開かれた可能性—ノンリニアな未来の想像と創造

2020年01月11日~03月01日

NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)


 モニターとプロジェクターの映像を見飽きた時に、現代のメディア環境を体現するものはないのかという問いかけをもって会場入りをする。喧騒な予感は楽音ではなさそうで、調子の外れた音響が展示室内にもれている。

 入り口近くのお祭り騒ぎの演出は、市原えつこ「仮想通貨奉納祭」 とある。ネオンの点滅する御神輿が置かれている。デジタルメディアが思いっきりアナログ的祝祭と手を取り合う姿が目に刺激的だ。遠くから聞こえるのは、打楽器のリズムだが、破調をきたし、少なくとも耳に心地よいものとは言えない。アジアの喧騒が坩堝のように蔓延するさまが読みとれる。

 音のするジャンクアートは、インドネシアのヘリ・ドノによる「ガムラン・オブ・飲むニケーション」からもれていたものだと判明。ブースに入り動きと音を抱き合わせに見始めると、視聴覚がぴったりと一体化して、刺激的かつ魅力的なものだと気づく。

 映像に伴うデジタル音ではなく、ナマの音だという点に、好感度が増す。同時に自然が奏でる音がこんなにも人工的なのかと、これまで抱いていた音の概念を裏切ることになる。つくばいと名づけられた鹿威しが生み出す自然音の余韻はそこにはない。それが現代という時代のゆえなのか、急増するアジアの人口密度のせいなのかはわからない。この無調整をノンリニアの語で語るとすれば、よく言えば多様性、悪く言えば破綻ということだ。

 映像をともなう大掛かりなシステムのわきに、ひっそりと二点の作品が、壁に掛かっていた。これがなかなか意味深いもので、やんツー「造山運動」と題されている。金縁で額装された絵画で、古来の名画のスタイルを取っているが、描かれているのは、折れ線グラフと棒グラフである。刻一刻と変化する仮想通貨の変動相場をたどっているらしい。このパロディにはっとさせられる。破綻を形であらわすと、確かに予想の裏切りをあとづける多様性であることを教える。それは善悪の問題ではなくて、山と谷が生み出す自然のリズムのことだ。

 離れてみると、折れ線グラフは連山に、棒グラフは高層ビルの林立に見えてくる。いや逆だ。近づくと変動する為替市場を示すグラフに見えてくると言ったほうが適切だ。黄金で縁取られた意味が、そこで付け加わる。山岳風景画であり都市風景画である。りっぱな額縁は、伝統絵画にイメージを付加して、山脈を地質学として語っている。同時にそれは社会を形成する経済学でもあって、自然と社会が底辺で通底しあっているのだという神秘思想にたどり着く。

 その不規則は、氷の結晶がみごとな形の法則をあとづけるようには、推移しない。外因は必ずあるが、内因がその意志に反した行動を取らせる。ランダムという楽観に帰結することで、納まりをつけようとするのも、またバランスを保つための方策だと言える。株や相場の規則性を見抜ければ、誰もが大儲けをすることになる。それを回避する形が、みごとな折れ線グラフとなって、歴史の記述のようにあとづけられている。

 棒グラフがニューヨークの摩天楼を構想していたということは確かにある。同じ高さで統一するという美観を排除したバランス感覚がある。仮想通貨の上昇は富の蓄積を経て、高層ビルの建設に直結する。論理を支える辻褄が、素人の憶測を常識として下支えしながら、裏切りを繰り返している。この肩透かしの波動が、目を活性化させる破調のリズムを生み出す。山を見入るときであり、谷を見下ろすときの驚異となってよみがえる。経済指数が自然の風景を形成しているのだという驚きをもって、アーティストの直感に驚異した。それは科学ではなく芸術なのだと思う。それを証明するのが、科学者の仕事だということになるだろう。

by Masaaki Kambara