1950~54年

映画の教室by Masaaki Kambara

第381回 2024年27

てんやわんや1950

 渋谷実監督作品、獅子文六原作、佐野周二、淡島千景主演、ブルーリボン賞主演女優賞受賞。政治権力と癒着した東京のワンマン社長(鬼塚)の言いなりになっている社員(犬丸)と、社長秘書(花輪)との恋のかけひきを描いた喜劇。女秘書はこの社員を愛していて、結婚を迫っている。男のほうも嫌いではないのだが、社長とのみだらな関係を疑って、敬遠している。労使の対立にあっても、社長側について、使い走りとして、便利に使われている。

 東京での生活に疲れ、故郷の北海道に戻りたいと、退職を申し出ると、社長から四国行きを勧められた。東京を離れられるなら、どこでも同じだと、その申し出を受け入れる。そこは社長の出身地であり、選挙戦をめぐる政治的思惑があった。東京には置いておけない重要書類も託される。

 来てみるとのどかないいところだった。社長からの紹介で村の有力者(玉松)のもとに落ち着き、まわりからは先生と呼ばれることになる。東京からきたというだけで、ありがたがられている。はじめに知り合ったのは、四国に独立国を作ろうという地下組織で、村の世話役や僧侶など、まだ4人しかいない仲間に引き込まれることになる。有力者の元に出入りするとぼけた連中だが、正義感には満ちている。ただの誇大妄想なので、彼らとはあまり付き合わないほうがいいと、有力者からは言われている。

 仲間は男を東京に帰らさないよう、さらに奥地に、ピクニックだと称して連れ出して、美人の娘(あやめ)のいる家での接待を受ける。娘と夜をともにして、男は嫁にもらってここにとどまる決意をする。東京から社長が秘書を連れてやってくるが、男は打ち明けると、女は嘆きながらもあきらめをつけた。

 村娘の素朴な色香を忘れきれないでいる。もう一度会いたいと仲間に言うが、やめておいたほうがいいというだけで、理由は言ってくれない。じつはこのもてなしは旅人に対する、ごく普通のこの村のしきたりだったようで、男は娘を勘違いしてしまった。それでも男は娘をあきらめきれず、父親に娘を嫁にほしいと申し出ている。

 娘にはいいなずけがいて、近々結婚の予定だと聞き、落胆して東京に戻る決意をする。今までの生活をあらためて、人の言いなりになって、強い者の尻についていくのはやめて、新たな生きかたをはじめたいと決意を固めた。社長から預かっていた重要書類は、見られてはだめだと聞いていたので、庭に埋めたりなどしたあと、部屋に隠していたが、見つけ出され封を開けられていた。見るとただのエロ写真だった。

 てんやわんやなドタバタ劇なのだが、闘牛や村祭りがはさまれて、都会には見られない風物が見どころになっている。今はないいなか道を走るのどかなバスと、アナウンスの声も、記憶に残るものだ。ゾナモシという坊ちゃんに出てくる、都会人をいらつかせる語尾も、効果的にはさみ込まれている。主人公の社員役や美人の村娘の素朴な演技に比べて、女秘書を演じた淡島千景の演技力が光っていた。野心に満ちた都会のドライな感性をもちながら、男へのいちずな愛の表現、男から別れを告げられたときの女心の、あきらめの表情が深く印象に残っている。男は社長のもとには戻らないだろうが、女秘書との関係はどうなるのかと思わせて、余韻を残していた。

第382回 2024年2月8

ハーヴェイ1950

 ヘンリー・コスター監督作品、原題はHarvey、ジェームズ・ステュアート主演、アカデミー助演女優賞をジョセフィン・ハルが受賞。大人の童話のようなファンタジーあふれるコメディである。挙動不審で誰からも敬遠されている男(エルウッド・ダウド)がいる。遺産を相続していて資産家であるが、質素な生活をしている。

 はじまりは清潔感のある住宅が続く一軒から男が出てくる。勤めに行くふうでもなく散歩のようだ。郵便配達が名前を確認して封書を手渡すと、開きもせずに破って捨てている。のっけから不思議な人格だと驚かせることになる。動きが普通ではないので、何だろうと思っていると、やがて理由がわかってくる。行きつけの酒場に行って、二人分の席と注文をしている。誰の目にも見えない友人がいつも付き添っていて、ハーヴェイという名で呼んでいる。

 歳の離れた姉(ヴィタ)とその娘(マートル)が同居するが、パーティを開いてもこの男のためにぶちこわしになっている。この日も娘の結婚に結びつけばいいと、母親はパーティを準備していて、弟が早く帰ってこないことを祈っている。ハーヴェイを連れてきて、みんなに紹介するからで、気持ち悪がってしまうのだ。この叔父がネックになって、娘は結婚をすることもできない。

 姉は自身の娘のことを考えると頭が痛いが、自身の弟でもあることからは同情的だ。このへんの痛し痒しの心理描写と演技が際立っている。弟の妄想源であるハーヴェイが見えることもあったようで、巨大なウサギの姿をしているのだという。弟は精神疾患を疑われて病院送りにされるのだが、まちがって付き添った姉のほうが入院させられてしまう。手荒な職員(ウィルソン)がいて、力づくでの隔離にハラハラさせられる。この男がやがて娘と良い仲になっていくのは不思議だが、主人公が取り持って恋愛を成就する若い医師と看護士のカップルもあらわれる。

 悪意のない妄想家は、人から好かれていて、入院した病院の院長までも感化させられてしまうような人柄の持ち主だった。主人公は長身で、黙っていれば美男子なのだが、ウサギはさらに大きくて、身長が190センチもある。自宅では厳めしい肖像画が取り除かれて、主人公とハーヴェイが二人で並ぶ絵掛けられている。外見は人間だが、顔だけはウサギで、主人公にはそんなふうに見えていたのだろう。

 ハーヴェイとは何だろう。私たちも目に見えない誰かと、いつもいっしょにいるのではないかと思いはじめた。信仰のあるものならば、それは神なのだろうし、最愛の伴侶に先立たれたものにとっては、死者の面影なのだろう。神はいつもあなたと共にあるというのは、信仰の決まり文句だ。日本でも巡礼者が携えている「同行二人」という文句は、いつもお遍路さんはひとりではないことを教えるものだ。

 目に見えないものを見えるようにしたものが聖画像であるが、ここでもハーヴェイは巨大なウサギの姿をとって、表されたということだ。これは信仰と宗教の誕生を暗示するものだろう。こんなふうに考えれば、あたりまえのことのように聞こえるが、いつも世間では、純粋無垢は変人扱いをされることになるのである。ベルイマンでもフェリーニでも同じで、西洋文化で不可解に思えることが出てくれば、神の存在をひきあいに出せばわかりやすいものとなる。

第383回 2024年2月9

サンセット大通り1950

 ビリー・ワイルダー監督作品、原題はSunset Boulevard、ウィリアム・ホールデン、グロリア・スワンソン主演、アカデミー賞脚本賞はじめ3部門で受賞。売れない脚本家(ジョー・ギリス)が殺されるまでの物語である。死体がプールに浮かぶ、サスペンスタッチで話ははじまるが、謎解きが主眼ではなく、二人の女性から愛される男の板ばさみを見どころとしている。才能には恵まれていないが、なぜか女性には魅力のある男のようである。ひとりはもと映画スターとして名を馳せた女優(ノーマ・デズモンド)で、今は忘れられてしまったが、過去の栄光と築き上げた財産によって、ぜいたくな暮らしをしている。

 男がたまたま訪れて彼女と出会い、見染められる。借金をかかえて、車が取り上げられるのを、逃げ込んだ先が往年のスター宅だった。男は自分が脚本家であることを名乗って、金づるにしようともくろんでいる。女優は復活をねらって、自分でも脚本を書いている。男はそれに手を入れることで、稼ぎを得ることができ、車も車庫に隠しておけると判断し、やがて情夫となっていく。車庫のかたわらにはレトロな雰囲気を残す高級車が置かれている。大邸宅には老執事(マックス)がひとり住み込んでおり、その後素性が明らかにされていく。

 彼は女優の最初の夫であり、16歳だった少女をスターに育て上げたのだという。人気がなくなってからも、それを支え執事として面倒を見てきていた。鏡を見ては美貌の衰えを感じながらも、女優は執事のことばに誘導されて、今もファンは多いのだと信じ込んでいる。脚本家は囲われながら、男めかけの身を嘆き、女優に向かって、50歳で25歳のつもりでいるのかと叱責している。

 出来上がったシナリオを昔なじみの監督セシル・デミルに送りつけ、映画化を夢みている。スタッフから連絡があったので、脚本家をともなって、執事を運転手として高級車で、ハリウッドのスタジオに乗り込む。往年の大女優の訪れに監督をはじめスタッフたちの笑顔につつまれるが、映画化までには至るものではなかった。連絡があって勇んで訪れたのだが、実際は彼女の所有する名高い高級車を、撮影用に借り出そうとするのが目的だった。女優の勘違いは、自分に出演依頼があったのだと思ってしまったのである。

 脚本家は自分の不甲斐ない立場をあきらめながらも、執筆に情熱を燃やしている。新作を映画会社に持ち込むが相手にされない。スタジオには下読みをして内容を要約する係りのスタッフ(ベティ・シェーファー)がいて、感想を聞かれている。まだ22歳の娘だった。本人が居合わせているのも知らずに、出来の悪さを指摘している。彼女もまた脚本家をめざしていた。これをきっかけとして主人公との関係ができ、共同執筆として仕上げようというところまで親密になっていく。結婚相手がいることも知っているが、今は離れている。共作をすすめている最中に、結婚の申し込みがされる。女は主人公に相談を持ちかけ、相手を愛してはいるが、恋ではないと言った。結婚もしたくないと、本心を打ち明けた。

 主人公は愛の告白をされ悩むが、女優が勘づいてすがりつく姿に決意を固める。愛する女に電話で、自分が住んでいるところに来て、その姿を見てくれと語った。女はやってきて男の正体を知るが、男にここから去るようにもちかけている。男は突き放し女を追い出し、しあわせな結婚をするようにうながす。女優は喜ぶが、その足で荷造りをして、家を出て行こうとした。女優の狂気は背後からピストルを構え、3発を発砲する。男は三発目でプールに落ち込んで、あっけなく死んでしまった。

 サスペンスというには犯人は見え透いている。若い愛人を失う女優の、失われた美貌の悲哀を中心にみれば、納得のいく人生論として読み取れるものだ。若い日々の栄光に生きる人間が、何とかして復帰しようとする、涙ぐましいもがきが、殺人者となってしまった。ラストシーンは、カメラとフラッシュの前に立つ、かつての栄光を再現するものだったが、精神錯乱に陥った本人の目は、決して犯罪者のそれではなく、輝きを放っていた。

第384回 2024年2月10

アフリカの女王1951

 ジョン・ヒューストン監督作品、アメリカ・イギリス合作映画、原題はThe African Queen、キャサリン・ヘプバーン、ハンフリー・ボガート主演、アカデミー主演男優賞受賞。古代の壮麗な歴史絵巻を思わせるタイトルだが、そうではない。発動機の着いたボートの船名で、それに乗っての冒険活劇である。時代は第二次世界大戦、英国領のアフリカで、ドイツとの戦争がはじまり、川を下っての逃亡と、単独で敵艦(ルイーゼ王妃号)にいどむ無謀な物語である。

 はじまりはイギリス人牧師の兄(サミュエル)と妹(ローズ)がアフリカの奥地で、現地人を集めての布教と教育に携わっている。情報はアフリカの女王号という名のボートが、定期的にもたらす報告からしか得ることができない。船長(チャーリー)が伝えたところでは、英国が戦争に加わり、ドイツとの戦いがはじまったという。やがてドイツ軍がやってきて村が焼き払われて、黒人たちは連れ去られてしまう。牧師の兄は心に病いをかかえていて、このパニックにいたたまれず、命を落としてしまった。

 船長が最初に出てきたとき、その後の展開で、まさかこの男が主役になるのだとは思えない風采だったが、じわじわと噛み締めるように頼もしく見えてくる。最後の定期便がやってきて、女は兄が死んだことを告げると、船長は埋葬を手伝い、この船も利用価値があるので、敵軍にねらわれるだろうと言っている。やとっていた現地人の助手も恐れをなして逃げてしまったという。船長は女に一刻も早く逃げることをうながしている。敵の目を避けて川を下る危険な旅がはじまっていく。

