ICOM京都大会開催記念 特別企画 

京博寄託の名宝 —美を守り、美を伝える

2019年08月14日~09月16日

京都国立博物館 平成知新館


2019/9/3

 国宝と重要文化財がずらりと並ぶ。寄託品だから常設展示の扱いなのだろうが、さすがに京都、お寺の多さを物語るものでもある。海北友松をはさんで、狩野永徳長谷川等伯が向かい合う一室は圧感だった。大きな屏風が二面と、ワンセットの掛け軸だけの3点のみで、展示室は満たされている。それぞれの持ち味をよく理解するには、両者を並べて比べるだけのスペースが必要だ。私設の小規模な美術館では不可能な、贅沢な空間を演出していた。

 仏画は暗くて見づらいものも多いが、平安時代の仏画で、掛け軸なのに折れ目が全くないものに出会うと、現代人の感性にまで、訴えかけてくるものなのだと痛感する。心憎いほどの細い截金が柔らかに仏の頰の輪郭をなぞっている。先日、原三渓の旧蔵になるたった一点の平安仏画に感銘を受けたが、ここではそれを上回って、京の諸寺が美の宝庫であることを再確認する。京博は安心して預けられる安置所として機能する。その限りでは、それらは礼拝像でも本尊でもなくて、美の結晶と化している。古美術に向ける現代のコレクターたちの飽くなき欲望の矛先として、京都には眠り続けているものが、まだまだありそうな予感がする。

 会期が短いために展示替えもなく、心残りなく全点を堪能できた。短期間であり、しかも常設料金なのであなどっていたが、前もって出品リストを入手して、あっと驚いた。たいていの国宝展は、たいそうな出品リストでも、前期展示、後期展示などと、何度も足を運ばせる胡散臭さを伴っている。ICOMという聞きなれない国際会議のおかげなのだろう。思わぬ漁夫の利にありついたということだった。長蛇の列で並んで頭越しにしか見れない昨今の国宝展事情を知っているものにとっては、ラッキーとしか言いようのないものだった。

 日頃は抵抗感の強い「書」も、文字を読むのではなくて、美術品として形を見るだけにとどめ置くと、解放感が増す。書こそフォルマリズムの美学を典型的に伝えるジャンルではないかと思った。そのくせそれが手紙であったり、メモ書きであったり、日常性に立脚しているのだから、茶碗を愛でるに等しいものだ。単なる連絡事項が軸装されて茶掛けになると、美に変貌する。禅の精神や茶の心とは、そういうものだ。「浴司」や「東司」の二文字だけで、禅の心が読み取れる。生活に密着した風呂場と便所のことだが、大きく書かれると、看板の文字となる。ふと魯山人を思い浮かべると、室町の精神が現代に蘇ってくる。文字は偉大だ。トイレもトワレットとフランス読みをすると、香水のにおいがしてくる。

 古代のコーナーで現代語で言えば、ブリキ缶にあたる錆びついた経筒が展示されている。多くは国宝に指定されているが、それはピカソを見て、キャプションにピカソの文字を発見して驚嘆の声を上げるのに等しい。そしてしげしげと見直してみる。一千年以上も前なのに蝶番の部分が精巧にできているとか、錆びついたところに風情があるとか、理由をつけて見直したくなる。国宝と書かれない限りは、目に止まらないただのブリキ缶なのだが。

 誰もが知っているところでは、源頼朝像宗達の風神雷神図だろうか。前者は頭に伝がついて頼朝像ではないようだが、作者に伝がついたわけではないので、歴史的価値はいざ知らず、芸術的価値は変わらない。パターン化された貼り絵のような装束も、目を凝らしてみると、贅を凝らした工芸品であることがよくわかる。何気なく置かれていると、複製品にすら見える。印刷物で見慣れているのでなおさらだ。やきものでは仁清乾山もあるし道八もあった。鍛え抜かれた京の美意識の革新に触れた気がした。


by Masaaki KAMBARA