SURVIVE - EIKO ISHIOKA/石岡瑛子 デザインはサバイブできるか

2021年10月16日~12月18日

京都dddギャラリー


 コロナのせいで国立新美術館での回顧展は見れずじまいだった。ここでは手狭なこともあって、くりひろげられる饗宴は、息づまるような強い緊迫感である。衝撃といったほうが適切か。戦い続けた兵士のような勝負師の風格は、のちに日本を去り、ニューヨークが鍛え上げ、つくりあげたアマゾネスのように見える。ポスターの片隅にPARCOの文字があるが、申し訳程度でありながら、それでいてこの五文字のもつ重量感は、いまでは広告写真の代名詞となったのだと気づく。


 リーフェンシュタールを見いだし、自己と重ね合わせる。赤と黒という対比が、他の介入を許さず、ほとばしる赤という形容がふさわしい。両者は対比ではなく、なじみあい、共有しあう進化の姿だと思う。それは太陽でも火でもなく、血液なのだとすると、黒化してもなお血液なのだろう。どす黒くドロドロとしたおどろおどろしいほどに粘りついた怨念を感じさせるものは、いったい何なのだろうか。


 今回のディスプレイはもちろん石岡瑛子の企画ではない。彼女は73歳のとき、膵臓癌ですでに死んでいる。にもかかわらず展示へと向かうアプローチは、石岡の意思の力がひきこんだ誘導装置のように見える。それは赤い鳥居が連なる日本の土俗的原野を演出していてみごとだ。スクリーンへと誘うが、そこでは走馬灯のように彼女自身に同化したイメージと言葉が散りばめられて、繰り返されている。それぞれの赤い壁柱には、おみくじのように、題目を記した名号(みょうごう)が浮かびあがっている。デザインという語が目につくが、強いメッセージがこれらの「おだいもく」に託される。


 フォークロアに根ざした生命力は、リーフェンシュタールが近代文明によって祭りあげられた末に、ストンと突き落とされたとき、谷底で見出したものだ。そこにはNUBAの文字が浮かびあがった原色のアフリカがあった。「あゝ原点。」のシリーズがそれと共鳴しあう。さきを越されたという悔しさが滲み出て、先人の評価を誇張する。


 一列に横に並んだ女たちのたくましさは、砂漠をゆくジプシーのようでもあるが、それよりもやはりアマゾネスと呼ぶのが適切だろう。なぜか映画「モロッコ」のラストシーンで、ディートリヒがハイヒールを脱ぎ去って荒野に消えてゆく場面を思い出した。すべての色彩が風化したサイレント映画のようなのに、原色を満載したパルコの渋谷が、エスニックを底流として、私のなかでは共鳴しあっている。


 60年代の仕事についてはもちろん知らなかった。前田美波里や資生堂のほうが主役で、石岡瑛子と結びついたのは、ずいぶんのちのことだった。グラフィックデザイナーが裏方だという意味では、それでよいのだと思う。影の仕掛け人として君臨したという暴露を通して、確固とした意思をもって文化を先導する時代の証言を確認することになる。デザインは大衆の意志ではないのだ。デザインは何にでもなびく意志薄弱の資本論だと思ってきたことのほうが、じつは薄弱で訂正を余儀なくされる。「デザインは感覚や技術ではなく、考え方を表現する手段なのだ」と、お題目のひとつは伝えている。


 幾何学的図形を用いた初期のポスターや本の装丁にはあふれ出る想念を抑え込んだ、奇妙なねじれが読み取れる。形をなす前の原像とみると、思想書の表紙にはふさわしいものとなる。かつて気に入っていた筑摩書房のシリーズが、石岡のデザインだったのだと気づくのも、いまさらのことだった。


 デザイナーが写真家ではないのは、映画監督がカメラマンとして撮影技師を必要とするのに対応している。マイルスデイビスからのレコードジャケットの依頼を実現するためには、すでに高名な写真家の写し出していた顔と手のクローズアップが必要だった。それはみずからが写真家となって、あらたに写し直すことではないのだ。つまりデザインは個人プレイではない。信頼感からなるオーダーは、デザインを鍛える。人脈と交友録がデザイナーを鍛える。恥ずかしくないだけのリアクションを返し続けるプレッシャーは、並のものではなかっただろう。


 そんなに突っ走らなくてもと、私なら思ってしまう。周囲から隔絶した平成の地、たとえば松山あたりに引きこもり、温泉にでもつかりながら、人生はもっとスローなものぞなもしと連発しているのも、サバイブをデザインするに、味わいある老境だったように思う。石岡瑛子のデザインした「道後温泉ぞなもし」のポスターを見てみたかった。


by Masaaki Kambara