アカデミー作品賞PART2

2023 「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」/2022 「コーダ あいのうた」/2021 「ノマドランド」 /2020 「パラサイト 半地下の家族」 /2019 「グリーンブック」/2018 「シェイプ・オブ・ウォーター」/2017 「ムーンライト」 /2016 「スポットライト 世紀のスクープ」 /2015 「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」/2014 「それでも夜は明ける」/2013 「アルゴ」/2012 「アーティスト」/2011 「英国王のスピーチ」/2010 「ハート・ロッカー」/2009 「スラムドッグ$ミリオネア」 /2008 「ノーカントリー」/2007 「ディパーテッド」/2006 「クラッシュ」/2005 「ミリオン・ダラー・ベイビー」/2004 「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還」 /2003 「シカゴ」 /2002 「ビューティフル・マインド」/2001 「グラディエーター」 /2000 「アメリカン・ビューティー」 /1999 「恋におちたシェイクスピア」 /1998 「タイタニック」/1997 「イングリッシュ・ペイシェント」 /1996 「ブレイブハート」/1995 「フォレスト・ガンプ/一期一会」 /1994 「シンドラーのリスト」/1993 「許されざる者」 /1992 「羊たちの沈黙」 /1991 「ダンス・ウィズ・ウルブズ」 /1990 「ドライビングMissデイジー」/1989 「レインマン」 /1988 「ラスト・エンペラー」 /1987 「プラトーン」 /1986 「愛と哀しみの果て」/1985 「アマデウス」 /1984 「愛と追憶の日々」 /1983 「ガンジー」 /1982 「炎のランナー」/1981 「普通の人々」 /1980 「クレイマークレイマー」 /1979 「ディア・ハンター」 /1978 「アニー・ホール」/1977 「ロッキー」 /1976 「カッコーの巣の上で」 /1975 「ゴッドファーザーPARTⅡ」 /1974 「スティング」 /1973 「ゴッドファーザー」 /1972 「フレンチ・コネクション」/1971 「パットン大戦車軍団」/1970 「真夜中のカーボーイ

第237回 2023年8月1日 

真夜中のカーボーイ1969

 ジョン・シュレシンジャー監督作品、ジョン・ヴォイト、ダスティン・ホフマン主演。アメリカ映画、原題はMidnight Cowboy。 アカデミー作品賞ほか3部門で受賞。ハリウッド映画を見慣れていると違和感があるのは否めないが、60年頃からのフランスでのヌーヴェルバーグの流行を受けて、アメリカでもアメリカンニューシネマが若者の支持を得て、俺たちに明日はない(1967)やイージーライダー(1969)がアメリカだけでなく世界中でヒットした現象を背景にしての評価だったと思われる。

 都会にあこがれて西部から東部のニューヨークにやってきたカーボーイが、悪にまみれたさまざまな現実に出会い、フロリダに去ってゆくまでの話。西部ではカーボーイをしていたわけではない。皿洗いをして稼いだ金を手に、長距離バスに乗ってニューヨークに向かう。ガムをかみ続けていると、子ども連れの母親からせがまれる。乗り物酔いが効くまでの気晴らしに噛ませたいのだという。持参したラジオを聴いていると、うるさがる老人がいた。隣席が何度も代わり、やっとラジオがニューヨークの電波を拾った。

 ニューヨークでは通りで中年女性をつかまえて、自由の女神の行き先を聞いている。犬を連れた女性が興味をもって、部屋に連れ込まれると、さっそくにベッドイン、ハスラーだと自称すると、私に金を要求するのかと怒り出し、逆に金を巻き上げられる。ハスラーとはここでは男娼、売春を意味する俗語のようだ。突っ張ってはいるが人のよい青年で、いなか育ちのだまされやすいキャラクターが浮き彫りにされている。

 カーボーイハットをつけた目立った姿を興味深げに眺めている小男がいた。足が悪くダスティン・ホフマンが演じている。エンドロールを見ると、ジョン・ヴォイトよりも先に出てくるので、逆ではないのかと思った。ダスティン・ホフマンはこれに先立って映画「卒業」で評価を得ていたからだろうか、確かに演技力は目を見張るものがある。この男がカーボーイに仕事を斡旋する。紹介料を20ドルほど払わされて、聞いていたホテルと一室に出向くと、男が待っていた。仕事の案内があるのかと期待すると、目の色を変えて迫ってきた。同性愛の相手にさせられたのだった。だました小男を探しまわすと見つかったが、悪びれるようすもなく、自宅に招き、悪事の相棒にされてしまった。ふたりが並ぶと大小、凸凹のコンビで絵になる組み合わせにはみえる。小男は身体には自信はないが、マネージメントの才能はあった。同性愛者を餌食にして悪事を順調に重ねていった。

 相棒は足だけでなく体調も良くないようで、フロリダに行きたいと言い出した。寒くてじめじめとした鬱屈したニューヨークをあとにして、長距離バスに乗り込む。体調はさらに悪くなり、動けなくなって小便まで漏らしてしまう。途中の停車時間に着替えを買いに出てアロハシャツに着せ替えて気分を変えた。窓にもたれながら黙ったままなので、見ると死んでいた。マイアミに到着する数分前のことだった。憧れのニューヨークには何があったのかという問いかけである。そこにあったのは夢でも希望でもなく挫折だったようだ。フロリダの健康的な気候と心の触れ合う友を得ることはできた。アロハシャツを買ったときにカーボーイの衣装もまた脱ぎ棄てたようだった。

第238回 2023年8月2 

フレンチコネクション1971

 ウィリアム・フリードキン監督作品、ジーン・ハックマン主演、アメリカ映画、原題はThe French Connection。アカデミー作品賞はじめ5部門で受賞。マルセイユとニューヨークで同時進行する麻薬の密売組織と警察との死闘を描く実録もの。最後に逮捕された犯人たちのその後の受刑歴が伝えられるが、いずれも軽い刑だったのに驚かされる。逮捕までの銃撃戦では多くの死者が写し出されていたが、麻薬の売買自体は、殺人事件に比べれば、重罪ではないということなのだろうか。

 フランスから事件の黒幕がニューヨークにやってきた。現行犯逮捕に執念を燃やすジーン・ハックマン演じる刑事のすさまじいまでの行動には驚きを隠せない。相棒に比べて体重は重そうだが、機敏なアクションには、プロの風格がうかがえる。犯人が豪華な食事をしているときも、寒いなかでハンバーガーをかじりながら尾行を続けている。尾行されているのは犯人も気づいていて、地下鉄の乗り降りの一瞬をついて、逃げ去る犯人と刑事の駆け引きがスリリングで興味深い。犯人は乗り込んだ車両からサヨナラのポーズを送ったが、最後に犯人を追い詰めたときには刑事が同じポーズをしてみせた。さらには一般人の車を奪いとって、鉄道に沿った高架道路を並走しながら追いかける。警察とも思えないカーチェイスは、先頭車両まで移動して、運転手を銃でおどして止まらずに駅を通過させる犯人の行動にまで誘導し、エスカレートさせてしまう。はては異変に気づいて、運転席にやってきた職員まで撃ち殺されてしまった。借りた車はボロボロになっている。

 麻薬の発見に至る車の解体もすさまじい。刑事の勘は応酬した車のどこかに大量の麻薬が隠されているとみている。内部を探しまわるが見つからない。座席をはぐりドアを外し床をはずすようすは、魚を骨だけに解体してしまったのに似ている。解体しても見つからないのが不思議なのは、車体の重量を測った記録が残っていて、以前と今では50キロほど重くなっているからで、どこかに隠されているはずというわけだ。末端価格に直せばとんでもない額になる。フランスからきた黒幕を追いつめ、最後に銃声が聞こえていたが、撃ち殺されたかどうかはわからず余韻を残した。

 娯楽性は強いが、心に響くドラマとはいいがたい。ハリウッドが築き上げてきたハートフルな心地よい倫理観は崩壊してしまったようだ。現代社会の負の側面がえぐり出される。アメリカではベトナム戦争の失敗があった。古き良きアメリカのノスタルジーは、1961年作の「ウエストサイド物語」あたりで、すでにすさびはじめてはいたのだろう。この動向は日本にも間をおかずにやってくる。映画は不良が見るものだとして、家庭でも教育現場からも追放されていく。松竹映画でいえば、家庭の平和な日常をきめ細かに写し出した小津安二郎から、それに反旗を翻した松竹ヌーヴェルバーグの対比を考えるとわかりやすい。

第239回 2023年8月3 

ゴッドファーザー1972

 フランシス・フォード・コッポラ監督作品、マーロン・ブランド、アル・パチーノ主演、アメリカ映画、原題はThe Godfather。アカデミー作品賞はじめ3部門で受賞。ニューヨークを舞台にイタリア系マフィアのボスとその一家の抗争の歴史をつづる。娘の結婚式からはじまるが、各地から祝いにやってくるのはボスへの頼みごとが目的だった。マーロン・ブランドが演じるが、味のある名優だと、あらためて感心する。頼りがいのある侠客の親分肌が、たのもしく目に映る。

 陳情を聞いてやる政治家のようだが、ちがうのは陳情内容で、娘が暴行されたので相手を殺してくれと頼む知り合いがいた。あまり親しくはなかったので、はじめは断るが、またこちらが頼むこともあるだろうと言って引き受けている。相手は葬儀屋だったが、のちに息子が殺されたときに世話になっている。人気のある歌手も駆けつけて来た。突然のサプライズに、居合わせた女たちが喜んでいる。結婚を祝う歌のあと、出演させようとしない興行主に話をつけてくれと頼んでいる。専属の弁護士を向かわせて交渉にあたらせる。ドイツ人だが頼もしい味方であり、いつもボスに付き従っていた。不調に終わると、犬の死骸をベッドに放り込むというような卑劣なおどしで解決した。朝、目覚めると布団のなかが血だらけになっていた。足元に死骸が入っていたのである。次々に来る依頼に、ボスはうんざり顔を見せてもいた。

 血族では兄が後を継いでいて、家族思いだが、血の気が多い。結婚したばかりの妹に、夫が暴力を振るうと、駆けつけて半殺しの目にあわせる。それでも収まらないと、手下をともなわず単身で、車で乗り込もうとした。抗争中の相手が見逃すことはなく、待ち伏せをして、兄は殺されてしまう。このときの殺戮は卑劣をきわめる。料金所で車で挟み込んで、何人もが機関銃で乱射する。蜂の巣のようになった車体と遺体は、「俺たちに明日はない」のバイオレンスを再現しているようにみえる。

 確実に殺すためのことだったが、これに先立ってボスが同じように襲撃され、5発撃ち込まれたが死ななかったという伏線がある。抗争がはじまって間もないときで、果物を買おうとして車を降りた八百屋の店先でのことだった。主役が早くも死んでしまうのかと思ったが、病院に運ばれて回復した。子どもたちには復讐はするなと言い聞かせた。名付け親の分を加えると、子どもたちの数は少なくない。

 血筋にあたる弟はアルパチーノが演じていて、父の仕事には批判的で、距離を置いており、堅気の娘と付き合う軍服姿の青年だった。ただひとり大学を出ており、その頃に知り合い、マフィアの家だとも知らずに付き合いはじめたのだろう。娘は結婚式に同席して当惑している。弟はゆっくりと父との絆が深まっていくのが見どころになっている。ことに兄が殺害されてからは、後を継ぐという自覚が高まっていく。軍隊時代には英雄視されていたようで、勇敢な素地はすでにできていた。

 報復に相手の殺害を引き受けて、レストランでの誘いを受けたときに、隠しもった銃で、ためらいもなく二人を仕留める。相手の親分とそれに加担する警察署長だった。ほとぼりの冷めるまでイタリアに逃亡する。ふたりの手下が同行して、一族の出身地のシチリアに身を隠していたが、そこでギリシャ娘に声をかけて結婚した。ニューヨークに残してきた恋人と決別して、裏社会に身を置く決意のように読み取れた。兄の死が伝えられ、やがてイタリアにまで敵の手が伸びてくる。車に仕掛けられたダイナマイトが爆発して妻が死んでしまう。ヤクザにみそめられた、女の悲劇だった。

 弟の父親との絆は、病院に見舞うあたりから芽生えてくる。かたぎなので敵の襲撃はないとみて、単身で訪れると、父は警護されることもなく、ひとりでベッドに寝かされていた。危険を感じた弟は看護師をつかまえて、狙われていることを伝え、兄に電話も入れ、部屋の移動を申し出る。見知らぬ男が見舞いに訪れ怪しんだが、父に世話になった一般人だった。ふたりで玄関に立ち、ポケットに手を入れ、銃を握っているように見せかけた。一般人はガタガタと震えていた。車が一台ようすを伺っていたが、それを見て立ち去った。次にパトカーが来て、ほっとするが、不審者として連行されようとした。仲間の車が駆けつけて、弁護士が乗り合わせていて警察とやり合い助けてくれた。警察は敵の息がかかって、買収されていたのである。

 警察署長の殺害は汚点だが、ヤクザのボスとのレストランでの同席と、麻薬密売への関与を、マスコミを誘導して、書き立てることでことなきを得た。麻薬をめぐってのやりとりは、抗争の出発点となったものだった。4000ドルの元出で、50000ドルの稼ぎになると、敵方のボスが話を持ちかけてきた。こちらの資金力を頼ってのことだったが、父はきっぱりとことわった。酒や女とちがって麻薬は人と社会を滅ぼすというのが、父のポリシーだった。兄が殺害されてのち、父は全国から五大組織に招集をかけ、無益な抗争を終わらせようとした。そこでも麻薬を扱うかについては、議論を呼んだが、父は折れた。このとき敵対する組織には、手強い別の黒幕がいるのを察した。

 強い勢力に寝返るのは世の常だ。ここでも味方がいつのまにか敵にまわっているという、気の離せないスリルが、見どころになっている。血縁だけは信じることができたのは、日本の戦国時代と異なったことかもしれない。父は二代目を継いだ主人公にいう。敵対する相手から調停の提案があれば、それを伝えてきたものが裏切っているので注意せよ。これが父の遺言となった。敵の銃弾にも屈しなかったが、孫と遊んでいるときに倒れ、そのまま死んでいった。脳卒中のようだったが、武士でいえば、畳の上で死んだということになる。

 二代目の時代が始まっていく。機転が効き、洞察力がさえわたり、裏切りが見抜かれていった。妹の夫も加わっていて、殺害の手を下した。かつての恋人が妻となっていた。小学校の教員をしているようだったが、訪ねて行って、求婚をした。妻は妹の夫に手をかけたのかと問うた。二代目は首を横に振った。妻はほっとして、もとの顔立ちに戻った。極道の妻というタイトルが、私の脳裏をかすめたが、前途多難が待ち受けているのは目に見えていた。

第240回 2023年8月4 

スティング1973

 ジョージ・ロイ・ヒル監督作品、ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード主演、アメリカ映画、原題はThe Sting。アカデミー作品賞はじめ7部門で受賞。詐欺師のふたりがあざやかな手腕をみせる犯罪映画。はらはらドキドキはするが、シリアスではなくてコメディと言ったほうが正しいか。ロバート・レッドフォード演じる若い詐欺師フッカーが犯罪組織の金を巻き上げたところから、黒人の相棒が殺されてしまう。その日の売り上げでボスのいるシカゴにまで運ぶ大金だった。このときの手口があざやかだ。すり替えというテクニックだが、胸のポケットの財布と預かった札束をひとつにして、腹に入れてすり替えるというのがポイントで、さらにはそこに出てくるかっぱらいと犠牲者と通行人がすべて仲間だというのが種あかしになっている。この原理が最後のどんでん返しでも使われた。

 組織の沽券に関わることでもあり、徹底的に詐欺師グループを探しだして、抹殺しようとする。相棒の黒人は若者の師匠であったが、これを最後に引退をして、まっとうな仕事について余生を送るつもりでいた。今後はさらに腕をみがくためにポール・ニューマン演じる名人ゴンドーフを訪ねるように、手はずを整えてあった。フッカーは身を隠すためにも、土地を離れて名人を訪ねた。名人は見つかったが、失敗をしてFBIから追われる身だった。犯罪組織の名をもちだすと危険な集団であることを知っていたが、詐欺で復讐を果たすという計画に協力をしただけでなく、黒人詐欺師の弔いに多くのプロが集まってくれた。まずはゴンドーフが組織のボスの顔をつぶそうとして、詐欺のカードゲームでしとめるが、恨みを買うことになる。

 ふたりは犯罪組織から命を狙われるだけでなく、フッカーは警察から、ゴンドーフはFBIから追われている。敵と味方が入り乱れて複雑な様相を呈している。犯罪組織から送り込まれた女スパイも登場する。フッカーが恋心をいだいていたなじみの女性だったのだ。命を狙われるが、背後から銃を構えたところを、ゴンドーフの仲間に助けられている。フッカーは警察との取引でゴンドーフの逮捕に手助けをするという約束をしていたので、ますます話は混乱してくる。

 すべてが解消するのは最後のどんでん返しだった。競馬の場外馬券売り場を作り上げると、あらかじめ勝利馬の番号を聞いていた組織のボスは、必死になって馬券を買おうとする。そこに登場する全員で、だますというあっと驚くようなやり口に加えて、最後の切り札として、用意された決定打はあざやかというほかない。刑事とギャングのボスふたりだけが、逃げるように去っていくと、全員が立ち上がって勝利を祝った。軽やかな音楽をバックに、展開するしゃれた映画だった。ふたりのコンビは、テンポのよいメロディに乗った、何年か前のヒット作「明日に向って撃て」を思い出させるものになっていた。

第241回 2023年8月5 

ゴッドファーザーPart II 1974

 フランシス・フォード・コッポラ監督作品、アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロ主演、アメリカ映画、原題はThe Godfather Part II 。アカデミー作品賞はじめ6部門で受賞。前作の続編だが二代目のボスとなったマイケルの盛衰を描く。一家のアメリカへの移住のエピソードがはさまれ、イタリア人がアメリカで地盤を築いていく経緯が明らかになっていく。時代が行き来するので、ふたりが主演ということになる。デ・ニーロが前作でのマーロン・ブランドの役を引き継いでいる。若い頃の父親の役ということだ。イタリアで殺害された母親の復讐は、数十年後に果たされるが、その怨念は生々しい殺戮を写し出した映像から察せられる。相手はすでに老いていたが、突然ナイフで胸をひと突きにしてえぐりあげ、そのままにして去っていった。母親は9歳の息子の命乞いをするが、聞きとげられず、みずからが盾になって、追手をさえぎり、息子を逃してやった。

 少年の乗る船の窓には自由の女神が映っている。単身でのアメリカ生活は、まじめな店員として勤め、一家を構えるに至る。四人の子どもが生まれていた。地域を仕切るボスがいて、店にも定期的な支払いだけでなく、縁者の就職まで要求してくる。店主から心苦しそうに退職がうながされると、こころよく受け入れた。これまで暖かく育ててくれたことへの感謝の表明だった。ボスに支払う上納金に矛盾を感じていて、仲間が尻込みするなか、単身で乗り込みボスを撃ち殺してしまう。店を開いている界隈の人々から、人望を得て、やがて事務所を開設して、地域のボスに成長していく。第一作での冒頭場面の陳情に等しく、よろず相談が持ちこまれてきていた。子どもたちの成長を見守る家族の繁栄が、上昇する気分の高揚とともに語られていた。

 これに対して時代は変わり、息子の代になると、マイケルの悩みはつきない。活動をネバダやキューバにも拡張して、ホテル業にも手を広げているが、敵対勢力との攻防は熾烈を極めている。ローマ帝国の滅亡になぞらえられてもいたが、家族の輪にも亀裂が入ってくる。ローマ帝国はなぜ滅びたのかと、謎かけの問答が聞こえた。前作では目立たなかった次男の存在がクローズアップされている。弟に対する父の期待感と、自身の劣等感から、弟を憎み裏切りへと加速していった。母親の生きているうちは殺すことはできないという、弟の冷徹なことばが、耳にこびりつく。母が亡くなったとき、決定的な家族の崩壊がやってきたと思った。母の死には3人の子どもは同じように悲しんだ。妹が仲立ちをして、ふたりの兄の間を取りもった。兄弟の抱き合う姿が見られたが、まだ違和感は残っているようだ。

 妻は流産をしてしまった。寝室に銃が撃ち込まれたあとのことである。犯人を生け取りにするよう命じたが、邸内で死んで発見された。仲間のうちに手招きをしたものがあると、マイケルは判断した。さらなる危険を恐れて、あとの統制を弁護士に託して、身を隠した。血族よりも、一番信頼のおける人物だったのだ。妹は新たな再婚相手を連れてくるが、マイケルは受け入れないで、血族の絆を強めようとした。すべては空まわりをしている。妻は流産ではなく、堕胎したのだと衝撃の告白をした。男の子だとわかっていたからだった。夫は5年後には合法的な組織にすると約束していたのに、すでに7年が過ぎていた。闇社会に息子を送り込むことを拒絶したのだった。男女ひとりづつの子を残したまま、妻は追い出された。仲間がひとりづつ去っていく。信頼し続けてきた弁護士も、匙を投げてしまった。

 回顧するように父親の誕生日に集まった子どもたちの光景が映し出されている。殺害される前の長男もいた。マイケルはまだ大学生だったが、みずからの意志で海兵隊に志願したことを報告すると、長男は怒りをあらわにした。兵役などは父があいだに入れば、免れることもできるものだった。逆に次男はおめでとうと言って握手を求めた。遠くで父親が戻ってきたという妹の声がする。姿を見せたならロバートかマーロンかどちらなのだろうと、とぼけたことを想像しながら、まだゴッドファーザーのもとでひとつに結束している兄弟の姿を見ていた。彼らの輪に混じって、ドイツ人の弁護士も、同席していた。四人兄弟のようにみえ、このときはまだファミリーは安泰のはずだった。

第242回 2023年8月6 

カッコーの巣の上で1975

 ミロス・フォアマン監督作品、ジャック・ニコルソン主演、アメリカ映画、原題はOne Flew Over the Cuckoo's Nest。アカデミー作品賞はじめ5部門で受賞。精神鑑定を目的に精神病院に送られてきた犯罪者が引き起こすトラブルを描いた悲劇。演じているのか、ほんとうの狂気なのかが見分けのつかない迫真の「演技」をジャック・ニコルソンが怪演をしている。彼が何者で、何の罪を犯したのかの説明はない。ただ激すると何をしでかすかわからない凶暴性をもった人物であることは確かだ。社交性はあり、入ってきて、仲間になった患者たちのひとりひとりに、興味をもってコミュニケーションを取り始める。それぞれの患者の異なった症状が、つぶさに描き出されていく。

