第5章 オランダ美術と日本

第610回 2023年6月7

1.ネーデルラント絵画の末裔

 オランダ・ベルギーの古い美術に興味をもちはじめて、半世紀になる。油絵のルーツとされるファン・アイクからブリューゲルまで、15・16世紀の百数十年間は、一般に「初期ネーデルラント絵画」の名で呼ばれている。初期というのは、17世紀オランダの黄金時代の絵画に先立つという意味である。

 日本との関係でいえば、江戸時代の後半期にオランダを通じて学んだ技法を使って、平賀源内や司馬江漢が油絵や銅版画の制作をはじめるが、それはオランダが全盛期をすぎた頃であり、いわばこの期の日本の洋風画はネーデルラント絵画の末裔として誕生したといってよい。

 現在の日本での西洋画の隆盛を考えると、初期の洋風画家たちの努力は、十分に報われたといえそうだ。しかし、今日でこそ美術だけでなくオールマイティな実力者として語られる源内や江漢も、当時は西洋かぶれの変人にすぎなかっただろうし、彼らが評価されるためには、今日の国際化時代の訪れを待たねばならなかった。

 とはいえ当時、彼ら自身は決して国際化時代に生きていたわけではない.逆に長崎の出島を通じて、わずかな情報量をもとに最大限の想像力を羽ばたかせた時代であった。いわば針の穴から世界をながめていたのだが、実は針の穴からの方が、世界はよく見えるということも、彼らは十分に知っていたのである。

 想像力を最大限に発揮させるためには、情報量は少なくなければならない。今日あまり多くのことが語られすぎると、その閉ざされた想像力を嘆いて、かつての画狂人たちを思い起こすのである.北斎もそのひとりであるが、彼の場合、その貪欲な知識欲は、単に西洋にだけ向けられたわけではない。「和漢洋に通じる」という今日ではおよそ夢物語となってしまった文人や哲人や学者たちの想いを、文字通り体現していたのである。それは専門化が進んだ今日の閉鎖社会にあっては、一笑に付されてしまう類のものなのだが、近代がゆきづまりを感じ、同時に日本が己のアイデンティティーを確かめようとする時、それらは浮上してきたといえるだろう。

第611回 2023年6月8

2.シーボルトの収集癖

 シーボルトもまた国際化時代の訪れとともに再評価された人物のひとりである。彼が収集し今はオランダに残る日本の民族資料は、美術品というよりも博物資料としての面白さにつきるようだ。その収集癖は博物学の精神に由来するもので、実利的な価値を尊ぶプロテスタントの精神に一致している。

 彼が臨床医学の達人として日本に歓迎されたのも、その点にある。医療技術のみを受け入れ、わずらわしい宗教や思想や道徳を排除できるという点で、日本もそのほうがありがたかったわけだ。

 シーボルトのコレクションを見ていて、まず驚くのは、その臨床精神に根ざした収集癖である。それはいわば日本を人体に見立てた健康診断のようなものであって、その精密検査のようすは、長崎から江戸参府の道中を描いた何枚もの風景画や各種の地図が示してくれる.なかでもひそかに入手された日本沿岸の測量図や大坂城・江戸城の内部を写した図面は、例えていえば観察の目が身体のプロポーションだけでなく、内部のⅩ線撮影にまで及んでいたことを教えてくれる。

 こうした日本を身体に見立てた解剖学は、確かに知られたくない他人の秘密を暴きたてることにもなりえた。そのことが、禁制品を船にのせて国外に持ち去ろうとして見つかり、本人も国外追放されるという「シーボルト事件」を生む。

 江戸城内がどうなっているかを伝える図面は、現代の我々の目をも楽しませるスリリングなものだが、その入手もまた忠臣蔵で吉良邸の図面を手に入れる赤穂浪士のスリルに等しいものがあったにちがいない。

 「地図」は使い方によっては、実利を備えた強力な武器となるわけで、それが効力をなくすためには、その地図が複製され世に広まることが必要である。この時「版画」という技法が、本来は一枚であるはずの地図の魔力を中和させるのに一役買うことになるのである。

第612回 2023年6月9

3.写実精神に由来する北斎版画

 日本の浮世絵版画とオランダの銅版画とがどういう関係にあるのかということが、以前から気にかかっていた。「版画」という手段が共通してもっている通俗性を考えれば、両者が表面上似ていても不思議でなく、そこに影響関係をうんぬんすることは、控えるべきかもしれない。

