第9章 ヌーヴェルバーグ

映画作家/勝手にしやがれ/大人はわかってくれない/去年マリエンバードで/手持ちカメラ/カメラ目線/カメラを止めるな/俺たちに明日はない/卒業/イージーライダー/松竹ヌーヴェルバーグ/ATGの創作活動/ATGの上映活動

第457回 2022年12月30

映画作家

 「映画は面白いだけではだめだ」という主張が、反ハリウッドを鮮明にするヨーロッパから、ヌーヴェルバーグ(新しい波)と銘打ってフランスで開始する。個人映画の色彩が強く、性に目覚め社会に目覚める若者の目を通して、時代が切り取られていく。日本では松竹ヌーヴェルバーグという形でこれと同調し、ATGの自主映画の制作活動へと受け継がれていく。この動向はアメリカでもニューシネマの名のもとで、勧善懲悪とハッピーエンドを信条とする従来の映画観からの脱皮が図られる。アートの名のもとに刺激性の強い映像美に走る場合には、エロ・グロ・ナンセンスに陥ることも少なくない。それは体制に対する批判を伴って、若者文化のメッカを築くことになる。ときに大衆性を失って孤立する場合も少なくない。

ハリウッド映画に対抗して、フランス語だからフランスから起こってきた運動だとわかる。映画の運動は戦後新しい映画をつくろうという、実験映画も含めて反ハリウッドというのろしを各地であげはじめる。1960年代に起こる運動だが、ことに1968年がエポックメーキングとなる。フランスでは五月革命の名で学生運動が爆発する。

日本にも飛び火してくるが、若者たちが既成の文化を否定して自分たちのものをつくりあげたいという、一般には若者文化という名でくくられる60年代の傾向だった。大学紛争をベースにしながら、大学内のキャンパスで起こってくる文化運動をスタートとした。日本でも演劇や映画で過激な表現を引っ提げて、商業映画を否定するような形でのろしがあがる。

フランスがきっかけで、そこから飛び火をして日本にもやってくるし、アメリカやドイツなど世界各地になだれ込んでいく。1968年はフランスに起こった若者の暴発で、大人の政治に対する不満が一挙に爆発する。大学内に警察が入り込んで治安を維持しようとするが、いうことを聞かずゲリラ戦が展開された時代だ。日本でも東大紛争に飛び火して、入試ができなかった年があった。

ハリウッドに対抗するということは、自分たちの手で映画がつくれるのだという自覚ができてきたという表明だった。ハリウッドは大きな予算を組んでスタッフやエキストラを動員して制作してきた。膨大な費用がかかる。映画をあこがれる場合、なんとか大手の制作会社に潜り込んで、助手をしながら助監督、そして監督へとはい上っていくしか道はなかった。ハリウッドから日本でも飛び火したシステムだった。カメラは進化し、小型化し、最初は写真の領域だったが、高価な車一台分ものカメラが、やがて誰の手にも入るように、安価に普及していく。

誰もが写真を撮れる。写真家という職業が成り立たないほどアマチュアカメラマンが幅を利かせていく。映画の世界でも同じようなことが起こってくる。小型カメラが発明されて普及していった。普及していかないと高価なままで、個人の手には届かない。フランスのお金持ちのおぼっちゃんたちがカメラを手にした。動画を写せるカメラで出発点では八ミリカメラだった。日本でも同じように個人映画がスタートする。映画監督というより、映画作家というのがふさわしい。オモチャ代わりに映写機を手にする。大学の映画サークルでは頭でっかちな映画青年が活動を始める。これがヌーヴェルバーグだ。新しい波、英語ではニューウェーブとなる。

