DOMANI・明日2020 傷ついた風景の向こうに

2020年01月11日~02月16日

国立新美術館


 震災の復興を視野に入れて、かなり恣意的な企画者の意図が見えるセレクションだった。私もこれまで繰り返し見てきたなじみの作家の追想にも過ぎないのだが、それでもどんなまとめかたがされているのかが気になっていた。はじめての作家も混じっていたので、その興味もあった。毎年この時期に恵比寿の映像祭と抱き合わせに東京を訪れているように思う。DOMANIは若い作家のパワーを期待できる展覧会の一つなのだが、作家の平均年齢が上がったぶん、会場は落ち着いて見えた。悪く言うと天井の高い大空間だけに間延びしてもいた。

 最後の締めくくりは畠山直哉で、企画意図からは妥当なセレクションだと思う。震災の記憶という点では申し分はないのだが、それらは叙情性をもった、いくぶんセンチメンタルな点で、この人のもつパワフルな本質を前面化する持ち味とは異なるものだ。小品が多くしみじみとしたエピローグとなっていた。

 エピローグがプロローグの二人と対応していることは確かだ。エピローグが風景に刻まれた生々しい記憶という点では米田知子の風景写真と対比をなしている。戦場が当事者の記憶から消え、さらに時が経って風化すれば、どんな姿になるのかという興味である。違うのは実体験を伴っているかどうかという点だろう。こちらは考古学者の目に近いとも言える。一ヶ所にとどまらず世界中を巡る旅人となる点では、写真家の領分とも言えるものだ。ただぼんやりと眺めているだけではスルーしてしまうが、味わいがあることに気づくと、写真のもつリアリティに圧倒される。もちろん写真が虚構であることもふまえての話ではある。

 展示のはじまりは石内都からだが、たぶん身体に残された疵痕を見せることで、最初にカウンターパンチを食わせようとしたのだろう。安直な連想のように思うが、「傷ついた風景の向こうに」というサブタイトルとの対応は感じ取れる。ただ「むこう」ではなくて、「こちら」だとは思う。悲劇はまずは身体をむしばみ、そして風景に及ぶということだろう。身体は消えて、かすかに風景に記憶がとどまる。個人の脳裏から歴史の脳裏に、やがては考古学からも離れて地質学にたどり着く。地層に染み込んだ地殻変動のわずかな傷にしか過ぎないまでに、風化されてゆく経過に想いを馳せてみる。ドマーニが明日の希望を意味する語であるのなら、始まりと終わりはしみじみとしすぎていたかもしれない。

by Masaaki Kambara