第375回 2024年1月25日

夜と霧1955

 アラン・レネ監督作品、原題はNuit et brouillard。アウシュヴィッツでおこなわれたナチスの残酷極まりない虐殺を告発するドキュメンタリー映画である。30分の短編だが、それ以上は正視するにたえないものだ。私たちはそれを前にして、目を背けるか、あるいは麻痺するのを待つかしかないにちがいない。何も感じなくなってしまうのが、じつは一番恐れることだ。

 人間はどんな残虐なこともおこなってしまう。それに負けないように、どんな残虐な行為を見ても、驚かなくなってしまう。戦後になって一息ついたところで、現地を訪れてカメラを回している。これらはカラー映像だ。これに対して歴史の記憶はモノクロ写真で、くっきりと映し出されている。

 「夜と霧」とはユダヤ人を排斥するヒトラーの命令に名づけられた名称のようで、一体のものとみれば、夜霧にまぎれて抹殺するというニュアンスを有する。対比とみれば、白黒の過去とカラーの現代を比べて、夜の闇に消え去った過去の方が、現代のヴェールにおおわれた、おぼろげな霧の世界よりもくっきりと浮かび上がっている。一部始終を証拠づける写真やドキュメントをつなぎあわせて編集する。遺品と遺跡を通してそこに、人間を配してイマジネーションをふくらませると、地獄の逐一がみえてくる。

 鉄道が引き込まれたシンメトリーの舎屋がある。遠目に写し出すとベルサイユ宮殿を思わせる美しい田園風景だ。のどかだが不毛な雑草地帯が広がっている。鉄条網が今も残されたままだ。電流が流れていた頃のことを想像すると、身を引いてしまう。シャワー室のように天井に並んだ噴き出し口は、長時間の強制労働を終えた収容者には、快適な光景にみえるが、ドアには鍵が付けられていて、シャワー室にカモフラージュされたガス室なのである。

 100人単位で押し込められて毒ガスを噴射される光景が目に浮かぶ。ドアには小窓が空いていて、なかでのもがき苦しむ一部始終をのぞけるようになっている。ホロコーストで600万人のユダヤ人が10年間に犠牲になったとすると、1日に1600人以上を殺さなければならない勘定だ。

 死体が山のように積まれ、穴に放り込まれている。乏しいスープを争うようにして飲んでいる。ひと匙でも多く飲めば、その分だけ長く生きることができるのだと、ナレーションは語っている。骨と皮だけになった収容者は痛々しいが、まだ生きているだけましなのかもしれない。目を見開いたまま死んでしまった顔がある。顔のない首がある。虐待の証拠写真は、こんなに多く見せられると、想像力が麻痺してしまう。拷問具はそれだけが遺品として残される中世の城とは異なって、現場の修羅場を証拠立てる映像記録の前では、何の役にも立たない。

 なぜ人はこんなにも残酷になれるのかを、問いかけている。自分は命令どおりに行動しただけだというのが、責任を回避する常套句である。「命令」とは恐ろしいものだ。指令は使命とも言っていいもので、善悪を問わず、有無を言わさない。命令を受ければ、感情を廃して、すべては機械的に処理できる。

 そして悪人は誰もいなくなった。このことの積み重ねによって、虐殺は途絶えることがなく、戦争が絶えることもない。記録としてこの地獄を写真やフィルムで残したドイツ人の神経が、さらに恐ろしい。悪魔が歴史に名を残そうとしたようにみえる。あるいはそれは、闇に葬れという命令に対して、闇に葬ってはならないという、自己への告発だったのか。

 収容所を管理したドイツ軍将校の暮らした宿舎跡も写し出される。夫人をともなった家族の快適な生活風景が、写真で重ね合わされると、天国と地獄の対比がくっきりとしてくる。監督の怒りと意図がはっきりと伝わってくるが、声高に激号するのではなく、冷静な語り口で、感情は抑え込まれる。