 こうした行動をみる限りでは異常を認めることはできない。医師に代わっての医療行為にさえみえる。孤立した密閉空間のなかで展開する刑務所にも似た病棟には、患者たちをも萎縮させる恐怖のバリアが築かれていた。看護師長のことばに忠実にしたがう患者たちが、新しくやってきた主人公によって、変わってゆく姿は、精神障害と言えども、拘束されることのない最低限の自由は、保障されねばならないという信念が読み取れる。凶暴な患者がおとなしく飼い慣らされるためには、精神的肉体的拷問があることも、伝えられている。ここから出て、自由になることができるのは、看護師長と監視の職員の判断であって、医師の力の及ばない領域でもある。犯罪者として送られてきた者だけでなく、みずからの意志で入院してきた者もいる。彼らはいつでも出て行けそうなのに、そうしないのは目に見えないバリアが、すでに構築されてしまったからなのだろう。

 主人公と看護師長とのやりとりが見どころになっている。映画は彼女の出勤するところからはじまる。落ち着いた感じのする中年女性で、職務に忠実な、まじめなベテランの姿が映し出されている。主人公にはいちもくおきながら、その行動を見守っている。患者たちを扇動して、バスケットボールギャンブルで刺激を与える。はじめは野球のワールドカップをみんなで見ようと提案するが、看護師長に阻まれた。金網を超え、病院のバスを乗っ取って仲間を誘い出し、海に乗り出して魚釣りを楽しませる。なじみの女たちを夜の病院に引き込んでパーティを開いて、大騒ぎをする

 無反応だった先住民の大男にも、反応がよみがえってくる。耳も口もきけないというのが、じつは演技であったことを打ち明けるまでに信頼感を得たのだった。二人だけの秘密にして、ここを脱走して、自由の地に行こうと誘いかけている。都合の悪い患者には別室で処置が加えられていた。主人公も二度、この目に遭っている。舌を噛まないようにマウスピースをくわえさせられて、こめかみに電流を流されるのである。一度目は戻ってきたとき、まるで夢遊病の狂人のように見えたが、仲間の大男に目くばせをして、それが演技なのを知らせた。このときはまだ正気を保っていた。

 母親の支配から逃れられない息子の性を解放させてやった主人公に対して、看護師長がその息子を追いつめて行き、彼は自殺をしてしまう。主人公の感情の爆発は、看護師長の首を絞め、殺そうとする行動となるが、駆けつけた職員に殴りつけられて未遂に終わった。そのあと、二度目の処置がおこなわれたのだろう。去勢されたように無気力になって病室に戻ってくる姿があった。もとに戻ることはなく、廃人となった姿を見届けた大男は、主人公の口を枕でふさいだ。そのあと怪力で水道管を蛇口のついた土台ごと引き抜いて水浸しにして、それを投げつけ鉄格子の入った窓を壊して、出て行ってしまった。水道管を引き抜くのは、以前主人公が逃亡しようとして試みたことだったが、力が及ばずあきらめていた。そのときは大男には逃れる意志はなかったが、主人公が果たせなかった自由への逃走を、受け継いでの行動だったようにみえる。他の患者たちはそれをたのもしく見ていたが、破られた窓から続いていく者はいなかった。

第243回 2023年8月7 

ロッキー1976

 ジョン・アヴィルドセン監督作品、シルヴェスター・スタローン主演、アメリカ映画、原題はRocky。アカデミー作品賞はじめ3部門で受賞。30歳という盛りを過ぎた年齢で、チャンスをつかんだボクサーの、勝利に向けてのチャレンジのようすを描く。黒人のチャンピオンが話題づくりの意味もあって、これまでのデータをもとに無名のボクサーを挑戦者に選んだ。アメリカではどんなに無名であっても、チャンスは平等にあるのだということで、民主主義を看板にする国であるためには、こんな企画が求められていたのだろう。マスコミの話題をさらい、テレビ局も取材にやってきて、ロッキーは一躍有名になっていく。

 才能はもっていても、これまで芽が出ることはなかった。いなかのしがないボクサーで、ファイトマネーは勝っても40ドル程度で、それだけでは生活が成り立たず、サラ金の取り立ての仕事もしている。通っているジムのボスは、そんなロッキーの姿を軽蔑して、すでに見限っていた。チャンピオンの挑戦者に選ばれると、ボスも失った自分の夢を託して、ロッキーのマネージャーを買って出る。これまで相手にされなかったことから、恨みごとをいって追い返すが、考え直して受け入れ、新たなトレーニングをはじめた。激しいトレーニングはスタローンの肉体でなければ、絵にはならないだろう。

 ロッキーには恋人がいた。ペットショップに勤める人見知りの激しい女性だったが、ロッキーと同じく30歳で、婚期を逸していた。亀をペットとして買った頃から、この娘に目をつけていたが、ながらく相手にされないでいた。そこにいたブルドックもその後引き取っていい味を出している。娘はさえない兄と暮らしていて、兄とは知り合いだったので、妹とのなかを取り持ってほしいと頼み、デートに誘い出すことができた。スケートを楽しんだあとロッキーのアパートに誘われるが警戒心は強いメガネをはずすと美人なのがわかった。兄は精肉店で冷凍庫の管理をしていて、ロッキーはそこにぶら下がっている肉の塊を、サンドバッグがわりに使って練習をしていた。テレビ局はこの練習方法をおもしろがって撮影している。手には牛の血がこびりついて、凄惨な様相を呈している。

 兄はもっと実入りのいい仕事をほしがって、サラ金の取り立ての仕事や、ボクシングのセコンドをさせてくれと頼むのだが、ロッキーはオーケーを出さない。妹も取られてしまい、何の言うことも聞いてくれないロッキーに怒りをあらわにして、部屋をめちゃくちゃに壊していた。場面が変わるとロッキーがたたかうリングのわきに兄のすがたがあった。晴れの舞台で登場したロッキーのガウンには、背中に精肉店の名がスポンサーとして書かれていた。一方のチャンピオンは星条旗をあしらった派手な衣装で登場し、ワシントンの出立ちをまねるものだった。黒人であることから、独立記念日を祝いアメリカ万歳という意味が込められている。

 3ラウンドでKOされるという下馬評に反して、ロッキーは15ラウンドまで互角に戦い抜いた。判定でチャンピオンが勝利を得たが、ファイトの映像はフィクションとはいえ迫力に満ちていて、見ている方はロッキーがんばれと、思わず声援を送ってしまっていた。激しい死闘は、ロッキーのボディブロウでチャンピオンは血を吐き、ロッキーの顔面は崩れてしまっていた。終わるとロッキーは恋人の名を呼び、こわくて見ることのできなかった恋人も後方からかけよって、抱きあう姿があった。スポコンものに分類されるのだろうが、早朝にランニングをしているときに流れるテーマ曲を聞いているだけで、前向きな気分にしてくれる爽快な映画だった。もちろんこうした昂揚感はかたちをかえれば、すぐに戦争映画のヒーロー賛美になってしまうので、注意しておかなければならないのだろうが。

第244回 2023年8月8 

アニーホール1977

 ウディ・アレン監督作品、ウディ・アレン、ダイアン・キートン主演、アメリカ映画、原題はAnnie Hall。アカデミー作品賞はじめ5部門で受賞。漫談で名の知られたコメディアンが、アニーホールという魅力的な女性と出会って、別れるまでの物語。テンポのよい笑いに包まれながら、会話は展開するが、頭の回転が悪くて、ついていけないと何がおかしいのかわからずに、いらだちを覚えることになる。笑いについてゆけないのは、つらいことだ。私だけではなく、ことに日本人には理解できないジョークやペーソスも多いにちがいない。精神科医が患者に言う。自殺をするなら先の治療費まで請求するぞという小話は、何とかついてゆけるが、このたぐいの笑いが満載されていて、悔しい思いがする。アニーが歌手として芸能界に入り込みたいというなかで目をつけてくれる風采の上がらない小男が出てくる。顔をみてあれっと思っていたが、最後のエンドロールで確認すると、確かにポールサイモンだった

 主人公が見ている私たちに向かってしゃべりかけて、同意を求めるのが何ヶ所かあったが、観客を巻き込んだ立体的な演出としてはおもしろい。ふたりの会話で、話していることばと、思っていることばがちがっているのを、字幕を使ってみせる試みも、興味ある方法だと思った。本音と建前という分断される心の問題をえぐりだすのに、効果的な見せ方である。同棲と結婚という対比を用いて男女の愛の問題を語ろうとするのも、心と体がちぐはぐな現代社会を暴き出すのに効果的なものだった。会話はテンポよく弾むのに、つねに置いてげぼりを食っている「思い」がある。それは「心」というよりも「気持ち」というのが適切な、ぼんやりとした心の状態のことだ。

 開幕を待っている列のすぐうしろでフェリーニの映画を論じる声が聞こえてくる。いらだちながら主人公とアニーは聞いているが、やがて辛抱しきれなくなって、私たちに愚痴を言いはじめる。さらには社会学者のマクルーハンまで引っ張り出して、味方につけようとする。奇想天外ではあるが、サイモンの登場とともに、現実とフィクションという対比を際立たせることで、ここでも分断された二つの世界を何とかして統合しようとするあがきが見え出してくる。これは確かに精神科医の領域だ。主人公は16年間、精神科の治療を受けている。

 別れたはずのアニーから真夜中に電話がかかって、行ってみるとゴキブリが出たというようなたぐいの些事だった。同棲をはじめたころに大きなエビが2匹、部屋の中に現れて、冷蔵庫のうしろに隠れているのを、大騒ぎをした思い出がよみがえる。寂しさを打ち明けるアニーの本音が語られたが、一夜明けるとそれは建前でしかなかった。結婚を迫る主人公に対して、アニーは友達でいようと言っている。最後にふたりの出会いからの場面がフラッシュバックしていくが、テニスコートでの出会いのくだりは、初々しい恋の予感がそわそわしたぎこちない互いの対応に、みごとな思い出をつくりあげていた。主人公はアニーの運転するフォルクスワーゲンに乗せてもらって帰るところから、ふつりあいな恋の行方は展開していった。

 イタリア映画ではアントニオーニふうに愛の不毛といってもいいのかもしれないが、ここでは喜劇仕立てで笑いのなかに解消しようとしている。ユダヤジョークの知的な好奇心は、庶民の顔立ちはもっていても高級感がある。主人公のユダヤ人家庭と、アニーのユダヤ人嫌いの家庭の食卓とが、対比的に映し出されていたが、そこでも私たちがどちらに身を置くかが問われることになる。人を笑わせるトリックスターとしての立ち位置にいながら、庶民的にみえて根深い民族の深淵を感じさせるものだった。

 漫談はひとりで浮遊する孤独な放浪者のように見える。その寂寥感から逃れようとして、しゃべり続けている。彼は身軽に身体ひとつで、どこにでも行けるのである。土地に根づくことなく、笑いの上に笑いが重ねられていく。立ち止まって考えるのではなく、歩きながら考えるという点で、土地を追われた民族の血を感じさせるものなのかもしれない。そこから発せられるうめきは、笑いのかたちは取っていても、悲しみを宿している。

第245回 2023年8月9 

ディアハンター1978

 マイケル・チミノ監督作品、ロバート・デ・ニーロ主演、アメリカ映画、原題は The Deer Hunter 。アカデミー作品賞はじめ5部門で受賞。鹿狩りというタイトルだが、内容はベトナム戦争による後遺症が残る従軍兵士の話。戦地での映像は時間的にはそれほど長くはないが、ロシアンルーレットによる自殺ゲームが異様な緊迫感を強いて、いつまでも引きずってしまうのは、登場人物だけではなく、見ている我々にもトラウマとなって残るためだった。回転式銃に銃弾を一発だけ入れて回転させ、こめかみにあてて引き金を引く。これをベトナム兵がアメリカ人捕虜に向けておこなっている。拒否すれば水牢に落とされてゆっくりと死んでいく。6連発なら6分の1の確率にかけることになる。

 ぺンシルバニアの製鉄所に働く3人の青年が従軍することになった。そのうちのひとりスティーブンは結婚式を終えたばかりだった。パーティで大騒ぎをして、仲間の男たちは最後に雪の残っている山に入り、鹿狩りをする。リーダー格のマイケル役をロバート・デ・ニーロが演じている。最も仲の良かったのがニックで、このふたりは同じ女性を愛している。女性のほうはニックと結婚するつもりでいる。場面が変わるといきなり三人とも捕虜になっている姿があった。ベトナムの村が焼き払われて、ヘリコプターが飛び交う過酷な地上戦が映し出されていた。

 スティーブンはロシアンルーレットの順番がまわってくるのをおびえ、マイケルが勇気付けている。ゲームを拒否したことから水牢に沈められた。ニックも銃をこめかみにあてるが、引くのをためらうのをマイケルが励ましている。マイケルは恐れることもなく引き金を引いた。どちらも弾は入っていなかった。マイケルは弾を三発入れるように要求する。兵士は3人以上いるがそれも賭けだ。確率が変わり、賭けようとする兵士たちは、おもしろがった。

 すきをみて撃ち殺す手はずを、ニックに英語で伝えたが、ベトナム兵にはわからなかった。マイケルの勇気ある決断で、あっという間に決着をつけ、水牢のスティーブンも助け出して、川に流されながらイカダで逃げ出すことができた。味方のヘリコプターが見つけてくれて、ニックだけは引き上げられた。あとの二人は再度、川に投げ出されて、スティーブンは岩で負傷し、マイケルがかついで徒歩で移動した。難民となった住民の列に合流し、軍のジープに友をあずけて、マイケルは歩行を続けた。

 開放された町に戻ってからも、途中で別れたふたりが気になっていた。町裏の博打場でニックを見かけたが、見失ってしまった。そこではロシアンルーレットによる命懸けのゲームがされていた。マイケルはひとり帰国すると、仲間たちが祝おうと待ち構えていた。顔をあわさずにいたのは、思惑があったからだ。翌朝にニックの彼女を訪ねる。ニックの消息を尋ねるが、音信不通とのこと、マイケルの帰還を喜び、ニックについてはあきらめかけている素振りもみせている。

 スティーブンの妻を訪ねると、夫はすでに帰っていたが隠していた。問いただすと施設に入っていることがわかった。足を切断して車椅子の状態だった。マイケルはニックの消息を探るためにベトナムに向かう。彼女への思いに結論を出すためだったのだろう。ニックを見つけたのはロシアンルーレットの賭博場で、赤い鉢巻きをして銃を引くターゲットになっていた。心神喪失の状態でマイケルのこともわからなかった。何とか思い出さそうとして、少し反応が見えたがむなしく、マイケルの前で引いた銃に弾が入っていて、即死してしまった。

 誰がこんな残酷なゲームを思いついたのだろうか。死の瞬間をみるのとギャンブルの興奮とが相乗効果となって、賭博場は異様な雰囲気に包まれている。ルールはさまざまに考えられるが、ルーレットになぞらえられているのだろう。6分の1の確率で当たるとすると、弾丸が頭を貫いたときが、勝ちとなる興奮にちがいない。赤い鉢巻をつけたふたりが向かいあって座っている。レフリーが銃をテーブル上でまわし、銃口の向いたほうが銃をにぎる。まわりのものは札束をどちらかに賭けている。人間はどこまで残酷なのかと思うが、人が死ぬゲームはローマ時代にはライオンと戦う剣闘士がいたし、現代のボクシングもその延長上にある。どちらが勝つかの賭博が加われば、さらにエキサイトしていくだろうことは、現代も変わらないものだ。

 ニックの遺体は故郷にもちかえり、葬儀がおこなわれた。ロシア正教会での儀式だったのが、皮肉にみえる。マイケルは帰国後、仲間を誘って鹿狩りに向かった。以前のハンターでは、マイケルの左ききのライフルがみごとに鹿をしとめていた。そのとき倒れ込んだ鹿が、悲しそうな表情を浮かべるのが印象的だった。ロシアンルーレットを前にした友のおびえる表情に似ている。二度目ではマイケルはさずがに、ライフルを弾くのをためらった。今度は大自然を背景に鹿が勇姿をたたえて去ってゆくのが、美しい映像美となっていた。

第246回 2023年8月10 

クレイマー、クレイマー1979

 ロバート・ベントン監督作品、ダスティン・ホフマン主演、アメリカ映画、原題はKramer vs. Kramer。アカデミー作品賞はじめ5部門で受賞。子育てパパの奮闘記とみえながら、シリアスな子どもの親権をめぐる法廷闘争にまで話は展開していく。結論は出せなくて、あとは見ている者が自由に考えてくれればよいという、保留的態度を取っている。メリル・ストリープ演じる妻が、荷物をまとめて家を出てゆくところから映画は始まる。子どもを寝かしつけながら、別れを告げている。そこに夫が帰ってくる。引きとめるが妻の決意は堅かった。8年間、良き妻と良き母親を演じてきたが、もう限界だというのだ。幸せそうな家庭が突如崩壊する。

 夫は仕事人間で、デザイナーとして会社でも良好な地位を得ていたが、妻の悩みを聞いてやることはなかった。すぐに帰ってくると思っていたが無駄だった。ここから7歳の息子の子育てパパの奮闘が始まった。料理から学校への送り迎え、これまで途絶えていた子どもとの絆が深まっていく。妻はそのようすをこっそりと見ていたが、それはわが子を愛しく思う気持ちからだった。目を離していたときにけがもした。抱きかかえて病院まで走り込んだ。やっと妻からの連絡がありほっとするが、会ってみて出てきたことばは子どもといっしょにいたいという要求だった。もとのさやに戻ればいいと思うのだが、人間の心はそう簡単にはいかないらしい。子どもをどちらが育てるかをめぐっての裁判がはじまっていく。

 妻から子どもと一日を過ごしたいという要望が出てきた。法律上拒絶できず、休日の朝に連れていくと、母が見えると子どもは遠くからかけだして抱きついた。父は悲しげに6時には帰すという妻のことばを聞いている。子どもは父のもとでは母への思いを隠していた。家にあった妻の写真はすべて片づけたが、子どもを寝かしつけて部屋の引き出しを開いたとき、母親の写真が入っていた。父はそれを出して、机の上に立てかけて出ていった。

 夫は子育てと仕事との両立ができず、失敗がもとで解雇させられてしまう。無職では裁判に勝つことはできないと、弁護士から言われ、クリスマスを前にしていたが、その日のうちに仕事を決めた。クリスマス気分に浮かれるなかを不安げに待つ姿があった。大幅に年俸は下がった。妻が強く出てきたのは、仕事を得たからで、夫の以前の年収と変わらないだけの高収入を得ていた。これまで抑制されてきた絵画的才能が開花したようだった。子どもが7つだと裁判官の印象は母親のほうが有利だという弁護士の懸念どおり、判決は子どもは母親に戻し、父親とは週に一度会うことができるというものだった。父親は上告するというと、弁護士は難しいが、子どもを法廷に出すならと答えた。父は子どもの愛情は得ていると思っていたが、過酷なやり取りを考えると、即座に否定した。

 これまでの公判でも弁護士が妻に対して辛らつな質問を浴びせて、そこまでしなくてもという場面があった。妻の男ともだちを尋ね、人数まで聞いている。夫にも女ともだちは、少なくない。家に泊まり込んで、息子と出くわしたこともあった。息子は結婚するのかと心配したが、父は否定した。妻の親友が相談相手になっていて、夫に同情を寄せていた。裁判でも父親の子育ての奮闘ぶりとその成果を強調し、味方をしてくれていた。

 判決の施行日がきて、父は息子に言い聞かせて待っている。母親がやってきて部屋に入ってこないでロビーに呼び出された。この子にはこの家が必要だというのである。子どもの部屋には母親の描いた雲の絵があり、それはかけがえのないものだった。聞いているほうは、このことばの真意を測りかねた。いっしょに行こうとすると、止めて妻がひとりでエレベーターに乗り込んでいった。そこで映画は終わる。

 このときふたりは抱き合い、妻の手もしっかりとそれに応えていた。ふたりの表情を読み取れば、たぶんハッピーエンドなのだと思うが、余韻を残しただけでなく、積年の思いが込められているのかもしれない。ハートウォーミングな映画にしないために、無理を承知で三つの結末を考えてみた。たぶんそれはどれにでもなり得る。妻はもとの生活に戻ったのか、あるいは身を引いたのか、さらには夫を追い出そうとする第二の法廷闘争が待ち受けているのか。

第247回 2023年8月11

普通の人々1980

 ロバート・レッドフォード監督作品、アメリカ映画、原題はOrdinary People。アカデミー作品賞はじめ4部門で受賞。普通の人々とはいうものの、かなり問題をかかえた家庭の、再生への努力の物語。ごく一般的なありふれた家庭にも、突然の事故に出くわして、狂いはじめる危うい人間関係が、たとえ家族であっても起こるのだという話である。表面上、問題は母親にあったようにみえるが、事故によって最愛の長男を失ってから、家庭にひびが入っていく。兄弟ふたりの乗ったヨットが転覆して、弟だけが生き残ったのだった。母親が次男に対して距離を置いて素っ気ない態度を取り続けることで、事故の原因が弟にあるかのような罪悪感を与えてしまったのかもしれない。

 追い詰められて弟は自殺未遂をはかり、罪意識と闘いながら、治療を続けている。ハイスクールに復学して水泳部に属しているが、記録は思うようにのびない。弟が早めに帰宅したとき、母親が兄の部屋に入ってぼんやりとしていることがあった。部屋は死後もそのままにしてあったようだ。母の兄への強い愛を感じさせた。以前、母と兄との談笑を見ながら、弟も暖かい気持ちになっている場面がはさみこまれていた。父親は何とかもとの家族に戻そうとして、妻と息子のあいだを取り持つが、空まわりが続いている。妻は夫と観劇や旅行や食事を楽しむが、息子をその輪に加えようとはしない。朝食を食べないでいると、そのまま皿を下げて台所で捨てている。郊外の中流家庭で表面上は平和そうに見える。

 オープニングで写し出される映像は、何でもない日常の風景なのに、色づいた秋であるだけで美しい。聞き慣れた合唱曲が聞こえてくる。日本映画なら「ふけゆく秋の夜」というところか。コーラスの練習風景だったが、それは心に病いをもつ若者たちの集まりで、その輪のなかに弟がいた。この時刻、両親は芝居を楽しんでいた。妻のお供だったのか父親は居眠りをしている。このサークルを通じて弟にはふたりのガールフレンドができる。ひとりは自殺未遂後に久しぶりに顔を合わせ、忙しく前向きに活動をしているので安心していた。電話をして誘い出そうとするが、忙しいのか不在のときが多かった。

 2人目のガールフレンドは自殺未遂後に、声をかけられた。テノールのいい声だと言われて気分を良くした弟は、心を開いてゆく。自殺のことも話題にするが、思いやりのある対応に、信頼感を増していた。最初の彼女にしばらくして電話をしたとき、家族から自殺をしたと知らされた。弟は動揺して、駆け込んだのは、セラピーで治療を受けている精神科医だった。時間外の診療室に駆けつけてくれた。

 父の勧めでセラピーを受けはじめたが、カウセリングの費用が高く、いつも時計を前にして、時間を気にしてのやり取りに、はじめは不信をいだいていた。やがて心を開いていくと、医師としてだけではなく、友達として接してくれる姿に、不信感が解消されたようにみえた。家族に問題があると思い、父親も個人的にカウンセリングを受け、妻にもすすめるが、頭から否定していた。これまで父は妻を愛していて、いつも彼女の言うことを聞き、言いなりになってきた。

