高松コンテンポラリーアート・アニュアル vol.08/社会を解剖する
2019年09月28日~11月04日
高松市美術館
2019/11/1
5人の作家が一部屋ずつを提供されて、自由な展示を展開する。誰を選ぶかが美術館の腕の見せどころだが、若い作家なら発表の場を与えられるだけで、完全燃焼してみせる。今回もそんなパワーに出会うことができた。中でも照沼敦朗のアニメーションは圧巻だった。動画だけではない。素描も絵画も凄まじいエネルギーが炸裂している。以前、榊原澄人のアニメで感じた複眼の思考が、アニメというメディアの特性と見事に一致したと見てよい。
実写映画でいえば、パンフォーカスが登場し、「市民ケーン」という名作に結晶したエポックと対応関係をなしているのかもしれない。都会を俯瞰的に見て、あちこちで様々な事件が同一平面上で同時に起こっている。それは現代という社会のあり方を伝えるものだ。決して否定するわけではなく、どれが良くて、どれが悪いというものでもない。相対化された価値観のもと、淡々と事件は起こり、繰り返されていく。メディア芸術祭のグランプリに輝いた先述の榊原澄人のデビュー作「浮楼」は、そんなアニメだった。それをさらに大規模に、大都会に息づいている営みに複眼の視線を向けていく。
中心を回避して、部分を同列に扱うというのが、ここでは重要だ。たまたま三等客室に乗り合わせた見ず知らずの人たちが、それぞれにかかえている人生を、丸ごと写し出したような、あるいは待合室にあふれる様々な思惑を、事務的にパンフォーカスしたような、無秩序のエネルギーが蓄積する。目が向くということは、対象が動いているということだ。都市生活者の混沌は、精神的な圧迫感を嫌がることもなく、むしろ攻撃を仕掛けていく。空間恐怖の疾患を自覚して、戦略的に都市社会学は夢想を始めるのだ。文字情報は都会の夜景のネオンサインにふさわしい装置だ。蛍光塗料のようなけばげばしいまでの輝きを放つ。絵画の下書きの上にプロジェクション・マッピングで上書きしたタブローは、イメージと物質が交錯する幻視の奇跡を呼び起こし、効果的だった。
先に見た「日本建築の自画像」の控えめの美学とは対極にあるような、縄文の系譜がここでは語られている。絶えず手が動いていなければ完成しないような、どこまでも増殖するメガロポリスの近未来がカメラを移動させながら、フォーカスされていく。俯瞰的な視点は、遠近法にしっかりと基づいている限りでは、伝統的ではあるが、過剰なまでのディテールへのこだわりは病的だ。しかし多くの賛同と共感を得るものだと予想できる点では、共通した社会性に支えられているということだ。
全体を通して、5件の作品はパフォーマンスをともなう造形という点で、共通するものがあった。作品はパフォーマンスをおこなうための道具と化してもいる。事件の記録として、カタストロフの傷痕として、作品は切り売りされて拡散される。一人歩きした断片が定位置に戻ることがないことを、期待しながら均質の断片を量産していく。どこを取っても違うのに、全て同じだという金太郎飴の統一感に近いものがある。糸で絵画空間を織り上げる盛圭太の作品は、これまで何度か見たことがある。碓井ゆいや加藤翼の試みも、作者名とは結びつかないまま、記憶に残っている。どこで見たかは思い出せないことが多いが、現代アートの方法論の探究は、個人のスタイルの確立に欠かせないものだろう。技術の習得に支えられた工芸的世界とは異なった、荒削りではあるが、宇宙論にまで発展してゆく、次代を担う個人様式の確立を期待しておきたい。