 これによって告発は、なぜこんなことが起こったのだという人間存在の本質にまでたどり着く。それを考えることが、怒りを理解するだけにとどまらずに、この映画をみる重要な視点なのだと思う。オーストリアのユダヤ人心理学者ヴィクトール・フランクルが、収容所体験を記した同名の「夜と霧」を、あわせて読んでおく必要があるだろう。

第376回 2024年1月26

二十四時間の情事1959

 アラン・レネ監督作品、マルグリット・デュラス脚本、原題はHiroshima mon amour、エマニュエル・リヴァ、岡田英次主演。フランスの女と日本の男が織りなす、広島でのゆきずりの恋の物語。ふたりがベッドで交わす会話から映画はスタートする。女は広島で何度も原爆資料館を訪れ、すべてを見たと言うが、男はあなたは何にも見ていないと答えている。「夜と霧」に出てきたショッキングな記録写真が、ここでも再現されている。なにげなく道端にタバコの空箱が落ちている。銘柄をみると「ピース」なのが目に留まる。

 ドキュメンタリータッチで、今も広島に残る、溶けて飴のようになった鉄骨や閃光によってストロボ写真となり、コンクリートにこびりついた人の影が写されている。原爆の傷跡を見せながら、ときおり男女の大写しになっただきあう細部はさみこまれている。寝物語として、戦争の悲惨さが語られるのだが、女が見聞きしたものを、男は何もわかっていないと、否定を繰り返す。ふたりの関係は不明のままで、見ている方は会話を聞きながら、話を組み立てていくことになる。

 女も、男も既婚者だった。夫婦関係はともに良好のようにみえる。女は映画俳優で撮影のために広島に来ていた。ドキュメンタリー映画の撮影風景が写されている。原水禁のデモ行進が映し出されるが、お祭り騒ぎにしかみえない。男は建築家でこの町に住んでいる。流暢ではないが、落ち着いたフランス語をしゃべっている。妻がしばらく不在のあいだの出来事だった。女は仕事を終えると、次の日には日本を去る予定だが、男は忘れられなくなって引き止めている。

 女は身の上話から、素性がわかってくる。今はパリに住んでいるが、14年前、20歳までいたヌヴェールという小さな町に秘密を宿し、執着し続けている。二度と戻りたくないと言うのだが、そこでの恋愛体験をいつまでも引きずっているようだ。男はそれを探ろうとして、執拗に食いさがっている。やっと聞き出した秘密は女が愛したのが、そこに駐留したドイツ兵だったという点にあった。

 終戦を迎えフランスは勝利し、敵兵は敗走するのだが、家族が心配するなか、ふたりは駆け落ちを約束する。待ち合わせの場所に行くと、男はフランス人に射殺されていた。この衝撃が心の傷となったようで、この故郷をあとにしてパリに向かい、ゆきずりの恋を繰り返すことになる。広島での日本人との出会いも、その延長だったが、いつの間にか死んだ恋人に語りかけているように見えだしてくる。男はこの秘密が夫も知らないことだとわかると、優越感に浸っている。

 男と女がたがいの名を知らないままなのは、ゆきずりの恋を際立たせるものとなる。女は男のことをヒロシマと呼び、男は女をヌヴェールと呼んだ。ともに戦争によって傷ついた都市の名称だった。アンニュイな気分が漂い、フランス映画独特の雰囲気にひたることになるが、ハッピーエンドというわけではない。

 24時間の間に、場所が点々と移動している。ホテルの一室での密会。妻が不在の男の書斎。デモ行進にも巻き込まれてている。「どーむ」という名の酒場。「カサブランカ」という店名もでてくるが、ともに暗示的な意図が読み取れる。女の滞在したニュー広島というホテルの118号室。女は部屋に戻って眠ろうとするが落ち着かず、また外出する。がらんとした夜の商店街を歩いている。男は追いかけて酒場で、女が酔っ払いに言い寄られるのを、別のテーブルでながめている。

