第1章 岩佐又兵衛

第512回 2023年2月23

血に色どられた過去

 岩佐又兵衛の生涯については、およそ次のようなことがわかっている。彼は摂津伊丹城主である荒木村重の末子として、天正六年(1578)に生まれたが、村重が信長にそむいたため一族は滅ぼされ、その時二歳になる又兵衛は石山本願寺にかくまわれ、母方の姓岩佐を名乗って成長した。京都の町衆文化の中で公家との接触も多く、織田信雄に仕官したとも言われ、豊かな教養も身につけたと思われるが、四十歳近くになって京都を去り、「はたとせ余り越前といふ国へ下り」、本願寺派興宗寺(こうしゅうじ)に寄寓しながら、やがて松平忠直・忠昌に目をかけられ、多くの作品を生み出してゆく。二十数年の福井での活動は、江戸の将軍家にも聞こえるところとなり、千代姫降嫁の調度品製作という名誉を受けて、六十歳の又兵衛は妻子を福井に残したまま、江戸に上る。寛永十七年には川越東照宮の三十六歌仙扁額の制作も終え、その後も注文に追われる多忙な日々が続いたようだ。こうした中で福井に戻ることを断念し、死期の訪れを予感した又兵衛は、自画像を描いて福井の妻子に送っている。晩年の十三年の歳月を江戸にすごした又兵衛は、慶安三年(1650)七十三歳の生涯を終え、遺骨は福井の興宗寺に葬られた。

 以上が又兵衛の生涯の素描である。画歴については、詳解はわかっていないが、東照宮三十六歌仙額の裏面に「絵師土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以図」という銘文のあることが知られ、京都時代に狩野内膳について学んだのではないかという推定もなされている。不明な画歴を見透かすように、彼の描く絵は様々な謎を提出する。華麗な王朝風の歌仙図の一方に、血に色どられた残酷な絵巻物があり、さらにこれらを無視するかのように、浮世絵の祖として知られた「浮世又兵衛」の伝説がある。そこで私はこの三者を結ぶ内的連関をさぐろうとして、ある比較を試みてみたい。


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