 エンジンのトラブル、大雨による走行の困難、急流滝を前にした航行、ワニへの警戒、ドイツ軍による銃撃、ヒルや害虫の襲来などさまざまな障壁をクリアしていく。アフリカの過酷な自然はこの映画の見どころである。はじめ他人行儀であった二人の間柄が、いつの間にか恋愛へと発展していく経過が興味深い。力を合わせて困難を乗り越えたとき思わず抱擁し合い、口づけまでしてしまったことがきっかけになった。多少気取りのある紅茶好きの知的な英国女性と、飲んだくれでジンを大量に積み込んだ粗野な船長との、不釣り合いなカップルが愛を成就させていく。

 小船に積み込まれていたのは、十分な食料と飲料、ことにジンは、女が好まず男の目の前ですべてを川に捨ててしまっていた。無数の空き瓶が川を流れていく。男は強く怒るでもなく、女の判断に従っている。船には火薬も大量に積み込まれていた。これを目にとめると、女は川を下って逃げ延びるだけではなく、敵艦に向かって攻撃をしようと言い出す。魚雷となってぶつかっていくというのだ。男は工夫を凝らして、ぶつかると作動する装置をつくりあげ、船の先端に取り付けた。

 方向をまちがい浅瀬にぶつかり、男は船を降りて引っ張っていく。水に浸かっての移動で、ヒルに血を吸われて男は倒れ、もはやこれまでと思われた。カメラは遠くからこれを捉え、すぐそばに振り返れば広い湖が間近にせまる地点まできているのを映し出している。豪雨が襲い、神に祈りながら力尽きて、二人は船の中で気を失ってしまう。目覚めると水位が上がり、自然と船は移動をはじめていた。

 湖にでて敵艦を目撃し、最終の目的を果たそうとするが、敵艦に向かって進むなか、またしても豪雨に襲われボートは転覆してしまう。男はとらわれて絞首刑の判決をくだされた。そのあと女も無事で連れてこられるが、男は無関係を装って助けようとする。女は言い逃れをすることなく、魚雷となってこの船を沈没させようとしたのだと打ち明ける。

 ふたりはともに絞首刑を言い渡されるが、男が最後の頼みと言って、艦長に結婚をさせてほしいと懇願する。敵同士であってもキリスト教徒としては同胞だった。願いは聞き遂げられ、結婚をすませ、首に縄がかけられたときに、艦船が爆発を起こす。沈没して漂流していたアフリカの女王号がふつかって爆発したのだった。ふたりは湖水に投げ出され助かり、目的ははたされることになった。

 戦争映画とみれば、英米を善、ドイツを悪とする図式となってしまうが、過酷な自然を生き残り、愛を芽生えさせるヒューマンドラマとみれば、感動作となるものだ。粗暴な印象なのに、意外とフェミニストでもある主人公の性格は、タフガイと称されるハンフリー・ボガードの持ち味であり、それがキャサリン・ヘプバーンの知的で自立した女性像と絶妙なかけひきを繰り広げていた。

第385回 2024年2月11

めし1951

 成瀬巳喜男監督作品、林芙美子原作、原節子、上原謙主演、ブルーリボン賞作品賞、主演女優賞ほかを受賞、英語名はRepast。夫婦の亀裂と再生の物語である。東京人が関西に来て、長屋生活をしている。めしを食う食事場面が繰り返されるが、会話はなく夫(岡本初之輔)は新聞を読みながらで、妻(三千代)の存在は視線の先にはない。

 夫は証券会社に勤めるが、株には手を出さず、堅実な貧困生活に甘んじている。妻は毎日洗濯と炊事に追われ、味気ない生活で、不満を募らせている。そんなとき夫の姪(岡本里子)が顔を見せ、聞くと家出をしてきたのだという。ドライな娘で、この家に居着いてしまう。叔父を恋人のように振る舞うのをみて、妻は気分を害している。三人で名所見物の予定だったが、妻は気が進まず、夫は若い娘と楽しい時間を過ごし、浮かれていた。

 東京での女ともだちが集まっての食事会があったが、5人が集まり、みんな着物で着飾っていたが、主人公ひとりだけが着古した洋装で、所帯染みて見えた。家に閉じ込められている不満が爆発し て、東京の実家に戻り、職業婦人になろうと決意をする。実家には母親と妹夫婦が同居している。母親は娘の家出を深刻に考えてはいない。二、三日ゆっくりしてから帰るよううながしている。

 いとこの男性とも出会って、言い寄られるが、深入りすることはなかった。戦地から戻らない夫を待ちながら、子どもをかかえて仕事をする女友だちにも出くわした。友人が夫婦でいっしょにいる幸福を語ったあとに、夫婦のチンドン屋が街をねり歩く姿が写し出されていた。

 夫はひとりになると、何人もの女がたずねてくる。野心家ではないが、やさしそうな美男子であり、気にかけてくれる女性も多い。かと言って情事を楽しむような勇気はない。冒険のできない実直な性格が幸いして、会社の危機を救うことにもなる。安月給なので、待遇のいい転職を勧められるが、妻に相談してからと、自分で判断をすることはなかった。

 妻の帰ってこないのを、待ちきれず東京に訪ねていく。聞くと出張で来ていて、足を伸ばしたとのことだったが、実家の家族は喜んで一安心している。意地を張る素振りは見せたが、夫の自然体に接して、波瀾万丈とはならない肩の張らない夫婦関係もよいものだと思い直して、出張帰りに同行することになった。音信不通をわびる手紙を書いていたが、投函をためらい、そのラブレターとも思える内容を、車窓から紙吹雪にして、日常生活に戻っていく姿があった。

 手紙を投函しなかったのは、ささやかな抵抗ではあったが、帰りの列車で妻は屈託のない夫の居眠りを、ほほえみながら見ている。女性が自立するという社会の動向とは逆行する結末に不満は残るかもしれない。原作は林芙美子の急死で未完のままであり、結末はその後の時代が考えることになる。ハッピーエンドにしておかねばならない、社会の要請がまだあったということだろう。これが10年後の60年代の映画であれば、こうはならなかったはずだ。ヌーヴェルバーグの嵐がやってくる前の、家庭の幸せに根ざしたハリウッド映画の傘下にあったとみることができる。

第386回 2024年2月12

麦秋1951

 小津安二郎監督作品、ブルーリボン賞監督賞受賞、原節子主演、英語名はEarly Summer 。婚期の遅れた娘が嫁に行くという、小津映画定番の設定とみることができるだろう。北鎌倉の閑静な住宅地に、三世代で住む一家の話である。両親二人の子どものいる息子夫婦、それに息子の妹が加わり、七人が一家をなしている。原節子の演じる妹(間宮紀子)は28歳でタイピストとして東京に勤めている。戦後の時代状況を反映させてか、男兄弟がもうひとりいたが、出征をしたまま戦地から戻っていないことも語られている。戦死の確認はないのだろうが、両親はすでにあきらめている。

 兄(康一)は医者で同僚の男(矢部謙吉)がいて、二年前に妻を亡くし、母親(たみ)と暮らしている。小さな娘が一人いて、三人家族である。妹とこの同僚とが結ばれるまでが描かれる。見どころは妹に進んでいる縁談が、覆されるところで、このときの妹と同僚の母親とのやり取りが見逃せない。ふともらしたひとことが、大きく話を展開させていく。

 八割がた決まりかけていた縁談が、みごとに逆転する。それは裁判なら逆転勝訴、野球なら9回裏の逆転劇に相当するものだ。ヒットを放ったのは、杉村春子の演じる同僚の母で、息子が秋田への栄転が決まり、ついて行くかどうかを迫られたときだった。昔から気心の知れていた妹に、怒らないで聞いてくれと、いちかばちか話しはじめた。あなたが息子の嫁に来てくれればいいのにという、よもやま話に娘は、簡単に承諾してしまったのである。

 家族は妹の上司(佐竹)から持ちこまれた縁談が進むものだと思っていた。兄は相手の身元も調査し、旧家の出で今のポストも申し分ないと確信していた。ただネックは初婚だが、妹とは年齢がひとまわり上だということだった。それを聞いたときは母親と兄嫁は、顔をかげらせた。それなのに今度は、相手が子持ちの再婚なのを聞くと、さらに悲しんでいる。妹は意を決したときに親友(田村アヤ)に、40歳を過ぎてひとりものというのも考えものだともらしている。

 妹には仲のいい女友だち4人で、いつも集まっていた。結婚の是非も議論されていて、ふたりは結婚をし、ふたりは独身だった。意見はまっぷたつに分かれたが、彼女は結婚後に優雅なセレブの生活をしている姿を予想していた親友は、この決断を聞いて驚いている。家族みんなで問いただしている。兄嫁は結婚をして子どもができると、今の連れ子とうまくいけるかと心配した。妹は大丈夫だと断言している。ほほえみながらも強い意志をもった新しい女性像を原節子が好演している。おそるおそる口火を切る杉村春子とのあうんの呼吸を感じさせる演技のやりとりがみごとだった。

 決断相手とは妹が決断してからは一度も顔を合わせず、伝聞で男の気持ちを推しはかる余韻を観客にたくす演出、さらに縁談相手に断りを入れる上司のいる現場を、のぞきにいくシチュエーションをつくって、いまさら見てもしようがないと言いながら、親友の好奇心に引きずられて見に行くのも興味をそそる。もちろん相手の容姿は写し出されることはない。仲のよい友人は料亭の娘で、その席が用意されているのを知っていたということだ。親友がその男に興味をもっているのも、その後の展開を空想するにはおもしろいものだった。

第387回 2024年2月13

真昼の決闘1952

 フレッド・ジンネマン監督作品、アメリカ映画、原題はHigh Noon、ゲイリー・クーパー主演、グレース・ケリー共演、アカデミー賞主演男優賞、歌曲賞ほかを受賞。結婚をしていなかに退く保安官(ウィル・ケイン)の、最後の一日を描いた西部劇。次の日には新しい保安官が赴任して来る予定になっている。この日にならずものが3人集まって町にやってくる。なにごとが起こるのかと、町は身を震わせている。この3人にとって親分格の男(フランク・ミラー)が、恩赦を受けて町に戻ってくるのだという。かつてこの保安官によって捕えられ、その復讐をはたすのが目的だった。正午の列車で駅に着くという情報が入ると、町の様相は一変する。

 結婚式を終えて、新婦(エミイ)は夫をうながし、もはや保安官ではないので、関わらないように懇願している。妻の思いを受け止めて、ふたりは馬車で立ち去ろうとするが、途中で引き返すことになる。保安官を辞めたので、バッチも外し銃も持たない、丸腰の状態だった。思い直したのは、背を向けて逃げるのを嫌ったからと、町がふたたび荒らされることに耐えられない、正義感からだった。町に戻って迎え撃つ準備をする。妻は夫の無謀を見かねて、ひとりで去ろうと考えている。保安官は仲間を集めようとするが、誰も尻込みをして、背を向けている。

 仲間に加わろうとやってきた男も、誰も集まってこないのをみると、おそれをなして去っていった。前任の保安官にも声をかけたが、歳をとって足手まといになると言って加わらない。保安官の部下であった青年(ハーヴェイ)は、次の保安官に推薦してくれるのを条件に、仲間に加わると持ちかけてきたが、ならず者が戻ってくるのを聞くと、とたんにバッチをはずすような臆病者で、話にならなかった。町の有力者は保安官さえいなければ、騒ぎは起きないので、身を隠すように勧めている。かつてならず者に判決をくだした判事までも、荷物をまとめて逃げてしまった。唯一、正義感を燃やした少年が名乗りを挙げるが、子どもなので拒否された。

 正午までの時計が何度も繰り返して映し出され、緊張感を高めていく。教会にも出向いて、仲間を募るが消極的だ。保安官と訳ありのホテルの女主人(ヘレン・ラミレス)も登場する。今は次期の保安官をねらう若者と同棲をしているが、かつては主人公と関係をもっていたようだった。この女も急いでホテルを安く売り払って去ろうとしている。ロビーでは保安官の妻が列車が来るまでの時間待ちをしていた。そこでは保安官は必ずしも歓迎されてはいなかったことがわかる。フロント係はならず者がいた頃のホテルの、酒場での享楽のようすを、懐かしんでいるふうでもある。