 不可解な人間関係のすっきりとしない結末に、いらだちを起こすことにもなるだろう。戦争の傷跡を舐めあう二人の姿は、恋愛を超えて、響きあうものがある。男は戦争が終わり広島に戻ったとき、家族は原爆の犠牲になっていた。その話を聞くと、女は命拾いをした男をなぐさめた。生き残ることが、ともにその後の出会いにつながったということである。限られた濃密な時間の共有が、命のあかしとなった。そのためには無名のままで別れることは、必須のルールだっただろう。

第377回 2024年1月27

去年マリエンバートで 1961

 アラン・レネ監督作品、ヴェネツィア映画祭金獅子賞受賞、フランス・イタリア合作映画、原題はL'Année dernière à Marienbad、アラン・ロブ=グリエ脚本、デルフィーヌ・セイリグ、ジョルジュ・アルベルタッツィ主演。不思議な映画である。バロックあるいはロココふうの装飾でおおわれた、宮殿の長い廊下をカメラがゆっくりと移動していく。豪華な装飾におおわれた広い内部を見せながら、ナレーションがはさまれるが、意味不明なフランス語が続いている。字幕以外のこともしゃべられているが、訳されてはいない。訳しても意味をなさないものなのだろう。心地よい語感をメロディとして聴いておけばよいということか。

 途中で部屋の前をカメラが通り過ぎるとき、部屋番号が見えた。そこからこの宮殿が、改装されたホテルなのだと気づく。やがて宿泊客だろう、人物がおおぜい登場する。マイクは脈絡のない会話を、無駄話のように聞き取っている。誰に焦点をあわせて見て行けばいいのかもわからない。カメラは動くが、人物は静止画のように固まっている。芝居がかった身振りに違和感をもっていると、それは小舞台で演じられていた実際の芝居だった。幕が降りて拍手が続いている。

 やがて登場人物がしぼられてくる。主人公は男の客で、ひとりの女に目をつけて語りかけていく。女は嫌がっているが、去年ここで会ったことを、確認するのが誘い文句だった。愛を交わしたというのだが、女には記憶がない。プレイボーイの常套句と思ったのだろうが、変に細部まで詳しく話しはじめるので、疑心暗鬼になってくる。庭の見えるバルコニーに出て、謎めいた手がさまざまに解釈できる、魅力的な男女の彫像を見ながら、私たち二人のようだと言っている。広大な庭には男女のカップルが静止したままで転々と散らばっている。

 女が何者なのかの説明はない。男のことばを信じれば、去年もここに来ていて、男は再会するためにやってきたということになる。客なのかが疑わしくなるのは、彼女の夫のようにみえる男の登場による。ギャンブラーであり、ホテルに住み込んでいる従業員とみるのが妥当だ。テーブルを囲んで、客たちを前にみごとなカードさばきを見せている。主人公ともゲームを繰り返すが、強くて歯が立たない。

 単純なゲームで、繰り返し観戦することになるが、見ているだけでも引き込まれる。カードでもマッチ棒でもいいが、ピラミッド状に7,5,3,1本を並べる。できた4列の内、どの1列でもいいが、好きな数だけを取る。順番に取っていき、最後の1枚を取った方が負けというものだ。必ず勝つという種明かしもされるが、難解ともとれる不可解な映画内容のなかで、明快なリアリティを楽しめるものだった。

 ギャンブラーがほんとうに夫なのかも、定かではない。そのようにみえるという推定に過ぎない。男が妻に言い寄るのを知りながら、彼女が強く否定しなくなったのを、いさめるでもなく、はてはふたりが手を取り合って、この宮殿から出て行くのを、黙って見過ごすのも不可解だ。女が従業員の妻なら男が一年後に会いにくるのは、理解しやすいのだが、それにしては、ゴージャスな部屋やエレガントな衣装が不自然にみえる。

 夢を見ているような映像美に魅せられながら、いま見ているのは、去年の現実か、現在の現実か、あるいは妄想かが区別できない。着ている衣装によって去年のシーンだと思っていたが、セリフのやり取りから今年のことではないのかと、思い直したりもする。迷宮にまぎれこんでしまったような、不思議な感覚を体験した映画だった。

