第245回 2022年5月10 

ルネサンスのおかげ

 14世紀から16世紀に至るルネサンスの美術を、絵画を中心にたどってみよう。ルネサンスはイタリアを中心に展開される美術運動だが、アルプスを越えてドイツや今のベルギー・オランダであるネーデルラント地方にまで広がっていく。内容的にはキリスト教を土台にした宗教美術だが、異教の神話や歴史的テーマ、さらには風景や風俗といった新たなジャンルも独立しはじめる。主眼は何が描かれているかという図像学にも置かれるので、キリスト教図像学の基礎知識も必要になってくる。ルネサンス期の作品に意味を読みとる作業はパノフスキーをはじめとしたワールブルク学派の学際的研究を参照する必要がある。イコノロジー(図像解釈学)と呼ばれる方法論を知ることで美術史はずいぶんおもしろいものだと気づくはずだ。

 西洋的風土がもっているものの考えかたには一定の型がある。その根源に向かうなかから、キリスト教美術が立ち現われてくる。それはいろんな意味で私たち現代の日本人にはなじみきれないものであるが、キリスト教美術の約束事がいったんわかり始めると、その千年を越える積み重ねがじょじょにおもしろくみえてくる。しかし中世に直接行きつくためにはずいぶんと障害が大きい。同じ美術や芸術といっても現代とは全く異なった世界だ。

その中世的理念にまとわりついた神学的体臭を人間のことばで翻訳してくれたのが、ルネサンスである。ルネサンスは中世を否定して出てきたという一般に言われている解釈には訂正が必要だ。ルネサンスの翻訳を通じて中世は現代によみがえったともいえる。キリスト教だけではなく古代の神秘までもがこの時代によみがえった。それは千年のときを隔てて人間は普遍であることを教えたが、それは何よりも視覚世界の勝利に由来する。

 ルネサンスのおかげで美術家は市民権を得ることになった。ルネサンスがなければ美術や工芸の作家はごく普通の職人の域にとどまったわけで、社会的なステータスを得てはいなかっただろう。レオナルド、ミケランジェロはいまや神格化されて語られるが、それまではものをつくる人は尊敬の対象ではなかった。無名であることをむしろ美徳としていた。中世を通じて手でものをつくるのは高度な仕事とは思われていないで、政治家や弁護士など口先で生きていく者の方が、ずっと高いステータスを得ていた。

ながらく外科医は医者ですらなかった。それがルネサンスのころから少しずつ変わってきて、今ではアーティストというと、(職業としてアーティストというと何となくうさんくさいが)、芸術の名のもと高尚というステータスを得る。現代では外科医のほうがもてはやされる。それはブラックジャックでもいいし、ドクターコトーでもいい。「私、失敗しないので」という女医もあこがれのまととなった。かれらはミケランジェロにも似て「神の手」と称賛された。腕一本で生きる生命体としての確信が、あいまい模糊とした時代に、くっきりとした足跡を刻むものとなる。外科医は手が命だが内科医は口が命だった。

手わざのステータスがそこまで行きついたという意味ではルネサンスの恩恵に感謝ということだ。世界史の教科書を見ていても挿絵になって必ずルネサンスの美術作品が登場する。ルネサンスという時代は美術が大手を振って歩けた時代、美術史の時代区分が政治・社会の歴史の区分になっていった唯一の時代だった。その時代、今のように美術は社会のすみに追いやられ、いじけてはいなかった。主要五教科からはずれ選択科目に甘んじてはいなかった。「自由学芸」(リベラルアーツ)の中心部分に位置する。

 出発点になるのはルネサンスで、レオナルドが科学者なのか技術者なのか芸術家なのかという議論にさかのぼる。レオナルドの頃に今日的な意味での科学者という概念はなかった。どちらだと分類しなければならないほど現代の文化は遊離してしまったということだ。人間をトータルで考えるときにアートが生まれてくる。まずは人間であるということを出発点とするヒューマニズム(人間主義)からはじまる。しかし、それがやがて細分化され小手先の仕事になっていって、出発点の理念や原理が忘れ去られていく。

