第4章 北斎の浮世絵版画

第602回 2023年5月30

富嶽三十六景一遠近法の導入と西洋的風景観の成立

 北斎の浮世絵版画、ことに《富嶽三十六景》は、その構図法において、19世紀後半期のヨーロッパの画家たちに大きな影響を与えた。しかし、それは必ずしも日本の伝統的な構図に由来するものではなく、むしろ遠近法による空間把握を下敷きにした西洋流の視点が強く感じられる。そしてこの西洋的視点を共通項として、それが日本で変質してゆく姿に興味深く対応したのが印象派周辺の画家たちだったということになる。つまり西洋においては時代は遠近法的因習から抜け出そうとする頃であり、逆に日本では遠近法に目覚めてのち、まだ新鮮な驚きが持続していた頃だった。ベクトルは相方で逆の方向を取るとはいえ、古来からの空間把握の方式を一部で残しながら、急速に遠近法になじんでゆく日本的空間の変質の過程に、遠近法を崩したばかりの西洋の観察眼がヴィヴィッドに反応したという点は興味深い。本稿では遠近法的空間秩序が日本に導入されて以降、北斎の富嶽図に至るまでの系譜をたどりながら「風景画」のイコノロジーという観点から、西洋的風景観が日本人の美意識の中に取り込まれてゆくプロセスを追ってみたい。

第603回 2023年5月31

浮絵と遠近法

 西洋的遠近法がオランダと中国を通して日本に導入され、その図法にもとづいて制作されたのが「浮絵」である。奥村政信が浮世絵の構図に用いて以来、それは一般化するが、享保年間(1716-36)の末にはそれが江戸で流行していたことは、多くの文献から知られる。たとえば石野広道『町絵そらごと』には「うき絵という物江戸に見えたるは享保の末よりの事にて七〇年にはたらぬもの也。其頃はうきはせずして、むかふへくぼみて見ゆれば、くぼみ絵といふべしといへる人も侍りき」(1)とあり、江戸の庶民がはじめて目にする立体画像に驚く姿を伝えている。その頃の浮絵は、透視画法の比例が単純に見てとれる建物の内部に用いられるのが主で、自然の風景描写にまでは至っていない。その中でもことに劇場内部を描く場合に成功例が多く、それは舞台が見晴らしのきく規則正しい対称性をもっているために、木版画による線遠近法の表現に適切なものだったことに一因する。

 こうした遠近法による視覚体験は、日本でこの図法にもとづく制作がなされる以前から、すでにオランダや中国から伝えられたものの中ではじまっていた。浮絵の起源のひとつとして「のぞきからくり」が考えられるが、それは眼鏡絵とともに、箱の中をのぞきこむという好奇心によって支えられており、遠近法がまだ一般化する以前の新鮮な驚きを演出するための装置であった。和蘭陀商館日記には正保三年(1646)にオランダからもたらされた「透視箱」が、ことに珍重されたと記されるが(2)、遠近法に目を慣らす訓練は、すでに近世初期からはじめられていたと考えてよい。


(1)  楢崎宗重「日本風景版画史論」アトリエ社 昭和18年77頁。

(2)  岡畏三郎編「風景版画」日本の美術68 至文堂 昭和47年36頁。

第604回 2023年6月1日

目の訓練

 貞享・元禄(1684―1703)の頃には、江戸や京都でからくり仕掛けの見世物が、大そうはやっており、それは西洋的視覚が徐々にゆき渡ってゆく姿ではなかっただろうか。そして浮世絵版画により浮絵として量産されてゆく享保の末には、のぞいて見る方式から壁に張ってながめる楽しみへと変化していったのであり、そこにレンズやステレオスコープを用いた閉鎖的な特殊な装置による非日常的な体験から、日常空間の中に組み込まれて大衆化してゆく様子が受けとめられる。しかし、一方で浮絵の大衆化は、すでに遠近法が当初の衝撃をなくしてゆく経過でもあって、宝暦(1751―64)あたりまでが、それの全盛期であって、文化(1804―18)に至ると下手物と化し、「銅版流の繊細な描写を棄て、近代流に物体を一ツの塊と見た点が致命傷」(3)となったという。そして文政(1818―30)に及んでは、人工的な浮絵はその魅力を失ない、自然な純風景がそれに代わってゆく。

