坂田一男 捲土重来

2020年02月18日~03月22日

岡山県立美術館

 なかなかことばにはならないが、それでいて何とかことばにしなければならない重要なファクターを含んだ企画だと思う。岡﨑乾二郎をゲストキュレーターに迎えての「考察」と言っていい展覧会である。名品を網羅するのではなくて、絵画の暗示力を理解するために、多くのデッサンがセレクトされている。中でも「手榴弾」と「冠水」の考察が興味深い。

 確かに手榴弾なのだが、それ以上に形のもつ意味の広がりを考えざるを得ない。戦禍の中にあっては手榴弾なのだが、古代エジプトでは神殿の柱頭の飾りであり、古代ギリシャでは身体を彷彿とさせる壺に変容する。中身のありかが時代の証言者となるが、同じ外形をとどめるという点に、アブストラクトの存在理由を知ることになる。

 坂田一男を超えて時代の深層が浮かび上がる。抽象絵画というヴェールに隠された作家の深層心理が、解読者の手によって暴き出されていく。その推移は、一編のミステリーを紡ぐようにスリリングに論証されている。その点、デッサンとエスキースは謎解きの宝庫であるに違いなく、問題にもされてこなかった物件が証拠として持ち出されてくる。

 無意識に近い形であちこちに散見される手榴弾が時代の証人だったとすると、冠水は個人的体験に裏打ちされたものだ。水に浸かって剥落した痕跡が、修復されるでもなく放置される。時間を経て亀裂を取り囲むように上書きがされる。重層的な時間差が、ミリにも満たない空間に反映する。

 二度の水害に見舞われる体験は「冠水」という耳慣れない語で語られるが、これを「洪水」と呼び直すと宗教性を帯びてくる。人類は第二のノアの洪水によって滅びるとされるが、このキリスト教的予言が、画家の創作に作用したかもしれない。

 生涯で最後の個展のタイトルは「捲土重来」と題されたが、本展のサブタイトルにも用いられている。ここでは黙示録と解釈されたが、「復活」と読み直してもよいものだろう。監修者はそこに「最後の審判」のイメージを見つけていた。確かに最後に展示されたデッサンの一点は、目を細めるとルーベンスの描いた審判図の地獄に堕ちる群像が見え出してくるように思った。ロダンの地獄の門であってもよいが、新生を願う叶えぬ夢の混沌を映し出しているように見える。ただのコンポジションに過ぎない素描がもつ、中央画壇から距離を置いた自負と悲哀もないまぜになったような情念に感銘を受けた。


by Masaaki Kambara