 どんな分野でもひとつのことを極めていくとそれ以外のことが見えなくなってきて、狭い範囲の職人芸で満足してしまうことになる。ものをつくるときにそういう中で自己満足は得られるが、もう少し広く考え直してみて、新しいものをつくるというときに、その刺激材料はひとつの分野のなかからは出てこなくて、全くちがう分野からやってくるということがずいぶんとある。

 たとえば抽象絵画が誕生するころのことを考えてみよう。もともと最初から抽象絵画を描いていた人はいない。具象をやっていた画家のなかから抽象絵画が描かれ始める。彼らが考えるのは具象からいかにかたちを崩していって抽象に至るかということになる。ところがいったん抽象絵画ができあがってしまうと、具象を経由せずに最初から抽象絵画で育つ画家が誕生する。そうするとそのなかだけで仕事をしていくので、全くそれ以外のものとは関わることなく生きてはいける。抽象絵画も抽象という世界のなかだけで充足し、ひとつの画面のなかでいかにかたちを組み合わせていくか、組み合わせを変えるだけでも無限の可能性があるわけで、一生そのなかで遊んで暮らせるということになる。

 土をこねながら陶芸をするという場合も同じで、他の分野とは関係なく、そのなかでやり続け自己完結することができる。しかしそこから先に進もうとするときに、それ以外のものが刺激になる場合がある。このとき美術のジャンルというものが相互に関係をもちながら、美術運動にまでゆきついて行く。

 これまで工芸は工芸運動、美術にもいろんな前衛運動があった。シュルレアリスムやダダイスムという流れを見ていても、単にひとつのジャンルだけが突っ走ったのではなくて相互に影響しあいながら、塊となって時代が移っていったという気がする。言語への仲介者である詩人は必ず必要なキャラクターだった。もちろんものをつくる人間には創作という共通点があるわけで、絵をかく者が音楽をつくる者から刺激を受けるということもずいぶんある。

第246回 2022年5月11 

絵画の勝利

 ルネサンスを考えてみると、「絵画」が大手を振って歩き始める出発点である。ルネサンスのころの作家は、万能の天才をめざして何にでもトライした。何でもできるということがやがて絵画に集約されていく。ここには絵画に行きつくまでの歴史がある。ルネサンスの万能の天才という概念は、実は絵画というジャンルそのものが万能の天才になっていく経緯でもある。

 彫刻も建築も土木工事も解剖も、ダムをつくったり家をつくったりするのもふくめて、すべて絵にすることができる。絵になればすべてつくったと同じことだと豪語するまでに至る。ルネサンスの達成は、絵画にすべてを集約してしまう歴史だった。

 レオナルドがルネサンスの流れの頂点に君臨するが、そこから先は絵画の歴史になってしまった。芸術にはいろんなジャンルがあるが取りあえずは、すべてを絵画によって代表させる。その構図が20世紀の半ばぐらいまで続く。工芸というふうな概念で新しい領域を広げていこうという流れは、19世紀に入ってからで、デザイン運動とともにデザインの歴史が始まるのが19世紀、もう少しさかのぼれば18世紀の産業革命あたりからだろう。デザイン運動とはそうした絵画という権力から逃れようとする一種のレジスタンスであったような気がする。デザイン史の出発点で現われるウィリアム・モリス(1834-96)の壁紙を考えると、壁は無彩色でもよかったはずだが、平面制作の原理として「装飾」に力を借りて起こされた絵画に向けての対抗手段だった。絵画の行き詰まった世紀末にアールヌーボーとして花開くのは、デザインを旗印に掲げた絵画の排斥運動だった。

