきていた。警察から追われ、この文房具店に逃げ込んできたのだった。その経緯は次のとおりだ。主人公が姉と離れられなくなって、ふたりして闇に隠れている。フィアンセは憤り、母親も引き離そうとする。粗暴な男といっしょにいても、幸せにはなれないという親心からだった。財産家に娘を嫁がせたいという打算もあった。主人公は友人から借りていた車に、姉を乗せて逃げるが、とんでもないことをやっているという思いは、ふたりともにあった。娘は母親のことを思うと躊躇し、男も借りている車を返しに、いったん別れる。

 友人宅に着くと警察が呼ばれていた。友人は盗難車として主人公を訴えていた。そこで一悶着あって、主人公が警官の制止を振り切って逃げていく。友人の父は逮捕しないようにと、警察に願い出るが、パトカーは追いかけていった。逃げきれずに撃たれて死ぬのではと思った。主人公が逃げ込んだのは、銀行の隣だと聞いていた文房具店だった。店主は女教師から結婚を迫られ、苦悶している。主人公を前にして、ひとりで気楽にやってきた喜びを語り聞かせている。結婚をして苦労をする必要などないという考えに、主人公も同調したようにみえた。

 次の朝、教師に会いにいく店主の車に同乗する。警察から追われるなか、娘に最後の別れを告げようと訪れると、娘は悲嘆にくれていた。顔をあわすと意志はくじかれ、愛は再燃する。男はいっしょに逃げようというが、娘は愛しているとはいうものの、ためらいを示している。母親は娘をとどめようとする。隣家の老婦人は愛するふたりが結ばれるのを期待している。妹も恋敵のようにみえた姉を、はじめ嫌ったが、自分には恋愛など無関係だと割り切ると、ふたりを応援する側にまわっていた。

 男は姉に決断を迫るが、踏ん切りがつかない。行き先の町の名を告げ、そこのホテルで働くので、ぜいたくはできないがついてきてくれと懇願する。貨物列車が通り過ぎようとしている。男はあきらめて、娘を残して列車に飛び乗った。悲しい別れだと思った。母親はほっとしたかもしれないが、それが果たして娘のしあわせなのかと、自問もしていただろう。娘は考えた末に、男を追うことを決意して荷づくりをし、母親を置いて長距離バスに乗り込んでいた。愛の勝利というエンディングなのだが、それは苦難のはじまりの言い換えのことだったかもしれない。

第408回 2024年3月6

夫婦善哉1955

 豊田四郎監督作品、織田作之助原作、森繁久彌、淡島千景主演、毎日映画コンクール男優主演賞、ブルーリボン賞男優・女優主演賞受賞。大阪は船場の大きな商家の道楽息子(維康柳吉)が、芸者(蝶子)と駆け落ちをしての喜怒哀楽の顛末が描かれる。跡取り息子だったが親からは勘当され、金を無心にゆくが手に入らない。妻子がいたが、親の勧めで結婚はしたものの愛はなかった。妻は病弱で長らく別居しているようだ。一人娘がいて、置いてでたのが気にかかっている。娘のほうも母親から女の悪口は聞いているが、父親には会いたがっていた。

 女には欲はなく、だらしのない男をよく辛抱をして支えている。しっかり者の頼りがいのある元芸者の役を淡島千景が好演をしている。働きもせず遊び呆ける若だんなを演じる森繁久彌との絶妙のやり取りが見逃せない。悪いとは知りつつも、女の通帳から金を引き出して遊びに行く。女は二人で店でも開こうと貯めていた金なので怒り狂うが、男は叩かれるままに、痛い痛いと言って逃げている。暴力を振るうことはなく、弱腰なのでいつも許してしまうようだ。

 男はなんとか親の財産を手に入れようとする。思いついたのは、勘当を解いてもらい、女と別れて家に戻るという芝居をうつことだった。つじつまは合わせておいだはずだった。女のもとに店の大番頭が手切金をもって訪れるのだが、女は受け取らずに拒絶した。昔の商売仲間に相談すると、それは男が別れたがっているからだと忠告していたからだった。男は不機嫌で戻ってきて、金を二重取りできたのにと腹を立てている。

 女は水商売に戻って、器量と持ち前の愛想のよさで資金をため、関東炊きの店を開くことができた。男が妹から手に入れた金一封もつぎ込まれた。男は食い道楽で味にはうるさかった。仕事をおもしろがっているようで。ふたりは協力することで繁盛した。店に出る日が続いたので、気晴らしに遊んでくるよう言われて、男は勇んで出かけるはずが、着替えに二階に上がったきり、いつまでも降りてこない。見に行くと腹が痛いと言って倒れていた。大病で緊急の入院となり、金の工面に男の実家を訪ねるが、冷たい返事が返ってきた。女は自力で乗り越えようと決意した。

 家では長男を勘当していたので、妹(筆子)に婿養子(京一)をもらって店を継がせることにしていた。大学出のインテリだったが、細かいことにこだわり、従業員には厳しく目を光らせていた。その下にいた番頭(長助)が、窮屈がって主人公に味方をし、情報提供にやってきていた。妻の金を持ち出して、二人で飲み歩いてもいる。そのうち家に戻れば、大番頭を追い出して、お前をそのあとにしてやると甘い話を持ち掛けている。この番頭はその後、店の金を使い込んで追い払われてしまうことになる。

 入院中に妹が、主人公の娘を連れて見舞いにやってきた。女が対応するが、妹は感じのよい女性で、勘当したはずの父も心配していることを伝えた。女はうれしくなるが、娘は顔をそむけていた。結局は父親に会わないまま帰っていった。患っていた実家の妻が死ぬと、男は葬儀に戻るが、女はまたしても男が行ったままになるのではと心配する。

 引き続いてそのあと父親が亡くなる。女は父親の生きている間に、二人の仲を認めてほしかった。父親の臨終に間に合うように、いっしょに行きたかったが、男が拒否した。伝えてもらうよう念を押したが、男はそれもしなかった。このときも男はまだ父の遺産をあてにしていたのだ。男はなかなか帰ってこなかった。女にはもはや親の財産に興味はなく、男が帰ってくるだけでうれしかった。

 愛する娘に引き止められているのではないかとあんじた。女は娘を引き取ろうと提案したことがあった。男はうれしくなって、実家に出向き、娘を誘い出して、意志を確かめるが、娘の打算は裕福な実家での暮らしを選んでいた。母親と祖父をなくして、娘はいづらくなるはずだったが、親が思うほどには娘に愛情は伝わることはなく、ドライで損得を割り切って考えたようである。二人でしんみりと寄り添いながら歩いていると、婿養子が芸者を連れての忍び歩きに出くわしてもいた。

 法善寺横丁やお百度参り、ふたつお椀で食べる「みよとぜんざい」や自由軒の混ぜカレーを、夫婦ふたりで食べる光景は、大阪情緒を堪能できる、懐かしい風物詩となっていた。なぜこんな男と駆け落ちをする気になったのか、不思議でもある。あかんたれのしゃべる大阪弁の温かみのある口調に、ほのぼのとした時代の平安を感じ取ることができる。愛妻のことをオバハンと呼ぶのもいい。織田作之助の心優しき弱者礼賛が心に沁み入る。

第409回 2024年3月7

ジャイアンツ1955

 ジョージ・スティーヴンス監督作品、アカデミー賞監督賞受賞 、原題はGiant、ロック・ハドソン、エリザベス・テイラー、ジェームズ・ディーン主演。アメリカのテキサスを舞台に繰りひろげる人間模様。馬の買い付けに東部にまでやってきた牧場主(ジョーダン・ベネディクト2世)が、名家の娘(レズリー)と出会うところから話はスタートする。たがいに一目ぼれをして引かれあったようで、娘には決まった男性がいたが、この男と急接近して結婚をして、連れ帰ることになった。娘が乗っていた愛馬も買い取るが、名馬であったが荒馬で、乗りこなすのが困難だった。妹がいて姉のフィアンセは、私に譲ってもらうと言っている。単身テキサスの嫁になって、異なった価値観に戸惑いながらもなじもうとする。

 牧場は姉と弟が中心になって経営していたが、とんでもない広大な土地をもち、広野を突っ切る鉄道では、一族のファミリーネームが駅名に用いられていた。姉(ラズ)はやり手であり、雇っているメキシコ人を、うまく使いながら切り盛りをしていた。弟の嫁はスペイン語を話せないので、現地のメキシコ人を使えないとみくびっていた。嫁は姉に対抗心を燃やせている。

 使用人のひとりにメキシコ人ではない白人青年(ジェット・リンク)がいて、ジェームス・ディーンが演じている。姉からは信頼を得ているが、弟は嫌っている。反抗的態度から弟によって追い出されたはずだったが、馬の買い付けから帰ってきても、姉が引き留めていたようで、弟はまだいたのかという顔をしている。

 メキシコ人への差別と偏見は、夫と同じだったが、青年には虐げられた者への同情は強かった。先祖代々の土地が安い値段で、権力者に掠奪されていった恨みを語り、新妻もそれに同調し、心を通いあわせた。彼女をこれまで見たこともない美人だと、あからさまに恋心を伝えている。ジープで自宅まで送り届けることになり、途中でメキシコ人従業員の居住地を訪れたとき、彼女は高熱で苦しむ幼児の看病をしている。遅くなり帰宅すると医者が来ていて、子どもの診察に行くよう依頼している。夫は寄り道をとがめ、そんなところに足を踏み入れないよう言い渡した。青年との接触も快く思ってはいない。

 医者が来ていたのは、姉が荒馬を乗りこなそうとして落馬したからだった。打ちどころが悪く、亡くなってしまう。姉は弟の妻への対抗心から、乗りこなそうとしたのだった。弟は荒馬を買い付けたことを悔やんで、怒りからその場で馬を射殺した。妻へは馬が骨折していたからと、射殺のいいわけをしている。はじまりの燃えるような恋心は、現実を前に試練を迎えていく。

 青年はかばってくれていた姉の死で、追い出されることになる。姉の遺言でいくらかの土地を与えられることになるが、土地を分割されるのを嫌った弟は、地価の二倍の額を渡そうとするが、青年は土地の譲渡に執着した。わずかな土地だったが、家を建てて住み、やがてそこから石油が噴き出す。原油にまみれたまま、かつて主人宅に駆けつけている。一泡吹かせるつもりだったのだろう。黒人のようになった顔をみせると、それは肌の色をこえて、もたらされた幸運だったことを教えるものだ。富を得て石油王となり、青年実業家として名を馳せていく。空港やホテルまで建設して、雇い主を超える地位を得ることになった。

 牧場主夫妻には男女の子どもが生まれ、女の子は母と同じ名をつけられた。成長して、かつて使用人であった青年が、偉大なる巨人になっていくサクセスストーリーに、憧れをいだいて近づいていく。男のほうも恋心をいだいた女性の娘だと思うと感慨深く対している。雇い主を見返すチャンスだと思ったのか、大がかりなパーティに家族全員を招待した。

 息子は親のあとを継がずに医学の道を志していた。幼い頃、父に無理矢理に乗馬させられて、泣き叫んでいた。同じ年頃のメキシコ人の子どもが、そのあとみごとに馬を乗りこなす姿があった。幼児の時、妻が看護をして命を救った子である。勇敢な若者に育ったメキシコ人は、従軍をして戦死をし、遺体は故郷に戻り讃えられた。真珠湾攻撃からはじまった日本との戦いの時代である。

 息子はメキシコ人を妻にしたが、生まれた子どもも肌の色が異なっていた。招待されたパーティ前に、妻はホテルの美容院に行くが、露骨な人種差別を受け、その後レストランでもメキシコ人お断りという偏見に出くわし、父と息子は一族の名において、差別に挑みかかるが、ともに打ちのめされることになる。

 それを妻はたのもしい目で見ていた。あれだけ強かったメキシコ人への差別意識がなくなった姿を認めることになる。二人の肌の色のちがう孫が、保育器に並んで立つ姿を誇らしくみている、培われたおとなの視点がある。アメリカがかかえるさまざまな問題を、具体的な事件を見せながら、民主主義の国家に成長していく、ジャイアンツの歩みが回顧されているとみてよいだろう。

第410回 2024年3月8

王様と私1956

 ウォルター・ラング監督作品、アメリカのミュージカル映画、原題はThe King and I、デボラ・カー、ユル・ブリンナー主演、アカデミー賞主演男優賞をはじめ5部門で受賞。シャムの国王のもとに英国からやってきた女家庭教師(アンナ)の奮闘記。近代国家にしようとして英語教育を、自分の子どもたちに、身につけさせようとしてのことだった。

 生まれた子どもの人数は67人だとも100人以上だとも言っている。同年齢の腹違いの兄弟がたくさんいるということになる。ひとりひとり登場し、紹介されていく場面は、現代の感覚からすると想像を絶するが、あり得なくもない実感をともなっている。家庭教師は軍人の将校の妻だったが、夫は亡くなり、ひとり息子(ルイス)を連れての船旅だった。高給が支給され、王宮のわきに専用の家屋も建てる約束だったが、教師は約束を守らない国王にもひるまず、要求を通していく。

 国王のわがままな暴君ぶりに、誰もが振りまわされている。前近代的な姿にあきれながらも、子どもたちは素直で礼儀正しく育てられていた。女教師は正確な世界情勢を教えようと、最新の世界地図をかかげると、子どもたちはシャムの小ささに驚きの声をあげている。英語だけではなくて、人間教育に踏み込もうとするリベラルな態度は、王に怒りを引き起こさせるものでもあったが、王はじょじょに教師を、対等の人格として認めはじめていく。

