第13章 抽象表現主義

アメリカの時代アンフォルメル/美術批評とコレクター/アートマーケットの拡大/影の仕掛人/ポロック:重力を超えた暴走/抽象的な幻影/無重力空間/アクションペインティング/ロスコ:悲しみの共有/杉本博司:海は名をもつか/視覚をこえた体感

第149回 2022年2月3

アメリカの時代

第二次世界大戦が終わり、美術の中心がパリからニューヨークに移っていく。アメリカが中心になってくる一因は、ヨーロッパ戦線からの亡命者の受け入れにあった。ナチスによるユダヤ人の排斥は、アメリカによる救済に結びついた。ヨーロッパの知性は経済人や学者だけでなく、音楽家や美術家もアメリカに移動した。戦後の繁栄はヨーロッパからの移住者のおかげでもある。

戦後美術は何からスタートしたか。アカデミックな制度が根づくには百年単位の時間がかかる。即受け入れられたのは前衛絵画だった。ことに抽象絵画がアメリカの風土に合っていた。大都市を飾るシンプルなものが求められる。ニューヨークの水平垂直のくっきりしたエッジを際立たせる絵画形式が、都市の美術として脚光を浴びていく。

一方でアメリカの風土に根づいたエネルギッシュな生命感を抱き合わせにしながら、ヨーロッパのモダニズムが展開していった。アメリカには古代のギリシャやローマも、中世のキリスト教文化もなく、むしろ原住民のインディアンやメキシコ文明がルーツとして浮上する。源泉は探し出せるが、ゼロからの出発という点では、抽象絵画がぴったりとアメリカの肌に合ったのではないかと思う。

アメリカでは現代美術の父のようにいわれるのはマルセル・デュシャン(1887-1968) だが、フランスからきてアメリカ国籍を取得するに至る。モンドリアンも晩年、アメリカ生活を楽しんだことは「ブロードウェイブギウギ」の浮かれた作風からも察せられる。大戦間アメリカにとどまり自国に帰るものもいるが、ヨーロッパにはないあらたな発見があった。

ヨーロッパからやってきたものが、自由を可能性に置き換えて発展を遂げるアメリカの魅力をまず実体験としてつかんで、それを当時のアメリカの若者たちに植え付けていく。第一世代は移住組だったが、それがやがて生粋のアメリカ人にバトンを手渡していく。若者たちの目は輝いていたにちがいない。それはお雇い外国人が意気に感じた明治維新の日本の夜明けにも似ていた。岡倉天心や高橋由一など芸術に向かう希望の目は、野望に血走る薩長の若者の目とは異なった光を宿していただろう。

アメリカではそこからポロックに代表される抽象表現主義が登場する。抽象と表現がドッキングしただけで、それほど新しいものとはいえない。古いもの二つを組み合わせて新しいものに見せかける。抽象は1910年代、表現は20世紀の始まりにさかのぼり、ともに1950年頃には古い概念になっていた。両者を組み合わせ、アメリカサイズの大画面のなかで無我の状態で絵の具と格闘するような、対象を写す「写実」とは異なった表現方法を確立した。

カンディンスキーは似たようなことを、ヨーロッパで既にやりはじめていた。表現主義からはじめ、その延長上で抽象にたどり着いた人だ。そこには抽象表現主義と呼んでいいものがあった。アメリカが招き入れ獲得し損ねた才能のひとりである。ヨーロッパサイズをこえたスケール感とダイナミックな表現性は、ロシアの風土がはぐくんだ血脈にちがいない。精密機器を思わせるようなクレーの作風と比較すると、くっきりとした風土論を伝え、それもまたアメリカの貪欲の対象となるものだった。日本人の感性はこのロシア人よりもスイス人のクレーに親近感をいだくことになるだろう。

才能を集結したアメリカの時代はどこまで続くだろうか。人種のるつぼと化した自由主義の完成は、白人支配から奴隷を解放し、黒人大統領を誕生させることで実現したとするなら、すでにピークはすぎてしまっている。ローマやパリの在留期間と比較すると、ニューヨークの覇権はまだ続いてもよいはずではあるが。

第150回 2022年2月4

アンフォルメル

戦後同時期にヨーロッパ型の抽象表現主義も誕生し、「アンフォルメル(非具象)」の名で呼ばれる。美術評論家ミシェル・タピエ(1902-87)による命名だが、染みを意味するフランス語からタシスムというグループ名もある。ドイツとイタリアは敗戦国で文化を立て直すのに時間がかかったにちがいなく、主にフランスでの動向だった。

ジャン・デュビュッフェ(1901-85)やジャン・フォートリエ(1898-1964)の名が知られるが、デュビュッフェもその後はアンフォルメルを離れ、立体表現へと変貌をとげる。軽やかな色彩でポップアートを思わせる黒い縁取りをもった明快な人物像を特徴とする。戦後まもなくは暗く重圧感のある、押しつぶされたような人体が目立ったが、見方をかえれば、そこにはナチス支配からの解放を伝える躍動感あふれる力強い造形感覚が満ちていた。フォートリエの描く歪んだ顔立ちは「人質」(1943)と題されるが、レジスタンスに裏打ちされた不屈の精神が読み取れる。

