Slow Culture #kogei

2023年04月22日~06月25日

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA(アクア)


2023/6/9

 現代工芸16人の作家の意欲作。工芸という領域は、過去からの伝統に安住することが何よりも重要なのに、それをはみ出してどれだけ現代人として自律できるかを問う。その集団のエネルギーにまずは敬意を表する。素材と技法だけでも十分に見せものにはなる。作家はその背後にまわっておとなしくしておくほうがいいという人生論が逆転される。

 とりあえずの分類はある。陶磁、金工、染織、漆、硝子に分けられているが、素材のはぐらかしを楽しむ驚きは随所に顔を出す。デヴィッド・ビランダー《Digital Watch −Silver−》は、どう見てもダンボールにしか見えないが、金工作家だと分類されれば、それは金属なのだろう。美術館では作品はさわれないという不自由があるが、見て楽しむよりも、工芸の本来の鑑賞は、さわって楽しむものだということもわかる。

 鈴木祥太《白花蒲公英-都市の養分-》では、パソコンのキーボードから雑草が生えているのに驚かされる。金工家ならそれは金属でできているのだろうし、木工家なら素材は木ということだ。肩書きがなければ雑草を引き抜いてきてパソコンの上に置いたということになる。それだけでもインパクトのある風景だ。パソコンはすぐに雑草のようなものになるという意味を含んでもいるし、両者の関係を考える楽しみがある。なまの雑草だとすぐに朽ちてしまうが、それを永遠に定着させたいという欲望が生まれる。写真に撮っておけばいいという安直な美術論もあるだろう。しかし工芸は美術の価値観に反抗するもので、そこがおもしろいところだ。本当はパソコンのキーの間から目を出した植物がどんどんと成長するのがいいのだろうが、それは工芸の範囲ではない。アニメーションなら可能かもしれないが、動画にしたところで誰も驚かないだろう。

 へぇーという驚きは、アートに許された特権だろう。ダンボールの時計を写した携帯の画面をよく見ると、壁面に無数の小虫が飛んでいるのに気づく。壁面を見てもそんなものはいない。金工作家のつくった小さな昆虫がいる。つのだゆき《ネッタイシマカ》とある。目を近づけても見えない。ルーペを使う方がいいような鑑賞法だが、現代の映像時代によみがえってきた価値観だろうと思う。ミニアチュールが栄えた中世の世界観と比較してもいい。子どもだけでなくミニチュアカーを収集するおとなが出てきた時代世相を考えてもいい。ワンルームに暮らす作家でもできそうな可能性が開かれていく。

 西條茜《甘い共鳴》は、中が空洞になった陶芸作品である。土管と呼んでいいような反響の聞こえるかたちだ。表面のケバケバしい彩色は土管とは対極にあるが、重厚な音の実在は美術の範囲を超えている。内壁に耳を突っ込んでいくときに、同時に目も突っ込んで内感する体感が広がりを見せる。陶芸が外から見るものでありながら、内から感じるものであることを教えてくれる。


by Masaaki Kambara