第298回 2023年10月7日 

もだえ1944

 イングマール・ベルイマン脚本、アルフ・シェーベルイ監督作品、スウェーデン映画、原題はHets。英文タイトルはTorment。ベルイマン25歳での脚本である。はじまりは象徴的な場面からで、小学校とは思えない広々とした重厚な学舎内を子どもが逃げながら柱に隠れている。教師が追いかけてきて、最後は襟首をつかまれて、連れ戻されていく。同じ建物が高等教育の学舎に変わっている。主人公(ヤン)はラテン語の教授(カリギュラ)にいじめ抜かれている。校長は寛大で、厳しすぎるこの教授に注意を与えている。たばこ屋で教授と出くわすが、窓口の娘(ベルタ)と親しげに話しているのを不思議にみている。

 ひとけのない夜道で酔っ払った女が、危なかしそうに歩いているので、近づいて顔を見ると、たばこ屋の娘だった。介抱して娘のアパートにまで、送って行く。階段をのぼりつめた薄暗い屋根裏部屋のようなところだった。悪魔が来るのだとおびえて、学生にすがりついてくる。寝かしつけて、また来ると言い残して、その日は去った。

 主人公は娘のことが気になり、ひんぱんに訪れるようになる。ネコを飼っていて、それとも仲良くなっていく。ふたりの関係は深まるが、たえず何者かにおびえていて、アルコールが欠かせない状態になっていた。ふたりの寄り添う影を、もうひとつの影が監視するようにうごめいている。娘は恐怖する理由を隠していて、その相手がだれかを明かそうとはしない。夜中遅くまで引き止められ、娘の部屋で過ごし帰宅すると、まっくらな自室に父親が座って待っていた。何も言わずに息子の無事を見届けて部屋を出ていく。後ろめたい気持ちはあるが、理解のない親への反発もあった。

 卒業試験を前にして、娘との関係は深まっていく。成績はのびず、親は心配をしている。父とのいさかいから、かっとなって家を出てしまう。母親は厳しすぎる父親に反発するが、息子は母を振り切って行った。娘に寄り添うなかで、おびえている原因は、つきまとっていて離れようとはしない悪魔のような存在にあった。それがラテン語の教授だとわかると、主人公は敵意をあらわにして、娘を守ろうとする。悪魔はいつあらわれるかわからない。娘は教授を前にすると、恐怖のあまり、おびえるだけで、抵抗することもできなくなってしまう。教授のほうは娘とのつきあいを感じ取って、学生に冷ややかに迫っていく。

 しばらく距離を取っていたが、耐えられなくなって部屋を訪れてみると、娘は衰弱しきって、ベッドで死んでいた。そばに人の気配がして、見ると教授がおびえるようにしてうずくまっていた。教授が殺したのだと直感した主人公は、その場を去り、教授は警察に電話をする。そのときの供述によると、学生と娘とのふしだらな交際を心配して、娘の部屋を訪れると死んでいたというのだ。

 主人公は憤慨して、直接話を聞きたいと校長に訴えた。会うと教授につめより殴りつけるが、校長にいさめられた。検視の結果、娘の死は過度の飲酒による心臓発作と判断され、殺人とはみなされなかった。主人公は娘のおびえ続けた表情と、聞いていた恐怖の事実から、教授を許すことはできなかった。この事件への関わりから、自身は退学となったが、校長は彼の身の振り方を心配している。

 卒業式の日、他の仲間は全員卒業ができた。主人公は隠れて教授のようすをうかがっていた。教授はごく普通に卒業生に対して、握手をかわしていたが、主人公の友人は教授を罵倒して去った。家を出て彼女の部屋に日々を送っていたが、校長が訪ねてきて、説得のすえ、親の家に帰るよううながした。ここにいてはいけないとホテル代を手渡してもいた。教授もやってきて、自分は病気なのだと、弁明をするが、聞くこともなく、主人を亡くしたネコをだいて立ち去った。

 明るい外光に向かいながら、前向きな気分が表情に感じ取られて、映画は幕を閉じた。世間ずれをしていない純真な主人公と、狡猾なまでに思いやりがなく利己主義を貫く教授のぶつかりあいが見どころになっている。ことに教授のジキルとハイドのような二面的性格と、社会から隔絶した孤独が、みごとに描かれていたと思う。

第299回 2023年10月8 

インド行きの船1947

 イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題はSkepp till India land。船員(ヨハンネス)が7年ぶりに帰ってくるところからはじまる。夜の港町を歩いていて、女の名を呼ぶが、人ちがいだった。今度は船員が呼び止められると、そこにいたのは知り合いの年配の女性であり、久しぶりだと言って家に誘われた。娘もいて立派な船員姿を称賛して、昔話を懐かしんでいると、隣の部屋からうるさいとどなる女の声がした。間貸しをしているようで、その声に聞き覚えがあるだろうと、投げかけられる。男が会いたがって、先に呼び止めていた名の女性(サリー)だった。女は憔悴しきった姿で、主人公と対面することになる。淡々とした再会だったが、病的な女の態度は豹変し、男を追い出してしまう。男は落胆して海辺をさまよい、7年前の回想へとカメラは切り替わっていく。

 酒場女であったが父(アレクサンデル)の情婦だった。目を悪くして失明まで時間の問題となっていた父は、家族をすてて、この女と船出をするつもりをしていた。自室を飾っていた南国のさまざまな置物や装飾品をみせて、女を誘っている。父はサルベージ船の船長だったが、余命を知ると、酒場に入りびたりの日々を送っていた。女を自宅に連れてきて、残酷にも妻を前にして、この女と最後の航海に出るのだと打ち明けている。妻は夫のわがままだと、あきらめ顔で聞いている。失明を望みさえしているが、それによって自分のもとに戻ってくるはずだと、確信しているからだ。息子は父親の姿を見て、母を思って怒りをつのらせるが、一方ではじめて身近に見る娘に、惹かれてしまったようだった。

 息子は背中が曲がっていることで、極端に人目を気にしており、その身体的欠陥から女性とのつきあいも遠ざけていた。女に父親を愛しているのかと聞くと、女は否定した。女を誘って小舟で出かけると、素直に着いてきて、息子の背中を気にかけることもなく、自然な明るい表情を浮かべた。父には金で縛られているのだと判断して、ふたりは急速に接近していった。そんな姿を見た船員仲間は、一波乱起こりそうなのを危惧している。

 ふたりで戻ってきたときに父と出くわした。父が息子の頬を二度なぐりつけると、息子も父の頬を一度なぐりかえした。母親は不安げに見つめている。父にさからう息子の姿をはじめて知ることになった。4人の人物が無言のうちにぶつかり合っている。父は女の心変わりをみて、暴れはじめて部屋に閉じこもって、破壊を続けたあと、茫然としている。粗暴ではあるがメランコリーにとらわれていた。息子が潜水をしたときには、ワイヤーを切って殺そうとまでした。自暴自棄のすえ発作的に窓から飛び降りてしまう。一命を取り留めたようだったが、息子は女との愛を確認し、戻ってくることを約束して町を去っていった。

 再会後のふたりの会話から、父は一年前に死んでしまったようだ。女と暮らしていたことも予想できる。失明したはずの父の面倒をみていたのだろうか。母親について聞くが、消息不明とのこと、女は探しに行こうと持ちかけるが、男の出航は明日に迫っていた。生きる気力を失った女を、この日の当たらない部屋から、何とか脱出させなければならない。7年越しの約束をはたすために戻ってきたのだと、前途を悲観する女を説得した。願いが通じたのだろうか。大型外国船の乗組員として、立派に成長した男に守られながら、女は旅立っていった。北欧とは対極にあるインドの風土は、彼らの魂にとっての救いとなるはずのものだ。それはかつて父が誘った南国の地でもあった。そのとき見せていた異国へと誘う文物は、あのときの父の怒りが、きれいに破壊しつくしてしまっていた。

300回 2023年10月9 

危機1946

 イングマール・ベルイマン監督、28歳のデビュー作品。スウェーデン映画、原題はKris。舞台は地方の小さな町で、18年間、育ての母(インゲボルグ)と暮らしてきた娘(ネリー)が、生みの母(ジェニー)がやってくることで、心を乱し、都会に生活をするが、葛藤のすえ戻ってくるという話である。娘を中心にさまざまな思惑をもった人間模様が展開する。育ての母は医師である夫を亡くして、ほそぼそと自宅でピアノ教師をして、生計を立てている。あちこちから借金もしているが、生みの母からも借りている。ふたりの母の年齢はほとんど変わらない。こちらは若づくりをしており、都会に住み、美容院を経営していて、金まわりはいい。娘の喜びそうな誘いを、次々としかけて、娘は都会へのあこがれを加速させていく。

 いなかには娘に思いを寄せる昔なじみの男(ウルフ)がいた。好人物なのだがかなり年長であり、娘は頼りがいを感じているが、年寄り扱いをしている。パーティに出るというので、なけなしの金をはたいて娘のドレスを用意してやる。これに対抗するように恋敵(ジャック)があらわれる。甥と称しているのだが、義理の息子とも言っている。実のところは、叔母とは関係をもった情夫であり、軟弱な色男である。実の母であることは知らされずに、叔母ということになっていたが、機が熟して娘を引き取りにきたということだ。娘は叔母がプレゼントしたドレスをすでに着ていた。そちらの方が豪華で、気に入っているようだ。

 パーティの席は、昔なじみにエスコートされて会場入りをしたが、色男が誘いをかけてくる。ダンスの相手をしようと、ふたりが娘の前ではちあわせになるが、娘は色男のほうに手を差し出した。色男が若者たちを扇動して、ワルツからはじまったパーティを、ジャズへと導いた。楽しげな歌と踊りの光景が続いている。男は水辺まで誘い出して、口づけを迫るが、昔なじみがあらわれて、力づくで水上に投げ込まれる。二度も落ち込むが、このときのやり取りを映像がこっけいでおもしろく写し出している。娘は無理やり引っ張られながらも、それに従って帰っていった。叔母に都会行きを説得されるが、迷うのは育ての母への愛情のゆえだった。決断をしたのは、昔なじみの男がドアから顔を出したときだった。おせっかいな束縛から逃れられるという娘の気持ちが読み取れる。

 育ての母が都会に訪ねてくる。娘と強く抱擁をかわすのを、実母がうらやましげにみている。それでも、美容師として職を得ており、いなかに戻ろうという素ぶりを見せなかった。帰る道で声をかけてきたのは色男で、駅まで送っていく。親切に振る舞っているが、信用ならない男だと実感している。この男なりの人生観をもっていて、筋は通っているが、違和感は隠せないものだった。帰りの寝台列車のなかで、これまでの娘を育ててきた過去が、おさな子を抱きあげる光景から走馬灯のように、錯乱した夢のなかでよみがえっていた。

 色男はながらく都会を離れていたようで、娘を訪ねたとき、久しぶりの出会いでもあり、感情が高まって、熱い抱擁を交わしている。そこに叔母があらわれて、その姿を目撃して、憤りをあらわにする。叔母は自殺をほのめかす男の口説き文句を知っていて、先に男が語っていたセリフをそのまま再現している。男はふたりに別れをつげて部屋を出ていったが、銃声が2発聞こえると、叔母はまさかという顔を残して駆け出した。男は自殺をとげた。男は意固地に自殺をしてみせたとしか思えない。劇場の前で、頭に銃弾を浴びて横たわり、叔母は泣き崩れていた。娘は放心状態で歩いてゆく。

 昔なじみの男は、娘が都会に出た直後に、同じくいなかをあとにしたが、彼女との行き来もないまま、再び帰ってきていた。そして娘が帰ってくることになる。育ての母は温かく受け入れ、昔なじみの男との関係が、もう一度はじまって、静かないなか生活が再開した。「危機」は乗り越えられ、すべてははじまりに戻ったのだった。はじまりと同じいなか町の遠望(写真参照)がもう一度映し出され、映画は何の変化もない、時間のいとなみを伝えて終わった。世間知らずの愚かな娘の成長の物語とみるのがよいだろう。

第301回 2023年10月10 

われらの恋に雨が降る1946

 イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題はDet regnar på vår kärlek 。ベルイマンの描き出す主題は、人間関係の奥の奥を見せてくれて、どれをとっても重厚で、見ごたえがある。ここではゆきずりの男女が列車で出会い、愛を成就するまでの話。男(ダーヴィッド)は刑務所から出所して間もなく、女(マッギ)は男と出会う前に妊娠していた。夜行列車で知り合うが、次の朝まで宿に泊まることになる。たがいの所持金は少なかった。男のほうには荷物がなく、ホテルには泊めてくれないと、旅行用カバンをもった女に声をかけている。女のほうは嫌がるふうでもなく、同じ部屋に入ることになった。ふたりは簡単に結ばれることになるが、それぞれの過去がゆっくりと明らかにされていく。

 はじまりは後ろ姿の傘が、非常に美しい絵をつくっている。雨の降る停留所で、傘をさしながら大勢が待っている。バスがきて乗り込むが、ひとりだけ残った人物がいた。彼が物語の案内人で、物語中で何度か出てくる。最後は弁護人として登場して、無罪を勝ち取るのに貢献した。何者だろうと思うが、主人公は天使ではなかったのかと言っていた。

 列車の発車間際に切符を買おうとする女がいた。目的地までの手持ちがないらしく、一駅づつ距離を縮めて、やっと決まったが、小銭しか手もとには残らなかったことがわかる。男のほうは、女に目をつけていたようで、どこまで行くというあてはなかった。宿を出てからは、雨のなかを徒歩で進むが、列車にはねられかけて、女が足を捻挫する。少し前にあらわれた黒犬が、そこでも登場し、あぶなかしく立ち上がって、ひとり歩きをしてみせた。その後もずっとふたりに付き添うことになる。

 雨でびしょ濡れであったが、傘もなく、女は寒さに震えている。空き家になった小屋をみつけ、入り込んで、食料を探して戸棚をこじあけると猫の置物しかなかった。このとき持ち主があらわれ、盗みを疑われるが、反対にこの小屋を借りないかと持ちかけられた。ふたりは落ち着けることを喜んで、住み着くことを決意する。女の切符は目的地まで行っていないので、払い戻しができることに気づき、喜びの表情となるが、それほどまでに困窮していたということである。

 男の就職先も、トマト栽培の作業員に決まり、順調にいくかにみえた。男は前科があることを打ち明けたが、女は驚きのようすもなかった。女は舞台をめざして都会にやってきたが、その後メイドをしながらの生活だった。都会生活に挫折しての帰郷だとすると、帰り着くまでの旅費が、少し足りなかったということが、この男との出会いを象徴的に語るものとなる。

 仕事も落ち着いて、幸せな日々が続いていた頃に、家主が小屋を買わないかと言ってくる。好条件だったので、男は飛びつくが、契約書にサインを求められたとき、女が躊躇して保留となる。男がそろそろ結婚をと持ちかけたときにも、女は否定して、出会ったときに妊娠をしていたことを告白した。見知らぬ男との出来心だったようで、相手を特定できないと女は言っている。職場でスコップやポットの盗難騒ぎがあると、男は前歴から疑われることになる。