 版画の発達が両者に共通した精神風土によってもたらされたことは事実で、その庶民性なり情報提供の手段という面は、美術品というよリアップツーデイトで即物的な利便をめざす消耗品として価値づけられる。

 北斎の木版画にはオランダの風景版画をまねたものがあるが、それらはエキゾチズムだけではなくて、写実精神にも由来する。北斎が西洋にはじめて接した時、学んだものは自然観察から出発した合理主義だった。この精神構造はレオナルド・ダ・ヴィンチを思わせるものさえあるが、同時に時代が求めたものでもあって、レオナルドがパトロンに喜ばれようとして、武器の製作や築城術などに腐心したのと同じように、18世紀の江戸は北斎に極めて現実的な世界の情報を求めたのである。、「神奈川沖浪裏をはじめとした富嶽三十六景、『諸国滝巡り』『名橋奇覧』などは、一見して奇異な性格をもっているが、根底にはゆるぎない写実精神がうかがえる。

 カメラのような目をもって世界を客観的にとらえること、それはシーボルトの臨床医学にも通じるが、オランダが北斎に伝えたものであって、北斎の絵の中にはそうした非情さが、いつも顔を見せている。広重のしっとりとした情緒に比べて、北斎は確かに日本人離れしている。

 北斎の描く風景の冷たさは、本来「地図」がもっている無味乾燥を出発点にしているようで、江戸の旅文化に根ざすガイドブックという性格をもつ。そして、この手引きをもって、浪間に富士山の見える風景を旅人は現実世界に追い求めるのである。それは現代の旅行者が旅行書のグラビアの光景を確かめるために旅を続ける姿に似ている。版画は地図から風景に姿をかえることによって、実用から観光へと大きく展開していったのである。

第613回 2023年6月10

4.西洋との出合いを象徴化した「船」

 16世紀後半、オランダ独立前のネーデルラントでは、アントワープを中心に版画文化の華が開いていた。版画はカトリックのプロパガンダとして、全世界に向けて船積みされた。当然それらの一部は日本にまで来たが、たいていは教化のための宗教画であった。

 今日ではその多くは消耗されてしまい、わずかに残されたものの中には、純真無垢な聖母マリアの顔も見られる。それは浮世絵の女が海を渡って背景を失ないただ女の顔としてのみ大切に保存されて今日にまで伝えられている姿に似ている。同様に西洋の風物もまた、宗教の小道具であることをやめて、独立した興味の対象となっていった。

 16世紀中頃のアントワープで、ブリューゲルは「船」のシリーズを銅版画で制作している。それは日本への交信の前触れともいえようが、雄々しいはつらつとした姿を見せている。ブリューゲルの版画が江戸時代の日本に入ってきたかどうかは知られていないが、宗教性をもたないものだけに、当然そのルー卜からみて入っていてもよさそうである。

 南蛮船以来、黒船に至るまで、日本は西洋との出合いを、まず船によって象徴化してきた。太平の眠りをさました「黒船」の衝撃が、西洋との出合いを語るシンボルとされるが、長崎版画には繰り返し和蘭陀船が描かれており、中には構図的にブリューゲルとそっくりのものもある。シーボルトの画家として知られる川原慶賀も、その風俗画表現からみて、オランダ絵画史の中に位置づけてみる方が、違和感がないように思える。

 歴史の皮肉は、18世紀のオランダにめぼしい画家らしい画家が見あたらないことであって、17世紀の革新的な風景・風俗・静物表現をただ力なく繰り返しているにすぎない。

 もし一世紀のずれがそこにあったなら、レンブラントの絵画さえ日本に入ってきていたのではと夢想したりする。同じくレンブラントの方も、ジャワの衣裳ではなくて、日本の衣裳を身にまとい、オリエンタルを志向する17世紀のゴッホとなっていたにちがいないだろう。