第458回 2022年12月31

勝手にしやがれ

 1959年にできあがった何本かの映画がある。なかでもジャン・リュック・ゴダール(1930-)の「勝手にしやがれ」(1959)が出発点をなす。まだ20代の若者だった。自主的につくって仲間内で見たのならそれで終わりだ。封切にまでこぎつけていく。自主映画だが公開を前提にしながら広まっていく。配給映画が支配していたが、映画館で上映しなくとも、大学内では体育館や講堂でよかった。スクリーンと映写機があれば、あとは幕を張って暗くすればよかった。草の根的に広がっていく。ハリウッドではつくれないような映画が誕生する。同じ映画だが今まで見たことのないような映画の誕生だった。

勝手にしやがれ」は劇映画なのでストーリーはある。そんなに長いものではなくせいぜい90分だ。ハリウッドでは超大作が誕生して3時間を越えるような歴史スペクタクルが上映された。そこに身近な日常生活をそのままスクリーンに載せたような、配役も素人くさく職業としての役者ではない。そのほうがかえって新鮮に見え出してくる。ハリウッド映画として大掛かりなものを見続けていたのに飽きがきているなかでの新鮮さだっただろう。

 ヌーヴェルバーグとしてゴダールとフランソワ・トリュフォー(1932-84)が中心になる。大衆的に受け入れられるためには勲章が必要になる。批評家ごのみのペダンチックな暴走を楽しんだ。映画祭での受賞が手っ取り早い。若者の間で話題になっているといううわさはすぐに広がっていく。そこに目をとめた何人かの審査員たちがいた。映画評論家がおもしろがってくれて、カンヌ映画祭がとりあげる。アート系のプライズで、映画を芸術としてグレードアップしていこうという方向性が強い。フランスで生まれた賞でもあるので、アメリカのアカデミー賞などに比べるとアート系の素地はあった。

第459回 2023年1月1日

大人はわかってくれない

キャリアのある映画監督ではなくて新人監督を引き上げて、トリュフォーの「大人はわかってくれない」(1959)をいきなり監督賞にあげた。母親の連れ子という少年の新しい家族関係からくる歪みが描かれる。犯罪に向かう少年の憂鬱げな無表情は「ドイツ零年」にも似るが、絶望ともちがう虚無的実感を宿している。ラストシーンは束縛から逃れて走り続ける少年を、長回しで追っている。逃走のはてたどり着いた海辺でみせる一瞬の表情を、カメラが回り込むようにクローズアップして止める余韻は、みごとな情趣を写し取っている。

賞を取ると世界的に上映権を得ることになり、日本にも紹介される。作者の分身であり、13歳の少年を起用して、あて振りの演出をおこなってつくりあげたもののようにみえる。少年はその後ヌーヴェルバーグの顔となっていくが、俳優にはなりきらずいつまでも地の持ち味を残し続けていたように見える。

脚本を練り上げて文学性の高い映画をつくるというのではない。脚本はあるが最後はどこにたどり着くかわからない。予定調和ではないおもしろさは、筋も撮影現場でどんどん変えていっていいのだという映画論が生まれてくる。日本でも演劇でこれに同調したのは、つかこうへい(1948-2010)の口立てによる演出だっただろうか。これまで文学であった演劇を、脚本第一主義から解放した。

 「死刑台のエレベーター」(1958)もマイルスデイヴィス(1926-91)の即興的なスタイリッシュな曲に合わせて、ドキュメントタッチで進行する。エレベーターに閉じ込められたハラハラドキドキは、ヒッチコックタッチといってもいい。エレベーターに閉じ込められて話は思わぬ展開を示す。何が起こるかわからないというストーリー展開は、起承転結をくつがえすことで、伝統的なドラマトゥルギーへの反逆を表明するものだった。

第460回 2023年1月2

去年マリエンバードで

「去年マリエンバードで」(1961)は映像独特の解釈のあいまいをおもしろがった一作だ。ヌーヴェルロマンという新しい小説の運動のなかで、意識の流れを記述する。映画と同じように小説にも独自の文法がある。時間枠にそって推移する歴史ではなくて、過去と現在が行き来するトリックを多用する。見てきたような嘘をつく講談師といってもよい。

