第89回 2023年2月1日
木下惠介監督、高峰秀子主演。高峰秀子の演じる女は近代日本の女性史だ。彼女たちを通して昭和の女性像の変遷を綴ってみたいと思った。まずは代表作から、内容的には重く暗い映画であるが、高峰秀子という華のある女優の演技力によって、見ごたえのあるうえに、大衆的支持を得ることができたのだと思う。派手やかで艶のある映画にならなければ、ただの文部省推薦に終わり、160分は長過ぎたものにみえただろう。自転車を走らせて登場するこの都会的センスが素朴な島の子どもたちと実によい組み合わせを築き上げていた。いつも歌が聞こえてくるのはミュージカル仕立てであり、小学校唱歌ばかりなのに、華やかな調べを感じさせるものだった。懐かしいメロディに聞き耳を立ててもいた。
それにしても痛烈な反戦思想である。戦後でなければ成立しないドラマだと思う。小豆島の岬の分校に赴任した新米の女性教師と一年生12人の交流が、その後の20年近く、昭和史の激動を見つめながら、描き続けられていく。物語は昭和6年からはじまる。子どもたちは6歳、そして12歳、20歳と年齢を重ねていく。瞳の数は24、男5人と女7人という内訳だった。6年間をともにして小学校を卒業すると学友はばらばらになっていく。
6歳の子どもたちが12歳になったときはっとした。同じ顔をしているのである。そしてこの映画を制作するのに6年間待ち続けたのだと思った。何年間もカメラを回し続けた成果だとすれば、すごい映画に出会ったことになる。あとで調べてみてわかったのは、兄弟姉妹を使っての撮影だったようで納得したが、プロの役者を使っていたなら不可能だっただろう。
そして8年後、20歳の年は昭和20年、つまり日本の敗戦直前ということになるが、男は兵役に着き5名のうち3名は戦死をした。女教師の夫も兵隊に取られ、骨になって帰ってくる。戦争をあおる教育などこりごりだと思い、学校を去る。日本では反戦運動をアカと称して排斥した。それはかならずしも社会主義思想を指すものではなかった。子の無事を祈る世の母はすべてアカということになる。
リアリティは小豆島に根を張った土の香りのする子どもたちのセリフからはじまる。イタリアのネオリアリズモの映画運動と同調するように、何を言っているのか聞き取れないところもあり、英語の字幕でもいいので入れてほしいと思ったりした。今なら日本語の字幕が入るところだろうが、意味の通じないローカリティに身を委ねることが、ここでは重要なのだろう。
主人公が戦後になってもう一度教師となって分校に戻ってくると、かつて小学生だった娘の子どももいた。親子で教えてもらうことになったと喜びが伝えられる。女教師の帰還を祝った会に集まったのは女は5人、男は2人、男のひとりは両瞳を失っていた。小学校の入学式で24の瞳が輝きを見せたのはほんのつかの間の日々だったということだ。この映画が制作されたのは、戦後の復興が軌道に乗りはじめた頃で、生き残った者の分かち合う墓参の念に裏打ちされている。戦没者の氏名を掲げた墓標が、高台にある墓地と場をともにして、瀬戸内海を望んで生き続けていた。
完璧な様式美はカメラワークにも反映しているが、子どもを12人にして、男女を同数ではなく5:7にしているのも考えが行き渡っている。男5人のうち3人が戦死、2人は帰還するが1人は盲目になってしまったというのも、数字のバランスとしては行き届いている。子どもの貧富の差も、料亭の娘もいれば子守りの仕事があり進学できないもの、貧困で奉公に出るものなど、用意周到にバランスよく割り振られている。