絵の具の塊が前面に押し出される点はポロックと共有するが、アンフォルメルにはアメリカほどの大画面はない。アメリカでは横に広がるのだろうが、ヨーロッパでは重層的な厚塗りを特徴とした。絵画とは思えないレリーフ彫刻のような重量感があり、実際にそれらは重かった。

次に来るウォーホルが「芸術は表面だ」というのは、その重厚さに見切りを付けようとする意志の軽やかな表明である。フランスに渡った日本人では今井俊満(1928-2002)や堂本尚郎(1928-2013)がアンフォルメルのスタイルを受け継いだ。岡本太郎も同様のエネルギーを身に着けて帰国し、若い世代に大きな影響を与える。

アンフォルメルは日本には早くから紹介された。サイズも手ごろでマーケットに入りやすかったこともある。1957年にタピエやジョルジュ・マチュー(1921-2012)が来日してパフォーマンスで話題をつくる。キャンペーンやデモンストレーションという語が適切か。公開制作で即興性を披露する。見世物はいわばガマの油を売るためであったが、理解をともなわない観客の側から見れば、たとえ商品のいかがわしさをいぶかったとしても、大道芸のほうには目を注いでいた。蛇に腕を咬ませる技に意を感じれば、軟膏のいかさまに出費はするものだ。作品よりも芸(パフォーマンス)にお金を支払っているということだ。

作品は蛇の抜け殻のようなものなのか、あるいは芸の結晶であるのかという判断は、もちろん一概にはいえない。関西に誕生した破天荒なパフォーマンスをともなう「具体美術協会」(1954-72)の活動が世界的な評価を受けるのも、これらフランス人の来日を通してだった。

第151回 2022年2月5

美術批評とコレクター

ポロックの作品がほんとうに優れたものかという問いを再度発すると揺らぐ面はある。論理をもって説得を試みる役割が必要になる。作家が制作活動をするのに歩調を合わせて美術評論家がクローズアップされるのも、ヨーロッパでもアメリカでも日本でも共通した動向だった。画家は作家活動をしてそれをフォローするような形で、理論武装してくれる仲間が加わったということだ。難解化する現代美術でのシステマティックな分業体制とみてもよい。

フランスではアンフォルメルをタピエが支えたが、アメリカでのポロックの仕事を正当化する作業は、美術批評家ハロルド・ローゼンバーグ(1906-78)が「新しいものの伝統」として擁護した。当時新鮮に受け止められたいいかたに従えば、キャンバスで起こっているのは絵画ではなくてイヴェント(事件)だった。今まではモノ(物)を描いてきたが、コト(事)を描くのだという表明がなされる。

次いでクレメント・グリーンバーグ(1909-94)がフォルマリズムを掲げ、日本の論壇へはことに強い影響を与えた。美術批評と美術評論は区別する必要があると思うが、ローゼンバーグは作家の個人名は強調せず、ポロックを売り出す意図は希薄で、作品よりもアクションに目を向けていた。美術評論家とアートビジネスとの違和感のない共闘は、日本でも箱書をする鑑定家から受け継がれた伝統だった。制作方法論をポロックに代わって書きとめた。

美術館学芸員や現代美術専門の画商もそれに加担した。美術の専門誌だけでなく、ライフ誌も加わり大衆化を加速した。インディアンの砂絵をもち出すことで、ポロックの絵画がアメリカという土壌から誕生したことを強調するのも、批評家や評論家の役割だ。アメリカで起こった新しい美術をマーケットとして広めていく使命がある。

こうした動向は日本の場合の画壇や美術団体の組織とは距離を置くものでもあった。これまでのヨーロッパでの前衛運動は、画壇と結びついていた。印象派は白馬会(1896-1911)、フォーヴィスムは独立美術協会(1930-)、キュビスムは二科会(1914-)、未来派は三科(1924-)、シュルレアリスムは美術文化協会(1939-)、抽象は自由美術協会(1937-)というようにおおまかな色分けができていた。

戦後アメリカの時代になって、団体展から個展の時代へと移行し、これまでの美術団体の勢力図はさまがわりをしたようにみえる。ここで日本はやっとフランスでのクールベの時点に追いついた。100年近い遅れをとっての出発だった。個展の受け皿として、街の画廊が拡張する。現代美術は、新興の近代美術館とも共闘して、こぞって団体展を目のかたきにしていったようにみえる。

抽象絵画や前衛運動を大衆化していくというのは、矛盾したいいかただ。前衛(アヴァンギャルド)は一握りの尖鋭性をいい、それを大衆化するという無茶な方向性をとることによって、やがては現代美術が市民生活に根づくことになる。日本ではなかなかこうした流れは見通せなかったが、その兆しを見せだしたのは、古美術や茶道具に終始した旧財閥系のコレクションから分離して、新興勢力としてあらわれた起業家やサラリーマンコレクターの誕生からだった。画商はビジネスということとは別に、市民に新興美術を広めていく使命を受けもった。パトロンとして繊維業主や石油王が未来を見据えてきた旧来からの美術愛好の成果だともいえるだろう。