 そういう純粋な芸術(ファインアート)ではなくて、不思議ないいかただが応用芸術(アプライディド・アート)あるいは工芸が出てくる。「工芸」という語をどう翻訳するかは難しい。美術工芸というと美術が先に来て、工芸はそれの付け足しのように見られる。それは日本の特殊現象かもしれないが、ヨーロッパでもアート&クラフト運動といって、アートが先に来る。工芸が自律する前に美術に対し「純粋な」、(何が純粋なのかはよくわからないが)、という言い方で呼んでいる一面があった。それの出発点がルネサンスだということだ。美術をさすファインアートは純芸術となるが、これに対応するように日本では純喫茶という奇妙な用語が使われ続けたことがあった。「純」の語が盛んに子どもの名に使われた時代に対応している。いま純喫茶に奇妙な響きが感じられるとしたら、現代がファインアートの生きづらい時代に変容したということだろう。純はピュアなものではあるが、イノセントでもある。

 逆にいうと中世までは、純ではないもの、つまり工芸品をつくるあるいは大工が家を建てる、食器をつくったり、実際に役に立つモノをつくるというような生活と密着していたということだ。それがルネサンスの流れのなかでそうではない価値基準「見るためのもの」という発想が出てくる。生活のために役立たないけれどもなかなかいいものというのが出てくる流れである。それは絵空事と呼び直してもよい。今日の美術展の盛況や、絵画をネタにした話題を美術史家や美術評論家だけでなく、文学者や小説家が取り上げベストセラーになるのも、礼讃されるべきは絵画にあるという証拠だろう。

第247回 2022年5月12 

ジャンソンの「美術の歴史」より

 ルネサンスの絵画を見るにあたって、ちがう時代の作品のみかたとの比較を少ししておこう。制作をするという場合も最初にはものを見ることからはじまる。作品を見た場合にどんなことを考えながら見ていくかということは、制作者がどんなことを考えながらつくったかということでもある。

 たとえば美術史の概説書としてポピュラーなジャンソンの「美術の歴史」(第5版)にでてくる挿絵を見てみよう。原著は1000ページ近い概説書とも思えない大部のものだが、そのイントロダクションに出てくる作品をいくつかとりあげて、作品を見る場合にどんなところに目をつけてみるかという話をまずしておきたい。この章では時代にとらわれずいろいろな作品を引いて美術のみかたについて語っている。同じ作品をあげながら私なりに再解釈してみたい。

 まず取り上げるのはジャスパー・ジョーンズ(1930-)の「標的001」である。射撃の的、つまり同心円を連ねて真中をねらって矢を放ったり、ピストルを撃ったりするそれである。これを見るにはまずは「標的」というものが絵になる背景がわかっていないと、こんなものは絵として見えてこない。標的というのはおもしろいと思えばおもしろいが、これだけを見ていると普通の抽象絵画といっしょだということだ。ジョーンズの絵は抽象絵画が出始めて四、五十年あとに出てくる絵で、ただ単なる抽象絵画として描いているわけではない。これは抽象ではなくて具象だ。何の具象かというと「標的」である。標的というのは日本にもあるが、標的そのものは抽象的なもので、それを忠実にまねると抽象ではなく具象になるというカラクリである。これはきわめて写実的だが遠近法を用いて描いているわけではない。それよりも絵画として重要な課題は、現実にある標的を写生したのか、どこにもない標的を創り出したのかという問いである。

 これは抽象と具象ということを考えるきっかけになる絵だ。「具象」ではなく「具体」だといえばもっとわかりやすい。具象というのは絵画や彫刻だけに残る特殊な用語で、具体の方が一般的だ。小学校のころから抽象(アブストラクト)の反対は具体(コンクリート)だと教え込まれてきた。この区別を彫刻で考えれば、具象彫刻が人体をさすとすれば、具体彫刻とはモノそのもののことだ。もちろんこれとは別に抽象彫刻がある。絵画の場合、コンクリートのビルを描けば具象だが、コンクリートという素材そのものを描けば具体となる。ここでの標的はイメージのことだが、実際に標的として用いることも可能だ。今ではこれに向かって矢を放つものはいない。ジョーンズの名声が標的を上回ってしまったからである。ジョーンズの標的をねらって子どもが矢を放とうとしたとする。小鳥の目をだました「ゼウクシスの葡萄」になぞらえれば、子どもがまちがえて矢を放つほうが、絵画としては優れているはずだ。

