第8章 ハリウッド映画

映画産業の興亡/演劇からの分離/サスペンス映画/不動産の否定/ミュージカル映画/銀幕の美女/ダンス映画/キューブリック/西部劇/マカロニウエスタン/戦争映画/反戦か好戦か

第445回 2022年12月18

映画産業の興亡

 「面白くなければ映画じゃない」という考えは、大衆動員により制作の継続が保障されることになると、産業としてアメリカ映画に繁栄をもたらした。ハリウッドは今も続く娯楽映画の一大拠点として、完成度の高い秀作を提供し続けていく。ミュージカルや西部劇など、アメリカのサクセスストーリーを背景とした栄光の歴史はベトナム戦争を機に、ことに戦争映画で影を落としていくが、一方でヒューマンドラマの制作を通じて映画のさらなる可能性を引き出すことになった。芸術を超えて人間性を伝える感動のツールとして、映画は進化をとげ、ヴェネツィアをはじめ、カンヌ、ベルリン、モスクワなど世界各地の映画祭が、秀作を吟味し、映画のもつ国際性と普遍性を拡張していった。

映画の話を対にしてみてきた。サイレントとトーキーでは、映像表現にとってはサイレントのほうがトーキーよりも重要である。音がすることで総合芸術化はしてきたが、映像の力は弱まったのではないか。そこに登場する映画監督としてチャップリンがいた。偉大なる映画作家だと思う。チャップリンがいなければサイレントの魅力はここまで語られることはなかっただろう。本章ではもうひとつのちがった対をあげてみたい。ここではハリウッド映画を取り上げるが、次のヌーヴェルヴァーグと対比する。規模を考えると対になるかは難しいが、あえて対にすると、エンターテイメントかアートかという比較は可能だろう。

ハリウッドはエンタメの宝庫である。現在では芸術性を抜きには語れないが、はじまりは娯楽としての映画産業だった。現代では難解で頭をひねるものも少なくない。文芸路線もアート系も加わるが、興行成績が優先され、現在でもハリウッドは生きのびている。テレビに押されて映画産業は斜陽といわれ、瀕死の重傷をおっていた。映画会社がテレビに進出し、シリーズ化されるものを手がけた。映画の文法とシステムに従って制作をつづけ、番組をテレビに提供した。ソフトの提供という点でテレビ産業も下火になったときに、映画は電子メディアをパソコンと連動させて生き延びようとしている。映画会社が多角化していったということだ。

 日本では大きな映画会社が五社あった。ハリウッドをまねた組織だった。五社を中心にした協同組合が独占し、エンターテイメント系の映画を提供した。ハリウッドの全盛時代は1950年前後かと思う。60年代にはヌーヴェルヴァーグが起こってきて葛藤がある。ただ単にドキドキひやひやするものでは済まなくなり、ハリウッドも悩み続ける。大作ではなくこじんまりしたものにも手を出していく。

日本にも五社体制に対し新しい潮流がもたらされ、独立プロが誕生する。大きな企業体ではなくて、大学の映画サークルの延長上のような小規模な仲間内での制作だった。会社組織では社長は高齢者で、保守的なものにしか目が向かない。放っておけば自分たちの趣味は限られる。ハリウッドの全盛期、ファミリーものが主流をなす。独身の男女ではなくて家庭があって家族を形成する。落ち着いた世界観は、若者が一匹狼で放浪するようなロードムーヴィーとはならない。大掛かりなセットを組んでそこで完結する。ハリウッドのファミリーへのこだわりは、ヌーベルヴァーグの影響を受けた一匹狼やアウトローへの興味を経て、「ゴッドファーザー」(1972-)に受け継がれていった。

第446回 2022年12月19

演劇からの分離

 ハリウッドは西海岸にある。文化はニューヨークのある東海岸にある。どうしてそんなところに行ったのか。大西洋を渡って西洋人は西海岸にたどり着いた。映画の近しい関係にあった演劇がニューヨーク、中でもとりわけブロードウェイという通りの名が浮上する。東西南北に碁盤の目をなす通りを斜めに突っ切り、芝居小屋がひしめいている。数が増えてオフ、さらにはオフオフブロードウェイまで膨張する。小型化してマニアックになっていく道筋をたどっていく。華やかなミュージカルがロングランを続ける。演劇は映画にとって影響力は大きいが、やがて敵対関係になっていく。伝統と権威があり、役を演じるというのに対し、映画は小刻みにカットをつなぎ編集していく点で、ライブ感覚とは異なる。同じ役者が映画と演劇の両方をこなすことになる場合、ニューヨークでの撮影なら掛け持ちは可能だ。