古美術を愛でる目でさえも、ごつごつとした茶碗の表面をおもしろがる姿は、アンフォルメルの抽象が描いた絵画の表面となんら変わりはない。アンフォルメルに反応する素地はすでにできあがっていたということだ。イタリアルネサンスを見れば美術品収集は、もともとは罪滅ぼしの産物だった。悪徳によって獲得した富が美術品に変貌する。こうした出発点の収集理念は後ろめたさもともなって引き継がれていく。

第152回 2022年2月6

アートマーケットの拡大

古道具から現代アートへと目の変革をする。新しいものを好むという嗜好と、若者を育てていきたいという側面と、若い頃のものを買っていて、その後自分が作家誕生に立ち会ったという優越感がないまぜになって進行する。株式と変わらない優良物件への投資というマネーゲームでもあったはずだ。投資の感覚はアメリカでは行きわたっていた。

資本主義に支えられた構造がアートマーケットを活性化させてきた。アメリカ型のアートビジネスが日本にも導入される。芸術家とパトロンの関係とみれば、両者の図式はミケランジェロの頃と何ら変わらないのかもしれない。銀座の中心部に現代美術の拠点を築いていく。個人のコレクターだけでなく、国公立の美術館にも購入がもちかけられていく。50州あれば類似したポロックの作品50点が必要になる。

公立美術館は一定の作家を網羅して所蔵する個人美術館の性格と、まんべんなく美術史にそいながら整備していくという使命感を共有している。作家個人についていえば、スタイルを変えて新しい作品を望んでも、評価の確定した既存の作品が求められる。出来不出来はあるだろうが、同一のスタイルがシリーズとして各地に散らばることを考える。一点ものの作品だが版画と同じような企画者側の概念操作がなされていく。

作家が個人様式を展開させきれないシステムが敷かれたということでもある。ちがうものを描きたいという欲望と、確定したスタイルを繰り返すニーズを前に、安易な経済学に流されてしまう。楽な方向に流れていく世の常を思うと、制作は破壊の集積だというピカソのことばが意味をもって響いてくる。

ポロックのような早めの死は怠慢を回避できたということになるが、暴走による事故死はあるいは潔癖な意志の決断であったかもしれない。ポロックが暴走のすえぷっつりと切れた姿は、三島由紀夫の自決にも似ている。ともに40歳代半ば、肉体のおとろえを前にした年齢での死という意味だ。青白い病弱の書斎派に書を捨てるよう呼びかけるのは60年代のことだった。

作家のアクションが気になるとき、作品は行為の残りかすだという純真に拍手する大衆心理がある。自動車事故での突然死は、ポロックでもカミュでも絵になる光景を演出する。たとえその真相が運転中に起こした単純な手違いや持病の悪化であったとしても、そんなことは伏せておけばいいのだ。

第153回 2022年2月7

影の仕掛人

作家が長命でシリーズの点数が多いことは、一点の単価が下がることを意味している。あえて自作を廃棄するという方法もあるだろう。陶芸家が出来損ないを割ってしまう行為に似ている。豊作の農作物を廃棄する農家に見立ててもいい。作品が商品である場合、多くはこうした市場操作をかいくぐりながら現代に至っている。作品評価は享受者の個人の目にゆだねられているが、美術館での所蔵などが権威となり、それに従ってランキングがなされていく。白紙に戻っていいものをいいといえる状況にはない。こうしたどろどろとしたスノビズムを基調にして美術史もつづられていく。

アーティストが先行していく歴史というよりも、背後のスポンサーやプロデューサーの存在がクローズアップされてくる。美術館のキュレーターも本来の黒子的存在を脱した感が強い。影の仕掛人がフィクサーとして君臨する動向はことにこの分野には顕著にみえる。同時に有力な画商の操作もしのぎを削る。錬金術に支えられたマネーゲームであるだけにその誘惑は計り知れない。それだけに受容者の側は掛け値なしに純粋にものを見極める眼力が問われる。

作家が自らの手で美術運動を展開させていく自主性も希薄になっていった。美術市場が広がり手に負えなくなった現況がある。ヨーロッパ型の小さな市場操作から、世界全体を見渡しながら海外市場を操作していくハリウッド型のビジネスに行き着いた。映画制作が巨大な産業に成長していく過程と美術思潮が連動する。アメリカ映画はやがて六〇年代にフランスのヌーヴェルヴァーグをまねて個人映画が台頭するが、それはビジネスに身売りしたアートの自省の念だった。それに先立つポロックは、裏で働くビジネス界の思惑からみれば、犠牲者のひとりだったかもしれない。