 こうした経過の中で、浮絵が芝居の舞台から離れ、戸外の自然の風物に目を移しはじめる時、鑑賞形式の上からは名実ともに、のぞき箱から壁に張られた一種の窓として機能することになる。そして背後にあるのは、遠近法の一般化がもはや舞台の額縁と客席とを結ぶ明確な規定線をなくしても、自然への応用を可能にしたという慣れの状況である。しかし、こうした目の習性は即時に成立したものではなく、自然の風景を前にして、日本古来の高所より見下ろして描く俯瞰法との不一致を矛盾としてひきずりながら進化していった。しばしば室内が透視画風の遠近法であるのに、屋外が古くからの俯瞰法となっている場合がある。

 遠近法は水平線上に一点を設定し、そこから放射状に広がる線がかたちづくる物体の大小差によって、整合性のある世界の統一をはかろうとするものであり北斎もこの原理を『北斎漫画』第三扁の中で図示しているのだが(4)、よく見ると少しおかしい。そこでは遠くに船の見える海岸ぞいの家屋を透視図で描いているが、家の軒と地面の線をのばして交わるのは、海のかなたの水平線でなければならないが、北斎は勘ちがいをしたようで、海岸線にそれを結んでしまっている。この思いちがいは、北斎の風景版画のいくつかに具体化されることになる。たとえば寛政一二年か享和元年(1800―1)(5)の作と推定されている仮名書きの洋風風景画の一点『たかはしのふじ』でも、近景の橋を見上げる目の高さと背景の富士の置かれる水平線の位置に矛盾があり、そのために中景の表現が極めて曖昧になっている。もし橋と富士をそのままの位置に残したいならば、中景にある河岸の位置はもっと上でなければならないし、逆に河岸の遠近法をそのまま生かすならば富士の水平線はぐっと下がってこなければならない。このような遠近法の簡単な原理も、当時は余り気にとめられてはおらず、北斎に限らず同種の誤りは、すでに浮絵の大成者として知られる歌川豊春の作品中にもうかがわれたものであり、古来から上下に積み上げてゆく東洋画の遠近表現に慣らされてきた目には、おそらくこうした誤りは気付けなかったにちがいない。

 豊春は安永年間(1772―80)に多数の浮絵の制作を通じて、それまで背景であった風景を独立させて、風景版画の基礎を築いた人物である。しかし彼がまず手掛けたのは日本の風景ではなく、カナレット風のベニスやアムステルダムの都市風景を描いた外国の銅版画をそっくり木版画にまねたものだった。当然そこでは風景把握のベースにあった遠近法もそっくり写し取られることになったが、これを日本の風景に応用し、独自の風景版画を創作する時点で、個別的には正しい遠近法が全体として一貫性のないゆがんだ風景を描いてしまったのである。

 たとえば『浮絵阿蘭陀雪見之図』も、そうした創作風景画の一点と考えられる。そこでは雪景色を白と緑と赤の彩色で情緒豊かに描いているが、建物の軒と床の線は背景の水平線にたどりつかず、北斎と同じ誤りを示している。ここでは遠近法の導入された構図は確かに洋風であるが、山の皴法をはじめ描法には中国的な香りが強く、浮絵と支那板画、ことに蘇州版画との関係を思わせるものがある(6)。中国では明末から清初にかけて西洋の画法をすでに受け入れており、確かに日本での遠近法の把握という点からいうと、オランダから直接というよりも、いったん中国流にアレンジされたものの方が、違和感はなかったにちがいない。黒田源次氏の主張によれば、浮絵といえどもその洋画的影響は中国を通じて得たものだとされる(7)。

 しかし浮絵の発生と対応して重要なのは、享保五年(1720)の八代将軍吉宗による洋書輸入解禁であって、これ以降急速に洋風表現が進展することからみて、宗教以外の内容をもつ図像に限られたとはいえ、洋書の挿絵が絵画表現に大きな影響力をもったことは確かである。これ以前でも寛文三年(1663)のオランダ使節献納の大小21枚の絵画をはじめ、銅版画など西洋文物の伝来は長崎から鎖国時代を通じて引き続いて入ってきていたわけだが、この洋書の解禁によって洋学が合法化されたということは、ことに浮世絵という庶民のレベルに西洋の視覚が入りこんでゆくことと対比させてみる時、重要なものとなる。