 息子が水泳部を退部したことを聞きつけて、母親と言い争いになった。本人からでなく他人から知らされたことで、不満が爆発したのだった。父親も退部については気がかりではいたが、息子を信頼していた。息子が落ち着きを取り戻し、お休みをいって立ちかけて、引き戻し母親にハグをして自室に戻った。このとき父親は妻が息子の抱擁に対して、抱き返すこともなく、何の反応も示さないでいるのをみていた。妻とふたりになって、私を愛しているかと問うた。むかしと変わらないとしか答えなかった。私は愛していたのだろうかとも問いかけた。彼は限界を覚り、妻に別れを打ち明けた。妻の表情は少し変わったが、黙ったまま部屋を去り、二階に上がって、荷物をまとめて出て行った。

 朝になり庭にぼんやりと立つ父に、息子が声をかけた。母がいないのを心配した。父は別れたとは答えなかった。アイラブユーと息子が言った。アイラブユーツゥーと父が、即座に答えたのは、妻との対比を際立たせるものだった。そこにはふたりの抱き合う姿が映し出されていた。父親の博愛主義はときとして優しすぎたのである。父親役のドナルド・サザーランドが味のある演技をしている。問題はたぶん難しくはない。病いを抱えていたのは、母親のほうだったとわかりさえすればいい。あとは優秀なカウンセラーが克服してくれるにちがいない。

第248回 2023年8月12

炎のランナー1981

 ヒュー・ハドソン監督作品、イギリス映画、原題はChariots of Fire。アカデミー作品賞はじめ4部門で受賞。イギリスの名門ケンブリッジ大学の陸上部に所属するエリート学生と、もうひとりの異色の英国代表とのライバル関係を追いながら、オリンピックで勝利を得るまでの物語。後者はリデルといい、宣教師という身分でもあるが、走ることが信仰と同一であるという信念から、神が与えた使命と考えて走り続けている。

 陸上選手として名が知られるようになってからも、競技の指導にはスピーチをともなった説教活動が加えられていた。スコットランド出身で中国で布教活動をしているが、今はイギリスに戻ってオリンピックのパリ大会に備えている。妹がひとりいて走ることによって、これまでも教会の仕事がおろそかになってきたことから、兄の二足わらじを、あまり歓迎はしていない。走る宣教師は特異に見えるが、考えてみればオリンピック選手は、学生でなければたいていは別に職場をもっている。

 もうひとりはエイブラハムズといい、ユダヤ人学生で、勝つことに執着し続けている。大学を管理する上層部も期待の星として、大学と国家に名誉をもたらす人材だと評価しているが、民族や信仰との結びつきはぬぐいえない。積極的な性格で、オペラを見に行ったときに歌手をみそめて、声をかけて恋人にしている。互いに自分にはない才能にあこがれを感じていた。リデルに対するライバル意識が強く、短距離走の試合で敗れたことがあって、落胆するのを恋人が慰め、支えてくれた。

 上昇志向から大学に隠れてプロのコーチについて練習をはじめていた。呼び出されて問いただされたのは、コーチがどこの国の人物かということだった。イタリアだと答えたあとで、半分はと付け加えると、指導部は安堵した。残りの半分はイギリス人だと思ったようだったが、すかさず加えてアラブだと言った。大学の潔癖主義は民族の血だけではなく、アマチュア精神を貫いてきたこれまでの陸上競技の伝統にも強いこだわりを示していた。プロのコーチはオリンピック本番でも、競技場に入ることが許されなかった。離れた一室にいて窓を見つめながら心配していたが、勝利を知ったとき帽子がつぶれるまでの喜びを示していた。

 ふたりの直接対決が回避できたのは、不幸中の幸いだった。100メートル走の決勝が日曜日に設定されたことから、リデルは棄権した。安息日には働かないという宗教上のおきてを知っていないと、ここでは意味が通じない。同時にアメリカに対する必要以上の敵愾心も、近親憎悪なのかもしれないが、私たちにはピンとこないものである。種目を変更しても勝利した兄を喜ぶ妹が、写し出されていた。

 名画にランキングされても、民族や文化的土壌が理解できていないと、通じないことは多い。日本の映画や文学が評価される場合も、西洋人の理解の上で成り立っているもので、ときに誤解によって評価を得てしまったものもある。文化の普遍化の難しさを痛感するが、これもそんな作品の一点なのかと思った。その後のふたりの経歴が最後にテロップによって紹介されたことから、実話にもとづく映画なのだとわかるが、それもまた話をフィクションとしてドラマチックに盛り上げることのできない限界でもあっただろう。100メートル走400メートル走の金メダリストという国民的英雄も、他国人にとっては興味をひかない場合は多い。

 はじまりと結びは、海岸線に沿って波打ち際を、二十数名が集団で走る印象的な場面だったが、カメラはゆっくりと主要選手をクローズアップしていた。大学の陸上部の練習風景かと思ったが、イギリスチームの強化合宿の一コマだったのかもしれない。テーマ曲が効果的に挿入され、老人と少年が立ち去る集団を見つめる姿があった。かたわらにいた犬がそれを追いかけていった。絵になるエンディグである。

第249回 2023年8月13

ガンジー1982

 リチャード・アッテンボロー監督作品、イギリス・インド・アメリカ合作映画。原題はGandhi。アカデミー作品賞はじめ7部門で受賞。インドがイギリスから独立をするまでを、指導者ガンジーの生涯と重ねて描いている。イギリスによる非道な虐殺や、イスラム教とヒンドゥー教との熾烈な争いなどが、細かく写し出されていて、民族がひとつになることの困難さを学ぶことになる。無抵抗で非暴力を訴えるガンジーの思想に学ぶことは多いが、暗殺によって殺害される自身の生涯が教えることもまた多い。多くの信奉者の集まるなか、祝福を求めてひざまずいた男が、突然銃をかざして至近距離で暗殺をするショッキングな場面からはじまり、同じ場面を別の角度から映し出したラストシーンで終わる。理想主義の敗北を示すかのような、むなしさを感じさせるものとなった。暗殺者は極悪非道な顔はしておらず、ユダの裏切りのような雰囲気を宿している。

 犠牲となることをかえりみない殉教者のような思想は、最後のことばとして、神よという叫びを発しており、キリストの最後を思わせるものだった。宗教的対立が解消された日に、ヒンドゥー教徒が、敵の子どもを殺してしまったことを後悔して、どうすれば償えるかと、ガンジーに問いかける場面があった。肉親が殺されたことへの報復としての殺戮だった。ガンジーは答えて、親が殺された子どもを探して育てればいいと言った。そしてその子はイスラム教徒の子であることと付け加えた。キリスト教の博愛精神を感じとることができる。憎しみの連鎖は断ち切らなければならない。汝の敵を愛し、右のほおを打たれれば左のほおを出すという、自虐的とも思える理想主義が下敷きになっている。眼には目をと教える宗教もある。インドにはヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教が混在している。

 なぜもっと怒らないのか。黙ってやられるままでいるのかというのが、ふつうの反応だろう。ガンジーの思想を受け入れた民衆の抗議活動で、列をなして進んで行く。兵士が待ち構えていて棍棒でたたきのめすが、抵抗をしないで、次々の列で繰り返されていく。それは異様な光景だが、気高く神々しい輝きを放っていた。禁じられた集会に向けて、まわりを取り囲んで、銃隊が発砲し、抵抗しないで逃げ惑う人々を狙い撃ちをする場面もあった。新型銃が用いられたようで、1500人が殺されたという報告のあと、使われた銃弾は1600発だったと言っていた。ノンフィクションの伝記映画だとすると、恐ろしい数字だと思った。

 ガンジーはいつも冷静でいた。若い頃、妻が共同生活のなかで、トイレ掃除をしないという、特権的発言をしたときに激怒したことがあった。トイレ掃除などしたことのない階級だった。激怒のあと思い直して謝罪し、道理をさとすように語りかけた。ガンジー自身が身分差別を身をもって感じたのは、若いころ弁護士として南アフリカを訪れたときだった。ネクタイをしたスーツ姿でエリートの英国紳士にみえる。一等車に乗っていたが、インド人は三等車に移るよう命じられた。切符をもっていても有色人種は三等なのだった。拒絶すると途中の駅で降ろされていた。

 無抵抗非暴力ではあるが、服従をしたわけではない。そこにはいつも暴力で押さえつける権力があった。先頭に立って抗議デモを率いる姿は、抵抗なき抵抗といってよいものだ。そのために幾度となく逮捕され収監されている。逃げることもなく捕まえられる姿は、望んで囚われていくようにさえみえる。インドの庶民の着る綿の衣装で、写真集から抜け出てきたようなガンジー像には感銘を受ける。沈着冷静な後継者ネルーも登場する。

 糸を紡ぐガンジーを写したよく知られる写真を思い出させる設定と、それを写し出した女性カメラマン、バークホワイトの取材風景も盛り込まれていた。ニューヨークタイムズをはじめとした、ジャーナリズムを味方につけた戦術は、不屈の闘いに色を添えるものとして重要だ。剃られた頭と丸メガネ、民族衣装の着こなしなどは、ファッショナブルであり、小柄で弱々しくみえるが、偉大なカリスマ的容貌を演出するものとして有効なものだった。なによりもかっこいいのである。

第250回 2023年8月14

愛と追憶の日々1983

 ジェームズ・L・ブルックス監督作品、アメリカ映画、原題はTerms of Endearment。アカデミー作品賞はじめ5部門で受賞。一人娘と母親の愛と追憶の日々をたどる。ごく何でもない親子関係にみえていたが、娘に病が見つかり先立たれることで、緊張感のある劇的な心の振幅ある物語に仕上げられている。場面が変わるたびに、生まれたばかりの娘が、少女になり、大人になり、結婚をして、家を出て、孫が生まれ、孫がふたりになるという歩みを駆け巡っていく。母親の役をシャーリー・マクレーンが演じている。歳をとってもチャーミングな女性で、母親としては失格とも思える頼りなげな人格だが、そのぶん娘はしっかりものに育った。娘が少女の頃に父親は亡くなったようだった。近所に住む男たちに母親の信奉者は多いが、本人は隣に住む元宇宙飛行士が気になっている。

 ジャック・ニコルソンが演じていて、一風変わった人であり、独身生活を楽しんでいる。若い女性の出入りも少なくなく、母親の警戒心も強かった。一度、庭から声をかけられたことがあった。宇宙飛行士のパーティがホワイトハウスであり、夫婦同伴で行くのに若い娘を誘うのもどうかと思い、ご一緒しないかというのである。突然の申し出で実現はしなかったが、ランチをともにするところから、親密になっていく。宇宙飛行士の家にはプールもあって、何往復もするのが見えている。スポーツカーも持っていて、ドライブも楽しんだ。飛行士時代の颯爽たる写真を居間に飾っていて、女性にアピールするためのものだろうと、からかってみせた。母親は娘が嫁いでからも、毎朝電話を欠かせない。娘は子どもの通学前で忙しく、うんざりしている。一度はとなりに宇宙飛行士が寝ているといって、娘を驚かせたことがあった。母親は無邪気にセックスはいいものだと言うのを、娘はあきれ顔で聞いている。

 夫は教員で何度かの引っ越しのたびごとに、出世をしていった。家を開けたことがあり、研究熱心で図書館で一夜を過ごしたといったが、妻は浮気をあやしんでいる。3人目の子どもを妊娠したとき、母親に借金を申し出ている。家が一軒買えるようなルノワールが母の寝室に飾ってあった。ルノワールを観にこないかといって、宇宙飛行士を招く口実にもなっていた。娘は切り詰めた生活のなか、スーパーでの買い物で財布の現金が足りずにいたときに、助けてくれた男性があった。銀行の融資係に勤務する顔見知りだったが、そのことをきっかけに仲良くなり、デートを重ねるようになった。夫の浮気に対する対抗手段のようにみえる。    

 大学の学科長になる話がもちあがり、夫は話を決めてしまい、引っ越しとなる。妻の不倫はそこでストップした。新居が見つかりもとの生活に戻るが、妻が大学に出かけたとき、夫のもとの不倫相手がそこにいることを知り激怒する。逃げるのを追いかけて問いただすと、夫に聞いてくれとしか言わない。娘を乳母車に乗せてインフルエンザの接種に街に出たときのことだった。注射をしたときに腕にしこりが発見されて、それが悪性腫瘍であることがわかる。

 それまでのありふれた生活風景が一変する。大病院に入院するが経過は思わしくない。死期を感じはじめた頃から、子どもたちの身の振り方を思い悩みはじめる。夫は引き取ると言った。妻は無理だと言った。自分の母親にあずけようと思っている。母親ははじめて孫が生まれたとき、おばあちゃんになることを嫌がったが、今では子どもはなついている。長男は難しい年ごろで、反発心が強いが、隣の宇宙飛行士には親しみをもっていて、プールがあるので泳ぎにこないかと誘われていた。

 娘の看病は母親と夫があたった。母親は娘の苦しみをみて何とかしてくれと大声で叫んでいる。夫の浮気を娘から聞いていたので、母親は夫の不誠実を嫌っていた。夫も義理の母の奔放な性格を敬遠してきた。ふたりが疲れて病室で仮眠をしているあいだに、看護師が入ってきて、脈を取り臨終を告げた。ともに死目に会えなかった。娘が亡くなるという想定していない出来事は、どこの家にも起こりうることである。それによって引き起こされるさまざまな難事が降りかかってくることは、目を背けることのできない、私たちが対応を考えておく必要のある必須事項なのだと痛感した。

第251回 2023年8月15

アマデウス1984

 ミロス・フォアマン監督作品、アメリカ映画、原題はAmadeus。アカデミー作品賞はじめ8部門で受賞。トム・ハルス演じるモーツァルトの下品な笑い方が、リズム感があり、耳障りであるはずなのに、的を得ていて心地よい。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの生涯を、同時代の宮廷作曲家サリエリの、嫉妬と陰謀の目を通して追った異色の伝記映画。25番の交響曲をはじめ、全編にモーツァルトの名曲が効果的に挿入され、どれを取っても感動的で、天才が創り出した旋律だと身震いしてしまう。

 凡人にはどんなにがんばっても、一行のモーツァルトも書けないという思いはサリエリだけではなく、誰もが嫉妬をいだいてしまうものだ。視聴者や演奏家にとっては、天才を讃美すればすむが、作曲を手がける者にとっては、そういうわけにはいかない存在なのだろう。サリエリは当時、音楽界に勢力をもっていて、オペラは40作も創作しているが、今ではだれも聴くものはないと嘆いている。

 老いたサリエリが若い神父を相手に、懐古するかたちで、話はスタートする。自作の旋律をいくつか口ずさむが、聞いたことがないという。モーツァルトのものを混ぜると、それもあなたの曲かと、目を輝かせた。モーツァルトを殺したのは自分の嫉妬だと言って、その顛末を語りはじめる。最初に見たのは幼年期のピアノ演奏だった。次にはサリエリが作曲したピアノ曲を一度聴いただけで覚えてしまい、君主の前で譜面も見ずに弾き、添削までして、さらに良い曲にして演奏してみせた。サリエリは侮辱を感じたが、音楽に関しては脱帽し、品行の悪さをあげつらうしかなかった。演奏時間がきても、のちに妻になる娘と戯れていたことがあった。女癖が悪いとの評判が広がると、個人レッスンの収入が閉ざされる。おまけに浪費癖とアルコールにも溺れて、死期を早めることにもなった。

 父親が支えてくれたが、妻との折り合いが悪く、しばらくはウィーンで同居していたが、ザルツブルクへ戻ってしまう。部屋は荒れ放題で、妻のふしだらを嫌っていた。息子は苦楽をともにした妻を愛している。しばらくして父の死の知らせを受けてから、死神に取り憑かれたようで、レクイエムの作曲を死神が依頼にやってきたのだという。妄想で神経衰弱が悪化していく。それもサリエリが仕掛けた罠だったかもしれない。彼は未知の信奉者を装ってメイドを、モーツァルトの家に派遣して、その制作の秘密を探らせていた。メイドはモーツァルトの創作に没頭する姿に感銘を受け、サリエリの指示を裏切るに至る。

 サリエリはイタリア人でありオーストリアではまだ、ドイツよりもイタリア音楽のほうが、権威を誇っていた。モーツァルトは最初ドイツ語のオペラを手がけ、のちにはイタリア語のものにまで、その才を広げていった。音楽好きの君主の気にいられなければ、音楽家として生きていくことはできない。サリエリは財力もあって、モーツァルトが借金を頼みにくることで、唯一の優越感を味わうことができた。モーツァルトの妻が無断で楽譜を持ち出して、借金を申し出たことがあった。出来映えだけでなく書き直しのない草稿に、サリエリは打ちのめされたが、嫉妬は妻の肉体を交換条件に持ち出した。妻は金のため要求に応じようとして、衣服を脱いだが、それ以上のことはせず、屈辱だけを味わわせて帰らせた。

 レクイエムと並行し、大衆向きのオペラを作曲していて、収入のめどがつく。レクイエムは完成しないと支払われない約束だった。「魔笛」がヒットして、興行主が作曲料を持ってきたとき、モーツァルトは病に臥せっていた。妻はいなかった。母親が収入のないモーツァルトから引き離していたからだ。劇場で指揮をしていて倒れ、居合わせたサリエリが連れ帰っていたのだった。レクイエムの作曲はまだかと聞くと、もうできているといって頭を指さした。譜面にする体力もなかった。病床で口述するのを、サリエリが楽譜に起こしている。

 ドアをたたく音がして、モーツァルトはおびえて死神が催促にきたと思った。サリエリが出ると劇場のスタッフで作曲料を持ってきたのだった。サリエリは受け取り、死神からの催促と前払いのように見せかけた。妻が夫をあきらめきれず、馬車を走らせて戻ったとき、唾棄すべきサリエリがいた。命を縮める創作を嫌悪して、楽譜を取り上げてサリエリを追い出そうとした。楽譜はモーツァルトの筆跡ではなかった。サリエリ作と主張してもよいはずのものだったが、レクイエムの荘厳な響きは、死に取り憑かれた天才にしか生み出せないものだった。これを通奏低音として、妻の急ぐ馬車と夫の死、それに続く死者の旅路が映し出され、遺体は墓穴に投げ込まれた。34歳の短命に余りある、膨大な曲が残された。

第252回 2023年8月16

愛と哀しみの果て1985

 シドニー・ポラック監督作品、メリル・ストリープ、ロバート・レッドフォード主演。アメリカ映画、原題はOut of Africa。アカデミー作品賞はじめ7部門で受賞。アフリカの大自然を背景にして農園を経営する女性の奮闘を描く。主人公のカレン役をメリル・ストリープが演じている。おとなしく家庭に収まるタイプの女性ではなかった。デンマーク生まれだったが、男爵夫人としてアフリカに向かい、事業に取り掛かる。アフリカに地所をもつ夫とは恋愛による結びつきではなく、手腕を見込まれての結婚だった。はじめの計画では酪農だったが、夫はすでにコーヒー栽培をすすめていた。収入になるまでに5年かかり、高地なので育たないという判断を無視してのことだった。

 家財道具を載せた引っ越しの鉄道で、のちに関係を深めるロバート・レッドフォード演じるデニスと出会う。鉄道を止めて大きな象牙を載せて、届け先をカレンに伝えて立ち去った。夫は事業に熱心ではない。妻をひとり置いたまま、狩猟に出かけて雨季になるまで帰ってこない。現地の黒人を使っての経営を進めて行くが、カレンは疎外感を味わっている。

 デニスが既知の友といっしょにやってきて、久しぶりに食事と会話を楽しむが、彼の定住しない孤独な世界観に興味をもちはじめる。デニスがサファリに誘い、野生動物を見てまわるなかで、緊張感のある生きる喜びを取り戻すことができた。ライオンに遭遇したときも、デニスはギリギリまで手を貸そうとはしない。ジープが故障したときは、まわりを野獣の群れが取り囲んでいた。追い払うのにどうするかという質問に、カレンがシッシッというと、デニスは外に出てそのようにすると、群れは散り散りになって逃げていった。ライオンが襲ってきたとき、ふたりしてライフルでこの猛獣をしとめたこともあった。

 雨が降りはじめた頃、夫が戻ってきた。カレンは寂しげな表情を浮かべて待っていた。喜びをあらわにして子どもがほしいといった。夫婦の営みの結果、カレンは体調を崩し、診察から梅毒であることがわかった。性の交わりは夫としかなかった。人によっては発病しない場合もあるとのこと、夫に伝えると、心当たりを認めたのか、繰り返し謝罪した。夫の不実は勘づいていたことではあった。カレンは長期療養を決意し、アフリカを去った。

 帰還したとき奉公人たちは歓迎した。入れ代わりに夫は去った。病気は克服したが妊娠のできない体になっていた。デニスがたずねてきて病気のことを打ち明けるが、知っていた。カレンは新たな計画として、現地の子どもたちの教育を手がけ始める。建物を改造して教室にし、教師を雇って読み書きを教えている。そのことをデニスに話すと、それが英語による植民地支配であることを指摘し、否定的だった。

 長期のサファリに出かけるので、荷物を預かることになる。多くは書籍だった。文学的素養もあり、カレンが創作する物語をおもしろがって聞いたのが、心の触れ合うはじまりだった。ふたりの時間が続くが、デニスにはひとところにとどまるつもりはない。カレンはずっといっしょにいたいと思っている。車の運転だけではなく、小型飛行機の操縦もはじめていて、カレンを乗せてアフリカの大平原を見てまわった。雄大な無数の動物の群れが移動している。

 ある日、原因不明の火災で農園が全焼してしまう。一夜にしてカレンは全財産を喪失した。重ねてデニスの訃報が夫から知らされた。飛行中の事故で炎上したとのことだった。夫に対して、なぜあなたが知らせたのかと問うと、それが私の義務だからと答えた。離婚した夫が戻ってくることはなかった。焼け残った家具を処分して、カレンはアフリカをあとにした。ナレーションはその後、彼女が文筆活動で知られるところとなり、再びアフリカの土を踏むことはなかったと伝えていた。

 日本語タイトルは叙情的だが、原題は「アフリカから離れて」ということになるだろうか。深淵な魅惑を秘めている「アフリカ」という語が、この映画の最大のキーワードになるものだろう。それは大いなるロマンのことであり、この野生に取り憑かれて命を落とした男の物語と言えるかもしれない。女の愛をも遥かに凌駕していた。女がはじめにアフリカに憧れ、夢に描き、求めたのもまた、それだったはずなのだが。アフリカは簡単には心を開かなかったようである。