映画の拠点が西に移るにはいくつかの理由がある。雨が降ると仕事にならないという肉体労働者と同じ条件があった。一年の日照時間を考えてカリフォルニアにターゲットが当たる。ニューヨークは現在でも住むのに快適な気候とはいいがたい。フランスでも風光明媚な南仏があるのに、パリっ子は内陸の鬱陶しい風土を好んだ。ニューヨークやパリだけでなく、空っ風の東京や湿気の多い京都も立地条件として、決してほめられたものではない。それゆえに劇場で過ごすことで日常生活を脱皮する。

映画を見るのではなく作るのに、雨が少ないというのは快適な撮影条件となる。サンフランシスコは港町だがそこから内陸部に入り込んだロサンゼルスに拠点を定める。ハリウッドという映画制作に特化した街をつくりあげる。日本語に直すと「聖なる森」という聖域を呼び込む命名だった。映画の制作会社がそこに移り住む。誰がビジネスとして映画をはじめたか。映画の誕生は1895年の話だ。スクリーンタイプの映画がフランスで誕生し、アメリカにも日本にも入り込んでくる。

1908年頃にアメリカで映画会社ができる。いくつかできるがすべてユダヤ系の創業者だった。ビジネスをめざしアートとは一線を画した。映画はユダヤ人によって広められた。演劇は土地に根ざした不動産だが、映画はフィルムをもって移動する動産だった。映画には著作権があり、複製が海賊版として流布する。ブロードウェイの舞台とは異なる点だ。土地を追われて放浪しやがてアメリカにもたどり着いた。ヒトラーの登場でさらに輪をかけて、優秀な頭脳もアメリカに渡る。

学者や芸術家に加えて、経済を動かす大富豪が下支えをする。一握りの大富豪が世界の経済を動かしているのだという。影のフィクサーとしてユダヤ人が君臨したというわけである。株の操作を考えてみても莫大な数で勝利は目に見えている。民間投資家はその掌で遊ばされているが、人知を超えた神がかりな力を感じざるを得ない。その商法のあまりにも熾烈なやりくちがユダヤ人迫害に加速する。魔女か悪魔に対するような大量虐殺にまで至る憎悪は日本人には理解できないものだ。もちろん日本にも人種差別はある。差別する側が気づかないだけのことも多い。民主主義の本質は何だろう。1パーセントの富裕層が99パーセントの富を手にし、残りの1パーセントを99パーセントの民が分け合っているのだという。これが民主主義の実態なのだろうか。

第447回 2022年12月20

サスペンス映画

最初は見て楽しい娯楽産業としてスタートするが、繰り返すとマンネリに陥る。エンターテイメントとアートのちがいはどこにあるか。二回見る気になるかならないか。一度見て楽しいのはエンターテイメントに属するが、一回見て楽しければそれでいいという考え方はもちろんある。アートになると一度ではよくわからない。もう一度見て少しわかった。何度も見るなかでやっと理解できる。こうした出会いが映画の醍醐味となる。映画でも小説でも何度も味わえるものと、一度きりのものとはある。サスペンスものは概してエンタメ系で、犯人がわかってしまえばそれで終わる。そこに二度味わえるサスペンスが出てくればアートや文学になるのだろう。

ヒッチコックはヌーヴェルバーグの登場によって再評価された。これまでヒッチコックの芸術性を見落としてしまったのは、それがサスペンス映画であったからだ。チャップリンもまたその芸術性がコメディーというエンターテイメントに紛れ込んでいた。娯楽性をこえるのはもう一度見ようと思う点にある。ヒッチコック映画ではしばしば監督自身が映画のなかに登場するが、通行人などにまぎれて見逃すことも多い。それもまた、二度見せようという工夫だ。