(3)  織田一磨「浮世絵と挿絵芸術」萬里閣 昭和6年 241頁。

(4)  細野正信編「洋風版画」日本の美術36 至文堂 昭和44年第136図。

(5)  安田剛蔵「北斎の洋風風景画年代考」浮世絵芸術15 1967年34頁。

(6) 鈴木重三「絵本と浮世絵一江戸出版文化の考察」美術出版社 昭和54年275頁(浮絵の展開と変貌)。

(7) 黒田源次「西洋の影響を受けたる日本画」中外出版 大正13年46頁。

第605回 2023年6月2

百科事典の世界観

 しかも宗教的図像を離れることによって、主題は洋書の実用的な挿絵の部分に向けられてゆく。浮世絵の歩みが女絵から風景版画へと進化することと対応させて考えてみれば、それは興味深く、いわば百科事典のもつ博物学的な物質の世界の前に、それまでのキリスト教に根づいた人間像を中心とする精神世界は大きく後退したともいえる。そしてその物質世界から目に見えるものに対する興味と、それに向かう科学的な態度が芽生えてくるのは当然で、百科事典はそうした知の集大成であったし、博物学的志向からすればそこに書かれているオランダ語の文章よりも、説明のために添えられた図解の方に、まず目をそそがれたにちがいない。出版文化はすでに一六世紀のアントワープの時代より、ネーデルラントのトレードマークであったし、銅版画の技術も最高のレベルに達していた。

 ショメールやボイスといったオランダ語版の百科事典は日本に広く流布したが、そこには様々な知識がクローズアップされた図版とともに掲載されており、遠近法にもとづいた風景描写も少なくない。たとえば1769-78年版の10巻本のボイス百科事典では「船」[図](Schip)の項目に、水平線を低くとった17世紀以来のオランダ海景画の伝統にしたがって、オランダ船の銅版画が挿絵にされており、遠方まで広がりを見せる海の描写や近景のボートに乗った人物たちの表現は、正確な遠近法にもとづいて描かれている(8)。近景から遠景に向かって徐々に静まりをみせる波の描写もたくみであり、平坦な風景を遠近法で表現するための格好の手本になったように思われる。

 また1743年にアムステルダムで出たショメール百科事典では、「噴水」[図](Fontein)の図解として傾斜した岩肌の風景を描き、前景正面に木を置いて変化のある構図をつくり、背景には山岳風景を地平線を低くして描くというような工夫をしている(9)。確かにそれは噴水の原理を伝える図解ではあるが、空に広がる雲の描写や遠景に群がる鳥の表現なども併せて考えると、百科事典の図説というよりも遠近法に基礎を置いた風景画として見ることは可能である。

 このような何げなく百科事典などに図示される遠近法表現は、西洋においてはすでに数百年を経て普遍化してきたものであったが、この原理に慣れていない日本人の目には、限られた十数センチの銅版画の枠内に無限大の広がりを示すという点で、衝撃的なものであったにちがいない。そして百科事典が「もの」を中心として人間を背景に追いやる図解をめざしたとするならば、やがて北斎に結晶するクローズアップの手法も、「知」の世界を羅列した百科事典のもつ世界観に一致している。そしてその目に見える「もの」の世界を支えているのが遠近法という原理に他ならない。北斎の読本挿絵に現われる毒グモや大ネズミのクローズアップの効果も、まるで百科辞典の挿絵か動物・昆虫図譜のようでさえある。

 そして、こうしたクローズアップによって近景と遠景を極端に対比させるというやり方を、北斎以前に秋田蘭画の画家たちが試みている点は、それが博物学的精神の持ち主であった平賀源内からのメッセージとみる限り、遠近法的空間把握を土台にした上での奇抜な発想の転換だったともいえる。しかもそのクローズアップがしばしば画面からはみ出すほどの部分の拡大であったという点では、百科事典的な秩序を崩してさえもいる。対象を全体としてとらえようとする西洋の古典的な精神からはそれは現われてはこない。むしろその起源は花鳥画をはじめとした東洋画の伝統の中にあると見る方がよい。問題は東洋においては極端な近景を遠近法的空間秩序の中で処理しようとはしていなかったという点にある。そしてこの思いつきが秋田蘭画を経て北斎に結びつくとしたならば、彼らはともに遠近法をベースにして風景をアレンジしてみせたということになる。成瀬不二雄氏のいうように「幕末の風景版画における近像型構図は伝統的日本絵画からただちに生まれたのではなく、西洋画の視角の影響を受けながら形成されたのである。それ故にこそ、西洋近代画家はこの種の構図の奇抜さに驚きながらも、それを比較的抵抗なく受容することができたのであろう」(10)。それではこの「西洋画の視角の影響」とは具体的にはどういうものであったか。それを北斎の富嶽図を見ながら、次に考察してゆきたい。


