第7章 マニエリスム

マニエリスムの理念/ヴァザーリの仕事素描論/マニエリスムの原理/アカデミー/マニエリストたち/ポントルモ模倣とゆがみ/寓意と空々しさ/マニエリスムの国際化/アナモルフォーゼ

第306回 2022年7月15

マニエリスムの理念

 晩年のミケランジェロのスタイルに端を発したマニエリスムは、デル・サルトロマーノポントルモロッソパルミジャニーノヴァザーリと個性的な画家を数多く輩出する。一方でエル・グレコに見るようにイタリアを越えて各地に伝播される国際マニエリスム様式として広がりを見せて行く。

 一般にマニエリスムと言われる時代がある。レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロという三人の巨匠が去り、その後始末をどうするかという話である。ルネサンスにひとつの山があるとすると、盛期ルネサンスというのが山頂部分をかたちづくるが、それは1520年で終わる。この前年にはレオナルドが亡くなり、続いてラファエロが亡くなってしまう年である。そのあとの作家たちがさあその後どうしようかというのが、ここでの話である。

 ミケランジェロはその後ひとり40年近く生きるが、彼は天才からさらに神のような存在として祭り上げられていく。三人のやった仕事があまりにもできすぎてしまっていて、あとの者が太刀打ちできない、何をやっても巨匠三人がすでにすませてしまっていて、自分たちのアイデンティティを築くだけの気力もなくなってしまっている。

 この現象が16世紀を通じて続く。それをマニエリスムという。英語ではマンネリズムというので、いわゆるマンネリといわれている概念のルーツになるものだ。マンネリとはどういうものか。パターン化していって独創性がなくなってしまうということだ。ラファエロには折衷主義的な様相はあるが、レオナルドやミケランジェロは自分自身で何もないところから出発した。ミケランジェロであればひとつの石を芸術に変えてしまったとか、レオナルドではカンヴァスに生命を与えていったとか、無から有を作り上げていったという評価がある。

 彼らの仕事があまりにも大きかったのでその後の画家たちは、結局はまねをするしかなかった。いかにうまくまねるかという点に主眼がおかれていく。だからコピーということが制作の基本形になってくる。16世紀段階で、ことに後半期にいろんなものをヨーロッパ中眺めると、どこにでも出てくるのがミケランジェロスタイルだ。ミケランジェロはことにシスティナ礼拝堂に天井画と壁画を描くが、そこに出てくる人体はかなりゆがんだ独特のスタイルをもつもので、そのポーズが反転していたり、さらにゆがみを加えられてヨーロッパ中のあちこちの絵に伝播してゆく。

 見るからにミケランジェロのまねというものだ。ところがまねをする、コピーをする者の論理もあって、ひとつは居直りでもあり、自分たちはたいしたことはできないぞといって居直ってしまうと、これはこれでひとつの美意識になっていく。そこが現代受けをしているところでもあって、マニエリスムの画家たちが描く絵を見ていると、実に力がこもっていない。

 ミケランジェロの絵そのものは、ある種の毒を含んでいて、迫力があって肌に突き刺さるものがある。マニエリストもミケランジェロふうの絵を描くのだが、そこには生気が感じられない。空々とした、あるいは命を失った人形のような感じがする。献血をしすぎて血の気が引いた表情に似ている。色使いについてもレオナルドでは中間色を多用して、原色はあまり使わなかったが、マニエリスムになると、その兆候はミケランジェロにあるが、原色をかなりどぎつく使う。オレンジやブルーやピンクなどの色である。

 それは自然の色というよりもいかにもつくられた色であり、色彩感覚はカラフルになっていくが空々しく、人工物という感じがする。自然なものとは決して言えない。これがマニエリスムのベースになるが、かつてマニエリスムということばで言われたときには、ルネサンスの下降現象だというので、生気がない時代だとされた。しかし20世紀の後半くらいからマニエリスムの再評価が高まってきて、それはそれでなかなかおもしろいというふうになってきた。ポストモダンに先立って、マニエリスムの評価がなされている。