第614回 2023年6月11

5.出島いらいのゴッホびいき

 ゴッホが現在の日本人に極めてなじみ深いオランダ画家であるとするなら、すでに疎遠になったかに見えるオランダと日本の文化交流を支える最後の砦といえるのかもしれない。少なくとも明治以降、それ以前ほど熱心にオランダ語を学ぶ者はいなくなったし、現状では英・独・仏和辞典を買うほど簡単には、オランダ語の辞書も買えなくなった。たとえ入手できたとしても、江戸時代に編纂された蘭和辞典の方が、よほど詳しいということにもなりかねない。

 一方オランダの方も自国の言語に無頓着で、我々旅行者には積極的に英語で意志の疎通をはかろうとする。要するに現代の日本でオランダ語の必要に迫られるのは、古いオランダを研究する歴史学者か、意地で母国語でしか文章を書かないオランダの大家がいる学問分野に属する研究者ぐらいのものだろうか。

 そんな中で、ゴッホは確かに輝いている。ゴッホのオランダでの国民的英雄像は確立されているかに見えた。しかし、考えてみれば、ゴッホはオランダの薄暗い風土を嫌って、パリから南仏へと逃れた男である.果ては日本にまであこがれもした。にもかかわらず、オランダの田園風景を見たり、花市場を歩きながら、私はそれをゴッホのアルル風景やひまわりと、イメージの上で重ねてみたりする。

 そして時々、日本人はなぜゴッホが好きなのかと思うことがある。世界の絵画市場の目は日本経済に対してきびしいが、あれほどまでゴッホの値段をつり上げたのが日本人だとするならば、それにはそれだけの理由があったはずだ。ゴッホが日本を愛し、日本がゴッホに魅かれるのは、実はそれ以前から脈々と続いてきた出島以来の伝統の上に立ってのことではなかったかと、私には思えたりする。日本にはすぐれたゴッホの研究者がいるが、少なくとも日本人はゴッホに関しては、ヨーロッパ人と対等にものがいえるような気がするのだ。

第615回 2023年6月12

6.東西の相互理解

 ゴッホを介して、日本とオランダを結んでいるものとは、一体何なのだろう。それをさぐるには、時代を両者の出会いの時点までさかのぼる必要があるようだ。そして、その出会いから別れまでの数世紀に渡る交流の間に、完全に血が同化してしまった部分さえあったにちがいない。混血でさえ三代も続けば見分けがつかなくなるものだ。にもかかわらず、現在でもまだ、我々は西洋との間の深い溝を感じている。それは国際化が進めば進むほど、深刻になってゆくテーマでもある。

 明治後期に、西洋化の波にのまれてゆく日本を前に、東洋を対等に打ち出して、東西の二極化を進めた岡倉天心は、結局は西洋は東洋を理解することはないのだと嘆いた。天心をはじめ、明治初年に横浜に育った特殊な若者たちは、英語を道具として自由にあやつることで、いわばオランダを見限っていった。しかし、それ以来でも今ではすでに百年をすぎてしまった。

 天心の嘆きは、おそらくは東洋を高めようとする余り、東と西を対立するものとして見ようとした点にある。以来、西洋に目を向ける日本人は、日本を西洋との比較においてしか見えなくなってしまったといってもよい。「比較」の罪と落とし穴は、実は重大である。つまりは比較可能なものにしか目が向かないのであって、比較を絶するものの存在は、いつも捨て去られてしまったようである.西洋が見いだした日本もまた、西洋流の分類可能なもののみに限定されたのではなかったのか。

 西洋が浮世絵を見いだしたとすれば、それはすでに彼らの土壌に、同種の版画を見る目が育っていたからに他ならない。16世紀末のオランダで銅版画にあきたらず、時代に逆行するように木版画が復活してくる。それは色のブロックを重ねてゆくキアロスクロ木版画(Chiaroscuro woodcuts) と呼ばれるもので、いわば浮世絵版画のヨーロッパ版と言ってもよい。ヨーロッパ人が浮世絵にはじめて出合った時、すぐにはそれを思い起こさなかったとしても、意識の底で自分たちが生んだ伝統に触れてもいたのである。

第616回 2023年6月13

7.浮世絵版画に似た技法:ホルツィウスの木版画

 16世紀のネーデルラント版画史の中で、近年脚光を浴びてきた版画家に、ヘンドリック・ホルツィウスがいる。日本の美術館でもいくらかは収蔵されはじめたが、まだまだ一般には知られていない。版画はそれ自体が収蔵の対象になることが少ない限り、どうしても絵画の代用品としての点数かせぎというイメージが強く、展覧会の穴埋めの域を出ていない。