 ジョーンズのほかの作品を見ていっても、同じような原理で話は展開している。アメリカの星条旗を描いた絵がある。星条旗といっても平坦でなびかない星条旗だ。ふつう旗を描けといったら、遠近法にそってなびいているところを描くのだろうが、ここにはたわみも折れもない。近年はあまり見かけなくなったが、オリンピックの国旗掲揚を思い浮かべてみると、きわめて不自然だ。しかし国旗掲揚がおもしろいのは、これが絵ではなくて、本物の国旗である点だ。

 ここでは星条旗というもの自体がもっている象徴的意味が別の方から見えてくる。日本なら日の丸でもよい。日の丸にも見えるし太陽が昇っているふうにも見える。このように見ていくと、何をねらって描いているかということを見る側も考えるし、恐らくそれは作家が考えていたことなのだろう。

 次に彫刻を写した二枚の挿図を比べる。一方はギリシャ彫刻、他方は一七世紀バロックのロレンツォ・ベルニーニ(1598-1680)の彫刻である。見方としてはいつもふたつの図版を並べればどこがちがうかということが見えてきて、時代がちがえば当然そのちがいは見えてくる。これらは今でいえばごくふつうの彫刻だ。コントラポストという表現法がある。最初は直立不動で両足がぴったり地についているが、そのうちに足が片一方遊ぶ遊脚(ゆうきゃく)の表現が登場する。今でもある種の彫刻はこれをめざして展開しているともいえる。実際にはこれをバランスよく立たせるのは大変で、それをマスターするだけで一生かかるということにもなる。

 こういうものは突然出てきたのではなくてギリシャで百年、二百年かけるなかで、こういう彫刻に熟成する。そういうギリシャ時代に完成されたものが、17世紀になっても似たような構図とかたちで表現されている。しかしバロックというのは躍動感がねらいになるので、いかに動いているかを見せる。クラシックのギリシャ時代の彫刻はいかにも動いているように見えて、しかもどっしりと不動であるかがめざされた。両者にはそういうちがいがある。動きはあるのだが動きが身体のなかにたまっていて、それが直接表に出ないというのがクラシックの特質である。

第248回 2022年5月13 

エジプトの絵画

 次に見るのはエジプトの庭を描いたフレスコ画だが、これを見ていても実にいろんなことが読めてくる。これは中央に池があり池のまわりに木が立っている図だ。池にはアヒルのような鳥や魚が泳いでいる。この絵が出てくるとなぜこんなふうに描いたのだろうと思う。池は真上から、木や魚はそれぞれ真横から描かれている。私たちに対して、池がありそのまわりに木が生えているところを絵にするよう言われてもこうはならない。小学生低学年だとこんなふうに描くかもしれない。おさない子どもは描くのになぜ大人は描かないのだろうという疑問に出くわす。そこで「遠近法」というものの見方を考えることになる。

 エジプト人の世界を把握する原理は、私たちとはちがうのだ。文明国の現代人でも小学生の子どもに似たようなものがあるとすると、本来何もないところで絵を描けといわれればこうするのではないかという見本のようにも見える。遠近法とはいかなるものか、どんなふうにして成立してきたかを考える手だてになる。

 エジプトの絵は正確だ。どういうふうに正確かというと、池のまわりに何本木があるかということがわかる。遠近法で絵を描くと手前のものが向こうの木を隠してしまう場合がある。見る方は向こうに隠れているのだと思うので、木の数は正確にはわかる。ところが隠れているところに、実際は木がなくてもいいわけだ。その意味では遠近法はいくらでも嘘をつけるということで、エジプトのほうが正確に写し出している。

