第7章 聖アントニウスの誘惑

第700回 2024年2月1日 

主題の変遷

ボスの作品は大きく三つに分類できる。一つは諷刺的な作品群、愚者を皮肉ったもの、七つの大罪といった日常生活の罪を摘発したような作品。二番目は聖アントニウスの誘惑を中心にした怪物の登場するもの。この分野でボスの名はよく知られている。最後の審判で地獄の場面を扱ったものも数多い。イマジネーションの産物だ。三番目は宗教的な主題で、キリストを中心にして「十字架を運ぶキリスト」も数多く残している。聖アントニウスの誘惑も宗教画だが、中心になるのは聖人のまわりにいる魑魅魍魎のデーモンたちである。画家の目も聖人の話よりも、悪魔を描くことに興味を覚えている。見るほうもそちらに引き込まれていく。悪魔の登場しない宗教画がもうひとつの分類に入る。この3分類のうちこの章では第二の分類を扱う。生涯にわたってかなりの作品を残している。同主題でも図柄の異なったものもある。

 このテーマは何度となく美術や文学で扱われてきた。ボスのいた15世紀末に流行の時期を迎える。ボスのいたネーデルラントだけではなくて、ドイツやイタリアで「聖アントニウスの誘惑」のテーマで絵画化されていく。イタリアのものはデーモンも北方のものに比べて人間的だ(図1)。その後では19世紀の末にもう一度ブームが来る。この時にボスやそのあとのブリューゲルが再評価される。アントニウスの誘惑をテーマに文学作品では、フロベールが書き、その影響下に一群の絵画作品が登場する。ルドンがモノクロの石版画のシリーズを手がけている。その後ではシュルレアリスムの作家たちが、このテーマをおもしろがっていく。それがエルンストやダリである。それぞれはイマジネーションをくすぐるものとして繰り返されていく。

 このテーマの誕生からボスの時代に頂点を迎え、だんだんと下火になっていく。20世紀前後にリバイバルがやってくる主題の変遷がある。ここで扱われた聖人の人となりと、どんなふうに描かれたかという表現の歴史を見ていくなかで、ボスが何を伝えようとしていたのかを考えたい。

図1 ステファノ・ディ・ジョヴァンニ「聖アントニウスの誘惑」1430-32年

第701回 2024年2月2 

聖人伝

 この聖人はエジプトに出てくる人物だ。紀元3世紀での話である。ボスの描いたころには伝説上の人物だった。聖人の伝記を集めた本がある。黄金伝説という。西洋で絵を描く場合の基準となるものだ。聖書が第一史料だが、聖人といってもキリストがいる時代の人物しか出てこない。キリストの没後、教会ができて、異教徒と戦って殉教をして死んで、聖人に祀られる。聖人は時代とともに増えてくる。黄金伝説は12世紀にまとめられたものだ。これが絵画表現でも底本になる。アントニウスの生涯も扱われている。日本語にも翻訳されている。

 砂漠で修行をする聖人で、いろんな誘惑をしかけに悪魔がやってくる。頑としてはねつけて信仰を守った人物である。話としてはそれだけのことだが、悪魔が手を変え品を変え、聖人にちょっかいを出してくる。それをイメージの上で膨らませながら絵画化していった。それをみると二つの誘惑の仕方があることがわかる。誘惑という語を用いると、誘い惑わすということになるが、実際には聖人の肉体に危害を加える。聖人を棒きれをもった悪魔が叩きのめしている(図1)。暴力をふるうかたちと、色仕掛けによるものがある。女性に化けた悪魔が聖人に近づいてきて、言い寄ってくる。この二つのタイプがある。

図1 ショーンガウアー「聖アントニウスの誘惑」銅版画 1470-4年

第702回 2024年2月3 

ボスのアントニウス像

 ボスの場合は両者を扱っている。代表作はリスボン祭壇画で、リスボンの王立美術館に所蔵されている。これを見るためにはポルトガルまで足を延ばさなければならない。トリプティークの祭壇画形式で、開いた中央場面に聖アントニウスがいる(図1)。対角線の交わるところに聖人がいて、その周りに一群の悪魔たちがうごめいている。人間の顔をもっていてもすべて悪魔の変身である。聖人の扱いは小さなところにいる。画面全体は悪魔のオンパレードのようなかたちにみえる。それ以前の聖人の描き方と比べると、聖人の居場所が小さくなっていく。