(8) E.Buys, Niew en volkomen Woordenboek van honsten en wetenschappen, Amsterdam,vol.9, 1777, pl.cexxxy [Schip].ここでは福井県立大野高等学校蔵の蘭書を利用させていただいた。ここに記して感謝申し上げます。

(9)  M.H.Chomel,Huishoudelyk woordenboek, Amsterdam, vol.1,1743, Plaat 15 "Fontein".同じく大野高等学校蔵のものによる。

(10)  成瀬不二雄「江戸からパリへー秋田蘭画から西洋近代絵画へ」季刊芸術40 1977年104頁。

[図]Schip 下Fontein

第606回 2023年6月3

富嶽三十六景とオランダ風景版画

 北斎が富嶽三十六景のシリーズを発表するのは、文政六年(1823)頃から天保三年(1832)頃にかけてである。それは浮絵の系譜からいえば、終末の時期にあたり、新しい風景の理念が求められてくる頃である。浮絵は当初の驚きを失ってしまえば、単なる合理主義的な空間の科学にすぎず、芸術的詩情を感じさせるものとはいいがたい。そこで北斎にあっても浮絵によって築かれた遠近法的空間理念を残しながらも、思い切った中景の省略によって奇抜な構図を試みることになる。富嶽三十六景には、かつてのオランダ銅版画風の『たかはしのふじ』で用いた浮絵の構図をそのまま残した『深川万年橋下』や、同じく橋の両岸に並ぶ建物が遠ざかってゆくのを透視図法で描いた『江戸日本橋』などもあるが、ともに前に述べたように、ひとつの水平線に各部分が集中してゆかないという根本的な誤りをおかしている。

 それに対して、『神奈川沖浪裏』『尾州不二見原』『本所立川』などでは、前景に波や桶や材木といった何でもない卑俗な材料を大きく張り出して、その間に富士を置くことで中景部分を曖昧にし、それがかえって見るもののイマジネーションの働きを強めるという効果を生んでいる。さらに『凱風快晴』と『山下白雨』に至ると、浮絵的な効果は捨てられ、風景を遠近法空間の中で見るといった空間本位の見方から、物体としての山そのものを描くという点で、浮世絵史の上ではじめて存在感に満ちた風景画を生み出した。それは風景というよりも、むしろ山の肖像と呼び直した方がよい。浮絵にとっては確かに致命的な風景画の出現であった。

 富嶽三十六景のシリーズは、表富士を措いた正編36枚に、俗に裏不二と呼ばれる10枚を加えた46枚より成っている。表富士は描線がすべて藍摺りであるが、裏不二の方は墨線によって処理されており、裏不二は正編が好評を得たのちの追加分だと考えられており、文字通りの裏側の富士を描いたものというわけではない(11)。正編に用いられた藍摺りには当時流行しはじめたベロ藍(オランダ名ベロリン)が多用されており、ここでは通例墨でなされる輪郭線にもこの顔料が用いられている。このことも今までの風景版画には見られない新しい試みであった。

 シリーズのうちでは、富士山をバックにして様々な風俗描写や自然の細部を前景に大写しにするという方法が、一貫して見られる。前景に対比となる風物をもたないという点で、前述のいわゆる赤富士と黒富士の二点は例外であるし、富士に登山する巡礼者を描いた『諸人登山』も、富士山というシンボリックな山のフォルムを意識的に排除して、このシリーズにあえて加えた点は興味深いものがある。これら3点を除いて他の全点を通してながめてみた時に一貫して見えてくるのは、富士はどんなに遠くにあっても、常に超然としてたたずんでいるという印象である。前景に展開するのが世俗的かつ物質的な世界であるという点を考慮すれば、富士山の置かれる遠景に聖なるものの姿を想定することによって、聖俗の対比を遠景と前景に見い出すことも可能である。

