TOPコレクション イメージを読む 写真の時間

2019年08月10日~11月04日

東京都写真美術館


2019/9/27

 写真史の巨匠の作品から説き起こし、現代の若い作家までを、広く紹介する。テーマを変えながらの展示替えだが、枠付けを深く考えなくても良いだろう。名作展という魅力のないタイトルを回避するだけのことでもあるが、毎回の名づけをたどると、写真を考える時のヒントを与えてくれるものだ。「イメージを読む」は二重の意味をもっている。ひとつは写真家が読む場合、写真とはイメージを読む作業のことだという意味をなす。もうひとつは鑑賞者が読む場合で、写真家の意図をイメージ解読としてたどるということだ。

 杉本博司の劇場のシリーズが10点ほど並んでいた。さまざまな話題をさらった作品群である。写真に時間の流れが表現できるかという挑戦である。これまで何度も見てきたが、今回初めてわかったことがある。これまでは上映時間を丸ごと一枚の静止画にすると真っ白になるということに目が向いていた。どんな映画作品も全て同じ光の現象に過ぎないという虚無的な世界観に魅力を感じていた。しかしそれが上映された重厚な古き良き時代の映画館に目が向くと、上映時間を丸ごと写し出しても微動だにしない物質世界の豊かさに気づくことになる。

 スクリーンが重要ならそれだけを切り出せばいいが、真っ白い画面だけで、そこに上映されているのが、何という映画なのかは、誰もわからないだろう。白い画面を縁取る暗部のディテールの荘厳な響きは、博物館の剥製を写し出したこの写真家の霊感と手法に通じるものがある。シロクマの剥製は、白熊以上にシロクマらしい。

 真っ白の画面を見ながら、やがてそれがスクリーンではなくて、洞窟から見た光の国への入り口のように見え出してくる。つまり光がイメージから物質に変換されてくる瞬間、通過点から目的地への変貌と言ってもいいような、存在感を見せ出すのである。宗教性をも感じさせる神々しさを、重厚な建造物が支えている。映像にとって映画館は、教会堂であって、祭壇は光り輝く神聖を備えているということになる。

 米田知子の文豪のメガネのシリーズも、「イメージを読む」というタイトルにふさわしいものだろう。文学はなかなか目には見えないものだ。メガネという道具が、文豪の手書き原稿と組み合わされる。安部公房の場合を見ながら、確かにこの作家はこんな黒縁のメガネをかけていたなと思い出す。一点をきっかけにシリーズ化できるというのも、写真というメディアの特性にあたる。同サイズで並べることによって、このアイデアは無限に展開できるだろう。

 もちろんメガネとは無縁の作家もいて、オールマイティではない。たとえば三島由紀夫はメガネと結びつかないが、頭をひねったら、ファッショナブルな人だけに黒縁の眼鏡やサングラス姿の肖像写真は、イメージできるだろう。写真そのもののテクニックよりも、そのコンセプトの妙に惹かれていく。戦争や災害の傷跡を残す土地のオーラを写し出した、この作家の他の作例も思い浮かべながら、シリーズ化できるモチーフを見つけ出す才能をもつ写真家だと、改めて思った。


by Masaaki KAMBARA