ロックミュージックもまた同様で、「抵抗の歌」でさえも商品化されていく。フォークソングが口伝えで広がる理想は、いつ頃からかマイクを必要とし、拡声器が導入された。のびやかでしなやかな音声が騒音へと暴走した。抵抗の歌が大量に行きわたり、人口に膾炙すると、もはやレジスタンスではなくなった。メジャーがマイナーを装ったシミュレーショニズムがスタートする。サブカルチャーを装ったポップなイメージが膨張する。

第154回 2022年2月8

ポロック(1912-56):重力を超えた暴走

絵の具を力任せにキャンヴァスにぶちまけた絵である。それを何度も何度も繰り返す。ハリウッド映画が戦後のアメリカンヒーローを次々と生み出していったように、美術ではジャクソン・ポロックが戦後アメリカ絵画の象徴的人格をつくりあげた。自動車事故の暴走による早すぎる死は、その前年に同じ死にかたを選んだ映画界でのジェームズ・ディーン(1931-55)の伝説と重なって見えてくる。

初期の作品は薄暗く重厚な画面だが、メキシコの壁画運動と連動するような雰囲気をもっている。これを出発点としながら根づいた力強い表現主義が、大規模なスケールで展開していく。そこから独自のものとしては、画面がどんどんと続いていく「オールオーヴァー」を獲得する。一角を切り取った壁紙のようなものだが、上下左右に広がっていきそうな拡張性を特徴とする。そこでは中心がないということが重要だ。

画面に対面するのではなくて、画面のなかに入っていくような感覚があり、鑑賞者の身体全体を絵が覆いつくす。日本で所蔵される小品でも目を近づければその効果はあるだろうが、アメリカサイズの醍醐味は味わえないかもしれない。目を近づけるだけでは目の体験にしかすぎない。バーチャルリアルの映像体験ではない体感により身ぶるいするような味わいが問題となる。仮想体験にはメガネだけではなく胴体に巻き付けるバイブレイターも必要になってくる。

ポロック自身も制作するのに画面のなかに入り込むといっているし、見るほうもそれを追体験することになる。ときに銀河系の大宇宙を感じ取ることにもなるが、見るほうはやはりそれに対面しているのではなくて、銀河系の一員としてそこにいる。その点で私たちは当事者として事件に巻き込まれ、部外者としてそれを客観的にみる遠近法空間にはいないということだ。そこではもちろん重力はなく、上下左右の感覚は解消される。

第155回 2022年2月9

抽象的な幻影

平面は平面でしかないが、人の目はどんなものにも奥行きを見てしまうもので、そのときポロックの銀河系は目の錯覚で、遠近間を動揺する。アブストラクト・イリュージョニズムともいえる抽象的な幻影が生まれる。誰もが経験することだろうが、満天の星はあまりにも遠いので遠近法の対象とはならず、ときに手に届くほど近くにあるようにみえる。月にさえ赤ん坊は手を伸ばすし、オオカミは月に吠える。その後に展開するオプティカル・アートを先取りしてもいる。

目のイリュージョンは人間の心理学の実験でしかないが、ポロックにはそれをこえた情念が何重にもかぶさっているようだ。重ねがきをすれば手前の線は明らかに判別できる。何層も重なっているのだから、奥行きは出てきて当然だということだ。そこでは絵画といえども現実の深みであって、レリーフを構成していてイリュージョンではないのだ。密林のなかに置き去りにされたような印象といってもいい。

空間はレイヤーを重ねて際限なく広がり続けている。画面に空白はなく空間恐怖を回避しようとして、余白を残さず、ぎっしりと絵の具で埋め尽くされている。難解な抽象に「秋のリズム」(1950)などと抒情的なタイトルがつくと、とたんに人気を呼んだ。これには「ナンバー30」という別名もあるが、交響曲第6番を「田園」と呼ぶのと似たようなものだと見ると、クラシック音楽にならったものだともいえる。

抽象絵画に解釈を固定したタイトルをつけると安心する。芸術の潔癖は作品をナンバリングしたがるが、これも時系列で作品の進化を見ようとする、単純な解釈のひとつにすぎない。作品名まで無機質な抽象にしてしまう必要はないだろう。それは名づけられたものの多様性が教えてくれる教訓だろう。

雲に入道雲、花に女郎花(おみなえし)と名づけた心情が自然を芸術に導く。極悪非道の犯罪者が正義(まさよし)という名であったとしても、凡庸なのに英雄(ひでお)と名づけられた本人を前にすると、親の願いがひしひしと伝わってくる。名は必ずしも体をあらわしてはいない。解釈のひとつに過ぎず、そうあってくれと願う親に与えられた唯一の権利である。抽象絵画の全盛期には、タイトルのみが抽象をよそおう具象絵画も数多く登場する。ベートーヴェンにとっては、英雄、運命、田園が、人格をあとづける具体的なキーワードとなることができた。