 たとえばその対比は、遠景での富士山の輪郭を前景でなぞるという北斎の意図的な構図法によっても強調されている(12)。『神奈川沖浪裏』では前景に出てくる白い波の山によって、『江都駿河町三井見世略図』や『東都浅草本願寺』では、男たちが気ぜわしげに動きまわる呉服店や寺の屋根がかたちづくる山型によって、『武陽佃島』では小舟に満載された山積みの俵によって、それぞれ富士のシルエットは繰り返されている。その他の作品を見ても、岩場の突端で荒海に向かう漁師の輪郭や、雪見をする女たちのいる楼閣の屋根、船上で人々が生活を送る屋形船などに、裾野を広げる富士の輪郭が対応していることがわかる。このような前景の場面は、おしなべて動きのある日常的な情景であることで共通しており、それらが逢かかなたの静かな白富士と対比をなすのである。


(11)  鈴木重三前掲書 297頁(富嶽三十六景私見)。

(12)  富嶽三十六景の構図分析については、浮世絵研究会編「北斎の研究(上巻)」北光書房 昭和19年 219頁以下、中村英樹「北斎万華鏡ーポリフォニー的主体へ」美術出版社1990年、に詳しい。

第607回 2023年6月4

聖俗の対比

 このような対比的な構成は、純粋な風景画が成立する以前の過渡的な時代に特徴的なことであり、17世紀にオランダで風景画・静物画・風俗画などが独立する前夜の状況に類似している。北斎の作品が今までしばしばブリューゲルのそれと比較されてきたが、これについては、ブリューゲルを含めて15・16世紀ネーデルラント絵画及び版画の伝統にまで広げて、それがその後のオランダを通じて日本に伝えられるという長いスパンをもった可能性をふまえてとらえ直す必要があるように思われる。

 たとえば三十六景の一点『五百らかん寺』では、物見台で遠景の富士を見物する一群の男女が描かれるが、構図上中央の富士の真下にいて欄干に肩を張って寄りかかる男の頭から両腕に広がる輪郭が、ここでは富士のシルエットと対応するのだが、これらの人物像がほとんど後ろ向きで背景をながめるという遠近法表現に適切な発想は、ネーデルラントでは15世紀にファン・アイクの『オータンの聖母』にはじまり、ファン・デル・ウェイデン『聖ルカと聖母子』に受け継がれてゆくものである。両者にはともにベランダから風景をながめる印象的な後ろ向きの人物群が描かれる。北斎の場合も彼独自の発想というよりも、ネーデルラントでの図像の系譜が、何らかの形で北斎にまで伝わったと考えられる。これ以外にも北斎の作品ではしばしば人物が後ろ姿で描かれるが、これはまたネーデルラントではブリューゲルの特徴でもあって、ともに遠近法に根ざした奥行きのある風景への暗示という点、及び人間を素通りして自然へ直接の目が開かれるという点で興味ある対応であろう。

 ブリューゲルの生きた16世紀中頃から後半期にかけて、物質文化の繁栄はネーデルラントではアントワープという貿易港を中心とした都市文化に結晶したが、その都市文化を背景として風景や静物や風俗に向ける新たな目が育ってくる。ブリューゲルは自然を前面に押し出すことで人間を後退させ、風景画の成立に貢献したが、同じ頃ピーター・エルツェンは野菜や果実や家畜の肉や骨などを前景に大きく散りばめ、背景に小さく宗教的人物像や教訓的寓意を隠し込むというやり方で、静物画への道を切り開いた。両者はともに人間よりも「もの」の世界を大きく扱うことで従来の自然観を一新したが、エルツェンは背景に精神化された世界を置くことで前景の物質文化を批判したし、ブリューゲルも物欲に支えられた人間の世俗生活が大自然の中ではちっぼけな存在であることを教えようとした。

第608回 2023年6月5

連の思想

 このように前景に物質的かつ行動的な世俗世界を置き、背景に精神的かつ静的な瞑想世界を置くという対位法は、風景描写という点からいうと、16世紀ネーデルラントの図像伝統の上からはマグダラのマリアの世俗生活と回心後のサント・ボーム山での瞑想生活の対比に見い出され、そこでも背景に彼女のたてこもった聖なる岩山が、特徴的な外観をもって描かれた。北斎の富嶽図を考える時、当時の巡礼に根ざした山岳信仰と江戸の都市文化、及び出版文化に支えられた版画ブームという社会背景は、重要なキーポイントであって、それらは同時に16世紀のネーデルラント版画との絶妙な対応関係を示すことになる。