 エジプト人なら池は上から、木は横から見ているわけで、一点透視図法では決してない。ところがものをとらえるのにどうして一点透視図法でなければならないかということでいえば、どちらが正しい描きかたであるかは決まらない。どんなものであってもひとつの絵を見れば古いものは古いものなりに、何かメッセージを含んでいる。ひとりの作家がどんなことを考えて絵を描いたかということとは別に、その時代でしか描けない人間の目の構造がある。作品を見ることによってそれを読み取っていく必要がある。

 次はミケランジェロのシスティナ礼拝堂にある一部分のアップだ。このポーズも種さがしをすることができるだろう。この礼拝堂にはいろんなポーズがある。これは16世紀以降ひとつの辞書のようになって、デッサンをする画家のモチーフとして定着していく。システィナ礼拝堂に行って数百人描かれている人物を丹念にスケッチしてそれぞれの国にもちかえって、それをもとに絵を描いていく。そうすると16世紀後半期はヨーロッパ中ミケランジェロだらけという時代になる。その原点がローマにある。

 それを描く前段階の素描が残っているが、素描を見れば何を考え、どこに苦心をしていたというのがよくわかる。それは脚の付け根であったり、手先や足先のパーツであったりする。素描では裸体の男性だが、システィナ礼拝堂の天井では女性の着衣像にかわっている。着衣像を描くのに裸体像からスタートするのだということがわかる。ミケランジェロにとっては男女の区別はなかったのだということもわかる。作品を作るときに何を考えながら、どういう発想でというときに、素描というものが重要視される。

第249回 2022年5月14 

素描からの展開

素描が重要視されるのがこの時代からで、中世を通じて素描などはなかったし、あったとしても価値のないものとされていた。デッサンというものに重きを置き始めるのがこの16世紀だ。このシステムがいまだに残っていて、現代のデッサン教育につながっている。フランス語のデッサンはさらに英語名でデザインと名を変えて20世紀の地歩を確立させていった。デザインはアートを嫌悪するようにして展開するが、その対立は近代のイデオロギー闘争に似ている。自由主義と社会主義は同じ親から生まれた兄弟だという意味では、親は素描だったということだ。素描ももちろんディセーニョ、ドローイング、デッサン、デザインと各国語の訳語を用いることで、ニュアンスを異にしていく。

 さらにマネの「草上の昼食」をみる。正装した男がふたりと裸婦がひとり草上に座って食事をしているというシュールな絵だ。夜のブリュッセルの通りをさまようポール・デルヴォー(1897-1994)の裸婦を先取りしている。これだけを見ていればこれ自身がすでにひとり立ちして有名な絵になっているが、原点をさがすとラファエロの版画にこのモチーフの種がある。もっとさかのぼるとギリシャ彫刻の浮彫りのなかにある。マネのような近代の作家でも古いものを頭に置きながら、再創造を試みている。これ一点についてもいろんなことが語られる。なぜ女性がひとりだけ裸体なのか。

 アカデミア美術館では、みなダヴィデ像(1501-4)の方に目が向くが、むしろ重要なのはその手前にある彫り残されたような数体の「奴隷像」(1513-6)で、石のなかに人体が埋め込まれている。奴隷像をぼかして大写しにして手前に見ながら遠くのダヴィデに焦点をあてるというのが、ここでは心憎い写真術になっている。これを見るとミケランジェロがこれ以上先には彫り進むことができないというぎりぎりのところで置いてあるようだ。ダヴィデ像のような完璧なものに比べると、非常にインパクトの強い石そのものだという印象を受ける。ミケランジェロが作品をつくる原点というのは、石のなかに生命を見出していくという、石のなかに隠された命を掘り出していくという発想にある。生命のない石なのにそこに命を見るという、恐るべきイマジネーションにとらえられた人という気がする。石を生命化したのがミケランジェロの前半生だったとすると、生命を石化させたのが後半生だったと言ってよい。ここで石化という概念は、肉化に対応させたものだ。キリスト教は受肉(インカネーション)の思想のことである。

