絵のある病院

大西脳神経外科病院(明石)


2022/6/2

 私がいま入院している病院には院内美術館がある。病棟の廊下にもずいぶんと絵が並んでいる。ゴッホの複製画でもいいのだが、地域の現役画家たちの描いたオリジナル作品だ。心の和む風景や具象画に交じって安井正子「平凡な日常」をはじめとした斬新な抽象絵画も目を引く。残念なのは入院しないと見られないという点である。岡山市の淳風会健康管理センターもギャラリー(スペース・ヴェーネレ)を併設していて、高橋秀監修により地域の若い作家の紹介につとめている。しばしば訪問したが、人間ドックを目的とした人に混じって、絵を見たいのですがと断りを入れての鑑賞だった。いまは堂々と見る立場にある。

 病棟に絵が並ぶのは贅沢な光景だ。廊下は歩くためのものだが、やがて見ながら歩くウィンドウショッピングができあがるという歴史の経緯と対応させると、理にかなった試みということになる。都市の展開で言えばプロムナードの誕生にあたるものだ。ギャラリーはもともとは廊下という意味だったが、絵の並ぶ廊下、つまり画廊であったはずだが、今ではそれは不健全な閉じられた密室に意味を変質させてしまったようだ。名前も画商と名を変えている。

 両者は人体に置き直せば、腸と胃の対比となるだろうか。重要なのはどちらをとるかという二者択一ではなくて、一続きのものだという点だ。ギャラリーでは咀嚼しながら絵を吟味するが、廊下では絵は通りすぎるとき、ちらっと目に入ってくるにすぎない。一瞬いいなと思っても通り去るとすぐに忘れてしまう。後戻りしてまで見たいということになれば、それは逆流性といって、あまり良い兆候ではない。

 ほんらい絵画とはその場に溶け込んで違和感なく壁と一体化していたものだ。そこに絵が自己主張をはじめると、目が注がれ、通行人が立ち止まってしげしげと眺めはじめる。病変の発見にも等しいものとなる。モナリザが日本にやってきたとき、鑑賞者は長蛇の列をなし、立ち止まらずに進むよう促された。病変は日々の生活の中では忘れ去られているが、あちこちに見つけ出されると、それらは一箇所に集められて、集中管理されることになる。それが今でいうアートギャラリーの誕生にあたる。

 モナリザはここでは血の流れを止める脳梗塞のようなものとして機能している。ルーヴル美術館にあっても、かつてのモナリザは内部の壁面に同化していた。そして広い回廊からこれを見つけ出したとき、ああこんなところにあったんだ、と感嘆したものだった。何気ない日常にまぎれこむとはこういうことだ。今ではモナリザはガラスケースに収まって一点だけ独立し、確かに脳梗塞となっている。大原美術館にあるエルグレコの場合も同様だ。もちろんこれは血の流れをかたちづくる無数の鑑賞者の刺激に対する素直な反応ではある。民主主義が崩壊して指導力を発揮する権力者が台頭する政治史と対応させてみてもよい。モナリザやグレコが名作だとみなされている間は問題はないが、いつ評価が逆転するかはわからない。

 生活空間に入り込んで違和感のない額縁絵は、現代アートの文脈ではタブローの名で、敬遠されてきたものだ。それは生活空間から遊離した芸術という名の空々しさに向けての批判だったが、ここではみごとに入院患者の非日常の生活空間に溶け込んでいる。中世以来、施療院の祭壇画は不治の病と同居して「平凡な日常」を希求してきたものだった。


by Masaaki Kambara