 北斎が三十六景の中で試みた他の作例中にも、オランダ銅版画の影響かと見えるものがある。『信州諏訪湖』の場面では、真正面に大きく二股に枝分かれした樹木が配される珍しい構図が用いられるが、それはブリューゲルをはじめ16世紀後半以降のネーデルラント銅版画にしばしば見い出せるものであり、そこでは北斎の場合と同じく背景に広がりのある山岳風景を置いて、対比的な遠近関係が示される(13)。また『程ヶ谷』の場面で北斎は前景の街道にひょろひょろと立つ背の高い木々を並べ、その向こうに富士の遠望を描いたが、類似した木々のゆがみの面白さを繰り返したものは、1621年にボイテヴェクによって描かれたオランダ銅版画の中にも見られるし(14)、その後有名なホッベマの『ミッデルハルニスの並木道』(1689)に結晶してゆくものである。

 このように前景の日常的な観察の目を通して見い出される物質世界の興味深い光景は、オランダの版画家たちが追い求めたものでもあるが、それらは自然に向かう観察眼さえあれば無限のパターンをもって繰り返されるものであり、その意味では北斎の場合「無限に近い連鎖反応が、このシリーズの生命」(15)(辻惟雄)ということになる。実際、当時の広告文にも「一景つつ追々出版すれば猶百にもあまるべし 三十六に限るにあらず」とあり、人気があれば百枚をもつくる意図があったことを示している。その後『富嶽百景』という冊子の形で、そのアイデアは引き継がれることになる。三十六景のシリーズは天保4年(1833)まで刊行されて中断し、『富嶽百景』の初編は天保5年から刊行される。その間、天保4年から5年にかけて広重の東海道五十三次が出され、センセーショナルな評判を呼んでいるので、この間の老北斎と若き広重の対立は、かつてのレオナルドとミケランジェロのそれに対応するものともいえる。

 ところで北斎は、こうした無限に続く物質的世界の変化は、進展するのではなくて並列的に繰り返され続けるという考え方をもっていたようだ。それは現代の流行作家がある一定の質を保ったまま、常に量産を強いられてゆくマスコミの現状に似て、北斎に限らず江戸の出版文化の中で育てられてきた思考である。それはまた百科辞典に象徴される羅列の方法論でもあって、北斎が何よりも「百」にこだわったという点は注目しておかなければならない。そして北斎が富嶽三十六景を描きはじめた時、すでに70歳を越える高齢であった点も重要である。確かに北斎は百歳まで生きようとしたし、それに近いほどの転居と改名を繰り返した。こうした生き方は半ば変身願望とも自己否定とも受けとめられようが、むしろ物質的世界への典型的な対応の仕方であったとみてよい。

 そしてこの「百」という数字は、北斎において何よりも風景と結びつけられた時に、意味をもってくる。それは百科辞典的な羅列という意味からいえば、「風景」というよりも「地図」と言い直した方がよい。北斎は木版画でパノラマ的に東海道の名所を中心にした地図を描いてもいるが、そこではそれぞれの地名が並列に、民主主義的な秩序で書き込まれている。その中にあって唯一の例外が、際立ってそびえる富士山である。そしてこの羅列的地形図は、北斎の夢想の中で『百橋図』という奇抜な地誌的風景を生むことになる。

 この木版画は富嶽三十六景を制作していた頃のもので、極めてサイズも大きく、そこに広がるパノラマ的な山岳風景は、ブリューゲル以降のネーデルラント版画に特有のもので、岩肌のマチエールは、17世紀前半のオランダ風景版画家セーヘルスが制作したエッチングに酷似する。ここで北斎はこの作品制作のいきさつを銘文に記しており、それによると秋のメランコリックな瞑想にふけっていた時、突然自分の前に百を越える橋が連なって道に結ばれる風景が現われ、その空想を素早く描きとめたのがこの作品だという(16)。確かに細かくディテールを追ってゆくと、橋は無限に結びあわされて、地図上で夢の旅をしている気分に等しい。ここでもまた百橋は大いなる連鎖であり、いわば「連の思想」(17)に裏打ちされたものといってよい。

 このように北斎の富嶽三十六景は、無限に続く風物のルポルタージュであった。これ以前、享和3年(1803)に北斎はまた弟子の宗二と共同制作で、人生の三十六景を描いていた(18)。そこには母親の手に導かれて書き方を習う少年をはじめ、人の生涯が36の場面で展開する。しかしそうした日常生活の連なりは、いつか中心の喪失へと向かうものであって、北斎の場合そうした物質文化から脱却して、中心を与えるものが富士であったとみてよい。それによって一直線に無限に向かう並列は、中心をもった無限の循環へと方向を転じることになる。その点「富士」は北極星のような存在でもあって、北斎辰政という号の由来とも大いに関連するところである。


(13) Aegidius Sadeler after Paul Bril, July and August. 六点からなる月暦図銅版画シリーズの一点で、1610年頃の作と推定される。Christopher Brown, Dutch Landscape - the Early Years, Amsterdam 1986, p.94.