第253回 2023年8月17

プラトーン1986

 オリバー・ストーン監督作品、アメリカ映画、原題はPlatoon。アカデミー作品賞はじめ4部門で受賞。ベトナムでの地上戦の過酷な状況を写し出した戦争映画。原題は小隊の意味で、負け戦で小隊が壊滅するまでの生々しい記録である。映画は一歩下がって、状況を客観的にとらえるものだろうが、ここでは逆にカメラは一歩近づいて、目の前に起こっている事件の一部分だけを、近視眼的に映し出している。それはパノラマ的な空中戦に対して、地獄図と化している。

 地上戦とはいえ市街戦ではない。密林のなかを、さまようようにして前進していく。前進するだけが、勝利に結びついている。カメラの焦点さえも合っていないなかでは、味方か敵かもわからない。いつ敵が現れるかもしれない恐怖が続いている。最初の被害は交代の見張りなのに、居眠りをしてしまって、敵の接近を見落としてしまったことによるものだった。敵が後退したあとに地図の入った機密書類の箱を見つけ、それを持ち上げた途端に爆発した。小隊のひとりづつが殺されて減っていく。

 殺されるのは敵兵によるばかりではなかった。憎しみあう味方同士が、誤射のように見せかけて射殺する。敵だと思って銃を向けたのが味方だった。憎しみの相手だとわかると、目をあわせほっとした一瞬に発砲していた。軍法会議にかかるような残忍な行為をとがめた兵士が上官の犠牲になった。喉を切られて死んだ仲間の報復に、近隣にあったベトナムの村の住人が疑われて、上官が怒りまかせて虐殺した。その行為を見て、戦争犯罪だと許さない兵士がいた。人道的な態度を示し、食って掛かったが、階級が下だったために、目をつけられて報復の機会がねらわれていた。

 主人公は大学を辞めて従軍した志願兵だったが、新兵であり、非情な上官に憤りはおぼえても、黙っていることしかできないでいた。上官を批判した兵士は、命令を受けて先頭に立たされていた。後続の主人公はこの兵士が殺されたことを察していた。遺体を運ぶことなく退去を命じた上官は、確かに不自然だった。退去するヘリコプターから、その兵士が生きていて、ひとり戦う姿が目撃された。主人公は助けるよう訴えたが無駄だった。兵士は敵の銃弾を浴びて、天を仰いで両手を広げて死んでいった。上空に向かって訴えかけているようだった。

 兵士の多くは徴兵されたもので、黒人など貧困家庭の者が中心になっている。義務は一年間で残りの日を指折り数えている。主人公はアメリカを支えるのは貧困にあえぐ彼らの存在であるという思いからの志願だったが、1週間で帰りたくなっていた。飛行機でベトナムに着いたとき入れ替わりに、兵役を終えて帰国する疲れ切った兵士と、死体袋が積み込まれるのが写し出されていた。

 主人公はだんだんと戦争のもつ毒に染まっていく。神経を麻痺させるのに、ドラッグにおぼれることを覚えた。最初の負傷で前線から下がった安全地帯で、アルコールや麻薬の力を借りて、忘我の体験をすることで、ひとときではあるが緊張を開放し、恐怖から逃れることができた。蟻が首をはうだけで熱を出し、蛇が足元をはうだけで驚いていたものが、変化していく。それは無神経ということだが、生きるための適応力でもあった。はては壊滅し敗走した生き残りのなかで、傷を負った上官を見つけたとき、銃を向けて射殺するまでに至った。

 全滅した場合を除いて、負傷した兵士だけでなく、死んだ兵士も死体袋に入れて持ち帰る。何のためにたたかっているのか。誰のためにたたかっているのか。誰が敵なのか。息詰まる緊張感はあるが、救いのない映画だった。男しか出てこない世界は、自然ではないのだ。負傷して退いたときに看護師の女性でも出てくれば、まだうるおいがあるのにと思いながら見ていた。

第254回 2023年8月18

ラストエンペラー1987

 ベルナルド・ベルトルッチ監督作品、ジョン・ローン主演、イタリア・中国・イギリス・フランス・アメリカの合作映画、原題はThe Last Emperor。中国清朝で最後の皇帝となった溥儀(ふぎ)の波瀾万丈の生涯をたどる。中国共産党に逮捕されて、戦争責任の尋問を受けるところからはじまる。大勢のなかに紛れ込んで、皇帝であることは伏せているが、顔を見てひざまずく者まであらわれる。覚悟を決めて手首を切って自殺を図るが、果たせなかった。

 紫禁城での生活を回顧するように、昔話が始められていく。先帝が亡くなり、3歳で即位すると、帝王としての教育がはじまる。その後、中華民国の成立から、中華人民共和国へ、さらには文化大革命という、中国史の変動の時代をまるごと背負い、それをつぶさに見てきたということだ。莫大な財産をほしいままにして、幼いころからわがままを通すが、紫禁城からは一歩も出ることは許されていない。時代の流れも知らされずに、昔ながらの時代錯誤を楽しんでいる。ピーター・オトゥール演じるイギリス人家庭教師について、進歩的な世界観にも触れており、テニスにも親しむようになった。帰国後、滞在記を英文で出版、溥儀については、みずからの意志で満州に向かったと書いていたことが、問題になっていた。

 弁髪を特徴とする民族のスタイルは、漢民族とは異なる清王朝の伝統だったが、それに目をつけた日本の軍部のたくらみに利用されることになる。満州国の皇帝にかつぎあげて、日本の支配下に置こうという策略だった。蒋介石による中国国民党と毛沢東による中国共産党の対立に、日本の侵略が加わり、ソ連も機をうかがうという、覇権争いのなかで、踊らされたことは確かである。気の毒な立場でもあるが、清朝の過去の栄光を夢見ても、時代の流れを引き戻すことはできない。権力闘争でいえば、敗者は処刑されるものだろうが、1967年まで生きながらえたというのは、回顧するだけの生涯を築けたということだろう。

 宮中に迎えられると、母親からは引き離されたが、若い乳母が同行して親しみ甘えることができた。少年になっても乳房を恋しがっている。やがて年齢がくると乳母とも引き離され、お妃選びがはじめられる。第一夫人と第二夫人が選ばれて、三人してベッドで戯れる姿が見られた。まわりにいた宦官たちが財産を蝕んでいた。宝物館から火災が発生したのも、発覚を恐れてのことだった。やがて財宝は没収され、居城を追われることになるが、やっと城外の自由を体感できたともいえる。私たちは現在、このとき没収された財宝を故宮博物院で見ることができる。ふたりの妻は歩みをともにしたが、不自然を自覚した第二夫人が離婚を申し出る。一般社会からは遊離したスタイルだった。聞きとげられず、置き手紙をして立ち去ってしまった。

 残された第一夫人は、夫に迫る日本の陰謀を見抜いていたが、誘惑に負けてアヘンに手を出してしまった。妊娠したことを告げると夫は喜ぶが、真相を知っていた日本の悪意は、それが運転手の子であることを暴露する。子どもは生まれたが処分してしまって、溥儀には流産だと知らせ、運転手は射殺された。夫は麻薬におぼれる妻を嫌った。次に夫人と会ったときには、中毒が脳にまでまわっていたのか、夫のこともわからなくなっていた。日本の残虐な行為が年代記ふうに写し出されていく。大虐殺から真珠湾攻撃、原爆投下までを一気に追っている。

 坂本龍一が寡黙で冷徹な日本人の事務官役を好演、日本の敗戦とともにピストル自殺をとげた。キャストだけでなくスタッフとして、音楽担当で異彩を放っている。エキゾチックな中国の旋律を下敷きにした、これまでの西洋映画にはない荘重な響きを伝えていた。あわせて赤を基調にした建物や衣裳の色彩感覚が、明確な記憶を定着させている。

 ラストシーンで、紫禁城を訪れた老人が柵を乗り越えて階段をあがっていくと、管理人の子どもがやってきて引き留めた。私もここに住んでいたのだといって、玉座に座り、うしろに手をまわして、むかし遊んだ虫箱を取り出す。子どもが驚いて蓋を開けると、なかから昆虫が這い出してきた。長い眠りからさめたようだった。子どもが目を上げると老人は消えていた。ガイドに導かれて外国人のツアー客がざわざわと入ってきた。破壊されることなく観光遺跡となった姿は哀れでもあった。

第255回 2023年8月19

レインマン1988

 バリー・レヴィンソン監督作品、ダスティン・ホフマン、トム・クルーズ主演、アメリカ映画、原題はRain Man。アカデミー作品賞受賞。主演のふたりの、テンポのよい掛け合いが見どころになっている。父親が死んで、財産がまるごと転がり込んでくると思っていたのに、記憶にない兄が登場して、多くがそちらに行ってしまう。自分には父の愛車が残されたにすぎなかった。せめて半々にしなければと動きはじめるという話である。弟は車の販売をしているが、楽な仕事ではなく、父の財産は何としても手に入れたい。財産管財人は父親の遺言を問題なく履行するために、兄の存在は伏せていた。弟が探ってわかったことは、自閉症で施設に入っているということだった。

 週末旅行を兼ねて、恋人をともなって父の愛車で訪れて、施設内を探す。精神に障がいをもった患者が多くいて見つからず戻ると、見知らぬ男が運転席に座っていて、自分の車だと主張していた。助手席には恋人がいたのもおかまいなく、兄のようだった。父親がこの車でよくやってきていたということだ。自閉症特有の顔立ちと身振りを示しており、たえずぶつぶつとひとりごとを言っている。首を傾けて小股で歩く。テレビ裁判という番組は欠かさず見ている。時間が近づくとそわそわしはじめる。農家に駆け込んでテレビを見せてもらったこともあった。アニメを見るはずの子どもたちがぶつぶつ言っている。一塁手は誰だというコントのギャグを、いつも呪文のようにつぶやいている。そのうち小型テレビ買ってもらったようで、どこに行くときも手にしている姿が見られた。

 財産を引き継いでも、その使い道すらわからないはずだと判断した弟は、兄を連れ出して、自分が財産を管理しようとたくらんだ。兄を連れ歩くなかでわかってきたことがあった。自分は家を出て父との関係は疎遠であったが、兄とは強いつながりがあったようだ。それならなぜ施設に預けてしまったのか。この疑問も兄とのつながりにくい会話を通して、徐々にわかりだしてくる。兄がパニック状態なるのが3度あった。大声をあげておびえて手の施しようがなくなる。1度目は飛行機に乗ろうとしたとき、急にこわがりはじめた。航空会社の墜落歴を暗記していて、どれにも乗ろうとはしない。カンザス航空は墜落していないというのだが、そこには乗り入れてはいなかった。

 完璧なまでに数字を記憶していた。記憶力のよさは病状のひとつだった。電話帳をAから順番に暗記していたり、散らばったつまようじの数を一目見て言い当てたりできた。弟はその能力を利用して、ラスベガスに連れて行き、カードゲームで大儲けをするに至る。

 仕方なく車での移動となることで、兄弟の絆が深まっていく。飛行機で3時間のところが3日かかることになる。高速道路さえ嫌がった。2度目のパニックは、モーテルに泊まって、部屋のシャワーの蛇口を開いたときだった。大声でやけどをすると言っておびえて、レインマンと呼びかけた。弟が自分のことかと聞くと、そうだと答えた。弟の名はチャーリーで、兄の名はレイモンドと言った。

 弟はまだことばがわからないころ、兄のことを聞こえた通りレインマンと呼んでいた。そして兄もまた弟のことを歌の歌詞から、雨降りに歌ってくれる頼もしい存在であるレインマンだと思っていた。今は弟をメインマン(親友)だと言っている。兄が誤って熱湯を弟にかけようとして、それが施設に入る原因だと、弟は考えた。弟のことを思っての親の判断だったのである。兄のことはそれ以来、記憶から消えてしまった。

 3度目は電子レンジの操作を誤って、煙が上がり、火災報知器が鳴り出したときだった。弟の気づくのが遅れてしまった。裁判の調停を前にした日のことだった。管財人はあらかじめ小切手を用意して弟を納得させようとしたが、それに応じず、兄は自分が守ると主張した。兄と行動をともにするなかで芽生えた肉親の愛情だった。父親とは交わせなかった家族の絆に、やっと気づいたようだった。恋人は兄の純真をあたたかく迎え入れていた。兄を連れ出したひとりよがりの行動を見て、腹を立てひとりで帰っていた。その後、仕事をそっちのけで兄弟のロードムービーが続いた。弟の変化で離れていた恋人も戻ってきた。

 調停の日、医師を加えて兄に質問が投げかけられた。兄の反応はおぼろげであり、必ずしも弟に有利なものではなかった。たびたび起こるパニックについても、正直に答えた。質問の最後に、弟と暮らすのか、施設に戻るのかと、二者択一を迫られた。兄の答えは弟といっしょに施設で暮らすというものだった。調停がくだしたのは、施設に戻すという判断だったようで、列車での別れが写し出されていた。弟は施設に訪ねることを約束しながら、兄を送り出した。父の死によって、財産以上のものを手にすることができたとみるのが、月並みだが妥当な解釈だろう。弟のあとについて歩く兄の姿は、安心感に満ちていて、ほほえましく幸福そうにみえて、美しい調和を奏でていた。

第256回 2023年8月21

ドライビング Miss デイジー1989

 ブルース・ベレスフォード監督作品、ジェシカ・タンディ、モーガン・フリーマン主演。アメリカ映画、原題はDriving Miss Daisy。アカデミー作品賞はじめ4部門で受賞。ユダヤ人資産家の老婦人と黒人運転手の交友を描いたヒューマンドラマ。大きな工場を経営するユダヤ人一族だが、今は息子が社長をしており、母親は一人暮らしで静かな日々を送っている。閑静な住宅だが、ときには友達を集めて麻雀もする。黒人のメイドがついて、身の回りの世話にあたっている。車の運転もするが、高齢のせいもあって、隣の庭に突っ込んでしまい、運転を危うんだ息子が、運転手を雇って、保険金で新車を購入した。

 母親は元教師で気難しく、敬虔なユダヤ教徒でもあり、キリスト教徒である息子の嫁を嫌っている。息子は呼び出されて頻繁に母親を訪ねている。母親のほうはクリスマスに息子の家でのパーティに招かれても、いやいや出向いている。ユダヤ教徒がキリストを祝うことはないのだ。黒人の運転手を雇うが、車に乗ろうとはしない。しかたなく庭いじりやメイドの手伝いをするが、手持ちぶたさでいる。路面電車やタクシーで買い物に行こうとするので、歩くのを車で追いかけ、声をかけ、金持ちがそんなことをするのはおかしいと説得して、やっと運転手の仕事ができた。言い争いになったとき、あなたには運転手が必要だ、私には仕事が必要なのだと言うと、母親は黙ってしまった。

 教会にも車での送り迎えをするが、教会の正面に車を止めて待っていると、裏口で待ってくれと言ったのにと、まわりの体裁を気にしている。お墓参りは欠かせないもので、これにも同行した。知り合いから頼まれた花を二列先に置いてきてくれと墓の名を教えたとき、運転手が字を読めないことを知った。新聞を読んでいる場面もあったが、恰好だけをつけていたようだった。教員時代に使っていた読み書きの教科書を、その後プレゼントしている。少しづつだが、心を通じあわせていく。メイドは婦人は気難しいので、深入りせずに距離を置いてつきあうようアドバイスをしている。

 メイドと運転手は、ふたりでテレビをみて時間を過ごしていたが、メイドが急死してしまう。太りすぎていたので、それが原因だったのかもしれない。老婦人はながらく途絶えていた料理を手がけるがうまくいかない。運転手の仕事もまた、増えていった。叔父の祝いがあって遠出をするときも、息子は会議で出られないため、同行した。道をまちがえてトラブルになり、高級車を黒人が運転しているのをあやしんで、パトカーの尋問も受けた。老婦人は毅然として身分を明かして対抗した。警官は黒人とユダヤ人の組み合わせを不思議がってながめていた。口には出さないが、人種差別の視線が感じ取られた。

 婦人は彼を親友と呼ぶようになったが、ある日子どもたちに教えていた頃の強迫観念がよみがえってきて、今も教師でいるような支離滅裂なことをしゃべりはじめた。婦人を落ち着かせて、電話をすると、息子が駆けつけてきた。病院施設での治療が必要となり、息子の対応は早かった。母の家は売りに出され、運転手も必要でなくなった。

 久しく行き来がとだえてのち、息子が運転手を連れて、母親を訪ねた。彼もはや70歳、孫娘が運転をしていた。90歳になる母親ははじめ誰かもわからず他人行儀に見えたが、息子を遠ざけて、ふたりになりたがっていた。息子が席をはずすと、母親は旧交を思い出すように目を輝かせた。運転手はデザートをスプーンでひと口づつすくって母親の口に運んでやっている。無言のなかにも築き上げてきた信頼感がよみがえっていた。老いたものどうしの友情があふれてみえた。

第257回 2023年8月22

ダンス・ウィズ・ウルブズ1990

 ケビン・コスナー監督、主演作品。アメリカ映画、原題はDances with Wolves。アカデミー作品賞はじめ7部門で受賞。1860年代、南北戦争の頃の話である。白人の一兵士とインディアンの一種族との交友を通して、アメリカの開拓時代に情け容赦のない殺戮が繰り返される実像を浮き彫りにしている。主人公は無謀なまでの行動によって英雄視された兵士だが、足を切断するような傷を負っている。切断して松葉杖で歩く兵士の姿を見ながら、人間同士の戦いの愚かさを実感している。回復後彼は内戦の舞台とはほど遠い、西部の奥地での任務を希望した。赴任するとこれまでの実績を見ながら、なぜこんな僻地にまできたのかを、不思議がられている。さらに辺境にある砦に向かい、廃屋と化した地にひとり残される。案内人は帰り道で、馬車ごとインディアンに襲われて殺されてしまった。

 開拓のための味方軍が来るまで、ひとりで足がかりをつけておくのが任務である。備蓄の食料は豊富にあった。ライフルなどの武器は見つからないように穴を掘って埋めた。水の確保に池を見つけるが、牛の死骸が沈められていた。自然とのふれあいは、狼が遠巻きにねらっている。主人公は追い払うのではなく、仲よくならないかと思案している。餌を与えようとしても、手に持っているかぎりは近づくことはなく、地面に捨てたときに素早く奪い去っていく。犬に似て親しみのある姿なので、気になっている。ローンウルフの名の通り、一匹狼の存在が、主人公の孤独と共鳴している。

 動物との出会いなら、そんなに問題にはならなかっただろう。やがてインディアンの存在に気づくことになる。生活をはじめて、家屋から煙が上がったことから、気づかれたというほうがよいか。周辺を探索しているとき、インディアンの衣服を着た女性がけがをして苦しんでいるのに出くわす。馬に乗せて居住する部落にまで送り届けたことから、警戒心を取りながらも、交わりが始まっていく。

 他の顔立ちと比べると、この娘はちがっていた。西洋人の顔立ちをしていた。事情はやがてわかってくる。娘の一家がインディアンに襲撃され、家族が殺されるなかで、ひとりだけ生け捕られ、育てられてきたのだった。リーダーの監視下にあったが、この娘を通じて、主人公が安全な人物であり、信頼できることが浸透していった。ことばが通じなかったが、娘は捕らわれるまで使っていた英語を少しだが覚えていた。

 身振り手振りからはじまったことばで最初に覚えたのは、バッファローだった。それはインディアンたちが追い求めている獲物だった。主人公は地響きを聞きつけて、それが大群の移動であることを知り、一目散に駆けて知らせてやった。彼らは武装して立ち向かい、これらの獲物を仕留めることができた。主人公もライフルを持ちだして加勢した。仲間として信頼を得る第一歩となった。このときの狩りのようすが撮影されているが、大群の移動する姿は迫力に満ちたものだ。インディアンがやってきたとき、すでに肉が削がれ皮が剥がれたバッファローが見つかった。白人による狩猟なのだと思った。

 英語でのコミュニケーションによって、娘と親しくなっていくが、娘は喪に服しているとのことだった。けがをして助け出されたとき、他の部族に襲われて夫は殺害されていたのだった。白人による侵略だけでなく、インディアン同士の闘争も激しかったのである。二人の仲を勘づいたリーダーの妻は進言し、リーダーは喪が明けたことを知らせた。ふたりは結婚をして、ともにインディアンの一族となった。他の部族の襲撃が迫ったとき、主人公は砦に埋めたライフルを取り出して、仲間に与え、勝利を得ることができた。殺しあう姿をみながら、それは生き残るための戦いであって、善悪の問題ではないのを自覚した。

 争いはさらに白人による侵略が待ち構えていた。いずれ来ることはわかっていた。リーダーはどれくらいの数かと聞いた。主人公は無数と答えた。武装した兵が近づいてくることがわかって、部族は逃げることしかなかった。急いで逃げるなかで主人公は、砦に日誌を置いたままにしたことを思い出す。それにはこれまでのインディアンとの交流が、妻のことも含めて、つぶさに書いてある。

 引き戻したとき捕まってしまい、インディアンの衣装を着ていることから、尋問され拷問を受けた。日誌は字の読めない兵士が、値打ちのあるものと思ったのか取り込んでいた。草むらで用を足すときに、ページを破ってトイレットペーパーがわりにもしていた。インディアンの仲間の何人かが心配をして引き戻していて、隙をみて襲いかかり、主人公もともに戦い、白人兵に多くの死者を出した。妻とも再会できたが、兵は自分を追ってくるにちがいない。リーダーに別行動を取ることを伝え、妻とふたりで雪のなかを、逃げ延びて行った。別れるとき贈り物を持ってきた娘があった。開けると日誌だった。字は滲んでいたが、軍に知られることなく手に戻った。主人公にとって生涯一番の宝物だった。

 最後に遠吠えを放つ狼が、崖の上に立ち、幻のように写し出されていた。飼い慣らすことはできなかったが、主人公は狼に餌を手渡すことができるまでになっていた。火を焚いてそのまわりを踊る姿を、狼が興味深げに眺めている。それを目撃したインディアンたちは、主人公を「狼と踊る人」と名づけた。主人公が捕らえられたときも、遠巻きに狼の姿があった。心配げに見守るようにみえた。兵士が見つけると標的にされ、すばやく逃げ続けたが、おもしろがりながら打ち続け、命中して死に絶えた。最後のテロップに動物は一頭も死んではいなくて、調教師によって訓練されたものだと、ことわりが書かれていた。狼だけでなく多くの馬も矢や弾丸を受けて死んでいた。人間にも勝る演技力だと感心した。

第258回 2023年8月23

羊たちの沈黙1991

 ジョナサン・デミ監督作品、ジョディ・フォスター、アンソニー・ホプキンス主演、アメリカ映画、原題はSilence of the Lambs。FBIの女性捜査官が猟奇殺人に挑む。まだ研修生だが成績優秀で、収監中の殺人鬼レクター博士から、情報を得る任務をまかされて、近づくところから物語ははじまる。

 オープニングでは林のなかをジョギングする女性が写されている。課長が呼んでいると言って追いかけてきた男がいて、帽子にはFBIの文字がみえる。広い施設内のようである。格闘技の訓練中の仲間たちのあいだをぬって課長の職務室に向かう。小柄だが機敏で根性はありそうだ。連続殺人犯の現場写真や新聞記事が壁に貼ってある。皮を剥ぐ殺人鬼でバッファロービルの名を取っている。新聞の見出しは「ビルは5人目の皮を剥がした」と読める。現代なお進行中の事件である。

