アレックス・ダ・コルテ 新鮮な地獄

2023年04月29日~09月18日

金沢21世紀美術館


2023/05/31

 映像作品。難解というのではないが、意味ありげな不可思議な行動がまじめな顔をして映されている。映像作家の立場とは異なり、自身で被写体にもなっているという点では、自作自演ということになる。多くはメーキャップをして他人に成り切る。作家についての予備知識はゼロなので、本人ではないのかもしれないが、マルセルデュシャンが出てくると、シワを誇張して、形態模写をしているのだとわかる。ピエロの化粧のように見える。

 映像を前にして、椅子が6席ほど置かれている。壁に沿って大勢が立って見ている。厚化粧をしたデュシャンが「ザ・キス」をはじめ数点のブランクーシの現代彫刻をバックにしてのパフォーマンスとレクチャーを展開する。トレードマークのチェス盤も出てくる。デュシャンとブランクーシが登場すれば、ともに現代アートのカリスマなので、この作品「ロイ・ジー・ビヴ(ROY G BIV 2022)」はメンタメ系のマンガやアニメの延長上にはないことになる。

 この美術館は家族連れで子どもをともなっての鑑賞も多い。この日も中高生の課外授業に遭遇した。平日なので父親が子ども二人を連れていたのは、学童以前ということだろうから、現代アートの作家意図は、まずわからないはずだ。それにしてはおとなしく見ていたのに感心してしまった。よく辛抱して見ているなと思ったころ、父親がうながして席を立ったが、ひとりの子はしばらくからだをゆすられていたので、睡眠中だったようだ。席が空いたので座ってしばらく見ていた。最初の展示室だったが、私が入ったときはThe Endの文字が画面に浮かび続けていて、始めから終わりかよと閉口してしまった。いつまで立っても変わらないので一回りして帰ってきたら、デュシャンとブランクーシがいたというわけだ。

 2時間を超える長編を4分割して、4画面で同時に進行するという作品「ゴム製鉛筆の悪魔(Rubber Pencil Devil 2018)」があった。シングルチャンネルの映像作品として2時間をかけて見るという方法もあるのだろう。展覧会形式では工夫をこらして、短時間で全容を把握させる方向を考え出したということか。展示室内に4画面がさまざまな方向を向いている。全画面をながめることのできる位置を探しまわって、首振り人形のようにして見てみる。観客はいいかげんなところで打ち切って、次の部屋に移動するものが圧倒的に多い。スクリーンに映し出すプロジェクターの姿を取りながら、実際は巨大なブラウン管テレビのようなキューブが、展示室に散りばめられている。これらの箱型テレビのそれぞれはカラフルで裏面にも描き割りが施されていて、ひと回りまわってみることになる。

 ヴィデオ作品はかなり古いものもあった。「地獄の季節(2012)」は10インチほどのモニターで見るような画質なのを等身大にまで拡大して映し出している。やはりキューヴィックな箱の一面に映し出されている。テーブルの前にたぶん作家本人が立って、手品師のように意味不明の行為をしている。左手にもった透明の管からブドウのような果実を吸い込んでいる。口のなかにジュースが満ちたころに、右側にあるスイカに刺さった包丁を握って、こぶしで頬をなぐりつけると、口から血のような赤い液体が、スローモーションでゆっくりと吐き出される。

 意味ありげだが意味不明である。何とかつじつまの合うように、ストーリーを考えようするのだが、思いつかないまま宙ぶらりんになった自分がいる。動作は遅速で写されているので、ビル・ヴィオラのヴィデオアートを見ているようにイライラしてくる。それでいて何が起こるのか気になって見続けてしまうのだ。

 「開かれた窓 (The Open Window 2018)」では、女性の顔を隠すようにビリヤードの球が10個、ボーリングのピンのように並んでいる。大きな音がして打ち込まれると、球は弾き飛ばされる。そのとき女性の顔が見える。猫を抱いている。球はカラフルでスマイルボーイの顔になっているものもある。すべてがこの調子なのだが、展覧会としての一貫性はある。映像をいかにして見せるかという課題だと考えると、映像に重きを置きすぎることになるだろう。立体に閉じ込められた映像は、身体をともなった目の役割しか果たしていないと考えると、映像世界にだけのめりこまない日常空間の色彩豊かな広がりに気づくことになる。


by Masaaki Kambara