去年マリエンバードで恋愛関係にあったといわれて、身に覚えがないので否定する。何度も繰り返されると、自分のほうが忘れているのかと思い始める。そのとき恋愛関係にある男女の映像が映し出されると、それが誰の見た映像なのかは、観客は判断ができない。庭園で二人の影が立つが、それはいかにもとってつけたような立ち方になっている。脈絡なく目的もなくあちこちを向いている。写真家カルティエ・ブレッソン植田正治の無機質な人物の置き方に似ていて興味深いものだ。

事実なのか仮定なのか夢想なのかを、映像はあいまいなまま置かれる。何度も否定した挙句、最後に男女は手を取りあって、その場をあとにする。このとき、もはや事実関係はどうでもよい。恋愛を思い出したからではなく、いま恋愛が誕生したのだ。どこかで会いましたね、というのはナンパの常套手段だとすれば、この実験映画は急に俗っぽい大衆映画に変貌する。

 真実があいまいなまま置かれた映像の事実が積み重ねられていくのは、劇映画の醍醐味となるものだ。映像はつねに真実を写すのか、あるいは妄想としてその人の頭のなかに思い浮かべたことが、いまスクリーンに映っているのかはわからない。見るほうが勝手に判断する。日本映画では「羅生門」(1950)がこれに先立って追究したものだった。

第461回 2023年1月3

手持ちカメラ

今までにない映画の文法をつくりあげていった。ここに至るまでに映画づくりのしきたりがあった。カットの文法やクローズアップの技法という旧来の手法をひっくり返すような試みがなされる。「勝手にしやがれ」ではまず手持ちカメラ、カメラを手で持って移動するので画面は揺れる。ハリウッド映画では揺れない。クレーンで上下しながら滑らかな動きを追究する。台車に載った移動カメラがみごとなロングショットを生み出していく。これに対してゴダールの映画では、カメラマンが歩く人を前後から撮影し画面は揺れる。

オーソン・ウェルズ(1915-85)の手がけたフィルムノワール「黒い罠」(1958)の冒頭で知られる、みごとなカメラの移動をなじっているようにみえる。フィルムノワールというフランス語を使われて、こんな大掛かりなカメラワークをされると、フランスの映画青年は必要以上に反発することになる。

「勝手にしやがれ」(1959)では、見る側の臨場感はあるが、長く見ていると酔っぱらってくる。何だこれはという撮影術だが新鮮に受け入れられた。しかも主人公がピストルに撃たれてよろよろと歩くのを追う場面に使われると、かえって効果的に見え出す。「黒い罠」の側から見れば、同じモノクロ映画なのに、こんなカメラワークが可能なのだという自負心が見えてくる。それはハリウッドの成果としてあまりにもみごとな長回しなだけに、若き日の「市民ケーン」(1941)での映像に向けてのウェルズの実験的野望が変質したようにもみえてくる。ヌーヴェルバーグはハリウッドの文法から見れば邪道だが、邪道という限りは、ハリウッドがあってこそのことだった。多くのことを批判的にハリウッドから学んでいる。

第462回 2023年1月4

カメラ目線

「勝手にしやがれ」では、カメラに向かって語りかけるというのも斬新な試みだった。突然カメラに目を向けてセリフを語る。一瞬誰に言っているのかと戸惑う。撃たれた主人公は通りまで来て倒れる。恋人があとを追いかけてきて、顔を手でおおう。死ぬ間際の主人公が何かひとことを言う。聞き取れなかったからか聞き返す。カメラ目線は誰に対して語っているかは文脈からわかる。つじつまの合わないセリフがはさまれると見る側は戸惑う。まさかと思うがよく考えてみると、見ている我々に向かって言っているのだと気づく。そして彼女は振り返り、そのまま「終」(FIN)の画面になる。