第378回 2024年1月28

薔薇のスタビスキー 1974

 アラン・レネ監督作品、原題はStavisky、ジャン・ポール・ベルモンド主演。ロシア系のユダヤ人実業家の短い生涯をたどり、フランスに亡命したロシアの革命家トロツキーの足跡に重ねながら、死に至るまでのドラマを追っている。名前を何度も変え、アレクサンドルの名でおこなった、過去の悪事を隠して、スタビスキーとなって、これまで地歩を築いてきた。有力な政治家や経済人を巻き込んで、財力を増やしてきたが、偽造の債券が明るみに出たことから、手配を受ける。甘い汁を吸ってきた連中は、手のひらを返したように、裏切り、自己防衛をはじめていく。

 唯一、友情を育んだ男爵がいた。妻も贅沢三昧な生活が一変するが、主人公を見捨てることはなかった。男は女性には目のないほうだったが、妻を愛し続けている。妻に豪華な薔薇大量に送りつけていたが、妻だけでなく惹かれた女性が現れると、ところかまわず同じように薔薇の花を贈っていた。自分の胸ポケットには、好んで薔薇の一輪をさしている。赤と白の薔薇の色が目に焼きつく。

 金融業だけでなく、手広く事業を広げ、文化にも目を向けて、舞台公演のプロデュースも手がけている。自身の生い立ちと重ねて、オーディションにやってきたユダヤ人の新人女優に関心を示している。彼女はその後、トロツキーの手助けをするようになるが、亡命先として滞在していたパリ近郊のバルビゾンで、偶然にも主人公と出会っている。トロツキーと主人公に直接の接点はないが、ここで結びつけたのが、この映画のアイディアである。亡命者としての血の中に、同質の孤独な魂がたどった悲劇を見ることができる。

 警察の目を逃れて、国外での逃亡生活をしていたが、突き止められ、山奥にまで追手が伸びてくる。捕まる前にピストル自殺をはたしたようで、警察が踏み込むと同時に銃声が聞こえた。暗殺説もささやかれて、新聞にも取り上げられている。事実を知られたくない者は多かった。真相を問う委員会に、男爵と妻が呼び出されて、世評に反して好意的な発言をしていた。

 ドキュメンタリータッチで事態は進展する。フランスではスタビスキー事件の名で知られる、社会を揺るがした大事件なのだろうが、トロツキーの名に比べると、日本人にはそれほど知名度のあるものではない。同じような政治の腐敗と当事者の抹殺という事実は、共有できるものだ。トロツキーの暗殺を描いたアランドロン主演の2年前にできた映画「暗殺者のメロディ」1972と重ね合わせて見ていくと、さらに興味を増すものとなるだろう。ここにもフランス映画を代表する主演俳優の対比をみることができる。

第379回 2024年1月30

恋するシャンソン1997

 アラン・レネ監督作品、原題はOn connaît la chanson。ミュージカル仕立てのフランス映画である。シルビーバルタンやアズナブールを聞いていた頃を思い出させる、懐かしいフレンチポップスが歌われている。内容は軽いラブコメディだが、ところどころにアラン・レネ独特の意外性のある撮影術と主題へのこだわりが見出せる。舞台はパリで、観光ガイドをしている娘(カミーユ)が、パリの名所案内をするところからはじまる。ツアーには日本人グループも混じっている。第二次世界大戦末期の話をしていて、占領下にあったパリの橋をすべて爆破せよというヒトラーの総督命令が出される。「夜と霧」を思わせる狂気が思い浮かぶ。このとき命令を裏切った将軍がいて、パリが救われたのだと話している。将軍がソプラノ歌手のように、女の声で歌っている。倒錯美に酔いしれているようだ。ドイツ人も日本人もパリが好きだった。