 女の妊娠を知ったとき、男は動揺するが、結婚をして、自分が引き受けようとしていたことが、そのそぶりから察せられる。結局は死産をしてしまうが、そのことでほっとしただろうと、その後の裁判で検察側は攻め、自分の子ではないと知りながら結婚をしようとしたのだと、男の寛容を弁護側は擁護することになる。

 買い取った小屋が、別の公共施設の建設計画の区域になっていて、公表済みだったのを、彼らは知らないでいた。役人がやってきて確認の署名を求める。購入の事情を話すが、それは私の仕事ではないと突っぱねて、自分の仕事はあなたからサインをもらうことだと言う。主人公は怒りのあまり役人を殴りつけ、ケガを負わせる。結婚届を役所に提出しようとしたときも、ふたりの前歴の処理をめぐって、煩雑な手続きを持ちかけられて、引き下がってしまっていた。

 法廷に呼び出されて、窃盗や暴行の容疑で裁判に立つことになる。検察官はふたりの不利になるような材料を集めて糾弾をはじめている。弁護側にはふたりがはじめてみる人物があらわれて、みごとな弁明をしはじめ、検察官に詰め寄った。ふたりに味方する証言も集められていた。最後に主人公は、暴行をはじめ謝罪を述べたあとで、自分たちはふたりの愛を成就することだけを望んでいるのだと訴えた

 無罪を勝ち得たのは、はじめナレーターとして登場し、二人を弁護した謎の人物のおかげである。小屋は撤去され運び去られていった。その光景を眺める心優しい人々の姿があった。ラストシーンでは、都会といなかに分岐する標識にやってきて、ふたりに傘を手渡して自転車で去っていった。ふたりは再出発をめざして「町へ」という標識の方向に進んでいった。負け犬が力を合わせて、もう一度挑戦しようとする姿だった。黒犬もまた同行していた。大きな傘はふたりをすっぽりと包むものだった。傘からはじまり、傘で終わる象徴性に注目しておこう。その間に傘もなくびしょ濡れになったふたりの姿が、対比をなしている。

第302回 2023年10月11 

闇の中の音楽 1948

 イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題はMusik i mörker。射撃訓練中に紛れ込んだ子犬を助けようとして撃たれてしまった若い兵士(ベンクト)の物語。一命を取り留めるが、盲目になってしまっていた。うなされるなかで恋人の名を呼んだが、付き添っていたのは妹だった。看護のため戻ってきていたようだ。恋人とは婚約をしていたのだろう、指輪を返して立ち去ってしまう。妹はその薄情な姿を憤慨している。

 青年にはピアノの才能があり、父親を亡くした娘(イングリッド)が、母を頼ってやってくる。息子に引き合わせ、葬式で演奏するオルガン奏者を必要としていたので、その代役をつとめることになる。娘は父とふたりきりだったようで、寂しい葬列だった。その後はメイドとして、青年の世話をすることになる。彼の家は上流階級に属し、娘は聡明だったが、貧しい家庭に育ち、あこがれを抱きながら主人公に接している。

 妹が去ったあと、自分の手足となってくれる娘に信頼感を寄せている。娘がミルクを買いに行くときにも、誘って外出させた。娘は向学心に燃え、本を読み聞かせることで心を癒す。点字のタイプライターも、横で見ているだけで、本人よりもはやくマスターしてしまっていた。心が触れあった夜、おやすみを言って互いの部屋に別れたあと、彼はベートーヴェンの「月光」をひいている。娘はそれを聞きながら、しあわせな眠りについていった。娘は肌を整えたり、石鹸の香りを気にしたりするようになると、これまでいた年長のメイドから、農民の子であることを、わきまえるようにさとされている。20年近く前のサイレント映画の頃、チャップリンが「街の灯」で描いたように、主人公は彼女の顔を知らないのである。青年から間接的に結婚の声が聞こえてきたとき、娘は去っていく。身を引いたというほうが適切か。進学をして学びたいという欲求もあった。

 主人公は自立をはかり、ピアノの上達をめざし、王立音楽院を受験するが失敗、一流のレストランでのピアニストとして採用される。ワルツからジャズまで、客の好みに合わせたウェイターの役割まで要求される。彼はレストランで、はじめの恋人の声を、一度聞いている。女のほうはピアニストの顔を見届けて、そそくさと連れの男と立ち去っていった。虚栄の場に見切りをつけて、そこを去って盲学校でピアノを指導することになると、十分な収入は得られなくなるが、生きがいを見つけることができた。盲学校での授業風景が写されている。

 ある夜、歩いていたときに、かつてのメイドの声を聞き分けた。彼女はふたりの男と連れ立っていた。学友たちだったが彼女を残して立ち去った。久しぶりの出会いに彼は昔と同じコートなのだと、肩に手をかけながら、彼女を自宅に導いていった。彼女は仲間といっしょに帰ることもできたはずだ。愛情が再熱するかに見えたが、彼女は身をひるがえして帰ってしまう。主人公は顔をおおい悲嘆にくれている。彼女が戻った自室には先ほどの男のひとりがいて、同棲しているのだとわかる。数学の勉強に余念がないようだったが、盲目の男との関係を知りたがっている。彼女のほうはかつてそこでメイドをしていたということを、知られたくはなかった。

 教師になるにはピアノ演奏は必須だった。娘はこれだけは上達をしなかった。学友と連れ立って主人公に習いにきたが、主人公が娘の手をとってレッスンをするのを、男は複雑な思いでみている。三角関係の火花が散っていた。レッスンを終えて、ふたりが連れ添って帰る姿を思い浮かべるのも、主人公には過酷だった。

 主人公が悲嘆にくれて寝つかれない夜、隣室で男の嗚咽が聞こえてきた。失明したばかりの知人で、妻が去ってしまうのではないかと恐れて嘆いている。慰めてやることで、主人公は自分の経験と重ね合わせている。その後、妻から連絡があり駅まで来るので着いてきてほしいと頼んでいる。心配には及ばず、妻は夫をみると、今までと変わらない愛情のこもった態度を示していた。男は喜んで、となりに知人がいることも忘れて、妻に導かれて立ち去っていった。それも知らず、主人公は握手をしようと、あいさつの手を差し伸べ続けていた。このあたりの演出はじつにうまい。

 ひとりで帰るが、道を間違えたようで、線路の側に出てしまい、よろめきながら歩いている。しあわせな知人の姿を思い浮かべながら、みじめさが心の動揺をもたらしたにちがいない。つまずいて倒れたところに列車がやってきた。停車をして運転士が駆けつけて、男が白い杖をついているのがわかると驚き、駅舎へと誘導していった。その頃、娘はダンスパーティの最中だった。出かける前に、着飾った姿を見せたくて、主人公を訪れていた。みえない衣装を感じ取りながら、複雑な思いをしていた。主人公の身に危険が及んだとき、娘は誰かが呼んでいるのを感じた。不吉な予感に導かれて、ダンスの相手を振り切って、主人公を探しに向かった。

 見つけたのは小さな橋の上で、主人公は水面をながめていた。娘に気づくと、たがいに込み上げる感情を抑えることができず抱き合った。この幻想的なシチュエーションは、10年後に制作されたヴィスコンティの「白夜」でのクライマックスの場面を思わせるものだ。恋敵が追ってきて、主人公に殴りかかる。盲人でない扱いを、はじめてされたと言って、彼は喜んでみせた。彼女への愛を相手に伝え、立ち向かっていた。敗北を感じたのか、男は去っていった。「白夜」では、敗北者の側に立って、描いているのが興味深い。この対比に巨匠が巨匠に立ち向かう意地を感じた。

 結婚を決意して、神父を訪ねた。娘のしあわせを、真っ先に考えると、もう少し学業を続ければ、教師になれる。それまで待つべきだと常識的な判断をくだしたが、ふたりの説得はそれを上まわっていた。神父は折れて、結婚式を引き受けた。主人公はほそぼそとした収入ではあるが、過失事故の補償によると思われる年金と財産がある。神父は教会のオルガン奏者として推薦してくれるにちがいない。娘は奨学金をもらいながら、何年かあとには教師になっているだろう。

 みえない運命の糸に導かれて、ふたりは愛を結実させた。ここまでにも長い道のりがあった。ラストシーンはふたりだけの旅行で、移りゆく車窓をながめながら、寄り添う後ろ姿には、未来を感じ取ろうとする目にはみえないまなざしがあった。もちろん視点を変えれば、ヴィスコンティとともに、振られた男がかわいそうだという、もうひとつの立場もある。

第303回 2023年10月12 

愛欲の港 1948

 イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題はHamnstad 。主人公(ヨスタ)は船員だったが、降り立った港町で出会った娘(ベリト)との愛が芽生える。娘の素性をめぐりいくつもの困難をかかえながら、それを克服するまでの物語。冒頭は娘が波止場で悲壮な顔をして歩み、身投げをするところからはじまり、見るものを驚かせる。直後に男が飛び込み娘は助けられる。それが船員にとっての、運命的な出会いとなった。その後、酒場でのダンスの相手として、この娘を発見し声をかけると、娘のほうも直感がはたらき、見えない糸に導かれるように、そのまま娘の部屋に入り込んだ。

 母親と同居していたが、その日は不在であると聞いていた。父達もいるが不実で、複雑な事情をかかえていた。一夜をともにして男が去った直後、母が帰ってきたときに、タバコの匂いが残っていたので、男を引き入れたのだと気づかれてしまった。これまでも品行は悪く、母親とのいさかいは絶えない。保護観察の係官の目もひかっている。町を歩けばさまざまな男が、名を呼んで声をかけてくる。関係をもった男は多く、問題を起こして施設に送られた経験をもっている。女は一夜限りの男と思ったが、そうではなかった。その後も約束通りあらわれて、喜劇映画をみて大声で笑いあう姿もあった。

 船員は休みの日には、読書で過ごすような人格の持ち主だった。ごくふつうの恋人関係を思い描いていた主人公は、大きくあてが狂ってしまう。もちろん身投げをするからには、それなりの理由をもつ娘であったはずだ。映画館からの帰りに娘の遊び仲間だった3人組に絡まれて、男は暴行まで受けてしまう。更正施設で知り合った女友だちが顔をみせたとき、主人公は学校時代の友だちかと聞いた。女がそう言えなくもないと答えていたが、娘は素性がわかることをおそれた。この女の妊娠中絶の騒動にも関わって、娘は警察からの尋問を受けることになる。中絶医のミスで女友だちは死亡してしまうが、その中絶医の住所を語ろうとはしない。このままだと3年間は刑務所送りになるとおどされて、やっと自白し、その名を明かした。

 非行のはじまりは夜遅くなって帰ってきたとき、家に入れてもらえなかった少女時代にさかのぼる。通りかかった若者が少女に声をかけ、誘うとついていってしまった。こわいもの知らずの延長上で、複数の男たちと関係をもつようになっていく。船員との出会いは、これまでの過去からの決別だったが、船員のほうは彼女の過去を知ることで、逃れられない深みへと陥ってしまったようだ。

 女は流れ作業をおこなう機械工として、シフト制の勤務についている。まともな職業だといえる。過去を抹消したい思いはあるが、狭い世界で犯してきた罪深いしがらみを捨てることができないでいる。はじめてやってきた腐れ縁のない船員は、救世主として目に映ったにちがいない。男は港湾労働者として働きはじめていた。陸にあがった船員には、もはや港港に女は必要ではなかった。この土地が船員にとってどんな場所なのか、彼の家族がどこにいるのかもわからないまま、ここが根をおろすべく約束された新天地である予感がしている。そのためには耕すべき足かせは、必須の条件だったはずだ。幸福を求めるには国外逃亡という選択肢もあったが、ここにとどまることが必要だった。男はまだ29歳、闘いを挑むに十分な年齢だった。

 娘が警察に連れ去られたあと、喪失感を紛らせるためだろう。娼館に入ったが、女を相手にすることなく、酔っ払って暴れては、外に放り出されていた。娘が刑務所行きを免れて戻ってきたとき、安堵の表情を浮かべた。娘ももはや男はここにはいないと思っていた。娘が警察でかたくなな沈黙をやぶり、自白するのもこの男への執着のためだったのだという気がしてくる。刑務所へと導かれて行きかけるが、立ち止まり身をひるがえして戻ってきて自白する一連の動作は、そのことを伝えようとするものだったと解釈できる。

第304回 2023年10月15 

歓喜に向かって1950

 イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題は Till Glädje、英語名はTo Joy。交響楽団に新しく仲間に加わった男女ふたりのヴァイオリン奏者の恋愛物語。現代から7年前の過去の出会いにさかのぼり、苦難の歩みをへて、現代の歓喜へと至るまでをつづっている。はじまりはストーブの爆発で、妻とふたりの子どもが巻き込まれ、妻が死んでしまうという事故からである。この悲しい出来事を克服するためには、これまでの試練に立ち向かってきた、男女の濃密な関係を思い起こすことが必要になってくる。

 男は自分の才能を信じて、上昇志向を続けるが、女は楽団の一員として、楽しく日々を送ることを第一に考えている。ふたりは一夏をともに過ごしたという過去をもっているが、女には他のボーイフレンドも多い。男は金がなく、女から借りたとき、誕生会に誘われる。男は社交性が乏しく、だれがくるのかと聞いている。お祝いは安くていいと言われたが、何を買っていいのかわからないまま、借りた金のなかから、奮発して高いぬいぐるみを買っていた。大勢の集まりだったが、飲みすぎて彼女の家に泊まり込んでしまう。それをきっかけにして、ふたりは関係を深めていく。

 楽団の指揮者を先生と呼んで尊敬している。指導は厳しいが、ふたりは目をかけられている。結婚式の立ち合いを頼んでいたが、高齢なので忘れていて、全体練習をやめようとはしない。結婚式を遅らせてくれとさえ言っている。結婚は無事に終えることができたが、その後も先生からは多くの恩恵を受けることになる。ソリストが急死してしまって、男が代役に抜擢される。妻は喜んで夫のデビューに期待をかける。メンデルスゾーンの曲であったが大失敗をしてしまう。演奏途中で指揮者が声をかけて、中断し調弦するという失態だった。落ち込んだ夫を妻はなぐさめている。

 妻は妊娠すると、あっさりと演奏活動はやめたようで、家事と育児に専念することになる。子どもが生まれたとき、夫は練習中だった。電話がかかってきて、耳打ちをされ、楽団から抜け出して電話機に向かう。喜びの表情を浮かべて、練習に戻る。口伝えで指揮者にまで伝えられる。先生はアイコンタクトで祝福を伝えている。その間、演奏が中断されることはなく、せりふもひとこともなかった。休みの日には先生が来て、庭で寝そべって子どもをあやしている。

 ある日、全体練習をしていると、ひとりの女が入ってきて、客席で聞きはじめた。男はにがい顔をしている。練習が中断したとき駆け寄って、なぜこんなところに来たのだと叱責している。彼女は男の愛人だったのだ。やがてこのことが妻にさとられると、妻は子どもを連れて実家に帰ると言い出した。旅費をくれというと、夫はそんな金はないという。愛人に使う金はあるのにと、妻は言い返す。お前にはもっと多くの男がいたと、女の過去をあげつらう。子どもには聞かせたくない会話だった。旅費は先生から借りるという夫のことばで、その場はおさまった。