映画は常に第三者の立場であって客観的に写しだすものだった。カメラ目線という語があるが、映画ではカメラに目を向けないのがドラマトゥルギーとしてあった。そこにまっすぐにカメラを見つめてしゃべると不思議な違和感を感じる。今ではそういう演出は増えてきたので、真正面を向いてカメラ目線でしゃべっていても抵抗はない。鑑賞者に向かってのセリフではないという理解ができている。すでに小津安二郎(1903-63)の映画ではしばしば二人の対話で、それぞれを正面から写し出し、画面を切り替えてカットをつなげている。

カメラに向かってしゃべるのは、鏡を見ているときの自問と読み取るのが、常識的な解釈だろう。それを見ている観客に向かって語っているという解釈が出てくると、これまで額縁内でおさまっていた安定した世界に揺さぶりがかけられる。60年代の芸術運動全般の動向は、参加を呼びかけ、安全地帯にいる知識人を批判した。演劇でのテント演劇や小劇場の台頭は歩みをともにして、映画でも美術でも同調するものだった。

カメラとは何だろうかという問いかけが、映画においてなされた。今まではカメラはカメラであってカメラではない存在だ。観客は安全地帯にいた。壁穴から事件を見ているようにカメラは隠れてきた。壁穴に気づいた者がカメラに目を向ける不審なまなざしが写し出されると、のぞき見をしていたときに見つかった何とも言えない後ろめたさに似た感覚がある。そこに傍観者から「参加」へといざなうカメラの目が意図される。これは大した技術を要するものではない。ふつうのカメラワークでよい。トラクターやクレーンを用意して、アメリカの大資本でしか写せないような機材の勝利ではない。対ハリウッドという点ではだれでも映画は撮れるという表明となった。見ているものにはこれくらいなら自分でも撮れるという気を起させる。今まで映画は映画館の暗いなかで目を凝らしているものだった。画面を見つめるということで成立していたが、自分自身がスタッフとなって入り込めるという裾野の広がりや、日常空間の延長上にあるという意識が出てきた。大スクリーンではなくカーテンを引きはがして壁に掛けて布に映すのでもよさそうなものに展開していく。低予算でも大当たりをすれば稼げるということもヌーヴェルバーグは教えてくれた。個人映画というスタイルがここで定着していく。

第463回 2023年1月5

カメラを止めるな

カメラの目が気にならないまで慣らされると、ドキュメンタリー映画の文法が、今までの撮影術を否定して確立される。「勝手にしやがれ」のドキュメンタリータッチの印象は、観客が身近にいて、インタビューに応じているような臨場感からくるものだ。カメラの存在をめぐり、ドキュメンタリーと劇映画は対比をなしている。

近年の「カメラを止めるな」(2017)の快挙はヌーヴェルバーグのオマージュと受け止められる。カメラを写しているカメラを撮るということ。いわばメーキングということだが、メーキングなのか本編なのかがわからず錯綜するおもしろさがある。「カメラを止めるな」というセリフをカメラに向かって発する。その後のメーキング映像ではカメラを止めるなと言っている監督とそのカメラを別のカメラによって写し出される。複雑な構造になっていく。日常が延長上にある。

映画はつくられた世界でスクリーンのなかだけで成立するものだ。それを写しているカメラは常にある。まわりにはスタッフがいっぱいいながら撮影している。そういう撮影現場があって、それは普通は隠れている。隠れている撮影現場を本編に入れるとおもしろいぞと言ったのがヒッチコックだった。ヒッチコックの発想をトリュフォーがインタビューをしている。それをのちにトリュフォーが作品に取り入れる。

アメリカの夜」(1973)は撮影現場を写しているが、最初はそれは見えない。スクリーンの画面だけが見えている。やがてカメラを引いていくとまわりのスタッフが見え出してくると、撮影現場だったのだと気がつくという仕掛けになる。映画自体は劇中劇になっている。劇中劇は合わせ鏡となる。鏡に映された鏡なので、本当の鏡か写されたイメージの鏡なのか区別がつかない。