 ビルマから貢ぎ物として、国王に美女が贈られてきた。連れてきた使者とこの娘とは、じつは約束をかわした仲だった。夜にまぎれて男子禁制の後宮に、身を潜めるのを教師が見つけて、二人を引き合わせてやった。その後ふたりは手を取り合って逃亡するが、女は捕まって群れ戻される。男のいどころは明かさなかったが、男はみずから命を絶ったことが伝えられた。

 理不尽な差別的な言動に耐えられなくなって、女教師は本国に戻る決意をする。子どもたちが引きとめるが、意志は固かった。船の汽笛が聞こえる中、王が死に瀕していることが告げられ、王からの手紙をもらう。丁重な謝礼のことばが、愛情深く書かれていた。お別れに病床を訪ねると、まわりを大勢の妻子が取り囲んでいた。彼らを置いて立ち去ることができずにいる。息子が乗り遅れるのを心配するが、思い直してとどまることを告げる。子どもたちが喜びの声をあげるなか、王は息を引き取った。

 小国としての王の舵取りは、心痛の耐えないものだった。教師の力を借りてアメリカへはリンカーン大統領に手紙を書いている。イギリスから使節のもてなしでは、教師の知人も加わっていた。古くからの顔なじみ以上の間柄を感じ取ると、国王は嫉妬心からか、敬意を表しながらも、二人を引き離してもいる。

 国王が死を迎えるという意外な展開には、それまでそんな素振りを感じさせなかっただけに、唐突な印象が残る。ドラマとしての舌足らずは、ミュージカルとしての見どころで、充分に補われている。東洋文化の香りを残した踊りの振り付けや衣裳、とりわけスキンヘッドにしたユル・ブリンナーのエキゾチックなメーキャップのインパクトが、輝きを放っている。長く引き延ばされた舞踊劇や挿入歌「シャルウイダンス」に合わせての、主人公ふたりのデュエットの踊りは、それだけで完結した一個の作品であり、軽快なステップは記憶に鮮明に残るものだった。ラストの死の姿と、くっきりとした対比をなしている。

第411回 2024年3月9

追想1956

 アナトール・リトヴァク監督作品、アメリカ映画、原題はAnastasia、ユル・ブリンナー、イングリッド・バーグマン主演、アカデミー主演女優賞受賞。1917年にロシア革命が起こって王朝が滅び、旧貴族が殺されたり亡命した時代、膨大な財産に群がる欲望のゆくえを追う。殺害されたはずの皇女(アナスタシア)が生き残っているという情報を得て、かつてのロシア帝国将軍(ボーニン)が動きはじめる。彼女には父であるロシア皇帝(ニコライ2世)の莫大な遺産が残されていた。記憶喪失の娘(アンナ)を見つけ出て、そっくりな容姿から、ホンモノに仕立て上げて、遺産をわがものにする計画である。

 皇女についてのあらゆる情報を覚えさせて、公的な場にのぞませる。将軍は娘がニセモノだと信じているが、私たちは彼女の物腰や受け答えから、ひょっとするとホンモノではないのかという、あいまいな状態に置かれることになる。最終的な判断は身を隠している皇太后の目にゆだねられることになり、それに向けて準備を重ねていく。皇太后はこれまでも孫だと名乗った娘に接しており、偽物の横行にうんざりしていた。

 皇太后の面会はやっとのことで実現する。将軍の指導によって化けの皮がはがれないように細心の注意を払ってのぞむが、直感的に一目で見破られたようにみえた。娘は変な咳をしていて、気づかって尋ねられたとき、子どもの頃から咳をするのに決まって原因となる事情があることを話すと、皇太后は孫娘の記憶を蘇らせることになった。咳き込むことまで学習したものとは思えないことから、祖母は孫娘と確信して強くだきしめた。

 皇太后のもとにいた近親の貴族(ホール公)がこの娘を見初めており、結婚へと準備を進めていた。将軍はお膳立てをしたことで自分の仕事は終わったと、皇太后に別れを告げにいく。華々しい舞踏会の直前のことだった。娘を利用して遺産を手に入れようというもくろみは、娘がホンモノであることによって崩れ去ってしまった。皇太后は逃げるように立ち去ろうとする、将軍の本心を読み取って、この部屋にとどまるよう指示した。そのあと皇女と二人きりになって、相手は将軍でなくていいのかと、確かめている。

 婚約発表をおこなう晴れの舞踏会だった。化粧を整えるよう将軍を待たせている部屋にいくよう指示を与えて会場に向かった。はじまりのスピーチをすることになっていた。引き続いて入場するはずの皇女が、いつまでたっても現れなかった。功労者である将軍もその前から、姿を消していた。二人がいるはずの部屋には誰もいなかった。孫娘の幸せを願って、祖母は粋なはからいをしたことになる。

 皇太后は孫娘であることを確信したあとで、彼女に向かって、もしあなたが偽物であったとしても、それは隠しておいてくれという謎めいたセリフを残していた。このことによってまたしても私たちは、一から考え直すことになる。やはり彼女はニセモノだったのか。記憶喪失であった本人にも、本当のことはわからなかったはずだ。市井の娘であったなら、堅苦しい貴族社会よりも、愛しあう将軍と結ばれることが幸せなのだという判断はあるだろう。皇太后はスピーチでのあいさつを、祭りは終わったというセリフで締めくくろうと決めていた。それは貴族社会の終焉を意味するものだった。

第412回 2024年3月10

炎の人ゴッホ1956

 ヴィンセント・ミネリ監督作品、原題はLust for Life、カーク・ダグラス主演、アンソニー・クイン共演、アカデミー助演男優賞、ゴールデングローブ賞主演男優賞受賞。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの伝記映画である。偉人とは決して言えない人格だが、残された絵には前向きな希望と生命の喜びがみなぎっている。

 死は明るい光の中で起こるという、ゴッホ自身の作品解説を聞きながら、真実の声を聞き取った。明るい光の中で、田園風景にひとりだけいる人物を、死だと言っている。精神を侵された病室での創作だとすれば、不思議なこともないのだが、それにしては画面が明るすぎる。

 オランダに生まれ、はじまりは伝道師としての資格審査に通らない場面からだった。父親も牧師だったが、ひとりだけ受からなかったのは、学力だけではなく、もって生まれた性格の破綻による、対人関係の悪さにある。伝道師になりたいかと問われて、人の役に立ちたいと答えると、引き受け手がいなかったのだろう、炭鉱での勤務を紹介される。

 炭坑労働者を前に説教をするのだが、向いた職業とは思えない。酒場女と知り合いになるが、執拗に追い回し聖職者にはあるまじき醜態を演じている。絵画に目覚めてからは、子持ちの娼婦と同棲することにもなるが、女をモデルにしての、パンとコーヒーだけの貧困生活が続くと、女に見放されてしまった。

 画商の卵として仕事をはじめた弟(テオ)の支援を受けることで、絵画に邁進できることになる。弟は兄の作品を認めているが、売れることはなかった。ただ一点弟の手によって売れた報告がされるのは、ずいぶんとのちになってのことだ。多くの絵が弟の手もとに残っている。オランダを離れてパリに出ることによって、ゴーギャンをはじめとした先進的な画家との交流がはじまる。画面が明るくなるのは、時代の動向だが、傷つきやすい魂には、光明ともいえる救いを与えるものとなった。

 闇の中にも光を求め、帽子にロウソクをともしての夜景の制作は、狂気を含むものでもある。ロウソクの火で手を燃やすシーンも含めて、頻繁に絵画で登場する「ロウソク」は、ゴッホのキーワードとなるものだろう。もちろんそれは教会で用いる信仰のアイテムである。炎の人の象徴としてもふさわしいものだろう。熱いが倒れやすく、少しの風でも消えてしまう。

 さらにアルルへの旅立ちは、救いを求めての延長上にある。これも弟の支援によるものだった。定期的に生活費が送られてくる。ゴーギャンがやってきての共同生活に、最大限の期待をいだいたが、自我のぶつかり合いが、破綻を招くことになる。絶望が耳切り事件となり、恐れをなしてゴーギャンは去っていく。豪胆で親分肌のゴーギャンと、繊細で孤独なゴッホとの対比が、くっきりと浮かび上がっている。

 精神の錯乱はサンレミでの病院生活から、パリに戻り弟のもとで、新妻とも親しく接して、精神を落ち着かせる。その後、オーヴェールに向かい、絵画収集家としても知られるガシェ医師のもとで、治療を受けながら制作を続ける。そこでも発作の恐怖からは逃れられず、名作「カラスのいる麦畑」にみるような、不気味な死の予感をただよわせて、ピストル自殺をとげるに至った。

 油彩画デッサンが効果的にはさまれ、作家と作品の落差を、感じることになった。それは絵画が人格の生写しとなって、長期間描き続けたムンクやクリムトと対比をなすものだ。「生命への渇望」が一瞬にして炎となって燃えつき、作者を裏切ってしまったのだと思った。画家は人格破綻者として置き去りにされる姿はあわれだが、兄を信じ作品を保存して守り通した弟の、一心同体となった兄弟愛を感じ取れる映画でもあった。

第413回 2024年3月12

悪い種子1956

 マーヴィン・ルロイ監督作品、原題はThe Bad Seed、ゴールデングローブ賞助演女優賞受賞。犯罪者の遺伝子は子どもに受け継がれるかという問題を主題にした、深刻なミステリーである。実によくできた脚本で、最後まで目を離せない。最後の結末をどうつけるのかが、気になったが、犯罪者が勝利をもたらすことを避けるためには、ほかにもっていきようはなかっただろう。その後のサスペンス映画によく出てくる、締めくくりは誰にも知らせないようにという注意書きを入れることで、作品としての自信の表明をはたしている。

 軍人一家の家庭で、夫(ケネス・ペンマーク)は大佐で出張が多い。妻(クリスティーン)と8歳になる一人娘(ローダ)がいる。事件は夫が4週間の出張中に起こる。娘の通う小学校で9歳の少年(クロード)が、遠足中に溺れ死んだ。死体には殴られた傷があり、目撃者もいた。

 この娘と言い争いをしていたというのである。ふたりはともに優秀で、成績を争っていたが、娘は負けて賞品のメダルを手にいれることができなかった。母親は問いただすが、シラをきる。死亡した少年の母親(ホーテンス・デーグル)が酔った勢いで、乗り込んでくる。娘の母親はどう対処していいのかわからないまま、子を失った親の悲しみに理解を示している。

 娘の部屋の宝石箱からメダルが出てきた。母親は動揺するが、娘を追及すると、お金を出して貸してもらったのだと言い逃れをする。次に靴を隠し持って、焼却炉に運ぶのを見つけると、それで殴りつけたことは認めたが、少年がメダルを貸してくれなかったからだと言い訳をしている。平気な顔をして答える娘を見ながら、母親はわが子の異常な神経がどこからくるのかを理解できない。前の家でも隣人の不審な死に出くわしたことがあり、娘が関わっていたのではないかと、疑いはじめた。欲しいものを手に入れるためには、みさかいがなくなってしまう性格なのだと、母親は怖れをいだいている。

 庭掃除に雇われているが、性格的には少し問題のある男(リロイ)がいる。家族を養っているので、大家はしかたなく、この掃除夫を雇っている。娘がいつも意地悪をするのに腹を立てていて、仕返しの機会を狙っている。今回の事件は娘の犯罪ではないかと疑い、娘に謎かけをしてくる。誘導尋問に引っかかって、娘は靴を焼却したことを話してしまう。靴底にはタップ用の鉄が貼りつけられていて、それで殴ったので血がこびりついている。それが何よりの証拠だと脅してくる。この靴をはいてタップダンスのステップを踏む姿を記憶していた。焼却するのを見つけて、火を消し止め、靴は自分の手元にあるというのだ。

 ほんとうは靴は燃えてしまっていた。娘は何とかしなければならないと焦った末、マッチ棒を持ち出した。母親に火遊びをとがめられ、マッチ箱に戻したが、何本かをもっていた。掃除夫が地下室で昼寝をすることを知っていた娘は、火をつけて焼き殺してしまった。母親はこの娘を守ろうという気持ちの変化を見せはじめている。靴を焼却するのを見つけたときも、どう対処していいか分からず、焼き払うのを容認するにいたる。年端のいかない娘に備わった凶悪な性格はどこからきたのかを自問する。

 自分の幼児期の体験で空白の部分があって、父親が来たときに、問いただす。父は口ごもりながら告白したのは、娘は実の子ではなく、2歳のときに捨てられていたのを育てたということだった。父はミステリー作家で犯罪者の調査をすすめるなかで、凶悪犯が残した幼児と運命的な出会いをして、自分の娘にしたのだった。

 娘は産み落とした子に、悪い遺伝子を読み取り、拒絶できない呪われた血を引き受けようと思った。出した結論は娘を殺して自分も死ぬということだった。夫は不在だった。相談相手になったのは大家の老婦人だった。疲労を見届けてビタミン剤と睡眠薬の二瓶をもってきてくれた。娘にビタミン剤と称して睡眠薬を飲ませ、自身はピストル自殺をはかった。瓶の中身を入れ替えたのだろうが、ニ瓶が並べて置かれたとき、その後の展開で何かあるなと察した。

 結局は娘は生き延びて、母親だけが死んでしまった。娘が殺人鬼であることを知らないまま、父親は抱きかかえて喜びを示した。瀕死の病床から妻は夫に最後のことばを伝えたが、娘の血のことは語らなかった。自殺を詫びたが、夫はなぜ無理心中をはかったかは、不可解なままだった。妻の父親は心当たりがあって、担当医師に犯罪は遺伝するのかと、質問を投げかけた。医師は一蹴して否定した。そんなことなら誰も子どもを生もうとは思わないと言っている。娘は父親に友だちの名をあげて、その子の持っているものを欲しがっている。また犠牲者が出るという恐怖を与えたまま終わってしまうのかと思った。