ミステリーが文学になるためには次のような手続きが考えられる。一度目は犯人探しやアリバイ崩しを楽しみ、二度目は真犯人が別にいるのではないかと疑い、三度目は事件を引き起こした社会の構造に目が向かう。社会派と呼ばれる推理小説の台頭は、殺人のトリックに終始したエンタメに疑問を感じた純文学からの揺れ戻しだった。ここでやっと小説家は直木賞と芥川賞をともに受賞することが可能となる。

第448回 2022年12月21

不動産の否定

映画については清涼剤のようなところもあり、見てリフレッシュして、それで終われば十分だともいえる。それは不動産ではなく、モノがあとに残ることはない。入場料金を支払うことを思えば、楽しくなければ映画じゃない。対して楽しいだけが映画じゃないという言い返しがなされる。楽しければ興行収益が上がり、次の映画が制作できる。映画制作は絵画や小説とはちがう。賭けのような側面がある。大ヒットするのは早々はない。赤字が続くと映画会社がつぶれる。資本主義社会の典型として、一獲千金を底流に映画産業は推移する。

エンタメ系のアメリカ映画はハリウッドが一手に引き受ける。60年代に入ってアメリカの失敗はベトナム戦争に集約する。戦争映画はそれまでアメリカが正義の味方だった。ベトナム戦争の泥沼に入って、アメリカ万歳ではない反戦映画が登場する。ハリウッドでは観客動員を一義とすると、好戦映画だけではなく、反戦映画も受け入れられる。国家としては徴兵制度が拒否をされては困ることになる。

国家とは土地に根ざした枠組みのことである。土地をもたないということは安住できないことを意味する。頼れるのはマネーしかない。もうひとつは教育と学問。無形の財産であり、子弟に財産を残すのではなく、教育に投資する。ヴァイオリンを習わせてもいい。高等教育に進ませる。もちろん有り余る余剰の資産がある場合の話である。自分たちの稼ぎを子どもたちにつぎ込んでいく。土地を買うという発想がないのは民族の血か。ユダヤ民族は旧約聖書から登場するが、土地を追われて放浪を強いられる。流浪の民、ジプシーという名で一括される。映画もこれに近いところがある。舞台ならその場のオリジナルでしか評価できない。映画はフィルムをもってあちこちに行って上映できる。アメリカと同時に日本でも中国でも上映できる。

コピーのもつ力はマネーと同じで、流通するものだ。一点ものの美術品や宝石とはちがう。これが映画を考えるときのキーポイントになると思う。映画はどこにあるのか。スクリーンに映し出された画面の上にある。スクリーン上の光の揺らめきを見て代金を支払っている。書店で本を買うとモノを買っている。写真なら紙焼きのモノそのものがある。映画はそうではなく、株を買うのと同じで、揺れ動くものに賭ける。

第449回 2022年12月22

ミュージカル映画

ハリウッド映画は何を描いてきたか。ジャンルに分けてみてみよう。まず「ミュージカル映画」という特異な領域がある。今では数は少なくなったかもしれない。全盛期は1950-60年代にあった。出発点に「オズの魔法使い」(1939)がある。ジュディ・ガーランド(1922-69)という少女が登場する。カラーが全編には至らない時代だ。ほぼ同じ時期に「風と共に去りぬ」という大作が全編カラーで登場する。オズではパートカラーで、白黒ではじまるが途中で一部カラーが挿入される。コスト面から全編カラーにはできなかった。オズでは魔法の国に入っていくところでカラーに切り替わる。お花畑のカラフルな映像が目に入ってくる。「雨に唄えば」(1952)ではジーン・ケリー(1912-96)という名ダンサーが登場する。歌って踊ってという俳優術とは異なった技術が要求される。スターという星になぞらえる華やかな輝きが求められる。

サウンドオブミュージック」(1965)は舞台でもブロードウェイでも大ヒットした。スタンダードナンバーであり、映画では低空飛行をするようなカメラワークではじまるが、舞台では実現できない映画の魅力を引き出す。主演は舞台でも映画でもジュリー・アンドリュース(1935-)が演じた。舞台俳優と映画俳優では見せ場が異なる。舞台では振りが大げさになるし、映画ではアップにたえることが必要になる。メイクひとつとっても対極にあるものだ。1920年からはじまるアカデミー賞という映画でのプライズが俳優のランキング付けをする。映画はエンタメとされていたが、アメリカに入って数十年を経てアートフルなものが加味されていった。大ヒットだけが条件ではなく、出来のいい映画が映画評論家連盟の力を借りて吟味されていく。時代に残る名作を選び出していくのだ。時代を経ても繰り返し鑑賞にたえるものでなければならない。アンドリュースは「メリーポピンズ」(1964)でミュージカル映画を成功させている。