映画はすべてがイリュージョンなのだが、実物があるということを前提に鑑賞者は見ていく。そこでカメラに向かって「カメラを止めるな」と言われるとはっと驚く。こうした画中画的手法は、その後ジョーン・ジョナスのメディアアートでも引き継がれる。大林宣彦の「北京的西瓜」(1989)もまた、天安門事件による撮影の破綻が引き起こした未完成の完成は、この実験的映画学にしたがった成果だった。

第464回 2023年1月6

俺たちに明日はない

制作費は安上がりでも入場料金は均一である。ハリウッドは制作費をかけてヒットを狙うが、それに十分対抗できるという確信は、ヌーヴェルバーグの影響をつうじてアメリカにも飛び火していく。アメリカンニューシネマとして若者映画の代名詞にされている三本のヒット作が登場する。「俺たちに明日はない」(1967)は自暴自棄な日本語タイトルだが、若者の暴走というイメージづくりに役立った。原題はボニー&クライド、男女二人組の銀行強盗の悲劇である。最後は蜂の巣のように機関銃で撃たれて死ぬシーンは衝撃的で話題を呼んだ。

悪人が主人公となる悪漢小説の映画ヴァージョンである。これまでのような正義の味方はあまり出てこない。最後は死でハッピーエンドはない。あっけなく死んでしまうパターンが多い。ドラマには盛り上がりがあって最後は死に至るとしても華々しい演出が施されるものだった。クライマックスはなく、なぜこんなところで死ぬのかという、中には主人公が登場してすぐに死んでしまうことも起こる。つまり人生ドラマじゃないということだ。ドラマにならないドラマをあえてドラマにしてつくる。

第465回 2023年1月7

卒業

同じ年に「卒業」(1967)が制作される。主演を演じたダスティン・ホフマン(1937-)は名優ではあるが、ゲーリークーパーやグレゴリーペック(1916-2003)といった往年のハリウッドスターとは対極にある。個性的な味のある役柄を演じるためには不可欠な存在感を示した。風采のあがらない大学生を演じ、ヒーローらしくないヒーローで、悩み多き大学時代を彷彿とさせる、大人にとっては甘酸っぱい青春の回顧となった。夢と現実が乖離し、誘惑には弱く、軽はずみがあだとなる。最後は結婚式場に殴り込み、かつての恋人であった花嫁を略奪してバスで逃走する。カメラはバスでの二人の表情を写し出す。ハッピーエンドのはずなのに表情は暗い。前途を考えればふたりはともにすっきりとはしない。バスに乗り込んだ時の笑いがゆっくりと消えていく。そこで映画は終わる。

とんでもない話だが「俺たちに明日はない」と同時に、未来が見えない若者像がアメリカ特有の表情を浮かび上がらせた。ベトナム戦争に深入りして泥沼に陥る現況を背景に、アメリカ青年は否応なく戦地に送られて負傷し、あるいは死んで帰国する。未来は決して明るくはない。先が見えない鬱屈が画面にあふれている。鑑賞はそれに共感するという対し方だった。

日本に入ってきたときも熱狂的に受け入れられ、学生のみるバイブルのように機能した。日本ではアメリカとはちがって、若者が戦地に駆り出されることはなかったが、共感はできた。国を守るという使命感と悲愴感のある敵を前にして、アメリカが勝てるわけはなかった。20年前は原爆を用いたが、もはやそれが許される時代ではなかった。

挿入歌「サウンドオブサイレンス」をはじめサイモンとガーファンクルが全編を歌で飾り、ほとんどがヒット曲となった。ビートルズではないアメリカでの新しいサウンドを感じさせた。ロックでもフォークでもないニューミュージックの予感を共有できるものだった。