 少年犯罪を考えたとき、環境がそんなに急速に凶悪犯を生み出すとは理解しがたい。そんなとき遺伝子を持ちだしてくることで、説明をつけようとする。単純な議論でわかりやすいのだが、これを容認することは、多くの危険を含んでいる。結論として天罰を与えること以外に思いつかないという、人間の知恵の限界がある。科学的な解明は可能なのかということも含めて、多くのことを考えさせてくれた。

第414回 2024年3月14

戦争と平和1956

 キング・ヴィダー監督作品、オードリー・ヘプバーン主演、ヘンリー・フォンダ 、メル・ファーラー共演、レフ・トルストイ原作、イタリア・アメリカ映画、英語名はWar and Peace、ゴールデングローブ賞外国映画賞受賞。ナポレオンが率いるフランス軍が、ロシアに攻め込み、モスクワは陥落するが、住民は逃げて、敵兵もいない。食料もなくフランス軍は、引き戻すしかない状況下での人間ドラマである。世間知らずの娘(ナターシャ)をめぐり、彼女を愛した三人の男との恋愛模様が下敷きにされながら、戦闘場面も見せ場になって、スペクタクルが展開していく。小男でずんぐりした、美男子とも思えないナポレオンも登場する。

 娘のもとに最初に現れる男(ピエール)は、反戦思想にもとづいてリベラルな立場を貫く、気品のある人物だった。一方で自暴自棄な性格で、短銃での決闘もしている。娘には兄のような存在で、恋愛というにはほど遠いものである。男のほうもまだ子どものような娘を、恋愛対象とは思っていない。彼は肉感的な魅力にひかれて、別の女と結婚をしてしまう。結婚をすることを打ち明けたときも、一瞬の驚きは示すが、たいして気に留めてはいない。

 妻は浮気女で、色香に溺れた愛のない結婚だった。見る目のない愚かさを恥じるが、その後も純真な娘のしあわせを願いながら、見守り続けていく。娘の一家は両親と兄と弟がいる。兄は結婚をしているが、軍人として兵役につき、父の手腕が築いた邸宅を離れている。まだ少年である弟もまた、愛国心から軍人をあこがれるのを、親は好ましく思っていない。

 娘を愛した2番目の男(アンドレイ)は、優れた軍人だった。りりしく勇敢な好人物で、たがいに一目惚れをしてしまう。社交の場を好まないはずが、舞踏会で出会い、息のあったみごとなデュエットを披露している。男の父は気位の高い身分で、娘の父親の世俗的な品行の悪さをあげて、結婚には賛成しない。一年間の遠方での任務を命じられ、親は帰ってきたときに、まだふたりが愛しあっているなら、結婚を認めようと言い渡した。

 3番目の男(アナトール)は、この一年間の待機期間に現れる。うぶな娘がだまされたというほうが正しいだろう。劇場で見かけたことから、男のほうが執拗に追いかけてくる。女たらしとして評判の悪い男だったが、はじめ嫌っていた娘がいつのまにか、この男にのめり込んでおり、家出をしてふたりで旅立つ約束をしている。

 それを聞きつけてなんとか阻止しようとしたのは、彼女を愛し続ける第一の男だった。交友のあった二番目の男が好人物であることを認めたうえで、娘を戒めようとした。娘は冷静を欠いていて、フィアンセに別れの手紙を書いて送ってしまっていた。男が既婚者であることを告げることで、娘はやっと正気を取り戻したが、もはや取り返しはつかなかった。その後もふたりの男は、軍人と反戦論者として対立する立場ではあるが、信頼感を共有していく。顔をあわすことになっても、娘の自戒の思いを伝えるだけにとどまった。前線の友を訪ねたとき、軍人は言った。自分の友は今から突撃をする仲間だけだと。

 娘の揺れ動く女心は、自業自得と言えるかもしれない。父親の悪い血を受け継いだのだろうか。裏切ったという懺悔の思いは引き継がれ、会うことができないでいる。男は連隊長として前線で負傷して、生き延びたがモスクワで死に瀕している。娘は偶然の出会いを果たすことができ、恨んでいるはずの男から愛のことばを、感動的に受け止めている。わだかまりは解消されて、息を引き取った。

 最後まで娘を見守ったのは、娘を愛した最初の男で、再会を果たすのは、戦火を逃れていた自宅に戻ってきたときだった。ロシア軍が敗走するなか、前線にいる友を訪ねたときに、フランス軍の捕虜となっていて、生きてはいないと思われていた。友と決裂し戦場をさまよう姿が写され、雪の中を延々と捕虜の列が続いていた。

 残骸と化した邸宅は、まだかろうじて住めるスペースを残している。男が訪ねてきて、娘と抱きあい、口づけをかわす姿があった。やっと愛に気づくことになったと言えるだろう。苦節の日々を経て、はじまりに戻ったような、新たな出発を予感させる、希望に満ちた光景が目に映っている。まわり道は長かったが、戦争と平和が織りなす人間ドラマだった。

第415回 2024年3月15

沈黙の世界1956

 ジャック=イヴ・クストー、ルイ・マル監督作品、フランス・イタリア映画、原題はLe Monde du silence。カンヌ映画祭グラン・プリ受賞。海底を探検する探索船のドキュメンタリー映画である。ドラマ以上に感激的な場面にも出くわすが、主役は海洋生物で、人間になぞらえると、ついつい感情移入をしてしまう。

 漁獲を目的としたものではない。学術調査にもつながるが、海底での生態をカメラに収め記録することが、第一の課題である。調査機材の紹介や潜水病のことも語られている。海底から急速に浮上すると、気圧の差で、からだに異変を引き起こす。治療のための装置も船内に用意されていて、これに3時間閉じ込められることになる。

 船上での生活風景もはさまれている。海の宝庫で、海底にはエビが岩間に群がっている。いけどりをして料理にして食べている。身が引き締まりじつにうまそうだ。持ち帰ったダイバーは潜水病にかかっており、大エビにありつけない。恨めしげに隔離された装置の、のぞき窓から顔だけみせて、悔しがっている。飛び魚が勢いあまって、甲板に飛び込んでくる。魚釣りの必要はなく、散らばっているのを拾い集めるだけでいい。次の食卓に並ぶことになるのだろう。

 クジラ群れにも出くわした。18メートルの巨体が、重なりながら移動している。まじかで撮影できる、またとない機会である。クジラの子が船にぶつかってケガをしてしまった。それでも6メートルもある。スクリューに巻き込まれたようで、船のほうも被害を心配した。傷は深く群れに追いつくことができない。血の匂いを嗅ぎつけてサメの群れがやってきて、周りを取り巻く。苦痛を見かねて、ハンターが銃で安楽死をさせてやる。

 死肉に食いつくサメに、憤りを感じた乗組員たちは、モリで突き刺して甲板に引き上げ、死闘を繰り返している。サメがもがき暴れる姿がすさまじい。乗船していたダックスフンドが、あわてて飛びのいている。足が短くてユーモラスな犬だが、乗組員たちを和ませる貴重な存在だ。大波が続いて船が難破しそうななかで、ぐったりとして船酔いをしている姿は、ごくふつうの人間とまったく同じ表情を浮かべて目に映る。

 何日も海ばかりを見て過ごしている。やっと陸が見えて、ボートに乗り換えて上陸する。無人島では人間を怖がる経験がなく、鳥さえも逃げてはいかない。大きなカメ散らばっていて、背に乗って遊んでいる。ダックスフンドもこわごわ近づいている。浜辺に人の足跡を見つけてたどっていくと、砂地を掘り返している現地人に出くわした。ウミガメの卵を探しているのだという。

 涙を流しながら浜辺で産卵をして、海に戻っていくウミガメの、これまで見たこともないような姿が撮影されていた。産みの苦しみが伝わってくる。じっと座ってうんうんとうなっているように見てしまう。産み落とした卵に砂をかぶせるしぐさは優しく、子を慈しみいたわる、母の手のひらを思わせるものだ。母親は絶え絶えの表情を浮かべながら、ゆっくりと海に戻っていく。

 その姿は荘厳で、二度と子どもたちに会うことはないとナレーターは語っている。やがてときがくると、土の中で卵の殻を破って、ヒナが孵化する。砂地から手を出し、本能的に海に向かって進んでいく。よちよち歩きの無数の子ガメたちだ。置き去りにされた母を追いかけていくようにみえる。感動的なシーンだった。

 最後はサンゴ礁の夢のような世界で、色とりどりの魚に囲まれて、ダイバーたちは至福の時間をすごしている。肉片を袋に入れて潜り、エサとして与えると、不思議なほどになついてくる。ことにグロテスクなからだをした大魚は、ユリシーズとなづけられて、ダイバーのもつ肉片を闘牛士にあやつられる牛のように、くるくると回転運動を繰り返して、食いつこうとしている。

 知られざる世界に向ける知的好奇心を満足させるだけでなく、生きるためのなりふりかまわないパワーには、有無を言わさない真理が宿っている。生き物の生態も、自然のカタストロフと大差い、秩序だった宇宙の摂理にゆだねられるものだ。インド洋に渦巻く暴風雨もまた、情け容赦なく、船に襲いかかってくる。船首にとどまる乗組員が、振り落とされないのが、不思議に思えてくる。こんな劇映画の一コマを見た記憶がよみがえる。

 フィクションにみえてしまうほどに、生々しく写されると、これを写しているカメラがあることに、驚異を感じざるを得ないものだった。フィクションでないことを思うと身震いしてしまうというのが、正しい反応ではあるのだが、感覚は逆転してしまうのだ。ことに難破船の探索を写すカメラワークは、映画「タイタニック」をまねているのではないかと思ったし、サメの脅威も「ジョーズ」の恐怖を思い起こさせるものだった。

 サメの群れとイルカの群れに出くわすときの、人間の身構えの落差も、自然のもつ多様性に気づく絶好の材料だったと思う。ペット犬を登場させたことが効果的で、長い年月をかけて人類が、自然を開拓してきた努力の結晶なのがよくわかる。過酷な自然のなかでは生き抜くことはできない存在である。心優しい人間の誕生とも同調する、ヒューマニティに根ざしたものにほかならない。そこに人類にしか実現できない「平和」という概念をあてはめてもいいだろう。

第416回 2024年3月16

台風騒動記1956

 山本薩夫監督作品、原作は杉浦明平「台風十三号始末記」、佐田啓二主演、毎日映画コンクール 男優主演賞。台風の被害に遭った、いなか町で起こる、国の補助金をねらった喜劇じたての社会派ドラマである。国からの支援の補助金が降りることを見越して、町長(山瀬)を中心にした町の権力者と、復興事業の受注をあてにした建設業者が、癒着しあって、陰謀をくわだてた。それが明るみに出るまでの、権力と反権力の織りなす群像劇が展開する。

 舞台は小学校である。台風被害はあまりないにもかかわらず、全壊をして建て替える費用を国から取得しようとして、町議会が動きはじめる。木造がコンクリートに生まれかわることは、悪いことではないという点で議員は一致した。今ある校舎をつぶすには誰もが躊躇するが、もし補助金が降りなかったときの責任は、町長に押し付けられている。受注をねらっている建築業者が、またたくまに校舎を、引き倒していた。

 国からの被害状況を把握するため調査員が来るという情報を得て、待ち構えている。町長の妻が東京からやってきたそれらしき男(吉成)を見つけて、囲い込もうとしている。彼は小学校に向かっているので、勘違いをしてしまったようだ。職を失っていて、友人の教師(里井)をたよって、訪ねてきていたのだった。教師は地元の神主の息子だったが、代用教員で発言力はない。子どもからは慕われているが行動力はない。理想は高くもっていて、「中央公論」や「世界」を愛読していた。そのことからアカのレッテルを貼られている。仲のいい女性教員(志水妙子)がいるのだが、女のほうは頼りない男に、なんとか勇気を持たせたいと思っている。

 東京の友人はまちがわれて、接待を受け評判の芸者(静奴)とも仲良くなり、札束の入った封筒を賄賂としてもらっていた。ことの次第を察して、権力者たちに一泡吹かせようと考えた。酒場に行って、誰にでも酒を振舞って、町の事情を知ろうとしている。芸者からも裏社会の秘密を聞き出した。ホンモノの調査官が小学校にやってきたときには、代用教員しかいなかった。町長をはじめ町の幹部たちはあわてて戻るが、手厳しい質問が飛び交っている。全壊したというには不自然で、ノコギリで柱を切ったあとが見つけられてもいた。

 結局は補助金は10分の1程度しか交付されず、国に内部告発の文書を書いた者があぶりだされる。代用教員と友人が疑われたが、実際は権力争いからくる助役(岩本)と、正義感を発揮した議長(友田)によるものだった。代用教員は退職を迫られるが、友人と女教員の後押しがあって、やっと民衆の先頭に立ち上がる。遅まきながらも見直されて、ふたりは結ばれることになる。校舎も木造のままで、粗末ではあっても温かみのある教育が続けられていくことだろう。

 友人は醜い人間関係に嫌気がさして、東京に戻る決意をした。芸者に一緒に来ないかと誘っているが、芸者は悪にまみれた世界に身を置くことを選んだ。バスで去る男を、別れがたい表情で、見送っている。終始事件に目を光らせていた巡査(赤桐)が、そのようすを目撃している。味のある役柄を演じた多々良純が、ブルーリボン賞助演男優賞を獲得した。最後に感慨深く、天災のあとは人災が訪れるという教訓が語られている。

