リニューアルオープン記念特別展 Before/After

2023年03月18日~06月18日

広島市現代美術館


2023/04/25

 長期休館後のリニューアル展。広島という地のアイデンティティを現代アートを通して再確認しようとする。現代の美術なら何でもいいというわけではない。広島であるからには、平和というキーワードがメッセージに含まれていることが、期待される。

 ポスターにもなったイスラム系の女性作家の映像作品が、謎めいているが、際立っていた。ふたつの投射された映像が同時進行している。不可思議な世界が展開する。見比べながら頭は急回転するが、左右で同時にセリフを聞き分けようとすると、追いつかなくなる。何度か見ないと正確な理解は困難だろうが、一度だけの実感を重視して考えることも必要かもしれない。左右に写し出される映像が別個のものなのか、一つのものなのかさえわからない。ともに若い女性が登場するが、同一人物だ。たぶん作者本人だろう。

 左の画面は画学生の役のようだが、はじめての家を訪ねて、部屋を見せてもらって、写真を撮らせてもらえないかと聞いている。門前払いを食わされる場合もあるが、受け入れてくれる人もいる。見た夢の質問は必須のものらしく、何度か聞こえてきた。話の中に「黒い雨」というフレーズが出てくると、これは原爆のことなのだとわかるが、その後注意して聞いていたが明確ではない。対応してくれた男性がひとり荒野を歩いている。画面はハレーションを起こして風景に溶け込んでいくようにもみえる。遠景に広大な岩山のある原野である。女性は大地から立ち上がった驚異の光景と、静まり返った町とを結ぶ道を、車でゆききしているようだ。

 右の画面は夢の研究をしている女性のようで、どこかの閉鎖された研究機関を訪ねて、資料の閲覧を申し込んだ。白衣に着替えて多くのデスクが並んだ一席を割り当てられて、大判の肖像写真を取り出して机上に並べる。満席ですべては若い男性のようで、同じ白衣を着て、黙々としているが、何をしているかはわからない。

 白衣に恐怖を感じることがある。ここでは全員が同じように同一の行為を繰り返す恐怖と重ね合わされている。彫刻家が白衣を着て制作している姿に出会って恐怖したことがあった。メスを手にして、人体を切り刻む外科医に見えたからだろう。ここでは黙々と不可解な作業を続ける集団のパワーが、暗黙のうちに息苦しく迫ってくる。

 図書館のように見えるが、ちがうのはサイレンがなると、全員が席を立って、ゆっくりと出ていくことだ。何のためかの説明はない。女性はひとり残って、別の書庫のようなところに入り込んで、夢について書かれたファイル名をたどり、中世の写本を一冊取り出して、そのなかの1ページを破りさって、四つ折りにしてポケットにしまい込む。アラビア文字が読めるが、夢について書かれた稀覯本なのだろう。

 二度目のサイレンが鳴ると男たちは戻ってきてそれぞれの席に着き、作業の続きをはじめる。係員が女性の席にやってきて、別室に連れて行かれる。その姿を男たちは作業の手をとめて一瞥している。5人の審議官が一列に並んだ部屋が写されるので、先ほどの不正行為が問いただされるのだろうと思わせる。さらに温厚そうな上位の人物からの尋問も加わる。

 車に乗って去る光景がそれに続くと、左の画面に現れた岩山と同じ風景なのに気づくが、左の画面だったということは、記憶の奥に沈み込んで2本の映像は、そのとき一体化することになる。シンクロと呼んでもいいが、ステレオと言ってもいいだろう。人の目は二つあるのだから、二つの映像を一つのものとして、耳でのような体感は可能だろう。モノクロ映像はノスタルジーを誘うもので、過去と結びつけて解釈してしまう。両者に個別のタイトルはつけられていても、ひとつのものと 見ていいだろう。肖像写真が無数に並ぶ部屋が登場するが、それはこの映像の展示に先立って、前室に並べられているものと同一のものだ。写真なのだが映像と比較することで、オリジナリティが増幅されて見え出してくる。彼らは西洋人ではない。私たちのような東洋人でもない。笑っているわけでもないが、それぞれはみんな魅力的で、いい顔をしている。ここでのビフォー/アフターが写真/映像という展開だとみれば、失われた写真を引き立てるメーキングとして、空間的位置づけと時間的経緯を解説として映像に加えることで、写真は神話化が果たされたようだ。転倒したオリジナルとコピーの関係とみてもよい。

 荒野に立ち上がった岩山が一瞬、原爆のキノコ雲にみえるときがある。ハレーションを起こして人物が風景に溶け込むときだ。驚異の光景は光学機器の演出なのだが、私たちの想像力はそれをうわまわってゆく。目録によると、作者名はシリン・ネシャット、作品名はランド・オブ・ドリームズ(2019)とあった。

 ここでキーワードとして出てきた「夢」に対応するように、オノヨーコの「夢」と書かれた文字が目を引いた。それはパフォーマンスの残り香として記録に留まったものであるが、今ではそれがオリジナリティを発揮している。さらにオリジナルとコピーの関係を、もっと卑近な例で持ち出したのが、第一室に広がる田中功起の一連の作品群だった。作品名は「everything is everything」(2005-6)とある。

 ここには厚顔なまでの肩すかしがある。ふてぶてしくもあるが、信念に貫かれていて考えさせられるものだった。確かに日常見慣れたものをあらためて置き直されると、気づかされるものがある。それぞれはコピー物なのに、偶然の出会いが新たな美を発見している。偶然を装わせているのは作者の審美眼なのだが、その組み合わせを見つめ直すと、確かに美しい。カラフルで形も機能的で、人の身体の延長上にあって、確固とした停止と静寂を獲得している。加えてモニターが、要所要所に置かれていて、それぞれが動きとして機能する姿が、解説されている。

 全体を同一された展示室内の配置とみると、みごとなオーケストレーションに見え出してくる。もちろんこの響きは一回性のもので、会期が終わると消滅する。それぞれのパーツは倉庫に戻り、次の演奏まで待機することになる。楽器という形に落ち着いたすまし顔も、もとは音のするナベやヤカンやノコギリだっただろう。それらが改良されて今の形を得たのが音楽だとすれば、ここでも美術の源流がたどられていると言えるかもしれない。同時に音も聞こえてくる。


by Masaaki Kambara