 オランダのものではレンブラントを除いては、ほとんど目が向かないようだ。レンブラントをはじめデューラーやゴヤといった大画家にして、かつ大版画家でもある場合なら、古版画が美術館に入るケースはあるのだが、プロパーの版画家が一人前に評価されることは少ない。

 現代版画の領域では、版画を独自の表現と見る意識は割合に高まってきたようだが、私達がここで問題にしているような16、17世紀の古いものについては、日本の美術館ではまだ悲惨な状態というほかない。ブランドものにいつも目がいってしまうのは、有名作家なら二流作品でもよしとする風潮に通じるものでもある。

 ホルツィウスに話を戻せば、彼の銅版画の技術は、16世紀最後の高度な完成の域に達している。世界を駆け抜けた版画と情報の時代の、幾分爛熟気味の中で、彼は一方で時代に逆らうように木版画を手がける。浮世絵版画の技法に似たキアロスクロ木版画のことである。もとはイタリアに起源をもつ手法とはいえ、彼がそこで人物だけでなく、風景をテーマにして、一連の作品を生んだことは注目に値する。

 風景に向かう目は、私たち日本人にとってもなじみのものであって、遥かかなたの理想郷を描いた中世の山水画が、やがて近世に至ると南画的な身辺描写に移行するように、ホルツィウスの目も、牧歌的なアルカディアの山岳風景から、やがてオランダの平坦な地平線へと目を転じ、そこに新しい美のありかを見つけ出すのである。

 それはオランダが独立し、自国に対し誇りをいだくプロセスに一致しており、長いイタリアかぶれののちに、やっとたどりついた結末だといってよい。それは多くのメルヘンと同じように幸せは意外と身近なものの中で見落とされていたのだという教訓さえ含んでいる。

第617回 2023年6月14

8.「地図」でたどる空想の旅

 オランダが自国の誇りに目覚めるのは、17世紀に入って、ホルツィウスが平坦な地平線の風景を1603年に素描にしたのを出発点とする.そんなものは今まで、山河の風景画に親しんだ者にとっては絵にならない光景であった。

 しかし、いったんそこに目が向くと、これが彼らの原風景になった。ゴッホにまでそれは引き継がれている。彼ははじめオランダの大地そのものを暗い農村の生活を描くことで象徴させたが、やがて伸び上がる糸杉やひまわりを描いて、平坦なオランダからの離脱をはかる。しかし、最後には再び南仏の平坦な麦畑を描いてオランダに回帰してしまった。その後モンドリアンも風景から始め、やがて生まれた抽象画は、まるで上空から見た都市の風景、いわば地図のようであった。

 自国の平坦な大地が絵画をへて最後にゆきつくのは、実は「地図」であって、これが風景画と同じくオランダで発達したのも由なきことではない。

 そしてその影響下、日本の洋画も地図から風景画への歩みの中で確立していった。ただ地図が必ずしも実用のためだけではなかったという点は重要である。風景画を見るように、地図は見て楽しむものでもあった。その意味ではパノラマ的に広がるオランダの地平線の風景は、地図と風景画との交換を直ちに可能にした。

 16・17世紀のオランダは「地図」の時代でもあったのだ。それは地図をたよりにして世界の海に向かってゆく行動の時代であり、同時に多くの情報が集められた地図の上でたどる空想の旅の時代でもあった。

 レンブラントは、そうした空想をアムステルダムにいて楽しんだ画家である。彼はそれまでの画家がしたように、イタリアに行って美術を学ぶという経歴を持たない。それは17世紀のアムステルダムが、その地にいて世界中の美術が集まる情報都市であったからだ。現代の東京も似た状況にはあるが、まだまだ欧米留学組が幅をきかせているようだ。現代のレンブラントはもう現われているのだろうか。

第618回 2023年6月15

9.誤解が生む外国の虚像

 オランダは地図をたよりに日本にやってきて、世界の知識と博物学の精神をそこに植えつけた.そして浮世絵と伊万里を本国に持ち帰り、ヨーロッパ中に広めた。しかし、それらははたして日本の実像だったのだろうか。