 アントニウスを描いてきた歴史をたどってみると、最初はアントニウスのいかめしい顔が特徴的で、大きな人物像として扱われる。その後じょじょに聖人は小さな場所に追い込まれていく。ボスの場合はまだアントニウスが中心で真正面の中央にいる。やがて聖人を探すのに苦労をすることになる。こんなところに聖人がいるという印象が強まる。

 誘惑というテーマだが、いろんな誘惑図がある。キリストの誘惑では、キリストに仕掛けてくる悪魔が登場する。アントニウスは誘惑に対し、びくともしない強靭な精神力をもつ。画家の興味の対象は、モンスターをいかに面白く描くかに向っていった。幻想絵画のテーマとして聖アントニウスの誘惑は格好の材料になった。怪物を何らかの宗教的テーマにあわせて描く。だんだんとエスカレートしてきて、17世紀になると聖人はどこにいるか、探さないとわからないという様相を呈する。風景画や静物画の成立段階で、人物が背後に追いやられ、物自体に興味が移ってくるのと連動しながら、怪物が中心になる絵画をみることができる。

図1 ボス「聖アントニウスの誘惑」リスボン

第703回 2024年2月4 

聖なる火

 それはアントニウスの力がだんだんと失せてくる推移である。聖人の大きな役目は病気を治すということだった。キリスト自身もいろんな病気を治した。死んだ人間まで生き返らせたという話だ。そこまでいかなくても難病奇病を担当するのが聖人の役目だった。アントニウスの場合も、最初の伝記では誘惑に耐えただけの聖人だったが、やがてアントニウスが思ってもいないような病気の守護聖人になっていく。11世紀当たりのことだ。アントニウスはエジプトで亡くなって、その後、聖人の信仰は骨を拝むものだが、仏教でも舎利容器は骨を容器に入れて、分骨しあちこちのお寺で保存する。

 同様な現象がアントニウスの場合も起こってくる。真正面を向いた聖人像がイコンとして残されている(図1)。アントニウスの骨とされるものが、ヨーロッパ各地であらわれてくる。たまたまアントニウスの骨だとされているものに祈願をした。あるいは口に含んでみたときに病気が治った。その病気というのが、アントニウス病という名前で言われることになるが、得体のしれない奇病だった。もがき苦しみながら手足が抜け落ちてくる。腐ってきて手足がもげ落ちるというものだった。理由がわからずに、やけどのように苦しみ死んでしまう。アントニウスと関係させられる前は、「聖なる火」という名で呼ばれた。火というのはやけどのような症状を意味する。何年かおきにヨーロッパで起こってくる。伝染病かどうかもわからない。ペスト(黒死病)がその後登場するが、症状はちがうとはいえ、それと似通ったあらわれとみえる。それが11世紀の段階でアントニウスを拝むことによって、治ったことで、この難病の守護聖人に躍り出てくる。100歳をこえてまでも生きたとされるが、エジプトで修行をした名も知れない聖人が、ヨーロッパでひと働きをする。

図1 聖アントニウス

第704回 2024年2月5 

アントニウス修道会

 たまたま治ったところにアントニウス修道会ができる。その病気を治すために、研究をしたり、治療にあたったりという組織ができあがってくる。ヨーロッパ中に支部をつくって勢力を伸ばしていく。

 アントニウスの聖遺骨が一役買うが、人の骨はそんなにたくさんあるわけがない。その段階でいかがわしい骨もずいぶんと出てきた。総本山は今のスイスからフランスにかけてのあたりで、そこから各地方に伝播していく。たとえばアントニウスの右足の骨が教会に置かれているとする。ちがう教会が同じように右足の骨をもっていれば、どちらかが偽物ということだ。よく調べてみると動物の骨だったということも起こる。聖人の骨をもつことが重要視されている。奇跡的に治癒したという話には尾ひれがついていく。