第450回 2022年12月23

銀幕の美女

マイフェアレディ」(1964)の制作をめぐっては、確執が生まれる。舞台ではアンドリュースが演じ、映画でも演じるつもりが、オードリー・ヘップバーン(1929-93)に座を奪われる形になった。オードリーのほうが歳上で銀幕スターとしてのキャリアはあった。銀幕の美女という特殊な美意識が確立していた。グレタ・ガルボ(1905-90)やイングリッド・バーグマン(1915-82)からの女優の系譜がある。トーキー時代に入ってガルボのだみ声を初めて聞いて、観客たちは驚いた。日本でもサイレント時代の美女が地方なまりの声で驚かせた。舞台俳優とは決定的に異なるところだった。映画がスターダムにのし上がっていく、その流れの中でヘップバーンが造られた。

歌も演技も踊りもうまいけれども、その対極にある新人に役を取られるという話はよくある。歌も下手な町の娘をレディにするという話であり、出発点では歌は下手でいい。下手に唄う演技よりも、もともとが下手なほうがリアリティはある。映画では吹き替えが可能だ。字幕スーパーという名称もある。これによってアメリカ映画はすべて英語となる。ハリウッド映画のジャンルをなす歴史ものに、「ベンハー」(1959)、「クレオパトラ」(1963)、「グラディエーター」(2000)など古代ローマ時代の映画がある。そこでは英語をしゃべっているが不自然と思わない。そこでは英語の吹き替えになっていると解釈すればすむ。

ミュージカルは英語だが、フランスに導入されたことがある。フランス語でつくられた「シェルブールの雨傘」(1964)ではカトリーヌ・ドヌーヴ(1943-)が登場するが、あとは続かなかった。ミュージカルはアメリカのものという印象を強めたが、オペラの伝統からみればその映画での展開ではあったが、逆にこの芝居がかった不自然な形式が、アメリカではよく続いてきたなという気がする。

60年代の映画全盛期、日本でもミュージカルは娯楽の代名詞として君臨した。映画館は常に満員だった。人込みをかき分けるようにしてスクリーンの上半分しか見ていなかったこともある。座席指定もないので入れ替えもなく、ミュージカルはサスペンス映画と異なり、繰り返し見ても楽しかった。一回目は立ちながら、二回目は座って見ることができた。三回目は眠っていたが、目をつむっていても音楽だけは聞こえていた。こんな環境がミュージカルを育て、日本流の映画鑑賞法として定着した。個人的には立ちながら見た記憶が多くて、ミュージカルと聞けば、足がだるい感じがしてくる。

第451回 2022年12月24

ダンス映画

類似してダンス映画がある。ミュージカルは歌って、ダンス映画は踊ってということだ。踊りが出てきたダンス映画の出発点が「ウエストサイド物語」(1961)である。ジョージ・チャキリス(1934-)の細身の鋭い動きが目を引く。フィギュアスケートに受け継がれる身のこなしだった。踊れる俳優がその後のダンス映画を築いていく。

「サタデーナイトフィーバー」(1977)ではジョン・トラボルタ(1954-)が、セクシーな腰の動きを特徴としてスタートする。その後体型が変化して機敏さを失い、別の役どころとして大成する。「パルプフィクション」(1994)でよみがえったが、そこでは鈍い輝きを見せる目の演技が身体の動きをうわまわっていた。「フラッシュダンス」(1983)や「ホワイトナイツ」(1985)もヒットする。