 妻は女主人に会ってみたくなる。いわば恋敵であったが、女は妻に向かって、夫を助けないで逃げるのかと叱責している。結局は女主人とともに妻は、列車に乗り込むことになるが、発車間際に飛び降りて、夫のいる現場に向かう。仲間がひとりも見つからず、夫は四人を相手にひとりで戦うことになっていた。勝ち目はないと思ったのだろう。死んだら開封してくれと手紙を残している。移動しながら一人づつ射殺していく。夫をねらっていた三人目の男を窓から撃って、助けたのは妻だった。彼女は保安官が銃を戻した詰所に身を潜めていた。

 妻は見つかり、人質にされてしまうが、相手を突きとばした瞬間に、夫は相手を撃ち殺していた。悪党が一掃されると次々と町の人たちは、通りに出てくる。保安官はバッチを投げ捨てて、妻と立ち去っていった。町の住人たちの身勝手に愛想をつかしたように見える。聞き慣れた主題歌は、立ち去る恋人を引きとめる歌だったが、見限った保安官夫妻に向けての、この町の思いのように聞こえていた。

第388回 2024年2月14

革命児サパタ1952

 エリア・カザン監督作品、アメリカ映画、原題はViva Zapata!、スタインベック脚本、マーロン・ブランド主演、カンヌ国際映画祭男優賞受賞、アンソニー・クイン共演、アカデミー助演男優賞受賞。1910年代のメキシコを舞台に革命の嵐が吹き上げるなか、短い生涯を終えた指導者(エミリアーノ・サパタ)を描く。

 正義感からはじまった闘争も、勝利を得ると、地位と財産を手に入れる欲望へと変質するものだ。それでも筋を通すというのは難しく、破綻は死を招くことになる。サパタの場合も、ラストのうずくまりながら蜂の巣のように銃弾を受けて暗殺される姿は生々しい。エリア・カザン演出によるショッキングな激情は、のちのペキンパーの映画につながるようなハードボイルドの先駆けをなしている。

 晒しものに広場まで運ばれて放置される残虐さは、哀れを誘うが、はじまりでのはつらつとした登場の場面と対比をなすものだ。仲間とともに大統領に陳情に訪れたとき、はじめはわきに隠れて目立たなかったが、前に出てくると権力に対して恐れをしらない屈強の姿が際立ってみえた。はっきりとした主張を述べたとき、氏名がチェックされて目をつけられることになる。メキシコ人と思えるほどに役づくりがされていて、マーロン・ブランドだと気づくのが難しいものだった。

 陳情の場面はのちに繰り返される。指導者として認知され、地位を得ると立場が逆転して、陳情を受ける側にまわる。歴史は繰り返すのである。かつての自分を見るように食い下がる若者の名を聞いている。メモに書きつけようとしたが、思い直してそれを消してしまう。訴えは農園主の搾取に関するものだった。

 農園主とは主人公の兄(ユーフェミオ)のことだった。訴えを認め、訪ねると、ともに戦った今までの兄の変わり果てた姿がそこにはあった。農民の怒りは妻を略奪された農民が、兄を射殺するまでに至る。主人公は悲しんだが、農民を責めることはできなかった。手柄をあげた褒賞に土地が与えられるという構造は、何ら変わってはいなかったのである。イデオロギーの交代はあるとはいえ、権力へのあくなき欲望は、人間社会の定めであるのだろう。

 サパタの妻(ホセファ)の存在も、ドラマを語る場合の欠かせない要素となるものだ。権力に立ち向かう一兵卒にすぎないときは、家族ぐるみで反対をしていたが、革命が成功し、サパタが権力者となると、手のひらを返したように娘との結婚を認めるのも、正直な人間感情に見えて、リアリティを感じるものだ。

 盛大な結婚式が行われ、正義感に燃えていた頃の潔癖性が失われるようすも、同じように戦ってきた兄の見せる嫉妬心と合わせて、描きこまれていた。教育はなく、文字を読めない劣等感は、大統領などにはなれないという自覚をうながし、妻に教えを受けることになる。英雄像には違いないのだが、俗的野望から逃れることもできない、かならずしも聖人君子ではない生臭い側面に、この伝記映画の見どころはあるのだろう。

 短い一生を駆け抜けた風雲児が身を置いた、動乱のメキシコ史に改めて興味をもつようになった。美術史の上からもメキシコ壁画運動との関連で興味深い時代である。時代はくだるが、このメキシコの風土に、社会主義での権力闘争の犠牲となったトロッキーの暗殺と、その暗殺者を演じたアランドロンの映画を思い起こしたりもした。

第389回 2024年2月15

愛しのシバよ帰れ1952

 ダニエル・マン監督作品、アメリカ映画、原題はCome Back, Little Sheba、バート・ランカスター、シャーリー・ブース主演、アカデミー主演女優賞受賞。アルコール依存症の恐ろしさに身震いをするドラマである。見るからに温厚なやさしそうな人格が、急変してナイフを振りかざして迫ってくる。主人公(ドクター・デレイニー)は依存症の治療を続ける男で、妻(ローラ)が献身的に支えている。病的な謎めいた人格が、ときおり顔をのぞかせている。あぶなかしいこの人物を、バートランカスターが好演をしている。それに付き添う妻との対比が、絶妙な人間関係をつむぎあげていく。

 今では好んでミルクを飲んでいる。禁酒をして一年になるが、それを祝って禁酒会の集まりで、表彰を受けた。家には客用の酒が、一本置かれているが、これがなくなり、夫が家に戻らない日があった。妻は気が気でなく待ち続けている。そっと戻って、もとあった戸棚に酒瓶を入れたので、飲まないでいたのかと安堵したが、妻が大丈夫かと聞く声に、体が震えている。このあと凶暴な発作が起こった。ナイーブな男の心の傷は、普通なら何でもないことと、気にもならないものが、異常に増幅されていくものらしい。

 はじまりは部屋を貸すことからである。大学の近くなので余っている部屋を貸して収入を増やそうと考えた。ひとりの女子学生(マリー)がやってきて、あまり乗り気ではなさそうな、冷やかしのようにみえたが、妻は好物件であることを強調している。他のところも見たいからと、いったん引き返したが、しばらくして戻ってくると、妻はいないで夫が対応した。夫は部屋貸しのことは聞いていなかったが、娘は広い居間がいいといって、二週間分の現金を置いていった。絵を描いているようで、アトリエがわりになるスペースがほしかったようだ。夫は嫌がってもいないようにみえる。

 先生と呼ばれているが、夫の職業は指圧師で、収入はあまりよくない。ことにアルコール依存症になってからは、客を減らしていた。有名大学の医学部に入ったが、退学したようで医師にはなれないでいた。謎めいた過去は詳しくは明かされないが、妻との会話からいくらかはわかってくる。子どもはひとりもうけたが、亡くしたようだ。シバという名の小犬を飼っていたが、行方不明のままで、今も帰ってくるのを待っている。妻は夫との若い日の出会いを回顧するが、夫は思い出すのを嫌がっている。

 子どもは生きていれば、この娘のような年ごろになっているのだろう。娘を我が子のように思いはじめるが、ボーイフレンド(ターク)を連れてきて、モデルにして絵を描くのをみて、妻は好奇心の目で見つめ、夫は嫌悪感を募らせている。娘には婚約者がいたが、ボーイフレンドはスポーツマンで、肉体を露出したモデルのポーズも、親心としては気に入らないものだった。何度もやってくるが、面と向かっては何も言えず、自分のほうで出かけてしまう。その姿をみて、ボーイフレンドはあの親父は嫉妬しているのだと娘に言っている。

 主人公の不満はしだいにたまっていったようだった。解消に酒に手を伸ばしたこともあったが、かろうじて抑えていた。婚約者がいながら、別の男とのつきあいをしている娘にも不満はあるが、黙って目を背けるだけで、ことばに出すことはない。妻にはあの男はだめだと、はっきりと不平を言っている。妻は若者の肉体美に魅せられて、好奇心の目で見ていた。娘はこの男が結婚相手としてはふさわしくないとわかったが、それを教えてくれたのは主人公だったと感謝を示した。

 夫がアルコール中毒で暴れたとき、妻は禁酒会のメンバーに助けを求めた。やってきたときナイフを見とめて、ただちに力づくで病院に連れていった。落ち着いたころに妻が訪ねると、病室ではなく鉄格子のある部屋に隔離され、自殺を防ぐために、手足を拘束されていた。妻は実家の親に電話をして、夫の病気が再発したことを伝え、そちらに戻りたいと頼んでいた。

 病院での治療をすませ、落ち着きを降り戻して、夫は帰宅して、妻の名を呼んでいる。妻は実家に戻ったのだろうと、私たちは思ったが、少し遅れて姿をみせた。まだとどまっていたのだとほっとする。暴れたとき夫は何をしたかを憶えてはいなかった。普通なら恐怖感が植え付けられるものなのかもしれないが、妻は夫を抱きかかえて、離さない決意を示していた。妻は夢でシバが死んだ姿を見たと言ったが、それは過去と決裂して、新たな生活への身がまえを示すものとして聞こえた。娘も婚約者と結婚をし、新たな門出を迎えていた。

第390回 2024年2月16

雨に唄えば1952

 ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン監督作品、アメリカのミュージカル映画、原題はSingin' in the Rain。みごとな踊りに圧倒される。それだけでも見ごたえは十分にあるが、ストーリー展開もおもしろく、恋のゆくえをからませながら、ハッピーエンドにつなげていく。映画制作がサイレントからトーキー映画に移るころの、エピソードをふまえて、映画が自立していく過程を後追いしている。サイレント時代の美人女優が悪声であったという話はよく聞く。

 主人公(ドン)はコンビを組む女優(リナ)とともに、銀幕のスターであり、受賞式の場面からはじまるが、ファンに囲まれて有頂天になっている。女優のほうは美人だが、とんでもない調子のはずれた高音で、スピーチをさせないように、プロデューサーは気をつかっている。本人はしゃべらさてもらえず、いらだちをあらわにしている。ふたりは恋人同士のように見られているが、そこに若い娘(キャシー)が現れる。

 追いかけるファンから逃げて、通りがかりの車に飛び込んだが、そのとき運転をしていた娘との間に、愛が芽生えていく。娘はかけ出しの舞台女優で、芝居にプライドをもっていて、映画は軽蔑していた。著名な主人公についても映画を一本みた程度で、すぐれた俳優とも思っていない。主人公は自身のキャリアが傷つけられたようで、落ち込むことになる。

 はじめてのトーキー映画として映画史に記録される「ジャズシンガー」が、ヒットした時期の話で、これに対抗してここでも撮影中のサイレント映画に音をつけようとして企画変更となる。女優の声は何とかしないといけない。発声法の指導をはじめ、マイクの使い方にも慣れさせようとするのだが、飲み込みが悪いようでうまくいかない。おまけに技術上のミスも重なって、試写会で絵と音があわず、観客は笑い出している。

 苦肉の策で思いついたのは、声を吹き替えようという案で、このときかけ出しの新人女優が、ひとはたらきすることになった。主人公とプロデューサーは、一回限りのこととして、その後この娘を売り出そうと考えたが、スター女優はずっと自分の声を担当するよう要求する。映画には新人女優を声の出演として名を出す予定でいたが、スターが阻止する。それによって自分の名誉が傷つけられることになると言い出して、契約事項を持ちだし対抗する。

 新人も一度だけのことだと主張したが、5年間の契約という記載があった。しかたなく女優の主張を通し、映画は大ヒットする。ことに歌唱力が評価され、舞台あいさつに立った女優は、スピーチを引き受けるが、声に疑問をもった観客たちは、歌を要求する。ここでも口パクで切り抜けようと、舞台の幕裏で新人が歌い、女優はそれにあわせて口を動かしていた。このとき歌ったのが「雨に唄えば」である。

 主人公が娘との愛を確信して、彼女を家に送り、ひとりで帰宅するときに雨に打たれながら歌っていた曲である。そのとき主人公は引かれた幕を開いてみせた。ふたりの女が、前後でパラレルになって、歌う姿があった。まのぬけたようすに笑いが起こる。観客に向かって、主人公は彼女がこの映画のヒロインだと訴えると、観客席からは拍手がわきおこった。

