第2節「空虚」の概念

第5章 斎藤義重

第565回 2023年4月18

1 すきま

斎藤義重の作品にはつねに「すきま」がある。確かにレリーフ的ともいえる構造をもったこれらの作品にそうした空洞があるのは当然であろう。「空虚(Vacant)」というタイトルはそれを明白に語っている。しかし,戦後すぐの人間をテーマにした具象的な作品にも,ぽっかりとあいた空洞は,やはり認められるのである。大きく口を開いた人物は何を叫ぶのでもない。その大きな空洞は叫びを演出するものではなく,むしろ沈黙の声と言えるものだ。

 斎藤の作品が構造を示す枠組であるとすれば,問題になるのはむしろ,その枠によって縁取られた空白の部分ということになろう。真黒にぬられた板の構成は,空白の中に沈み込んで,それが寄って立つ壁面の空白に従属しているようにさえ見える。確かにここで選ばれた「黒」という要素は,自己を強調するというよりも,他者を強調させるという意味で,ここでは脇にまわっており,木の地肌を隠しシルエットと化している。さらにその舞台裏のような設定は,板と板をつなぐボルトとナットの生々しい提示によっても強調されている。「建築材料としての板をわざと使い,その関節になるボルト,ナットのジョイントははっきりと見せる。建築などで電線など機能を表面に出す方がよい。それが装飾のかわりをしてくれる[i]」などのことばは,「材料」というものに対する明白な意識が見られ,ここではその目的が空虚の縁取りとなっているのである。

 裏側を見ようとする志向,あるいは闇に向ける目は,「鬼の笑い」と題した彼の文章にも見い出せる。そこで,彼は奈良の寺院をまわりながら「けだかくおごそかに佇む仏像達をよそに,四天王や十二神像の足下で,ぶざまに苦しみもがいて,あらゆる姿態をさらけだしている悪鬼ばかりを眺めて歩いた[ii]」という。何かを支えている者が,その重みの本体に対してみせる自虐的な笑いの世界が作品化されてゆく。《ペンチ》《クレーン》《ハンガー》などはその延長上に制作された。それらは,ともに何ものかを支えるものでありながら,しかもそれらもまたある一点によって支えられている。しかし,その重みの本体はつねに不在である。

 このような原理は,かつて構想された≪やじろべえ≫に従っており,不安定でいつも可動性を秘めた,ある意味では人間存在の実体をも象徴する喜劇というわけだが,一方ではつねにつりあいを保ちながら,他方でその対称性を崩してゆく。こうしたとらえ方は,次の時期の二点一組の仕事にもつながってゆくもので,そこでは凹凸がたがいの空洞をうずめあうような形で構成されているが,両者は必ずしもぴったりと重なりあうのではなくて,必ずその間には,すきまが出来るのである。「動くものはみなシンメトリーだ。シンメトリーだから動ける。それでいて,どこか違っている」という作者の言葉は,極めて散文的であるが,この「どこか違っている」部分,言いかえればこのすきまの部分に,その深淵をのぞき込もうとする観者の眼が存在する。


[i] 1983617日,東京都美術館で開かれた斎藤義重展準備の研究会席上での斎藤氏の発言

[ii] 芸術新潮19597月号 p161

第566回 2023年4月19

2 空虚の縁取り

 つまり,それは「反対称」ということでもある[i]。ロジェ・カイヨワの定義に従えば,非対称(asymetrie)が対称を作り出す前の状態をさすのに対し,反対称(dissymetrie)は対称の破壊された後の状態を言う。対称は進化にともなって現れてくるが,すぐに安定の要素となり,進化を停止させる働きをする。そして確立された完全な対称のなかに,突如として破壊が生じる。この反対称が構造に新しい特性を与え,より高度な組織に移行してゆくのである。