ナンバリングはロボット名ではあっても、人間に使うにははばかれる。長男でもただの数字ではなく、一と書いて、はじめと読ませたり、一郎や一雄としてきた歴史がある。姓はなくとも、名は常にあった。茶人は茶碗にまで名をつけた。ときには「夕暮れ」などという源氏名のようでもあった。ナンバリングは時に「無題」という別名を取ったが、それもたいていは無題という題名だと解釈された。

第156回 2022年2月10

無重力空間

ドリッピングでは床に敷かれたキャンバスに、四方から絵の具を投げかけるので、重力の法則は解消される。無重力の浮遊空間が壁に立てかけられると、従来とは異なった絵画空間が誕生する。絵は筆で描くものだという前提も覆される。筆の動きは人の意志に左右されているので、意識をこえるものではない。そこに無意識と偶然の可能性が加味される。

絵の具をたらし、空間を飛びこえる一瞬の可能性ではあるが、身体を離れキャンバスに達するまでの物質の自由といってもよい時間性だ。身についてしまった技法から解放されたいことはある。制御できないほど長い絵筆を使ったり、利き手を使わなかったりするのも、自由獲得の苦闘だった。右手を失えば左手で描くしかないが、右手を切断してまでも、自由を憧れる潔癖もあっていい。

偶然を考えるとき、周到に用意された必然だともいえる。偶然があり得ないと思うのは、偶然出くわしたというが、その時偶然出くわす条件があって、それを神のわざだといえば、すべては神のわざですまされてしまう。理由がわからないときに偶然という。理由は必ずあり、人間の知恵をこえているというだけのことだろう。

意識をこえる方法として飲酒やドラッグが有効だとするなら、ポロックがアルコール中毒の治療として絵画制作に没入したこととは矛盾しており、この循環は負のスパイラルとなって繰り返されていく。制作に至るまでを写し出した映像が残っているが、没入するとそれまでのくわえタバコを投げ捨てて制作に突入する姿が映し出されている。そのとき覚醒した神経は研ぎ澄まされていて、偶然の入り込む余地はないようにみえる。忘我状態のエクスタシーのなかには偶然に頼る余裕もなく、ストレートな暴走にはブレーキもきかない。

そんなみごとな映像を前に、それがみごとなだけに何度も撮り直しをしたのではと思ってしまう。ポロックが正直にポロッと語った愚痴が残っている。それもまたヒーロー誕生の演出には欠かせないものだった。映像とは多くの場合、一回限りの撮り直しのことなのだ。硫黄島に掲げられた星条旗の場合のように、一回限りのパフォーマンスは撮り直しで完結した。

無重力は上下反転をともなうが、まちがって展示してしまうのも抽象絵画を特徴づけるものだ。具象作品でいつも天地逆に展示して鑑賞者を驚かせるゲオルク・バゼリッツ(1938-)は、抽象が具象を逆さに見たことからはじまったカンディンスキー神話のオマージュとなる。展示をまちがえてどことなく落ち着かないというポロックの逆さとはちがい、明白な犯罪的意図を表明する。

実際には制作段階ですでに逆さだったのか、展示段階で逆さにしたのかは不明のままだ。前者の場合は、たぶん逆さであっても違和感はない。宗教画の時代でも、逆さにはりつけされた殉教図は見慣れている。モデルを立たせて描いた絵を逆さに展示すれば、重力に逆らっているが、寝そべったモデルを上から見て描いた絵なら、頭が下にきても不思議ではない。そんな理屈を組み立ててもバゼリッツをはじめて見たときの衝撃は隠せない。

衝撃を感じるのは、展示作業員がまちがって逆さに掛けることは絶対にないからだ。かりに作業員が天地逆に展示したとして、それが確信犯であったなら、それはそれでもっと衝撃的なものとなるだろう。カンディンスキーが抽象絵画を誕生させたときの感動を心の動揺として追体験させてくれる。

天地逆転の驚異は、バゼリッツのトレードマークではあるが、日本では逆さ富士でも天の橋立の股のぞきでも経験してきたことだ。日常の何でもないアクションが絵画として定着した。普遍的な原理としては、影の自立といってもよい。殺風景なストリートに立つ一人の男とその影を写した何でもない写真を、天地逆に展示するだけで、驚異的なアナモルフォーズが誕生することもある[i]。カンディンスキーのオマージュのように見えたが、じつのところは純粋抽象に批判的なパロディであるようだ。具象を逆さにしても抽象などは誕生しない。


[i] 「鷹野隆大 毎日写真1999-2021」2021年6月29日(火)9月23日(木)国立国際美術館

第157回 2022年2月11

アクションペインティング

抽象表現主義はアクションペインティングの別名をもつ。ポロックの場合、作品よりも制作風景の映像のほうが興味深く目に映る。作品がアクションの跡形だというと、意味があるのはアクションのほうであって、作品はその残りかすだという考えに至る。しかし作品の仕上がりから見ると、完成への意欲を否定することはできない。