(14) Willem Buytewech, The Set of the Landscapes, No.9 The charcoal-burner. F.W.H.Hollstein, Dutch and Flemish Etchings, Engravings and Woodeuts, ca.1450-1700, vol.IV, Amsterdam, p.74.

(15) 辻惟雄「日本美術の表情」角川書店 昭和61年218頁(北斎の眼と魔術)。

(16) E.de Goncourt, Hokousai,Paris 1896, pp.130-31. M.Forrer, Hokusai, New York,1988, p.282. R.Lane, Hokusai, New York,1989, p.206f.

(17) 田中優子「江戸の想像力ー18世紀のメディアと表徴」筑摩書房 1986年参照。

(18) ゴンクールの記載による。Forrer,op.cit.,p.66.

第609回 2023年6月6

中心の回復

 飯島虚心の北斎伝には寛政11年(1799)のこととして、次のような記述がある。「宗理画風を一変し、其の名を門人宗二に譲り、北斎辰政と号す。妙見を信仰するをもて名つく、妙見は、北斗星、即北辰星なり」(19)。北斎は北辰星を信仰し、そこに宇宙の中心にあっていつも不動の姿を求めていたとするならば、それは地上の世界にあっては、即「富士」と変換可能なものであったにちがいない。妙見の信仰と併せて、当時の霊峰としての富士信仰をふまえて、北斎の三十六景を解釈しなければならない。ここでは、富士講をつくって富士登山に向かう様々な流派のなかに、「赤卍」「白卍」という講名が見い出せるという指摘にとどめておくが(20)、卍とは北斎の用いた号のひとつであって、天保五年の『富嶽百景』初扁の奥付けには「画狂老人卍述」と記されている。

 江戸に住む庶民にとって、富士は西方のかなたにそびえる、いわば崑崙山でもあった。そうした神仙へ向かう巡礼の旅は、北斎の師ともされる司馬江漢も行なったし、池大雅をはじめ多くの学者文人たちも登山を試み、その印象を記している。しかし北斎は富士をめざして西方に向かい、その聖地に足を踏み入れただけではない。そこを通り越して、いわば崑崙山の向こう側にも達してしまったし、裏にまわってながめ返しさえしている。確かにそれは一直線に霊山に向かう旅ではなかったのである。

 北斎におけるこうした中心の回復は、風景画史の上においても重要である。彼は富士を見つけることによって、従来の浮絵から受け継がれた遠近法を乗りこえた。遠近法は単眼による静止した世界把握の一方式であるが、それは対象に中心をもたない。中心はそれを見る人間の目にある。遠近法の中で世界は観察者の目の前にあって、秩序立って整然と並べられる。遠近法を乗りこえたという意味は、北斎が富士のまわりを一周りすることによって、いわば西洋的自然観に対してキュビスム的転回をしたという点にある。そして富士を表からも裏からも観察したあとで、『凱風快晴』と『山下白雨』の2点では、遠近法すら捨てて富士の山そのものを前景も人物も加えずに、北斎は描いてみせた。そこには確かに紅に染まり、雲に抱かれ、雷を下に見るといった様々な自然現象のベールにつつまれた、いわば印象派の目も備わってはいるが、常に確固たる骨組みをもった富士の存在感がそれを上まわっている。この時点でおそらく、北斎は西洋的風景観の呪縛をのがれたものと思われる。それゆえにこそセザンヌもまた印象派を越えようとして、同じ意図でサン・ヴィクトワール山を見て北斎風の扱いをできたのではなかっただろうか。今ではセザンヌの山を真似て、日本の画家は富士山を描いているのである。


(19) 飯島虚心「葛飾北斎伝」産枢閣 明治26年。植崎宗重「北斎論」アトリエ社 昭和19年 181頁。

(20) 深田久彌編「富士山」青木書店 昭和15年126頁。