Back to 1972 50年前の現代美術へ

2022年10月08日~12月11日

西宮市大谷記念美術館


2022/10/13

 1972年にはたいした意味はないのだろうが、50年前ということで選ばれたとしても、70年代というくくりでみれば、現代との比較が可能なものとなる。美術館の開館50周年という表示からは、アーティストの創作活動をみてきた歴史ということだろう。関西を中心に見ると、具体美術協会の存在が大きく、そのパフォーマンスをともなった活動は、現存する実作品を通して思い浮かべる以外にはない。芸術は舞台上にあり、そのときの行為とともに消滅する。あとに残らないいさぎよさを絶対のものとする。

 半世紀を経て当時を思い起こすさまざまな記録が集められると、その輪郭が神話的に語られていく。残存作品からは見えてこない時代のうねりの実像に接することができる。作品として残らないほうが、神秘めいてもいて、躍動感をともなって、作家の息づかいが私たちの脳裏に立ち上がってくる。

 京都ビエンナーレという年中行事となったイヴェントも、制作をうながすファクターとしては重要なものだった。京都市美術館というだだっ広い無機質な空間に並べられた、無機質なモノの集積は、写真によって残された記録だけが、回顧することのできるものだ。丹念に綴られた作家の日記も展示されている。

 屋外で演じられたパフォーマンスは、連続写真となって定着している。立っているひとりの男が前に向かって傾き、膝を伸ばしたまま、倒れ込むまでの分割写真がトリッキーに提示されている。倒れるまでには、45度の角度でもまだ立っている瞬間がある。木にロープをかけて、膝を伸ばしたまま水平に立つ男がいる。重力に逆らってその重みに耐えているはずだが、平静を装って、何事もなかったかのように演じている。ここでも分割写真を通して、時代の無表情が切り取られている。

 関西というくくりで一括してもよいが、フランスのアンフォルメルを巻き込み、版画の国際的躍進もあわせて、東京を経由することなくインターナショナルなものと一体化しようとする。年齢は1920-30年代生まれ、すでに亡くなっている作家が大半だ。行為を先行させると、作品概念は希薄となる。作家のいきざまがそのままアートとなる。若気のいたりですまされる場合もあるし、その後息の長い活動を続ける場合もある。

 「コレイガイノスベテ」と書かれた一作がある。美術ととらえても詩歌ととらえてもよいだろうが、それがかかえる広大な宇宙に感銘を受ける。発想は「宇宙の缶詰」や「この7つの文字」という肩透かしの発想をもち、入れ子になった宇宙の構造とも連動する。西洋の伝統からは、エブリマンやノーボディと名づけられた人格に先例を見いだせるすものだ。お前はだれだと問われて、その人は「だれでもない」(ノーボディ)だと答えるのである。


by Masaaki Kambara