 こうした「反対称」の意識は,近代の合理主義が歪みとして持っている部分でもある。彼は「最も高度のテクノロジーによって生まれる不合理なものを探索したい[ii]」と言う。確かに電気ドリルは,人間の理性が生み出したものに違いないが,それが造り出す線は,極めて奔放な「機械の自由」を物語っている。「重なり合い交錯し,混乱した線の塊りは,どこかに未だ埋めたりない空白を感ずる[iii]」と作者は語る。この空白を埋めようとする意志が,それを制しようとするドリルと板の個性の前でたじろいでしまうのである。

 あくまでも平面であり続け,レリーフを保つためには,画面に穴をあけない程度の操作が必要である。しかも,影が生じる程度の凹凸も欠くことはできない。そして,ドリルの作品であっても,板を重ねた作品であっても,板を切り抜いて張りつけた作品であっても,わずかに生じるこの影の部分が実は重要となってくる。斎藤は合板を重ね合せて作った一連の《トロウッド》について,板の「二重になっている上下の関係は,絵画の描かれたフォルムと背景の関係ではなく,物体としての凹凸であること[iv]」と注釈をつけ,その影の出来る落差を強調した。1960年,ドリルの仕事がはじまった時,瀧口修造は「一見して版画の手法に非常に近ずいていて,すくなくともタブロオが版木そのもののような様相を呈していること[v]」を指摘した。つまり,わずかな影の凹凸は,版画紙に写しとれる程度のそれであったと言える。言いかえれば,それは何かに写しとられることを前提に準備された仕組であって,それ自体としては自立せずに隠されているものである。しかし,版画として存在し得ないものであってみれば,この場合の版木とは空虚の縁取り以外の何ものでもない。このように版木のもつ矛盾にみちた性格を,斎藤は一連の作品の中で開示してゆく。

 確かに版木の凹凸は,写し出された紙にあっては明暗に姿を変えてしまう。画面からイリュージョンを消し去ろうとする斎藤の立場から言えば,版木をこそ重要視するのは十分に理解できる。それは枠を組みたてることにこの画家の主眼が置かれているからである。「私の場合,技術的にも思想的にも方法だけが問題になるんです。システムを作ること,システムを創造することです[vi]」と1966年のインタビューに答え,1978年の立体についての対談では「レリーフの場合は平面的に枠を組んでゆくこと。立体の場合は,フォルムを作るのでなく,フォルムを包み込んでフレームを作るということです[vii]」と答えている。


[i] 斎藤の「反対称」という作品名は,カイヨワの著作によっている。ロジェ・カイヨワ「反対称一右と左の弁証法」(塚崎幹夫訳)思索社1976

[ii] 針生一郎「デイアローグ 斎藤義重」みづゑ19723月号p64

[iii] 「現代作家の発言・日本の先鋭たち_」みづゑ19641月号p28

[iv] 東京画廊編「斎藤義重19361973」所収,「トロウッドについて」

[v] 瀧口修造「斎藤義重の近作」みづゑ196012月号 p74

[vi] 小川正隆「斎藤義重一一訪ねる<抽象画>」新婦人19663月号P112

[vii] 「立体についての対談」現代の眼2831978年 p8

第567回 2023年4月20

3 「箱」への執着

 枠組みに対する興味は,「箱」への執着という形で具体的に現れる。1965年,斎藤宅を訪れた船戸洪吉の伝えるところでは,「彼の横浜の家にはやたらと木箱がころがり,山積している。リンゴ箱であれビール箱であれ,彼はけっして捨てないでとっておく。彼は木箱を眺め,木肌を見つめ,木目を凝視してあきない[i]」。斎藤にとっては,中身よりも,その中身の痕跡をおおい隠した外枠の方が重要であり,しかも中に何もないということ,つまり中空の思想といったものが問題になってくる。

