へんがおの世界—笑う門には福来たる!—

2019年07月13日~09月01日

兵庫県立歴史博物館


2019/7/13

 顔に対する興味が、江戸文化の中で熟成する。主には浮世絵世界の広がりで展開していくが、展覧会では北斎や国芳あたりから始まり、明治の福笑いや双六などのゲームに結晶する大衆性の中で解き明かされている。今回は展示がなかったが、始まりはやはり写楽になるのではないかと思う。そう見ると写楽は絵画史の異端ではなくて、江戸文化の原点となすものだ。

 「へんがお」というキーワードから見えてくる文化構造は、表情の微妙な違いに敏感に反応する時代の特性を浮き彫りにする。喜怒哀楽という四字熟語を始まりとして、どこまで心の機微の多様性を読み取れるかという人間観察のトレーニングに一致する。はじめ一対一対応であった顔が、都市生活の中で変質する。第三者も含めて社会構造が複雑になると、人はさまざまな顔を演じ分けることになる。そうした複雑な人間関係を理解するためには、「福笑い」の眉をほんの数ミリ移動させるだけでいい。この遊戯が内包する文化の豊かさは、誰もが気づいている。お多福からはじまり、鉄腕アトムやアンパンマンの顔立ちを利用して、現代にまで引き継がれている。

 はじまりはのっぺりとした目鼻のない顔であり、その異様な姿をみとめると、ともかくは、取りあえす目鼻を置きたくなってくる。美を整えるのはそれから後だ。「百面相」も顔を横に四分割して順列組み合わせを楽しむが、それぞれのパーツが4面をもてば、組み合わせは100どころか256通りもあり、誰もがその表情の違いを言い当てることができる。それは現代でも指名手配のモンタージュ写真という形で踏襲されている。微妙な違いでしかないのに、人の識別能力は驚異的なものだと気づく一瞬である。

 かわいいはずの子どもが不気味に見える明治20年代の「子供絵」は、我々が子どもに抱いている無垢であるがゆえの残酷さが、下敷きになっているように思う。石版画の冷たいモノクロの画面に群れをなす子どもたちが、異様なものとして眼に映るのは、都市化に支えられたモダニズムが置き忘れていった生命の欠如からだっただろう。この時、岸田劉生の描く麗子像が重なって見えてくる。都会的な洗練された少女のはずである。そこには子どもそのものよりも、それを見る側の方に巣くった闇のありかを、鏡写しにしているようなところがあり、興味深い。恐ろしき子どもたちが徘徊するパリの街並みに習おうとする江戸から東京へという西洋化の波の中で読み取れる美意識だろう。


by Masaaki KAMBARA