 離れて暮らすことで、ふたりは近づくことになる。愛人の醜い素顔に接して、妻のもとに手紙を書いて、許しをこう。妻も離れてみて、知るところがあった。手紙のやりとりが続き、夫は妻を迎えに行く。いなかの駅に降り立つと、妻は待っていた。夫は手にしていたトランクを下に置いて、ふたりは抱き合っていた。

 楽団の練習場面が写されている。少年が入ってきて、客席に座って聞き入っている。ヴァイオリンを弾きながら、少年に向かって微笑みを浮かべている。事故で妻を亡くし、生き残ったひとり息子だということがわかる。父は突出することなく、安定感をもって、楽団の一員として、輪に溶け込んでいた。ベートーヴェンの合唱つきが、歓喜の歌を高らかに響かせている。歓喜は苦難を乗り越えてこそ、はじめて、もたらされるものだということを、ベートーヴェンが苦難のすえ、最後に書き上げた交響曲が伝えようとしている。

第305回 2023年10月17 

不良少女モニカ1953

 イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題はSommaren med Monika、直訳すると「モニカとの夏」。あまり品行の良くない娘(モニカ)が、まじめそうな青年(ハリー)に話しかけている。二人は未成年、男のほうが少し年上である。タバコの火を借りるのがきっかけだった。話し込み映画を見に行く約束ができて、娘は酒場を出た。まわりの大人たちが、残された青年の顔をみながら、うらやましげに春が来たなといっている。映画館では娘は涙を流したが、男は大あくびをしていた。その後、一夏の経験が恋を盛り上げたが、秋から冬の訪れとともに、その関係は醒めはじめ、やがて崩壊へと至った。

 娘とつきあいはじめて、男の勤務態度は悪くなり、遅刻も増えだし、やがてやめてしまう。母を亡くし父と二人暮らしだったが、娘とだきあっているときに、急に父が帰宅すると、あわてて身なりを整えた。目が悪いので大丈夫、見えていないと息子は言う。父親は娘にぎこちないあいさつをして、場を譲った。娘の家は子だくさんで、下の弟妹たちがうるさく、家族を毛嫌いしている。

 ふたりは家を出て父親のモーターボートに逃げ込んで、住み着いてしまう。小さいが寝泊まりできるスペースがあった。ひとつの寝袋に入って、仲良く寝ている。男はそこから勤務に通っていたが辞めてしまい、手持ちの金で食糧を買い込んで船出をした。小島にたどり着いて二人だけの夏の日々が続いた。何からも束縛されることはなく、自由で幸せそうに見えたが、長続きするものではない。食糧も尽きると、キノコばかりを採って食っていた。女は耐えられなくなって、単独で民家からの盗みを実行する。つかまってしまうが、警察に通報される隙をみて、ローストビーフのかたまりを奪って、ボートに戻ってきた。臆病な男は何もしないで待っていた。女はひとりで肉にかぶりついている。

 妊娠をしていることを告げた女には、生き抜くための生命力があった。男はこんな生活に見切りをつけて、陸に戻って、働かなければと思いはじめている。その後、社会に復帰して、結婚をし子どもも生まれるが、娘は育児には関心がない。夜泣きをするわが子を、男があやしている。女の快楽主義は、男に満たされた衣食住を要求している。夫が稼ぎに出て、しばらく家を留守にしたとき、娘は昔の男だったようだが、家に入れて情事にふけっていた。夫はそれを目にすると、目をそむけるように部屋を離れた。付き合い始めた頃、昔の男がふたりをみつけて、青年を打ちのめしたことがあった。

 肉感的な女の魅力にひかれた弱みが、さらけだされる。女は妊娠までさせられたのだから、当然だという態度で、贅沢を要求する。女は家を去り、子どもは男が抱きかかえ、その世話は男の母親がおこなうことになる。男は女との楽しかった日々を思い出している。まるで死者を弔うような述懐だった。抱きかかえたわが子は幸福な日々のあかしにみえる。

 悪人とはいえないまでも、自由を主張して、欲望のまま奔放に生きる、子どものような姿をみせることで、人間の条件について考えさせようとしている。決して美人ではないが、存在感のある魅力的な女性だった。タバコをふかす少女のスチール写真は、その後も非行少女の代名詞となった。たぶん男は、待ち続けることはあっても、恨むことはない。娘の言動を、肯定も否定もせずに、見えるがままに映し出すことで、説教くささを回避して、ドキュメンタリーという映画の特質を際立たせることに、成功しているように思った。

第306回 2023年10月18 

愛のレッスン1954

 イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題はEn Lektion I Karlek。軽い調子のラブコメディ。婦人科の医師(ダヴィッド)と、その妻(マリア)がたがいに浮気をかさねながら、最後にはもとの鞘に戻るという話。夫には誘惑は多い。患者とは距離を置いているが、ときとして誘いを持ちかけられると、それに乗っていく。浮気相手とヨットに乗ってアバンチュールを楽しんでいたとき、モーターボートで通り過ぎた男から冷やかされる。女は平気な顔で自分の夫だと答えている。密会のスリルとトキメキはそこで終わった。

 妻との結婚のいきさつは、親友からの略奪愛だった。結婚式がはじまるのに現れない新婦を主人公が探しに行くと、部屋で泣いていた。そしてどうしても結婚は嫌だというのだ。なぜかと聞くと、はじめてあったときから、あなたが好きだったのだと告白した。主人公もまた好きだったといって、ふたりは抱きあった。ドタキャンののち、戻ると親友はにこにこと祝福しながら、殴りかかった。

 友はコペンハーゲンに住む彫刻家だった。腕っぷしは太く粗暴で、酒にも女にも強かった。夫は浮気を繰り返すが、家族思いな一面もある。妻と子どもはいなかに暮らし、夫は町で開業をしていた。ティーンエイジャーの娘がいて、家出をしてきたのを、父親らしく相談にのっている。聞くと母親が浮気をしていて、大人は嫌いだという。父親に愛人がいるのも知っている。母親の相手を聞くと、コペンハーゲンの彫刻家で、顔も合わせていて、みんなで食事もしているとのことだった。

 コペンハーゲンに向かう列車に、主人公はあわてて飛び乗った。診察室で患者からの誘惑を中断しての、急な旅立ちだった。何か思惑があるのが、急ぎの運転を頼んだ男との会話からわかる。車中でひとり旅の美人に出くわす。6人のコンパートメントには男女がひとりづついたが、ことわりを言って割り込んですわった。女がタバコを吸いに出たときに、同室の男と顔を見合わせて賭けをする。男がキスをしてみせるといったが失敗し、主人公が勝った。男は苦い顔をしながら、隣の車室に移り、女とふたりになる。

 会話を聞いていると、慣れ慣れしいものに変わり、彼らは夫婦だったのだと知ることになる。初対面のように見せかけていたので、私たちもだまされてしまった。妻は賭けをしていたことも感づいていて、負けた男に見えるように、通路に誘い出して夫にキスをした。男は負けてまた支払おうとしたが、家族にみやげものでも買うようにと言って、柔らかくさとして、医師は受け取らなかった。

 女は彫刻家に会いに行くところだった。夫と出くわしたことを不思議がっている。主人公は引き止めようと弱気で接するが、妻は強気で離婚を主張する。先ほどのキスは賭けに勝つためだけのもので、愛のしるしではなかった。愛と嫉妬が行き来する。夫は仕事で来ていたはずなのに、妻のデートに誘われてノコノコとついていった。彫刻家はかつての結婚相手を取り戻そうとしていた。酒場でなじみの女に友人を誘惑するように持ちかける。この仕返しにみごと主人公は引っかかって、酔っ払った勢いでその女に迫り、キスをしている。見ていた妻は猛然と女に飛びかかっていった。

 別れてしまえば喜劇とはならない。危機のたびごとに幸せだった日々の回想が挿入され、行ったり来たりするのが、どうしようもない愚かな人間の喜劇として、見るものを納得させる。主人公の患者思いのまじめそうな人格が、一変してプレイボーイとなる変わり身も、喜劇に華を添えるものだった。

第307回 2023年10月19 

夏の夜は三たび微笑む1955

 イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題はSommarnattens leende、「夏の夜のほほえみ」。若い娘(アン)を妻にした弁護士(フレデリック)が、昔の愛人(デジレ)と結ばれるまでの物語。それぞれが年齢相応の、身分相応のおさまるところにおさまるという調和ある安定した世界へと帰結する。調和が乱れたのは、弁護士が親子ほどの年齢差のある娘と結婚したことによる。先妻との間には息子(ヘンリック)がいて、神学校に通う青年で、優秀であるが、父のような男としての魅力はなく、同年齢の後妻からは子ども扱いをされ、メイド(ペトラ)からもちょっかいを出されている。父は息子の成長を願い、それを温かい目で見守っている。もちろん若い妻と息子がふたりでいるのを嫉妬するのも忘れてはいない。息子も妻が無邪気に父親に接するのを嫉妬の目で見ている。

 弁護士には年齢相応の愛人がいて、舞台女優をしている。新妻をめとってからも、友人としての付き合いは続いている。夢に登場して名を呼んだのを妻に聞かれてしまったことがあった。妻といっしょに観劇に行ったときに、この女優の名であることを知られる。結婚をして2年になるが、夫婦というよりも父娘の関係に近く、若妻は夫を愛してはいるが、まだきむすめのままでいた。おさな妻が求めてくるまで、手を出さないと決めていたのだった。

 女優には今は別の愛人がいて、妻帯者の軍人だった。彼は二人の女の間を行き来している。弁護士が女優の家を訪れたとき、小さな息子がいて、弁護士と同じ名前をつけているのを知り驚く。知らせなかったが弁護士の子で、未婚の母として黙ったまま育ててきたようだった。女優の身にはそのほうがふさわしかったのかもしれない。弁護士が若い娘と結婚してしまったあとで、生まれてきたということなのだろう。軍人とは女優の部屋ではちあわせをしたのが、初対面となった。弁護士は軍人のパジャマを着ていたので勘ちがいをした。サイズもぴったりだった。

 女優の母親は財産家で大邸宅にひとりで住んでいた。娘の頼みを聞いて、弁護士の一家と軍人夫妻を招いて宴席を用意した。二組はメイドをともなって集まってくる。女優と軍人の妻とが、もうしあわせてたくらみを実行する。軍人の妻は29歳、弁護士の新妻とは旧知の間柄だったようだ。夏の夜は微笑んだ。まずは息子が飲みすぎて暴走し本音を語る。弁護士の妻が、息子の愛を受け入れて、自身の愛にも気づいた。まるで魔法にかかったように、ふたりは手を取り合ってこの家を去った。それを目撃していた弁護士に、今度は軍人の妻が近づいて言い寄る。ふたりが離れになった小屋に入って行ったのを、女優が軍人に知らせる。人一倍嫉妬心の強い軍人は妻が奪われるのをいきどおって、小屋に乗り込む。

 小屋では女は追い出されて、男二人が決闘をはじめる。これまで軍人は決闘歴を誇り、家でも射撃の訓練を欠かせないが、弁護士にはそんな経験はない。そこでやりはじめたのがロシアンルーレットだった。一発だけ弾をこめて、拳銃を回し、銃口がさした方から、引き金を引きはじめた。軍人、弁護士の順で続き、弁護士が2回目に引いたとき銃撃音が響き、外にいた二人の女が驚く。ふたりの女の画策は、筋書きを外れてしまったようにみえた。

 軍人が出てきて笑っている。女優は血相を変えている。弾は空砲でススが入っていた。女優は小屋に入ってススだらけの愛人を抱きかかえていた。軍人夫婦はもとのサヤに戻り、弁護士も子どもまで生み育てた、もとの愛人のもとに帰って、めでたしめでたしで喜劇の幕は降りた。加えて両家のメイド同士も仲よく結ばれることになったようだ。四組のカップルではあったが、三組が結婚することになれば、夏の夜は三たび微笑んだということになるのだろう。悲劇を生み出すのは嫉妬だが、ここでめでたしめでたしの喜劇を演出したのも、また嫉妬心だったようだ。

第308回 2023年10月20 

第七の封印1957

 イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題はDet Sjunde inseglet 。「ヨハネの黙示録」に記述された終末論を背景にして、十字軍を終えて帰宅する騎士(アントニウス)が、死神とチェスを戦っている。傷ついた騎士の前に、突然あらわれたのは、黒い衣服着て、真っ白な顔をした男だった。勝てば死を免れることができるが、負ければ死が待ち構えている。

 次の場面では、騎士とそれに同行する道化と修道士の風格をあわせもつ従者(ヨンス)が映し出され、馬上でのふたりの姿があったので、死神に勝利したのかと思った。その後、行く道の先々で出会った人々との、世の終わりをめぐる問答によって見えてくる救済の道を、手さぐりで探し求めていく経過が描き出されていく。最後まで同行したのは、鍛冶屋の夫婦、従者が道すがら見つけた娘、騎士の帰りを待っていた妻を含めて3組のカップル、6人だった。死神はその後も登場して、チェスの続きを持ちかけている。騎士は形勢が不利であるのを感じて、袖口をぶつけて、駒を飛ばしてバラバラにしてみたが、死神は覚えていて、もとの位置に戻してしまった。

 喜劇役者の家族がいて、善良な人々だったが、妻と一歳の子をかかえて、想いを巡らせている。夢想家で夢みることは多い。聖母マリアがよちよち歩きをする裸のキリストの歩行練習をしている姿をみて、妻に話すが、信じてはもらえない。騎士に助けられて、行動をともにしていたが、死神とチェスをする姿を目撃して、一行から離脱する。嵐の中を通り過ぎて、一夜明けると穏やかな世界が広がっていた。騎士は彼らが逃れるのが見えていたが、死神に悟られないようにして、逃してやっていた。チェスは敗北したようだった。死神に導かれて、一列になって踊り歩く一行の、計七人の姿が役者の目には見えていた。死の舞踏なのかもしれないが、浮かれて楽しそうな姿にも思えた。

 一行は魔女の烙印を押されて火あぶりにされる少女に遭遇するが、助けることができなかった。ペスト患者が近づいて水を欲しがったときも、与えようとする娘を制して、もはや何をしても無駄だとあきらめてしまった。死神に魅入られて何もするすべのない無力な人間を描写することで、救いのない神の不在が語られる。しかし神はいないが死神は確かに登場していたし、それは問答無用の無慈悲な恐怖ではなく、明確な人格をもった目にみえる存在であったという点が興味深い。 

 騎士と同じ年頃の風貌をもつ姿は、不気味ではあるが、恐ろしいものではない。死神に対しては対処が可能だということであり、ふたりが向かい合って、チェスをする姿は対等なものにみえる。海辺での北欧独特の幻想風景が、その対決を効果的に盛り上げている。神の不在は一歳のよちよち歩きの子どもの描写を通して、希望へとつなげられる。それは夢想した幼児キリストであり、生き延びることのできた役者一家にとっては、わが子の姿でもあった。

 生命の誕生は救世主の訪れを意味するものだ。一瞬映し出されただけだったが、旅役者が目にした、幼児キリストを前に押し出しながら歩かせる聖母マリアの姿は印象的だった。遠望にみえるこの幻影は、そのまま小高い丘で起こる7人の踊る姿に置き換えられる。ベルイマンにときおり出てくる原風景である。フェリーニの歓喜のパレードと対比をなす葬列のイメージである。死は三たび微笑んだ。3組のカップルが死神に導かれる姿を、4組目のひとりが目撃するのは、とむらう者の目のようにみえる。重い使命感をもつ深刻な騎士に対して、キョトンとした喜劇役者の顔立ちがいい。それは幼児キリストを育てるヨゼフの風格なのかもしれない。