 このように空虚を明確に視覚化しようとして,彼の枠組みの仕事は続けられる。1973年の再制作ののち,1976年に発表された《反対称》のシリーズでは,すきまのもつ重要な意味あいが,木枠の主題と重ねあわされている。《反対称対角線》に見られるあの荒々しいすきまは,何を物語るのであろうか。私には板を重ねて打ちつけるという行為の中に,何かを封じこめようとする古代の民俗的な息吹きすら感じられる。しかし,この場合も封じこめられたものは不在である。それは神体を持たない鳥居にも似て,私達は見えないものを,その枠組みを通して感じとるのである。

 彼は見えないものを,あえて見えるようにしようとはしない。彼の作品は,見えないものの周りを取りまく諸現象を伝承する語り部として機能するにすぎない。「私にとって必要なことは,かたちの結末より,その原因である行為と過程の痕跡を『刻印』することである[ii]」というように,斎藤義重の絵画の特質は「刻印」あるいは「記録」のうちにある。表面を克明に写し取り,記述してゆくという姿は,彼が一時期文学に求めた志向性でもあった。役場の書記が記す報告という文体でつづられた報告者をも巻き込む人食いの話や,ある機械の運動について,ただそれを克明に書きつらねた小説は,彼の造形思考と通じあうものがある。斎藤がレオナルド・ダ・ヴィンチをことさらに問題にするのも,その散文精神からであり,自らも詩はきらいなんだと言ってのけた背後には,ものの現象を感情の言語に置きかえることの虚無性を意識したからであった。


[i] 船戸洪吉「斎藤義重一変貌するもの」文芸春秋19657月号P294

[ii] 読売新聞1963830日夕刊。みづゑ19787月号 p74に再録

第568回 2023年4月21

4 表現しないこと

 そこで斎藤は,「表現」ということに否定的な態度を表明する。「やっている行為だけが価値があって,なにを表現しようかという目的よりも,やって出た結果,行為の跡のほうが重要」として,「表現というより,いきなり物体を作るということに近い[i]」と言う。これは斎藤がパリの石壁に1800年代の古い落書きを見つけ,そこからドリルにより彫りつける仕事に至った経過をのべた際のことばだが,それ以後の制作においても,一貫して流れている原理である。

 戦後すぐの具象的な油彩画の場合でも,それを表現としてはとらえていない。1956年の《漁村》は,魚,船,帆,網など具体的なイメージが残された抽象画であるが,これについて彼は「この絵はこの浜辺に散在している素材の断片を拾い集めて,きれぎれに綴ったアラベスクです。主題に対して物語ろうとする意味の表現は企図していませんが,作者の意識の外側に語るものがあることを望んでいます[ii]」と言っている。極めて他力本願な態度ではあるが,それは単にアラベスクとなった装飾ではありえない。人間の力を越えて存在する深淵の秘密にせまりたいという欲求から出てくるもののように思われる。

 斎藤にとっては,人間から遠ざかることによって,逆に人間に近づこうとする逆説的な論理の展開が,空虚の領域に分け入る有効な方法であったようだ。斎藤はモンドリアンを語る中で,この抽象画家が「人間の感情に近い要素をいっさい否定して,人間から離れた別のものに近づこうとしたが,こうした画家の意思も実は人間性がそうさせている」という逆説的な言い回しを用いる。こうしたすべてを包括しうる一元論は,「絵では問題を何も包括できやしないという絶望感」から彼の制作が出発したことに由来している。

 「絵はなにも表現しない,表現しないところに絵がある[iii]」「私にとって選ばれたドリルと木の板はモチーフであり,板の上の広がりはテーマである[iv]」などのことばは,確かに逆説的な言い回しではあるが,そこには明らかに,表現・モチーフ・テーマの語が用いられ,しかも,彼はいまだ絵画ということばを使い続けるのである。つまり,そこには従来通りの解読に共通のコードが存在しているのである。それゆえ,作品はかえって作者のことばを裏切って自己を開いてゆく。杉全直が斎藤の作品に抱いた印象「彼はよく『ものだ』,『ものだ』といい,観念性に対し極度の警戒と回避をしているが,彼の作品を前にするとき,私の眼にはまず,いいようのない深い観念的なものが惨みこんでくる」「彼は物事を冷たく突きはなしはするが,彼の生み出す作品にはいつもほのぼのとした暖か味が感じられる[v]」というのも,このことを語っている。