 骨を細かく粉末にして飲むならすぐになくなってしまう。別の方法として骨を、地域で栽培をして出来上がったブドウ酒に浸すことによって、病気の治療薬が水薬としてできあがってくる。それがアントニウス修道会のつくったブドウ酒として売り出される。実際にはどれだけ効力があったのかは怪しいが、そんなことをしながら修道会は発展していく。アントニウスの図像で聖人に必ず付き添っているのが豚である(図1)。アントニウスの伝記のなかでも登場するものだ。アントニウス修道会の豚として、修道会が飼育している。これはもう一つ別の治療薬として、豚のラードからとった軟膏を傷口にぬった。このような薬を開発していくことで、組織を広げていった。

図1 ボス「聖アントニウスの誘惑」部分

第705回 2024年2月6 

アントニウス信仰

 この段階ではアントニウスは病気を治す偉大な治癒神だった。図像では聖人を中心に置いて、この前に来て手を合わせて祈るという、信仰の対象となる礼拝図が成立した。その時の聖人の顔立ちは威厳を保ち、怒りに満ちている。そこで聖人に機能上のどんでん返しが起こってくる。出発は奇病を治す聖人だったが、やがてこの聖人は病気を治すだけではなくて、引き起こしもするのだと、話がねじれ込んでいく。病気を治すことも、起こすこともできるということになれば、聖人が怒り狂えば病気を蔓延させることさえ可能になる。これによって今まで以上にこの聖人に対する信仰は深まっていく。このような誘導も伴って、聖人は畏れおおい姿を保ち、怒りの聖人というイメージが定着していく(図1)

今日の目にはいかがわしい治療にも思えるが、信仰の広まりは奇跡的に治った事例もあったのだろう。薬を開発するというだけではなくて、この病気については腐って全身が焼けただれるような痛みを特徴とする。もがきながら死んでしまうのだが、病気の経過を見ながら、全身に腐敗が回る前に、手足を切断することで命を救うことができた。この外科的治療も修道会ではおこなわれた。高度なテクニックを要するが、こちらのほうに信頼感は獲得できただろう。病院としての機能が発展を後押ししていった。近代の病院組織に発展していくものだ。

図1 アントニウス像(イーゼンハイム祭壇画)

第706回 2024年2月7 

麦角中毒

最終的には病気は医学の力によって解決される。アントニウスがかかわることによって、「聖なる火」という病名は、「聖アントニウスの火」と呼ばれるようになる。この名はアントニウスが引き起こす火だともとれるし、治す火だともとれる。長らくこの名で呼ばれたが、18世紀になってやっと、奇病の原因が突き止められた。ペストが中世を通じて黒死病と呼ばれていたのと同じく、ここで近代医学の成果としてわかってきたのは、「麦角中毒」という病名だった。パン食のヨーロッパでは、ライ麦に発生する麦角菌が、天候の不順によって猛毒を発生する。それを口にした人がもがき苦しみながら死んでいく。当初は原因がわからなかったが、集団で出てくるので伝染病と思われたのも無理はなかった。近代に入ってもロシアで発生した記録などが残る。

医学の勝利であるが、この段階でじょじょに聖人の信仰から、医学の信頼へと主権が移っていく。聖人に対する敬意が薄れていく。それにともなって図像の変遷を見ていても、聖人が中心にいて威厳ある顔をしていた像から、ボスの作品を経て、やがて聖人は狭いところに追いやられて、小さくなっていく。全体ではモンスターのほうが勢力を伸ばしている(図1)。意味するところは、聖人の権威が失墜したことと同時に、聖人を誘惑する怪物に目が移り、そちらのほうが、おもしろがられていく。宗教画が変質して、静物画や風俗画になっていくのと歩調を合わせるのを、アントニウスの扱われ方を通して見えてくる。