 娘はこのときパリにやってきた顔見知りの男(ニコラ)を見かけるが、それは自分ではなく姉(オディール)と昔なじみの、懇意の間柄だった。急に姉の家に場面が切り替わる。この時間の飛び方がアランレネ流だ。テーブルには夫(クロード)が同席しているが、はじめは映し出してはいない。姉と男が寄り添い昔話をする姿があった。男は弟の就職も頼んでいたが、無能な人物だった。姉は夫にコーヒーの用意をうながし、夫が場を離れると親密な話が続く。夫はそれを盗み見しながら嫉妬気味で、不愉快な思いをしている。姉が誰にでも親しく接する性格は、その後車にひかれかけて、路上でたおれた老人にも向けられる。

 老人は2年間のなかった孫が、就職できそうだというので喜んで、会おうと急いでいた。姉はアシスタントを雇おうとして、2年間職のなかった男を、最後の面接で落としていた。老人は親切をしてもらったので、孫に会っていってくれと言ったが、姉は躊躇して断わり、妹との約束があったので引き返した。姉は気の毒に思い、住所を探りあて、贈り物と小切手まで送ることになる。その後、お金をもらう言われはないと、孫が返しにくるが、見るとはじめてみる顔だった。

 この老人に付き添うことで、約束に間に合わず、それによって妹のラブロマンスがはじまっていく。妹の前にはすでに別の男性(シモン)が現れていた。パリの観光ツアーをするが、決まって参加する中年男性がいた。博学でガイドの話す内容を先取りしてしまい、ついにはガイドは怒り出す。ときおり見かけるタイプだが、知っていても黙っていてくれという話だ。

 妹はアルバイトで観光ガイドをしながら、7年がかりで学位論文を書いている研究者だった。その後、図書館でこの男と顔を合わせることになる。男は娘に興味をもっていて、だれも興味をもたないような研究内容を、熱心に聞いてやっている。残念ながら中年男の恋心は若い娘には通じなかった。

 姉の昔なじみは、事業を手がけていたが、パリでアパートを見つけ、妻子を呼び寄せようとしていた。妻とはうまくはいっていない。姉もキャリアウーマンで新しい事務所を探していた。同じ不動産屋が仲介していて、社長(マルク)は姉に高級物件を、社員は昔なじみのほうに付き添って、安アパートを斡旋していた。この社員が実は、妹を恋する例の歴史好きのツアー客だった。自称放送作家と名乗っているが、生活の糧は不動産屋の社員をして得ていた。

 社長はプレイボーイで見栄えが良く、姉が興味を持った物件を案内するのに、待ち合わせていて、付き添いの妹と出会うことになる。姉が来ないので妹を案内する。眺めのいい部屋で、窓からは待ち合わせた現代彫刻のみえる場所を見下ろしている。雰囲気が盛り上がり、ふたりに愛が芽生える。

 入り組んだ人間関係がおもしろい。心の動揺をあらわしているのか、クラゲが画面を封している。実に巧妙につくっていて、注意していないと混乱してしまうが、対比的に整理してみるとわかりやすい。姉と妹、社長と社員、夫と妻、祖父と孫、さらには妻と愛人。それぞれがひとりの人格としては同等に、誰を重視しているというわけではない。現代彫刻は同じ大きさの皿を重ね合わせて固めたような抽象的なモニュメントだったが、それが複雑に入り組んだ危なかしい現代社会を象徴するようで興味深い。この映画の人間関係を一目で言い表しているからだろう、繰り返し登場していた。

 新居を購入してお披露目のパーティが開かれた。終わったあとのキッチンに、白い皿が山のように不安定に積まれていて、このオブジェ彫刻と対比をなしている。関係者が一堂に会した、この場で一波乱が起きる。大勢がつどっているのに、夫がなかなか現れない。夫には愛人がいた。姉は冗談のように車の中で抱き合っているのを見かけたと言ったことがあった。その前に昔なじみが同じように知らない相手と歩くのを目撃していて、男性不審に陥ったときだ。