 それは,作者が素材をねじふせようとする態度からは生まれてくるものではない。つまり,表現のために素材を加工して,むりに作者の意図に近づけることは,極端に避けられているのである。京都のロイヤルホテルのロビー壁面に,斎藤義重制作のモニュメントが置かれているが,それは熱帯の原生林から伐採された巨木を輪切りにして配置したものである。彼は「木を見たとき,原木の大きさと,今まさに伐採されたばかりの,ノコギリの荒々しい軌跡にひかれた[vi]」と言う。そこには私感を混えずに,「もの」に入ってゆこうとする態度が見られ,これによって見る者は,何百年の年輪が持つ人知を越えた世界に出会うのである。


[i] 「描いた『跡』一斎藤義重氏に聞く」世界19651月号PP2734

[ii] 「『漁村』-作品と作家のことば」美術手帖19567月号 p73

[iii] 富岡多恵子「斎藤義重一レース編みの論理」美術手帖19681月号 p135

[iv] 「シンポジウム・芸術と思想Ⅲ」季刊芸術1969年冬季号 pp.2378

[v] 杉全直「斎藤義重と私」現代の眼2831978年 p.4

[vi] 芸術新潮197211月号 p142

第569回 2023年4月22

5 感情の排斥

 しかし,これも言いかえれば,ノコギリをひくという人間の行為が生み出した軌跡であり,隠された自然はこれによってはじめてその内側を開示する。それは,人間を求めて皮をはぎ骨の髄にまで至ったレオナルドの探究心とも等しく,すべては不可思議な生命をさぐる科学者の眼とも言える。つまり,そこは善悪の価値判断が存在しえない地点であり,彼があえて「諷刺ということをぼくは避けているのです。ただそのまま見たことが結果として諷刺になることはかまいませんが,自分が諷刺しようという気持ちはちっともないのです[i]」と言うのも,こうした立脚点にもとづく発言といえよう。戦後の一時期,彼の作品が人間をテーマにしたものであっただけに,戦前及びその後の抽象的作風との一貫性を考える場合,諷刺ではなく喜劇だという立場は,注目に値する。

 このことを称して,針生一郎は「混乱のなかで自己を点のような存在と化し,無に解消してしまおうとする,デスベレートな情熱[ii]」と言い,中原佑介は「この引き裂かれた『余計者』にとって,自我というのは一個の統一的実体でなく,単なるピエロめいた機能でしかあるまい[iii]」と言う。こうした見解はともに,主体の喜怒哀楽による近視眼的な思い入れを排する作者の制作態度を語ったことばであり,「感情のない動きを作りたい」とする作者の心情を代弁している。つまり,そこではおかしさと悲しさは,つねに同じレベルにある。

 こうした感情の排斥は,作品に「乾き」のイメージを与える。確かに斎藤の作品には水分を感じさせないものが多い。水を感じさせる 《漁村》においても魚はひからびているし,《あほんだらめ》の口をパックリあけた人物の表情も,乾きにもがくものの姿に近い。ドリルによる一連の作品には,いつも熱風の舞う砂漠のようなイメージが付いてまわるし,堅い岩石が互いに傷つけあったような姿でもある。さらに合板の素肌は,堅く乾ききっていて水気をはねつけてしまう。いくつかの板にはステンレスが張りつけられ,錆びることのない木ネジが埋めこまれている。

 そして,こうした乾きの中に,実は本体の全てが写し取られているのである。斎藤は広島でのある出会いを次のように語っている。「原爆に会った女性の顔が,死後剥製になって,一枚の平らな物体となっているのです。これはどう見ても人間の顔とは思えない。たとえればブタが笑っているように見えます。これが女性であり,被爆者というその現実はすっかり蒸発して乾いてしまい,おかしさに変質している。そのことは一層無残に見えます[iv]」。