 全編が歌と踊りに満たされたミュージカルの歓喜に酔いしれることになる。ことにジーン・ケリーに劣らないダンスを披露する、親友(コズモ)役のドナルド・オコナーのソロダンスが、記憶に鮮明に焼きついている。ブロードウェイの舞台に対抗する、新しいメディアの誕生をあとづける記念碑的成果に、確信をもって出会うことになった。ハリウッド万歳という映画賛美の一作とみてよいだろう。

第391回 2024年2月17

悪人と美女1952

 ヴィンセント・ミネリ監督作品、アメリカ映画、原題はThe Bad and the Beautiful、アカデミー撮影賞はじめ5部門で受賞、ラナ・ターナー、カーク・ダグラス主演。映画制作の責任者であるプロデューサーと、監督、女優、脚本家の三人との間の確執をめぐって、人間ドラマが展開する。

 主人公(ジョナサン・シールズ)は敏腕プロデューサーだが、作品づくりに情熱を燃やすあまり、人間性を欠いたところがあって、三人はそれぞれに恨みをいだいている。彼と別れてのち三人は、今では各領域で、プロとして大成し、著名人となっている。主人公への恨みの実像を、ここではひとつひとつ説き起こしていくのが興味深い。

 監督(フレッド・アミエル)は自分のアイデアを盗まれて、主人公が他の著名監督と組んで制作するようになったことに、恨みをいだいている。監督をさておいて、プロデューサーが演出にまで口出すことは少なくないが、多くの場合は失敗に終わる。父親も同業者として名の知られた人物だったが、葬式のおりに監督が父の悪口をいうのを耳にしている。会葬者をエキストラで雇ってまでの見栄の葬儀は、悪名高い父を愛する子の、全財産を投げ打っての賭けでもあった。

 その後、この監督とプロダクションを組み、苦楽をともにすることとなる。才能はあるがマネージメントのできない監督だった。プロデューサーは最後には監督となり作品を仕上げるが、編集や脚本や演技や音楽は賞賛を浴びても、監督については評価を受けることはなかった。このときプロデューサーの権限は、完成した作品を公開しないという判断をくだしている。合点のいくプロデューサーの口出しに対し、名監督がクライマックスはやたらとつくってはいけないということばが印象的だった。

 女優(ジョージア・ロリソン)は名優の娘だった。親の血を引き継いでおり、才能を見出したプロデューサーは、主役に抜てきするが、娘には荷が重く投げ出して、父親の血でもあったのだろう、アルコールに溺れている。主人公は励まして、何とかスターにしようと必死になっている。その姿に接して娘は恋心をいだいて、演技よりも結婚を憧れるようになるが、男にはそのつもりはない。映画が成功して、娘は賞賛を浴びるが、祝賀会に彼女を育てたプロデューサーはいなかった。影の立役者としての仕事をはたし、自宅に閉じこもっているのを、彼女は二人きりでお祝いをしたいと訪れると、別の女優仲間といっしょにいた。娘の恋心は一挙に崩壊して、狂ったように車を暴走させていた。

 脚本家(ジェームズ・リー)は作家として、キャリアを誇ったが、ハリウッドには興味はなかった。主人公は彼の才能を確信して、何とか引き込もうと考える。妻(ローズマリー)が芸能界に興味があるのを、利用して誘い込む。脚本家は愛妻家で、そのために執筆時間を奪われていた。誘いに乗って、いなかからハリウッドに来て、華やかなホテル住まいで、脚本執筆に取り掛かる。同伴でやってくるが、妻の興味が芸能人にあるのを知ると、夫の執筆の邪魔をしないよう、なじみの女好きの俳優に彼女と遊んでやってくれと頼み込む。このことで脚本はプロデューサーと二人で、閉じこもって練り上げられ、自信作が完成する。

 その後、世界的に知られる文学賞を獲得する著名人にまでになっていくのも、このプロデューサーのおかげなのだが、思いがけない事故が起こる。人気スターと作家の妻が飛行機の墜落で死亡してしまった。マスコミは不倫を疑っているが、夫には謎としかみえない。プロデューサーがつい口を滑らしたのは、飛行機になど乗らなかったらよかったのにという一言だった。脚本家はそれを聞くと、怒りが込み上げ、主人公を殴り飛ばしていた。

 はじまりと終わりは、三人が呼ばれてプロダクション事務所で、映画制作の依頼を受けるシーンである。パリに住む主人公がもう一度、コンビを組んで映画を撮りたいと言っているようだ。先にパリから直接の電話がかけられたが、相手の名を聞くと、居留守を使ったり、その場で電話を切っていた。これは冒頭の場面で、この時はまだ何のことかはよくわからない。プロダクションは信用をなくした主人公の名では、資金が集まらないが、この三人の名声に頼ることで、可能になると考えた。意向を聞くが、三人とも首を横に振って立ち去ろうとしている。

 パリに電話を入れて、本人とのやり取りが続く。帰り際に気になって、女優が内線の受話器を取って、盗み聞きをしはじめる。ふたりの男も気になるようで、耳を近づけている。恨みながらも今日の地位を築くことのできた恩人でもあったということだ。現代の携帯電話の時代では成り立たないが、固定電話の盗み聞きが、何度か効果的に描き出されていた。

 自信をなくした女優が、もう一度挑戦してみようと思うのも、盗み聞きによるものだった。脚本家にハリウッドから電話がかかってきたのを、妻が受話器に耳を近づけて、盗み聞きをしている。ともにプロデューサーの仕掛けた罠に落ち込んでいくシーンである。今度もまた三人は、仕掛けられた網にとらわれていきそうにみえる。三人が受話器耳を近づけるところで、the Endの文字が入る。直訳すると「悪なるものと美なるもの」となるタイトルは、純真な美しき魂をもった人たちは、俗にまみれた悪に染まって、やっと大輪の花を咲かせることができるという意味なのだろう。

第392回 2024年2月19

箱根風雲録1952

 山本薩夫監督作品、河原崎長十郎主演、山田五十鈴共演、ブルーリボン賞主演女優賞受賞。芦ノ湖から水を引く箱根用水の公共工事を、自力で成し遂げた江戸時代の商人(友野与右衛門)の話。村には農地はあるし、農民もいるが、水がない。水さえあれば豊作が期待される。トンネルを掘って貫通させるという大工事が提案されるが、幕府の予算は限られている。

 金山や銀山の発掘なら、資金をひねり出すのだろうが、すぐに利益へと跳ね返ってはこないだけに、武士の反応は鈍い。そんなとき武士にまかせてはおけないと、ひとりの商人が立ち上がる。工事技術については、書物から豊富な知識を蓄え、測量器具もそろえ、学術的な裏付けをもっていて、幕府に申し出て決意を伝える。でしゃばったおこないは支配者にとって、快くは受け入れられず、とがめられ出る杭は打たれることになる。

 商人に味方をする発言力のある僧侶もいたが、武士をないがしろにして、商人と農民に肩をもつことで、左遷されてしまう。江戸在住のさらに有力な商人がやってきて幕府の資金援助が打ち切られたことが報告される。商人は妻(リツ)とふたり途方に暮れるが、事業をやりとげる強い意志を伝えると、それに感銘を受け、この商人が自力での援助を申し出た。このやりとりを幕府の放った密使が聞いており、報告を受けると、商人は江戸への帰郷の道で、暗殺されてしまう。資金不足のため作業を続ける農民に支払う賃金もとどこおり、内部からの不満も湧き上がってくる。

 妻は商人の意志を陰で支え続けている。みずからの意志で、金策に江戸に旅立つが、なかなか戻らないなかで商人は力尽きて、事業を投げ出して江戸に戻ると言いはじめる。これまでの献身的な商人の姿をみてきた一部の農民は、手を引かないよう懇願している。そんなとき妻が戻ってきて、朗報を伝えた。商人と農民は安堵するが、聞くと妻は実家を頼り、借りるだけの金を借りて、全財産をなくして帰ってきたのだった。夫は自分のほうの財産は残したままであることを恥じている。ふたりは農民たちに、自分らはもはや江戸には戻れないので、ここで農民として、受け入れてほしいと頭を下げた。

 商人は捕えにやってきた武士に、抵抗することなく従ったが、農民は許さなかった。鉄砲隊が前面に出てきて犠牲者も増えた。武士を追い返したときには、農民に加えて野武士の集団が加勢した。その統領は土木技術に長けた商人に目をつけ、仲間に加わらないかと誘っている。徳川幕府に反旗を翻す集団で、天下を取ろうと意気込んでいた。商人はきっぱりとことわる。統領はあきらめることなく食い下がるが、やがて商人に惚れ込んでしまう。その生き方に感銘を受け、悪党仲間を放り出して、農民といっしょになって、工事を手伝うまでに至る。商人が連行されたとき、砦まで走りかえって、仲間を連れて、取り戻しにやってくるが、鉄砲隊との死闘の末、犠牲になってしまった。

 商人は捕えられ、牢の中から、工事の完成を祈っている。牢には酒が用意され、飲むように強要されている。毒が盛られているのだろう。商人は窓から見える山の峰から目を離そうとはしない。のろしの合図がトンネルの貫通したあかしだった。それを見とめたとき、背後からの剣に倒れることになる。時代劇として立ち回りの見せ場もあるが、トンネルが貫通して水が流れる映像技術が、感動的に写されている。武士の残した記録からは消え去った偉業を伝える、権力を批判的にみる社会的意識を見落としてはならないだろう。このときの特撮監督として、円谷英二が参加している。

第393回 2024年2月20

静かなる男1952

 ジョン・フォード監督作品、アカデミー賞監督賞、撮影賞受賞、アメリカ映画、原題はThe Quiet Man、ジョン・ウェイン主演。アメリカ人の元ボクサー(ショーン・ソーントン)が生まれ故郷のアイルランドに帰ってきた。幼い記憶しかないが懐かしく、住み着こうと思っている。ボクサーとして対戦相手を死なせてしまったようで、引退をして生き方を変えようとアメリカを去った。ファイトマネーはしっかりと貯めていたにちがいない。アメリカ人は金持ちだという風潮が、ヨーロッパ中に行き渡っていたころである。駅に降り立って村の名前しかわからずどうして行けばいいのか、思案に暮れている。駅員や運転手が寄ってきて教えようとするが、思い思いのことを言って、らちがあかない。そこに荷物をさっさと運んでいく男が現れ、ついていくと馬車が待ち構えていた。その後もこの御者の馬車にたよって、交友が続いていく。

 道中で見かけた家畜を誘導する娘(メアリー・ケイト)に目が奪われて、御者に聞くと、その名と気性の激しい女だと教えている。生家が残っていて感慨深げにながめ、今は誰の所有かを聞いている。ある老夫人のもので、何とかこれを手に入れたいと男は決意する。夫人のもとを訪れて、自分の素性を話すと、聞き覚えのある家族名だったことから、家を譲る気になっている。

 この家をねらっている、もうひとりの土地持ち(ダナハー)がいて、その場に現れて値段を吊り上げていく。主人公も負けずに対抗する。険悪な関係になり別れるが、この男が一目惚れをした娘の兄だった。娘との恋愛から結婚へと展開していくが、兄の反対によって、順調にはいかない。アメリカとアイルランドとの風習のちがいからくる、理解不可能な論理が障害として立ちはだかっている。

 教会の神父と牧師が入れ替わり登場してくるのも、横たわる因習のルーツとなる文化的基盤のちがいなのかもしれない。カトリックとプロテスタントの同居という問題だが、アメリカ人は牧師をたより、アイルランド人は神父をたよっているようだ。プロテスタントは劣勢で信者数が少なく、牧師は町から撤退しようとしている。ともに聖職者とはいえ俗世間にまみれている。

 老夫人と土地持ちとはたがいに対立はしているのだが、男のほうはこの未亡人に好意を抱いている。妹が嫁ぐことで、女手がいなくなることから、求婚をするのだが、夫人は相手にもしない。拒絶されると許可していた妹の結婚まで難ぐせをつけ始める。妹も当てにしていた持参金を兄が出さないと言い出したことから、結婚を否定的に考えるようになる。主人公は持参金などあてにせず、身ひとつで来てくれと言っても、アイルランドの風習にそうものではなかった。そこでは本人同士の了解だけでは結婚できず、兄の承諾がなければ成立しなかった。持参金は出さないが、妹の家具は邪魔になることもあったのだろう、すでに新居に持ち込まれていた。