 大学時代に犯罪心理学を学んだ恩師で、ここに勤務しており、主人公は専門を生かしてFBIでのこの部署を希望している。父親は保安官だったが、殉職をしており、父の意志を継いだとも言える。レクター博士の知恵を借りるのは、精神科医であり犯罪心理に長けていて、相手の心理を読み、洞察力にとんでいるからである。ただ凶暴な犯罪者であり、心を許すと狂気は相手の内臓を引きちぎり食い尽くすまでに至る。そのために特別な収容施設で監禁されている。主人公が選ばれたのは知的な女性で、レクター好みだと判断されたからだった。上司はレクターとの接触をしり込みしているようだ。

 気を許してプライベートなことを教えないよう、上司からアドバイスをされて、立ち向かうことになる。はじめに身分証を確かめて、謎めいた会話が続いて、いくらかは自分の生い立ちもしゃべらされたが、重要な知識を手に入れた。ふたつの狂気を重ね合わせながら、捜査は進められていく。バッファロービルはレクターの分身ではないのかと思えてくる。

 レクターは二人いた監視員を殺害して脱獄してしまうが、その一部始終を写し出していて、その残忍さには身の毛がよだつ。監視員にかみつき、顔の皮を剥いで、瀕死の姿になりすまして救急車に乗せられていた。自分の衣服は殺した男に着せて、エレベーターの上に放りあげた。信じられない超能力が発揮されていた。ひとりは不死鳥のように空中にはりつけにされていた。捜査に協力して、監視つきで連れ出されたときもものものしく、手足は拘束されプロテクターで口をふさがれて、狂犬のような扱いが、写し出されていた。

 主人公は単身で犯人のアジトを探りあて、乗り込んでいく。功を独り占めしようとする無謀さにもみえる。追いつめて真っ暗な部屋のなかを、手探りで移動している。犯人は高感度のメガネをつけて、楽しみながらそれを見ている。近づいて手をかけようとしたとき、気配に気づき振り向きざま、間一髪で撃ち殺されてしまった。逮捕に貢献した主人公の手柄を祝う会が催されているとき、電話がかかり、出ると逃走中のレクターからだった。主人公を気にいっているのが、はっきりとわかった。レクターのパワーは、収監中に訪れた主人公に対し無作法をはたらいた囚人を呪い殺すこともできた。

 確かに事件解決に至る、この栄光はレクターのおかげだった。今後もその危険なまでの超能力に頼ることになるのだろうか。レクターは彼女がファザーコンプレックスであるという弱みを握っている。この女が実績を上げて亡き父を喜ばせたいと思っているのも知っている。不気味さが尾を引き、悪魔に魅入られた羊のように、主人公は電話口で沈黙し続けるしかなかった。今回の事件で殺害された女の場合と同じく、喉に蛾の繭が埋め込まれ、唇は蛾で封印されてしまったかのようにみえた。ジョディ・フォスターの知性美とアンソニー・ホプキンスの冷静を装った狂気とが、切っても切れない関係になりかけている。電話を終えたレクターは、後ろ姿を残して人込みに消えていった。

第259回 2023年8月24

フォレスト・ガンプ一期一会1994

 ロバート・ゼメキス監督作品、トム・ハンクス主演、アメリカ映画、原題はForrest Gump。アカデミー作品賞はじめ6部門を受賞。小さいときから背骨が曲がっていたため、補助具をつけないと歩けない子どもが、ハンディを克服してヒーローになるまでのサクセスストーリー。名をフォレスト・ガンプといい、知能も遅れていたようで、IQの数値からは養護学校をすすめられたが、しっかりものの母親ががんとして普通学校に入れることを主張した。スクールバスでの登校の日、座席が空いているのにいじわるをされ、座らせてくれないなか、ひとりの少女が隣の席に導いてくれた。ジェニーといったが、その日からふたりは仲のいい友だちになった。

 歩けないことをからかわれて、追いかけられ、逃げるなかで、走ることができるのに気づく。しかもおそろしく速い。それから走り続ける日々がはじまった。アメフトの試合にまぎれこんだとき、その走りがスカウトされて、大学に入学することができた。選手としての成功は全米の代表にまで選抜され、ケネディ大統領から表彰を受けている。成長記録がアメリカの現代史と歩みをともにしていく。

 母とふたりで暮らしていたが、ふたりで住むには大きな家だった。ホテルがわりに利用されて、多くの出入りがあった。ギターをかついだ若者が泊まったとき、不自由な脚で踊ったのを、おもしろがったのは、エルビス・プレスリーが騒がれた時代に同調している。その後、ジョンレノンとテレビで対談したり、ベトナム戦争やウォーターゲート事件と続き、大物政治家の暗殺事件を対応させながら、ガンプの行動記録が綴られていく。

 初恋の相手ジェニーのことはいつも気にかかっていた。同じ大学生活を送るが、彼女は学生運動にのめりこみ、まったくちがう世界に生きていた。ジョーンバエズをあこがれて、フォーク歌手をめざしたが、実際に舞台に立っていたのは、裸体でのギター演奏で、酔っ払いの男たちの目にさらされていた。ガンプが有名人になっていくのと、対比をなし、転落していったようにみえる。

 ガンプがフットボールで大学を卒業したとき、声をかけられたのがアメリカ陸軍だった。ベトナムに派兵され、そこで黒人の親友と責任感のある頼もしい隊長に出会う。ここでは敬礼をするなという。上官であることを知られないためだというので、なるほどと思う。黒人はエビ漁をすることを将来計画にしていて、漁船の船長になるので、いっしょに船に乗ろうと誘っている。ふたりは敵の襲撃にあって負傷するが、ガンプが抱きかかえて安全な場所まで運んだ。このふたりだけではなく何人もの負傷兵をかついで往復した。部隊は全滅したが、隊長は助かることを望まず、長い間ガンプを憎むことになる。親友の黒人は味方の救助まで間に合わず、命を落とした。このときガンプはエビ漁のあとを継ごうと決意している。

 帰国後、救出活動が称えられ名誉勲章をもらうことになる。隊長は両脚を切断していきながらえた。ガンプも尻に銃弾を受けて、野戦病院で隊長と病床をともにしていた。隊長はそんな姿で生き続けたくはなかった。自暴自棄となってアルコールに溺れるのと対比的に、ガンプは大統領から二度目の表彰を受けている。カメラの前で負傷した尻をはぐってみせ、大統領は苦笑した。ケネディもニクソンもジョンレノンもほんもので、そこにガンプがいて、握手をしたり会話を交わしたりしている。何気なく挿入されたコンピュータ技術の進化に驚かされる。

 表彰式でワシントンを訪れたとき、ベトナム戦争に反対する集会に紛れ込んでしまう。軍服での参加が目を引き、壇上で戦争について話を求められると、遠くの聴衆から声が上がり、ジェニーが池を渡って駆け出してきた。ふたりは駆け寄って抱き合い、ガンプにとって忘れがたい思い出になった。ジェニーは反戦運動のリーダーと行動をともにしており、ガンプとは相容れない溝があった。バスに乗り込む彼女を、何も言わずに見送るしかなかった。

 負傷した病院でやりはじめた卓球が、次の興味の的になる。外すことなく高速度の打ち返しが続いている。負傷者たちがみごとなラケットさばきに見惚れている。ここでもCG技術が使われるが、超人的な能力を発揮して、中国に対抗するアメリカンヒーローとなる。退役命令が出て故郷に戻るが、そこで卓球はストップした。母が迎えてくれ、部屋にはファンからのプレゼントが届いていた。そのなかで靴のメーカーからの支援金を元手に、戦友の黒人家族にも声をかけ、船を購入してエビ漁に乗り出す。船名はジェニーと名づけた。

 隊長がエビ漁のようすを見にきた。以前から手伝うとの約束をしていた。車椅子だったが、二人して船に乗り込むが、簡単には水揚げがされない。暴風雨が起こって多くの船が座礁するなか、この船だけが生き延びた。これをきっかけにエビの大漁が続き、会社は大きくなっていった。このとき隊長も生きがいを見い出しており、まだ言ってなかったと詫びて、助けてくれたお礼を述べた。

 ここで隊長に仕事をまかせてガンプは故郷に戻る。母からの病気の知らせがあった。ガンであったが、最後の日々を母子はともに過ごすことができた。庭の芝刈りに余念がなかったが、ある日ジェニーが訪ねてくる。詳しい事情は聞かないまま、ガンプの家にとどまった。廃屋になっていた実家にも訪れて、石を投げつけた。父親を嫌っていて幸せな思い出の残る場所ではなかった。ガンプは結婚をほのめかすが、ジェニーは答えなかった。滞在中に肉体の結びつきがあったが、翌日理由も告げずにジェニーは去った。

 ガンプは幸せな日々を夢見たが、我に返ったように再び走ることを決意、家を出てアメリカを横断して走り続ける。髪も伸び放題になり、そのようすは報道されることになる。信者のように、あとに続いて走る人たちが現れ出す。西海岸の突端までたどり着くと、Uターンして引き返し、大平原の一本道を走り続けている。何十人もの人たちが続くなか、突然足を止め、故郷に帰ると言い放った。懐かしい家に落ち着くことになる。ジェニーからの手紙が来て、会いたいといって、住所を知らせてあった。

 バスでやってきたようで、降りてベンチに座っていると、一枚の羽根が風に吹かれて、足もとに落ちた。ガンプは拾ってアタッシュケースに収めた。膝にはジェニーに渡すチョコレートの箱を置いている。母がチョコレートの箱になぞらえて、よく教訓を語っていた。スーツを着ているが、汚れた運動靴を履いている。靴はガンプを象徴する重要なアイテムだった。バスを待つ人に、自分の生い立ちを語りはじめている。真新しい履き心地の良さそうなスニーカーをほめている。相手は頭がおかしい人と思って、怪訝そうな顔をしている。バスが来てまたちがう相手に続きの話をはじめている。実はこれが映画のオープニングの場面である。主人公は不安げな顔をしているが、はじめにはその理由はわからない。

 彼女の家はそこから歩いてすぐの場所にある。なぜすぐに向かわなかったのか。彼女のこれまでの謎めいた行動を思い起こしながら、不吉な何かを感じていたからだろう。それを恐れて先延ばしにして、これまでの自分の半生を振り返っていた。めどをつけたように立ち上がり彼女の新居に向かった。ドアを開くと彼女はひとりいて、いつものように笑顔で迎えてくれた。生活感のある部屋だった。子どもを連れた女性が入ってきて、子どもを置いて去って行った。私たちはガンプとともに悲しみの予感を味わうことになる。彼女は私の子どもだと言って紹介したあと、父と同じフォレストという名をつけたと付け加えた。フォレストはテレビを見ているフォレストの部屋に入っていった。

 彼女が打ち明けたのは、ウイルス感染をしていて、死期が近いということだった。母親は胸を張って、この子は頭がよくて成績は一番だと言った。子どもをつれて結婚式が開かれた。隊長が車椅子ではなく、義足をつけて、歩いてお祝いにやってきた。かたわらには東洋人のフィアンセがいた。妻の墓は、かつてふたりで登って遊んだ大木の下に設けた。ジェニー・ガンプという墓碑銘が読めた。彼女の悲しみの残る旧家は取り除かれた。子どもの登校を見送る父の姿があった。スクールバスがやってきて、乗り込んでゆく息子の姿は、かつてガンプ自身が目にしたものだった。親子ふたりの生活が、数十年のときを隔てて繰り返されている。

第260回 2023年8月25

ブレイブハート1995

 メル・ギブソン監督、主演作品、アメリカ映画、原題はBraveheart。アカデミー作品賞はじめ5部門で受賞。スコットランドにあらわれた英雄が、自由を掲げてイングランドの圧政に挑むが、志なかばにして処刑されるまでの話。戦いを嫌い平和を愛する男であったが、恋人を虐殺されたことから、復讐の鬼と化してゆく。ウィリアム・ウォレスという実在した人物の歴史物語である。

 スコットランドの有力者に声がかけられて、それぞれの一族から主人と他一名だけが招集された。イングランドから持ちかけられた和平の提案だった。主人公はまだ子どもだったので、家に残されて、父と兄が出向いた。この和平はイングランドの策略による罠だったようで、一部屋に集められて首吊りにされた姿が写し出されていた。父親は遺体になって戻ってきた。事件を聞きつけた叔父がやってきて、家族を亡くした主人公を見つけて連れ帰った。子どもは怒りをあらわにしたが、復讐よりも今は賢者になることだと、叔父は諭した。その後、ローマで教育も受けたようで、成長して故郷に戻ってくる。かつて、なぐさめて優しく花を手向けてくれた少女がいたことを覚えていた。成長したふたりは直感的に相手を探りあてていたようである。

 主人公が戦いを好まない平和主義者で、父親のような勇者ではないことから、娘の父親は二人の仲を許そうとはしない。隠れて結婚をしたが、支配者のイングランド軍の上官が娘に目をつけ、暴行を加えたとき、主人公が駆けつけて、兵士たちと争いになる。先に娘を馬で逃すが、捕まってしまい、無惨にも殺されてしまう。何とか逃れることのできた主人公の怒りは爆発し、ひとり立ち向かうと、抑圧されてきたスコットランドの人たちも加勢して、反乱へと発展していった。娘を殺害した司令官も捕らえられ、娘がされたと同じように喉を切られて殺された。

 反乱の首謀者として主人公の名は、イングランドにも知れ渡ることになる。イングランド国王には不祥の息子がいて、同性愛者だった。世継ぎの必要からフランスから姫を政略結婚で招き入れた。当然、ふたりに愛はなかった。反乱を鎮めようとして使者に立ったのは、この姫だった。主人公と会ったとき心をときめかした。主人公の教養はフランス語で愛を語ることもできた。フランス軍とスコットランド軍ではさみ撃ちにする計画を知って、主人公に知らせてやる。敵に先立って手を打つことができた。

 スコットランド人は主人公を英雄として讃えたが、ひとつに統一していたわけではない。貴族たちで有力な立場にあった者は、主人公をねたましくも思っていた。そこにも狡猾な父と凡庸な子がいた。子の凡庸は主人公の勇姿を見て、同調したが、父の意に反することができず、裏切ってしまう。主人公がイングランド王を追いつめたとき、行く手を阻んだ兵士がいて、防護された面を外したとき、そのスコットランド貴族であることがわかった。そのときの主人公の落胆のようすは、一様ではなかった。スコットランドの統一を託そうと思っていた人物だったのである。主人公はこの男を信じた。男のほうも父親を叱責し、自分の意思を通そうとした。しかし意思に反して二度までも主人公を裏切ることになってしまう。病にかかり死にかけていたが、父の権力がまだ優っていたのである。

 主人公は捕まり、処刑を言い渡される。罪を認めれば楽に死ぬことができるが、そうでなければ拷問が続くと脅される。公開でのその姿はキリストの最後を思わせるものだ。舞台に上がるまでに、イングランドの大衆は、口々にののしり、つぶてを投げつけていた。首吊りからはじまり、ありとあらゆる拷問が続いた。主人公は耐え続けた。王への忠誠を強要する執行人に、最後に発したことばは、フリーダムという語だった。姫は義理の父に命乞いをした。王は病床にあったが、死ぬ前に主人公の処刑が見られるのを喜んでさえいた。。姫は誰にも聞かれないように耳もとでささやいた。あなたたちの家系はこれで絶える、私は夫とはちがう子をみごもっていると。

 主演を演じたメル・ギブソンの演技が輝いている。マッドマックスの大衆性とは異なった重厚な役づくりが、信念の人をみごとに浮き上がらせた。心優しい普通の人が、立ち上がることで自分の使命を見つけ出していく。監督としての使命感もまた、このことに同調するものだろう。イーストウッドやレッドフォードやコスナーとともに、名優が使命感をもって名監督となったのである。

第261回 2023年8月26

イングリッシュ・ペイシェント1996

 アンソニー・ミンゲラ監督作品、アメリカ映画、原題はThe English Patient。アカデミー作品賞をはじめ9部門で受賞。墜落して大やけどを負った男を見守る看護師の物語。記憶を喪失した男の回復にともなってわかってくる秘められた悲恋をめぐって、彼女は強い感銘を受けながら、最後まで看取ることになる。舞台はアフリカ、砂漠の支配する荒涼とした自然美を映し出した映像に魅せられる。ことにオープニングの旧式の二枚羽の飛行機が静かに砂漠の波紋の上を、影を落としながらゆっくりと移動する姿が、究極の映像美を生み出している。実写とは思えない抽象絵画に、飛行機の影が小さく挿入され、やがて砂漠を上空から映し出しているのだと気づくことになる。

 この飛行機が二度墜落するのが、生々しく映し出されている。冒頭ではやけどをした瀕死の姿が見えるが、顔を見定めることもできない。女性が同乗していたはずだが、それも語られることはない。どこの誰であるか、見ている私たちだけでなく、本人も記憶喪失になっているのでわからないのだ。英語をしゃべるので「イギリス人の患者」とされたが、交戦中のドイツ人であるかもしれない。あるいはスパイの嫌疑もかけられる。

 手当てをされるのはイタリアでの話だが、ドイツの敗戦が間近に迫った頃である。看護師役のジュリエット・ビノシュは、地雷も知らずに平気で歩いている。地雷処理班の兵士が恋人にいるが、この患者に惹かれていて、看護兵たちが移動したあとも、とどまって世話をし続けている。患者が思い出しながら語るには、エジプト考古学の探検隊に属した人物で、人妻と恋に落ちて、悲恋で終わったことを知る。原始時代の洞窟壁画を発見し、その神秘空間が愛をはぐくんでいった。泳ぐ人の描かれた不思議な世界である。

 不倫関係は夫に気づかれるところとなり、妻は善良な夫のもとに戻ろうとするが、果たせなかった。自暴自棄になった夫は、自殺的行為としか思えないが、妻を載せて小型機を操縦して、砂漠にいた主人公に向かって突進してくる。地面に激突して夫は即死したが、妻にはまだ息があった。主人公は洞窟に運び入れて愛を確かめあったが、このままでは死んでしまう。徒歩で助けを求めに行くことを決意し、3日間歩いて3時間で戻ってくると言い置いて出ていった。

 戻るが軍から尋問を受け、自動車を借りたいと懇願するが、あやしまれて捕まり、列車に乗せられて捕虜として移動させられようとした。列車から飛び降りることができて、飛行機も手に入ったが、洞窟にたどり着いた時には、彼女は死に絶えていた。最後まで書きつけていた日記がかたわらにあった。遺体をのせて飛行機で戻る途中に、まだ交戦中だった射撃を受けて、墜落し、大やけどをし記憶喪失となった。女の遺体については、焼けてしまったのか、何も語られないままだった。

 死期の迫った主人公に看護師は、残された日記を読んでやっている。苦痛を回避して、大量のモルヒネを注射することで、物語の幕は閉じられた。日記だけがロマンを知る物的証拠であるが、すべては砂に埋もれて何もなかったかのように、悠久の眠りについている。看護師もこの町を去り、終戦にともなって故郷に戻ることになるだろう。彼女はフランス人ではなく、カナダ人で英語とフランス語をともに使うことができた。魅力的な女性で、野戦病院で負傷した若い兵士から、どんな治療よりも効果があるので、キスをしてくれと懇願され、望みをかなえてやっていた。

第262回 2023年8月27

タイタニック1997

 ジェームズ・キャメロン監督作品、レオナルド・ディカプリオ、ケイト・ウィンスレット主演、アメリカ映画、原題はTitanic。アカデミー作品賞はじめ11部門で受賞。巨大客船タイタニック号の沈没までを舞台にしたラブロマンス。CGを駆使したパニック映画でもある。

 映画は沈没船の一等客室の捜索からはじまる。海底から金庫が見つけ出されて引き上げられるが、出てきたのは紙幣を含むぼろぼろになった書類だけで、金目のものはなかった。捜索の目的は沈んだはずのダイヤの首飾りにあった。二つ折りのケースが入っていて、開くと横たわる裸婦が描かれた絵だった。胸には確かに目的のダイヤが輝いていた。このことが報道されると、101歳になる老婦人が連絡をしてきた。その裸婦は私だと言うのである。疑心暗鬼で確認しながら、昔話に耳を傾けていく。

 何が沈んでいるかは、これまで調査し尽くされていた。名高い富豪とそのフィアンセが乗船していて、結婚に際して贈られるダイヤのネックレスが用意されていたこともわかっていた。老婦人へのいくつかの質問から、彼女が本人であることが確認できた。引き上げられた手鏡を感慨深くながめている。

 娘は母親と乗船しており、名門の出ではあるが、没落して家名のみをよりどころとして娘を嫁がせるめどがついたという事情が語られている。娘はいわば身売りをした犠牲者であり、自由を求めるが、家の事情もわからなくはない。束縛に耐えかねて、発作的に身投げをしようとしたとき、運命の人となるジャックが助けた。アメリカ人で貧乏な画家の卵だったが、15歳で故国を離れ、ヨーロッパを遍歴していた。ポーカーに勝ってタイタニックの三等切符を手に入れて、帰国が実現したのだった。

 娘は自殺しようとしたことは隠して、言い繕った。ジャックも話をあわせた。助けてくれたと言わなかったなら、ふたりがもみ合いになっていたのは、暴漢に襲われたようにみえたはずだ。婚約者は20ドルほど渡すよう執事に命じたが、娘は私の命は20ドルかと返したので、ディナーに招待することでおさまった。

 二人のなかは深まってゆくが、一等客室と三等客室では、簡単には行き来ができない。甲板に出て船の先端で二人きりの時を過ごす。この希望は二人が別れる船の船尾での場面に対応している。婚約者の不在をぬって画家を引き入れ、肖像画を描いてもらった。豪華な船室である。裸体になり、ソファに横になり、ダイヤのネックレスをつけた。終わるとダイヤとともに金庫に戻した。婚約者が戻ってきて、それを見て激怒する。婚約者と決裂する娘の挑戦のようにみえる。婚約者は画家をおとしいれようとして画策をする。ダイヤがなくなったと言って大騒ぎをしたのだ。画家が疑われ、執事が呼びに行き、戻ってくるすきに画家のポケットにダイヤを入れていた。画家は無実を主張したが、拘束されてしまう。娘も一瞬は疑ったかもしれない。手錠をはめられて繋がれたのを、執事が銃を突きつけて見張っている。もと刑事だった。

 氷山にぶつかりタイタニックは沈没をはじめた。だんだんとパニックになっていくようすが、迫力のある映像となっている。娘はジャックを探し見つけるが、部屋の水位がたかくなっている。執事は逃げてしまっていた。手錠の鍵が見つからず、助けを呼びに行くが無駄で、非常用の手斧が見つかり戻ってくる。一か八か振りかざして手錠の鎖を切ることができた。ふたりは手を取り合って水のないところへと走り続ける。