第417回 2024年3月17

流れる1956

 成瀬巳喜男監督作品、幸田文原作、山田五十鈴主演、ブルーリボン賞主演女優賞受賞、英語名はFlowing。江戸情緒を残す芸者屋を舞台にした人間模様が展開する。女ばかりの世界である。時代に取り残されて、借金に追われ、廃業に直面している。主人公のおかみ(つた奴)の役を山田五十鈴が、その娘(勝代)を高峰秀子が演じている。路地裏の長屋にひっそりと看板がかかっていて、おかみの名からとったのか「つたの屋」の文字が読める。三味線が鳴り響き、うたいの稽古に余念がない。将来の芸者になるのだろう、少女が舞を練習する姿が見られる。娘は置屋という家業を嫌って、堅気の生きかたをめざし、最後はミシンを買い込んで、内職をはじめている。不釣り合いなミシン音が二階から聞こえてくる。娘と同年齢の若い芸者(なな子)もいるし、年増の古株(染香)もいる。夫と別れたのだろう、実の妹(米子)も子どもを連れて同居している。

 おかみは男運が悪く、借金をかかえることになるが、実の姉(おとよ)や同業者の先輩(お浜)からの資金援助を受けて、やりくりをしている。みずからも店に出るが、添わぬ相手には愛想はよくない。娘もその血を引いているようで、この仕事には向かないものだ。娘は離れていった父親に会いたがっているが、母親とも強い絆で結ばれている。

 複雑な人間関係が客観的にクリアに見えてくるのは、田中絹代の演じる女中の目を、フィルターとして通すことによってである。ある日、職業安定所からの紹介状をもって、家に訪ねてくる。若くもなくていねいなことばづかいで、落ち着いているので、誰が来たのかと戸惑っているが、頼んでいた女中だった。娘たちは若い子を思い浮かべたが、おかみは年寄りなのがいいと喜んでいる。ハイカラな名前(梨花)をもっていたが、おかみは呼びやすいような名(お春)に変えてしまった。この家に出入りする誰よりも上品であった。

 本人は45歳と言っているが、年寄り扱いをされている。その日から住み込みで仕事をはじめる。使いとして買い物に行くと、支払いが滞っているので、売ってもらえない。家の窮状が見えてくる。こまごまとした用事が言い渡されるが、どれもてきぱきとこなし、重宝がられている。近所からも評判のいい女中として知られることになる。客の出入りや家人とのやり取りを通して、家の全体像が展望できる。

 女中は夫を亡くし、続いて子どもも亡くしていた。娘はこの女中を頼って、いつまでもいてくれと言っている。答えていうのは、夫の墓に遺骨を収めなければならないので、いつまでもやっかいにはなれないと答えた。廃業の危機にあることもわかっているので、明言はできなかったようだ。こんな経済状態で女中を雇うことが、そもそも疑問なのだ。

 おかみは家を売って廃業して、借金返済をすることを考えているので、今ある人間関係は解消されると思っている。娘も別の生き方をしている。あきらめていたところに、貫禄のある同業の資産家が買い取ってくれた。おかみを雇うことで、これまで通りのかたちが続くことになった。まずは一安心となったが、古い職業形態がこのまま繁盛していくとは思えない。

 すべてが高齢化していく中で、若い芸者役の岡田茉莉子だけが、あでやかな輝きを放っていた。男は一人として好人物は登場しない。借金を取り立てにきて、帰ろうとしないあらくれ男や、子どもが熱を出したときに顔を出した妹の亭主をはじめ、下心のある連中ばかりである。キャリアを積んだそれぞれの女優が、自身の役柄を演じることで、自己主張をしあい、火花を散らせあわせる迫力が、男たちの存在を希薄なものにしていた。

第418回 2024年3月18

戦場にかける橋1957

 デヴィッド・リーン監督作品、ウィリアム・ホールデン主演、英・米合作映画 、原題はThe Bridge on The River Kwai、アカデミー賞作品賞はじめ7部門で受賞。ベトナム戦争を思わせる密林での戦闘が続いている。ただ異なるのは英米軍の敵は、アジアでの軍事的支配を進める日本軍であるという点だ。英国人の捕虜収容所での話である。統制が行き届いていて、命令を出すのは大佐(ニコルソン)、そのもとに数人の将校がいて、彼らが数百人いる兵卒をまとめている。クワイ河マーチを口笛で吹きながら、行進をしている。

 はじまりは列車が線路の尽きるところまでたどり着くところからである。シンガポールからはじまりタイを縦断するルートである。そこでは鉄道工事が、捕虜の強制労働によって進められている。さらに建設を予定しているのは、クワイ河にかける橋で、これによって占領している日本軍の物資の流通路が確保される。完成日は設定されているが、工事ははかどっていない。隊長である日本人大佐(斉藤)は、完成しないと責任を取って、自害することになるのだと、いらだちを高めている。英兵を統括するのも、階位はともに大佐であるが、命令に応じようとはしない。

 国際条約に違反していると、将校に労役を向かわせようとする日本軍を批判するが、高圧的態度で将校たちを営倉に、大佐を日中は高温になる屋外の独房に監禁して、拷問を加えている。はじめ彼らは倒れるまで炎天下に長時間立たされていた。兵卒は工事に向かわせたあと、将校たちも同様の扱いをしようとしたが、大佐がそれを制止していた。将校には待遇するというのが、国際的なルールだった。日本側の言い分としては、将校の命令は自分たちにとっては弊害となるものであり、兵卒と同レベルにするのは当然のことだった。

 反抗的な態度を批判的な目で見ているアメリカ兵の中佐(シアーズ)がいた。先に捕虜となり、日本軍の司令官に逆らわずに、命じられるままに流していた。英軍の大佐が態度を硬化させることで、将校たちの身に危険が及ぶことを心配している。従順を装いながら、米兵は着々と脱走を計画していた。仲間二人と実行に移すが、二人は射殺され、一人は溺死したと報告されている。最初の捕虜を集めての日本人大佐の演説では、ここには鉄条網もなく、いつでも脱走できるが、それを企てたとしても、自然の猛威のなか、ジャングルから逃れることはできないと牽制していた。

 米兵は川に沿って逃亡し、溺死しかけたが、現地民に助けられて、生き延びていた。英軍の駐留地に入り、日本軍の事情に通じていることに、目をつけられて特殊部隊に加わるよう要請される。米兵が、英国軍の命令に従う必要はない。死をかけて逃れてきたのに、また戻れというのかと怒りをあらわにし、隠していた事実を明らかにする。中佐と言っていたが、本当は海軍の二等兵だった。

 いっしょに逃亡した中佐が死亡したので、軍服を取り替えたのだという。捕虜となったときの待遇がいいというのが、なりすましの理由だった。英軍キャンプでは、優遇を利用して女兵士とのラブロマンスも楽しんでいた。英軍は男の身元調査をしていて、すでにこのことも把握していた。米軍に問い合わせ、身柄を英軍が預かることで、話は進められていた。

 男はあきらめて任務に加わる。命令はクワイ河にかかる橋の爆破だった。米兵にはパラシュートの経験もなかった。数名からなる小部隊のうち、ひとりは樹木に引っかかって命をおとす。密林を遡って橋をめざすが、日本兵が固めており、ルートを山越えに変更する。米兵は道先案内の必要はなくなり、任務を降りたいと言うが、隊長には聞き入れられなかった。不本意ながらの使命が続いていく。隊長は負傷するが、若い隊員が日本兵に出くわしたとき、ためらったのを助けたときに受けた傷だった。歩行困難となりながらも、助けられて任務を続けていく。現地人の女性が運搬に雇われていた。

 予定を遅れた橋の建設に力を貸すのは、英国人捕虜だった。大佐の強情な態度に負けたかたちにはなったが、将校のなかには橋の建設に豊富な経験を積んだものもいた。地盤の悪さから橋の建設位置が変更される。大佐はリーダーシップを発揮して、兵卒を統率して、工事を進めていく。軍医に願い出て、軽症の兵卒にも動員をかけた。日本軍と共同での橋の建設が、実現されようとする頃、爆破班は橋桁にたどり着いて、暗くなる時間帯に爆薬を仕掛けていた。

 次の朝、川の水位が下がり、導火線が見え出している。鉄道が開通する日だった。ふたりの大佐が橋を渡りながら、まわりを点検している。英国大佐が異変に気づき、日本人大佐を伴って川辺におりていく。実行班は岩陰に隠れて爆破の準備をしている。遠くで列車の汽笛が聞こえている。英国大佐が見つけ、導火線をたどりはじめている。経験の浅い若い兵士に、離れたところからナイフでの殺害の指示を出す。ためらいながらも日本人大佐を襲うと、英国大佐が気づいて、同胞である若者に襲いかかってくる。離れていた仲間が駆けつけると、大佐は顔を確認して、溺死したはずの中佐であることを知る。

 異変に気づき、双方が発砲をはじめており、ともに被弾して命を落とすことになる。大佐が倒れ込んだとき、体重がかぶさって、爆破装置のスイッチを押し込むことになり、橋は爆破され、折から橋を渡りはじめていた列車は、谷底に落ちていった。英国軍同士が殺しあう図式を見ながら、愚かな戦争の実態を再考することになる。敵同士が協力しあった橋の建設という事業が、異常ながらも偉大なものに見えてくるところが、この映画の見どころなのだろうと思う。英国捕虜の、偉業を伝えるプレートが、爆破とともに壊れて流されている。捕虜である英国人大佐が、冷酷極まりない日本人大佐と、完成のよろこびを共有し、橋からの雄大な眺めに誘う姿は、印象に残るものだった。

第419回 2024年3月19

魅惑の巴里1957

 ジョージ・キューカー監督作品、アメリカのミュージカル映画、原題はLes Girls、ゴールデングローブ賞作品賞、主演女優賞、アカデミー賞デザイン賞受賞。三人の女性ダンサーとグループを組む、ジーンケリー演じる男性ダンサー(バリー・ニコルズ)の、愛憎の人間関係を描いたミュージカル。歌と踊りだけを楽しんでもいいが、ぼんやりと見ていると、内容が途中からつじつまのあわないことになってくる。二度見ることになったが、難解さはこの映画が「羅生門」をまねた実験映画だという点にあった。

 男性ダンサーはアメリカ人で、なぜパリで踊るのかと問われると、アメリカでは問題にもされないが、ここではやっていけると答えている。ショービジネスの興行主でもあり、三人の娘を率いている。女好きで誰とでも関係をもってしまう遊び人だが、結婚する意志はない。娘が一人欠けて、新人(アンジェル)を採用するところから、話ははじまる。前の娘はポーランド人との恋愛が見つかり、追い出されたのだった。オーディションで目をつけた主人公は、パリに来たばかりの新人を仲間に加え、ふたりの娘が同居している住居に、一緒に住むように提案する。家賃の負担が軽くなるので、歓迎されている。

 新人には結婚相手(ピエール)がいて、ナースとして病院に勤務していると伝えている。舞台に出ることは内緒でのことだった。不在中にこの男が訪ねてきて、仲間は話を合わせて踊り子であることを隠している。彼女が不在だったのは、雇い主とのデートに出ていたからで、仲間はつきあいを見て見ぬふりをしている。新人が加わったとき、さっそく声をかけているのを、ああまたはじまったという、いつものことのように見ていた。それぞれに身に覚えのあることだったのだろう。ダンスの練習と称して遅くまで個人レッスンをしている。隠れてのデートだが見え透いてもいた。

 娘は遊び人の雇い主を真剣に愛しはじめることになる。婚約者はやっと親の許可がおりたことを知らせたが、あまりうれしそうではなかった。親がやってきて顔合わせをしようとするが、娘は夜の11時にならないとからだがあかないと言っている。舞台の仕事だが、病院でも不規則な勤務はあり、男は疑わなかった。劇場にでも行って時間をつぶしておくと言うと、娘は内心の驚きを隠せない。

 舞台がはじまり、三人の踊りがスタートする。仲間の一人が婚約者がきているようだとささやくと、とたんに娘は顔を隠しはじめ、踊りにはならなかった。興行主は娘の異常なふるまいにがまんができず、クビだと叫んでいる。娘は走り帰り恋の板挟みから、自室でガス自殺をはかり、ベッドで横たわっているのを発見された。その後娘は何もなかったかのように、婚約者と結ばれることになった。

 この話は新人をそばで見てきた三人娘の一人(シビル)が、退職後、若い日々を回想して、自分たちのグループ名である「レ・ガールス」の表題で書いた自伝での内容である。このなかで新人の恋の板挟みについて、赤裸々に書いていることから、現在の幸福な結婚生活が脅かされることになり、事実無根ということで訴えられた。映画のはじまりは、ロンドンでの裁判風景からだった。何も知らないままいた夫は、妻への不審な表情を隠せない。

 法廷に立った新人の反論は、自分の見てきた、暴露本には書かれていない話をしている。執筆者はイギリス人の資産家の老紳士(ジェラルド・レン卿)から愛されていた。その後、結婚をして豊かな生活を送ることになるが、彼女もまた興行主を愛していた。新人が男にのぼせているのを冷静にみているようだったが、自分の思いは抑えていたようで、アルコールに溺れたのも、その恋心の結果だった。彼女の思いを受け止めて、主役に立てて、ヨーロッパ各地で公演を続けるが、アルコール癖に加えて恋敵のこともあり、失敗が続くと彼女にも退職を言い渡す。明日から代役を立てると言われて、彼女もまた失意の末に自殺をはかった。

 三人目の証人として、興行主が法廷に出てくる。三番目の娘(ジョイ)と興行主は深い関係になっていき、結婚を決意するに至る。男は二人の娘に去られてしまったことから、残ったひとりとデュエットを組んでショーは続いていく。力強いダンスが披露されているが、男は心臓を抑えるしぐさをしている。心臓病であることを告白すると、娘は驚き、三人娘が集まり、そのことを伝えている。一年間の活動と興行主への感謝をこめて、パーティを開いた。そこでグループの解散を示唆することで、心臓病の発作から遠ざけようとした。