 主人公は暴力を否定して、手を出さないことを心に決めていた。妹はこの静かなる男を臆病とみて、家を出ていく。無理矢理に連れ戻し、折れて兄の前で従おうとするが、決裂して殴り合いになる。長時間にわたる格闘に疲れ、いつのまにかふたりで酒を呑み交わしていた。とことん殴りあうことで、たがいに吹っ切れて、いいやつだと思いはじめたようだ。兄の手渡した持参金を火に投げ入れるのも、持参金めあての男ではないと、理解を深めるものだった。高圧的な兄にも気づきがあったのだろう、夫人との仲も好転して、すべてはうまく収まりをつけて、村に平和な日々が訪れた。

第394回 2024年2月21

おかあさん1952

 成瀬巳喜男監督作品、ブルーリボン賞監督賞受賞、加東大介に助演男優賞、水木洋子脚本。クリーニング屋の一家の物語。田中絹代の演じる母親(福原正子)を中心に話は展開していく。戦後、世間がまだ貧しい頃の話である。戦地から引き上げてきた息子がいるが、病いにふせっている。娘はふたりいて、上(年子)は18歳、下(久子)はまだ小学生だろうか、おませな娘で、夏祭りの演芸大会では姉の歌にあわせて、「花嫁人形」の踊りを披露している。その下にやんちゃな少年(哲夫)がいるが、実の子ではなく、母親の妹(栗原則子)の子を預かっているようだ。

 息子の死に続けて、父親(良作)がわずらって死んでしまう。クリーニングの職人だったが、やっと店を構えて、軌道に乗った矢先だった。妻は入院をすすめるが、そんな余裕はないと拒んでいた。病床で夫婦は苦労をしてきたこれまでの歩みを、思い出話として語り合っている。娘にとっても最愛の父だったが、相次いだ兄と父の死に、打ちのめされている。父の仲間であった腕のいい職人(木村)が、店を手伝うことで、看板を下ろさないで、仕事を続けることになった。

 娘はパン屋の息子(平井)と仲がいい。クリーニングの配達とパンの配達で、たがいに自転車で顔をあわすところから、交流ははじまったようだ。デートをしても、娘は下のふたりをいっしょに連れてきて、まだ恋人という感覚はない。男は手伝いに来ている職人と母親が再婚するのではないかという世間のうわさを娘にしている。このときから娘は、嫌悪感に満ちた目で、ふたりを見始めていく。勘ぐりは何でもなかった。

 主人公の妹は女手ひとつで息子を育てるが、美容師として自立しようとして、今は住み込みで働き、姉の家に息子を預けていた。試験に合格すれば引き取ろうとしている。主人公は下の娘を子どものいない親戚の家に、養女に出す約束をしていた。父が死に、家計が苦しいのを察して娘はみずから家を出ると言い出す。上の娘は、強く反対するが、悲しい別れはやってきた。

 叔母が日本髪の稽古台に、上の娘に花嫁衣装を着せて、試験に備えているのを、パン屋の息子が目撃して、落胆する。家に戻って話すと母親は驚き、様子を探りがてら、お祝いを言いにやってくる。事情を話し、まだそんな年齢ではないと答えている。安堵してその折りはぜひ自分たちのところへと、言い置いて帰っていった。娘はそれを聞いてにっこり笑い、恥ずかしそうに母親と目をあわせている。

 苦労して育ててきた子どもが、次々に去っていく。夫を亡くして、必死で生き抜いてきた女の一生を、悲哀に満ちながらも、暖かく見つめている。それは田中絹代の平凡なのに、芯の強い女を演じる適切な演技力であると同時に、それを演出する監督の目のみごとさでもある。手伝いに通ってくれた職人から学んだ技術で、自立できるまでになって、職人は店を去っていく。再婚を嫌っていた娘の目にも、この男を素晴らしい人格者として、見送ることになった。さっぱりとした役柄を加東大介が好演をしている。母親の老いを感じながら、もうしばらくは親元で手伝おうという、娘の愛情がうかがえる結末だった。夏祭りで歌っていた「花嫁御寮はなぜ泣くのだろう」という、先取りされた歌詞が、耳に残ることになる。

第395回 2024年2月22

ローマの休日1953

 ウィリアム・ワイラー監督作品、アメリカ映画、原題はRoman Holiday、グレゴリー・ペック、オードリー・ヘプバーン主演、アカデミー賞最優秀主演女優賞受賞。これまで何度となくくりかえしみてきた映画だが、オードリー・ヘプバーンの魅力が全開している。映画の筋立てとは逆に、ハリウッドの大スターが、デビュー間もない新人女優を、優しくエスコートしている。

 アメリカの通信社の記者(ジョー・ブラッドレー)が、王女(アン)との偶然の出会いを通じて、ローマでの一夜限りの恋を成功させる話である。所詮添い遂げられることが叶わないことはわかっていて、それでも限られた時間を、できりだけ濃密な思いですごそうとする。淡い恋心は大人の恋であるのだが、純真な子どもの初恋のような、目の輝きをともなっている。

 スクープ写真を盗み撮りをして、それに記事を乗せると、話題をさらい、売り上げを伸ばすのは確実だが、それらをすべてやめてしまい、密かに心に刻むという選択をすることで、絵になる演出が完成する。友人のカメラマン(アーヴィング)は、はじめその判断を理解できなかったが、記者が王女とのラブストーリーを完結したいのだと察して、最後の謁見で、盗み撮りの写真を王女に返している。本来ならそれは新聞の第一面を飾っていたものだった。記録に残すよりも、心に残したということになる。

 スキャンダルをかぎまくるのを生きがいとした、名もないライターが、偶然出会ったのは、夜のローマのベンチだった。無防備な酔っ払いとも思える娘が、眠そうにしている。声をかけると、ふだん耳にする若い娘のしゃべりかたとは異なっている。とにかく安アパートに連れ帰り、一夜の宿を提供してやる。次の朝、朝刊には王女の顔写真が大きく写されていた。各地を歴訪中なのが、体調を崩したことを伝えている。記者はまだ眠りについている娘の顔と見比べて、王女であることを確信する。

 知らぬ顔をして同行すれば、とくダネはまちがいない。仲間のカメラマンに連絡を取って、ライター型の隠しカメラが活躍することになる。ローマの名所見物が登場する。スペイン広場での偶然を装った再会、真実の口での悪ふざけ、黒づくめのエージェントに追いかけられての、夜の酒場での乱闘など、印象的な名場面が続いていく。スクーターに二人乗りをして、映し出されたローマの街並みは、庶民感覚に満ちた、王女にとってははじめての経験だった。

 一夜の恋は口づけをするまでに至るが、次の日には手の届かないすまし顔の王女がいた。記者会見で分からないように目配せをする瞬間は、ひとときのローマの休日を、永遠にとどめようとするものだった。会見の終わり王女の立ち去った王宮に、最後まで残っている記者の姿があった。スクープを逃してあまりある幸福の余韻に満ちた失恋が、ハッピーエンドとなった。それは二度とは体験できない最大のスクープだっただろう。

 かぐや姫伝説にも似て、月に戻るのはわかっていても、つかの間の縁を楽しむ、一夜の夢にほかならないものだった。王女がやってきた国名は知らされないままなのは、月の国からやってきて、深夜のローマのベンチに降り立ったのだともいえるものだ。月の夜の竹藪のように、月の光を照り返したローマの噴水のほとりで、眠る王女は輝きを放っていた。

 古代ローマを扱ったアメリカ映画と同じで、イタリア語が聞こえてきたかなと思い返すことになる。ここは一体どこだったのだろうか。もちろん敗戦国イタリアは日本と同じで、英語が耳慣れたものだっただろうが、うるさいまでにイタリア語が飛び交うフェリーニのローマとは明らかに異なっている。

第396回 2024年2月23

聖衣1953

 ヘンリー・コスター監督作品、リチャード・バートン主演、アメリカ映画、原題はThe Robe、アカデミー賞美術賞、衣裳デザイン賞受賞。テレビに対抗し、ハリウッドが威信をかけたはじめてのシネマスコープ作品で、古代ローマを舞台にした、ワイドサイズでスペクタクルが展開する歴史ロマンである。カリグラ帝の時代、キリストの死に立ち会ったローマ人将校(マーセラス・ガリオ)が、苦悩の末、キリスト教徒として殉教するまでの姿を、拡張高く描き出している。

 主人公はもとは享楽的で好色な軍人だったが、以前に愛をかわして結婚の約束をした娘(ダイアナ)の登場で、生活をあらためて、愛を成就しようと思いはじめる。多くの女性とのつきあいがあったのだろう、娘を思い出すまでに時間がかかっている。名も知らぬ美女から、アイコンタクトを送られて、自分のことかと確かめるしぐさから、ふたりの恋愛は再開する

 娘は次期皇帝に目されるカリグラの寵愛を受けていたが、この将校のことを忘れ切れないでいた。将校はカリグラを嫌うことで、ローマから追放され、エルサレムに追いやられてしまう。そこで総督ピラトの配下にあって、キリストの処刑を命じられる。何の関心もなく職務をまっとうするだけのことだったが、このときキリストのもとに集まる信者の姿に接していく。キリストの亡きあと、弟子のひとりペテロの高潔な風格にも出会い、教えられるところは多かった。キリストを裏切って、悲嘆に暮れるユダにも出会っている。

 奴隷市場で買い取った屈強のギリシア人(デメトリアス)を侍従として連れてきていたが、この男がまずキリストに魅せられて信仰に入っていく。十字架を運ぶキリストと目があうのが、はじまりだった。彼はかつて将校が、カリグラと競売で争いあって、値をつりあげた、魅惑的な奴隷だった。カリグラは剣闘士にしようとしたが、将校は自由を与えて、解き放っていた。マーケットでは、双子の美女を手に入れるつもりだったが、これも争ったすえ、カリグラに譲っていた。

 将校はこの奴隷が処刑地から持ち帰った、キリストが最後に着ていた赤い衣から、奇跡的なパワーを感じ取り、最後までそれを携えて、のちの世に伝えることになる。娘はカリグラ帝と決裂して、もう一人の王のもとへ行くと言った。将校とともに処刑される道を選び、抱きしめていた聖衣を沿道の信者に託した。西洋人にとってのルーツともいえるキリスト教の苦難の出発点を見直すことで、古代ローマの地中海世界を越えて、アメリカ大陸にまで広がった、西洋文明の繁栄の原点を確認することになった。アメリカ映画が繰り返し古代ローマ世界を取り上げるのは、この点にある。

第397回 2024年2月24

月蒼くして1953

 オットー・プレミンジャー監督作品、ウィリアム・ホールデン主演、デヴィッド・ニーヴン、マギー・マクナマラ共演、アメリカ映画、原題はThe Moon Is Blue。エンパイアステートビルで出会った男女の恋愛劇。男のほうは30歳の建築家(ドン)で、婚約者(シンシア)がいるようだが、すでに婚約は解消したと言っている。女は若い娘(パティ)で、清純な素振りもみえるが、かなりきわどい会話も楽しむドライな性格をもっていて、男をてだまに取っているようにも思える。駆け出しの女優だと言っているが、貧困生活からの脱皮をはかっていて、金銭的な誘惑には弱い。

 最初の出会いはエンパイアステートビルの売店で、男が娘に目をとめ、視線で追っている。口紅を欲しそうに見ているが買うのをやめて出ていった。男はそれを買って追いかける。展望台のエレベーターには、本日は視界不良の表示が出ているが、開いていたエレベーターに飛び乗って上がってしまう。追いついた男は料金所で2人分を払って追いかける。展望台には娘のほかは誰もいなかった。視界は閉ざされているが、デートをするには静かでねらい目なのだ。

 男がついてくるのはわかっていた。口紅がプレゼントされる。好きな色だが、高くて買えなかったと、彼女はいう。展望台も料金が高くて登ったことがなかった。下の売店で男が買った商品も知っていて、気にしていたのだとわかる。奇妙なものを買ったので、なぜそんなものを買うのかと聞いている。建築家であることを明かし、仕事に使う用具だと説明した。