第466回 2023年1月8

イージーライダー

少し遅れて「イージーライダー」(1969)が登場する。二人組の若者がアメリカの大平原を改造バイクで移動する。筋らしきものはないロードムーヴィーだったが、スタイリッシュで感覚的に入っていくことができた。いつもバックグラウンドで音楽が響いていたが、何十年たって見ても古びてはいない感じがする。クスリに頼り朦朧となりながら、ちょっとしたいさかいで恨みを買って、最後はあっけなく撃たれて死んでしまう。虫けらのような無意味な死は、アメリカの若者にとってはベトナムでの戦死を思わせるものだった。なぜ殺されなければならないかという不条理な死が余韻を残す。権力や警察の恨みを買って、不良に対する正義の当然の報いが鉄槌として打ち下ろされる。世界一豊かな国なのに、若者たちはなぜこんな国に生まれてきたのかと問った。

大きな資本を投入してつくったものではないが、今見ても新鮮なのは、映画の基本をはずれてはいなかったからだろう。大手の映画会社の配給映画と同等に既成の映画館で上映する。若者の自主映画だとしても、大資本に取り込まれてしまう現状がある。60年代は音楽でいえばフォークソングの時代だが、日本でも街中で路上ライブしていた地方都市の才能がメジャーに取り込まれ、一躍スターダムにのし上がっていった。

大手のレコード会社が自前でコピーしたスターをつくりあげていく。和製フォークの名でくくれるものは、操作性のある作為が感じ取れる。路上でのプロテスタントとレジスタンスが、既存のスタイルとなって模倣される。アメリカでのニューシネマは、フランスでのヌーヴェルバーグとは、いくぶん異なっていたようにみえる。ダスティン・ホフマンがその後ハリウッドの大スターに飛躍していくところをみると、一続きの路線が引かれていたということでもある。

第467回 2023年1月9

松竹ヌーヴェルバーグ

 日本のヌーヴェルバーグも少し遅れてやってくる。松竹ヌーヴェルバーグの名で語られる。松竹は日本を代表する映画会社だった。そこから起こってくるというのは、奇妙なことのようにみえる。下から湧き上がってくるのではなくて、上から降りてくるという印象だ。現代用語ではトップダウンということだ。大島渚(1932-2013)、吉田喜重(1933-)、篠田正浩(1931-)という若い映画監督が誕生する。反逆児といってよいが、ともに高学歴の知的エリートだった。大学を出て入社し、助監督としてキャリアをはじめる。文学部や法学部卒で、大学で映画を学んだわけではない。映画好きの青年だった。

松竹はその頃、小津安二郎という名監督がいて、若手にとっては反感を抱かせるに十分な厳格な巨匠だった。ことに吉田は反発を感じながらも映画術を盗み取り、自分のものにしていった。その後三人とも松竹を抜け出して、独立プロを組織する。松竹ヌーヴェルバーグはお仕着せの革新運動だったが、監督に抜擢し若者の感性に期待したが、裏切られたという思いがあっただろう。手塩にかけて育てた看板女優がともに監督の妻となって去っていった。映画監督があこがれの職業になるのもこのころからだろう。松竹時代に手掛けたものとは異なった自主映画を、それぞれのプロダクションが独立して量産していく。松竹ではその後、小津安二郎の庶民性を受け継ぐのが同世代の山田洋次(1931-)ということになるだろう。

 アメリカでハリウッドを否定し、日本で五社体制を否定したとしても、ヒッチコックや黒澤や小津は高く評価されている。彼らが大手の映画会社にどっぷりとつかっていたからこそ大成したという点は、現存する諸作品が証明している。

 ヌーヴェルバーグに影響を与えた日本映画は「羅生門」など世界的評価を得た作品もあげられるが、中平康(1926-78)の「狂った果実」(1956)も見落とせない。日活のつくった娯楽作品だ。石原裕次郎(1934-87)という名優のためにつくられた。石原慎太郎(1932-)が兄で脚本を用意した。無軌道でどこに行くかわからない暴走気味の若者の生態を写し出す。「太陽の季節」(1955)という小説から太陽族という若者文化を引っ提げて、石原慎太郎が文壇に登場した。それを映画で表現したのが弟の裕次郎だった。この兄弟仁義を通して、キャラクターを生かしながら五〇年代に築き上げられた文化がフランスに影響を与えた。それが逆輸入されるようにやってきて、エンターテイメントがアートとなった。日本の映像美は捨てたものでない。浮世絵の再評価のようにみえてくる。