第309回 2023年10月21 

野いちご 1957

 イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題はSmultronstället。78歳になる医学博士(イサク)が、学位取得から50年になる祝いを受けに卒業校に出かける道中での物語。飛行機での手はずをしていたが、急に車を運転して行くといいだす。身の回りの世話をしていた老メイドも同行の予定だったが、取りやめてしまった。入れ替わって、しばらく前から居ついていた息子の嫁(マリアンヌ)が同乗することになった。息子(エヴァルド)も父と同じく医者になっていた。

 主人公は頑固で、妻を亡くしてから、ひとりで孤独を楽しんでいる。息子の嫁は夫婦仲が悪化して家を出て、なぜか義理の父の家に身を寄せていた。車中での会話を聞いていると、嫁は遠慮なくものを言う。タバコを吸おうとするが、嫌がられ、とがめられている。父の身勝手な性格をよく思っていないのがわかるが、それは自分の夫にも受け継がれたものである。妊娠をしているのだが、夫は子どもをほしがってはいない。父親の姿をみていて、植え付けられた脅迫観念だった。

 母親は96歳でまだ生きている。道すがら途中にあって立ち寄っていくことになる。高齢のためか、ながらく会わないからか、同伴の女性を死んでしまった妻とまちがっている。嫁のあいさつが遅れると怒りはじめた。子どもの頃の記憶がよみがえってくる。野いちごが実る庭に座り込むと、若いころの家族の姿が幻影となってあらわれるが、本人は老人のままである。苦い経験があった。婚約者に弟が言い寄って奪われてしまったのだ。婚約者は主人公がまじめなのを知っているが、野いちごをつんでいるとき、弟の積極的な遊び上手な手にかかって、唇を奪われてしまった。それを老人姿の本人が盗み見をしている。

 妄想は昨夜の夢でもあらわれた。住み慣れた町だが、はじめての通りを歩いている。通りにはひとけはない。白昼だが、街路の時計をみると文字盤だけで、針は消えている。後ろ姿の男がいて、顔をのぞきこむと、グシャっと変形しており、倒れて溶けてしまった。馬車がやってきて、電柱に引っかかって、車輪がはずれて主人公にぶつかりそうになる。棺おけが転がり落ちて、手が飛び出している。蓋をあけると自分に似た男が、手をつかんではなさない。そこで目が醒めた。不吉なイメージだが、忘れられない光景が、脳裏に焼きついている。孤独な老人の死への恐怖心が浮き彫りにされているようだ。

 白昼夢は北欧にふさわしい背景である。妻の浮気現場もまた、この老人は見ていた。すべては本人の冷ややかな性格に起因するもので、婚約者や妻の不貞に対しても、冷静に見つめるだけで、感情をたかぶらせることはない。社会的には尊敬されている。はじめて開業した町で、車の給油をしたとき、医師を覚えていた家族から、親がお世話になったことを感謝され、ガソリン代を受け取ろうとしなかった。社会の貢献や尊敬とは関係なく、人間の孤独な姿がさらけ出されてゆく。この老人の姿は、同じく老医師の散歩する光景からはじまる是枝裕和作「歩いても歩いても」に引き継がれるものだ。

 道中で出会った三人組の若者がいた。女ひとりに男がふたりだったが、授章式まで同乗して別れる。まったくちがう世界に生きる人種だったが、老博士に尊敬の念をいだいていた。もう一組、ぶつかりかけて横転した車があった。夫婦げんかの最中で運転をあやまったのだ。このふたりも乗せることになり、7人のさわがしい旅となった。車中でもけんかが続くので、運転を代わっていた義理の娘が、感情をそこねた。若者たちも聞いていて、見苦しいのでここで降りてくれといって降ろしてしまった。ふたりはトボトボと歩いていく。

 妊娠を打ち明けて相談をもちかけられたとき、適切なアドバイスをすることはできなかった。夫と別れることになっても、生むつもりだという覚悟を聞いている。車のなかだったが、このときタバコをすってもかまわないと言うのが、精一杯の対応だった。老母を訪ねたとき、自分は10人子どもを生んだといって、母は誇っていた。遺品だとして取り出した懐中時計を、開けてみると文字盤だけで針がなかった。時間のない白昼夢の不安がよみがえる。

 帰宅後、一連のできごとをふりかえりながら、何十年も同居している老メイドに問いかける。そろそろ敬称で呼び合うのは、やめにしないかと。メイドは軽く否定して、主人の部屋は、明けたままにしておくのでいつでも声をかけてくれと言って立ち去った。眠りにつく主人公は幸せそうな表情を浮かべながら、思い出していたのは、弟の嫁となったかつてのフィアンセに導かれて、父母のいる場所をさがしあてて見た光景だった。若者たちは舟遊びに出かけたが、そこには釣り糸をたれる父と、そのかたわらで読書する母の姿があった。ある種の人間にはそれはものたりない。情熱的ではないが、おだやかな日常を、老教授の多くは語らない等身大の名演技が、みごとに言い尽くしていた。

第310回 2023年10月22 

処女の泉1960

  イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題は Jungfrukällan。中世キリスト教世界での信仰の話。殺された娘の復讐をはたした父親が、神の沈黙に問いかけ、自分の罪に赦しを乞うている。ひとり娘はわがまま放題に育っていた。同じ年ごろの娘が下女として仕えているが、誰が父親かはわからない子どもを宿していて、身重な腹をかかえて仕事をこなしていた。神への祈りは欠かせない。ときにそれは呪いを求めての場合もあった。パンに挟み込んだカエルに呪いをかけてもいた。

 一家は敬虔なキリスト教徒だった。食事の前の祈り欠かせない。娘が朝のミサを朝寝坊をしてずる休みしてしまったのを、父親は母親に甘いからだと不平を言っている。教会にロウソクをとどけることで、遅れての教会行きとなり、下女をともなって馬で出かける。着飾った衣装を身につけて、父親にあいさつをすると、怠け者を怒るでもなく、可愛さがこみ上げてきて、抱きかかえて送り出した。甘いのは父のほうだった。娘のほうもそのことはよく心得ている。母親はそれを嫉妬の目でみている。下女はそれ以上の憎しみをいだいている。

 途中で顔見知りに出くわすと、陽気な姿をみせている。森の入り口にある小屋で、下女が引き返そうといいはじめた。森に危険を感じ取ったからだろうか。娘は大丈夫だといって、ひとりで馬を進めた。下女は小屋の番人と時間を過ごしていたが、番人が迫ってきて身の危険を感じ、森に向かって逃げていった。娘は途中で行き合わせた三人兄弟から声をかけられて、無防備なまま着いていった。弟は幼い少年だったが、娘が持参したサンドイッチを食べると、兄二人が娘に欲望を感じ、暴行を加え、はては殺してしまう。少年は罪意識を感じていたが、何もできず呆然と見ているだけだった。高価そうな衣服ははぎ取られ、持ち去られた。

 下女も追いついていて、一部始終を目撃していた。石を握りしめていたが、投げることはなかった。娘が犯されて自分のように妊娠すればいいと思ってもいた。まさか殺されるとは思わなかった。三兄弟は逃げ去り、たどり着いた先は娘の家だった。一夜の宿を求め、主人も心やすくそれに応じた。食事のとき、弟が嘔吐をはじめた。遺体に近づいたときの記憶がよみがえったのだろう。とむらいの気持ちから、わずかだが土をかぶせて現場から逃げ去り、兄たちの跡を追っていった。疲れているのだと寝かしつけたが、夜中になって彼の叫び声が聞こえた。女主人が見に行くと、兄たちから殴られた傷跡がみえた。あるいは犯した罪に赦しを請う、悪夢にうなされての叫びだったかもしれない。

 兄が女の衣装を取り出して、妹のものだが、とてもよい生地で、少し汚れているが、買わないかと持ちかけてきた。ひと目で娘のものだとわかったが、主人と相談するといって持ち帰った。父親は血のついた衣服を、娘のものだと確認して、復讐を誓う。剣を取り出して、泊めていた小屋に向かおうとすると、下女が戻っていて身を隠していた。私のせいで殺されてしまったので、3人は悪くはなく、悪魔に手を貸しただけだという。パンに挟み込んだカエルのせいだったのかもしれない。主人はいきさつを知り、決意を固める。下女に入浴の準備をするよう命じている。木を一本、根こそぎ引き抜いて、枝を落として、裸になって湯につかり、小枝で身体中をたたきつけている。

 剣を取って小屋に乗り込む。三人は深い眠りについている。残された娘の衣服を確認し、夜のあけるのを待っている。兄二人を殺したあと、抵抗もしない少年までも殺害した。妻はかけよって、少年の遺体をかかえこんでいた。主人は神に向かって問いかける。なぜ何もしてくれなかったのかと。自分の復讐についてもとどめてくれなかったことを、訴えかけた。そして許しを乞うて、約束したのは、娘が横たわった場所に石づくりの教会を建てるという誓いだった。

 翌日、下女を先頭に娘の遺体を探しあてた。横たわった遺体にはわずかに土がかけられていた。母親が泣き崩れている。父親が抱きあげると、遺体のあった場所から泉がわきはじめた。沈黙を守っていた神が、やっと語りはじめたようにみえた。奇蹟を前にして、異教徒の下女が水をすくって顔をぬぐう。母親も娘の顔を清めている。大地は死者と交感して泣きはじめたのである。その清らかな涙は、罪を贖うことになるだろうか。父は天を仰いで慟哭し、訴えかけている。やがて信仰はこの泉に教会を建てることになるはずだ。

第311回 2023年10月23 

悪魔の眼 1960

 イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題はDjävulens öga、英語名はThe Devil's Eye。地獄の位置を開設するナレーションから映画はなじまる。地獄から送られた悪魔が、地上の女性を誘惑しようとする顛末記である。男の名はドンファン、悪名高き色男であるが、地獄に堕ちている。成功すれば300年早く地獄を去ることができると持ちかけられた。従者(ペドロ)を連れてふたりで旅立つ。牧師の家族のいる館に、旅人として泊まることになるが、牧師の妻と、牧師の娘(ブリット・マリー)がターゲットになる。娘には愛する男がいたが、謎めいたまなざしを浮かべたドンファンが近づいてくる。

 地獄と地上とは、古い井戸によって結ばれている。現代人の姿に変身したふたりが、通りかかった車のエンストに手を貸してやることから、同乗して、食事に誘われた。車に乗っていたのは牧師で、妻と娘の話をしている。娘は二十歳で結婚前の身だという。うってつけの登場にふたりは目を輝かせている。牧師は戸棚に隠したワインを取り出してもてなしている。

 出発は地獄を取り仕切るサタンの目に、物もらいができたことから、それを直すために地上に出かけて結婚前の処女を探して、それを誘惑することが必要となる。悪魔の物もらいは処女が原因だというのだ。サタンはドンファンならこれを成功させるだろうと思っての抜擢だった。牧師の娘は婚約者がいるが、結婚までに50人とキスをするのだと言っている。これなら簡単に落とせると、ドンファンが目をつけて誘惑にかかる。言葉巧みに話しかける術は、芸術的で聞くものをうっとりとさせる力をもっている。

 従者のほうも久しぶりに羽目がはずせると大喜びで、牧師の妻をターゲットにしている。彼女は病弱で夫との関係は疎遠だが、愛に裏打ちをされた信頼感を築いていた。それを壊そうとして肉体的な誘惑だけではなく、自分が地獄に戻る身であり、この世で最後の望みをかなえさせてほしいと、妻に訴えてその気にさせようとしている。愛を得ようとして自分の正体まであかしてしまったことで、悪魔の怒りを買う。地獄に戻るとサタンはこんな間抜けな連中を派遣したのは誰だと憤るが、これはサタン自身が二人のアドヴァイザーを無視して、出したアイディアだった。

 ふたりの旅人を加えて夕食の席に、娘の婚約者は、呼び出されて仕事のなかを戻ってきた。目に見えない悪魔が二人の仲を裂こうとしている。娘は連絡などしていないと言っていて、いさかいになり彼は中途で出ていってしまう。電話は悪魔が仕掛けた罠だったのだ。娘の心の動揺につけ込んで、ドンファンが娘に近づいていく。ふたりは成功するかにみえたが、土壇場で心変わりをして、女たちはもとの男のもとへと帰ってしまった。手助けに送られた悪魔の手先も、黒猫に変身したりしていたが、牧師の手によって戸棚に閉じ込められ、パワーは封印されていた。

 目的は達せず、失敗のうちに芝居は終わった。物語はナレーターに導かれての三幕ものの舞台仕立てになっていた。ただし、娘はドンファンからの官能的刺激のおかげで、情欲が加速して婚約者と結ばれてしまった。このことでサタンの目的は達せられ、物もらいはなおってしまう。娘は臆面もなくあなた以外にはキスもしたことがないと言っている。ブラックユーモアに満ちた人間喜劇だったが、悪魔にとっては悲劇だった。とはいえサタンの病いを癒やす力も備えている限りでは、人間の愚かさも、捨てたものではないということだ。嘘は悲劇を喜劇に変える潤滑油だと、シェイクスピアなら言うだろう。清らかな身で嫁ぐというのが、美徳ではなくなった時代には、このこと自体がブラックジョークになってしまうのである。キリスト教世界では、ザ・ヴァージンといえば、聖母マリアのことだった。悪魔の眼というのは、悪魔のもつ眼力のことではなくて、悪魔のわずらう眼病のことだったというのが、全体を通してのオチである。

第312回 2023年10月24 

鏡の中にある如く1961

  イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題はSåsom i en spegel 、英語ではThrough a Glass Darkly。海辺で戯れる四つの影があった。泳いで濡れた体を震わせている。姉夫婦と弟、そして父親だった。母親は死んでいていない。父(ダビッド)は落ち着いているが、ときおり苦悩の表情が浮かぶ。義理の息子と心配げに娘のことを話している。娘(カーリン)は一見すると、ごくふつうに見えるが、重い精神疾患をかかえていた。母親も同じ病気で命を落としていた。娘の夫(マッティン)は医師、父親は小説家だった。父親は仕事に忙しく、小島の海辺にある別荘での夏のひとときも、急な予定が入って、すぐに異国へと旅立とうとしている。次はユーゴスラビアだと言っていた。子どもたちは不満そうにしている。

 庭での食事のとき、おみやげといって三人にスイスで買ったプレゼントを渡したが、父はそれぞれに手渡したあと、急に暗い顔になった。タバコを取ってくるといって、その場を去って部屋に戻り、顔をおおって泣き崩れていた。私たちは何か深い事情があるのだと感じ取るが、真相についてはわからない。みやげものは簡単なもので、帰りの空港で買ったのだと、子どもたちは言い合っていた。気を取り直して庭に戻ると、子どもたちは気づかうようにおみやげを喜んでみせた。そして自分たちのほうも、父に見せるものがあるといって、寸劇を披露した。父に向けての皮肉をこめた内容に、父は喜びながらも、影のある表情を浮かべている。家族を避けているようにもみえるが、娘の病気が治らないことを、感じ取っている。