 心臓病は偽りであることを打ち明けると娘は怒りをあらわにして出て行ってしまった。不治の病を装うことで、三組のカップルは、ともに幸福な結婚を果たすことができる手はずだった。興行主は去っていった娘を追いかけて、部屋に向かって、大声をあげて嘆いている。近所の住人が迷惑がって窓から顔を出している。部屋に上がっていって、入ると愛する娘はいないで、残りの二人が倒れていた。

 ガス管が外れての事故だった。意識不明で病院に運ばれ、ともに一命を取り留めた。そのままグループは解散され、ふたりはその後も会わないでいたので、たがいに相手は自殺をはかったのだと思っていたのだろうと男は言う。自分との火遊びなどはなく、自殺ではなく事故だったのだと証言したことになる。これによってめでたしめでたしとなり、裁判は中断され、二人の女は和解し、三組のカップルの幸せな姿があった。

 真実とは何かという看板をつけたサンドイッチマンがたびたび登場する。そのつど身に覚えのある当事者は、ぎくっとした表情を浮かべている。この三つの証言はそれぞれに自分の都合の良い虚偽だが、すべてはまた真実でもあったはずだ。一貫して言えるのは、興行主は三人の娘と関係をもっていたということだろう。興行主の結婚相手はそのことを見抜いていて、大人の反応を示していた。

第420回 2024年3月20

十二人の怒れる男1957

 シドニー・ルメット監督作品、レジナルド・ローズ原作、アメリカ映画、原題は12 Angry Men、ヘンリー・フォンダ主演、ベルリン国際映画祭金熊賞受賞。陪審員に選ばれた12人の男たちの息詰まる議論を通して、父親殺しに問われた少年が、無罪を勝ち取るまでの物語。裁判でのやり取りを聞いていて、別室で判断をする。誰もが有罪になると思っていたが、一人だけ無罪を主張した男がいた。職業は建築家だと言っている。12人はここではじめて顔をあわせるが、年齢も職業もバラバラだ。名前さえも知らされず、番号で呼ばれている。全員が一致しないと判決にはならず、クリアする壁は高い。

 主人公は必ずしも確信があってのことではなかった。自分も有罪だというと、少年は議論を尽くされずに死刑の判決を受けることになる。話し合うことが何よりも必要だという考えからだった。少年の命を自分たちが左右することへの責任感を痛感することが、その出発点の理念だった。

 野球観戦のはじまる時間までに決着をつけたいと考えている男がいる。自分の意見をもたず、大勢に流されてしまう男もいる。思い込んだら自分の考えを、意地でも曲げない男もいる。少年の顔はちらっと写されたが、白人ではなく鋭いまなざしをもっていた。それが純真な目なのか、下心のある悪意なのかは、判断がつかないものだった。犯罪の内容も断片的に紹介されるだけで、謎解きがここでの見どころではない。にもかかわらず、不自然な事実が次々と明らかにされていく。事件は再現されず、殺された父親も、殺した息子も登場しない。

 現場の図面が提示され、老人の足では歩行が無理な距離が問題視されている。ナイフを使った刺殺だったが、背の高い相手に振り下ろすような角度で、突き出しているのは不自然だ。変わった飾りのナイフだったが、界隈を探すと同じ形のものは見つかり、無罪を主張をした陪審員は、それを見つけていた。少年はアリバイに映画を見ていたと主張したが、映画名も内容も話すことができなかった。別の陪審員をつかまえて、日を遡って食事のメニューを問うているが、とたんに言えなくなってしまっていた。

 一人ずつ無罪の主張者が増えていく。何度も挙手を繰り返している。有罪を取り下げて無罪と言ったのに、また有罪に鞍替えをし、最後に再び無罪へという付和雷同の優柔不断も出てくると、みんながあきれ顔で見ているが、真実がわからないという意味では、正直な反応だろう。最後まで有罪を主張した男は、殺人現場の目撃者を根拠としたが、それも鼻の筋にメガネ跡があることから、近視であることで、くつがえされていった。人前でのメガネを嫌がった女性の目撃者で、寝ているときの目撃は、当然メガネはかけてはいなかったはずだ。論破されて悔しさをにじませながら、最後のひとりが「無罪だ」とつぶやいて、決着がついた。

 さまざまな人格が寄り集まって議論をかわす。これが民主主義の原則なのだろう。時間はかかるが回避してはならないことだと思う。密室で有罪が確定して闇に葬られる事実を前にすると、ますます陪審員制度の実相を正直に映し出した、この映画の今日的意義を感じることになった。最初に無罪に同調した老人が、帰り際に主人公に近寄ってきて、たがいに名乗りをあげている。そのあとどうなるでもなく左右に別れていったが、さわやかな結末だった。

第421回 2024年3月21

私は死にたくない1958

 ロバート・ワイズ監督作品、アメリカ映画、原題はI Want to Live!、スーザン・ヘイワード主演、アカデミー主演女優賞受賞。死刑の判決を言い渡されて、刑が執行されるまでの一部始終をドキュメンタリータッチで追った心理劇。汚れ役の迫真の演技は、一昔前だとヴィヴィアン・リーの演じどころだろう。最初にこれは実話に基づくものだということわりがはいると、身を引き締めて、一体何が起こるのかと身構える。ここに描かれている内容が事実だとすれば、無実の罪で殺人犯にされてしまった女の悲劇ということになる。

 犯人にされる女性(バーバラ・グレアム)の生い立ちからはじまっていくが、およそほめられたものではなく、殺人以外はあらゆる犯罪に身を染めている。ダイジェストふうに歩みがたどられるが、警察のおとり捜査を知らせてくれた酒場のバーテンと良い仲になって、子どもを生んでいる。子どもの前では悪人にはなれない。あどけないわが子を抱きしめる姿には偽りはない。過去の犯罪から足を洗い、幸せな結婚生活がはじまるのかと思われた。

 刑事が近寄ってきて女を誘い、罠にはめようとしているのを、バーテンが水をこぼして、その隙に警察なので気をつけるように忠告してくれた。それをきっかけに男に惹かれていったようで、同棲をはじめたが、男は麻薬に手を出していて、暴力で女から金を奪っていく。中毒に冒されていて、わが子をかわいいと思う心も麻痺してしまっている。

 女はひとりで子どもを育てることになる。生まれたばかりから、2,3歳のころ5歳ころと子どもの成長によって時間の経過がたどられていく。身の潔白を証明しようとして、女はあがいて、さらに奈落へと落ち込んでいく。老婦人殺しの殺人犯が、仲間に加わっていた主人公に、罪をなすりつけたのだった。女は現場にはいなかったが、アリバイを証明することができない。

 収監された刑務所で、受刑者のひとりが言い寄ってくる。男友だちが面会に来るので、アリバイを引き受けてもらえると誘っている。女はそのことばに乗って、金を支払う約束をしてしまう。男が面会にやってきて、いっしょにいた場所や時間を打ち合わせている。この男が実は刑事だった。女の立場はますます悪くなる。女が美人だということもあって、マスコミが動きはじめる。記者の支援も受けるが、国選弁護士はアリバイ工作までする被告に、匙を投げていて、裁判中に判事に近寄って、小声で担当を下ろしてほしいと願い出ている。

 支援者は土壇場まであきらめずに、訴えを続ける。そのつど死刑の日時が延期になり、女は何度も覚悟を決めるプレッシャーに耐えかねている。ガスによる処刑の準備がされ、大勢の見物人がガラス越しに見ているなかで、手足を拘束されて、椅子に座らされている。10時の予定時刻だったが、電話が鳴り響き、中断がされ、知事のもとで再検討がされている。結局は願いはかなわず、11時30分を過ぎたところで死刑が執行された。

 死刑制度のもつ非人間的側面がえぐりだされる。恐怖をもてあそんでいるとしか思えない残酷さは、無実の罪であることでさらに増幅して、憤りへ向かうことになる。あんなに多くの者が立ち会っているなかで処刑されるのかと思うと、ギロチンの公開処刑から、変わることのない人間の愚かさを思い知る。興味本位で取り上げるマスコミの無責任にも、目を向けなければならないだろう。

第422回 2024年3月22

旅路1958

 デルバート・マン監督作品、アメリカ映画、原題はSeparate Tables、アカデミー賞主演男優賞(デヴィッド・ニーヴン)、助演女優賞(ウェンディ・ヒラー)受賞。ひなびたホテルに長期滞在している人々の織りなす人間模様。中心になるのはバート・ランカスター演じる、わけありの男(ジョン・マルコム)の秘められた過去である。秘密を思い起こす、謎めいた心の動揺が、ミステリアスに引き出されていく。最後までウジウジとしていて、すっきりしない屈折した心に、いら立ちを覚えるが、男と女に横たわる不思議な縁を考えれば、わかる気もしてくる。理解しがたいのは男女の仲とは、よく言われることなのだが、ここでも腐れ縁という一言で片付けられている。

 男はホテルに住み着いて久しい。その間にここの女主人(パット・クーパー)公然の仲になっている。ある日こんないなかにはふさわしくない、都会的なセンスのいい女性客(アン・シャンクランド)がやってくる。レストランで泊り客は顔を合わせるが、男とは知り合いであることがわかる。関係はふたりの会話を通してじょじょに明らかになっていく。元夫婦であるが、別れてしまっても、忘れきれずに、女のほうが探し当ててやってきたようである。

 おたがいもう若くはない。女はモデルを職業としているが、仕事柄もあって子どもはあきらめていた。財産家からの申し出も多かったが、その対極にある男を求め、男も美貌に魅せられて、奴隷のように従ってきた。男は自分の姿がみじめだったのだろう。憎しみが先に立って別れを決意したようだ。その後、身を隠して、ひっそりとこのホテルに住み着いていた。

 並行してホテルの住人の生活風景が点描されていく。女主人はひとりで切り盛りしている。冷静な判断のできる常識的な人物である。退役した軍人のようだが、少佐と言われている男(アンガス・ポロック)がいる。この男に思いを寄せる娘(シビル)がいるが、母親とふたりで暮らしている。母親は年齢差もあって、娘がこの男に近づくのを快く思っていない。競馬に目のないひとりものの女性がいる。結婚前の若い男女もいる。男のほうは医師をめざして分厚い本に取り組んでいるが、娘のほうは遊びに誘って勉強をさせようとはしない。

 そんなとき元少佐が問題を起こしていたことがわかる。映画館などで複数の女性から、性被害を訴えられた。新聞だねにもなっていて、ホテルにいられなくなる。住民会議が開かれ、追い出そうという意見の急先鋒は、この男を愛した娘の母親だったが、多くがこれに同調している。何人かはかばうが、本人も居づらくなっており、遠方の友人を頼っての旅路を決意する。

 娘に別れを告げわびるが、娘はなぜそんなことをしてしまったのかという顔をしている。自分は昔から弱い人間で、少佐というのも嘘だったと告白した。娘を愛したのは、そこに自分と同質のものを見たからだったという。娘はそれを認めるのを拒んだが、母親の言いなりになってきた自分を思い浮かべると、納得のいくものだった。荷物をまとめて出て行く準備をして、女主人にこれまでの支払いを申し出ると、私は出て行ってくれとは言っていないという答えが返ってきた。

 最後の朝食を取るよう促されて、レストランに向かうと、住人たちはすでに集まって、食事をしていた。まだいたのかという反応もあったが、「おはよう」と声をかける者もいた。男は視線を感じながら座っている。別れた元夫婦がひとつテーブルに向かいあっていた。元少佐の姿を温かい目で見つめている。母娘の席では、娘に退席を求めたが、娘はまだ食事がすんでいないと拒否した。母親はひとりで出ていった。

 はじめて母親に逆らったのである。いたわるような会話が、傷心した男に投げかけられている。男はそれに対して、ことば少なに答えている。女主人が入ってきて、おはようといいながら、元夫婦の席を通り過ぎていく。感情を抑えて見て見ぬふりをしているのだろうか。原題にあるように、レストランにつどう「個々のテーブル」(Separate Tables)が奏でるみごとな合奏曲を、一望しながら楽しむことができた。なぜ日本語名が「旅路」なのか、理解に苦しむ。

 女主人は愛する男が、やってきた元妻を、今でも愛していることに気づいて身を引いた。嫉妬するのではなく、応援しているのだとさえ見えるのが、いじらしくも心憎い。その思い切りのよさが、朝のあいさつの一言に結晶する。元妻には新しい結婚相手がいると言っていたので、結婚前に元夫に最後の別れを告げにきたように見える。

 この結婚話が実は嘘であるのだと知り、男に知らせてやったのは女主人だった。そこで男は元妻の気持ちを察することになったが、恋する男には、残念ながら伝えた女の気持ちを思いやる余裕はなかった。どう見ても身勝手なわがまま同士の腐れ縁であり、まわりにはいい迷惑だったと言えるだろう。これに比べれば偽少佐のほうが、よほど正直で恥じらいをもった好人物に見えてくる。主演男優賞がランカスターではなくて、ニーブンだったのは、そんなところに根拠があるにちがいない。

第423回 2024年3月24

大いなる西部1958

 ウィリアム・ワイラー監督作品、グレゴリー・ペック主演、アメリカ映画、原題はThe Big Country。東部の男(ジェームズ・マッケイ)が西部の娘(パット)と出会って恋に落ち、娘の住む西部にやって来て、住み着こうとしている。男は父親が海運業をしていて、自身も船長だった。広大な西部にやってきて、広いだろうという自慢する相手に、海はもっと広いと言い返している。娘の父(テリル)は少佐と呼ばれているので、従軍していたことがわかるが、今は牧場主として広大な土地を相手にしている。

 西部の気性は荒々しく、娘にもそれは受け継がれている。男が静かで争いごとを嫌うのを不満に思っている。海を捨ててここまでやって来る限りは、娘を愛していたからだったが、やがて感情のすれ違いが起こっていく。娘は父との絆が強く、父と別れて夫について行くことは避けたい。そのために西部での生活を気に入ってもらう必要があり、父は最大のもてなしをしようとするが、多くの困難に遭遇する。