ハリウッド俳優でも太ってしまう。太っても老いても別の役柄で大成する。健康ブームを背景に舞踊を鑑賞するのではなく実践するという視点で、ダンス映画はミュージカルと一線を画して身近なものとなっていった。路上でのライヴ感覚はミュージックシーンと連動するもので、それがニューヨークなら「ウエストサイド物語」に反映する。日本との比較を持ち出すと「東京物語」(1953)の舞踊とは無縁と思えるゆったりとした時の流れを対峙させることで、日本文化論を語ることになるだろう。そこに舞踊がないわけではない。能と狂言に支えられた日本のリズムが小津映画のなかでは、畳をすり足で歩むだけで、ダンス映画の旋律をなぞっていた。

第452回 2022年12月25

キューブリック

エスエフ(SF)映画が次に分類できる。エスエフでは日本でしか通用しない。サイファイムーヴィーなら通じるか。サイエンスフィクションの略語だが、近未来を描き、その後のハリウッドの得意技になっていく。特撮とはいえ模型を使いながら撮影する。大掛かりなセットはハリウッドの代名詞だった。スタンリー・キューブリック(1928-99)の名とともに「2001年宇宙の旅」(1968)がジャンルを代表する。今では過去の年号となってしまったが、30年後にどうなるかという未来予測図でもあった。

映像美に魅せられる明るい映画だった。現代文明の未来は必ずしも明るくはないが、印象派の絵画と同じで画面はクリアで物理的な意味で明るかった。モノクロ映画が長く続いたせいもあるが、ながらく映画は暗かった。映画館に行っても暗い気持ちになることが多かった。カラー作品が登場したとき明るくはなったが、光量が少なく、劣化したフィルムを場末の映画館で見ると、哀愁がただよった。

そんな目でキューブリックを見るとなんて明るいのだと驚く。フィルムや機材の改良ということもあるだろうが、撮影時のライティングにもよっていた。目がくらむような熱を帯びた光を浴びて、俳優たちは大変だっただろう。作品によれば逆にロウソクの光だけで撮影され、ここでも俳優は苦労した。今ではハレーションを起こすような照明は、撮影後のデジタル処理ですまされるものだろうが、キューブリック流のこだわりの撮影術だった。涼しそうな役柄もよくみると熱を帯び、まぶしそうなまなざしを浮かべている。見ているほうには熱は伝わってはこない。明るさだけの世界にみえる。映像美という点ではこれ抜きには語れない名作だった。

内容的にはよく言えば難解、よくわからないものだった。これまで映画を支えていたストーリーを超越する。絵画史のアヴァンギャルドと対応する。近未来の宇宙の話にしないとエンタメ系には見えない。観客は集めるが現代絵画を前にしたようなためらいもあった。今では映画史に残る傑作としてカウントされる。これもふくめてSF系映画がハリウッドを跡付けていった。その後では「スターウォーズ」(1977-)や「エイリアン」(1979-)がシリーズ化されることで、観客動員力が誇られる。「ブレードランナー」(1982)もエンターテイメントを超える逸品だった。「2001年」は「新世紀エヴァンゲリオン」(1995)や「マトリックス」(1999)に受け継がれる世界観の転換を図った。アート系映像を探究する知的好奇心に火をつけた。

キューブリックはこのあと、「時計仕掛けのオレンジ」(1971)の冒頭でのバイオレンスで、これまでのハリウッド映画では経験できない狂気の映像美を見せたし、「シャイニング」(1980)はジャックニコルソンの怪演を得て、さらに映像の局地へと達した。

第453回 2022年12月26

西部劇

西部劇(ウェスタン)というアメリカならではのジャンルがある。古代ローマを舞台にした時代物があったが、これもまた日本流にいえば時代劇に属する。ちょんまげに日本刀というのに対応するが、ガンマンの登場は古きよき時代の郷愁に支えられている。根っからのアメリカとは何か。自国のアイデンティティの問い直しにみえる。当然アメリカ万歳という映画になる。アメリカ第一主義となる。

西部劇は考えもなく人種差別を促進する。インディアンは悪人で、白人は善人だった。勧善懲悪にもとづいたわかりやすい復讐劇が基本をなす。インディアンがもともとは原住民だったはずだ。それを追い払って西部開拓史が始まった。アメリカは東海岸からはじまって西に向かっていく歴史だ。西に向かうなかで西部劇となってドラマ化されていく。西海岸まではたどり着かず、荒野の用心棒という名がふさわしい。ロッキー山脈を背景にした小さな村での出来事がクローズアップされていく。