 娘はおびえている。神があらわれるのを待ち受けているようで、何者かと対話をしているが、家族にはそれは見えない。ドアが開かれて娘がひとりで語りかけている映像は、衝撃的で目に焼きつくものだ。弟(ミーヌス)はまだティーンエイジャーだったが、性的な興味を姉がからかいながら、悪ふざけをしている。父の部屋で日記を盗み読みをして、自分の病気が治らないことを知る。

 父は娘の朽ちていく魂を観察して、小説にしようとしていることも知った。夫に問いただすと否定して、回復の可能性のあることを伝え、夫はのちに父へそのことを強く詰問することになる。父はこのときスイスで自殺をしようとして生き残ってしまったことを告白している。スイス行きは現実からの逃避だった。生き残ることで生まれ変わり、これまで忘れていたものを見つけ出すことができたようだ。

 夫は娘を愛している。娘は父を愛している。夫との寝室を抜け出して父親の部屋にやってきた。まだ夜明けには間があった。父は執筆中で、娘を優しく抱きかかえ、ベットに寝かしつけた。娘は何者かにおびえていた。それは巨大なクモのようで、彼女は神だというのだが、待ちわびつつも恐怖しているといったほうがよい。父と夫がボートで出かけたあと、娘に変調が出はじめた。弟を誘惑して肉体関係を結んでしまったのである。雨のなか姉の姿が見当たらず、廃船に閉じこもっている姿を探しあてたときのことだ。

 誰の目にも異変を感じさせる言動は、彼女を病院に送ろうと、ヘリコプターが降り立ったときに爆発する。窓から一瞬ヘリコプターが写しだされる。爆音をとどろかせながら降臨する驚異は、現代の神の姿だったのか、娘は大声でわめきながら、狂気の姿を見せている。父が押さえつけて、夫が注射をすることでやっとおさまった。治療はしないというのを、父が説き伏せて、納得したようだった。娘はずっと父に助けを求め続けていたのだとわかる。息子も父から距離を置いて避けていたが、父親が声をかけると、姉とのいきさつを語り、はじめての父との会話が成り立った。触れ合いを感じ取った一瞬は、父親と向き合った息子の表情にあらわれていた。

第313回 2023年10月25 

冬の光 1962

  イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題はNattvardsgästerna。「聖体拝領者」を意味するキリスト教用語で、英語名はWinter Light。日本語名もそれにしたがっている。教会の牧師のもとに集まる信者との人間関係をめぐり、愛と神の存在を問う。神の問題については、キリスト教徒でもなければ関心はないが、愛についてはわかりやすい。牧師(トーマス)を愛する女教師(マッタ)がいるが、牧師はどうしても好きにはなれない。かたくなに拒絶するのは、5年前に死んだ妻を、今もなお愛しているからだ。

 日曜日の礼拝からスタートする。信者はまばらで、牧師はキリストの血と肉の話のあと、5人いたひとりひとりに聖餅と聖杯を口に含ませている。聖体拝領の具体的な儀式をそこまで時間をかけて写し出す必要があるのかと思うが、ワインとパンがキリストの血と肉にあたるという、キリスト教の象徴主義をみせることで、西洋社会に根づいた文化的伝統に触れさせる意図が感じ取れる。最後の場面もセレモニーで締めくくられるが、そこで参列するのは、牧師を愛する女教師がひとりだけである。牧師は気にすることなく、淡々といつものようにことばを紡いでいる。

 はじまりのミサでは、連れられてきた幼児がひとりいて、退屈そうにしており、うとうとと居眠りをして、最後には長椅子に横になってしまっていた。ミサのあと信者が個別的に牧師を頼って、相談にやってくる。牧師は風邪気味で、体調はよくない。一組の夫婦が顔を出し、夫(ヨナス)のようすがおかしいので、話を聞いてくれないかと、妻(カリン)が依頼をする。中国の核実験のことを話題にしているので、政治的な悩みなのかとも思える。妻は自分がいないほうがいいだろうと判断し、一旦帰宅して、30分後に夫だけが戻ってくると約束をして立ち去った。

 教会のスタッフには鐘撞きオルガン奏者マネージャーがいたが、夕刻のセレモニーの打ち合わせをすませて帰ったあと、礼拝に加わっていた女教師がやってきて、牧師の体調を気遣っている。彼女は婚期を過ぎていて、牧師はまとわりつかれるのを迷惑がっている。あけすけに愛を告白するのも気にくわない。周囲から変な目で見られることも気にしているが、妻の死後、2年間は彼女に引きずられながら、いっしょにいたようだ。博愛をかかげる職業柄、むげに断れないことがあったのだろう。

 メガネをかけた近視であることや、身体中にできた湿疹に苦しむ姿も耐えられなかったようだ。自分は亡くなった妻を愛していて、あなたがその代わりにはならない。愛することはできないと、はっきりと断言するに至る。女教師から長い手紙をもらっていたが、切々とした内容を、読みとばして投げ出し、財布に忍ばせてあった亡き妻の写真を取り出してみていた。ことばとイメージの力くらべのようにみえて、興味深い箇所である。カトリックとプロテスタントの対立でいえば、ことばの力を信じるのはプロテスタンティズムなのだが、ここではそれの敗北が語られている。

 30分の約束だったが、ずいぶんと遅れてやってきた男を、牧師は優しく受け入れる。何も言わない男を前に、牧師は自身の死んだ妻のことや自身の信仰のことを一方的にしゃべったが、心を開き自殺願望を取り除くことはできなかった。黙ったまま聞いていたが、男は無言のまま立ち去ってしまった。牧師は自身の無力と神の沈黙を嘆くが、このとき冬の光が一瞬、世界を輝かせたようにみえた。

 その先には女教師の姿があった。牧師が心配で戻ってきたのだった。磔刑像の前で倒れ込んだ牧師を抱きかかえていると、先に礼拝にきていた老女が顔を出し、猟銃で頭を撃ち抜いて自殺をした男の報告をした。こんな時間まで女教師とふたりでいるのを、不審げな目で見ている。牧師はふたりの女を無視するように、すぐに自殺現場に車を走らせた。

 女教師も牧師が心配で、遅れて現場にたどり着いた。そこでも牧師は近づいてくる女を遠ざけている。遺体を警察に引き渡し、待っていた女を車で学校まで送った。薬を飲んでいくように牧師を誘い、教室で待ってもらっていると、犬を連れた生徒が忘れものを取りにやってきていた。牧師は教会にも顔を出すようにと伝えることから、10歳の少年にとって魅力的なものではなかったことがわかる。教師は校内に住み込んで、叔母と同居しているようだ。献身的な女の愛を、踏みにじる強い拒絶反応を示したのは、女が結婚をほのめかし、プロポーズをしたときだった。

 このあと自殺者の妻に報告する道中にも、女教師は同行し、その足で教会でのセレモニーにも参列した。叔母には6時には帰るといいおいて出てきていた。誰も来ないなか、ひとりだけ信者席に座り、牧師を見つめている。オルガン奏者は準備をするために教会にきて、これなら中止かと思ったとき、女教師を見つけた。あなたは信者の数には入らないといいながら、彼女に近づき、牧師をあきらめるよううながし、死んだ妻が浮気女であったことを明かしていた。

 愛を語るはずの牧師が一番、愛についてわかっていなかったようである。神についても疑っていて、確信をもてない態度が、神の沈黙と不在を嘆くことで、信者を減らしていったのだと察せられる。彼の名がトーマスであるのは、彼自身がキリストを信じることのできなかったキリストの弟子のひとり、悲しい「不信のトマス」であったことを示しているのだろう。鐘撞きが素朴な疑問を牧師に投げかけるのも、含蓄がある。死を前にしたキリストの苦悩は、弟子たちに信じてもらえなかったからだというのである。

 加えていえばマッタ=マルタという女教師の名は、キリストの訪れをかいがいしくもてなした女性のことで、キリストに甘えるだけの妹マリアと対比をなす人物像である。「マルタとマリアの物語」では、キリストが愛したのはもちろん妹のマリアのほうであった。ここではそれを裏返し、マグダラのマリアへの痛烈な批判とも受け止められる。牧師はマリアにしか目は向かなかったのである。これは愛のふたつの形であって、二者択一ではない。

 自殺をした漁師の名をヨナスにしているのも、キリスト教徒にはすぐ、「ヨナと大きな魚」の話を連想するからだろう。神を遠ざけた男が魚に飲み込まれ、信仰を取り戻すことで蘇生するという教訓譚だが、ここでは絶望することで自殺するというひねりが加えられていることも、読み取らねばならないのだと思う。

第314回 2023年10月27 

沈黙1963

 イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題はTystnaden。意思の疎通をはたせないまま平行線をたどっていく姉妹の物語。ラストシーンで妹の息子が、叔母からもらったメモ書きを読んでいる真剣なまなざしが印象に残る。行を追っているのだが、書かれている内容はみえない。「この国のことばで」という出だしと、「精神」という現地語のひとことだけが手がかりである。

 ことばが問題になっていることは明瞭だ。冒頭は列車で異国へと旅立つ場面である。夜行列車は寝苦しく、姉(エスター)は病いに伏せっている。妹(アンナ)と息子(ヨハン)は暑苦しく汗が滲み出している。最初は三人の関係はわからない。子どもがママと呼びかけるセリフと、妹が姉に語りかける呼称から察せられる。列車ではながらく沈黙が続く。駅に降りたって、ホテルで姉の体調が戻るまでとどまるようだ。子どもは学齢ではあるが、落ち着き先で小学校に通うことにしているらしい。どこに行くかは母が外出中の、子どもと叔母との途切れがちの会話から、いくらかは察せられるがあいまいなままだ。

 この駅がどこかもわからない。車掌が駅名を言っていたが聞き取れない。子どもが母親にこの町の名前を聞いて、それに答えていたが、私にははじめて聞く地名だった。調べればすぐにわかるだろうが、それを知ることはさして重要ではない。ことばが通じないことと、車窓から何台もの戦車の影が通り過ぎるのを子どもが目撃していたのが、手がかりとなる。列車には軍人も乗り込んでいた。少年が指先で空中戦をまねている。

 異国ではことばは通じない。3人のしゃべるのはスウェーデン語のはずだ。ホテルでは、支配人かボーイなのかはわからないが、きっちりとした身なりの客室担当の年配がいて、姉はフランス語が話せるか、英語はどうかと問いかけるが、通じなかった。身振り手振りで、酒が切れたことを伝えている。姉はのべつまくなしに酒とタバコを手にしている。ボーイは姉の病いを気遣いながら、かいがいしくもてなしていた。

 姉はインテリの執筆者で翻訳の仕事をこなしている。つまりことばを頼りにコミュニケーションをはたそうとするのだが、なぜか虚しいのは身体のほてりをどうすることもできないことだ。酒におぼれて心も体も壊していた。妹は姉を嫌っているが、見捨てることができないでいる。肉感的で出歩いては男あさりをしている。それもまたコミュニケーションであるという限りでは、姉と大差はない。酒におぼれるように肉欲に溺れている。

 ホテルに姉と息子を置いたまま外出して、酒場のウェイター行きずりの関係ができて、ドレスを乱して帰ってきた。その後、ホテル内の別の部屋でも行為が引き継がれたので、子どもの目にもとまり、姉もようすをうかがいにきた。姉の前でこれ見よがしに男と抱きあっている。ここで男とはことばが通じていないという点が重要だ。

 このゆきずりの関係は、不道徳にみえるが、姉とボーイとの関係と大差ないものともいえる。つまり姉と妹との対立を、割り切ってみれば精神と肉体との葛藤と考えられる。そしてそれはどちらが優位だというわけではない。姉が妹と言い争っているあいだ、相手の男は無表情なままだった。非情な姿にみえるが、実は何をしゃべっているか、ことばがわからなかったのである。ボーイと同じ立場にあったということだ。

 ホテル内を遊び場にするしかない子どもは走り回り、おもちゃのピストルを手にいたずらをしている。ホテルに掛かっているルーベンスの豊満な裸婦を、母親をみるように、ながめ続けている。こびとの劇団員の部屋に入ったり、ボーイの部屋をのぞいたりした。ボーイの大切にしている写真をもちだしたまま、廊下のじゅうたんの下に隠している。ひとりで階段での影遊びをし、だれもいない廊下では小便までしていた。この間、少年にことばはなく、黙々と推移する。こうした身体によるコミュニケーションは母に見習っているが、伯母からの教えも受け止めている。少なくともことばの重要性を理解して、読書の習慣が身についている。姉はこの甥を愛しているが、身体に触れようとすると、母に対するようには甘えてはこない。

 深夜の街路を戦車が一台、通り過ぎるのを子どもが窓から見ている。ひとけのない通りとホテルの廊下が共鳴しあって、ベルイマン独特の幻覚を引き起こしている。静まり返ったホテルの廊下をこびとの集団が姉に会釈をしながら通り過ぎるシーンは、いつまでも印象に残るものだ。のちのフランス映画やアメリカ映画に影響を及ぼす幻想的イメージである。衝撃的なのは幻覚ばかりではない。性描写も生々しく、妹がこびとの劇団を見ているとき、隣の席で男女がセックスにふけっている。それに振幅するように妹とゆきずりの男との愛欲が展開する。

 神の沈黙、三部作の最後の作品だが、ここでは神ということばすら出てこない。出てきたとしても、オーマイゴッドというような慣用句だけである。これまで神の存在を疑い、否定してきたが、ここに至って神は無視され、問題にもされなくなったのである。妹は姉を残して、子どもを連れて、列車に乗り込んで先を急いだ。子どもは叔母の書いたメモのことばを熱心に読んでいる。母はそれを問題にすることもなく、不快な暑さを嫌って窓際に寄るが、窓に映るのは寒々とした光景だった。

 姉妹が折り合うことはない。希望は子どもに望みを託すことになるが、実はふたりが共鳴しあうものが、もうひとつあった。姉がバッハを聴きながら、妹もその宗教音楽に共感していた。妹にとってははじめてのバッハだった。この天才の芸術が、沈黙を破り神に何かを語らせる力を、もつものだったかもしれない。それは肉であり霊でもあるという意味で、神の存在に等しいものではなかったか。バッハに帰結させるのは、あまりにも月並みかもしれないが、バッハをもちだすことで、誰もが納得してしまうことになる。サウンド・オブ・サイレンスもなくはないが、たいていの音楽は沈黙をやぶるものではある。

第315回 2023年10月28 

この女たちのすべてを語らないために 1964

  イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題はFör att inte tala om alla dessa kvinnor 。英語名はAll These Women 。巨匠といわれた著名なチェロ奏者の死をめぐるドタバタ喜劇。女性には目がなく、これまでに関係した女は多い。葬儀の席で死者を前に次々と女性があらわれて、生前の姿と遺体とを見比べて、勝手な思いを述べている。最後に未亡人(アデライーデ)が登場して締めくくる。

 音楽評論家(コルネリウス)が、この音楽家の半生記を書こうとしていて、4日前からのエピソードが映し出されていく。評論家は邸宅を訪れたとき、運転手を巨匠とまちがえている。妻に対しても愛人と勘違いして話している。つまり巨匠のことを、よく知らないのだ。この広い邸宅内を歩き回り、情報を得ようとしていく。池に入り込んで、白鳥に化けて、女たちの会話に聞き耳を立てている。それぞれに思惑は異なっている。

