35周年収蔵品展 CORRELATION—交流と継承

2023年05月19日~ 07月02日

岡山県立美術館


2023・6・18

 岡山県の美術の因果関係がよくわかった。出身者、在住者、ゆかりの人とさまざまな形はとるが、たぶんどこの県でも誇れる遺産はあるだろう。問題はその発掘者ということだ。美術館学芸員はその重要な担い手であり、35年の美術館運営の歴史の中で、培われて来たものだろう。新米の学芸員がプロの風格を備えた権威者として成長する姿が思い浮かんでくる。

 古美術から現代美術まで守備範囲は広い。個人プレイではなくチームにより継承されていくものだ。鑑賞者は気まぐれで、勝手に好き嫌いを語っていればいい。私も学生として、その後は教員として岡山に関わったが、トータルで25年のことだから、直接の関係では、ごく限られた範囲でしかない。それでもその間にさまざまな展覧会に接して、なじみの作家も増えていった。にもかかわらず今回、新鮮な出会いとなったものもあり、岡山を離れた身にとって、懐かしさ以上に価値あるものとなった。

 竹内清「ロマネスクの寺」は、日展王国岡山というコーナーに並んでいるが、好みの一作だ。中津瀬忠彦「旭川」がいい。小野絵麻「裏道がお好き」もいい。大林千萬樹「紅粧」ははじめてみる日本画だが、大正期のデカダンスを背景にした妖艶がゆらめいている。ハンスファンデルメール「蒜山」も気になる写真家だった。

 懐かしい思い出は倉敷でのことになる。森山知己「描法再現・紅白梅屏風」金孝妍 「月と光、そして太陰潮」が並んでいるのを見ながら、うるわしき師弟愛を思い浮かべた。箔を使った造形は日本画の伝統にありながら、限りなく現代感覚にフィットした素材でもある。師匠の金地と弟子の金が銀箔を使った二重奏をかなでている。弟子はいつも師匠を越えようとするが、またまだ荒削りなままである。もちろん浦上玉堂父子の場合のように、子が親を慕い、小さくまとまってしまうよりも、よほどいいに決まっている。

 佐藤常子「山河」は、リアリティはないが、暗示力に富んだ作品だ。着物なのだから、リアリティを求めるほうが無理のあることだが、岡山に流れる三大河川から発想したという点で、興味をそそがれる。解説をともなわないと通り過ごしてしまうものだろうが、それが吉井川、旭川、高梁川の流れを下敷きにした風景であると言われてみると、その作品を前に立ち尽くすことになる。着物の柄としてはまっすぐな直線が平行して、幅を異にしてストライプとなって、繰り返されているだけだ。

 まっすぐに流れる川などはない。常に蛇行しながら風景を形成している。着物を展示品ではなく、日用品として考えたときに、見えてくるものがある。身体の動きに呼応して直線は曲線となって乱舞する。ときには優雅に流れ去ることにもなるはずで、身体の線が着物に命を吹き込んでいくのだ。そう考えるとこれは動きをともなった、生活に根ざした工芸作品なのだとわかる。

 実際は岡山である必要もなく、ただ美術の王道をゆくことで普遍性を獲得したものもある。高原洋一「水田の上の幾何形A」と家住利男「F.160201」は、目だましのトリックという点でおもしろい。ともに絵画が追求してきた光を問題にしている。一方は版画(シルクスクリーン)、他方はガラス作品である。池から突き出た鉄パイプがかたちづくる三角形を写し出したときに、虚実が混じりあって、人の目を驚かせるのだ。もちろんそれは現実ではなく写真であり、さらには写真でもなく、目を近づけると無数のドットからなる抽象絵画なのだ。ほんものの鉄パイプと鉄パイプが水面に映し出すイリュージョンとその全体を写し出した写真と、それを加工したシルクスクリーンがつむぐ関係性が、めくるめくような迷宮へと誘っていく。

 ガラスの塊は、板ガラスを貼り合わせているはずだが、そこには境界がない。ガラスという素材のことを知っていないと、山に入って石の塊を切り出してきて削っていく石彫のことを思い浮かべるだろう。きっとどこかに板ガラスである残響がみつかるだろうと、360度目をこまねいて探してみる。見つからないのであきらめてしまったが、時がすべてを解決するのは、完全犯罪のほころびが、自然と姿をあらわすのを待つのに似ている。千年たってもはがれないとすれば、それは貼り合わせた板ガラスではなくて、ガラスの塊だったということだ。

 小粒のダイヤを集めて大粒のダイヤができれば、夢のような奇跡だが、卑近なことをいえば、加工肉がステーキと同等の、切り心地と味とになれば、ステーキと言っていいという話だ。もちろん感嘆符はステーキよりも加工肉に軍配が上がる。芸術はあっと驚くだまし絵を基本とする。

 ロビーに展示された樹脂に塗装をした軽自動車のボディと触る彫刻は、意表をつくことで、目だましの魔術を完結している。大西伸明「mini kupa」は塗装の剥げたクルマの抜け殻で、用途として機能しないが、美しく輝いている。同じクルマの部位でも、座席シートなら持ち帰るとソファーになるだろう。でも私たちは貝殻が貝よりも美しいことを知っている。これもまた芸術の原理をなす論理だろうと思う。

 北川太郎の「しま」「トリデ」「静けさ」などと題した石の塊を前にして、触るように指示されなければ、何のおもしろみもない。目で触れる感触と、手で触れる感覚との落差が、美術鑑賞の醍醐味を与えてくれる。悲しいかな写真うつりだけでは理解できないので絵にはならないという点で、クルマのボディとは対極をなしている。おいしそうには見えないのに、口にしたときに、何これという感嘆に似ている。見た目の美しさに対して、「心の美しさ」という使いならしたことばを持ちだすと、わかりだすかもしれない。そんなものはないのだ、見た目がすべてだという切り返しも含めて、美を考える原点をかたちづくっている。現代アートはへそ曲がりなほうが楽しい。

 古美術に触れるのを忘れてしまった。雪舟と玉堂のコレクションがなければ、いくら県立とはいっても、美術館として相手にされないだろう。重要文化財と同じ展示フロアに隣り合わせて並ぶことは、現存作家なら悪い気はしないだろう。今回の展示を概観して、この作家を忘れているでしょうという岡山通の批評眼もあるにちがいない。現代アートはI氏賞を下敷きにして構成されているので、他分野の不満分子もいるはずだ。いちいち忠言を聞いていてはきりがない。

 選考のくくりは岡山県との縁故ということだが、あれと思ったなかに横尾忠則「物語の始まりと終わり」があった。説明文を読むと横尾忠則展で公開制作をしたときの作品だった。兵庫県西脇市の出身なのに、どこにでも登場する神出鬼没の人だと思ったが、確かに画面には怪人二十面相が描きこまれていた。夜のY字路は倉敷の白壁のようにみえる。多くの岡山県人を前にして制作されたのだから縁故どころではなく、じかに触れ合っている。こんな関わりもあるのだ。

 ここでは名をあげなかったが、これまで気になって個別的に美術時評に取り上げた作家は少なくない。小野竹喬、池田遙邨、平櫛田中、棟方志功、芹沢銈介、河井寛次郎、重森三玲、金重陶陽、国吉康雄坂田一男、河口龍夫、高橋秀、寺田武弘、河原修平、太田三郎、中原浩大、東島毅、瀬本容子、李侖京、築山弘毅、下道基行の諸作品を前にして考えた至福の時間が私にはあった。


by Masaaki Kambara