 やってきた日にさっそく手荒なあいさつを受ける。敵対する無法者の一家(ヘネシー)が、ふたりを乗せる馬車を止めて、嫌がらせをする。女は憤るが、男は抵抗もしない。袋叩きに近い仕打ちにあっても、海に出てもそんな手荒な船員は多かったと言って動じない。紳士の服装をしていたが、西部でかぶる帽子とは異なっていたことから、取り上げられて、放り上げられ、銃で撃ち抜かれている。屈辱を前にしても、帽子に穴が空いていないのを確認すると、へたな拳銃さばきだと評してかぶり直している。

 そんな姿を見て女はいらだちを隠せない。このことを知った父親が、翌朝大勢の手下を連れて狩りに行くと言って出かけた。敵の本拠に乗り込み、娘の夫になる男におこなった悪事の報復をはたそうとする。主人(ルーファス・ヘネシー)も、嫌がらせの首領だった息子(パック)も不在で妻と子どもの少年しかいなかったので、貯水槽に弾丸を打ち込み、水を放出させている。荒野にとってはかけがえのないのが水だった。

 敵対するふたつの勢力が求めるものも水源だった。牛を飼育するのに欠かせない水源のある土地(ビッグ・マディ)を所有したいと争っていた。そこは古くからの所有者がいたが、今は町で教員となっている女性(ジュリー・マラゴン)が相続していた。父の時代から両者に分け隔てなく水を供給してやっていた。両勢力はともに独占したいと望んでいる。主人公の妻となる娘は、この教師と親しく、敵対する勢力の息子も女教師に言い寄っていた。

 本人は嫌がっていたが息子は父親に、女のほうが自分に気があると告げると、父親は喜んで連れてくるように言った。水源を自分たちのものにする絶好の機会だった。主人公の側でも相手の牛の群れに水を飲ませないよう、追い払って嫌がらせをしていた。主人公は二つの勢力が、水源を独占しようとする醜い争いを見かねて、動きはじめる。

 単独で水源の地を探して旅に出る。無断で出たので婚約者は心配し、父は四方に人をやって捜索にあたらせている。道に迷ったのか見つからない。見つけ出したのは、父親が頼りにする屈強の使用人頭(スティーヴ・リーチ)だった。彼もまた娘を愛していたが、軟弱な男に奪われたという思いが強かった。ふたりの恋敵はこのあと殴り合いの力比べをすることになるが、とことん殴り合うことで打ち解け、軟弱と思っていた男を見直すことになる。

 船員の経験はコンパスを用いて、迷うことなく目的地にたどり着いていた。そこには婚約者を介して知り合いになっていた女教師が来ていた。廃屋となった邸宅跡が残っていて、水源の池にも案内された。思い切って切り出したのは、この土地を自分に売ってもらえないかという交渉だった。女は男が一方の勢力下にあったので、はじめは提案を嫌ったが、男の真摯な態度に信頼感を得て、売る決意をする。男は独占するのではなく、自分が牧場主となって自立することを伝えた。東部の海の男が西部で水を取り戻したのだった。

 土地を手に入れたことを婚約者には黙っていた。婚約者が知ったのは女教師の口からで、それを知ると男を見直すことにもなるが、自分たちの陣営の勝利を喜ぶ姿を見ると、主人公は不信感を募らせていく。はじめて訪れたときに荒馬に乗ることを拒否していたことも、女には不満だったが、その後乗りこなせるようになっていたのを、それを見届けていた下僕から聞き知ることになる。自分の知らないことを他人が知っていることは許せない。女の勘は、女教師が自分の婚約者を愛しているのだと言いあててもいた。

 一方、敵対する家では、女教師を無理やりに父のもとに連れてきた息子が、父に見破られる。息子が一方的に言い寄っているだけで、女は嫌っていることを確信した。息子はならず者だったが、父は意外としっかりとした考え方をもつ人物だった。不在中に家が襲われた仕返しに、花婿となる男を祝うパーティを開いている、相手宅に単独で乗り込んだときも、勇気のある正統な主張のできる人格であることを知らせるものだった。この役を好演したバール・アイヴスがアカデミー賞、ゴールデングローブ賞助演男優賞を受賞している。

 水源のある土地を売るよう強要された女教師は、すでに手放したことを伝えた。彼女がとらわれたことを知った主人公が、丸腰で助けにやってくる。息子が威嚇すると、女教師は男の身を案じて自分の意志でここにきたのだと偽りを言う。父親はそれを見て、すべてを理解したようだった。連れ戻そうとするとふたりの男は殴りあいになる。息子が銃を向けると、父親が丸腰の相手を撃つのかととがめて、短銃による決闘を提案する。それは馬の背に乗せていたもので、結婚を前提にフィアンセの父に贈ったものだったが、破局を迎えて返されてきていた。

 古式に則って決闘をおこなう。息子がルール違反を犯して、先に発砲する。銃弾が主人公のこめかみをかすめる。次に主人公が、発砲する番がきて、息子はおびえてうずくまると、主人公は的を外して地面に向けて発射した。命拾いをした息子は、近くにいた仲間の銃を取り上げて撃とうとしたとき、父親がそれを許さず息子を撃ち殺していた。息子の愚かさを嘆きながら、悲しんで抱きしめている。

 女教師を連れて主人公は立ち去ることになるが、父親は相手と一騎打ちをすることで、これ以上の犠牲を出さないことを念じて、近づいてくる敵に向かった。息子を撃ち殺したときに自分も死んでいたのだろう。愚かな争いに終止符を打つ。相手の元少佐もそれに応じて、一対一の対決に挑んだ。ふたりは同士討ちとなり、命を落とすことになる。

 ラストシーンは主人公と女教師の後ろ姿だった。顔を見合わせて笑みをかわすのには違和感を抱くが、馬に乗り立ち去ってゆく。主人公に従う下僕を加えて三頭の馬が向かうのは、主人公が買い取った水源のある土地であることが暗示される。

 廃屋となっていた邸宅を改装して牧場主としての新しい生活がはじまっていくのだろう。もっと空想を羽ばたかせれば、婚約者はチャールトン・ヘストン演じる恋敵と結ばれる。頼もしい勇姿は、少なくともグレゴリーペックよりも、彼女好みにちがいない。ふたりの男も、すでにたがいに心を通わせていたので、うまくおさまりはつくのだ。

 敵対していたボスはともにいない。ならず者の愚かな息子も死んだ。小さな弟がいたはずだ。母親とともに善良に生きていくことになる。ハッピーエンドは描けるが、昔の男を忘れきれない女心の泥沼も、同時に見つめることもできる。愛は求めるが、それが独占か博愛かで起こるドラマである。いずれにせよ、楽しませてくれる映画だった。

第424回 2024年3月25

手錠のままの脱獄1958

 スタンリー・クレイマー監督作品、アメリカ映画、原題はThe Defiant Ones、アカデミー賞脚本賞、撮影賞、ベルリン国際映画祭男優賞(シドニー・ポワチエ)受賞。白人(ジャクソン)と黒人(カレン)が鎖につながれたまま脱獄する。寄り添って眠る姿は一心同体だが、それによって引き起こされる人種差別と、それをこえた人間ドラマである。

 護送中の車が崖から転落し、ひとつの鎖につながれた白人と黒人が逃げてしまった。警察犬を導入して追いかけるが、濁流をかいくぐり、いさかいながらも逃亡を続けていく。岩でたたきつけても、鎖はびくともしない。飲まず食わずの過酷な状況は、カエルをつかまえて飢餓をしのいでまでもいる。転落事故さえ起こらなかったならと、脱走を悔やんだかもしれないが、あとには引けない。

 集落を見つけ逃げ込んだが、気づかれてつかまる。警察に引き渡されるかと、あきらめをつけたが、救われてまた逃亡を続けることになる。救ってくれた男の手首には鎖の跡が残っていた。次にひとりの少年と出会い、母親と二人で住む住居にかくまわれる。夫はいないで、家出をして久しかった。息子を足手まといと感じながらも、見捨てることもできず、女としては孤独な生活を送っていた。こんな生活からは逃れたいと、機会を待っていたのだった。

 手錠につながれた二人を見たとき、黒人を逮捕した警官だと見まちがえている。白人にたのもしい男性の魅力を感じ取り、もてなすことになる。食事を用意し、コーヒーを立てるが、黒人は眼中にはない。白人が黒人を指し示して、2人分だと要求している。白人と女はたがいに官能をくすぐられたようだった。黒人と子どもの目を気にしないまでに、大胆にふるまいはじめる。女は自分を連れて逃げてくれとまで言い出している。子どもはどうするのかと聞くと、姉に預けると言うのだ。

 男は女との愛欲におぼれるようにみえるが、一心同体であった黒人のことが気がかりになっている。ハンマーで手錠は壊され自由になったはずなのに、ふたりは離れようとはしないのが不思議だが、見えない鎖でつながっているとしか思えない。鎖ではなく絆で結ばれているというのが正しいだろう。

 女が男を誘い、車庫に故障をしている車があるので、修理をして逃げようと持ちかけるが、その会話を黒人が聞いていた。ふたりの姿をみて、怒りを示すのではなくて、あきらめをつけようとしたように思える。女はあからさまに人種差別をあらわにして、自分のしあわせだけを追い求めていた。黒人には徒歩で逃れる近道を教えるが、いつわりを含んでいた。男も女の思いを受け入れて、ふたりはここで別れて逃げるのが安全だと判断している。

 沼地を行くが足は届く深さなので、犬に嗅ぎつけられることもなく、逃げ切ることができると言っていた。男に問われて、ほんとうはそこが底なし沼であることを明かした。徒歩では逃げ切ることは難しいと判断して、つかまって自分たちのことを自白されるのを恐れたためだった。それを聞くと、友を裏切った自分に我慢がならず、女を振り切って走り出す。息子が母をかばって銃の引き金を引くと、男の肩に命中していた。

 白人は黒人を追いかける。追いついたときに、なぜ追ってきたのかと意外な顔をしている。撃たれた傷が痛みをともないはじめていた。白人の足取りが遅れると、黒人は鎖につながっているのだと思えと言って鼓舞した。ふたりはやっとの思いで、鉄道路にまで行き着いたが、貨物列車に飛び乗るには、力が及ばなかった。

 黒人は乗り込んでいたので、ひとりで逃げることもできたはずだ。鎖につながれたような、結ばれた手によって、ふたりして振り落とされていた。観念したように、黒人が白人を背後からやさしく抱きかかえている。警察犬をともなった追手が追いつく。苦労をして傷まで負って、結局は捕まってしまう姿は徒労としか見えないが、それ以上のかけがえのないものを得たことは確かだった。

第425回 2024年3月26

弁天小僧1958

 伊藤大輔監督作品、市川雷蔵主演、ブルーリボン賞主演男優賞、撮影賞(宮川一夫)受賞。泥棒一味の活躍を描く時代劇。悪事をはたらく権力者をこらしめるという名目ではあるが、泥棒であることに変わりはない。大手を振って名乗れない哀しみが、主題になっている。

 長屋で病いにふせる父親と暮らす、器量よしの娘が、見初められて名の知られた屋敷にあがるが、秘密裡にことは運ばれている。言うことを聞かず、逃げ出したのを弁天小僧が助ける。娘は彼の顔をよく見ると、思い出したように菊さま、菊之助さまと呼んでいる。むかし恋仲であった男だったが、詳しい間柄は語られない。男も娘を確認して、一瞬気を許すが、思い直して突き放す。まともに顔を合わせられる人間ではないことを自戒してのことだった。

 武士の悪だくみは、大商人の財産を乗っ取ろうとして、娘を嫁にもらう画策をする。婿になるのはまだ少年だったが、無理やりに添わせようとしている。弁天小僧の一味は、商人が武士と結託しているとみて、一芝居打つ策を練る。歌舞伎の舞台がはさまれるが、弁天小僧が考えついた筋書きである。「知らざあ言って聞かせやしょう」という啖呵をきる名ゼリフである。

 弁天小僧が女に化けて、店にやってくる。煌びやかな着物や飾りを、買い求めようとして選んでいる。隙を見て売り物をそっと胸元に入れる。それを見とどけた店の者が大声で騒ぎ出す。盗人呼ばわりされて、開き直りふところに入れた商品を出すと、ちがう店の商標がついていた。店の主人を出せと声高に叫んでいるところに、見回りの役人が通りかかり、女の胸元から毛が生えていることで、男であることを見破った。開き直って弁天小僧は肩肌を脱ぎ、入れ墨を見せて啖呵をきる。窮地を助けられた主人は、役人を別室に案内して、お礼をしたいと言う。

 そこまでが舞台中継である。役人も泥棒仲間のひとりだった。そこで要求したのは娘が嫁ぐ持参金だった。そこから主人は武士に仕組まれた悪事を語りはじめた。店の在庫調べと称して、幕府禁制の商品をまぎらせて、言いがかりをつける。店が取りつぶされないために、だいじな一人娘を犠牲にすることになった。主人にはもう一人子どもがあったが、不幸な生き別れをしていた。息子だったが手がかりは娘の持っているのと同じ、特徴のある肌守りと、それに書き込まれた出生のいわれだった。

 弁天小僧は同じ肌守りを身につけていた。中身のことば書きも、そのままだったが、名乗りを上げることはできなかった。思い切るようにそれを投げ捨てて、自分のものではなく、もらったものだと言い張った。実の妹は驚きの目をもって、それを眺めている。愛した娘もその場にいた。別れのことばを告げて、去っていく。追手の御用の提灯が、夜の闇を破って、町中を走り回るなか、逃げきれなくなって、あいくちで自害することで、幕は閉じる。