 最後までこのチェリストは顔を見せないのがおもしろい。どんな人物だったのかが気にかかるが、うわさ話でつくりあげられていく英雄伝説にも等しく、評論家は5人いる愛人たちに近づいていくが、それぞれに言うことが異なっている。愛人たちは古風な名前で呼ばれているが、本名ではなく巨匠が勝手に決めた愛称だった。マダムタッソーという高齢の婦人もいる。なかには巨匠がどんな人かも知らないというものまでいる。評伝中でよく書いてもらおうと、評論家に色仕掛けで迫ってくる娘(みつばち嬢)は、その後、男のほうが夢中になって、娘を追いかけはじめる。誘惑には弱く、若いメイド(イゾルデ)にも気を奪われていた。

 巨匠の姿は写されないが、音楽は聞こえていて、チェロの響きが聞こえると、みんながうっとりとしている。いつ登場するかと見ていたが、うしろ姿と顔がマイクに隠れた状態で出てきた。遠く離れてベランダから手を振ってもいたが、顔は確認できない。それらの姿をみると、彼女たちは、私たちと同じく、何も見えてはいなかったのではないかという気がしてくる。神の存在にも似て、聞こえるが見えないのである。

 この女たちはすべて同じ邸宅にいて、仲のいい間柄の者もいた。嫉妬深い愛人はピストルを持ち歩いている。評論家が自分に火をつけた娘とベッドにいるところを撃たれ、殺されかけていた。愛人たちは曜日ごとに相手をするのが割り振られているようだ。平日なら5人が必要だという計算になる。評論家は本人に直接会って話を聞きたいのだが、会えないままだ。女装すれば会えるといわれて、そのようにして部屋に入り込んだ。巨匠が愛人のひとりと戯れている姿を認めたが、椅子の背にさえぎられて、顔は見えない。小さな椅子なのでふたりがいるようにはみえないが、女が離れたときに、確かに別の手が一本あった。無視されて女装をした評論家は憤慨していた。

 後ろ姿でチェロを演奏している男が出てきたとき、やっと姿をみせたのだと思ったら、振り返る顔がみえて運転手であった。その後、同じ後ろ姿が出てくるが、そのときは女たちを前に演奏しているので、巨匠本人だった。運転手はもとは天才的なチェロ奏者だったが、コンクールで巨匠に敗れて、酒に溺れ自暴自棄になっていた。殺意をもって巨匠を訪ねていくと、逆にさとされて運転手として雇われた。見返りに妻を奪われ、殺意はさらに高まっていた。パトロンとして若い頃の巨匠を育てた老女がいて、若い愛人でもあったことを運転手に話している。評論家がカーテンに隠れて、その話を聞いていて、伝記の絶好の材料となった。

 巨匠が亡くなったのは、うちわのコンサートでのことだった。評論家が作曲した作品の初演でもあり、ラジオの生放送も準備されていた。アナウンサーは無名の作曲家と紹介しているが、作品名は作品番号14と名乗っていた。伴奏のピアノが終わっても、チェロが始まらず、ばたっと倒れて、死んでしまった。巨匠を狙って銃を隠し持っている愛人がいた。夫人も不自然な表情を浮かべている。運転手も明らかに不審に見える。心臓発作でも起こしたのか、あるいは殺人なのか。ミステリー仕立てではあるが、真相はわからない。

 前作の「沈黙」でバッハの音楽を登場させたのに対応させて、ここで不在のチェリストを出してきたのは、意図的だったようだ。ベルイマンにとって最初のカラー作品だったが、白黒映画で試みてきた、この監督独特の重厚な深みは影を潜めている。肩の張らない息ぬきの様相を呈してはいるが、邸宅の内外をおおいつくす花火の場面などには、ベルイマン独自の幻想的イメージが展開する。チェリストの没後は、愛人だけではなく、信奉者でもあった女たちは、喪の開けないうちに、新しく登場してきた別の青年奏者を取り囲んでいた。この皮肉なエンディングもベルイマンらしいものだ。

第316回 2023年10月30 

仮面/ペルソナ 1966

  イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題はPersona 。奇妙な映画である。舞台の最中、突然しゃべれなくなった女優(エリザベート)とその担当看護師(アルマ)との息詰まる緊張関係を描いた心理劇。病院での治療は効果がなく、ドクターは自身の別荘を提供して、看護師とのふたりだけの転地療養がはじまっていく。

 輝かしいスターであった女優は、一瞬にしてことばを失ってしまった。当然ここでもセリフはない。穏やかにほほえみ、くちびるが動き、何かをしゃべりだしそうにみえる。いくつかのことばを発したようにみえたが、それは看護師がその心を読んで、そのように聞こえたのかもしれない。彼女はひとりでしゃべり続けている。

 看護師は29歳の既婚者。患者との溝をなくそうとして、自己紹介だけでなく、自身の隠していた性の秘密まで、赤裸々にしゃべっていた。女優は冷ややかに聞いていて、その一部始終を手紙に書いて、身辺報告でもあるかのように送ろうとした。看護師は手紙を預かって、車で投函に出かけるが、封がしていなかった。盗み読みをして、おもしろがっているようにさえ読め、いたたまれなくなり、裏切られた思いがした。少年との火遊びをしたあと、婚約者とも交わったが、それが最高の快感だったと告白していた。このことから妊娠していることがわかり、中絶せざるを得ないことになったというのである。まちろん一か八か生んでしまうという選択肢もあったはずだ。

 一方、女優には子どもがいた。結婚相手とのことなので喜ばしきことなのだが、彼女は妊娠を憎み、流産することを願い、それがかなわないなら死産にならないかと思い続けていた。子どもを遠ざけ、親類に預けて映画や舞台を続けるが、子どもは母を求めてすがりついてくるのだという。その強迫観念が想像世界に開花する。

 映画のはじまりは、実験映像のように理解できない難渋なイメージにみえる。映写機がカタカタとフィルムをまわしはじめるが、その羅列は脈絡なく映し出されているわけではない。裸体の少年がはじめに登場し、ラストシーンでも再び出てくるので、誰なのだろうと気になる。3年前の「沈黙」で登場した少年が成長して、母への思慕があふれているようにみえる。ぼんやりとした大写しの女性像に手を差し伸べているが、映し出されたスクリーンをなぞるだけで、触れることはできない。

 女優の子どもが母を求める姿とみるのが最も妥当なのだろう。キリストの磔刑を思わせる手のひらに打ち込まれた釘は、生々しいイメージの連鎖として、関連づけられる。その痛みは子を捨てた母のものだろうし、それは女優だけではなく、看護師にもあてはまるものだ。そこから、看護師が女優と重なって見え出してくる。はじまりではふたりは対極にあった。それは医者と患者の関係でありながら、逆転するとスターとファンの関係にもなる。さらに身振りと口振りとして、役割分担していたものが、やがて二者が一つの人格になりきってしまう。

 女優の夫が訪ねてくるシーンがある。このときに看護師は女優になりきっている。ふつうに見ていると、この場面はつじつまがあわず、混乱するが、ふたりを入れ替えて見直すと理解が可能となる。男は看護師に向かって女優の名を呼ぶ。看護師は自分ではないと否定するが、いつのまにか女優自身になりきっていて、男とあつい抱擁を交わしていた。女優はそばにいて、それを見つめ、自身の半身に手を貸している。

 不思議な感覚だが看護師が女優の半身になるのは、女優にきた手紙を代読したときからはじまっている。夫からきたと思われるプライベートな記述にためらい、読み続けるかと尋ねてもいた。続けることで、看護師はじょじょに女優に同化していく。そのとき手紙に同封されていた息子の写真を手渡すと、女優はそれを引き裂いてみせた。

 さらに不思議な描写は、看護師が女優の手のなかにある子どもの写真をみつけたときに起こる。引き裂いたはずの写真をもっていたのである。このあとに語るセリフが、二度繰り返されるのは、見ている私たちが目を疑ってしまうものだ。このリピートはレコードの溝がつぶれて、同じ音を繰り返すのに似た効果である。この鏡像関係は、ふたりの女の顔が一瞬左右で重なり合って、私たちの目をチラつかせることで、種明かしがされていた。

 海岸で女優がカメラをこちらに向けている。ふたりだけの舞台なので、被写体は看護師のはずだが、女優の背後に小さく看護師の姿がみえる。一体女優は何を撮ろうとしていたのか。不思議な感覚に誘われるが、考えられるのは私たち観客に向けていたのだということだろう。ヌーヴェルヴァーグからはじまる実験映像の系譜がある。

 女優はもう一枚、写真をもっていた。戦時下での子どものおびえる表情をとらえたもので、背後には一群の兵士が銃を構えている。彼女は食い入るように子どもの顔を見つめている。母は兵士のように、子どもに恐怖を与えていたということなのだろう。レジスタンスの焼身自殺を映像でみながら心をふるわせている。ことばをもたない無表情が、何度か正気を取り戻すことがあった。もうひとつは、看護師の怒りが爆発して、煮えたぎった湯を、女優の顔に浴びせようとしたときだった。女優は一瞬、ことばを発したように思った。それは女優であるがゆえの防衛本能だったのだろう。

 さらには看護師が女優から受けた屈辱への仕返しとして、グラスの破片を素足で踏ませようとしたとき、女優の顔が一瞬ゆがんだ。仮面をかぶった女優が生身の肉体を取り戻した瞬間だった。「沈黙」での姉妹のように、ふたりは平行線のまま別れていく。荷物を片付けて女優はひとりでバスに乗り込んで町へと帰っていった。看護師は残って借りていた別荘の後片付けをしている。

 前後に挿入される実験映像では、少年は身体性を強調して裸体なのだが、読書をする場面もはさまれる。「沈黙」の少年がその後どうなったのか、気になっていた私たちに、ヒントを与えるものになっていた。子どもは成長したが、読んでいるのは同じ本ではなかっただろうか。この映画でもキーワードは「ことば」だった。前作では通じないことばが、ここでは失われたことばが問われているようだ。

第317回 2023年10月31 

叫びとささやき1972

  イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題はViskningar och rop 。英題はCries and Whispers。三姉妹にひとりのメイドを加えて4人の女性の、立場のちがいによって生まれてくる確執を描いている。仲のいい姉妹に見えていたが、ひとりが病いに倒れると、亀裂が生まれ、死を迎えると崩壊へと至る人間関係のあやうさと醜さがさらけ出されていく。次女(アングネス)の病いは肉体的苦痛をともなうものだった。毎晩、姉妹が交代で付き添っている。痛みが襲ってくると、耐えがたく、もがき苦しんでいる。姉(カーリン)は気丈に振る舞うが、妹(マリーア)は指示にしたがうのが精一杯である。メイド(アンナ)は姉妹のそれぞれと関わり、ことに次女の病いは親身になって看護をしている。

 往診にきた医者は、弱っているので長くはないと姉に伝えて、帰りかけると妹が呼びとめた。昔から顔なじみであったようだが、寄り添い抱き合おうとするところから、それ以上の関係であったのだと察せられる。メイドの子どもが死んだときに医師が来たときも、妹は喪に服すでもなく、誘いをかけていた。医師は妻帯者だし、三女にも夫がいる。夫は医師とも知り合いだったが気弱で、ふたりの関係を疑うと、自室に引きこもった。自殺をはかるが死にきれず、助けてくれと手を差し伸べている。

 母親が20年前に亡くなってからは、長女が家を支えてきた。夫は外交官だったが、夫婦仲はいいとは言えない。夫の偽善を許すことができず、自身が血まみれになって迫る姿は狂気をはらんでいた。次女と対比をなすように精神的苦痛に苦しんでいる。次女を亡くすことで、長女と三女の対立はくっきりとしてくる。ちょうど次女があいだに入って緩和剤の役割をしていたようにみえる。三女の如才のない態度を、ヒステリックに罵倒しては、言い過ぎたといって謝罪している。三女は姉の不安定な精神を、あざけるように冷ややかに眺めている。

 冒頭の場面で三姉妹の対比が、きめ細かに演出されているが、何気なく見過ごしてしまうものだ。はじめて見るときには、そこまで気がまわらないだろう。次女は痛みで目を覚ますが、そばにいる三女はカウチに身を横たえて安らかに眠っている。その日は三女が付き添う番だったようだ。苦痛のおさまった次女が、その姿を微笑みながら見つめている。次女にとっては、愛すべきおおらかさだった。朝がきてメイドが三女をゆすって起こしている。長女が入ってきて三女と入れ替わるが、手芸道具を持参していて、看護よりも自身の趣味が優先されていることがわかる。

 葬儀を終えて次女の遺体がベッドに置かれたままでいたとき、次女が姉を呼んでくれと言っているとメイドが伝えにきた。長女はおそるおそる部屋に入ると、死者が語りかけてきた。姉は本心を語り死者と決裂して、逃げ出てくる。あなたを愛してはいないので、安らかに死んでくれと振り離していた。続いて三女が呼ばれる。表面上は優しいことばをかけていたが、死者がすがりついてくると、おびえるように逃げ出してしまった。本音が彼女の建前を見破ってしまったのである。結局は他人のメイドがひとり残り、死者を抱きかかえる姿があった。豊満な胸に守られて死者は安らぎを得たようにみえた。

 葬儀を終えて家族が顔をそろえた。屋敷を処分することで一致したが、12年間仕えてきたメイドの身の振り方を考えている。次女の遺品を分け、いくばくかの金を与えることも話されたが、結局は何の報いもなく済まされることになった。帰りぎわに三女の夫が財布からわすかの紙幣を出すにとどまった。ポケットマネーですまされてしまったのである。家族が去ったあと、メイドは次女の書いていた日記を読んでいる。三姉妹が仲のよかった頃を思い出し、幸福な時代を懐かしむ記述に目をとめている。「叫びもささやきもかくして沈黙に帰した」ということばが、締めくくりとなった。

 メイドはいつもそばに寄り添っていた。三人の乗ったブランコをゆする姿は、わが子をあやすゆりかごを象徴するようだった。母の亡きあと、母性に支えられた幸福な日々だったが、彼女たちはみずからの手で、それを断ち切ってしまった。ベルイマンの象徴主義は、ブランコだけではない。血の色を思わせる赤色が全編をおおっている。姉は夫の偽善を告発するように、グラスの破片で自分の腹部を傷つけ、口を血で染めてみせた。三女の夫の場合も妻の不倫を浄化するように血でのあがないを求めた。何度となく繰り返される顔が大写しになり赤く染まって暗転となるプロットも暗示的で、「叫び」に対応するものだ。痛みを感じるすさまじい叫びを、次女は顔をゆがませて、発し続けている。北欧で叫びといえば、私たちはムンクを思い出す。そこでも世界は赤く染まっている。

 姉は二度ワイングラスをひっくり返している。血のようにテーブルクロスが染まる。ガラスの破片を手にもち、夫に恨みをはらそうとする。妹の前でもワインをこぼしていた。歳のせいが、手先が鈍っているのだろうが、冷ややかに老いをあざける視線があった。ともに湧き上がる雄たけびのようだった。

