岡山芸術交流2019

2019年09月27日~11月24日

オリエント美術館・天神山文化プラザ・林原美術館・旧内山下小学校


2019/10/11

 オリエント美術館では所蔵品の合間のスペースに、現代アートを紛れ込ませている。といっても数点の展示なので、気をつけなければ見過ごしてしまっている。入り口にはライアン・ガンダーのキャプションと解説があるが、作品はない。この人にはいつも悩まされる。腹立たしく不愉快な場合も少なくない。にもかかわらず、肩透かしを食わされた憤りを過ぎると鮮やかな切り返しに唸らされることになる。

 先日見たのは豊田市美術館のものだっただろうか。人がすっぽりと頭からヴェールに包まれた見事な彫刻だったが、作者名を見るとライアン・ガンダーとあった。素材は大理石となっている。柔らかな肌ざわりは超絶技巧に属するものだ。ベルニーニかロダンかという比較もしたくなるものだった。もちろん本当に、という疑惑はわく。本当に大理石なのだろうかというのが最初の疑問だ。次に発注芸術という語が脳裏をかすめる。キャプションの文字は現物以上に信頼性を確保している。美術館だと触ってみることはできないから、樹脂であってもわからないだろう。私などでは触ってもわからないかもしれない。

 かつて大阪でガンダー展を見たとき、ゴミ袋が転がっていた。作品だと思うから触らなかったが、蹴飛ばせば足が跳ね返ったかもしれない。つまり何かを仕掛けているのだ。子どもの悪戯と思えばそれで終わってしまう。今回もそんな肩透かしだった。河口龍夫の海外バージョンだと見てもよいだろう。

 真相はボランティアの人に尋ねないとわからない。やたら監視員の多い理由はそこに由来するのだろうか。匂いの作品もあったが、これもキャプションはあるが作品はないというパターンだ。匂いがするでしょうと声をかけてくれるまではわからない。見ないまま通り過ごしたものも多かったはずである。

 もっと言えば、「通り過ごさせるために作られた作品」もあっていい。それは神話となり、芸術伝説とはたぶんそんなものではないかと思う。オリエント美術館では勇気を出して聞いてみた。そうでなければ、入ってすぐのロビーの中央にある、空気を送って動く三体の人形だけしか見なかったはずだ。ここには何点あるのという質問に、返ってきた答えは4だった。見終わっての総括は、なあんだというため息だったが、このため息は平和で心地よい満足感に満たされていた。

 天神山文化プラザが次の会場である。ここではだだっ広い二室に、メディアアートが展示されている。ひとつは地下の薄暗い部屋に、雪解けのような靴の軋みを体感させる作品。もう一点は壁に無数の空気穴を埋め込んで、そこから送風する仕掛けである。床には四角い穴が開けられて、黒い水を貯蔵している。見ると規則正しい波紋が機械的に繰り返されている。説明によると人間のツボのことが書かれていたが、最先端の科学のように見えて東洋医学なのかと、そのギャップにアートのジレンマを見た気がする。

 林原美術館では所蔵品は撤去されていて、現代アートだけが夜の倉庫と化した展示室を占拠していた。林原の所蔵品とどう絡むのかと期待したが、期待は外れてしまった。そして、オリエント美術館との違いを面白く受け止めた。オリエントにとって重要なのは国際交流だが、林原が真髄を伝える江戸にとっては、鎖国が唯一の交流のあり方だったように見える。それならこのイヴェントに参加しなければよいが、場を提供するという背反する屈折的論理が興味深いところではある。大袈裟に言えば明治維新の暗喩とも受け止められる。

 メインの会場は旧内山下小学校にあった。廃校を利用するのは、現代アートの定番だし、思い切った実験も可能だ。3年前の時は、県立美術館とオリエント美術館の間の撤去ビルを使った展示が、輝きを放っていた。今は地元の放送局の新社屋が建設中だ。今回は残念ながら3年前のような感動は得られなかったが、たぶんそれは私の加齢のせいだ。

 似たシチュエーションで二度目の感動を得るのは難しい。それはインスタレーションというジャンルそのものの限界でもある。再開発や地域活性化にアートが利用される場合、インスタレーションが合言葉になる場合は多い。廃校を面白がっている限りでは、単なるお化け屋敷の余興としてしか、機能はしていないようにも思う。場は確かに重要だ。3年前にジョーンジョナスに感銘を受けたのは、オリエント美術館の仮設の密室だった。荒木悠に感動したのは廃屋にまつわる仮装の伝説だったが、その後の東京での個展も秀逸だった。しかしインスタレーションである前にしっかりとした映像の作り込みに、感動の原点があることは間違いない。


by Masaaki KAMBARA