 吉田喜重の「ろくでなし」(1960)は、タイトルからもどうしようもない不良青年の物語が目にみえてくる。「勝手にしやがれ」と共鳴し、最後に主人公はピストルに撃たれて死ぬ。その時のカメラワークはゴダールそっくりだ。「秋津温泉」でもどうしようもない男としっかりものの女という対比はヌーヴェルヴァーグの典型だが、近松劇から引き継がれたものでもある。

大島渚では政治色の強さが浮かび上がる。後年は「愛のコリーダ」(1976)などでフランス映画界に打ち出していく。晩年に朝まで怒鳴り散らしていた記憶のほうが強いかもしれない。「絞首刑」(1968)や「少年」(1969)などはインパクトの強い社会問題を扱う。「少年」は当たり屋の家族を描く。「万引き家族」(2018)の前身のような作品だ。「絞首刑」は死刑囚のドキュメンタリータッチの作品で、立っている板が外れて首吊り状態になるがいつまでも絶命しない。凄みのある状況をコミカルタッチで描き出している。

篠田正浩の「心中天網島」(1969)は美術が際立っていた。セットが凝っていて監督の親戚になる篠田桃紅(1913-2021)が前衛書を提供し、粟津潔(1929-2009)がデザインを手がける。文楽人形と謡いの声からはじまる。伝統と前衛という点では、ギリシャ悲劇を現代に生かそうとするピエル・パオロ・パゾリーニ(1922-75)の前衛精神に似ている。岩下志麻(1941-)が女房と遊女の二役を演じるというのは、人形劇では感じ取れない衝撃的な感覚を味わう。同じなら女房だけに目を向けていればいいのに思ってしまうが、それでも愛憎が生まれるところに人間存在の複雑さがあるということだ。

第468回 2023年1月10

ATGの創作活動

日本アートシアターギルドはATGの略称で知られた組合組織である。1961年に設立され、大手の映画会社に対抗して自主上映を継続する。1000万円の予算で新作をつくり続けるシステムで、芸術としての映画を探求し、具体的な創作に向かった。最初は名画鑑賞会としてスタートし、ゴダールやそれに先立つ名監督の作品を紹介する。やがて新作上映会に方向転換していく。50年代までにはたした大手五社の貢献は特筆できるが、それをこえて自主制作で続けられた独立プロによる諸作品は見落とせない。ATGではほとんどはアート系で興行成績は振るわなくとも、日本映画史の主要部分を形成していく。会員制で一定の観客は期待できたが、全国どこででも鑑賞できるものではなかった。東京、大阪、福岡といった主要都市の提携館に限られていたが、映画通に支えられて手ごたえは十分にあった。その後の日本映画のレベルアップに貢献した。

新藤兼人(1912-2012)の「裸の島」(1960)ではセリフはひとこともない。ただ淡々と水を運ぶ女の姿が写し出される。監督の妻である音羽信子(1924-94)が寡黙な女性を演じた。水を汲んでは島の上まで運ぶ繰り返しだ。シジフォスの神話を思わせる不条理の人間存在を写し出したが、哲学的思考ではなくリアリティが思弁に勝っている。よろめいて水をこぼしてしまったときに主人からなぐられる非情も映像の刺激としては加味されて、見ごたえのある映画になった。

松本俊夫(1932-2017)の「薔薇の葬列」(1969)はピーター(1952-)を主役に、オイディプス伝説を下敷きにし、最後は目をえぐり血だらけになった盲目の姿が写し出される。その後の「修羅」(1971)では、鶴屋南北の嗜虐美を下敷きにしたあまりの血なまぐささに、ATGの活動を支えていた女性ファンが、何人も席を離れる姿を記憶している。20年後になってビデオが発売されて再会したが、当時感じた強烈な印象はなく、感性の老化と嗜虐美の惰性を感じた。三島由紀夫(1925-70)の「憂国」(1966)もATGにかかったが、同様のことが起こっていた。