 対して「ささやき」を象徴するのは、はじまりのさわやかないなかの風景であり、次女が亡き母の面影をみつける光に満ちた散歩の道であり、さらには三人がブランコに乗る回想場面だが、それらには赤のイメージはまったくない。純白のドレスが目に焼き付けられる。象徴性はときとして謎めいて難解さをともなうが、それもまたベルイマンの魅力のひとつだろう。

 メイドが朝の祈りで亡き娘に手を合わせたあと、リンゴをつかんでかじるシーンがある。印象的で記憶に残っているが、意味がつかめないままいる。赤のイメージを内包するものでもあるし、宗教性を全面に出せば、禁断の果実に手を出す神への挑戦ともいえるものだ。このあとに次女が亡き母を回想するシーンが続くのが、解釈へのヒントを与えるものだろう。思い切りかじってガリッと音がしたように思った。神に見放され、子を失った母の強い決意の表明とも思えるが、いまだにまだ尾を引いて私のなかで、宙ぶらりんの状態にある。

第318回 2023年11月1日 

ある結婚の風景 1973

 イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題はScener ur ett äktenskap 。

第1話、タイトルは「無邪気さとパニック」。夫婦がインタビューを受けている。夫(ユーハン)は心理学の助教授、妻(マリアン)は弁護士、二人の娘がいる。経済的に問題はなく、車庫も2台分ある。35歳で三人目を妊娠したが、中絶をして悔やんでいる。理想的なカップルとして紹介されるが、本音はそうでもない。ひとりが席をはずすと、「実は」からはじまる話に変わる。インタビュアーは学生時代の妻との同窓生だった。

 親友夫婦がやってきて、インタビュー記事をネタに談笑している。話を聞いていると二人の仲がギクシャクしているのがわかる。妻は夫を毛嫌いしていて、おもな原因は浮気相手に去られて、落ち込んでいることによる。いらいらが夫にぶつけられる。夫は妻の浮気を知っている。離婚を口にするが、ふたりは仕事上のパートナーなので、別れると生活が成り立たない。会社の経営者だが、夫は商品開発、妻はデザインを担当している。妻同士、夫同士がそれぞれの話を聞いてやっている。弁護士の妻は、離婚調停は得意な分野だった。

 他人のふり見てわが身を振り返ると、大差なく自分たちも危機にあった。ベッドで並んで読書をしているとき、妻が妊娠を告げる。夫の反応は鈍い。生みたければ生んだらいいという態度から、いさかいがはじまる。やっと落ち着いて前向きな方向にいくのだと、見ている私たちは思った。次の場面では妻が病室で寝ている。夫が車でやってきて、ふたりの会話からあす退院なのだとわかる。次に中絶という語が聞こえてきて驚く。そういう結論になっていたのだ。夫は仕事の合間をぬってやってきたのだった。退院をしたら二人で旅行しようと約束をして、病院を去った。残された妻は中絶を悔いて泣き崩れた。

第2話、タイトルは「じゅうたんの下を掃除する方法」。今回はふたりの親との関係が描かれる。具体的な姿も声も出てこないが、電話での受け応えを通じて、娘や息子との関係がわかってくるのがおもしろい。離れて暮らしていると、親はいろんな心配をするものだというのがよくわかる。夫の職場と妻の職場も写し出される。夫が心理学の実験をしていると、同僚の女性が訪ねてくる。閉鎖空間での二人だけの対話から、不倫の関係かと思わせるが、そうでもないようだ。夫は詩を書いていて妻には内緒だが、この同僚には読んでもらって意見を求めている。出版社に持ち込むようなものではないと酷評を放っている。

 妻の弁護士事務所では、離婚をしたいという老婦人が訪れて、話を聞いている。何の不満もないのが不満で、愛とは何かを問いかけている。愛する力はあるはずだが、使われないまま閉じ込められていると言い、どんどんと感覚が鈍くなってきていると訴えている。聞くほうもそれを実感して、ハッとした。よくわかると答えていた。

 妻は海外旅行の計画を話し、フィレンツェがいいが、アフリカや日本もいいという。夫はいなかでゆっくりしたいと言っている。ふたりでイプセンの観劇をしたあと、夫は女性の自立を不満げに論評している。セックスの話にもなるが、妻は抱いてもいいのよということばに、夫はありがたいが疲れているのでと答えた。結婚10年目にしての一般的な会話なのだろう。言ったほうも、聞いたほうも、ほっとしたように「おやすみ」を言い交わしていた。

第3話、タイトルは「ポーラ」。いきなり深刻な話になった。妻が饒舌にしゃべっているが、夫は憂うつな顔をしているところから話はスタートする。マリアンとユーハンのあいだに、ポーラという女性が登場した。夫の浮気相手だった。浮気が本気になっているようで、深刻な二人劇に終始した。ポーラがどんな人物かを知りたくて妻は写真を見せてくれと夫にせまる。写真を見ながら、スタイルはいいし胸も豊かだと印象を語るが、私たちにはわからないままだ。夫は口は重く、語りたがらないが、妻が繰り返して問うと、体の相性まで得意げに話出している。夫が妻を振り切って去ったあと、親友に電話をして、思い直すよう説得してもらおうとするが、友人は知っていた。知らないのは自分だけだったのだと、打ちのめされた。ここでも友人の声は聞こえず、一人芝居である。舞台劇の醍醐味を味あわせる戯曲と演出だった。

第4話、タイトルは「涙の谷」。揺れ動く心と言ったらよいか。夫が戻ってくるのを愛人が迎えているのだと思ったが、半年ぶりに妻のもとに帰ってきたようだった。妻は若返っていた。愛人もできていたようで、夫は冷静に受け止めている。夫のほうはうまくいってないらしい。妻のもとに帰りたがっているようにもみえるが、ときおり愛人のことを話はじめると妻の顔はくもる。ここでも妻と夫の二人劇で、ほとんどが会話だけで話は進展する。電話が効果的に挿入されるのは、毎回同じ。今回は妻の愛人からだった。夫が来ているのを知っていて嫉妬をしている。帰ってもらうので1時間後に電話するよう言った。夫を追い返すが、振り向いて顔を見合わすと、感極まって抱き合い、今夜は泊まるという。妻は決意して、愛人からの電話を夫の前で、聞こえるように別離を宣言した。妻は泣きながら夫にすがりついた。ふたりはもとの鞘に戻ったように眠りについた。夜中の1時前に夫が寝つかれず、ここにはいられないといって起き出し、やはり帰ると言い出す。妻は夫の愛人から手紙をもらっていて読むように手渡している。引きとめる効果はなく、夫が去ったのを、放心状態で妻はカメラを見つめていた。

第5話、タイトルは「無知な者たち」。離婚のサインをもらいに夫の研究室でのふたりのやりとり。これで最後だというので、肉体関係をもとうとした。夫は警備員が回ってくるかもしれないと心配したが、妻はまだ夫婦なのだから問題はないと言い放った。心は行ったり来たりの繰り返しで、最後は夫が暴力をふるうに至り、互いにあきらめをつけたようにサインをする姿で、はてしない堂々巡りは終わった。

第6話、タイトルは「夜中のサマーハウスで」。離婚をして10年後の話である。ふたりで友人のサマーハウスを借りて、結婚20周年を祝っている。妻が母親を久しぶりに訪ねて、亡くなった父との愛情を確かめている。母親がはじめて登場した。孫娘がボーイフレンドを連れてやってきたと言っているところから、年月のたったのを知らせている。娘が離婚したことを両親が立腹したことや、今は再婚をしていることも、母娘の会話からわかる。

 夫もまた再婚している。以前の愛人とはすでに別れていた。研究所の同僚ともしばらくは関係をもったようだが、今はさらに新しい愛人ができたようで、同僚は探りを入れている。出入りの多い研究室から人目を避けて、電話で待ち合わせの約束をしている。車で帰宅中に、女性が乗り込む姿を、遠くから写し出していた。カメラがアップにされると、別れた元妻だった。再会して浮気を楽しんでいたのである。いっしょに暮らしていたときには忘れてしまっていた新鮮さがあった。かつて二人が住んだ家に行き、懐かしんだあと、さらには友人のサマーハウスを借りて二人だけの時間を過ごした。何も離婚する必要もなかったのにと、笑えることになるならば、無駄な人生を楽しむ人間喜劇ということになるだろう。

第319回 2023年11月3 

ベルイマンの「魔笛」 1975

 イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題はTrollflöjten 、英語名はThe Magic Flute。モーツァルトの歌劇「魔笛」の映画化である。オペラとして、目をつむって音楽を鑑賞することもできるが、舞台では味わえない映像の独自性に目を向けることになる。序曲からはじまり、舞台の休憩時間まで映画に取り込んでいる。序曲のあいだは観客席の一人ひとりの表情をとらえていて興味深い。西洋人ばかりではない。東洋人も黒人も映し出される。なかでもひとりの少女にスポットがあてられている。魅力的なまなざしをもっていて、はじめと終わりだけではなく、上演中でもときおりはさまれて、驚きや悲しみや笑いをうかべながら、ドラマに同化している。監督自身の娘であるようだ。5分間の休憩時間は、舞台裏が写されて、セリフの確認をしているのもいれば、主役のふたりはチェスをしている。

 娘(パミーナ)が誘拐され、女王は心を痛めている。女王に仕える3人の侍女と鳥の呼び笛をもった鳥刺し(パパゲーノ)が、路上で気を失った王子(タミーノ)と出会うことから話ははじまる。王子の美貌に引かれて侍女たちはみごとな三重唱を奏でている。王子に王女の肖像を見せると一目惚れをして、この娘を助け出そうということになる。女王も王子を見込んで、鳥刺しをお供にして、娘の救出に向かわせる。魔法の笛と鈴を強力な武器としてもってゆくことになる。ともにその音色を聞くと戦う気力が失せるという平和の武器だった。

 誘惑したのはわかっていた。残虐な悪魔であり手ごわい存在だった。鳥刺しが先に鳥の助けを借りて王女をみつけだすが、ムーア人の残虐なリーダーに捕まってしまう。王女が言うには、この男の上 に支配者(ザラストロ)がいるようだが、まだ顔をみせていない。ふたりは別れて探しはじめはていたが、王子も遅れてつかまり、支配者の前に引き出される。精悍な整った顔立ちで、悪魔のようにはみえない。じつは王女の父親だったのだ。悪魔のほうはむしろ女王にあった。父は娘を守ろうとして、悪の手から奪い返したのだという。この時点ではまだ、どちらが悪魔であるかは、私たちには疑心暗鬼のままだ。

 父は王子を信じようとした。12人の兄弟たちを集めて相談をする姿は、最後の晩餐でのキリストを思わせる威厳に満ちたものだった。娘を守りこの国を支配する後継者にと考えて、王子に三つの試練を与えた。鳥刺しもこの試練に耐えれば、良き伴侶(パパゲーナ)を手に入れることが約束された。鳥刺しは毎日を愉快に過ごせれば十分だと考えて、その場を立ち去ろうとしたが、若く美しい妻を得るという魅惑に屈して、行動をともにする。どんなことが起こっても沈黙を守るというのが、前提となる条件だった。おしゃべりの鳥刺しはくろうをする。

 試練のあいだに、王女は王子に近づくが、王子は沈黙を守る。王女は嫌われたのだと絶望するが、3人の天使に導かれて、希望を取り戻す。気球に乗った天使たちは、女王のもとにいた3人の侍女の変身だったが、いつのまにか悪魔から天使に変わっている。王女が自殺をするのを食い止めた。手には剣をもっていたが、これは母親が悪魔を殺せと言って与えたものだった。

 王女は王子の本心を知り、最後の試練を、魔笛をたよりに、亡霊のただよう魔界を突き進んでいく。ふたりを導く横笛は、父が真心を込めて娘に与えたものだった。鳥刺しもまた魔法の鈴の助けを借りて、フィアンセと結ばれる。王女を見そめていたムーア人のリーダーは、主人を裏切り夜の女王に従っていた。女王の野心は世界を支配することだったが、成功すれば娘を妻に与えるとまで、約束していた。悪は滅びて王女は王子と結ばれて、めでたしめでたしとなった。鳥刺しも妻を得て、子だくさんに囲まれた幻影が映し出されていた。

 舞台中継のようにしてはじまるが、いつのまにかベルイマンの映像世界に引き込まれていた。ことに登場人物の表情でつなげていく演出はみごとで、舞台では見ることのできない劇的効果を生み出していた。脇役としての動物モンスターも表情豊かで、子どもたちを楽しませるものにもなっていた。

第320回 2023年11月4 

秋のソナタ 1978

 イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン映画、原題はHöstsonaten 。イングリッド・バーグマン主演。老いを感じさせる往年の大女優に、皮肉をこめてつくられたような作品である。ベルイマンは英語読みをすればバーグマンなので、何か因縁めいた火花が散っているようにみえる。母国語であるスウェーデン語での演技は、俳優自身の肉声を感じさせるもので、演技をこえたリアリティがある。電話で英語でのやりとりがはさまれるのも、国際スターとしては、当然のことだろう。

 恋多き母親(シャロッテ)と、それに苦しめられた娘(エーヴァ)の恨みつらみが、とことんさらけ出される。少女時代から突き放されていた。最後の愛人がイタリア人だというのも皮肉が込められていて、興味深い。ハリウッドを飛び出してイタリア人監督とのスキャンダルでたたかれた女優である。愛人の名をレオナルドにしていて、誰の目にもイタリア人だとわかる。真っ白な病室で看取る姿が印象的に目に残る。娘は牧師(ヴィクトール)と結婚をして牧師館に住んでいる。そこに生まれたときからいるような安らぎを得ていた。子どもが生まれたが4歳のときに亡くして、子ども部屋はそのままにしている。夫は母子の確執をナレーターのように客観的にとらえている。

 母親は世界的に活躍をしたピアニストだったが、今は盛りをすぎていた。13年間いっしょだった愛人はチェリストで、娘たちにもひきあわせていた。チェロ演奏を聞いた妹は、恋心をいだいていたが、思いやりをかけてやることはなかった。家族をかえりみなかった母親を、娘が風光明媚な北欧の自然を思いださせようとして招いた。湖のほとりを車で訪れる風景は、みごとな映像美を伝えていた。愛人を亡くして落ち込んでいるのを思ってのことだったが、本音は憎んでいてこれまでの恨みをはらすためだったのだろう。ピアノのレッスンを受けながらも、違和感をつのらせて。いく

 母親は思いもかけない娘からの誘いの手紙に、喜んでやってきた。来てみると妹(ヘレーナ)も同居していて、聞いていないことだったので、顔をゆがませた。施設に送られていたのを、姉が引き取って、めんどうをみていた。母親はことばもしっかりしゃべれない、身体も不自由な娘を嫌い、収容施設に送っていたのである。しかたなく妹の部屋に入ると母親は人が変わったように優しいことばをかけた。

 妹は母を慕っていた。不自由なからだとことばで、すがりつくようにして追ってくる娘の姿は哀れだった。突き放すように非情な態度をとる母親の姿は、繰り返しベルイマンの映画に登場するキャラクターであり、トリュフォーに強い影響を与えて、共鳴しあうことになるものである。母への不信は、当然、神の不在を問うことになるものだろう。