出発点にジョン・フォード(1894-1973)監督による「駅馬車」(1939)がある。アクションシーンにもすぐれ、ジョン・ウエイン(1907-79)が主演をする。こわもてのタカ派で知られるが、西部劇のあとは「グリーンベレー」(1968)など戦争映画で英雄像を演じる。政界では共和党と民主党の覇権争いが続くが、前者のスポークスマンといえる人物だった。グリーンベレーは戦争も悪くないというヒトラーユーゲントの颯爽とした勇姿を憧れる若者をターゲットにしたものだった。

トップガン」(1986)という、西部劇のヒーローを思わせる戦争映画も、その後登場した。戦闘機の颯爽たるかっこよさを見せつけないとだれも従軍してはくれなかった。タカとハトを対比的に考えれば、日本美術史でも鷹図が圧倒的に多い。平和思想のもろさは、ハトやスズメが描かれた画家の時代背景を追跡するなかで見えてくる。鷹図は狩野派のレパートリーだが、明治期にもみことな金工の雄姿として鋳造されている。ピカソと徽宗の鳩図と、俳諧と連動した文人画家たちのスズメに寄せる心象も気になるものだ。そして宮本武蔵(1584-1643)のモズ(鵙)にたどりつく。つまりこの剣豪は鷹のひとではなかった。

空中戦のようなゲーム機のバーチャル目線ばかりが戦争ではない。地上戦の泥沼の状況を写したゲリラ戦の映像が対抗する。「プラトーン」(1986)や「地獄の黙示録」(1979)の陰鬱な、時として味方に向けて発砲するような狂想曲が、戦争の真実を主張する。「ディアハンター」(1978)はロシアンルーレットのはて、命からがら帰還して発狂する。

「駅馬車」のあとは、ゲーリークーパー(1901-61)の「真昼の決闘」(1952)、アランラッド(1913-64)の「シェーン」(1953)が続く。子役の使い方がうまく、ラストシーンでは、立ち去る主人公の後ろ姿と「シェーンカムバック」という少年の声が山に向かい、今もまだ私の耳にはこだましている。白人になって見ている限りでは問題とならない人種差別に気づきはじめると、西部劇というジャンルそのものに疑問符が投げかけられる。何の疑問もなく白人万歳という映画をつくり続けていた。その反省がクリント・イーストウッド(1930-)あたりの西部劇からはじまっていく。インディアンだけでなく黒人もアジア系もアメリカの構成員だった。

第454回 2022年12月27

マカロニウエスタン

西部劇自体が衰退していくが、それと連動して出てくるのが、イタリアでつくられた西部劇である。西部劇はアメリカのものだが、イタリア産はマカロニウエスタンなどと呼ばれた。英語をこなせるイタリア系の移民はアメリカには多数いる。アルカポネの名が輝いているが、アルパチーノ(1940-)やロバートデニーロ(1943-)をはじめ名優も多い。その後は「ゴッドファーザー」(1972)をはじめイタリアンマフィアを題材にしたギャング映画に結晶する。アメリカの闇の世界をヨーロッパ伝統の重厚な格式を通して写し出す。ユダヤ人ともあわさり移民の悲哀が連動する。その延長上にイタリア版の西部劇が一時期だが一世を風靡する。アメリカに起こった人種差別の反動のようにみえる。不思議な西部劇だが興行的にもヒットする。

荒野の用心棒」(1964)は黒澤明の「用心棒」(1961)をリメイクした。一匹狼に共通するアウトローへ向けるまなざしがある。荒野の風土は日本でも鳥取砂丘のような地があれば、イタリアに限らずどこででも成り立つものだった。「用心棒」を見ていると西部の町並みのような雰囲気が醸し出される。風が吹くと砂ぼこりが立つ。関東の空っ風は西部劇の西部開拓史の一コマのようだ。三船敏郎(1920-97)が腰に刀を差して肩で風を切るしぐさは、銃を腰に置き換えればそのまま西部劇になる。黒澤の中にもちろん古きよきアメリカ映画の西部劇は入っていたはずだ。「用心棒」を経由して西部劇の伝統が新たに西洋に逆輸入された。イーストウッドは、用心棒から一匹狼に変身し、勧善懲悪は逆転する。悪人は保安官の側にあった。このあとに続く刑事を演じた「ダーティハリー」(1971-)のシリーズでも、悪人は警察本部のなかにいた。