 婚約者がふたりの姿を見つけた。嫉妬はますます膨れ上がって、執事の胸ポケットから銃をうばって、追いかけて弾がなくなるまで撃ちはじめた。婚約者とはその後も何度か顔を合わせることになる。おんな子どもが先にボートに乗せられていく。ジャックが娘を説得しているときも現れて、ジャックと離れられない娘に対して、ジャックの乗るボートも用意してあると言って、善良なところをみせた。先に乗組員を買収していたのである。娘は安心して乗り込むと、婚約者はジャックにお前の乗るボートなどないと明かした。ボートが下げられているときに、娘は急に思い直して飛び戻ってジャックのもとに向かう。

 婚約者は娘の震える姿を見て、コートを脱いで、着せてやった。優しさを見せつけて、何とか娘を引き止めようとするのだが、ポケットにダイヤが入っているのを忘れていた。婚約者は生き延びることになる。買収も無駄だった。乗組員はもらった紙幣をばらまいている。紙幣など何の役にも立たなかった。婚約者は子どもがひとりおびえているのを見つけて、抱きかかえたまま自分もボートに乗り込んでしまった。船長は死を覚悟して操縦室に戻った。

 娘はジャックとともに、沈没する船の末端にまでたどり着いていた。船は垂直に立ちあがっていく。手を離すと真っ逆さまに落ちていく。ゆっくりと沈んでゆき海に投げ出される。浮遊物につかまりながら、寒さに耐えている。娘は引き上げられ横たわっていたが、ジャックは水に浸かったままだ。やがて力は尽きて、死んで海底に沈んでいった。まわりには多くの人がまだ浮かんでいたが、誰も生きているものはいなかった。捜索のボートがきて、娘は死んだ乗務員のホイッスルを見つけて鳴らすことで助け出された。

 朝になり助かったひとのなかに婚約者を見つけた。娘を探しているふうだったが、顔を背けていた。その後、事業に失敗をして自殺をしたらしい。昔話を終えたとき、探索船の乗組員たちが、真剣な表情を浮かべて聞き入っていた。誰も彼らの本来の目的を問おうとする者はいなかった。娘は男もののコートを着たままだったが、助かってポケットに手を入れるとダイヤのネックレスが出てきた。そして今、すべてを終わらせるかのように、探索船から海に向けて、老婦人はそれを投げ捨てた。彼女のラブロマンスはこれで終わった。

第263回 2023年8月29

恋におちたシェイクスピア1998

 ジョン・マッデン監督作品、アメリカ・イギリス映画、原題はShakespeare in Love。アカデミー作品賞はじめ7部門で受賞。ロメオとジュリエットの戯曲の執筆から初演までを、シェイクスピアの恋のはじまりと別れまでを重ね合わせながら描き出される。変奏曲と言ってもよいか。スランプに悩んでいたシェイクスピアに霊感を与えるミューズが現れた。財産家の娘だったが、求婚されていて、女王にも知られることとなっており、逃れることはできなかった。詩と演劇を愛し、男装をしてひとけのない舞台で役者になったつもりで、セリフを語っていた。シェイクスピアが聞きつけて惚れこみ、劇団に引き入れる。

 女性は舞台には立てず、見つかれば逮捕される時代だった。やがて付け髭をした男装の女性であることが知れて、しかも名家の娘で、結婚を間近にしていることもわかるが、引き返せないところまで、恋愛は進んでしまう。よじ登って娘の家の寝室に入り込むのは、ロメオとジュリエットをなぞっているようにみえる。こちらの方が史実だとすれば、ここから戯曲の場面が、思いつかれたというほうがよい。婚約者は無骨者で、文学などには縁のない人物だった。芝居で真実の愛が語れるかを、娘と金を賭けあっていた。

 シェイクスピアとの不倫に気づくと、婚約者は名を確かめた。とっさにちがう劇作家の名前を言ったが、やがてその人物が刺殺されてしまう。シェイクスピアは自分のせいだと自身をせめ、やがて剣をとっての決闘にまで発展する。シェイクスピアの腕前もなかなかのものだった。はじめ喜劇のはずだった芝居が悲劇としてかたちを整えてゆく。そして最後のふたりとも死んでしまう毒薬の場面を思いつくに至る。実力派の俳優も引き込んでいたが、主役だと偽っていた。決闘で殺されるジュリエットの兄の役である。この役名をはじめ題名にしていたが、この役者が話の展開に感銘し、「ロメオとジュリエット」というタイトルがいいと提案している。

 ふたりの愛は芝居では死をもって成就したが、シェイクスピアの恋は実らなかった。ふたりして手を取り合って逃げることもできたのだが、娘はこの天才の才能を独占することを避けた。初演の日が来た。娘は婚約者にしたがって旅立つ日でもあった。娘は姿を消して芝居小屋へと向かった。役者たちは頼りなかった。薬剤師役の役者はぎりぎりまでぶつぶつ言いながらセリフを繰り返している。

 緊張感からジュリエット役の男優が姿を消してしまった。娘が来ているのに気づいた劇団員が、声をかけた。娘はセリフをしっかりと覚えていた。代役で舞台にあがることになる。婚約者もかぎつけて観客に混じっていた。女性が舞台に立つことは違法であり、とがめがあることは覚悟した。最後まで演じきった。ロメオの死を認めて、ジュリエットが短剣で自害するクライマックスを、観衆は感動のもとに見守っている。終わったとき沈黙が続き、ひとりが拍手をしはじめると、ブラボーの声が沸き起こった。ふたりは生き返って抱き合っていた。

 兵士たちが隊列をなして、舞台に上がり、逮捕しようとしたとき、女王が姿を現した。女王は意地悪そうにみえて、粋な計らいをする。観客に混じって見ていたのである。娘に向かってみごとな女型だとほめた。一件落着、みごとな判決だった。婚約者がいることもわかっていて、面と向かって言ったのは、観客をこれほどに感動させる芝居には、愛を語る力があるということだった。賭けに負けたことを認めさせ、娘に賭け金の支払いを命じた。これも一件落着となり、シェイクスピアの恋もここで終わった。女王は今度は十二夜の日に喜劇を見てみたいといって立ち去った。シェイクスピアは、実らなかった恋に思いを馳せて「十二夜」の構想に羽ばたきはじめていた。

第264回 2023年8月30

アメリカン・ビューティ1999

 サム・メンデス監督作品、アメリカ映画、原題はAmerican Beauty。アカデミー作品賞をはじめ5部門で受賞。アメリカ社会の崩壊を映し出した家族の悲劇。すべては意思疎通のできていない不信と誤解から生まれた、現代社会のねじれた構造に由来している。主人公は42歳になるサラリーマン、妻と娘がいる。娘はセブンティーン、父親を不潔だと毛嫌いしている。父が無気力なのに対して、母親は積極的だ。キャリアウーマンで不動産業、共稼ぎなので、プールのある立派な家に住んでいる。経済的には恵まれているが、夫婦の交わりは長年ない。食事はともにするが、会話はなく、あっても空々しい。

 娘はティアガールに属して、ダンスをするのを夫婦で観戦に行った。父親は中心にいて目立った娘の友人熱を上げて、目で追い続けいる。家に泊まりに来たときにも、妄想をふくらませて、娘のほうも媚びを売って満更ではなさそうだ。隣家に三人家族が引っ越してくる。父親は元軍人の大佐だった人物で、厳格に息子を育てている。母親の存在感はあまりない。

 息子は主人公の娘と同じ学校に通っているが、いつもビデオカメラを手にして、撮影をしている。娘を気に入っているようだが、娘のほうは気持ち悪がっている。この家族関係も謎めいているが、近所の男性ふたりが挨拶にきたとき、父は彼らが同性愛者だと気づいて、異常なほどに嫌悪した。息子も父の意見に同調している。

 息子は従順に見えるが、父親の知らない秘密をもっていた。精神疾患をわずらっていたようで、今も定期的に尿検査をおこなっているが、冷蔵庫に保存してある他人の尿を提出している。彼は隠れたアルバイトとして麻薬の密売をしていた。表向きには宴会のウェイターだったが、主人公が妻のパーティにつきあったとき、つまらなさそうにしているのをみて声をかけて、高価な上物を売りつけている。

 主人公は勤務能力がなくて人員整理の対象にされていた。人事担当に新任がきて、大柄な態度で、退職をうながされていた。溜まっていたストレスを、神経をたかぶらせることで解消し、生きている実感をあじわいたかったのだろう。その後もふたりで注射をうつ姿が写し出されていた。若者は尿にその反応が出るのを恐れていたのである。

 この息子をはじめ嫌っていた娘が近づきはじめる。友人は危ないからよせと忠告するが、一人っ子どうしで、同質的な苦悩をかかえていることに、親近感をもったからなのだろう。友人はコケティッシュで、容姿に自信があり、男を惹きつける力を誇っているが、若者のほうはこの娘に、見向きもしていなかった。若者は娘を自宅に招いて、父のコレクションしている銃を見せている。父は勝手に戸棚を開けたことに気づいて、異常なまでに激怒した。息子は従順に謝っている。

 父親はガールフレンドができたことで、安心したのかもしれない。隣家の窓が丸見えの状態で、息子は彼女をビデオ撮影している。父親が気になって息子の留守のとき、ビデオを確認すると、彼女だけではなく、主人公が筋トレをしている姿も撮影していた。急にボディビルをやりはじめたのは、若い娘に好かれるためだった。妻は何事が起こったのかという顔をしていた。

 この娘が主人公を誘ったことがある。自宅で二人っきりのときだった。その気になって主人公は迫るが、娘ははじめてであることを打ち明けた。娘が不良ぶって自慢していたのは、男は誰も自分をみて自慰をするというのだった。主人公は急に行為をやめてしまった。おそろしくなったからか、あるいはモラルを取り戻した親心からか。

 元大佐が隣家の窓で次に見たのは、主人公と息子の姿だった。ふたりして麻薬に溺れているところだった。主人公は身体をのけぞらせて恍惚とした表情を浮かべている。息子はうつむいて注射器の用意をしている。父親にはその光景がちがうように見えた。強いショックを受けて、雨の日に主人公のもとにやってきて、濡れたまま何も言わない。主人公はトレーニング中で上半身は裸になっている。見ているほうは、殺されるのではないかと思った。

 元大佐は息子の帰宅を待って、叱責し家から追い出してしまう。息子は母親に別れを告げ、父親を頼むと言い置いている。主人公の娘を呼び出して、自分には充分な稼ぎがあると言い、一緒に行こうと誘っている。娘は承諾した。映画の冒頭は、このふたりの会話からはじまる。そのときはまだ男女が誰であるかはわからない。女の声が父親を殺してくれと言っている。男のほうはそれを引き受けていた。

 ミステリー仕立ての始まりなので、どこかで殺しの場面が出てくるのだろうと思ってみている。元大佐が嫌った同性愛に息子を引き込んだ恨みをはらすものだと予想したが、思い詰めた表情で懇願するように、主人公にすがりつき、口づけをしはじめた。これには主人公だけでなく、見ている私たちまで、驚いてしまった。拒否されると、何もしないで雨の中を帰っていった。理解に苦しむが、大佐自身がゲイだったということか。妻の存在が希薄で、いつも暗い顔をしていた理由もわかったような気がした。

 主人公の妻は夫と比較して、仕事のできる男に惹かれた。夫を誘ってパーティに出かけたのも、不動産業界で有名な人物に会うためだった。離婚調停中だったようで、妻に興味をもった。夫に隠れて密会をするようになっていた。激しいセックスをしている場面が衝撃的だった。ストレス発散に射撃もしはじめた。

 モーテルに車を止めて、妻の車でバーガーショップでテイクアウトを注文したとき、店員をみると夫だった。会社を退職してそこで働いていたのである。明るみに出ることを恐れた男は、離婚調停中なのでしばらく会わないほうがいいと言い残して、自分の車に乗り換えてモーテルを去っていった。本気ではなく調停に不利だという程度の情事だったようである。

 主人公は妻の帰りを待っている。これまでの半生を振り返って、結婚当初の幸せな日々を思い起こしている。頭の後ろにピストルが写し出され、発射音がして、壁に血が飛び散った。誰が撃ったのかはわからない。妻は帰宅する車のなかで銃をいじっていた。絶望の末の犯行のようにみえる。元大佐の血に染まった姿が一瞬、見えたように思う。あるいは娘に依頼された若者によるものか。

 冒頭での父親を殺したいというセリフはもう一度出てきた。娘が若者と親しくなってからの会話で、娘はそのあと冗談だけどと付け加えていた。妄想はいだいたが、善良そのものの主人公が、なぜ殺されなければならなかったのか。人は死ぬ間際に過去のすべての記憶をよみがえらせるものらしい。自慰ばかりしていたが、誰に殺されたにせよ主人公の生涯は決して不幸なものではなかったようである。

第265回 2023年91

グラディエーター2000

 リドリー・スコット監督作品、ラッセル・クロウ主演、アメリカ映画、Gladiator。アカデミー作品賞はじめ5部門で受賞。ローマに勝利をもたらした将軍の波瀾万丈の生涯。奴隷となり剣闘士として名声を得るに至るが、皇帝の陰謀と戦いながら、命を落とすまでの物語。先帝には女男ふたりの子どもがいた。姉と弟であるが、姉に対してはお前が男ならよかったと嘆いている。弟は皇帝の器ではなかった。戦地には勝利をあげたころにやっと姿を現した。弟は過去の名高い皇帝の彫像を眺めながら、直系として父のあとを継ぐものと思っていた。父は目覚ましい功績をあげた将軍にローマ皇帝の座を譲ろうとした。将軍マルキアス役をラッセルクロウが演じている。

 皇帝が将軍に褒賞の希望を聞くと、故郷に戻りたいと答えた。農民の出身だったが、妻と息子を残している。麦の穂に触れる象徴的なシーンが続いていた。3年近く戦いに明け暮れてきたのは、ローマの平和を求めたのと、皇帝への忠誠のゆえだった。民心をよく理解して、ローマの腐敗を嘆いていた。将軍もそれを理解して、よくつかえてきた。皇帝は将軍にゆっくりと休んでまた復帰するよう懇願している。余命が残り少ないことを自覚して、息子に言い聞かせたが、息子は従わず、弱った父の身体を抱きかかえながら、力を加えて殺してしまう。姉はそのことに勘づいているが、怒りを恐れて何も言わない。かつては将軍と愛を交わしたこともあったが、今は9歳になる息子がいて、夫は戦死をとげていた。将軍の子も同い年だった。

 皇帝の死で事態は急変する。息子が後を継ぎ将軍に忠誠を誓わせようとするが、応じず帰郷を願う。新帝は憤りをあらわにして、将軍をとらえ処刑を命じた。すんでのところで逃れて、故郷に残した妻子の安否が気にかかり、追われるなかをかけ戻る。無惨にも首吊りにされ殺されたあとだった。皇帝への復讐を心に誓う。

 生き延びて助けられた先は、奴隷市場だった。興行主に買われ剣闘士として生き延びることになる。人前で殺し合いを見せて、収入を得るなかで、主人公はスペイン人の名で知られるようになっていく。民衆に評判を呼び、皇帝も知るところとなり、主催をしてコロッセウムというローマの大競技場でのパフォーマンスがおこなわれることになった。剣闘士たちが選りすぐりのローマ軍団に立ち向かうという設定で、馬車に乗ったローマ兵が、彼らのまわりを取り囲んだ。筋書きではローマが勝利するはずだったが、重装備をしたローマ兵に対して、スペイン人はリーダーシップを発揮して、結束をうながし勝利に導いた。ローマ兵は全滅した。皇帝はこの男に興味をもって、会ってみたいと言い出した。顔のプロテクターを外したとき、処刑したはずの将軍であることに驚く。大観衆を前にして殺すこともできないまま、形だけは敬意を表して立ち去った。

 幽閉状態のなかを姉がやってくる。信頼のおける議員に会ってくれという。画策をしてここから逃れ、兵をあげるという計画を打ち明ける。専制君主の帝政を廃して、共和政に移行するのが、先の皇帝の思いでもあった。将軍は決意するが、皇帝は先を見越して議員を拘束し、姉の裏切りも見抜いていた。そして姉への愛を告白している。姉は息子の身の危険を感じて、言いなりになっている。息子は子ども心に剣闘士としてのスペイン人を憧れていて、名乗りをあげたことがあった。将軍はわが子を見るようにして、この皇子を愛おしく対していた。

 将軍は逃げ出すことができなかった。皇帝は将軍の人気をくつがえし、人心を自分に向けるために、一騎打ちをすることを決意する。とらわれの将軍を訪れて、抱擁したときにわき腹をナイフで刺した。甲冑を着せて見えないように指示して、戦いに挑んだ。それでも将軍は強かった。皇帝の息の根を止めたあと、自身も倒れ込んで、命が尽きた。姉が駆けよって、弟ではなく将軍を抱きかかえている。ローマの平和は姉と、まだ年はもゆかないその息子へと託された。西暦180年頃の話であり、ローマ帝国の崩壊まではまだ時間があった。

第266回 2023年9月2

ビューティフルマインド2001

 ロン・ハワード監督作品、ラッセル・クロウ主演、アメリカ映画、原題はA Beautiful Mind。アカデミー作品賞はじめ4部門で受賞。天才的数学者が妄想に取りつかれて、精神を冒され、治療のすえ復帰してノーベル賞に輝くまでの物語。アメリカ有数の大学でのエリート研究者たちの激しい競争心が映し出されている。

 主人公は優秀だが人付き合いが悪く、授業にも出ないで、論文を完成させることを第一の目的にしている。教授も才能を認めるが、成績が悪いので、就職先の推薦には躊躇している。唯一の友人が研究室の同室となった男で、主人公とはちがって、堅物ではなく、遊びを知っていて誘ってくれる。部屋の窓にはいっぱいに数式を書いている。初対面で、携帯のウィスキーを飲み、主人公にもすすめていた。イライラしたときも、よきアドバイザーでいてくれた。

 新理論を展開させた論文を完成して教授にみせると、成果を認めて、授業には出ないが正当な評価を与えて、トップクラスの研究所への就職がかなった。研究所での勤めのかたわら、数学の授業も受けもっていた。未来の研究者の育成のためと説得されて、気が進まないまま引き受けていた。そこで妻となる女性と出会っている。夏の盛り、学内での工事がうるさく、主人公は窓を閉めた。しばらくしてひとりの女性が立ち上がり、窓を開いて45分間別のところで工事をしてほしいと頼んだ。作業員たちはこころよく承諾していた。これをきっかけに恋愛に発展していく。

 研究所での勤務国家機密を扱う極秘事項として、敵対するロシアの暗号を解読する任務が加わっていた。優れた情報部員が身辺警護も兼ねて目を光らせていたが、ある日、敵にそのことが知れて、攻撃にあう。車で追いかけられて、運転する部員は主人公に対抗するよう銃をもたせようとするが、主人公にはそんな経験はない。敵の車をしとめたが、敵の手は家族にも伸びることを告げた。結婚をしているかという問いがあって、こんな任務には結婚はしないほうがよかったとも語った。

 妻の待つ自宅に戻るが、極秘事項なので打ち明けることができない。おびえる日々が続いていく。精神に破綻をきたし、主人公の目にはすべてが疑わしく思えてくる。私たちも妻となる女さえも、ひょっとすると敵がまわしたスパイなのではと疑った。子どもも生まれるが、強迫観念はおさまらない。妻は不安になり、子どもを実家に預かってもらっている。大学での講義をしているとき、うしろに見知らぬ男が現れて、主人公は授業を放り出して逃げてしまう。追いかけてきて医者だというが信用しない。力づくで取り押さえ、注射で眠らされてしまった。

 目覚めると病院施設に入れられていた。精神鑑定が行われて、これまでの記憶を確かめるなかで、研究室は個室で同室者などはいないというのだ。シークレットサービスの部員なども存在しないことがわかった。そこまでいわれてもまだ、主人公の目にはこれらの人物が登場していた。

 同室者は卒業後も友人を気にかけて現れた。姉が交通事故でなくなり、残された姪を引き取っていて、この少女にも何度も会っているのだ。主人公は誰もいない空間に向かってしゃべっているところが写されて、やっと私たちも彼が病気なのだと理解した。さらに終盤になると、この三人がいっしょに登場してくることで、主人公のみた妄想なのだと確信し、三人がアクションをともなわずに黙って見ていることで、精神はしだいに癒えてきているのだとも読み取れた。

 職を失って、主人公は家に引きこもり、子守りすらまともにできない。妻が支えていたようだが、ときおりヒステリックに叫んでいる。外に出ることを提案し、以前のように大学に通うことになり、図書館で研究を続けている。この年配がここの元教授であることも学生たちは知っていた。朝、家を出て子どもと主人公が歩いて左右に分かれ、妻が車で出かけるところを映し出すことで、子どもは学校へ、妻は職場に向かうことを知らせていた。そんななかでかつて論文化した理論が、その後さまざまな実用に応用され、ノーベル賞の候補にあげられていることを知らされる。そして1995年のノーベル賞に輝いて、スピーチでこれまで自分を支えてくれた妻への感謝を贈った。主人公は教授に返り咲いていた。

 実在したジョン・ナッシュという人物の実話に基づく伝記映画であり、ラッセル・クロウが主演を演じて、前年に引き続きアカデミー作品賞に輝いている。今回二作を続けて見たが、まったく異なった役づくりに驚いた。引き締まった肉体を顕示する勇士と、太り気味のスポーツマンとも思えない身体を見比べて、こんなに変われるものだと、そのプロ意識に感銘を受けた。

第267回 2023年9月3

シカゴ2002

 ロブ・マーシャル監督作品、アメリカ映画、ミュージカル作品。原題はChicago。アカデミー作品賞はじめ6部門で受賞。シカゴのショービジネスの世界で、殺人事件を利用して話題をさらっていくブラックな現況を、歌と踊りに乗せてテンポよく見せている。ふたりのダンサーの歩みがたどられる。はじまりは姉妹のコンビで名を馳せた舞台に、なぜかひとりしか登場しない場面からである。血のついた手を洗うシーンがはさまれるので、相棒が殺されてひとりで舞台に立ったのだと理解するのだが、詳しい事情はしばらくはわからない。妹が自分の夫と間違いを犯している現場を目にして、姉が殺害したことがのちに説明される。この姉の名はヴェルマという

 もうひとり花形スターを夢見る、ロキシーという名の娘がいて、家具の販売人と情事を楽しんでいる。夫が帰ってくるので部屋から立ち去ろうとしている。家具を買ったことから火遊びがはじまったが、芸能界に知り合いがいるので紹介するという甘言に引っかかったせいでもある。いつまで立っても紹介してくれず、これが偽りだと知り、言い争いになり、思わずピストルを持ちだして撃ち殺してしまう。

 夫が呼び出されて事情聴取を受けている。夫の証言では、帰宅すると暴漢が入り込んで、妻が襲われているので、自分が撃ち殺したのだという。殺された相手が家具の販売人であることが知らされると、夫は事実を理解したようで、証言をくつがえした。隣人の聞き取りからも、殺された男は何度も妻といっしょだったところが目撃されていた。