我を忘れて画中に入り込んで格闘しているのが心地よくて、それから覚めて冷静に見れば、こんなものができたという感覚だったのか。あるいは是が非でも完成させたいという作品主義だったのか。その後の流れでいえば画商がシェアをして売りさばくはずで、美術市場の論理からすると作品主義でなければビジネスは成り立たない。

パフォーマンスをあこがれる潔癖性は、作家の良心として残されている。そこには行為と絵画を同列に並べようとする意志がみえる。アクションペインティングの名称は、ペインティングアクションではない限りにおいて、あくまでもそれは商品的価値を有した絵画作品であることを表明している。

その後、イヴ・クライン(1928-62)が火炎放射器ボディペインティングを試み、篠原有司男(1932-)がボクシングペインティングと称して、絵の具を画面にたたきつけるのも、ポロックの系譜を踏襲している。絵筆に頼らないことで手わざとしての職人的技巧を凌駕し、絵画を技術の習熟から方法論の哲学へと変容させていった。

アクションそのものが芸術である。ポロックの自動車事故での死を見ても、つねに動き続けて加速状態で、ぷっつりと切れたという印象を残す。運動や継続性が重要であり、画面を見ていてもまだ先に続き、筆が入ると思わせるようで、それを瞬時に時を止めたような感じを抱かせ、完成というものがない。抽象絵画そのものはどこで完成というかは難しい。ポロックの場合はいくらでも上塗りが可能にみえる。制作の瞬時がだいじだというパフォーマンス性は、その後のヴィデオパフォーマンスや落書き絵画(グラフィティ)に受け継がれる。

落書きはその時その場でのみ輝きを放つ。やがて雨に流されたり、拭き去られたりして、絵が絵でなくなってしまう。今まではフレスコ画のように壁に定着してきた。それが今しか命がないものに賭ける。子どもの落書きにこそ原点がある。落書きはなまもので、生け花のようなパフォーマンスを価値とする。そこでは作家としては成立するが、作品は残らず売買の対象にはならない。

多くはアクションペインティングという名をとりながらも作品主義に帰結することになる。最終的には美術館に収まる作品に終始してしまった。オ-ルオーヴァーと称しながらもつねに枠はある。枠を外してどんどん広がっていけるように見えるタブローという意味であって、適度なバランスで枠は閉じられている。

ボクシングペインティングにしても、即興性をともなっているものの、ただの即興ではない[i]。このことは行為の跡形であるはずの絵画が、十分に絵になっていることによって証明されている。そこには熟練された職人の手わざとしか思えないような、即座に計算しつくされた完成度が横たわっていた。ペインティングボクシングが終わったあとの横長の画面をみると、その戦場の跡形は、無数に打ち込まれたグローブによる墨跡にちがいない。

しかし近くでみえた筆触を離れてみると、パターンが繰り返される光琳のかきつばた図屏風を思わせる配置の絶妙が見えだしてくる。日本の伝統に支えられた装飾の緻密が東西の枠をこえて拡散する。赤いボクシンググローブを構える作家の面構えがさらにいい。絵筆を手にしたみごとな画家の自画像になっている。思い通りに作品を完成させて満悦気にキャンバスの前に立つレンブラントの老境を彷彿とさせている。30歳で描いたボクシングペインティングはそれなりのものだが、80歳のボクシングペインティングは驚異的なニューペインティングだった。


[i] 「篠原有司男展 ギュウちゃん、“前衛の道”爆走60年」2017年9月16日~11月5日 刈谷市美術館

第158回 2022年2月12

ロスコ(1903-1970):悲しみの共有

マーク・ロスコも抽象表現主義に位置づけられるが、アクションペインティングではない。二つの色面が上下に区分されているだけの絵である。表現主義がゴッホを出発点だとすると、内面が外に向かって破裂するような様相が想定される。筆跡が生々しいタッチで残される。しかしそればかりが表現ではない。ロスコの場合、表現というには内省的で、瞑想へといざなう静寂の表象だ。東洋的神秘とみれば日本人の感性に通じ、震えるようなデリケートな湿りを帯びている。ハードエッジをもったクリアな画面作りとは異なる。

ニューヨークでの活動だがロシア民族の血を受け継いでいる。日本人の共感を得るとすれば、それはアジアに隣接する風土に根ざしているからかもしれない。あるいはロスコをアジア系とみる親近感はロシアという茫洋とした大地に憧れる小さな島国の心境だったかもしれない。かつて日本の侵略が満州に注がれた本能的欲望が底辺にはある。ポロックとの共通点をみれば、視線をかなたにまで引き込むような抽象的イリュージョニズムだろう。

水平に引かれて二分される天と地はおのずと宇宙の生成を思わせる。天地創造三日目の光景とみると、ヒエロニムス・ボス「快楽の園」のプロローグに対応するものだ。おぼろげにしかつかめない視界は、目を細めると遠近法をこえて宇宙にまで達するが、目を見開くと手探りの近景にふれようとする。無限に変化する色彩の配備は、モネの積みわらのように微妙なニュアンスをもつ。