 有田の陶磁文化館に常陳されるヨーロッパから里帰りした伊万里の磁器を、いつも奇妙な面持ちでながめているのは、私だけではないはずだ。モノトーンの茶器に慣れた私達の目には、それは余りにもけばけばしく日本人離れしたもののように見える。ヨーロッパ向けにつくられたものであったのだろうが、彼らがそれを日本の実像と誤解したとしても、不思議はない。

 同時に、浮世絵の描く現世の快楽主義はこの日本の虚像を加速したにちがいない。フジヤマとゲイシャは、そうした浮世絵の世界から抜け出て現代に残る日本の象徴となった。ゴッホにとって日本は楽園であったが、もしゴーギャンがタヒチに渡ったように、彼が日本に来ていたならば、あるいはその幻滅が彼の自殺の原因になっていたかもしれない。ゴッホもまた地図の上で日本旅行を楽しんだのである。

 何千キロを隔てた文化の交流は、すべてが誤解の上に成り立っているようだ。しかし、誤解は一面の真実をも語っている。誤解は相手をそのように見たいというやさしいくわだてのことをいう。そもそもが日本の虚像は黄金の国(ジパング)として、マルコポーロが伝えた13世紀にさかのぼる。そして、その虚像を実現しようとして日本は、その後室町に金閣を建て、桃山を黄金で飾りもした。それらは多くの日本人にとっても虚像であったのだ。

 そして今日、「金」はカネと読み方を変えたが、同じようにマネーの国はジパングのままなのである。衛星放送の時代でさえ国際交流に誤解の果たす役割は大きい。以前五島列島でイルカの大量死があったとき、イギリスではイルカの大量虐殺と報道された。

 それもまた日本を野蛮な国と見たい彼らの願望という限りでは、真実でもあるのだろう。そんな時、事実の追究は言い訳でしかなく、私達のできることは、じっと静かに耐えること、もっと残酷な言い方をすればイギリスの海岸に大量のイルカが打ち上げられる日を待つことしかないとさえいえるかもしれない。

第619回 2023年6月16

10.渾然と流入した和漢洋文化

 けばけばしく野蛮な文化不毛の経済大国というレッテルは、ジパング以来理路整然とつづられてきたヨーロッパの論理である。それを覆すには、西洋が日本を見いだして以来かけてきた数世紀の時間の重みに匹敵するものが必要である。しかし、それを打ち出そうとして、東洋全体を呼びこんで日本文化の優秀さを語る時代では、もはやないようだ。

 昭和天皇の崩御ののち、古色蒼(そう)然とした天皇が神になる儀式は、世界に報道され、彼らの目に奇異に映ったが、同様な印象は私たち日本人にさえ少なからずあった。

 明治期の岡倉天心にとっては、和服を着て英語をしゃべることが彼一流のモダニズムであったが、今日多くの日本人は洋服を着て英語をしゃべれないままでいる。しかし「和魂洋才」という当時のスローガンが、どちらにふさわしいかというと、むしろ現代の私達の方であるのかもしれない。「ことだま」というように言語は単なる手段では決してないという意味からいえば、英語をしゃべれないことによって、かろうじて「和魂」は持続されてもいるのである。

 和漢洋の比較文化論は、東西のさまざまなちがいを見つけ出してきた。今でこそ東西という比較を用いて、日本に大きな影響を与えた中国とオランダを対極のように思うが、江戸の鎖国時代にもどれば、それらはともに西方からやってきた西の文化なのである。比較という方法すらもそこにはなく、渾然一体となって出島に流れこんでいたにちがいない。比較の目は細分化されるのみで、常に同化されることはない。それが分類というヨーロッパの学問の方法であり、限界でもある。

 しかし、文化というベールをはいでみれば、同じ空に同じ海、同じ自然の中にいる。「文化(カルチャー)」が本来農耕を意味する語である以上、自然に鍬(くわ)を入れるはずのものが、日本ではそれは文明開化=西洋化の短縮形としてしか機能してこない。比較は確かに東西の均衡を保つために有効な手段ではあったが、本来の文化交流は実は比較ではないような気がする。

 江戸時代の人々はオランダ渡りの眼鏡絵の単純な遠近法に驚いたが、今では遠近法なしに世界は見れなくなってしまった。東西の相克を嘆きながらも、血は数十年もたてば、すぐに同化してしまうのである。