 妻は捕えられ、殺人犯ばかりの女子収容所に連れて行かれた。そこには権力をふるう看守長がいて、公然と賄賂を要求している。迫力のある女性でミュージカルなので歌うとヴォリューム感があふれ魅力的だ。憧れのスターだったヴェルマが先に収監されていたのに気づくと、ヴェルマが看守長に取り入っているのも眼にする。地獄の沙汰も金次第ということばを地で行くのがもうひとりいる。死刑囚を救おうとする弁護士であり、リチャード・ギアが演じている。歌と踊りも披露するが、ミュージカル俳優のイメージはない。比べるとロキシーとヴェルマの歌と踊りは、さすがに見応えがある。

 弁護士は穏やかそうにみえるが、狡猾な言動が目立つ。マスコミの話題をさらって、自分が目立つことを、第一に考えている。殺人犯の妻の弁護を頼みにきた夫に、高額な額を請求している。安月給でとても無理なので、安い額を提示するが、話題になりそうなので、引き受けることにしたようだ。どうすれば陪審員の心象をよくできるかを考える。それは大衆に訴えることができるかということである。単純な夫の気持ちを操作することを思いつく。

 妻が妊娠していることがわかり、まずは夫との性交渉の可能性を確かめる。そして夫の子であることを確信させて、妻のセリフを考えていく。弁護士の言いなりになってセリフを暗記しながら練習するすがたを、マリオネットふうの演出でミュージカルによりみごとに映像化されていた。夫の子を宿していることがわかり、不倫の恋に終止符を打とうとしたが、相手は許さなかったというストーリー展開となる。法廷では夫の善良そうな姿を見ていて、同情を寄せることになるはずだ。弁護士は被告の着る服も決めてやっていた。マスコミの取材にも被告を制して自分が答えるようにしている。

 判決の日、町売りの新聞スタンドが写されて、2種類の新聞が積み上げられていた。一面に大きく一方は有罪、他方は無罪と印刷されている。有罪の束が投げ捨てられる場面が次に続いた。夫はわが子の誕生を喜んで妻に声を掛けると、妊娠などしていないと、妻は答えた。判決を受けて妻と弁護士はマスコミの取材を待ち受けたが、折から似たような別の事件が起こった。容疑者はさらに若い明日のスターをめざすひとりだった。

 犯罪者のスターが次々と誕生するシカゴでの現実をみながら、ヴェルマがロキシーに声をかけた。ユニットで舞台に立たないかというのであった。ロキシーは難色を示したが、ユニット名を逆にしてロキシー&ヴェルマとするならということで、殺人犯ふたりによる舞台として、話題をさらうことができた。弁護士も自身が関わったことでもあり、楽しそうに舞台に目を向けていた。ふたりの歌と踊りを見ながら、日本にもピンク・レディーがいたなと思い起こしていた。1970年代後半の話だから日本のほうがずっと早い。もちろんふたりとも犯罪者ではない。

第268回 2023年9月4

ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還2003

 ピーター・ジャクソン監督作品、ニュージーランド映画、原題はThe Lord of the Rings: The Return of the King。アカデミー作品賞はじめ11部門で受賞。トールキンの指輪物語を映画化したファンタジー、CGを駆使した戦闘場面が、迫力に満ちている。三部作の最後なので、これだけを見ても物語の展開や登場人物の人間関係がわかりづらい。ふたつの場所で同じ時刻での物語が、並行して語られていて、最終的にはひとつに集約されていく。

 この日誌で心がけていることがある。前もっての知識を得ないこと。解説を読まないこと。この映画から直接わかってくることのみを扱う。もちろん聞き逃しているセリフや見逃しているシーンもあるが、それは集中力と能力の問題なのでどうしようもない。三部作なら順番に見ていくのが妥当だが、ここではアカデミー作品賞を年次順に追っているので、第3作だけを見ることになった。というわけで、まずは見ていてわかってきたことを書いていくことにしよう。

 最初に指輪のいわれが語られている。小舟に乗っていたふたりの男が、海底から光り輝く指輪を発見する。潜って取り上げたほうの男が所有権を主張するが、他方の男が今日は自分の誕生日なので、譲ってくれという。争いがはじまり、最後は殺人にまで至る。リングというものが、今日まで生きながらえてきた理由は、それが秘めているパワーにあり、それを求めてきたのが、人類史だったということだろう。

 そして今、その指輪はひとりの若者の首にかけられている。彼を主人とあおぐ仲間のひとりと、人間の言語をしゃべるが小さな裸の異種と、3人で旅をしている。この異種には仲間が水中にいて、指輪を手に入れるよう、ことばをかわしている。一度はこの種族が、この指輪を所有していたころがあったようだ。この会話を聞きつけた仲間の男が、飛びかかって殺そうとするが、主人は道案内として必要なので、殺してならないと命じている。ここからふたりは仲間たちのいる本拠地へ戻ろうとしているのだとわかる。敵地を避けて困難な山岳地帯を移動している。

 大勢の人間のいる城郭では、このふたりの帰りを待っていることが、かわされたセリフからわかる。多くの人物が紹介されるが、覚えきれない。仙人のような長老が重要人物で、白馬にまたがり颯爽としている。この城郭は敵から攻められようとしているようで、敵は人間の輪郭は備えているが、顔は崩れて、他種の生物であることがわかる。つまり人間とは異なる生物によって、人間は滅ぼされようとしている。人間が存続をかけての戦いに挑んでいるのだとわかると、映画はやっと大筋の理解に達することになる。敵の壮烈な攻撃場面が続き、城を明け渡して別地まで退却せざるを得なくなる。

 指輪を持ち帰ろうとするふたりは、さらに小さな異種と3人のときはわからないが、人間と並ぶと小さく、こびとの人種であるようだ。人間たちが守る城内にも同じこびと族がふたりいる。4人は仲の良い同胞なのである。人間はすべて仲間かというと、敵対する者もあり、一様ではない。種を守るという本能と、多種と共存しようとする意志が葛藤しながら、地球の歴史は築かれた。人類が統治すると、有害な異種を絶滅させたが、無害な異種については、飼いならしている。

 同じことがここではシンプルなかたちで、語られているのがわかる。人間社会の組織が拡大すると複雑きわまるが、三人が脱出を続けるなかで起こるエピソードは興味深い。それぞれの思わくの描写はドラマチックで、三者の関係の底辺にある憎悪の原理を伝えるものだ。信頼と疑惑、羨望と殺意、異種の排除と同族間の不信と、三人が集まったところにできる、いわゆる三角関係が浮き彫りにされている。この原型をみごとに表情化したのは、アクターの演技よりも、CG合成された異種の身のこなしだった。力では劣っているとがわかっている。何とかふたりを仲たがいさせようと画策する。持ち主におもねりながら、指輪獲得の機会を得ようとしている。決断すると指につけた指輪を掠奪するのに、指を食いちぎるまでの残虐さをもった感情描写は、驚くべきリアリティをもつものだった。

 映画全体は叙事詩的記述を優先させてはいるが、それを否定し解体するものが、そこにはあった。一度友を疑った主人が指輪のパワーを発揮させて、異種を排斥して仲間の城に入城するまでの心の軌跡は、逐一の筋立てを追うのに疲れた者にも、映画としての醍醐味を味合わせてくれるものだった。ゴラム、ホビット、オークなど種族名とその概念で覚えることは多い。さらには死者までが、パワーをもった亡霊となって、一族として戦いに加わっていた。知ることでもっと楽しくなっていく世界がある。神話には昔話にはない、名づけられたもののもつパワーがある。ここでは固有名詞は極力排除した。名を口に出さないことで普遍化されるものがあり、それが昔話だ。しかしここではそれを打ち壊す、深入りすると抜けられなくなりそうなファンタジーの魔力を感じてはいた。

第269回 2023年9月5

クラッシュ2004

 ポール・ハギス監督作品、アメリカ映画、原題はCrash。アカデミー作品賞受賞。多民族が衝突するアメリカ社会の現実を写す痛烈なメッセージを、ロサンゼルスの警察組織を中心にしてえぐりだしている。組織内に黒人の上司がいるが、いつも白人に気を使いながら地位の保全をめざしている。白人に対する黒人だけではなく、少数派として中国人やアラブ系も加わり、混沌たる様相を呈している。夫婦間でも人種のちがいがあるとさらに複雑化してくる。

 はじまりは殺人事件の現場だが、これと結びつくのは映画が始まって、かなり立ってからで、悲しい誤射によるものだった。寒いなかを1時間も立っていた黒人の青年を、親切心で乗せてやった白人の青年が、会話のはずみで感情を害して、降りてくれと言ったとき、ポケットに手を入れたのを勘違いして、発砲してしまったのだった。車に乗せていたマスコット人形を、自分ももっているとポケットから出そうとしていた。手に握りしめていたのが、死体を遺棄した草むらから、のちに黒人の刑事によって発見されている。

 黒人のテレビ局の演出家がいた。妻は魅力的な黒人女性で、不審車としてパトカーが止めて尋問する。警官は20年近いベテランと、新人がペアになっている。ベテランが妻のほうのボディチェックを執拗におこなうが、夫は黙ったままだ。逮捕されて社会的に知られたくない立場でもあった。妻は訴えると怒るのをなだめている。警察権力に対する恐れよりも、白人社会との摩擦を避けようとしたためだった。

 妻はその後、運転中に事故を起こし、白人の警官が身を挺して助けにゆくが、身に触れられるのがトラウマになっている。ガソリンがこぼれ落ちるなか、やっと警官の誠意が伝わり、車に引火する直前に助け出される。感謝の表情は白人に対する偏見を思い直すもののようにみえた。助け出した警官は、以前不愉快なボディチェックを受けた警官によく似た顔立ちをしていた。

 夫はひとりのとき、二人組の黒人の強盗に押し入られ、銃を突きつけられたが、毅然として立ち向かった。妻が屈辱にあったときに何もできなかったことへの、痛恨の思いからの行動だったようにみえる。不審と思われてパトカーが2台駆けつけたが、一台は以前に尋問を受けたときの若い方の警官が一人で乗っていた。このときも夫は毅然として警官に対峙して、それがあまりにも高圧的なので、警官は銃を身構えた。若い警官が知り合いなので、自分に任せるよう伝えて、一台のパトカーは立ち去った。彼は相棒の卑劣を恥じて、ひとりでのパトロール勤務を願い出ていたのである。夫は強盗が乗っていることも言わないまま、自分の車に戻った。助手席にいた強盗は不思議な顔をしていたが、しばらく車を走らせて車をおろされた。そこには黒人同士の信頼感がうかがえた。

 白人でも黒人でもアジア系でもない商店主銃を購入する姿が写されている。英語を解さず、イラク系なのかもしれない顔立ちに、なかなか売ってくれない。店主は腹を立てて立ち去るが、娘が残って交渉を続け、銃を手に入れた。弾の種類を問われても、何のことかがわからず、赤い箱のものと答えて、持ち帰った。ドアをこわされて商品が盗まれる被害にあったのも銃を必要とした要因だった。鍵の修理屋がきて直そうとするが、ドアを直さないとだめだと修理をことわったことから、主人はこの職人気質の堅物を逆恨みすることになる。

 この鍵の修理屋は黒人で、娘がひとりいた。遅く帰ってきたとき、ベッドに娘がいないので探すとベッドの下に隠れていた。銃声が聞こえたといっておびえていた。父は銃弾を通さない透明の上着を着ていて、5歳になればそれを脱いで子どもに着せ替えることになっていると言って、その場で着せてやった。お前の子どもが5歳になったときは、その子に着せ替えるようにも言い渡していた。5歳児は信じてベッドに戻った。

 店主は伝票から鍵屋の住所を探り当て、思い詰めたように銃を持ち出して待ち受けていた。帰宅したところをつかまえて、銃を構えるが、それを目撃していた5歳の娘が、父を助けようと駆け出して、父の前にふさがって撃たれた。店主は悲壮な表情をしているが、娘は無事だった。透明な上着が弾をはねのけたのだと父に言った。店主はうなだれて戻り、救われた思いから、娘に自分は天使に出会ったのだと語った。そのあと赤い箱が映し出されて、空砲という文字が読めた。

 この鍵屋はまた検事の住む白人宅の鍵の付け替えもしていた。そのとき妻の黒人への偏見は、次の日にもう一度鍵を交換してくれと夫に向って叫んでいる。被害妄想は、合鍵をつくられてばらまかれることへの恐怖からだった。これに先立って夫婦で街に出たとき、黒人の二人組に脅されて、車を強奪されていた。夫は検事が車を盗まれたのは屈辱であり、何とか知られないままでいたかった。妻はこれによって黒人に対する恐怖と嫌悪が高まった。この盗難車と同じ車に乗っていたのが、先述の黒人の演出家だった。ナンバーは明らかに違っていたのに、パトカーが追いかけていたのである。

 黒人の刑事には弟がいた。兄が優秀な刑事であるのに、弟は悪事を繰り返したが、若くして死んでしまった。母親は弟を深く愛していて、その責任は兄にあるのだと言って慟哭している。兄は殺人事件の現場検証で、残された靴を感慨深げに眺め、翌朝には覚えのあるマスコット人形を見つけ出していた。説明はないが涙を浮かべる表情から読み取れる人間関係を知ることになる。

 プロローグとエピローグはともに追突事故を描いている。はじめは黒人刑事の車と中国人の車、妻同士が降り立って言い争っている。黒人刑事の妻も刑事であることがわかる。白人ではあるが、スペイン系のようだ。中国人のほうは、その後二人の黒人が検事の車を盗んだとき、轢いてしまったが、一命を取り留めた被害者の妻に似ていたように思う。おわりの衝突では、さらに多国籍な人々が集まってくる。衝突(クラッシュ)は民族間の闘争をいうのだろうが、ここでは車同士の交通事故で象徴させている。それらはともに、いつまでたっても終わることはないものとみえる。

 アジア系の登場は、これ以外には商店主のもとにやってくる保険の調査員としての中国人や、さらには不法入国でバンに載せられていたひとかたまりの難民もある。彼らは人身売買をされるはずだったが、チャイナタウンで降ろされ、開放される場面が見られた。はじめは先のない重苦しい雰囲気にうんざりして見ていたが、肌の違いをこえて人間に共通する良心が見えてきて、未来がいくらか開けたように思えたのが救いだった。

第270回 2023年9月6

ディパーテッド2006

 マーティン・スコセッシ監督作品、レオナルド・ディカプリオ、マット・デイモン主演、アメリカ映画、原題はThe Departed。アカデミー作品賞はじめ4部門で受賞。警察官となった若者ふたりの、おとり捜査とスパイ活動の使命を受けて、その行動記録を対比的に追いながら、死に至るまでの歩みをスリリングに描き出している。大学仲間が同じように警察に勤めても、制服を着た巡査になるものもあれば、スーツ姿での私服刑事もある。なかには幹部候補生として中枢を担うものもあり、出発点から競争による格差社会の構造が見え出している。  

 レオナルド・ディカプリオ演じる主人公は、優秀な成績であったが、一族には犯罪者も多く、面接を通じて、上層部から別の使命にあたらせられようとしている。つまり警官とは無縁な血筋であって、そのデメリットを逆に犯罪捜査に利用しようとしたのだった。知的なエリートに見えるが、暴力をふるうと凶暴なまでに変貌してしまうのは、引き継がれた一族の血なのかもしれない。

 麻薬の密売組織に潜入させるには、表面上は警察官の身分はもたないで、大学を退学して悪の世界に入っていったという設定がなされることになる。逮捕のターゲットは、ジャック・ニコルソン演じる組織のボスだった。凶暴性をにじませた性格で、その周辺に潜り込むことが指示された。会ってみるとボスは主人公の父親を知っていて、親近感をもって接してきた。

 もうひとりの若い警官をマット・デイモンが演じている。彼は逆にこのボスとは親子のような絆で結びついていて、捜査情報を流すスパイとして、行動を続けていく。捜査を続けるなかで情報が漏れていることに気づくと、警察はその裏切り者を秘密裏に探し始めていく。同じように犯罪組織のほうも、警察からのスパイが入り込んでいるのを感じはじめていた。

 折からこのふたりがともに同じ精神科の女性医師にかかっており、カウンセリングの面談を通じて男女の意識を持ちはじめることになる。医師の方からすれば二股をかけいるということだが、妊娠したことに気づくと彼女はデイモンのほうにその事実を打ち明けている。一方はどんなに魅力的な人格だとしても、身を隠して犯罪組織に潜入しているなかでは、幸福論は描けないだろう。他方は行動力のある優秀な刑事であり、警察組織のなかで犯罪者のスパイ活動をしていることなどは知りもしない。

 さらに新たな情報として加わったのは、このボスがFBIと通じているという、複雑な関係がからまりながら、話は展開していく。ひとりであると思っていたスパイがもうひとりいたり、警察側の最高幹部が殺され、犯罪組織のボスが、ディカプリオが、さらにはデイモンまでもが、あっという間に殺されてしまうと、「そして誰もいなくなった」という不可解なミステリーに遭遇することになる。この種明かしをすることが、この映画の醍醐味になるのだろうが、それには一人ずつの殺人犯を確定していかなければならないだろう。生き残るものと思っていた人物が、ほぼ一発の銃声で、次々と殺されていく衝撃は、ドラマツルギーを破綻させるものでありながら、それが忘れ難い映像の表現力を確立するものとなっていた。

第271回 2023年9月7

ノーカントリー2007

 ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン監督作品、アメリカ映画、原題はNo Country for Old Men。アカデミー作品賞はじめ4部門で受賞。闇社会の大金をネコババしたことから起こる悲劇。執拗なまでに追われて、家族の殺害までほのめかされるが、屈することなく立ち向かったために、命を落としてしまう。見るからに何もない広野である。一匹の犬が血を流して去っていくのを見つけたのがはじまりだった。その血痕をさかのぼっていくと、三台の車が距離をおいて止まっていた。車間には銃を手にしたふたりの男が死んでいる。一台のドアを開けると、撃ち殺された死体があった。もう一台には男が乗っていて、瀕死の声で水をくれといっている。水などないと返答をして、主人公は立ち去り、あたりを見渡した。その後、夜になり水を手にして現場に戻ると、すでに死亡していただけでなく、捜索する追手に見つかってしまう。

 彼は溶接工で、妻との生活はつつましいものだった。誰かがこちらを見ているかもしれないと判断をした主人公は、遠方に大木を見つけ、双眼鏡で確かめると、樹木にもたれかかる人の影を発見した。近づいてみると、もたれたまま死んでいた。かたわらにあったカバンには、ごっそりと札束が入っていた。誰も目撃していないのをいいことに、持ち去ったことから、悲劇の末路が用意されていた。地獄への転落劇がはじまっていく。夜になり水をもって現場に戻るのは、犯罪者に共通した自滅の心理なのだろう。

 麻薬売買のもつれから起こった事件のようで、それを取り戻そうとして動きはじめたのが、不気味なまでの殺人鬼で、目的達成のために平気で殺戮を繰り返していく。コインの裏表で生死を決めたりもする。ガスボンベを凶器にして、人体だけてはなくドアの鍵も一瞬にして吹き飛ばしてしまう。感情をもたない無表情な顔立ちが、恐れを加速している。ときおりぞっとするような笑みを浮かべる。理由を明かせない大金のからむ事件に関わってしまったことから、あとに引けなくなってしまい、妻に状況を告げて、カバンをもって身を隠す。

 警察も動きはじめ、ガスボンベをもった不審者をとらえて身柄を確保するのだが、署内での隙をぬって、手錠のまま警察官の首を絞め殺して逃走する。逃走中にも、車を手に入れるために、運転手を外に出し、ガスボンベを額に当てて殺している。捜査をしても不思議にも、額の弾痕に対応した銃弾が見つからない。担当の保安官はベテランで、人情味あふれるが、昨今の凶悪事件の手口を嘆いている。この役をトミー・リー・ジョーンズが演じている。

 もち逃げをした男は、追手にすぐに追いつかれる予感がするのを、不可解に思っている。モーテルに泊まり、2部屋を借りて、一部屋をダミーにしたりもするのだが、不審な車が近づいてくる気配を感じている。カバンの中身を確かめることはなかった。買い物に充てるのに札束から何枚かを引き抜く程度だったが、あるとき札束のあいだに、小型の送信機がまぎれ込ませてあるのに気づく。このときにはすでに殺人鬼が近くまで来ていた。

 国境をこえてメキシコにまで逃れようとしたが、負わされた傷があるのと、大金をもっては通過できそうもない。夜にまぎれてカバンを放り投げて、草むらに隠し、通りかかった若者から上着とビールを譲ってもらい、酔っ払いを装って逃げ込むことができた。殺人鬼とは別の犯罪組織のメンバーも、この大金のゆくえを追っていた。主人公を見つけて交渉にやってきて、殺人鬼から家族を守り、いくらかの分け前も出すので手を打つように要求している。カバンは国境線から国外に投げ込んだという目星もつけていた。このメンバーも殺人鬼と顔を合わせたときに、ひとたまりもなく撃ち殺された。

 主人公はカバンを回収できたが、そこまでで、殺人鬼の手にかかって、殺害場面も写されないまま、死体で登場した。保安官に付き添われて、涙ながらの妻の姿があった。殺人鬼は目的を達成したが、逃走中に突然の事故で車と衝突して負傷してしまう。車を乗り捨てて、通りがかったふたりの少年に声をかけて、シャツを譲ってもらった。高額紙幣を差し出すが、少年はあげるよと言っている。シャツを引き裂いて包帯にして、再度紙幣を出して、このことは内緒にしてくれと言い置いて立ち去った。

 夫の死後、やっと落ち着きを取り戻した妻のもとに、殺人鬼が姿を見せていた。主人と約束をしたのだということだった。カバンを戻さないと家族を殺害するとの約束をはたさなければと言うのである。これが執行されたのかどうかはわからないが、保安官が退職をするという話題が、そのあとに盛り込まれると、守ることのできなかった老体のふがいなさが見えてくる。昔話を語るなかで、遠まわしに伝えようとした人の世の無常を、読み取ることができるだろう。

 殺人鬼は絶対的悪として不滅であり、世界に君臨している。「黒いオルフェ」で登場した死神と同じで、どんなにもがいて逃げても無駄で、追いついてくる。それは「死」そのものと言ってよいものだ。それにしてもこのところアカデミー作品賞で続く、衝撃的な殺害場面の描写にうんざりしている。古き良きアメリカのハリウッド映画に戻ってくれという、悲痛な願いが私のなかで、こだましはじめている。映画祭での受賞の場合、会場での目立った効果がものをいうと考えれば、インパクトのあるシーンでアピールしようという動向には、必然性があるのかもしれない。しかし歴史に残る名作というのは、そんなものではないだろうと思う。