 娘の母に対する叱責はすさまじいものがある。そこまで打ちのめすこともないのにと思わせることが、ここでの意図なのだ。母親は逃げるようにして娘から離れて、同年齢のヴァイオリニストとの旅行を楽しんでいた。娘との息詰まるやりとりの間に、妹はベッドから落ちこんで、助けを求めていたが、気づかれないままだった。このことで病いをさらに悪化させた次女について、母は死ねばいいとも言っている。娘はキリスト教徒として、許しの意味を問い直し、言いすぎたことを詫びる手紙を書いたが、もはや手遅れであったかもしれない。

 母と娘の息詰まるような緊張感は、虚構の世界を超えたものがある。娘が母に向ける憎悪の迫力に圧倒されるとき、ベルイマンの映画でのみ知られる女優が、名高いハリウッド女優に対してみせる肉声のようにも思えた。それは同じ姓をもつ同国人でありながら、これまですれ違ってきた、名監督と大女優の関係でもあっただろう。

第321回 2023年11月5 

ファニーとアレクサンデル1982

 イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデン・フランス・西ドイツ映画、原題はFanny och Alexander。

第1部、「エクダール家のクリスマス」。祖母(ヘレナ)のもとに子どもたちと孫たち集まっている。毎年恒例のクリスマス会である。それぞれの家庭事情が明かされていく。大学教授でも借金まみれの息子(カール)がいる。メイド(マイ)に手を出す息子(グスタフ)もいる。祖母には愛人でもある旧友(イサク)がいた。夫婦同士では考えられないあつい抱擁をみせていた。ファニーアレクサンデルは、孫で兄妹同士だった。

第2部、「亡霊」。ハムレットの舞台稽古をしている。アレクサンデルが、熱心に見ている。父親(オスカル)は舞台俳優だった。一家の長男で、母親の信頼を得ていた。息子は子役として出演もする。父はクリスマスの日にも、子どもたちを集めて、椅子を使った芝居で楽しませていた。急に胸の痛みを訴えて、運ばれたが、あっけなく死んでしまった。母親(エミリー)は気丈で、舞台を引き継ぐと決意を示した。祖母も女優で代々の演劇人だった。息子は葬儀の席で、母親が主教親しげであるのを、不審げにながめているのが気にかかった。

第3部、「崩壊」。息子の予感は的中した。座長である母親は舞台を降りると言い出した。劇団員は何かあると予感した。主教が母親に求婚したのである。母も主教を愛していた。舞台の役者にとっては、高位の聖職者に対するあこがれがあったのだろう。息子は不満をかくせす、黙ったままいる。亡き父の亡霊もたびたびあらわれ、まるでハムレットの心境であった。妹も主教を嫌っている。主教館に住むことになったが、自分たちの部屋で、兄は妹を窓際に誘って、鉄格子が入っているのを示してみせた。

第4部、「夏の出来事」。主教の本性が明らかになっていく。前の妻と子どもも不幸な最後を遂げていた。のんびりとひとりで夏の日をすごす祖母のもとに、さまざまなもめごとがもたらされる。身重なメイドも顔を見せた。気立てのよい娘で、祖母は愛していた。美人だが足が悪く引きずって歩いている。愚息の子をやどしてしまったのだ。亡き長男の亡霊があらわれて、子どもたちのことを心配している。妻も訪ねてきて現状を打ち明けるが、法的なことも主教はふまえていて、対抗のしようがない。別れたいが主教の子もみごもってしまっていた。アレクサンデルは、主教から虚偽の証言を責められて、鞭打たれ監禁されていた。母親が帰ってきて、抱きかかえ、主教には殺意をいだきながら、むなしい抵抗を試みていた。

第5部、「悪魔たち」。現実と悪夢が錯綜して、ファンタジー、さらにはそれを通り越してオカルト的な様相を呈してくる。策略をめぐらせてファニーとアレクサンデルを取り戻すが、なぜか魂の抜け殻のように横たわる兄妹の姿が、主教館には残されたままだった。一家は次は離婚の交渉だと、代表してふたりの兄弟が主教に談判に来ている。大学教授である兄は冷静に話を進めようとするが、菓子店主である弟は激しやすく、主教の性格の悪さや借金まみれであること、さらにはかつらをかぶっていることまであげつらうが、主教は法律を盾にびくともしない。さらに決定的だったのは、妻を引っ張り出してきて、自分はここに満足していると言わせたことで、主教に同調して子どもを返してくれと言っている。見ているほうも豹変に驚くが、それが本心なのか、あるいは催眠術にでもかけられて、言わされているのか、判断がつかない。

 次に睡眠薬を入れて主教を眠らせ、その後火がついて、燃え死んでしまうという、思ってもいない展開となる。それに先立って息子がかくまわれた異教の館で、霊感を宿した謎の少年に出会い、神秘の体験をはたしており、その魔術のせいであったかもしれない。母親に容疑がかけられて、警察が訪れるが、主教の良くないうわさを知っていた担当警部の思いやりが手伝って、容疑は晴らされる。母親のユダヤ人の旧友(イサク)が間に入っての魔力のおかげだった。邪悪なキリスト教徒に鉄槌が下されたことになる。

 妻は舞台に復帰し、亡き夫と一家の意志を継いだ。ひょっとすると妻の豹変は、オカルトのせいではなく、主教に勝てないことを見越しての一芝居であったのか。いずれにしても、長男の妻が一家を救ったことになる。新しい立ち上げにストリンドベリの新作を選び、ながらく遠のいていた祖母に、出演を依頼していた。

 一家が一堂に集まっての祝いの席が写し出されていた。新しく一家に加わったふたりの新生児が、祝福される光景は印象的だった。ひとりはメイドの産み落とした息子の子、もうひとりは憎むべき主教の子だった。ともに不実の子であったが、暖かく迎えられた。生まれた子どもには何の罪もなかったからである。

第322回 2023年11月6 

サラバンド 2003

 イングマール・ベルイマン監督作品、スウェーデンのテレビ映画、原題はSaraband 。ここでもバッハのチェロ曲が通奏低音のように響いている。「ある結婚の風景」で登場した男女の30年後の話である。離婚後も恋人同士のようにつきあっていた不思議な男女である。疎遠になって久しく、彼女が訪ねていき、そこで出会う彼やその息子や孫娘との、人間関係が見どころになっている。ずいぶんと息の長い執念を感じさせる映画で、監督だけでなく俳優も、リアルタイムに歳を取ってしまった。男(ユーハン)は80歳をこえて、今では学問の道を引退し、音楽家であった亡き妻の遺産を相続して、優雅に暮らしている。女(マリアン)のほうは60歳台で、まだ現役の弁護士だった。思い出の写真をテーブル上に広げている。

 30年ぶりに興味本位の女の気まぐれで、男を訪ねきた。ひとり暮らしだったが、身の回りの世話をする女性はいる。元妻はその間柄をかんぐっているが、深い関係はなさそうだ。自分もパイロットだった夫とは、離婚をして独り身であった。しばらく滞在するなかで、離れて暮らす家族とのやり取りが明らかになっていく。

 最初に顔を出すのは孫娘(カーリン)で、チェロ奏者を志し、父(ヘンリック)からの指導を抜け出して、祖父を訪ねてきた。娘は19歳、父は61歳だった。不在だったので、元妻が悩みを聞くことになる。血のつながりもないが、なぜか親身になっている。意気投合しておじいちゃんの悪口をいっている。母親(アンナ)が2年前に死んで、チェロ奏者である父は、立ち直れないほど落胆し、そのあと母に瓜二つの自分のことを離さないのだという。

 父から離れて自由に音楽を学びたいのだが、ここから遠くはない祖父の所有する別荘を借りて、父娘が住み込んでレッスンを続けている。祖父は息子との関係は険悪で、何度も無心に来ては、借金を繰り返すが返すことはない。別荘についても使い放題にしている。祖父は孫には優しく、援助をしたいと思っている。ある日、本に囲まれた書斎に、息子があらたまってやってきた。やはり借金の依頼だった。娘のためにチェロの名器を買いたいのだという。息子の言うことを信用しない父は、こちらで考えてみると言って、購入相手の連絡先を聞くだけで、借金はことわった。

 息子は教会でのオルガン演奏もしていて、元妻がそれを聞いて感銘を受ける。チェリストだが、そのときはオルガンでバッハを演奏していた。父の元妻だと知って、父への憎しみをぶちまけたあと、何のためにやってきたのかと問っている。父親の相続した金が目当てなのか、あるいはセックスのためかと、露骨な質問を投げかけていた。

 祖父を訪ねて孫がきたときに、祖父は一枚の手紙をみせた。知人から来たもので、娘の演奏を聞いて才能を見抜き、育ててみたいというものだった。友人の孫だと知って連絡をしてきたのだ。チェロの名器もいい条件で購入できること、学費については心配するなと、祖父は言った。娘は喜びながらも迷った。父が許してくれないし、落胆する姿も見たくはなかった。

 娘は母親が父にあてた手紙が書籍にはさまれていたのを発見して、自分について書いてあるのを読んでしまう。元妻を訪ねて相談をもちかけている。そこには死期をさとった妻が夫に対して、娘を束縛しないようにと切望する内容だった。父はそれを隠したまま、無視するように娘に対してきた。娘は父を叱責するが、小屋でふたりがひとつのベッドで寝ている光景が映し出されると、親子を越えた異様なものに映った。

 娘は決断した。留学するのでも、ソリストをめざすのでもなく、父のもとを離れて楽団に所属して、演奏活動を続けることを告げる。父はあきらめをつけるように娘にバッハのサラバンドを演奏してくれとたのんだ。娘が去ったのち、父は自殺をはかったが、一命を取り留めた。それを聞いて祖父は、安堵するのではなく、死ぬこともできないのかと、息子の不甲斐なさを嘆いた。あっと驚くようなことばに、元妻は唖然としている。娘に知らせるわけにはいかないということで、元夫婦は一致した。自分を責めることが、わかっていたからである。

 やっと自分たちのふたりの子どもに思いを馳せることになる。ひとりは自立して幸福に過ごしているが、ひとりは施設に入って、訪れても母だとはわからない状態だった。父親はまるで他人ごとのように、反応は鈍かった。自戒からか夜中眠れずに、祖父はおびえるように、元妻の部屋を訪れ、肌を合わせることで、やっと落ち着くことができた。

 元妻は帰宅後、夫と娘を残して先立った見知らぬ女性の、無償の愛を思い浮かべながら、施設に入った実の娘を訪れていた。なぜこの女性は不肖の息子を愛したのだろうかと問う。元夫婦は彼女の肖像写真を引きのばして、手もとに置いている。死は人を美化する。この人は肖像でしか登場しないのに、生き残った人たちに教えを伝えようとする。写真は繰り返し映し出されていた。聖画像(イコン)と言ってもよいものだ。

 誰かをわからなくなっている娘、あるいはもっと普遍化すれば高齢となった親を訪ねる意味が問い直される。これまでのさまざまな家族関係の集大成のような、不完全な夫婦や親子のあいだに横たわっている、ドロドロとした人間の絆について、再考の余地を与えてくれるものとなった。ベルイマン85歳の監督作品である。

第442回 2024年4月18日 

エヴァ1948

 グスタフ・モランデル監督作品、イングマール・ベルイマン脚本、英語名はEva。12歳のころに、女ともだちを死なせてしまった少年(ボー)の、心の傷が癒えるまでの物語。兵役を終えて、故郷に戻ってくるところから、物語はスタートする。兵士は感慨深げに線路をながめている。

 少年は機関車が好きで、機関士に遊んでもらっていた。運転のしかたも見ていてマスターしたようで、友だちになった盲目の少女を乗せて、いたずらに走らせてみた。列車で知り合った三人兄弟の楽隊があり、その内のひとりの娘だったが、目が見えずアコーディオンを引いていた。少年は娘を愛して、将来は結婚するのだとまで言っている。誘うと素直にどこにでもついてくる。ふたりの乗った機関車は、線路工事を知らずに暴走して脱線して谷底に落ち、少女は死んでしまった。少年はわざとじゃないと繰り返している。両親が駆けつけて、父は息子を殴りつけた。

 少年は家出をしたが、この記憶がトラウマになっていた。久しぶりの帰宅に、母親や妹は喜んでいる。父親も息子の立ち直りに安堵しているようだった。その後付き合うようになっていた、愛する娘(エヴァ)がいたが、訪れると昔のように恋愛は引き継がれた。娘は家族の面倒をみるために、いなかにとどまるが、主人公は街に出て友人(ゴーラン)夫婦のもとに身を寄せる。

 遊び心から妻(スザンヌ)が言い寄ってきて、友人との間に亀裂が生まれている。女は火遊びに過ぎなかったが、男は本気になってしまう。友人を殺害して、ガス中毒に見せかけようとするが、女は恐れをなしている。男はガス管をナイフで切り裂いていた。取り返しのつかないことをしてしまったと、男を非難している。一夜明けるとその場面は主人公の見る夢であったとも取れる。二日酔いで頭痛がしている。彼女がやって来て起こすと、主人公は殺人者となってしまったことに後悔しておびえている。隣の部屋には友人が生きていて、何もなかったかのようにしている。

 訪問客があって、いなかに残してきた彼女だった。家族の世話に一区切りを付けての、冷静な行動にみえる。主人公の軽はずみな性格とは対比をなすものだ。友人の妻との情事にのめり込んだときに、破られてしまった自分の写真を、彼女は見つめている。妻の誘惑は夢ではなかったということだ。夫婦はかたわらで、何もなかったかのように、じゃれあっている。主人公は一刻も早く友人宅を立ち去りたかった。荷づくりをし、彼女はそれを手伝いながら、ふたりして都会をあとにした。

 ふたりは結ばれ、みごもった妻を見守りながら、海辺の島に暮らしている。両親は家庭をもった息子の報告を読んで喜んでいる。島には住み慣れた気の合った仲間がいて、ふたりの身辺の世話をしてくれている。戦争中で敵の若い兵士が流れ着いて、男二人で小屋に遺体を運び込んでいた。遠くから窓越しにそのようすをうかがっていた妻は、その後小屋に近づいて、遺体を見て動揺する。若い兵士が異国の見知らぬ地で死んでしまったことを悲しみ、急に産気づいてしまう。

 仲間の力を借りて、船を走らせた。進路を外れるのを、必死になってオールを漕いでいると、機関車から投げ出された少女の死体からはじまって、これまでの記憶が走馬灯のようによみがえっていた。一刻をあらそう危ない航行だったが、無事に息子を産み落とすことができた。そわそわする男に助産婦が部屋に入るように声をかけている。母子が並んでいた。子どもを抱きながら、これまで抱いてきた人生の苦悩から発せられた疑問の、すべての謎が解けたようだった。経験豊かな仲間に、わが子を見せている。

 反抗的態度からはじまった少年の、苦悩のはてにたどり着いた確実な手ごたえが、息子を抱くぬくもりに感じ取られる。主人公の不安定な人格に対して、落ち着いたエヴァの包容力が、救いをもたらすものとなる。映画タイトルが、この女性の名である理由は、この穏やかな母性にあるのだろう。この母性がマリアではなく、エヴァであるのが重要なのだと思う。それは母ではなく、妻であるという点だ。監督作品ではないが、ベルイマンのかかえる、人間の本質を見つめようとする、透徹した目を感じさせる作品だった。