第13回 I 氏賞選考作品展

2020年1月29日(水)~2月9日(日)

岡山シティミュージアム 5階展示室


2020/2/9

 バラエティに富んだ優れたセレクションだと思う。絵画、彫刻、工芸という伝統的な分類をふまえながら、現代の展開が語られる。会場は仮設ふうだが、駅の至近距離なのがありがたい。まずは目に飛び込んできた順に追ってみる。

 片山高志の横長に並んだ三枚続きの絵画作品は、絵画として申し分のない独自の世界観をもっている。宙に浮く箱庭のような地形がいい。なかでも橋の上に止まっている乗用車の謎めいたたたずまいが、際立っている。セピア色が内包するノスタルジーは、記憶の断片を浮き上がらせている。ちっぽけな箱庭に収まった記憶の蓄積が、見るものの共感を誘う。

 その並びにある佐伯裕一の絵画は、サイズでは負けているが、一点で大作に対抗しようとする点で好感が持てる。遠くからながめていると、山の峰が続く青緑山水に見えるが、少し近づくと、水面に雨の降るモネとなり、さらに近づくと絵の具のタッチしか見えない。横に三枚並べるのと同じ効果をレイヤーを重ねることで実現している。

 平子雄一の四枚は、並べ方によって力を発揮する。一枚の大作になることで、個々の画面では見えていなかった物語の起承転結が、ダイナミズムを語り出していく。時に場面を入れ替えることで、新たな親和性も誕生するだろう。

 吉尾梨加は小品なのにパノラマ的な広がりを獲得している。ソールライターのポイントカラーを思わせる赤い彩色が効果的だ。打ち捨てられたものが見せる表情のノスタルジーは、さまざまな見立てを可能にする。雪ににじむ潜血と見れば、薄汚れたプラスチックのトレイが、5階建てのビルの窓に見え出してくる。セーヌ川にかかるポンヌフをめぐるレジスタンスを俯瞰する歴史絵巻さえも内包している。以前このひとの描いた洗濯機か冷蔵庫を見たことがある。そこでも草むらに放置されていたが、その時は薄汚れた白い外観が時代を経た古い病棟に見えたのを覚えている。

 沖田愛有美はきめ細かな仕上がりのよさと、表面にただよう雅びな響きが、日本画や西洋画という分類を不問にしてさわやかな絵画の一元化をめざしている。琳派の現代的展開のように見えるが、リアリティへのこだわりは、デザイン思考を寄せ付けない意志の力を感じることができる。表面のきらめきがいい。

 山田彩加もまた絵画か版画かという作家にとっては重要で、鑑賞者にとっては大差のないデリケートな位置に身を置いている。このことによって、独自の絵画論を仕掛けてくる。増殖する植物性と、還流する野生が出会う位置に、目が見開かれて、時を刻み続ける。レオナルドの組み紐にも似たマニアックな定式が、ローマ数字の文字盤にうまく呼応している。

 田中恵美は逆に版画からの報復であるかのように、小品一点がかかえる他力本願に託そうとしている。鑑賞者の眼力を頼りに構築物が姿をあらわす瞬間を待ちわびているようだ。木版画の生命力に刺激を与えて、その反応を期待しながら、やっと形が見極められるまでに至ったという印象だ。シリーズとしてあるならもっと見てみたいと思った。

 以上が壁面に寄りかかる平面制作だったが、平面と立体という分類のはざまで、日原聖子は方法論としてきわめて興味深い提案をしている。毛糸を紡いでセーターができるが、そこから今度は糸をほどいて布に縫い合わせていく。単純に言えば古着のリサイクルだが、この行為がかかえる問題は、意外に大きいように思う。糸が地図をなぞるというのも暗示的で、アリアドネの糸を彷彿とさせる迷宮伝説も踏まえられていると見ると、さらに深みを増して見えてくる。

 工芸と彫刻のはざまには、仕上がりのこだわりに向ける指数の違いがあるようだ。素材の加工のあり方を問題にすれば、大間光記の花崗岩は、彫刻以外のなにものでもない。しかし目を凝らして見えてくる光の粒の存在は、工芸的センスによって美に昇華するものに違いない。光を隠し込み埋め込む技は、パン職人のもつ舌の味わいにも似た触覚性をともなっている。

 石田和也の陶芸は、大胆な形が繊細な素肌を伴うという点では、工芸に分類できる。かつての陶彫のような具象性はない。貝殻の示す生命曲線を下敷きにしながら、擬態をかけて命のカモフラージュを試みる。形を決定するのは目ではなく、耳ではないかという問いが生まれる。この「螺法器」は、打楽器なのか管楽器なのかはわからないが、きっと良い音がするにちがいない。螺貝の響きは人間が見出す以前に、貝がその意思表示のために見つけ出した自己主張の形だったような気がする。

 加藤直樹の超絶技巧は、工芸が生き残るための必須の要件だ。江戸から明治に引き継がれ、現代ではすたれようとしている技巧の継承は、有無を言わさずに、美の典型となる。本来は手で触れた時の違和感が、鑑賞のためのポイントだろう。それは手のひらで宇宙を感じとる茶の心を基本とする日本文化の基調に即したものだ。柔らかいと思ったものが硬かったり、軽いと思ったものが重かったりする肩透かしもまた、工芸の味わいとなる。単純な基準として、ここで私は触ってみたいと感じたから、この作品は成功していると見てよいだろう。磁器なのだから硬いにちがいないと思いながら、柔らかな肌ざわりを夢想する自分がいる。17世紀イタリアの巨匠ベルニーニの、指に食い込むような大理石彫刻を思い浮かべた。

 最後に米山彰彦のベンチは、一番難解かもしれない。ただの木製の家具ではないかという反応があるからだ。テーマは「一つの家具を一本の、木で作る」ことだという。言い直せば、一木彫ということになる。日本彫刻史上、平安初期に現れた特異な美意識に連動させれば、これは仏像でもあるということだ。しかも一木彫は申し合わせたように彩色を施さずに、素木のままだ。木の生命力がそのまま形になったことを意味している。偶像崇拝をしない初期の宗教的信条を思い起こすと、それもまた神や仏の座だけがつくられるキリスト教や仏教のはじまりの気分に似ている。


by Masaaki KAMBARA