 悪党を葬ることはできなかった。あとの始末は、逃れる途中で出会った、勝新太郎演じる町奉行、遠山の金さんに託されることになる。ともに背中に入れ墨をもつアウトローである。悲しい過去をもってはいるが、世の中には心に入れ墨をもつ、それ以上の悪人がいる。背中の入れ墨は、これが見えぬかと言って、御老公の紋所になるものだ。ただしそれは庶民のあこがれにすぎない。肩肌脱いだ姿は絵になる美しいものではあるが、現実には愛するものを失う悲しい末路でもあった。

第426回 2024年3月27

彼岸花1958

 小津安二郎監督作品、里見弴原作、ブルーリボン賞主演女優賞受賞(山本富士子)、英語名はEquinox flower。結婚前の子をもつ親には必見の映画である。中学時代のクラス会が開かれて、子どもの結婚のことが共通の話題になっている。男ばかりの子どもだったり、七人の子どもが全員女の子だったり、一人娘が家を出てしまったりとさまざまな悩みが、語られている。主人公(平山)は会社の重役で、ふたりの娘がいるが、親の思い通りにはならない。親の決めた相手と見合い結婚をするというような古い考えからは逸脱している。

 姉(節子)のほうには恋愛をしている相手(谷口)がいたが、親には黙っていた。ある日父親の職場に見知らぬ男が訪ねてきて、いきなり娘と結婚させてほしいと言う。突然なことで父は、男の非常識に気分を害して、帰宅後、娘に問いただす。娘との恋愛は確かだったが、娘はまず母に話して、その後に折りを見て父親の耳に入れてもらうつもりをしていた。

 男が暴走したのは、広島への転勤が決まり、父親の承諾を急いだためだった。父から叱責され、娘は反発して家を出て、男のアパートに向かう。娘は男の身勝手をとがめるが、男はなだめて夜も遅いので娘の家まで送っていく。玄関先まで送り、母親と会釈しただけだったが、母親には好感を得たようだった。妹(久子)も姉の行動を支持して、自分も同じ歩みを取ろうと思っている。

 主人公は頼られて相談を持ちかけられることも多い。中学時代の旧友のひとり(三上)が訪ねてきて、娘が男をつくって家出をしたので、引き戻すのに協力してほしいといってきた。相手は酒場のピアニストで、娘はスナックで働いているのだという。父親に代わってようすを見に行くことになる。娘は小さいときの記憶があり、話しかけると娘も思い出した。事情を聞くが、父親とは折りあえるようには思えない。相手の男ともあいさつをかわすが、ふたりの応援はし難いようだった。

 懇意にしている大阪の料亭のおかみ(佐々木)が、人間ドックで東京にやってくる。留守中に自宅にもあいさつにきて、妻が対応するが、いつも話が長く、上がりこんで延々と話し始めている。ほうきを逆さにして立てかけていたのを、トイレを借りたときに、おかみはもとに戻して、壁に吊り下げていた。何気ない動作だったが、意味がわかると思わず笑ってしまった。外国人が見れば、何のことかがわからないだろう。入れ替わりにその娘(幸子)もやってきて、母親からの束縛を嘆いている。勝手に結婚相手を見つけて、娘の意志も確かめずにいる。

 しばらくしてまた、この娘だけがやってきて相談を持ちかけたのは、好きな相手ができたが、母親がうんと言わないのだという。家出してきていた。主人公は母親の言うことなど聞く必要はなく、娘の自由恋愛に拍手し、結婚をするよう応援をしている。先に娘は主人公の娘と結託していて、たがいに協力しあう約束をしていた。ほんとうは娘に好きな相手などいなかった。主人公の発言を自分の娘にあてはめて、父親の承諾が得られたと言って、電話で主人公の家に伝えている。父親はみごとにトリックにはめられてしまったようだ。

 他人事には寛大だが、自分にあてはめると、そうはいかない。父親は結婚式には出ないと言い張っている。それでも娘のことが心配で、興信所で男のことを調べさせている。部下にこの男の大学の後輩(近藤)がいて、例のスナック(ルナ)に誘って聞き出そうとする。部下はなじみの客でコンちゃんと呼ばれているが、重役との同行でかしこまって黙っている。母親や妹からも、男の評判は悪くない。そんな情報が集まっても、最愛の娘を手放す父親の心は何ともしがたいようだ。

 中学時代の旧友が仲人を引き受け、あいさつにやってくる。父親の意地を察して、結婚式にでることはないと言ってくれている。最後には折れて、出ないわけにもいかないと言って出ることになったが、披露宴の間中、苦虫を踏みつぶしたように、笑うことはなかったようだ。仕事のついでに大阪の料亭に顔を出して、母娘に会って話し込んでいると、ふたりは足を伸ばして広島まで行くことを思いつき、勝手に段取りをつけてしまう。新婚夫婦は喜ぶにちがいないと言っている。仕事があると言いながらも、拒否することもなく、ラストシーンでは広島行きの列車に乗りこんでいた。

 笑うこともない無骨な父親が、時折ユーモアをまじえる役柄を、佐分利信が好演していた。妻役の田中絹代とのあうんの呼吸もみごとだった。大阪のおかみと娘の関係も、婚期を逸した娘と父という小津映画の定式に従っている。母親を一人残して嫁げないのである。浪花千恵子と山本富士子の大阪弁の早口が、映画を躍動的に展開させ、やかましいのに心地よい響きを奏でていた。小津監督初のカラー映画だが、完璧なフレームにおさまる、機械的なまでの様式美に魅せられる。アクセントとなる赤いやかんや器が名脇役として、見落とすことのできない、存在を主張していた。

第427回 2024年3月28

楢山節考1958

 木下惠介監督作品、深沢七郎原作、毎日映画コンクール日本映画大賞、キネマ旬報日本映画監督賞、女優賞受賞、田中絹代、高橋貞二主演。姨捨伝説を下敷きにして、70歳になったら山に捨てられる老女(おりん)の物語。歯が丈夫で、石にかじりついて無理矢理に歯をなくそうとしている。肩を落とす息子に比べて、健康すぎて死ねないのである。そんな約束事があれば、そんなものかと思ってしまうと、死も恐ろしくはないものかもしれない。

 昔話の残酷な世界だが、ラストシーンは「姨捨」という名の駅を蒸気機関車が走る、現代を映し出している。生々しい現実が下敷きにされているのを、思い知ることになる。対比をなすように、はじまりは歌舞伎の舞台の幕が、おはやしの拍子木とともに開いていた。舞台の書割りが、カメラの移動に合わせて、パノラマ的に変化する。つくられた虚構の舞台劇が、3Dの立体映像になったという印象だ。これまで見たことのない不思議な感覚に誘う実験映画である。以前見た同じ木下恵介作品である「笛吹川」を思い起こした。

 息子(辰平)は49歳、妻をなくしてまだ幼い子どももいるが、母親とともに農業を営んでいる。上の息子(けさ吉)は三十男であり、祖母につらくあたるのを父親は諌めるが、言うことを聞かない。早く山に行けと繰り返している。同じ歳の嫁(玉やん)が隣村から嫁いでくる。貧しい家の出身だったが、母親はよろこんでもてなしている。村の祝いに白米をたいて、腹いっぱい食べさせていると、隣家の老人(又やん)もやってきて、飯をついでやっている。自分より年上だったが、山に行くのを怖がっている。息子は冷酷で、父親を引きずって帰っていった。老女は祭りの日ぐらいおいしいものを食わせてやれと意見していた。

 老女と息子夫婦がそろって米を収穫する姿があった。母親はまだまだ丈夫だったが、70歳になる正月前には山に入るのだと覚悟を決めている。息子は悲しむが母の意志は強い。楢山に入るには決まり事があった。儀式にのっとって、役職たちが集まって、申し合わせを言い渡す。誰にも見られないで、沈黙を守ること、後ろを振り返らないことなどの取り決めを聞いたあとで、楢山までの道順が伝えられている。帰り際に役員が、途中で引き返すことのできる地点もあるのだと耳打ちをしている。このことは誰にも伝えている付帯事項だと付け加えた。

 その日が来て、母親を背負い出かける。現実離れのしたセットの風景のなかを移動し続けている。引き返せない七曲がりを過ぎると、もやの立ち込めた頂上付近には白骨死体が散乱し、カラスの群れが騒いでいる。息子はためらいながら歩むが、母親は黙ったまま、背中から指先で方向指示を出している。母親を下ろして、息子は一目散に立ち去ろうとしたが、途中で隣家の父子にでくわす。嫌がる父を縄で縛り上げて山に向かっていた。崖まで来て父親が嫌がったとき、息子は父を谷に突き落としてしまった。その仕打ちを見かねて、ふたりの男は揉み合いになり、さらにこの息子も、足を踏み外し、谷底に落ちていってしまった。

 雪が降りはじめてきた。主人公は母を案じて引き返す。母は手を合わせた仏のような姿で、静かに座していた。連れ戻すのかと思ったが、置き去りにして息子は泣きながら引き返していた。家に戻ると子どもたちが、何もなかったかのように、楽しげに歌いながら食卓を囲んでいる。窓越しに眺めていると、戸外にいた妻が近づいてきた。感慨深げに自分たちも70歳になったらいっしょに山に入ろうと誘っている。同年齢であるよろこびを共有する意志の力を感じさせた。まだふたりには共有できる時間が、20年は残されている。限られた時間が美しく感じられる。

 日本の古典芸能を下敷きにした音楽が、悲劇を盛り上げていく。三味線の太棹と、唸るような義太夫語りの響きは、腹にこだまして、ずっしりと重厚な日本の伝統の真価を伝えていた。定めを受け入れるか、あるいはあらがうかという判断は、日本の美学からすれば、諦念と受容をよしとするものだっただろう。戦後の新たな美意識を身につけた世代が、どんな対応を示すかを、問いかけているのだと思った。

第428回 2024年3月29

いとこ同志1959

 クロード・シャブロル監督作品、フランス映画、原題はLes Cousins、ベルリン国際映画祭金熊賞受賞、ジェラール・ブラン、ジャン=クロード・ブリアリ主演。パリに住んでいる、いとこ(ポール)を頼ってやってきた青年(シャルル)の悲劇。ともに大学生だが、性格は対照的で、同居するには無理がある。いとこは派手好きで、交際が多く、友達を大勢招いて、家でパーティを開く。主人公は新しい同居人として歓迎されて、パリの歓楽街をあちこちと案内されるが、引っ込み思案で交際はうまくはない。それでも女の子には興味があって、気に入ったら声をかけている。

 いとことも知り合いだったが、一人の女性(フロランス)に惹かれて、親しくなる。少し影のある主人公にとっては、自分とも共通する性格を感じていた。娘には男友だちは多かったようで、遊び好きでもあり、主人公は選択を誤ったようにみえる。いとこははじめふたりのあいだを取り持つが、やがて自分との関係が深くなっていってしまう。主人公の前でも、公然と寄り添うようになるが、自分には勉強がだいじだと、部屋に閉じこもって、本を開いている。パーティで騒ぐなかでは、集中はできない。

 遊び仲間しかいない生活に満足できず、街中で立ち寄った書店で、店主が何を探しているかと声をかけてきた。バルザックだと答えると、気に入られたようで、今の学生はポルノとミステリーしか買わないと嘆いている。ドストエフスキーなど見向きもしない。バルザックのコーナーに連れていって、どれでも好きなものを持っていけと言う。見ていない間に万引きをしてくれとまで言っている。何冊か選んで持ち帰ることになる。その後も何度か訪れて、失恋したことも打ち明けている。

 いとこは要領はよく、勉強はしないのに試験に合格している。試験日が一日早かった。その日に仲間を集めてパーティを開いている。お世話になった人たちを招いてのことだっのだろう。主人公は部屋で試験勉強をはじめるが、気になってはかどらない。ひとりでいるのが気になっていたのか、忘れかけていた彼女が部屋に入ってくる。誘惑されるが固く心を閉ざして追い返している。

 日頃からまじめに勉強を進めていたのに、試験に失敗して、落第してしまう。いとこは意外な結果に驚いて慰めるが、彼は暗い顔をしたままだ。夜道をさまよって、川端でたたずみ、自殺するのかと思ったが、カバンから学生証を取り出して、破って川に投げ捨てていた。

 寝静まった頃に、部屋に戻ってきた。壁に飾っていた拳銃のコレクションから、日頃おもちゃにして遊んでいた拳銃を一丁を外した。ロシアンルーレットに賭けようとしたようだ。弾薬を置いている引き出しも知っていて、弾を込めた。自分の確率は6分の1、いとこは6分の5とつぶやいて、眠っているいとこのこめかみに向かって引き金を引いた。弾は入っていなかった。ほっとしたように主人公は倒れ込んでそのまま眠ってしまう。

 翌朝、いとこは転がっている銃を拾い上げて、主人公に向かって、いつもしているようにふざけて撃つと、弾が入っていた。声を出して制止したが遅かった。命中して主人公は死んでしまった。いとこはぼうぜんとしている。なぜなのかが理解できないまま、これを事故として証明することはできないだろう。ふたりの人間関係が問われ、怨恨の有無が捜査されていくことになるはずだ。殺人を冒頭にもってくれば、一級のミステリーとして読み直すことも可能だが、このままではアートフルなバルザックの純文学ということになるだろう。当世の若者たちの気質を写実した、ヌーヴェルヴァーグを代表する作品として、評価されることになった。