第307回 2022年7月16

ヴァザーリの仕事

 ここでの作家を見ていくと、そんなにたいした作家はいないように見える。知名度からいうとレオナルドやミケランジェロクラスのものというのはほとんどいないようだ。たとえばマニエリスムの第二期にヴァザーリが出てくるが、この人物は画家であり建築家であり、いろんなことをした人だが、名前として知られているのは「美術家列伝」を書いた美術評論家あるいは伝記作家としてであろう。

 ヴァザーリの書いた列伝が、イタリアルネサンスを学ぶベースになっている。ヴァザーリがそれを書いたのはその生涯1511年から74年までのうちであり、執筆はちょうどマニエリスムの真っ盛りにある。ヴァザーリが物心ついた頃には、レオナルドもラファエロも死んでしまっている。彼らの偉大さだけが作品として残っているし、神話へと至る伝説が築かれていく。

 そういう伝説をまとめていくというのがヴァザーリの仕事だ。それは運命付けられていたことでもあっただろう。ヴァザーリはその時代までイタリアで蓄積されてきたジョットあたりから以降の遺品を自分の目で綴っていった。何が良くて何が悪いかという判断にすぐれた目をもち、名品を列伝ふうに書き連ねていった。いわばそれができる稀有な時代にいたということだ。

 もちろんそんなものが書けるというのも、偉大な時代が過ぎた後の人の仕事なわけだ。たぶんそれはヴァザーリがいなくても、誰かが手がけた仕事だったにちがいない。巨匠が去って一段落ついたその時代、ヴァザーリ自身は自分たちのいる時代が決して下降線をたどっている時代とは思っていない。いつも実作者は自分のいる場が時代的には上昇気流にあると思っていないと、なかなか制作活動というのはできないものだ。

 作家の生涯でもそうだが、ふつうは一番の適齢期がそれぞれのジャンルであるものだ。もちろん作家によれば晩年になればなるほど優れた作品ができあがっていくということもあるだろう。たとえば富岡鉄斎(1837-1924)などの絵を見ていると、80歳をすぎたくらいのものが一番いいという。ただの長命だけのことだといえば元も子もないが、熊谷守一(くまがいもりかず1880-1977)の場合もそうで、技巧をこえた年齢ではとどまるところ「へたも絵のうち」という真理に至る。ふつうは適齢期というのは絵の場合はかなり早く想定される。だいたいは20代にピークに達してしまい、それから後は惰性で絵を描いているという作家も多い。

 しかし作家自身の立場から見れば、そんなことを思いながらは決して絵を描いていないわけで、20代の頃に描いたものなどは自分自身では否定してかからないと、今の仕事ができない。その意味ではヴァザーリも自分たちのいる時代は、歴史的に見ればイタリアルネサンスという山があったら、それが下降線をたどっているとしても、そうは感じるわけにはいかないということだ。

 ヴァザーリが書いた列伝のなかで非常に客観性をもって語れるのは、ジョットからはじまってレオナルド、ラファエロがなくなる頃までで、そこからあとの評価はどうも少しずつ食いちがってきている。もちろんその時点でのいわゆる現代作家を取り上げるケースも多いし、まだそれがしっかりした評価がなされないまま、自分の目を信じて採点していったということだ。それが百年たち二百年たった今、結局はうずもれていってご和算にされてしまっているという作家もずいぶんいる。

 しかしジョットからはじまるというイタリアルネサンスの原型をつくりあげたのはこのヴァザーリという人である。その意味では実に目がよくきいた人で、そしてルネサンスをまとめあげていきたいという使命感を持っていた人といえる。

 ヴァザーリは伝記ふうの逸話とともに芸術論もまた展開している。キーワードのひとつに「ディセーニョ」があって、イタリア語で素描、デッサンという意味だ。これが大事で、とにかくデッサンさえできればオールマイティだという考えにつながっていく。これがことにレオナルド以降のマニエリスムの画家たちの考えとして定着していく。デッサンを重要視してそれがすべての芸術の父であるという見方だ。いわばそれはマニエラ(手法)であって、それを身につけさえすれば、恐いもの知らずというオートマティックかつシステマティックな制作法である。