 同じことは,フォートリエの《人質》を見て語った「ただ数条のしわだけが残っている顔というよりは,空ろな白い塊りが無惨にそこにおかれてあるが,それは描かれたものが無惨というよりは,描いた人のかわききった無惨な心が無造作に投げだされている絵であった[v]」という部分からも読みとれる。徹底的に皮袋として人間を見ることは,斎藤にとって逆説的な意味で人間性の表明であり,「ピカソとヒユーマニティ[vi]」と題した文章でも、彼はヒューマニズムを否定したピカソの中に革新的なヒユーマニティを見い出している。


[i] 「座談会一『事』ではなく『物』を描くということ」美術批評19542月号 p23

[ii] 針生一郎「斎藤義重論」三彩19593月号 p.57

[iii] 中原佑介「斎藤義重--『余計者』のアンビバレンツ」みづゑ19624月号 p50

[iv] 斎藤義重「私と抽象表現」美術手帖19739月号 p.43

[v] 斎藤義重「伝統の終焉-フオートリエ展を観て」みづゑ19602月号 p23

[vi] アトリエ19491月号 pp246

第570回 2023年4月23

6 皮袋の表裏

 ものの本体をおおう皮袋の表裏には,外界に接する表の面と,血のこびりついた裏の面が背中あわせに抱きあわさっている。そしてその皮膜をつき破って,被爆者の顔やフォートリエの顔が,突如うかびあがってくるのである。このようなものの表面,あるいは外装・外枠・おおいに対する興味は,それが本体を持たなければ持たないほど,斎藤にとって重要になっていったようだ。「血液を注射器ですうーつと抜いたようななかに発生した何とも云われない笑い[i]」(杉全直)あるいは,「あるふかぶかとした混沌の上澄みをうつしとろうとする[ii]」(東野芳明)などは,斎藤作品の特色を語った適切なことばだと言える。

 これはまた、斎藤が「拓本」という存在に寄せる特珠な興味にも通じあっている。中国の古い摩崖碑の古い拓本を見て「これらを私は書として見ていないし,といって別に絵として見ていない,ただ一枚の紙片の全体を見ている他にありませんが、しかし,それはやはり文字というものが強烈に浮び上がってくることは仕方がありません。またそれと同時に文字の意味も越えてしまっている。こういうエネルギーは何かということです[iii]」と彼は問う。

 つまり、彼は拓本の魅力を,自然の中に存在感を刻みつけた古代のすさまじい営みの跡である石碑から、タンポの過程を経て,本体から遠ざかることによって、かえって「もの」に近づいてゆくという点に見い出している。それゆえに,人は拓本を全体として見ているほかないのであり,本体を見ることによっては気づくことのできなかった地の部分も,拓本には均等に写し出されていることを知るのである。

 このように斎藤は,本体は無であっても,それを写し取った枠組みには,その混沌の諸相を目に見える形で提示できる手ごたえのある実在があることを確信していたようだ。「斎藤にとって,絵画は自己の存在証明でなく不在証明」(中原佑介)であるということは,彼自身が私の信条として語った「自分があるところのものであらず,自分があらぬところのものである」という,あちら側とこちら側の位置の変換を意味している。そんな時,私は《「反対称」正六面体 プラトンの多面体》の中に身をひそめた作者を写した一枚の写真を思い浮かべる[iv]。この何げない制作中のスナップを取った一枚の写真が,実は斎藤義重の全貌を語っているようにすら感じるのである。


[i] 杉全直「斎藤義重の顔」芸術新潮19582月号 p107

[ii] 東野芳明「斎藤義重と菊畑茂久馬(選評)」美術手帖19628月号 pp13841

[iii] 斎藤義重・比田井南谷(対談)「右に刻まれた民族の証し」芸術新潮19775月号 p.94

[iv] 大辻清司撮影,「斎藤義重展図録」1978年(東京国立近代美術館)p7に掲載