寺山修司(1935-83)も演劇人だが映画も手がけ、意味の通じない展開だが「田園に死す」(1974)をはじめ、独特の映像世界が誕生する。ひな人形が川に流れたり、寒々とした荒野を連なって歩く一群の無言は、いつまでも尾を引いている。その頃、恐山に旅行をしたのもその影響だった。歌人の感性だろうか、童歌で「後ろの正面だあれ」という一節がこびりついて、その後耳にすると背中に冷たいものを感じることになった。ATGの最後の世代に属するのが大林宜彦(1938-2020)で、男女が入れ替わる「転校生」(1982)がATG出発となる作品だった。

第469回 2023年1月11

ATGの上映活動

 自主制作に先立ってATGでの上映会を通じて影響を与えた映画監督では、スウェーデンからはイングマール・ベルイマン(1918-2007)。神の存在を問う、キリスト教の知識を必要とするものもあるが、白黒のなかに重厚な映像美が浮かび上がる。ヒッチコックはイギリスでのサスペンス映画の巨匠だが、トリュフォーに影響した。ハラハラドキドキさせる映画づくりの秘訣が「ヒッチコックの映画術」として書籍化されている。ヒッチコックの娯楽性ではなくてアートフルな部分に注目したものだ。

 イタリアからはフェリーニ、アントニオーニ、パゾリーニ。戦後のネオリアリズモの系譜からたどれるものだ。フェデリコ・フェリーニ(1920-93)の出発点は「」(1954)だが、サーカスをベースにしたセンチメンタルな物悲しいドラマだが、リアリティにあふれている。知能が少し遅れた純真な娘と、大道芸の粗暴な大男との愛憎が描き出される。荒くれ男にとって聖母マリアのような存在でもあったパートナーの死後、夜の浜辺で慟哭する大男の嗚咽はいつまでも余韻を残すラストシーンとなった。

それを経てリアリティを脱し、「甘い生活」(1960)や「81/2」(1963)へとストーリー性の希薄なファンタジーへと展開していく。難解とも取れるがイタリア独特の鳴り物入りの陽気な狂騒を示す。サーカスの道化師が定番のように出てくる。「81/2」は映画監督の日常生活を切り取ったメーキング映像のようにみえる。世界をおどけてみせるような虚構性にイタリア的人格の悲喜劇を浮かび上がらせる。独特の映画世界をつくりあげていった。ミケランジェロ・アントニオーニ(1912-2007)の「欲望」(1966)は何気なく撮った写真の隅に写し出された殺人現場というミステリアスな仕掛けがドラマを展開させていく。一貫して愛の不毛を問い続けたが、「さすらい」(1957)ではまだ一般に受け入れられるストーリー展開はあった。その後社会的通念を逸脱して、人格的破綻が暴走していく。

パゾリーニは嗜虐美を前面にソドムの市などサドマゾ的映像を探求する。最後は凄惨な死を経験する。「アポロンの地獄」(1967)はオイディプス伝説を下敷きにするが、イタリアの現代の情景からはじまっている。父親を殺して母親と交わるという、ある意味では普遍性をもった情念の話だ。自分の運命を呪って、目をナイフで突き刺し盲目となる。映像は荒野の平原が写し出されるが、イタリア版西部劇であるマカロニウエスタンの荒涼とした原野を彷彿とさせるものだ。今日のギリシャの風土に対応して文明が過ぎた廃墟を呼び起こす。父を殺し母と交わるというアポロンの信託から逃れながらも、その運命に落ち込んでいく悲劇は、不条理な現代社会を象徴的に語ってもいる。現代と古代とが錯綜している。ヌーヴェルバーグに先立ったイタリア映画の50年代以降の活動である。先にあげた「薔薇の葬列」と抱き合わせにして見てみると興味深い。


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