第272回 2023年9月8

スラムドッグ$ミリオネア2008

 ダニー・ボイル監督作品、イギリス映画、原題はSlumdog Millionaire。アカデミー作品賞はじめ8部門で受賞。テレビのゲーム番組で、最後の賞金獲得まで勝ち進む若者の幸運を、幼い頃からの不遇な歩みと重ね合わせながら伝えている。兄弟ふたりは硬い絆につながれているが、決して幸福なものではなかった。インドのムンバイでの話である。宗教的迫害を受けて、母親は殺害された。兄は幼い弟を連れながら生き抜いていく。最初の試練は、金になりそうな仕事だったが、臓器売買であることに気づくと、仲間の少年が目をえぐりだされるのを見て、逃げ出している。

 三銃士を夢見ていた弟の前に、雨に濡れたひとりぼっちの少女が現れて、子ども3人での生活が開始する。弟にとっての初恋の相手となったが、そこにも悪の組織からの魔の手が伸びてくる。列車に飛び乗ってムンバイを去るが、少女だけが乗り損ねて、捕まってしまう。兄は助けに戻ろうとする弟を制止して、女が目をえぐられることはないと言い聞かせていた。弟は彼女をいつまでも忘れることはなかった。

 兄は悪の組織から抜けきれず、銃の扱いも知っていた。弟はどこで覚えたのか、豊かな知識を蓄積していて、観光ガイドをこなすようにもなった。タージマハルでアメリカ人の個人旅行者を相手に、ガイドブックに書いていないような話を聞かせている。このときドル紙幣に出てくるアメリカの偉人の名も知ることになるが、それはミリオネアでの正解にもなった。恋人への思慕は募り、ムンバイに戻り、少女の足跡をだどる。見つけたのは組織のボスの情婦としての姿だった。弟は勇気を出して出向いていく。邸宅に住む彼女と会うことはできたが、これを最後にしないとふたりとも殺されるとおびえていた。弟は毎日5時に駅で待ち続けると言い置いて、彼女のすむ邸宅を去った。

 兄は弟の純愛を知っていた。身の危険から守るために、自分が彼女の世話をするように見せかけて、弟を追い出したこともあった。弟は放送局でウエイターをしていて、ドリンクを配る毎日だった。ある日スタッフのひとりからしばらく代わってくれと、パソコンの前に座ったことがあった。蓄積されたデータベースから彼女の名を検索するととんでもない数がでてきたが、続けて兄のフルネームを入力すると15件程度だった。順番に電話をすると、わけなくつながった。兄はすぐに弟の声を言い当てた。兄と会ったのは高層ビルの建設現場だった。会うなり弟は殴りかがった。彼女との仲を引き裂かれた恨みがつのっていた。

 躍進するインドの駅の人混みは半端ではない。彼女が5時の駅にやってきたのを階上から見つけた弟は、情夫の手下が追いかけているのも目にした。逃げきれず連れ戻されてしまったが、弟は愛を確認することができた。テレビのゲーム番組に出ようと思ったのも、彼女が見てくれるかもしれないということからだった。ファイナルアンサーという極めゼリフで、日本でもヒットした番組である。順調に賞金を獲得し、残り一問まで来たとき、司会者はまちがった答えを教えようとした。それに引っかかることもなく、みごとに大富豪となる賞金を獲得した。最後の一問を残して次回まで引き延ばされた。この回答にはイカサマがあると見た警察は弟を捕らえて、尋問を開始していた。

 このとき最後に残された頼みは、電話だった。問題は三銃士の三番目の氏名を問うものだった。弟は兄に電話をかけた。いつまでもなり続けている。彼女はそれを見て駆け出して兄の電話を受信した。ふたりはともに組織内にいた。彼女は弟と通話したが、三銃士の名は知らないと答えた。司会者は女性が出たのを不思議がってみせた。情夫はそれ以上に驚いた。兄は組織の報復を食い止めていたが、撃ち殺される場面が一瞬映し出されていた。ラストシーンは、兄が盾になることで初恋を成就させたふたりが手を取りながら、インドならではのにぎやかな歌と踊りに支えられて、ハッピーエンドで締めくくられた。

第273回 2023年9月9

ハートロッカー2008

 キャスリン・ビグロー監督作品、アメリカ映画、原題はThe Hurt Locker。アカデミー作品賞をはじめ6部門で受賞。イラク戦争での爆薬物処理班の1年間の任務に携わった兵士の過酷な経験を、ドキュメンタリータッチで描いている。第一線ではなく敵が逃げ去ったあとに残された爆発物を片付けるという、地味な仕事をしながら、言いようのない疎外感に襲われている。危機一髪で命を落とすこともある。導火線をたどっていくととんでもない数の地雷が埋め込まれていることもある。任務を終えるまでを、指折り数えている。負傷して送り返される仲間でさえも、うらやましく目に映っている。入れ代わりに、部隊名は変わらないまま、新メンバーが加わると、任務終了まで365日という表示がまたはじまっていく。

 いつ爆発するかわからないという緊張感は、揺れる手持ちカメラが感じさせるめまいを通じて加速していく。ほんとうの不発弾なのだろうか、あるいはそれを装って仕掛けられた罠なのかもわからない。信頼にたる市民なのか、あるいは善良そうに見える住民全員が一丸となって抵抗運動をしているのか。米兵が爆発物を処理するのをまわりから取り巻いてイラクの市民たちが、見守っている。

 他の兵士は不審な動きがないかを、チェックしており、遠隔操作を用いて、爆発させることも可能である。携帯電話をしはじめた男を見つけると身構える。こちらのようすをビデオカメラに撮影している男がいる。隠し撮りではないので、興味本位の撮影のように見えるが、じつのところはわからない。銃の遠望鏡には、手を振る姿も映っている。遠距離とはいえ、銃口を向けているのだから、身構えるのがふつうなのだろうが、市民たちの危険に麻痺し切った日常の姿が読み取れる。

 DVDを5ドルで売り歩く少年が、兵士の心を開かせることにもなったが、すさんだ兵士の心に入り込んでくるのは、敵の罠かもしれないという疑惑を常に伴っている。信じられるのは彼が死に瀕しているという事実を前にしたときだが、それさえも信じられないのが、宗教戦争の現実でもあった。爆発物を防弾チョッキのように身につけているスーツ姿の男が、道路の真ん中で立ち尽くしている。自爆テロに定番の姿なのだが、男は助けを求めている。処理班の兵士が防護服を着込んで近づいていく。

 見ると厳重な鍵が付けられていて、脱がせることができないだけでなく、時限装置も作動している。ギリギリまで助けようとするが、すまないと何度もわびて男のもとを離れる。何秒かののち爆発して影も形もなく、即死してしまった。ギリギリまで彼が自爆犯だという疑惑をともなっての活動だった。これに先立って、家畜を連れた農民が通行止めを食っていたが、通した途端に爆発するという失態が描かれていた。気を許したときに、死が待ち受けているのだ。

 起承転結のあるドラマではない。次々と畳みかけるようにして起こる泥沼的状況に対して、場当たり的に切り抜けているとしか言えない。かつてヴェトナムで、そして今はイラクでアメリカが繰り返している愚かさの図式には、何らの成長もなかったようにみえる。退役後、スーパーマーケットでの買い物が映し出されたが、あいかわらずあふれるほどの食料品が目の前に飛び込んできた。同じように戦争中であってもアメリカ映画は、娯楽産業として繁栄を続けている。ただその題材を戦争に求めることで、時局に反しないでおこうという、つじつま合わせに見えてしまうと、映画本来のアイデンティティを見失ってしまうことにもなるだろう。

第274回 2023年9月10

英国王のスピーチ2010

 トム・フーパー監督作品、イギリス・オーストラリア・アメリカ映画、原題はThe King's Speech。アカデミー作品賞はじめ4部門で受賞。英国王ジョージ6世と吃音矯正で付き添った医師との交友録。ヒトラーが台頭する時代に、これに立ち向かうべく難しい舵取りを迫られたイギリスの顔となる人物である。堂々としたスピーチが求められたが、生まれながらの吃音障がいにより、これを克服するために、さまざまな治療を試みてきた。ことごとく失敗に終わり、あきらめかけていた。大英帝国の繁栄をとどめようとする式典での大失敗を、国民は覚えていたし、本人にもトラウマとなってしまったにちがいない。自信喪失は加速していく。

 そんななか皇妃が市井の医師を見つけて訪れてみた。腕には自信をもっているが、これまで皇室との関係などなく、独自の治療法を開発していた。ヘッドフォンをつけて、ハムレットのセリフを朗読させている。ヘッドフォンからは大音響の音楽が流れている。皇太子は不信感から治療を中断して立ち去るが、せっかくだからとそのときに最新の設備で録音したディスクを持ち帰っていた。忘れた頃に聞いてみると詰まることなくみごとな朗読だったのだ。

 医師は野心家ではあるが、社交性はなく、曲がったことは嫌った。皇太子といえども対等な立場を主張し、往診に出向くのではなく、皇太子が通院をするというかたちを貫いた。横柄な態度はおたがいさまだったが、やがて信頼感を得ると、最後には愛称で呼び合うまでに至った。医師としても教師としても免許もなく、ドクターおろか学歴すらなかった。周辺では詐欺師扱いもされたが、皇太子は国王を継いでからも、スピーチの指導を仰ぎ続けた。

 兄がいて父王のあとを継いで国王となるが、プライベートな結婚問題で失敗し、弟に王位を譲ることになる。弟は兄の力量を認めていたが、恋愛については奔放で、離婚歴のある女性との愛を貫くことで、まわりの人望をなくしてしまっていた。その点、弟は克服すべき身体的課題を引きずってはいたが、良識ある家庭を保持していた。男児はなかったが、ふたりの娘はエリザベスとマーガレット、姉はその後女王としてイギリスの栄光の日々を歴史にとどめることになる。

 アルバートという本名はドイツふうなので改名して、父を継いでジョージを名乗るよう提案したのはチャーチルだった。ふたりはスクラムを組んで、戦火の中で、ラジオ放送を通じて、格調高いスピーチを発信し続けた。この功績は王とこの市井の教師との共同作業によるものだった。吃音の原因についても、王の幼児期にさかのぼった心の問題として、覆われたヴェールに分け入って解明しようとしていた。

第275回 2023年9月11

アルゴ2012

 ベン・アフレック監督、主演作品、アメリカ映画、原題はArgo。アカデミー作品賞はじめ3部門で受賞。イランでのアメリカ大使館占拠事件を背景に、大使館員6名の脱出劇を成功させたCIA部員の活躍を描く。アメリカ政府の対応に対し、イラン国民の怒りは大使館襲撃だけでなく、その生命を脅かした。カナダ大使のもとに逃げ込んだ職員を救出する作戦が計画された。救出のプロが奇想天外な案を提示した。ハリウッドのSF映画制作のスタッフとして、彼らの身分を詐称しようというのである。アルゴはこの架空の映画タイトルであり、ギリシャ神話に出てくる勇者の乗り込んだ巨大な船名でもあった。エスカレートする危険性を考えたときに、会議では他の有効な方法が思いつかず、この案に同意することになる。架空の制作会社をつくり、脚本や絵コンテを用意して、大がかりな広告まで立てて、この部員がプロデューサーとして現地に向かうことになる。6人はカナダ人としてかくまわれていたが、イラン人のメイドがいて、怪しみはじめていた。

 部員はハリウッドからきたということで、話をもちかけるが、芝居がかった作戦に乗ってこない者もいる。ひとりずつに登場人物になりきることを要求し、セリフは丸暗記するよう指示している。一夜漬けで覚えこんで、街に出て撮影を開始した。大使館が襲撃されたときに重要書類は焼却されたが、間に合わなかったものも少なくない。大使館員の顔写真も、子どもたちを使って、シュレッターのかかった断片をつなぎ合わせて復元しようとしている。

 飛行場からの脱出を間近にした日に、危機を感じた本部からの連絡で、急に作戦の中断が知らされる。命令に従わなければならず、かくまっているカナダ大使にもこの決定は知らされていて、部員に黙って大使宅を立ち去るようアドバイスをしている。一晩中思い悩んだ末に、部員は用意した6人分のパスポートを処分しようとして思いとどまり、一方的に本部に予定通り決行すると電話を入れて、全員を用意したマイクロバスに乗せた。本部は大慌てをして処分しはじめていた航空券やハリウッドへの通告をもとに戻そうとするが、大統領の承認も必要となることから、一刻を争う事態となった。空港ではチケットがすでにキャンセル扱いになっており、何度かの打ち直しを経て、やっと復旧させることができた。

 空港での検問も、何度となく繰り返され、緊張感が高まる。最後には銃を構えた兵士の尋問も加わった。SF映画の内容が雄弁に語られ、兵士たちの士気を高めるものでもあることが強調されている。並行して彼らの顔写真の復元が進み、撮影スタッフに疑惑がかかりはじめる。ハラハラドキドキの連続で、映画としての盛り上げは、航空機の離陸を食い止めようとするイラン側の暴挙にまでエスカレートしていた。

 無事脱出を成功させた部員はCIAの名誉勲章を受けることになったが、この極秘作戦については、極秘のままにされることが伝えられた。その後、大使館員全員が無事となり、事件が解決した段階で、大統領の命を受けて、正式に記録にとどめられ、名誉を称えられることになったとナレーションが語っていた。つまりこれがハリウッド映画仕立ての実話だったのである。イランでの思想的な背景や世界情勢の考察に踏み込むことなく、スリリングな脱出劇として、十分に楽しめるものではあったが、これを期に世界の勢力図や戦争へと加速する状況へと興味を移すことになればと思う。イデオロギーの対立をいかに理解するかという困難な課題に、それなりのきっかけをなすものだろう。

第276回 2023年9月12

それでも夜は明ける2013

 スティーヴ・マックイーン監督作品、イギリス・アメリカ映画、原題は12 Years a Slave。アカデミー作品賞はじめ3部門で受賞。黒人奴隷の過酷な生涯をたどった実話。ヴァイオリン奏者として知られ、恵まれた生活を送っていた黒人家族が、突然奴隷商人の手にかかって、一家の主人が売り飛ばされるという信じられない現実が、描き出されている。人格など認められずに家畜のように売買され、親子であっても引き離される。場を共にした母親は子どもたちといっしょにいることを懇願しているが、客のニーズに合わせて、ばらばらの買い手がついていく。人身売買の実態が、生々しい取引のやり取りを通して、赤裸々に描き出されている。

 主人公は読み書きもでき、ヴァイオリンも弾ける文化人なのだが、そんなものは役には立たず、売買の値段は肉体労働の可能性のみで測られた。子どもと引き離された母親とふたりで、買われていった。はじめは比較的良識的な主人であったために、幸運と思われた。母親はいつまでも泣き通している。主人公はあきらめをつけて、奴隷であるにもかかわらず、積極的に効率の良い方法を提案したりして、主人も一目おいて目をかけていた。しかしそのためにかえって、使用人の他の白人からねたまれ、拷問を受けることになる。黒人たちは見て見ぬふりをしている。一度は力づくでやり返したが、奴隷が反抗的態度を示すことは許されなかった。主人はこのままでは殺されると判断して、知りあいに売り渡すことで、その地をあとにした。

 次の主人には慈悲はなかった。買った奴隷は自己の所有物であって、人間としての扱いはされなかった。綿花の栽培を手がけたが、収穫量をキロ数で測り、奴隷たちに競わせた。少ないものにはムチ打ちが科せられた。主人公は女奴隷よりも少なかった。主人の妻は白人だが、知的で従順な主人公に目をつけ、買い物の言いつけをしていた。一度はその足で逃亡をくわだてたことがあったが、途中で黒人奴隷が捕まって、首吊りにされているところにでくわし、恐れをなした。

 主人は女奴隷に手を出していて、妻がそれを知って、怒りをつのらせて、陰湿な肉体的苦痛を味合わせてもいる。女奴隷がいなくなったときがあった。綿花収穫の労働で汚れた肌を洗う石鹸を求めての外出だった。妻がその場にいたこともあっただろう。主人は逃亡を疑って、主人公に向かって銃を突き付けて、女をムチ打つよう指示した。思わず手を休めると、お前に拷問を与えると迫った。妻はその光景を冷ややかに見ていた。

 綿花に害虫がついて収穫が激減したときがあった。主人はそれを黒人奴隷たちのせいにして、呪われていると考えて、まとめて売りさばいた。主人公も行動をともにしたが、そこでの待遇は少しはましなもので、ヴァイオリンを与えられて、白人たちの集まりで弾くこともできた。しかしそんな生活は長くは続かず、綿花の栽培が軌道に乗ると、前の主人のもとに戻された。そこには白人の奴隷も加わっていて、かつては黒人奴隷を管理していた人物だったが、身を持ち崩しての姿だった。主人公は手紙を書いてこの男に託そうとして、ヴァイオリン演奏で稼いだ金を手渡して、自分の身分を明かした。男は引き受けようとしたが、土壇場でおそれをなして、主人公は落胆してあきらめた。

 機会を逸した主人公は、本名を捨てて、奴隷としてあてられた名前の人物になりきっていた。ヴァイオリンもたたきわってしまった。主人は黒人の少女を抱いて可愛がっている。何の説明もないが、自分の子なのだとわかる。主人の邸宅に別棟の工事がされて、カナダ人の建築士が雇われて、主人公がその手伝いをしていた。この建築士の役をブラッドピットが演じている。リベラルな考えの持ち主で、主人公は再度、望みをかけて、自分の過去を打ち明けて助けを乞う。事実に驚き同情を寄せるが、尻込みをしている。主人がふたりのやりとりをあやしんでいる。手紙で伝えようということばは残したが、どれほどの勇気を出してくれるかは定かではなかった。

 どのくらい時が経ったのかはわからないが、いつものように作業をしていたときに、自分を探して一台の車があらわれた。公的な機関から来たもののようで、かつて知り合いであった白人が乗り合わせていた。主人公が自由奴隷の身分であることを伝え、連れ帰ろうとするが、主人は自分が買った所有物だと主張した。友人は裁判での訴えをほのめかして、その場をあとにした。法的整備もされはじめていたということだろう。

 家族のもとに戻ったとき、娘には初めてみる夫とともに孫の姿もあった。妻とだきあう姿を見ながら、見ている方も胸をなでおろした。原題にあるように「12年にわたる奴隷」の日々だった。もちろん生涯を通じて奴隷であった黒人のほうが多かったはずである。時代はまだ、奴隷商人や奴隷として扱った主人たちを処罰することはできなかった。信じがたい人種差別の実態を目にしながら、虐げられた者の努力と、緩慢ではあるが支配者側の理解によって、アメリカ社会が時間をかけて育ててきた民主主義の重みを実感することができた。このとき黒人女性を妻にむかえたブラットピットや英国の王室のことを、さらには黒人少女を奴隷としてでなく、自分の血を分けた娘として抱いていた卑劣な主人についても、その心情を私は思い浮かべてみた。

第277回 2023年9月13

シェイプ・オブ・ウォーター2017

 ギレルモ・デル・トロ監督作品、アメリカ映画、原題はThe Shape of Water。アカデミー作品賞はじめ4部門で受賞。奇想天外なメルヘンともいえる人間と異生物との恋愛物語。水中でソファーに横たわる女性の不思議な映像からはじまり、一体何が起こるのかと思わせる。しゃべることのできない女性が主人公で、年配の男とふたりで、劇場の屋根裏部屋にすんでいる。テレビはまだ白黒の時代だ。親子でも夫婦でもなく、共同生活者というのが、ふさわしい関係のようだ。女は宇宙開発局の研究所で清掃係をしている。勤務時間は昼夜が逆転して、夜になると出かけるが、それはそこが国の機関とはいえ、秘密組織であるからなのだろう。男の方は画家で、ロックウェルのようなみごとな腕前をもっているが、写真全盛の時代となり、取り残されて専属を解かれてしまった。今も会社に宣伝用のイラストをもちこむが、採用されることはない。

 ある日研究所に、異生物が発見されて、水槽に入れて運び込まれてきた。人間の姿に似ているが、見るからに怪物だ。凶暴であるが、感情をもっているようで、音楽にも反応して、心の動きを示している。アメリカは研究対象として興味をもつが、敵対するソ連もこの異生物の存在に目をつけていて、奪い去ろうとスパイを研究所内に忍ばせていた。

 清掃係の女性が、興味本位から水槽のガラスに手を触れたとき、静まり返った水が、反応を示した。この孤独な生物に、自分との共通点を見出して、親近感をもちはじめていく。ゆで卵を水槽の淵に置くと、顔を出して食べはじめた。恐ろしい容貌をこわがっているふうでもない。やがて心を通じ合わせていき、ここから自由にしてやりたいと考えはじめる。黒人の同僚が気づかいながら、その秘められた恋の動向を見守っている。障がいを持つ孤独な娘を我が子のように思って手を差し伸べていく。

 研究所を取り仕切る警備係のボスは、この異生物と接触しようとして、怒らせて指を食いちぎられてしまった。その後も電流の流れる警棒で、おどしながら異生物の生態を調べ続けている。軍服を着た元帥が視察に訪れて対応を検討するなかで、解剖するように命じられる。一方、ソ連側ではスパイを通じて、奪還を画策していた。そんななかで、清掃係も単独で、逃がそうとして動きはじめた。同居人が力を貸して車で運び出そうとしたとき、ソ連側がその動きを察知して加勢した。

 清掃係は自宅に連れ帰り、バスタブに水を張ってようすをみた。衰弱するのをみて塩水を加えるなどの処置も試みている。水が必要だとわかり、部屋中を水で満たして、階下の劇場にまで水漏れがしていた。ソ連側はこの清掃係が、どこの国のスパイなのかと警戒しながらも、アメリカとは対立する組織だと理解している。娘が裸になってだきあう姿も映し出されていた。異生物のたくましい肉体に魅せられているようにみえる。

 異生物は娘には優しくふるまったが、同居人には傷を負わせたり、飼っている猫を食い殺したりした。娘は気の毒がっていたが、同居人はそれが動物の本能なのだと理解を示していた。ソ連のスパイは、研究所に派遣されてきた博士であることを突き止めたボスは、容赦なく撃ち殺した。海に逃がそうとしたときに追いついて、異生物と娘に発砲した。娘は死んだが、異生物は不死身だった。アマゾンの奥地では神と崇められていた存在だったのだ。ボスの死体はのどが爪で引き割かれていた。

 パトカーがあとに続いてきたが、娘の死体を抱きかかえたまま、海深く沈んでいった。恐ろしい獣面をもっていたが、水の精霊がかたちを得た姿であったのかもしれない。娘も人魚のように異生物とともに浮遊しながら、ふたりは永遠の時を楽しんでいるようにみえた。水中ではしゃべる必要もなかった。娘は異生物に誘われたとき、同居人に目を向けて、人間世界にとどまろうとしたようだった。しかし殺されてしまえば、それもかなわなかったのである。同居人は行きつけのパイの店で、男性店員の手を握りはじめて勘違いをされたことがあった。娘との関係は淡白だったが、黒人の同僚とともに、強い心の絆で結ばれていたように思う。