 現代の作家なら半分を彫り残したまま未完成(ノンフィニト)にしているというトルソーの表現を思い浮かべるだろう。本来トルソーとは首の切られた人体のことではなくて、首が加わり、むくむくと頭をもたげる前の未完成の人体ではなかったのか。いずれにしてもミケランジェロには近代以降に出てくる意識的な操作はなくて、もうこれ以上先には進めないという悲壮な思いがにじみ出る。これより先を彫り進むと痛いという石の悲鳴が聞こえそうで止めてしまったというような感じだ。未完成のように見える作品がミケランジェロにはずいぶんある。そちらの方が完成作品よりもずっとおもしろい。

 以上これらはたまたま手元にあったジャンソンの概説書の序章に出てくる写真図版だ。ジャンソンが語っている内容とは必ずしも一致しないが私なりに問題点を引き出すことにした。ルネサンスの絵画や遠近法を考えるとき、これらは大きなヒントになる作品群だ。

第250回 2022年5月15

ルネサンスの図像学

 図像研究はもともとはキリスト教図像学からはじまる。何が描かれているか主題がよくわからない絵というのが出てくると、その物語はどういう物語かというのを調べるというのがこれの基本形だ。絵を見る場合に何が描かれているかということを抜きに見るみかたというのはある。たとえばこれはマリアでキリストでということがわかっていなくても絵を見ることはできる。

 近代以降の絵のみかたは、どんどんと絵のなかにある物語を消して行く作業だった。絵のなかに入りこんでいる雑多なものを削ぎ落とそうとする。その筆頭に上げられたのが神話的あるいは宗教的なテーマだった。シェイクスピアをはじめとした文学的テーマ、それらの挿絵になっているような絵を排斥していった。そうすると絵のなかに描かれているのはキリストでなくても、マリアでなくてもいいということで、そういう目が育つと別に主人公はその辺にいる「ただの人」でいいことになる。聖母マリアである必要もない。母親が子どもを抱いている絵だということで、誰が見てもそう見える。近代以降の絵のみかたはどんどん固有名詞をはずしていく方向に向かった。

 逆にルネサンスの歴史は、いかにして固有名詞を付け加えていく歴史だったかということだ。「個の礼讃」と言ってもよい。何でもない普通名詞のリンゴではなくて、エデンの園にある禁断の果実としてのリンゴであることを表現しようとして、どれほどルネサンスは苦労したかということだ。彼らはリンゴの肖像を描こうとしたのだ。個の礼讃は肖像画を賛美する。それは画家のステータスを確立するもので、職業的資質を支えてきた。しかし肖像画は一般の鑑賞者にとっては、当事者ほどに興味を引くものではなかった。肖像画は部外者にとっては面白みのないものだが、私たちが「モナリザ」に惹かれるとすれば、それは肖像画の域を脱しているからだ。描きはじめてから何十年という時間の推移が肖像画を人物画へと普遍化させていった。肖像画の完成年限を超えて、画家が持ち続けてしまったのである。渡しそびれた肖像画は、現代でも渡し忘れたまま手元に残ってしまった記念写真として、本人には知られないまま残されている。

 セザンヌの描くリンゴはアダムのリンゴではなくて、ただのリンゴだ。つまり一般名詞としてのリンゴを絵にしている。いかに一般名詞にしようとしてセザンヌは苦労したか。一般名詞としてのリンゴを実現するためには、それが腐るまで見続けることが必要だった。そうでなければリンゴは瞬時の肖像画にすぎない。16世紀のなかばルネサンスが終わろうとするとき、風景画や静物画あるいは風俗画が独立していく場合も、固有名詞をどんどん落としていく歴史だった。それによって絵というものがひとり立ちしていくという確信だった。単純にいえばアダムのリンゴだとわからせるためには、リンゴの絵にアダムを描き加えればいいということだが、アダムがいなくてもアダムのリンゴだとわからせるためにはどうすればいいか。ルネサンスの画家はそこで絵画を哲学することになるのだ。