自殺で締めくくる生涯ではあるが、現代ではロスコの絵は癒し系の絵画として評価される。幼児期からユダヤ人として迫害され続けたからこそ、悩みや苦痛を体験したものが共感できる安らぎとなったのだろうか。その精神性は宗教的とみなしてもよい。次代のポップアートの台頭を前に、軽薄な若者によって追放されたのかもしれないが、さらにそのあとに続く次々代の若者たちの心をとらえた。

ウォーホルがジャーナリスティックにもてはやされていく時流を目にして、自身のスタイルを変えることはできない。ポップアートと比較して、ロスコのもつ重厚さが現代では際立ってみえる。最後の作品「グレーの上の黒」(1969-70)はねずみ色だけの不気味な気分が醸成されている。単純な形だが年代を追って並べると、それぞれが表情をもっている。見る側は二分された画面を、水平線や地平線とみてしまう。

第159回 2022年2月13

杉本博司(1948-):海は名をもつか

写真家杉本博司の「海景」(1980-)のシリーズは、ロスコの多様性をなぞっているようにみえる。世界各地の海の名をかぶせた水平線を映し出した写真のシリーズである。一般名詞の「海」はいつも、つねに固有名詞をもった海だという当たり前でありながら、誰もが忘れてしまっている事実を突きつける。何でもないのにすごいと思えるのは、顔写真を並べて下にひとりひとりの名を書き込んだ卒業アルバムとなんら変わらないという点だ。それは人景ということになるはずだが、人であればなんらおもしろみがないのに、海であればどうしてここまで見入ってしまうのか。

澤田知子(1977-)はこれを展開させてクラスメイト全員を自分のセルフポートレートにして海景に対抗した。海を人と対比することでひとつの問いが生まれる。海は何歳だろうか。海景がどこでもないということはいつでもないということだ。現代人が原始人と同じ海を見ている。

海景ではロスコやモンドリアンにまでたどり着いた究極の抽象世界が出現する。海の撮影に換えて城の「石垣」を石組だけをクローズアップして撮り続け、姫路城や熊本城とタイトルをつけてシリーズ化したとする。ときには訪れてもいない城の名をつけて鑑賞者の目を試すこともできるが、それは必ず探せばどこかにジグゾーパズルのワンピースはあるという点で、海景よりも確実な物証となるものだ。しかし海景がやはり優れているのは、物証するに難しいという点で、それがロスコに似ているということの意味であり、ここにロスコが繰り返し描き続けた芸術論がある。石垣は時に自然の猛威の前で崩壊するし、まして卒業アルバムは一時期の顔でしかない。

ちがうのはロスコが題名をノイズとして排除した点である。海は石垣と異なり境界線はない。日本海はどこまでが日本海だろうか。それ以前にそれは日本でしか通用しない名称であり、そもそもが海に名をつけること自体が問われもするとすれば、それはノイズでしかないという結論に達する。海には名前はない。杉本は海の固有名詞ではなく、多くは観測地点の地名を作品タイトルにしている。

普遍とは多くの日常の繰り返しが定着したもので、写真というメディアは、一瞬をとらえるものでありながら、永遠をも定着するすべを心得ている。一瞬とは固有名詞で、永遠とは一般名詞のことをいう。とんでもない長時間露光の末に映し出された写真のシリーズ「劇場」(1975-)では、動くものは消え去り、静止したもの、つまりは静物のみが定着する。そして至福の世界、白光が訪れる。渚にて、羅生門、無常などという具体的な作品名は「海景」の場合と共通する。どんなタイトルの映画も光を見続けているということでは、すべては同一なのだ。現身(プリント)では確かに発光だが、原版(ネガ)ではそれは闇のことだ。

静物画のことをフランス語ではナチュールモールというが、死んでしまった自然という意味だ。セザンヌは実はこうした写真家の目をもっていた人で、リンゴをテーブルの上に置いて、腐るまでじっと見つめ続けていた。この写真家もセザンヌと同じようなことをしようとしている。剥製の白熊を写して、野生を超える生々しい生命感を引き出した視点も、それに共通する。そしてそれは絵画史の延長上にあって、芸術概念を考えるメインストリームに位置している。主題のいかんにかかわらず、絵画は色の置かれた平面であるという点で、すべては同一なのだ。デモクラシーに根ざしたモダニズムの世界観から、当然出てくる論理だった。

普遍性を感じながらも海は名をもつ個別でもあるというのは、動物に個別の名があり、同一種でさえ同じものはひとつとしてないというもうひとつのデモクラシーの存在を理解する。名を伏せた「海景」をみて海の名をいいあてられる名人は必ずいる。しろうとでも北の海と南の海はいいあてられるように思う。クールベの言い分がここでもよみがえってくる。見えるとおりに写しておくだけでいいのだ。その点では写真は絵画よりもすぐれたレアリストだった。もちろん写真を過信することはできない。嵐の訪れを予言する漁師に感嘆の声をあげる。視覚のみのレアリスムには、他の四つか五つの感覚は抜け落ちている。プロは全身の感覚を総動員して判断を決する人のことをいうのだ。