 上着のボタンが取れているのを、娘が探して見つけてやる。針と糸があると言ってハンドバッグを開けると、男は自分でボタンをつけはじめた。隙を見て針を隠して、針を落としてしまったと、嘘を言う。探すが見つからない。事務所が近いのでそこにあると言って誘う。口紅ももらっているので、ためらいもなくついて行く。事務所で上着を預かってボタンをつけてやるが、針が隠されたのも見つけて、二本の針を見せている。

 食事に誘うが、料理が上手だと言うので、食材を買いに出ることになる。ここに至るまで、ふたりはのべつまくなしにしゃべっている。舞台劇でのやり取りのテンポのよさを思わせるものだ。部屋に婚約者の写真が飾ってあるのを見つけられると、取り上げて片付けている。男は出かけにエレベーターで婚約者に会うが、とたんに避けて階段で移動する。険悪な空気が漂っているが、詳しい事情はわからない。

 娘は待っていると、見知らぬ男が現れる。聞くと婚約者の父親(デビッド)だという。上の階に住んでいて、近所づきあいからはじまった恋愛だったのだとわかる。父親は自身の娘のことを心配して訪ねてきたが、そこに見知らぬ娘がいたということだ。古いつきあいなのかと聞くが、会ったばっかりだと答えている。

 父親は42歳で、今は離婚をして独身のようだ。この娘を気に入ってしまい、言い寄っていく。娘も中年の男が好きだと言っていた。高額紙幣を何枚かちらつかされると、娘は簡単になびいてしまう。キスをするのにも抵抗はない。金は愚かな資本家から手に入れたものだと言っていた。はてはプロポーズをするまでに至る。娘もその気になっている。

 そこに男が大袋をかかえて帰ってくる。メインはステーキだったが、娘は婚約者の父も誘ったのでいっしょに食事をしようと言っている。男は怒りが込み上げている。キスまでしていたのを諌めるが、娘は悪びれることもなく、これをもらったと紙幣をみせる。見ると賭けで取られた自分の金だった。彼が愚かな資本家のことだと娘は思った。

 優柔不断な娘に翻弄される男たちの愚かさと見ることもできるが、娘の純真なまでの無邪気さは、憎むことができないほどに、あっけらかんとしている。どうみても婚約者のほうが女らしくて、ウエットな感じのする美人なのだが、男にはこの新しい人種が気にかかるようなのである。娘の父親が登場するとさらに話は複雑になる。刑事であり、主人公は顔をあわせた途端に殴られて、気絶してしまった。娘は無理矢理に連れ帰られた。

 もとの婚約者とのサヤに戻るのかと思ったが、そうではなかった。娘と建築家は晴れやかな展望台で、愛を交わすラストシーンがあった。娘は父親の手から逃げ戻り、男の目には殴られた青いあざが、くっきりと残っていた。まだまだ前途多難が予想され、ハッピーエンドなのかどうかはわからない。「月蒼くして」というタイトルだが、蒼かったのは月ではなく、男の目だったようだ。いずれにしても、ふたりの父親はともに手ごわい。

第398回 2024年2月25

恐怖の報酬1953

 アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督作品、フランス映画、原題はLe Salaire de la peur、イヴ・モンタン主演、シャルル・ヴァネル共演、カンヌ映画祭グランプリ、男優賞受賞、ベルリン映画祭金熊賞受賞。石油が出るところにはアメリカ人が必ずいると、憎々しげに語られている。大資本を投入して世界各地で石油を掘り出している。

 アフリカかと思ったが、南アメリカのベネズエラのようである。砂漠地帯の油田で起こった火災を防ぐために、ニトログリセリンを積んだトラックでまわりを爆破させようという計画を立てて、ドライバーを募集する。主人公(マリオ)はフランス人だが、この町に流れ着いて働くが、今では本国に戻る旅費もない。職がなくこれに応募して、高額な報酬を手に入れようと考えた。

 職にありつけない男たちが酒場にひしめいている。主人公もそのひとりだが、この酒場に働く娘と、恋仲になっている。酒場の主人も娘を気に入っている。娘はうまくあしらいながら付き合っているようだ。ある日、顔役と呼ばれるフランス人(ジョー)がこの町に流れてきて、主人公と出会い慕われるようになる。娘とのデートよりも男同士の友情が優先されている。酒場の主人は、金を持っているようにみえる顔役に一目置いている。

 アメリカ資本の石油会社で、現場のボスになっている男(オブライエン)とは、顔役は昔からのなじみであるが、昔とは地位が逆転してしまっている。今は顔役には財産はない。親分風を吹かせているが、やがて化けの皮が剥がされていく。トラックでの恐怖の報酬に募集をかけると、大勢の男たちがやってきて、そのうちの4名だけが採用される。

 ひとりひとり面接がされ、前職を問われると決まったように、ドライバーと答えている。主人公は合格したが、顔役は受からなかった。顔見知りの主任に食い下がると、誰かが辞退すれば採用されるとのことだった。工作をしたのだろう、合格者のひとりが姿を見せなくなった。代わりに採用され、主人公とペアを組み、一方のトラックに乗り込んだ。

 長い道のりを2台のトラックが間隔をあけて、慎重に移動していく。少しでも衝撃が加われば爆発してしまう。見ている方にも緊張感が伝わってくる。映画ははじまりで、この町のようすと人間関係を丹念に描くが、大部分は目的地までのトラックの運転にあてられる。顔役ははじめて顔を見せたときのような度胸はない。年齢のこともあってか、最初から逃げ腰になっていて、主人公もあきれはてている。

 デコボコ道にジグザグの絶壁、道をふさぐ落石にも出くわし、積み込んだニトロを使って爆破する。崖っぷちに築かれた土台が朽ちていて、トラックが落ちかけている。迫力のある映像が続いていく。前を行くトラックが、急に大音響を立てて爆発した。遠景で煙しか見えなかったが、ふたりとも死亡したことを意味している。近づくと原油があふれ出て、池のようになっている。顔役が深さを計りながら誘導するが、足を取られて倒れてけがをし、その上にトラックに引かれてしまい、それがもとで主人公の腕の中命を失ってしまった。

 主人公だけが目的地にたどり着き、二人分の報酬を受け取る。燃えさかる油田の映像が生々しい。酒場ではひとりだけが生き残ったことを知らされると、酒場女は男の帰還を喜んで、浮かれて踊り明かしている。男も有頂天になって、来た道を引き返すが、運転を誤って谷底に落ちて、あっけなく死んでしまった。何という結末かと唖然とするが、苦労をした稼ぎも、すべては水の泡となってしまった。行きはよいよい帰りはこわい。「恐怖の報酬」というタイトルのほんとうの意味は、ここにあったようである。

第399回 2024年2月26

にごりえ1953

 今井正監督作品、ブルーリボン賞作品賞をはじめ3部門で受賞。樋口一葉の原作三点をオムニバスふうにつなげた叙情作品。十三夜、大つごもり、にごりえであるが、明治女の三つの生きざまを通して、時代に翻弄される哀しい女の姿を、共通して暖かく見つめる作家の目があった。それぞれの物語に脈絡はないが、日付を付した日記ふうの扱いになっている。

 最後の壮絶な悲劇を記述したあとに、八月の日付けが入って、何事もなしとナレーションが語っているのが、印象に残った。時間的に三等分されているわけではなく、にごりえだけが全体の半分に及ぶ、長い話になっていた。秋からはじまり、大晦日をへて、春夏へと移る季節の推移として読み取ることもできる。

 「十三夜」は名月を背景にして、女の哀しみがあふれ出している。娘(せき)が月夜に実家に帰ってきた。嫁いで7年になり、5歳の息子がいた。夫の不義と家内でのさげすみに耐えられなくて、暗い顔をして戻ってくる。母親は孫は元気かと問い、長らく会っていないことがわかる。見初められておおだなに嫁ぎ、弟の将来についても世話になっている。母親は娘に同情して、家出を受け入れようとするが、父親ははじめ黙って聞いているが、がまんをするよう言い聞かせる。この言い分が意外と説得力があり、娘は納得して帰っていく。

 それだけの話だが、夜道は危険だと人力車を呼んで、帰ることになる。この車夫が昔なじみ(録之助)で、恋心を燃やしたこともある男だったが、今は身をもち崩していた。落ちぶれた姿で、名乗りをあげる。夜道を歩いて、昔話のなかで、娘が嫁いだことから、悲観して酒におぼれ、悪の世界に入っていったのだとわかる。娘の心は揺れるが、結局は何事もなく、橋のたもとで別れ、娘は帰っていった。

 「大つごもり」はおおだなで奉公をする娘(みね)の話だ。叔父の病いを見舞ったとき、借金を求められる。奉公先から借りてみると請け合うが、うまくいかない。おかみは機嫌のいいときに承諾したが、今はそんな約束はしていないと、とぼけている。そんなとき支払いにやってきた客から預かった金を、急いで出かけるおかみから手箱に仕舞うよう命じられる。

 家にはふたりの娘がいて、主人公と同年齢だが、遊びほうけている。その上に道楽息子(石之助)がいるが、金にこまると実家に帰ってくる。手箱は息子が昼寝をしている部屋にあった。娘は金の都合がつかないために、手箱に入れた金に手をつけてしまう。酒を飲んで寝てしまった息子は、目を覚ましてはいないようだ。

 その後、主人と年末の決算をしていて、おかみから手箱をもってくるよう命じられる。すっかり忘れていたのを思い出したようだった。娘は盗みが発覚するのを覚悟した。おかみが引き出しを開けるとお金はなくて、これも拝借したという、息子の書いた文面が入っていた。疫病神である息子には、先に50円のこずかいを手渡して、追い払おうとしていた。手箱に入れたのは20円、盗んだのはそのうちの2円だった。この書き置きがなければどうなったことか、疫病神は救世主でもあったのである。

 結局は何事もなく終わり、悪事はすべて息子が引き受けることになった。ここで重要なのはおかみから借りようとして出してくれなかったのは、2円だったという点だ。2円のために年を越せない家族がいる。一方で50円のこずかいを子どもに与える家もある。

 「にごりえ」は色街での話。店で評判の遊女(お力)が昔のなじみ(源七)につきまとわれ、避けつつも忘れきれないでいる。男には妻子がいて、今は没落して、妻の内職にたよっている。子どもは母親のことばをまねて、遊女を鬼と呼んでいる。遊女には金払いのいい富裕なだんながつくが、昔の男を忘れられないことは、感づかれている。

 男のほうもどうしても遊女のことがあきらめきれない。子どもはかわいいようだが、家ではいつも不機嫌だ。妻は夫との言い争いのすえ、子どもを連れて出ていくという。妻には身寄りもなく詫びを入れるが、男は応じなかった。次の日、ふたりは姿を消していた。警察が心中の現場検証をしている。女は逃げるのを無理矢理に刺され、男は切腹をしていると、状況報告がなされた。無理心中だったようであり、ここでもまた、日誌には何事もなしと記録された。色街にはよくある、日常茶飯事のできごとだったということなのか。

 三人の女優が主人公を分け持っている。ほんとうはもうひとり女優が必要だ。三人の女を身近で見ていた樋口一葉という観察者の目である。24歳で没した美人作家の肖像はだれもが知っている。私が監督なら、この三つの物語に第四の美人女優をからませて、それぞれのどこかで登場させていたのにと、生意気なことを考えてみた。さて誰をこの役に抜擢しようか。1980年代だとまず夏目雅子だろう。あるいは山口百恵かなどと戯れてみた。

400回 2024年2月27

女の一生1953

 新藤兼人監督作品、原作はモーパッサン「女の一生」、乙羽信子主演、ブルーリボン賞主演女優賞受賞。舞台は京都、踏んだり蹴ったりの女(白川藤子)の一生である。だらしない男たちに翻弄されて、それでも懸命に生きる勝ち気な姿を、乙羽信子が女学生から老年までを熱演している。唯一まともな男だったのは実の父親だけだった。寺の娘と肉屋のせがれと言って、揶揄される恋愛から、物語ははじまる。娘の父は反対だったが、娘の熱い思いとまわりの理解に負けて、結婚を許すことになった。世俗にまみれた世界は、仏門で育った娘にとっては過酷なものだった。舞妓や芸者を集めての、結婚披露宴の飲み食いは贅を極め、京都の老舗の威厳を誇示している。