 見ている私たちも夫のほうは冗談だろうと思っていたが、実際は逆だった。愛人がいたのは夫のほうだった。これまで積極的な妻の言いなりになってきた男の決断で、反乱だと考えれば理解は可能だ。決意を固めてパーティに出るが、妻に言い出す機会を逸している。この物件には隠し事があって、再開発でビルが目の前に建つ計画があるのを、社長は黙っていた。

 社員は幼なじみの男とは30件も物件を見にまわっていて、関係は友情にまで深まっていた。欠陥住宅であることを打ち明けると、男は黙っていられずに姉にビル建設のことを話す。姉は驚き社長に食ってかかる。社長は言い逃れをするが、化けの皮がはがされ、出て行った。姉は落胆して夫にすがりついている。夫は別れを切り出すことができず、しっかりと抱きしめている。妹も目が覚めたようで、社員の誠実さを見直すことになった。うつ病で4年苦しんでいたが、彼女が同じ症状なのを見抜いて、優しく見守ってもいた。パーティでは社長は別の女に目をつけて、電話番号を聞き出そうとする現場を、社員は目撃していた。

 昔なじみの浮気の弁明も嘘ではなさそうだった。事業をしているとのことだったが、実態はタクシーの運転手をしていて、女性客のお供でパリの町中を歩いていたのだという。すべてはめでたしめでたしで、ハッピーエンドで締めくくられる。社長の恋は不成功となったが、たいして気にもとめていないようだ。あえて言えば、チラッと出てきた夫の不倫相手が、気にかかるところではある。

第380回 2024年1月31

風にそよぐ草2009

 アラン・レネ監督作品、原題はLes Herbes folles、カンヌ映画祭審査員特別賞受賞 。サスペンス仕立てのサイコミステリーに見えるが、不可解な話の展開になっている。異常心理で片付ければ話は簡単だが、何とかつじつまを合わせようとして、見る側が頭をひねるところに、この映画のねらいはあるようだ。途中でFINの文字が読み取れるが、話は続く。そこで終わっていれば、男女が愛を確認し抱きあう姿で、ハッピーエンドではあるのだが、、、。まずはおもしろく引き込まれるまでの話の流れを綴ってみる。

 はじまりはかっぱらいにあって、女性(マルグリット・ミュイール)がバッグを盗まれるところからである。靴屋で買い物をしての帰りだった。一文なしになってしまったので、事情を話して、いったん靴を返して、返金してもらっている。町を行き交う足からはじまり、靴選びをする主人公の姿が映し出されている。

 その後、初老の男(ジョルジュ・パレ)が腕時計の電池を換えにマーケットに行き、駐車場で財布を拾う。腕時計を開くのに、店員がなかなか裏返せないのを、引き取って簡単に裏返してみせた。時計と靴という男女のフェティシズムが、物語の展開を予想させている。赤い魅力的な財布で、現金は抜き取られていたが、身分証と飛行機の運転免許証が入っていて、男は住所と名前に加えて顔写真を確認している。電話帳から電話番号をつきとめて電話をしようと考えていて、なんと言おうかと思案している。まだ見ぬ女性に心をときめかしているのがわかるが、結局は警察に届けることになる。

 対応した警官は男の挙動から、不審な人物であると判断している。しばらくして女からお礼の電話がかかってくる。男は会うことになるのかと期待したが、電話だけで終わってしまう。男は会ってみたくなって、住所を頼りに聖堂のある田舎町の、自宅を訪ねていく。電話での非礼をわびる手紙を書いて、一階に並ぶポストに入れるが、書いた内容を思い直して取り戻そうと手を突っ込んでいると、住人に見つかり不審がられている。

 女性は歯科医だった。女友達(ジョゼファ)と二人で医院を開いている。患者は痛みを訴えるときに手をあげるようだが、ほとんどの患者が手をあげていて、サディスティックな側面が見えてくる。男のほうは手紙のやり取りから、留守番電話へとエスカレートしていく。ストーカーのように近づいてくるのを嫌がっているはずだが、やがて受け入れて恋愛感情が芽生える姿は、マゾヒスティックな異常心理としかみえない、