第308回 2022年7月17

素描論

 それは素描というジャンルが独立していく流れと呼応する。マニエリスムからバロックあたりまでのイタリアの素描を集めた展覧会は今でも頻繁に行なわれるが、素描というジャンルが大手を振って歩きはじめるのが、このマニエリスムの時代だ。イタリア語ではディセーニョという語をあてるが、単なる下書きではなくて、構想を含んだものだった。美術の基礎だとすれば、それをフランス語でデッサンと言い直してもよい。構想を前面に出せば、英語を使ってデザインといってもよい。

 素描は何にでも化けることができる。ミケランジェロは素描をたくさん残しているし、レオナルドも膨大なスケッチブックを描いている。ミケランジェロの描く素描は彫刻家の視点があり、レオナルドは自然科学者の眼、ラファエロは画家の視点と、三者それぞれちがったものだが、それがベースになっていかようにも発展ができるものとして、素描論が綴られる。レオナルドの素描は観察記録だが、今見ると完成作以上に所蔵したいものだ。

 素描そのものをコレクションとして集めはじめるというのも、この16世紀の中頃から起こってくる現象だ。それまでは下絵、下書きという程度でそんなものを美術愛好家はコレクションしたりはしなかった。同時に版画が素描から複数できあがって、安価で普及していくという流れが同時並行で形成されていく。自然観察に根ざした「写生」という概念は少なくとも中世にはなかった。下書きや荒描きは素描の前提となるものだが、それ自体が独立するものではなく、完成とともに廃棄される消耗品だった。もちろん備品台帳にも財産目録にも登場しない。しかし素描が独立してからの空々しさを思うと、下書きの方に豊かな感性を見出せることになる。今日の絵本の原画展を思い浮かべてもいい。覚書の断片や書簡の走り書きで残される空海の書を引き合いに出してもよいだろう。構えて掛け軸に収まろうとする気位がない日常性に書の核心はあるはずだ。

 ミケランジェロやレオナルドをマニエリストたちはまねるが、ふつうコピーはあまりよくないと考える。しかし彼らに言わせるとまねがどうしてよくないのだという開き直りの論理を展開していく。なぜ悪いのか。彼らが考えたのは、自分たちのいる世代はレオナルドもミケランジェロもラファエロもそれぞれがした仕事がどんなものかを知っている世代だ、彼らのものをすべて吸収すればそれ以上のものがつくれるのだという理屈だった。

 今まではレオナルドは自然観察によって、自然にあるものを絵にしてきた。自然観察を絵にするというのは大変なことで、それ以降の画家はレオナルドが自然観察をして、それをすでに絵にしてくれているのだから、自分たちは直接自然観察をして絵にするということをもうやめてしまってもよいと考えた。確かにそれによって自然を見る目がなくなってしまうということだが、美術の発展の流れとしては、当然であることは確かだ。芸術は自然から学ぶわけではない。芸術は芸術に学ぶのだというわけだ。

 このことを理解するために、日本にはじめてオランダ語が江戸時代に入ってきたときのことを考えてみるとわかりやすい。彼らはとにかくオランダ語を読みたい。そこで書いたものを読むためにまず辞書をつくっただろう。読みたいということがまずあって、辞書をつくる。しかし辞書をつくるのに相当なエネルギーを使うことになる。やっと何十年かを費やして辞書ができあがった。そして次の世代は何をするか。その辞書を頼りにしてオランダ語を読んでいっただろう。ことばの習得というのはまず辞書をつくることからはじまる。

第309回 2022年7月18

マニエリスムの原理

 マニエリスムがやったことは、自然に基づいてレオナルドやミケランジェロがつくってくれた辞書を使いながら、自分たち自身の文章をつづっていくことだったのではないか。一からもう一度新たにちがう辞書をつくるというのは、それこそ何十年がかりの作業だ。レオナルドといえどもひとりで築き上げたのではなくて、ジョットあたりから百年二百年をかけてできあがってきた自然観察をまとめあげたに過ぎないとも言える。