第429回 2024年3月30

お熱いのがお好き1959

 ビリー・ワイルダー監督作品、アメリカ映画、原題はSome Like It Hot、トニー・カーティス、ジャック・レモン、マリリン・モンロー主演、アカデミー賞衣装デザイン賞、ゴールデングローブ賞作品賞、主演男優賞、主演女優賞受賞。マリリン・モンローの魅力が全開したコメディ。カラッとして陽気な、典型的なアメリカ映画である。人生の深い教訓や重苦しい考えさせられる社会意識もない。社会の反映としては、法的規制によって、禁酒が徹底されている、1929年のシカゴでの話だ。違法組織と警察との抗争が続いてはいるが、重圧を跳ね飛ばすような気楽な二人組のドタバタ劇が展開する。

 はじまりは霊柩車がおごそかに走っているが、パトカーがそれを追いかけはじめる。機関銃を出してパトカーに向かうと、応戦をしてカーチェイスが続く。棺に命中すると液体がこぼれはじめる。蓋を開けると、酒瓶が満載されていた。二人組は違法の酒場のジャズメンで、サックス奏者(ジョー)とベース奏者(ジェリー)だった。葬儀場が酒場になっていた。FBIの手入れが入って、逃げることはできたが、あとの仕事がない。

 女性だけの楽団があって、女装して名前を変えてもぐり込むことになる。ギャングの抗争に巻き込まれて追われてもいたので、身を隠すには都合がよかった。マイアミ行きの列車に乗り込んで、大騒ぎの地方巡業となった。雪の降るシカゴからも逃れることができた。そこで出会ったのが、ウクレレを弾く歌手(シュガー)で、その魅力にとらわれている。ウイスキーを隠し持っていて、それが見つかると、身代わりになって助けてやってもいた。

 何とか気をひこうとして、一方の男(ジョセフィン)は女装をやめて、シエル石油の御曹司だと偽って近づいていく。ビーチでの会話のなかで、親が貝殻を集めるのが好きで、会社名にその名をつけたと言って、見慣れた貝殻を見せると、娘は目を輝かせた。音楽が話題になったとき、ホットなジャズが好きなのだと言う。男は熱いのが好きなのかと問うて、自分はクラシックがいいと答えると、娘はクラシックの音楽院に学んだのだと明かしている。ポーランド出身で上流階級の出であったが、生い立ちを隠しているようにみえる。

 もう一方の男(ダフネ)は、女装のままで、年配の富豪にみそめられて、嫌がりながらも、財力の魅惑に引かれていく。相手は風采の上がらない容貌ではあるが、モーターボートを乗りこなして、さっそうとしている。最後にはかつらを脱ぎ捨てて男であることを明かすが、男でも女でも、そんなことは関係ないと断言し、完全な人間などいないと言って、求婚は続いている。娘のほうは、御曹司でないことがわかっても、この男に惹かれたようで、追いかけてきて、4人でモーターボートに乗って、新たな門出をはたしていた。

 折からマイアミにまで飛び火してきた、ギャングの血生臭い抗争からも逃れることができた。機関銃を乱射する抗争シーンは迫力があり、ことにタワーのような巨大なケーキに身を隠し、相手のボス撃ち殺すハードボイルドは、コメディをこえている。ハッピーエンドなのかどうかには、首をかしげるが、それぞれが満足しているのなら、それでよいのかと思う。4人がいっしょにいる限りは、富豪のちょっと変わった美意識のおかげで、愛情だけではなく、富も友情も満たされることになるだろう。

第430回 2024年3月31

にあんちゃん1959

 今村昌平監督作品、沖村武、前田暁子、長門裕之、松尾嘉代主演。にあんちゃん、つまり二番目の兄さんが主人公である。四人の兄弟姉妹の物語。父親の葬儀からはじまり、長男(安本喜一)が位牌をだいて歩いている。母親はいないようだ。男女男女の順で、下の二人はまだ小学生である。年下の少女(末子)が、ふたりの兄をあんちゃん、にあんちゃんと呼んでいる。場所は佐賀県、唐津。炭坑が整理されて、廃坑になり、大量に解雇される時代を背景にして、たくましく生きる子どもたちの姿を追っている。

 父親の友人(辺見)が長男の就職の世話をしてやっている。臨時雇いとして炭坑に働けるようになるが、本採用を上司に願い出ているものの、思うようにならない。会社の経営難から、逆に人員整理の対象にされ、解雇されてしまう。友人は談判をしに行くが、経営はどん底にまで達していた。労働者は団結してデモをおこなうが、会社の方針は閉山するか従業員の三分のニを解雇するかの選択を迫っていた。

 あんちゃんはやむなく解雇を受け入れ、別の雇用を紹介されることで、住み慣れた土地を離れることになる。長女(良子)もまた下働きに出ており、下のふたりは父の同僚宅に預かってもらうことになった。同僚はこころよく引き受けるが、妻が不平を言っている。兄はいくらかの金を妻に手渡して去っていった。ふたりの兄妹は肩身の狭い思いをしながら暮らすことになる。

 そのうち同僚自身も人員整理の対象となり、退職を余儀なくされる。二人はさらに父に世話になったという男のもとに移る。そこでもあんちゃんはなけなしの金を手渡していた。あまりの生活環境の悪さに、ふたりは申し合わせて飛び出してしまう。行くあてもなく唐津に引き返すことになる。途方に暮れているところを、小学校の保健の先生(堀かな子)が見つけてくれて、引き取られることになる。

 次兄(高一)はアルバイトが見つかり、住み込みでの重労働だったが、妹を残したまま出ていく。保健の先生は東京出身で婚約者もいたが、使命感をもって辺境の地で仕事を続けている。婚約者は待ちきれなく、自身も理想が挫折に終わり、自信をなくし、東京に帰ることを決意した。次兄は貯まったお金を持って、妹にだけ言い置いて東京行きの列車に乗った。1200円のアルバイト台から900円を旅費にあてて、残りからいくらかを妹に手渡している。

 夢に向かって、父も兄もできなかったことを、自分が実現しようと思ったのだった。到着したその日、自転車店でアルバイト募集の張り紙をみて入ると、主人はあやしんで、交番に知らせた。小学生なら当然のことだっただろう。補導されて強制送還されると、唐津の駅では長男と長女が待っていた。

 小学校の担任(桐野)も来ていて、東京のことを聞いている。都会はごみごみしていて、ここのほうがずっといいと答えている。先生は怒るのではなくいい経験をしたと言ってやり、お前は成績も一番なので、これからいつでも出ていく機会はある。今はしっかりと勉強するように励ました。次弟の向こう見ずではあるが、へこたれない姿勢は、見るものに勇気を与えるものであり、評価されて文部大臣賞を受賞している。

 今村監督作品にしては、品行方正で前向きな、希望に満ちたものであり、屈折したその後の作品群とは、相容れないものだ。しかし話題性のある社会現象に敏感に反応する資質の原点になるものだと考えると興味深い。社会の歪みを見つめるリアリティのある目という点では通底している。フェリーニが初期に取り組んだ「道」と比べてみることができるかもしれない。

第431回 2024年42

鍵1959

 市川崑監督作品、谷崎潤一郎原作、英語名はOdd Obsession、ブルーリボン賞監督賞、カンヌ国際映画祭審査員賞、ゴールデングローブ賞外国語映画賞受賞。若い医師をはさんで、一家三人の奇妙な関係が、ミステリアスに展開する。最後には全員死んでしまうので、サスペンス映画でもある。京マチ子、叶順子、仲代達矢、中村鴈治郎、北林谷栄という主要な登場人物の、目の座った不気味な演技が、常軌を逸した異様な世界に引き込んでいく。

 一家の主人(剣持)は、老境にあるが、妻の肉体を異常なまでに愛している。京都の郊外だろうか、古美術の鑑定家で、家には書画骨董が数多く所蔵されている。それらはすでに美術商の手に渡り、財産ではなくなっている。妻(郁子)と一人娘(敏子)がいて、娘は若い医師(木村)と結婚の予定だが、医師は妻とも関係をもっている。主人はその関係を知っていて、知らぬふりをして、その興奮を楽しんでいる。

 倒錯した異常心理だが、娘にもその血は引き継がれているかもしれない。娘も母親が医師と関係をもっていることに気づいているようなので、会話をしていても奇妙な間合いが、不条理感を高めている。この三人の身近にいる老いた家政婦(はな)が、すべての事情を飲み込み、客観的に眺めている。従順に言いつけは守っているが、冷ややかなあざけりのまなざしがうかがえる。

 医師のもとに三人が個別に訪れていた。家族が利用する病院だが、青年医師はインターンとして、そこに勤務していた。主人は血圧が高く、妻に内緒で診療に来ていた。医師は実家からカラスミを送ってきたので、今晩にもうかがうと言っている。妻は夫が来ているのではないかと疑って確かめにやって来ていた。娘も医師とは婚約関係にあるので、顔を見せていた。三人とも昼間に個別の顔合わせをしていたが、夕方に訪問したときの、三人のそれぞれへの第一声は、久しぶりという空々しいセリフだった。

 妻は医師との関係を知られないように注意しているが、夫が脳溢血で倒れてからは、大胆になって、医師に鍵を渡しておいて、寝静まった頃に裏口から入ってくるように誘っていた。娘は夜中に物音がするとあやしんでいる。夫が倒れたのも、血圧が高いのに、妻を愛したときの興奮によるものだった。血圧計で測れないまでの高い数値だった。興奮させて夫を死に追いやろうとしたと見えなくもない。ただしそんな素振りは微塵とも見せないで、従順な妻を演じていて、夫もそれを疑ってはいない。

 医師の野望は主人の財力にたより、美貌の妻との関係を続け、娘と結婚をして表面上は、常識的で円満な家庭に見せかけることだった。今の病院勤めをやめて、この家で開業すればいいと誘われると、ここでは通院するにはあまりにも不便だと返している。これらの思惑を見破っていたのは、老いた家政婦だったにちがいない。仮面をかぶった家族の不毛には、耐え難いものがあった。彼女は色盲であったようで、洗剤と農薬の入った赤と緑の缶を区別できなかった。ある日、缶の色を逆に見てしまうので、中身を入れ替えていた。

 この農薬が殺人に使われることになる。夫が倒れて死んだ直後、残された三人が茶の間で重なるように死んでいた。サラダに混入された農薬が死因だった。その前に三人は紅茶を飲んでいて、それには異常は見つからなかった。紅茶とサラダという奇妙な組み合わせも、犯罪捜査には、謎めいたものに映っただろう。私たちは娘が紅茶に農薬を入れて、母親に飲ませたことを知っている。彼女は母が平気な顔をしているのを、不思議がっていた。さらには家政婦がサラダに農薬を入れたことも知っている。

 家政婦は警察に出頭していて、自分が農薬を入れたのだと主張するが、受け入れられず、追い払われていた。事故として処理されて、悲しみを携えた家族の集団自殺にもみえる。妻は日記をつけていて、それが手がかりとなるが、表面上の美しい虚偽に終始して、真実を語るものではなかった。日記は人に見せるものではないので、嘘はないと思ってしまうというのが、ここでは重要なポイントとなるものだ。

第432回 2024年4月3

野火1959

 市川崑監督作品、大岡昇平原作、船越英二主演、毎日映画コンクール男優主演賞、ブルーリボン賞監督賞、撮影賞受賞、英語名はFires on the Plain。日米交戦の末期、前線からはずれて野戦病院に向かう兵士(田村)がいた。結核で血を吐いており、体力もないので、兵士として戦うことができなかった。隊長の命令で、5日間の食糧をもらって行ったが、3日後に帰ってきた。戦地では食糧は尽きていて、貴重なものだったので、手厚い待遇だったといえる。

 部隊長は結核がそんなに早く治るかと言って激怒し、もう一度病院に行くよう命じる。男は上等兵だったが、素直にこれに応じた。不自然なまでに忠実に命令に従おうとする。病院で収容してくれないなら、手榴弾で自決するのだと、その決意を述べさせられてもいる。自分の意志は失せてしまったようにみえる。

 役に立たないのでやっかい払いされたのだが、仲間の兵士たちは冷ややかな目で、彼を見つめている。過酷な労働に従事していたのに、それを免れて病院で過ごすのを、ねたんでいるようだった。銃と、袋に芋と手榴弾を入れて引き返す。途中で意を決して芋を捨ててみたが、思い直して拾っている。銃も池に投げ捨てていた。敵を殺す道具であり、それまでに主人公は簡単に人を殺してもいた。

 何の予備知識もなく見始めたので、はじめとろんとしたて生気のない不気味な目の演技をみて、仲代達矢だと思ったが、途中で配役名が挿入されて、船越英二なのだとわかった。上官の命令に忠実な兵士の典型のようにみえ、情け容赦もなく撃ち殺す姿に恐怖をおぼえる。病院に収容されず周辺にいて、敵の攻撃におびえながら、逃げのびようとしている。遠くで煙が上がるのを何度か目にして、人がいることがわかるが、アメリカ軍ののろしであるのか、現地人の野火であるのかはわからない。

 現地人が逃げ去った住居跡にたどり着いたとき、男女がやってきて残した家屋から何かを持ちだそうとするのに出くわした。主人公は銃を構えて近づき、ためらいもなく女のほうを撃ち殺した。男はおびえて逃げていった。ふたりのいた床下をみると、塩が隠されていて、兵士は袋に詰め込んでいる。このときの塩によって、このあと生きのびることができた。仲間の兵士たちにも見つかり、分け与えることになる。飢餓状態が続くと、人肉を食うにまで至っている。

 多くの仲間が命を落とすなか、主人公は生きのびていく。勇敢でも英雄的行動を取るでもない。体力はなかったのに、運がよかったとしか言いようはない。塩を巻き上げられた狡猾な班長のもとにいた仲間の兵士も、自分の身に危険が及ぶと直感すると、殺してしまっていた。戦争は人を非情にする。温厚な小心者の兵士が、凶暴さを見せて生き残っていく姿を見ながら、戦争が作り上げていった、人格の恐怖を感じ取ることになった。