図1 ヤン・マンデイン「聖アントニウスの誘惑」1535年

第707回 2024年2月8 

聖アントニウスと聖セバスティアヌス

アントニウス信仰でボスと同時代に出てくるのが、ショーンガウアーの銅版画である。アントニウスが中心にいて、まわりをモンスターが取り囲む。聖人伝の中で聖人を空中に持ち上げて叩きのめすという描写がある。それを記載通りに描いている。グリューネヴァルトの代表作「イーゼンハイム祭壇画」は、アントニウス病を治すための病院として、イーゼンハイム修道院に置かれていたものだ。今は美術館に展示されているが、この修道院の主祭壇だった。中央にはキリストの磔刑が描かれるが、扉が二重になっていて、それをすべて開けるとアントニウスの威厳に満ちた木彫像が現れる。「アントニウスの誘惑」という場面が、扉の一面を構成している。閉じたところでは左右に分かれて、聖アントニウスと対にして聖セバスティアヌスが登場する。

聖人はいろんな病気にかかわるが、聖セバスティアヌスはペストを治す聖人として知られる。体中に矢が突き刺さった半裸の若い男性像で描かれる。アントニウスとはよく二人が並んでいる(図1)。その場合はたいてい病気の祈願のためのものとして機能していた。イーゼンハイム祭壇画に先立ってファン・デル・ウェイデンのボーヌ祭壇画が知られている。病院とかかわりながら聖人が祈願の対象になり、やがて外科的手術が功を奏して、聖人の力に頼らなくなってしまう。こうした流れの中で図像も変遷していく。

図1 ボーヌ祭壇画部分

第708回 2024年2月9

アントニウスの近代

近代以降ではアントニウスの誘惑と病気を治すという意味合いとは切り離されて、エルンストやダリの描いたアントニウスには病気の文脈は全く読み取れない(図1)。そこで出てくるのは怪物がいろんな仕掛けをして、幻想場面を見せるのが主になっていく。

 アントニウスの誘惑に出てくるモンスターなどの特殊なイメージが、アントニウス病と関係して描かれていることがある。この病気の症状として幻覚を起こすことも知られている。麦角菌に含まれているものなのだろうが、ボスに出てくるイメージが、この病気の患者が見たイメージに似ているという指摘がある。似たような成分で生成された幻覚剤にLSDがある。これを飲んで夢見心地になった者に、ボスのアントニウスの誘惑の絵を見せると、似たような幻想が見えていたという報告がされている。アントニウス病にかかった患者が見た幻覚が、ボスの絵の底辺にはあるのではないかということだ。深くは判らないが何らかの連動性を考えることは可能だ。

 ボスのいた地方でアントニウス病がどの程度起こったかという記録は、いくらかは残っている。ボスの存命中には記録されないが、その前後で天候不順が原因で起こっている。洪水が起こると、それによる食糧不足から、無理をして収穫すると、毒素をもった食物ができてくる。それを食うことで病気が発生する。すべては自然現象と連動している。

図1 ダリ「聖アントニウスの誘惑」

第709回 2024年2月10

終末思想

何度となくヨーロッパ中に起こってきて、ボスのころでは1500年という終末思想とも連鎖反応を示していく。同時にキリスト教会の腐敗も重なり、1500年を迎える時期に「アントニウスの誘惑」という主題が頻出してくる。これと併せて「最後の審判」というテーマも加速的に増えてくる。社会の構造との関係が読み取れる。1500年をまたいで生きるのはボスだけでなく、レオナルドやデューラーとも共通するもので、同一の精神風土を生きたということだ。ボッティチェリもその一人だが、終末思想に深入りして、1500年を過ぎたところで筆を折ってしまった。

 アントニウス像につきものの図像的特徴は、いくつかある。豚がいる。アントニウスの火と関係して、火がどこかで燃えている。聖人がT字型の杖を持つ。杖や豚の首に鈴がついている。鈴は悪魔が来た時に追い立てる役目をもつ。なかには聖人の座る上部に、レールがありそこに手足が、干からびてミイラのようになってぶら下がっている。当時のアントニウス会に奉納された患者の切断された手足だったようだ。それは外科的手術によって命を取り留めたあかしでもあり、感謝の意を表するものだった。グロテスクな光景ではある。患者の手が燃え出しているような図像もある(図1)。具体的な図像では外科医が足を切断している生々しい光景も版画に残されている。

図1 「聖アントニウス」木版画1517年頃