第160回 2022年2月14

視覚をこえた体感

天と地が交わる場所に地平線や水平線があるわけではない。空の青と海の青に境目はあるが一本の直線ではない。目を近づけてみると焦点の結ばないおぼろげな気体が浮遊しているはずだ。現実にははるかかなたの現象であって、目を近づけてみることなどとうていできない。ロスコも色面分割だけの絵だが、分かれ目に分割線はなく、究極では溶け合って一色だけで完結するに至るような気もする。

千葉県にある DIC川村記念美術館のロスコルームに入ると視覚体験をこえた体感を得る。個々のタブローを前にした時とは異なった、背後からの接近ともいえる忍び寄るような気配を感じる。それは恐怖ではないが、沈潜した瞑想であって、曼荼羅図に囲まれたような宗教的恍惚に似ている。目で見ているのではない。体感しているのだ。東洋的エキゾティズムといってもよいだろうか。

モネの睡蓮が取り囲む日本的情趣とは対極にあるようだ。モネの回遊式庭園に対して、ロスコの庭は瞑想的で、龍安寺の石庭に見立ててもいいかもしれない。そこでは石と砂に目を向けてはいるが、目を閉じたときには物質を超えて宇宙を体感している。加えていえばモネのオランジュジー美術館に設置された、いわば睡蓮の庭は、目を象徴するプランになっている、楕円を二つ連ねた形は、算数字の8をなぞるように回遊する。それは永遠をあらわす記号であると同時に、メガネをふちどって回遊する目のうつろいを意味している。龍安寺に対しては桂離宮の好奇心に満ちた庭を引き合いに出してもいいだろう。

目を見開いて見えないものを探るモネ空間に対して、ロスコルームは目を閉じて絵画が発するオーラにふれようとする。タブローとしても完結するが、それを組み合わせて空間演出に至る現代のインスタレーションの先駆けを見つけることができる。それはロスコの意図の実現であると同時に、ロスコのタブローを利用した現代美術館の空間創生の実験でもある。

バルセロナで建設が続く「サグラダファミリア」(1882-)でのガウディと現代とのコラボレーションに似ている。今では彩色されアールヌーヴォー一色に目に映るが、私がはじめて訪れた1977年には、まだ人知れずたたずむ黒々とした中世のカテドラル以外のなにものでもなかった。バルセロナはアールヌーヴォーやピカソの町である前に、当時の私にとっては、中世が息づいた巡礼地だった。そこにそびえていたのは何の装飾もない黒い岩石のかたまりだった。その後、中世の驚異(マーヴェラス)を引き起こす重厚と神秘は引き下がり、現代の行楽(アミューズメント)に変貌し、多くの巡礼者を呼び込むことになった。ガウディの奇想は、20世紀のアールヌーヴォーではなく、12世紀ロマネスクの奇想に由来するというのが、私の見解だ。それはバルセロナ街中ではなく、丘上に位置する中世ロマネスクの宝庫、カタルーニャ美術館を訪れることで確認できる。

杉本博司は別の作品に「海景」を効果的に挿入する。天正少年使節の足跡を追った展覧会では、ときどきはさまれる海景が、遠路に向かう希望と不安を映し出していた[i]。茫漠とした水平線は、どこの海かすらもわからない。海に乗り出すものの不安をみごとに写し出してもいて、波は立たないが、海鳴りをなす通奏低音が響きわたってくるようだ。使命をもった少年たちの希望と不安の前には、海は茫漠として名乗ることさえしない。暗雲には名前などはない。ロンドンの霧やアルプスの山岳は、それをおおっていたヴェールが取り除かれたとき、美を確信して名をもつ名所となった。

過去の記憶を呼び起こすイメージはぼんやりとしてモノクロ写真のなかに封印されている。固定されていて微動だにしない。シルバープリントの仕上がりは、半世紀前の塩谷定好(1899-1988)のノスタルジーを思わせるものだ[ii]。記憶をたどるようにぼんやりとした暗がりから立ち上がってくるリアリティがある。写真は凍りついた記憶だが、手ざわりの確かさは、シルバープリントの秘密として、イメージをこえた物質感を備えている。

モノとなったイメージというのが正確な印象だ。現代の写真が失ってしまった鉛色のどんよりとした重みを加えている。色を伴わないにもかかわらず、色彩をねじり込んだような、粘り気のある質感だ。陶芸の練り込み技法を思わせもする。すべては一定のリズムをもって、統一感のある共通言語を語っている。


[i] 「クアトロ・ラガッツィ 桃山の夢とまぼろし―杉本博司と天正少年使節が見たヨーロッパ」2018年11月23日(金)~2019年1月27日(日)長崎県美術館

[ii] 「塩谷定好展 愛しきものへ 1899-1988」2017年3月6日(月)~ 5月8日(月)島根県立美術館、「生誕120年記念 塩谷定好展」2019年8月23日(金)~11月18日(月)島根県立美術館


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