第251回 2022年5月16

絵画とは何か

 最終的に純粋なものを追いつづけていくと、抽象絵画まで至る。絵とは何かという場合、絵のなかに描かれている内容を問題にすると、絵画でそれを行なう必要もなく、文学で小説でも書けばいいわけで、絵のなかに物語を読み取るということ自体が不純なものとなる。そうするとまずはかたちがあってふつうの一般的な日常が絵になる。これがいわゆる写実主義(レアリスム)の段階だ。そしてその写実主義をもっと押し進めていくと、光と色に還元されてしまう。この世のなかというのは意味のない世界だ。世のなかに意味はなく、光が反射して目に入ってくる、それだけの話だ。どんなものでも光と色の世界だということに行きつくのが印象派の世界観だ。

 大きなイズムの変革のように見えるが、社会的リアリズムが物理的リアリズムに変わっただけの話である。絵画が社会科学の領域から自然科学の領域に変わったということだ。それならさらにそれ以前、人文科学の領域としての絵画の時代があったということだ。ルネサンスは人文学が結晶した時代だった。

 印象派は写実主義を追い続けて、それを究極的なところまで推し進めたものだ。印象派が行きつくところは光と色の洪水になってしまう。モネが水面を絵にする。水面を見つめてそんなものが絵になるのかと思う。あるいは積みわらという主題。わらが積んであるだけで、なぜあんなものが絵の主題になるのかと思う。モネが見ていたのは水面や積みわらではなくて、それが目に入ってくる光だった。

 そこまで行きつくと絵画はその先がなかった。赤なら赤一色で画面を塗りつぶす以外になかった。色のついた平面だというのが、絵画の最終的に行きついた定義だった。この行きつきようのない虚無主義(ニヒリズム)で絵画は崩壊する。そしてさあどうするかというのが次の出発点だった。それが20世紀に入ってからの基本的な絵画史の流れだと思う。ルネサンスから出発して、たどってみれば危うげながらも現代にまで行きつくのである。

 それにしてもなぜそんなにも「絵画」にこだわる必要があったのか。それはたぶん、そもそもがただの色のついた平面でしかないはずの絵画に、それ以上のものを、言いかえれば目に見えるものだけではなく、思想や宗教をはじめあらゆる「知」を盛り込もうとしてできあがった結晶が絵画なのだということを、だれもが暗黙の内にわかりあっていたからではなかったか。そしてこの絵画理念のルーツがルネサンスにあることは、まずまちがいはないだろう。人の目はカメラのレンズとちがって、光の反応だけではなく、それを超える心眼とも呼べる機能をもっている。それは視覚を超えた全身で感じ取る直感、日本でいえば「勘」という語に対応するものにちがいない。真贋を見極める研ぎ澄まされた感覚が、そこには息づいている。

 絵画の勝利はすでに原始時代の洞窟壁画からあったものだろう。そこでは野獣がリアルに描かれたが、その胴体はしばしば槍や矢で射られている。それが獲物をしとめるための祈りだとすれば、そこには絵画の力が実現している。現代ではそんなことで獲物が手に入ったりはしないと考えるだろう。科学的根拠の希薄な迷信として退けるほどに絵画の力は失墜したのかもしれない。しかし少し前まではわら人形に釘を打ち込むことで、日本人は呪いの実現をめざしていた。この儀式を思い浮かべると、洞窟壁画の図像学は理解しやすいものとなるはずだ。力では歯が立たない場合、呪い殺したいと思うなら、それは暴行を避ける平和思想でもある。そのとき敵は自然の猛威のこともあるし、人道をはずれた狂気の場合もある。呪いは形を変えた祈りのことだ。印象派の画家には洞窟壁画は描けなかっただろう。


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