 夫(山崎真太郎)ははじめ学生だったが、京都の料亭山崎亭の跡取り息子であり、純真さは、じょじょに失われていく。商売を継ぐには、大学など必要ではなかった。家では商売を学ばせて、学生を辞めさせたがっているが、新妻は大学を終えるよう願っている。嫁をもらえば学生でいることもできなかったのだろう。かといって家業に精をだすというわけでもなく、家でぶらぶらしている。実の兄(政夫)も大学生で、生来の潔癖さから左翼運動に加わっていて、特高警察に目をつけられている。妹思いで父親を説得して、この結婚の後押しもしてくれた。

 嫁いでからは、店を切り盛りする母親の指示に従い、命じられるままに、忙しい日々を送っている。最初のだらしない男との出会いは、嫁ぎ先な父親の隠された正体だった。母の言いつけで、盆暮のあいさつというので、つけ届けをもって二カ所に出向いていく。ともに水商売で、父親のめかけだったことを知り、唖然とする。これが第一の衝撃である。二番目の訪問先には、父親が来ていた。二号と三号だと、公然と紹介している。同行したいつもつきそう女中(ゆき)ももちろん、彼女たちのことは知っていた。

 大文字(だいもんじ)を眺める鴨川の床では、本妻をはじめ全員を引き連れての宴席を開いている。なぜかその場に夫の姿はなかった。宴会で騒ぐのが嫌いなのかと私たちは思った。娘はみごもっていたので、早めに帰宅すると、第二の衝撃に出くわす。夫が部屋にこもって、これまで信頼していた女中とだきあっていた。

 娘は錯乱状態で取り乱し、実家に帰ってしまう。嫁ぎ先から詫びにやってくる。遊び心からだが、深く反省していて、女中も実家にかえしたと、親が詫びを入れている。泣く泣く帰っていったが、家の落ち度を詫びる一方で、嫁の兄が政治活動で特高警察につかまって、迷惑をしたこともあげつらっている。反省もなくだんなの女遊びは、商家ではあたりまえのことのように振る舞う姿があった。隠れてするか大っぴらにするかの違いはあれ、血は争えなかった。

 女中もまた妊娠をしていた。父親がねじ込んでくると、金で解決しようとした。手を尽くして妊娠をした娘を承知の上で、嫁にもらうという男を見つけてやった。相手は競馬の騎手だと言っている。生まれると里子に出すのだと聞くと、主人公は引き取って自分が育てると言いだす。母親は驚くが、嫁の意志は堅かった。出産した女中に会いに出かけて、そのことを話すと、それまで恨んでいた女中の心に触れるものがあった。暇を出された女中は、その後、店の困難にも手を貸すことになる。

 第三の衝撃は夫の死によってもたらされる。生まれた我が子を喜ぶ姿を見て、妻は女中の子も無事生まれ、ともに男の子だったことを伝える。わかっていたが夫は何も答えようとはしない。そこにはもうひとりの息子はかわいくないのかという、言外の意味がこめられている。子どもの誕生によって、家庭の幸せが実現するかにみえたが、突然の電話が知らせたのは、夫が殺されたという訃報だった。

 駆けつけると見知らぬ女とふたりで死んでいた。連行される男とすれちがっていたので、殺人犯だったのだろう。深い事情は語られなかったが、夫の関わった痴話話であることは確かだった。女中とともに悲嘆にくれる。父を亡くした二人の息子は、太郎と次郎と名づけられて、育てられていく。女中も身近にいて子の成長を見届ける喜びを得た。

 月日はたち、二人の息子は大学生になり、学徒出陣で出征する。戦時下で家業は混乱を極め、廃業の危機に瀕している。母親は三年前になくなり、嫁があとを継いで、切り盛りをしている。父親は仕事を嫁にまかせて、精細のない日々を送っている。ときには血のつながりのない嫁に言い寄っていた。はねつけられると、冗談だと釈明するが、昔からの癖はなおるものではない。

 嫁は意地でも、のれんを守ろうとしている。父のめかけの世話も、資金を出してやって、続けている。どこまで持ち堪えるかはわからないが、できるところまでやり遂げると、嫁は決意を語ってみせた。それもつかのま、めかけの家で父が脳いっ血で倒れ、二階に身を寄せていた実の兄は、からだを壊して伏せっていたが、特高が押しかけて再び逮捕されてしまった。

 何も無くした戦後の混沌のなかで手を貸してくれたのは、かつての女中だった。進駐軍からの払い下げの食糧を手に入れてくれ、料亭を再開できた。軌道に乗り家業は繁盛する。多くの使用人をかかえるまでに至る。太郎は帰還したようで、家でぶらぶらしている。次郎の姿がなかったのは、まだ復員していないか、戦死したのだろう。

 第四の衝撃は我が子が、女中のひとりに手を出しているのを見届けたことだった。無理強いをとがめると、息子は家を出ていこうとする。母は必死になって引き止めるが、振り切って去ってしまう。そこで「終」の文字が浮かび上がる。まだまだ終わらない結末が、無造作に投げ出されたようで驚かせる。血は争えない、歴史は繰り返すのだ。実の父の直感が、かつて感じ取った、聖俗の落差への懸念は、まちがってはいなかったのである。

第401回 2024年2月28

地獄門1953

 衣笠貞之助監督作品、菊池寛原作、長谷川一夫、京マチ子主演、英題はGate of Hell、カンヌ国際映画祭グランプリ、アカデミー賞名誉賞、衣裳デザイン賞受賞。恐ろしい話である。今でいえばストーカーということになるが、時代は平安時代、今も昔も変わらないのが、男女間の愛憎なのだろう。人妻愛した男があきらめきれないで、その夫を殺害しようとする話である。長谷川一夫が狂気に満ちた恋狂いの男(盛遠)の情念を、みごとに演じている。京に反乱が起こり平家が敗走し、厳島にあった平清盛に早馬で知らせが走る。この任にあたったのが主人公であり、清盛は軍を率いて京を奪還した。兵士たちが地獄門を行き来している。人々が集まる門は、晒し首がかけられる修羅場でもあった。

 手柄をあげた武将には褒賞が与えられている。土地をもらうのが通例だったが、主人公は清盛に仲人をしてほしいと答えた。相手の名を言うと、それは人妻(袈裟)だった。それを聞いてもあきらめをつけず、妻にほしいと訴えている。常軌を逸したとんでもない男なのだとわかりだしてくる。出会いは、平家が京を追われたとき、敵の目を欺くために身代わりとなって、馬車で落ち延びる女を、警護したことからだった。主人公の助けがあって、女は生き延びることができた。京が平定されたあと、市中でも顔をあわせるが、素性はわからないまま、名前だけを聞き、記憶にとどめていた。

 約束は何なりとと言ってしまった清盛はこまりはて、女のきもちを確かめる必要があると、女を御所に呼び出した。清盛からの呼び出しがあったとき、妻は不安がって、病いを理由に断ろうとしたが、夫(渡辺渡)は夫婦の絆を確かめ、妻のしっかりした愛を確信して送り出していた。清盛は琴の調べを聞きながら、女の妖艶な容姿を前にすると、うなづけるものがあった。主人公を待たせていて、あとは成り行きにまかそうと、自分は退席する。男は思いを伝えるが、女は夫のある身だときっぱりと拒絶した。

 それでもあきらめがつかない男は、年中行事の競馬レースに参加して、実力に定評のある夫に対抗し、妻も観戦する中で、みごとに勝利を得た。競技後の宴席で、夫の仲間がわざと負けたのではという話題が飛び交うなか、男は聞き捨てならぬと挑みかかり、一騎打ちになりかけるが、女のことで見苦しいと上司からたしなめられ引き下がる。

 男はそれでもなお思いを伝えようと、夫がいないときに自宅にまで押しかける。居留守を使って実家に戻ったと聞くと、急いで馬を走らせた。そこには老女がひとりいて、女は来ていないと言うが、かくまっているのだとうたぐった。力づくで迫り、偽りではないとわかると、居留守を使われたのだと逆上する。考え出したのは、病気だと言って女を連れてこさせるという策略だった。みごとに罠にかかって女はやってくる。

 刀を抜いて威嚇して、自分の思いを伝えて、結婚を迫っている。狂気の表情は、言うことを聞かないと皆殺しにすると言い放っている。老いた肉親のおびえる姿を目にとめると、女は男の言いなりになることを決断する。夫を眠らせて、亡きものにするという手のうちを、確認して帰宅する。心配をして待っていた夫には、病気は大したことはなかったと安心させ、居間に宴をはり、酒を勧めて、琴を演奏する。妻も珍しく自分でも一献盃を傾けている。酔いがまわり夫が寝所に向かうのをとどめ、その場に敷いていた床に寝かせてのち、自分は寝所に入った。

 打ち合わせた約束の時間が来て、男は暗い中を手探りで寝所に向かい、一気に刺殺した。女のうめき声を聞いたとき、男は全てを理解した。女はみごとに貞節を守ったのである。男は夫の眠る居間に行き、ことのしだいを伝えた。自分はとんでもないことをしてしまった。殺してくれと訴えている。夫は殺してもあなたはそれで終わるかもしれないが、私の苦しみは終わらないという。妻の遺骸をかかえて、なぜ打ち明けてくれなかったのだと嘆いている。

 命をかけて夫を守った姿を目の当たりに見て、打ちのめされた男の敗北宣言は、自害をするのだと思った。庭先に座り込み、短刀を引き抜いたが、腹を割くのではなく、髪を切った。生き地獄を味わう選択をしたようだった。次には地獄門を通り過ぎてゆく僧侶の姿があった。

 地獄門にはうめきながら生き続ける餓鬼を描いた、おどろおどろしい壁画があり、先にそれが朽ちた荒廃のなかで、ぼんやりと映し出されていたことを思い出した。カンヌ映画祭での最高賞は、愛に狂う人間の情念を描き出した地獄図の描写を評価したものだろう。タイトルの「地獄の門」と聞いたとき、フランス人はロダンの名作を思い浮かべるにちがいない。そこでも地獄に真っ逆さまに落ちていく亡者の生き地獄が、生々しく彫刻表現がされている。

第402回 2024年2月29

近松物語1954

 溝口健二監督作品、近松門左衛門原作、長谷川一夫、香川京子主演、英語名はThe Crucified Lovers。江戸時代の不義密通の話である。心中をしてしまえば、はやくに物語は終わっていただろうが、生きることを選んだばかりに、人間の究極の深い真実が浮き彫りにされていく。どろどろした人の情念がえぐりだされていったというほうがよいか。

 主人公は京都で大きな店を張る老舗の手代(茂兵衛)とそこの若おかみ(おさん)、主従の関係からはじまるが、手に手を取り合って逃げ延びて、はては縄にかかって馬に乗せられて、町中を引きまわされる対等の関係へと至る。ふたりは手を握り合いながら、晴れやかな顔をして、死出の旅に向かっている。その姿は厳しい戒律に縛られた江戸幕府の倫理観が、愛しあうものへくだされた、最後に許した温情のように見えるのが興味深い。

 いくつかの誤解が重なって悲劇へと至る筋立てのおもしろさは、シェイクスピアと近松を比較したくなる真骨頂であり、時空間を超越して普遍性を獲得するものだった。金に困ってやりくりがつかないという話も、悲劇を生み出す普遍性に根ざしたものだ。悲劇とは裏目裏目に出る運命のいたずらのことをいう。ここでもまずは若おかみの兄が、借金でやりくりがつかなくなって、忍んでってくるところからはじまる。わずかな金であったが、期日までに入らないと縄にかかると言っている。機会をみて主人に頼もうとするが、根っから聞く耳をもたない。商人とはいえ帯刀を許された有力者だったが、金については極端なまでに吝嗇だった。

 そこで日頃から主人の信頼を得ていた手代に、話してみると、たいした額ではないのでと、簡単に引き受ける。主人から実印を預かったときに、白紙に空印を押していると、もうひとりの手代(助右衛門)の目に留まり、声を上げておおごとにしようとする。同じ手代とはいえ、能力の差が歴然としており、日ごろの嫉妬心から出たものだった。