第455回 2022年12月28

戦争映画

戦争映画もハリウッド映画の重要なジャンルだが問題をかかえるものだった。西部劇は人種差別が問題となったが、戦争映画ではどこがどこと戦争をしているかが問題となった。アメリカはトップを走り世界を掌握する位置にあった。第三者としての客観的審判位置にあった。アメリカだけが戦争に加わっている映画は、南北戦争くらいしかないだろう。

アメリカが自律する時代の創成期の映画では取り上げられたが、その後はもっぱらヒトラーが悪人を演じる第二次世界大戦が圧倒的に多い。アメリカは勝ち戦だったので、国内でも賛同は得られた。ドイツ人にとってはヒトラーがいつも悪者なのをどうみているのか。ドイツ軍自体が悪人を演じる。見ていてあまり楽しいものではないはずだ。戦後長らくはヒトラーに対する評価は地に落ちていた。ドイツ国内でも嫌悪の対象だった。ドイツ軍の敗北を見てもヒューマニティあふれるものとして容認した。

シンドラーのリスト」はドイツ軍が悪人として描かれる。非人道的な場面が衝撃的に盛り込まれる。戦争をとことん考えなければという気になる。長編だがモノクロ映画であり、所々でカラーが挿入される。ユダヤ人の少女だけが赤い衣服を着て通りを逃げているが、やがて殺される。赤色が目に染み入る。地上戦や空中戦という活劇ではない。日常の人間の目線に立ってカメラが移動していく。

史上最大の作戦」(1962)と「バルジ大作戦」(1966)をあげてみる。戦争大作ではドイツは負け戦だった。ドイツが勝っている時期もあったはずだ。戦争ではどちらも敗者だったという言い方はある。勝者もまた心を含めてぼろぼろの状態ではある。一方で戦争映画を見ながら拍手する心情もある。アメリカは零戦を打ち落とせば拍手する。日本人は零戦が敵機を仕留めれば拍手する。ゲームであればそれでいい。どちらに味方をするかというレベルではオリンピックと同じで、どちらであろうと大差ない。しかし戦争映画は国によって相当異なってくる。時がたてばドイツ国内でヒトラーの復権を口に出す反動は必ず起こってくる。

第456回 2022年12月29

反戦か好戦か

戦場にかける橋」(1957)という戦争映画がある。ここではアメリカやイギリスの敵は日本軍だった。最期の橋を爆破する場面はスリルにみち、はらはらさせられる。ダイナマイトの爆破で橋が崩れるスペクタクルへと導くシーンの展開を見どころにしている。自分が日本人だと思い起こすと、感情移入する対象として、自分が不安定な位置にあることを自覚する。

チャンイーモウ(1950-)の中国映画「紅いコーリャン」(1987)の場合もそうだった。アメリカ映画を見ているとき、だれもがアメリカ人になっている。そうした不思議な自分に気づくのは、日本人が出てきて急に現実に引き戻されたときだ。映画が感情移入の産物である限りは仕方のないことだ。中国映画に比べアメリカ映画では日本はドイツほどには悪役として登場しない。勝利国ではあるが友好国としての配慮もともなっている。

こうした経緯を経て1970年代を通じて制作されたのがベトナム戦争に取材をしたものだった。アメリカのはじめての負け戦といっていいだろう。ここでも内容は二つに分かれる。アメリカ万歳という好戦映画と反戦映画である。見分けにくい場合も多いが、見ていてかっこよく目に映るなら好戦映画だろう。戦争を好む人はいる。誰が好むかといえば単純には鉄鋼会社、武器を生産する会社の名があがる。戦争によって会社が大きく躍進する。コロナ渦中で多くが苦しむなか、大儲けをする企業があるのと同じ理屈だ。

徴兵制度であり士気を高める映画が求められる。戦時下の日本での統制も同じだった。政府の立場としては反戦映画は圧力を加えてやめさせるだろう。アメリカの60年代はそうはいかなかった。映画会社は反戦映画であっても観客が動員されればビジネスにはなる。


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