 車を傷つけられ、犯行声明もされてしまうと、嫌がらせを超えて、気にかかってくる。つきまとうのをやめてほしいと警察に相談して、警官が男のもとに出向いて注意を喚起している。警告を守り男からの接触がなくなると、かえって寂しくなってくるものなのだろうか、今度は自分のほうから誘いをかけていく。妻から行き先を聞き出して、映画館まで追いかけている。映画の終了まで待って声をかけている。その後、仕事も手につかずに、放心状態になっているのは、おそらく恋心の芽生えなのだろう。相棒の友人はこの異変に気づいているようだ。

 カモフラージュをするように妻(スザンヌ)を経由して男に連絡を取っている。妻は美人で若くみえるが、結婚30年で子も姉弟の二人がいて、娘は結婚をしていて孫もいる。夫は今は家にいて精神的に不安定だが、妻はそれを気にかけながらピアノ店に勤務している。何の問題もない平和な家庭を築いている。主人公は小型機の操縦も披露するが、男を夫婦同伴で誘っている。

 なぜ妻を巻き込むのか、男にとっては不可解なのだろう。身分証の写真を見たとき、男は誰も知らない女性飛行士に似ていると言っていた。そのとき男の恋心はすでに芽生えていた。父は飛行機の整備士で、自分も空にあこがれたが、車の整備士となり、空は飛べなかった。航空機には詳しく、感慨深げに空を眺めている。女はこのことを知っていて、飛行機に誘ったのだろうが、妻の同伴を求めたのが、不可解にみえる。

 アクロバット飛行をしながら、三人はあっけなく墜落して、死んでしまった。付き添っていた友人の歯科医は乗らなかったが、運命を予感していたようにもみえる。男は直前にトイレに入り前のファスナーが食い込んで、開いたままでいたのが、気にかかる。これが何を意味するのか、不思議な結末だった。男は助手席に、男の妻は後部席に座っていた。女は男に操縦をしてみないかと誘ったことから起こった悲劇だった。

 ラストシーンで禅問答のようにして出てくる少女のセリフ、猫になったら猫のエサが食べられるかという、母親への問いが、いつまでも尾を引いて解明できないままいる。猫のエサを食べるためには猫にならなければならないと、言い直してみても、やはりまだわからない。この謎解きに成功した鑑賞者はいるはずだ。それはきっとアラン・レネも感心するものだっただろう。

 とりあえずは、次のように解釈しておこう。見つかった三人の遺体から、だれもパイロットの無理心中を疑うものはなく、事故として処理されるはずだ。彼女の恋愛を知っているのは、この飛行に同行しなかった友人だけで、彼女だけは猫にならなかったということになる。ただし犠牲になった妻の死は不条理ではある。捜査する警察は、男の前のファスナーが開いている謎を解こうとするだろうが、セクシャルな意味はなく、たんに壊れていることはすぐにわかるはずだ。意味を取り違えたのは、隣りで操縦桿を握っているパイロットだったということだ。

 友人の車が恋愛の現場に登場するのに目を向けると、主人公は自分の車で行けばよいものを、友人の車で送ってもらっている。一度は男の自宅、妻だけのいるときである。もう一度は最後の飛行場に行くとき。友人はまるでこの秘められた恋愛を目撃するためであるかのようだ。そして彼女の車の色は青。交通信号とみれば、主人公のが黄色だったのに対比をなす。つまり安全なのである。男が自宅を青一色で塗装している場面が出てくる。警官が男に注意しにやってくるときだ。家庭を安全に保とうという意味が読み取れるが、それが彼の意志なのか、カモフラージュなのかはわからない。

 ふたりの恋愛は無理心中によって、誰にも知られずに成就したことは確かで、その姿はアスファルトから顔を出す雑草のように力強く、しかも狂気に満ちたものだった。フランス語のタイトルはそんなことを教えてくれる。英語名The Wild Grassはそのことを見落としているし、日本語名はワイルドでも、フォリーでもなく、意味をなさずアラン・レネの映画以上に不可解だといえるだろう。