 主人(大経師以春)に正直に話して不正を詫びることにするが、主人はそれを聞きつけると、手代を許そうとはしない。理由を聞くが何も答えない。主人は遊女にでも貢いでいるのだと思っている。若おかみは自分の身から出たことなので、夫の怒りをなんとか鎮めようとする。そのとき女中(お玉)が割って入り、責任は自分にあると言いはじめた。おかみは女中がかばうのは、彼女の手代への熱い思いから出たものだと受け止めた。主人にももちろん女中がかばう理由はわかっている。女中の立場が悪くなると、手代はそれを気にかける。それによって主人の怒りはますます高まっていく。

 主人が許さないのには理由がある。この女中にもわけがあったからだ。主人は女中に言い寄って、毎夜のように忍んでやってくる。耐えがたくなって手代と将来を言い交わした仲だと偽りを言って、逃れようとしたのだった。若おかみがその場を繕ってくれた女中に、お礼を言うのに寝所を訪ねると、口籠もりながら主人の正体を明かした。そこで主人の鼻を明かそうとしたことが災いとなった。ふたりは寝どころを交換したのである。

 ところが女中部屋にやってきたのは主人ではなく手代だった。店を去る決意をして、かばってくれた女中にお礼と別れを言いにきたが、寝ていたのは若おかみだった。これに先立って悪意ある手代が急用で若おかみを起こしにいくと、そこには女中がいた。そこで女中部屋に向かって、目撃したのは若おかみと手代だった。二人の仲が勘ぐられて、おひれをつけて主人に告げ口をされる。若おかみは自分のために手代に迷惑がかかることを悲しんでいる。不実な夫に愛想を尽かして、自分も出ていくことを決意する。ふたりがいっしょにいれば立場が悪くなることもわかっているのに、申し合わせたように、運命の糸はさらに奈落へと落ち込んでいく。

 四方に手を尽くして探し始める。主人は画策をして、妻だけを引き離して連れ戻そうと考えている。京都から大阪に逃れれば、金の工面はできると手代はいう。そのことばどおり、娘の実家には金が届けられた。兄は助かったと喜んでいるが、母親は娘の心配が先に立っている。追手がまわり、身を隠しながら琵琶湖にたどり着くが、力尽きて若おかみは死を決意する。

 小舟を出して、この世に未練を残さないように、女の膝を紐で縛っている。手代はこの女主人とともに死のうとするが、最後に本心を打ち明ける。若おかみのことをずっと慕っていたと言うと、身を翻して生きようと言い出す。すがりつくようにして、死にたくないと言い出すのは、手代との愛を成就させるためだった。告白すること、打ち明けることが、すべてのはじまりであり、パワーの根源となるものである。

 ここから時間が逆走していく。苦難の道が何重にもなって押し寄せてくる。湖に身を投げる心中のほうが、よほと美しい結末だっただろう。手代の実家に逃げ延びると、老いた父がいて不義密通の恥を叫んで受け入れないが、明日の朝までにみられないように立ち去れと言いながら、食事の世話をしてやっている。子が縄を受けるのを見るのは忍びなかった。追手が来て父は言いくるめられて、二人は捕まってしまう。女は籠で連れ去られ、男は役人に引き渡されようとするが、父が目を盗んで逃してやった。

 女は実家に戻っていた。そこに男が逃げのびてやってくる。ふたりは再会して、離れないことを誓っている。母親は娘を助けてやってくれと、引き離そうと嘆願するが、ふたりは聞き入れなかった。これに先立って、逃亡中に男がひとりで去ろうとしたことがあった。女は無事に戻れるよう手配がされていることを知り、男は自分だけが罪人になればいいと思ったからだ。そのとき女は狂おしく追ってきて、足を痛めてしまう。男はいたたまれず姿をあらわし、女をいといながら歩みを進めていた。

 このときから離れないことが、自明の理となっていたにちがいない。ラストシーンで馬上のふたりは、身は拘束されているとはいえ、一体となって、分かちがたい究極の美をかたちづくっていた。その姿は屈辱を与えるものとして、権力が考え出したものだったのだろうが、愛の勝利を宣言する誇示にさえみえていた。往来の人々の目に見つめられながら晒し者にされる引き回しの行列は、キリストが十字架を運ぶ道行きに似ている。十字架にはりつけにされるシーンもでてくる。ともに処刑地に向かう受難のかたちとして、美に結晶するものである。浄瑠璃語りのバックに響く効果音が、道行きを、ときに引き締め、ときにはやし立てるように、和の美と階調を生み出していた。

第403回 2024年31

スタア誕生1954

 ジョージ・キューカー監督作品、アメリカのミュージカル映画、原題はA Star Is Born、ジュディ・ガーランド、ジェームズ・メイソン主演、ゴールデングローブ賞 主演女優賞、主演男優賞受賞。飲酒癖で評判の悪いハリウッドスター(ノーマン・メイン)が、新人歌手(エスター・ブロジェット)を見い出し、やがて彼女がスターダムにのぼりつめるまでの物語。ジュディ・ガーランドの歌唱力に魅せられるが、時代とともにスターの座が入れ替わっていく悲哀を、いやでも感じ取ることになる。

 はじまりは華やかなハリウッドのセレモニーに、酔っ払ってやってきたスターが、舞台にあがり騒ぎを起こすところからである。男女三人での歌と踊りに、割って入っていくが、このときひとりの娘が機転を効かせて、あらかじめ決められていた踊りの演出のように見せかけることで、ことなきを得た。これがふたりの出会いになる。スターも命取りになるのをまぬがれたことで、自分を取り戻したとき、娘を感謝していた。

 スターは酔っ払ってはいたが、この娘の歌に魅せられたようで、聞き入っている。グループから独立して、ひとり立ちを勧める。娘はその気になって、仲間を去って、このスターに託そうと決意する。映画の撮影現場に出入りさせることで、機会を待っていた。娘は歌に比べて容姿に自信がなく、厚化粧も試みたが、それをみたスターは、素顔に戻して、自分の顔に誇りをもつよう示唆している。端役はまわってきたが、汽車の窓から手を振るだけの役で、顔を見せると、監督は手だけを見せるように指示している。

 チャンスは主役歌手の急病での代役というかたちでやってきた。スターはプロデューサーに娘の歌声が聞こえるように仕向け、その資質に耳を傾けさせている。娘はスターのおかげで機会を得ただけではなく、彼に恋心をいだきはじめていく。ふたりはやがて結婚へと至るが、大スターと新人歌手とでは、釣り合いの取れるものではなかった。変装をして二人だけの結婚式をあげている。牧師はどこかで見かけた顔だと思っているが思い出せない。かかった費用は2ドルだった。

 大スターとはいえ、酒に溺れたわがままな言動は、今はもうそんな時代ではないと、プロデューサーに見放されていくことになる。夫は仕事に恵まれず、それと反比例するように妻の人気は上昇していく。名前もスターにふさわしい名(ヴィッキー・レスター)に改められ、映画祭ではオスカーを獲得するまでに至る。ともに喜んでくれると思っていたテーブルでは、スターの席は不在のままだった。セレモニーのスピーチをしていると、またもや酔っ払った姿で現れて、お祝いを述べただけではなく、自分にも仕事をくれと、マイクを手にして訴えた。プロデューサーも仕事を探してやるが、もはや主役ではなかった。

 嫉妬の混じった、自分でもみじめな姿を感じざるを得ないものである。妻の成功を身近でみることは、夫にとって耐えがたいものだった。やがて妻はそれを察して、引退してふたりで、誰も自分たちのことを知らない国に行こうと考える。プロデューサーにこの意志を伝えるのを、男は病んだからだで聞きとめている。女の意志を知った男は、明るく振るまってみせ、酒で冒された健康を、水泳で取り戻そうと、療養を続けていた病床から出て、海辺に降りていった。窓越しに妻の歌うテーマ曲が聞こえている。

 溺れ死んだという訃報が新聞誌上に掲載されているが、自殺なのは明らかだった。歌を捨てるのを封じようとしたのだろうが逆効果で、娘は打ちのめされて、何日も呆然としたままでいる。スケジュールをこなすよう、スタッフが訪れて説得をする。その夜に舞台が待っていた。あなたは亡きスターが生み出した成果であり、観客にそれを見てもらうのが使命ではないかと問いかけている。

 娘は思い直して、舞台に立つことを決意した。スピーチでは、自身の名を告げず、スターの名を出して、その妻であると言って、歌いはじめた。会場からの拍手は、亡き夫へのオマージュとして聞こえるものだった。不幸な死の真相は知られずに、ファンには偉大なスターの面影だけが、新たなスターの歌声に重ねられていた。あなたに導かれて新たな国に向かうという歌詞をもつテーマ曲だった。

第404回 2024年3月2

奇跡1954

 カール・テオドア・ドライヤー監督作品、デンマーク映画、原題はOrdet、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞。死者がよみがえるという奇跡を前にして、驚きもせず信仰と祈りの勝利と考えた家族の物語である。大地主である一家には老いた父(モルテン・ボーエン)が信仰する宗派によって支えられた家族がいる。妻をなくし、3人の息子が父のもとにいる。結婚7年目の長男夫婦が同居していて、娘がふたりいるが、嫁は3人目をみごもっている。父は息子が生まれることを期待している。長男(ミケル)は父の仕事を受け継いで農業に励むが信仰はない。妻(インガ)は信仰に理解を示し、家族を深く愛している。父からの信頼も厚い。

 次男(ヨハネス)は父の信仰を受け継いで、神学を学ぶが、真剣に神の存在を考えるあまり、精神に破綻をきたしている。自分はイエス・キリストだと言って、社会生活を送ることができない。新しく赴任した牧師は、彼に接して施設に送るほうがいいのではと、父親に提案している。早朝から家を出て丘にのぼって祈りを捧げる姿から、映画ははじまった。

 父親と兄弟があわてて追いかけて、どこに行ったかを探しまわっている。何をしでかすかわからない恐怖が伝わるが、つぶやいている内容は、聖書に基づいた理路整然としたことばである。視線を合わすことはできず、日常語からは逸脱していて、通常の対話は成り立たない。年端もゆかない姪の少女だけが彼の言うことを信じているようだ。

 三男(アーナス)はまだ若いが、結婚をしたい恋人(アンネ)がいる。宗派がちがっていて、双方の父が反対をしている。相手は町の仕立て屋(ペーター)の一人娘で、同じ宗派の家にしか嫁に出さないと言っている。兄と兄嫁から後押しをされ、父親を説得しようと娘の家に乗り込むが、相手にされずに屈辱的な思いで帰ってくる。父が談判をしに、息子をともなって向かうが、昔からの犬猿の仲でもあり、平行線を埋めることはできない。

 父親が仕立て屋宅にいるときに電話が入る。嫁に陣痛が起こり、危険な状態だと聞いて、あわてて戻る。医者と助産婦がやってきて対応するが、子どもは男の子だったが死産、母体はなんとか危険を脱して、医者は安心していいと言い置いて帰っていった。ほっとして家族は胸を撫で下ろしていると、付き添っていた長男が部屋から出てきて、茫然としており息を引き取ったという。急変に驚くまもなく、葬式の準備にかかっている。

 仕立て屋も妻と娘を連れて、悔やみにやってきた。いがみ合いつまらない宗派争いに気づいたようで、こちらの父親も訪問を素直に喜んだ。娘を嫁がせることで、死んだ嫁の代わりになるだろうとまで言ってくれた。次男が死者の復活のことをつぶやきながら遺体のもとに向かう。兄嫁に接するとうしろに倒れ込み、気を失ってしまった。次男の死と引き換えに死者がよみがえるのではないかと思ったが、ちがっていた。

 やがて次男は逃げるように、窓から出て行ってしまい、家族は探しまわるが、帰ってくることはなかった。牧師が祈りを捧げ、死者に祝福を与えて、最後のお別れをしようと夫が妻に向かっていたとき、次男がドアを開けて姿をあらわす。父親はそれを見て、正気に戻ったことを認めた。次男は死者の前に立ってよみがえれと命じた。死者は目を開き立ち上がった。長男に抱きしめられながら、妻は子どもの安否を問うた。

 夫は神とともにいると答えた。それは奇跡を目の当たりにみて、はじめて信仰を理解した者の答えにほかならなかった。医師と牧師が並んですわり、対比をなして、価値観の対極を示している。どう考えても死者の復活という奇跡などあり得ないことだが、それが不自然に思わないほどに、感動的にみえたとすれば、それこそがおそらく信仰というものの真実なのだろうと思った。