 これから先は一から自然を絵にするのではなくて、自然をいったん素描にしてくれているものを、うまく組み合わせながら絵をつくりあげていけばいいという考え、つまり転用に目が向いた。こういうやり方というのは、実はモダニズムが崩壊してポストモダンが1980年代くらいに出てきたときの状況と似ている。このとき何をやったか。ひとつは「引用」という、いろんなものをつぎはぎしながらひとつのものをつくった。自分独自の新しいものを、オリジナリティを強調するのではなくて、そういうものをつぎはぎしていくという方法をとった。ちょうどマニエリスムの思考方法と似たようなことが、20世紀にも起こってくる。それをお手本主義と言い直せば、日本では家元制度のことであり、書道や茶道や華道に通底するもので、アカデミズムを形成していく。現代の書道展でも私のような素人の目には見分けはつかないが、王羲之(おうぎし)としか思えないような名作に頻繁に出会うことになる。マニエリスムの原理に従えば、王羲之のマニエラを手に入れると、王羲之は時空を超えてひらがなもアルファベットもハングルも書くことが可能となる。

 マニエリスムの頃に、そっくりまねはしていないけれども、どう見てもこれはミケランジェロの姿かたちをしているというものがあちこちに出てくる。これが実は彼らの手腕である。そうするとそれは独創性ということではないのだけれども、ミケランジェロふうに絵も描けますよ、ラファエロふうにも描けますよというようにいろんなスタイルをその場その場で使い分ける能力が、マニエリスムの作家たちのめざす方向性になった。

 レオナルドやミケランジェロには未完成の作品が多い。何かをつくろうと思っても、いくら頭をひねってもそれ以上進まず、途中で投げ出してしまう。作品は完成されないで未完成のまま残ってしまった。それに対してマニエリスムの作家はスピーディにものをつくりあげていく。ミケランジェロふうのものをうまく組み合わせて、まるでミケランジェロがつくったかのようなものをつくる。それには苦労がない。いかに楽に時間をかけずに簡潔にものがつくれるか。今日はラファエロふう、明日はレオナルドふうというように、器用にスタイルを変えて自分のものにしてしまっていくという能力が求められたのである。

 これはいわば現代の「ものまね歌手」の志向性をうかがわせる。そこで問題なのはうまく歌を歌うことではない。いかにうまく似せるかが決め手となる。それもひとりでは話にならないで、いかにレパートリーがたくさんあるかが問われる。

 もうひとつは自然なものを解体していくということから、人工的なものをめざすことになる。レオナルドがつくりあげていったのは非常に自然なかたちのもので、遠近法を使っているが一方で遠近法を逆手にとって足下からキリストをとらえたマンテーニャのような作品が生み出される。あのようなドキッとするアングルを意識的に多用していく。かたちをゆがませていく。遠近法そのものもトリックなのだが、人の目を意識的にだましていく、それをおもしろがってやっていく。アナモルフォーズというゆがんだ画像を用いた実験がマニエリスムの時期に繰り返される。

 人工的なものをおもしろがることから、原色を使って絵が描かれる。現実世界には原色がそのまま目に入ることはないが、自然から分離した、乖離したものとして色の持っているシンボリズムを読み取らせていくということだ。そして自然主義からどんどん離れていく流れをかたちづくる。

第310回 2022年7月19

アカデミー

 さらにレオナルドやミケランジェロは、自分たちは一代限りのものだと考え、弟子を取ったりして後継者を養成するというのはなじまない。イタリアルネサンスの工房のシステムではレオナルドもミケランジェロも師匠がいたのだが、ふたりについては全く自由人であり、自分たちの弟子を育てて、自分たちの考えを受け継いでもらおうとは余り考えなかったのではないか。大きな注文を受ければ工房を組織しなければならないし、ミケランジェロは慕われて工房を組織する。レオナルドにも工房の名は知られるが、それは小規模で家内工場のように寝食を共にする家族のようなものだった。

 それに対して次に出てくる世代は、この二人は神のような存在で、人間を超越したものとして祭り上げていくというところから、これを学ぶ対象として用いていく。学べばレオナルドの域まで達するというシステムづくりをマニエリスムの画家たちはやりはじめていく。これがアカデミーというシステムである。アカデミーというのは美術学校ということで、それができあがってくるというのは天才が去った後の世代のことだ。レオナルドはひとに絵を教える気はなかっただろう。レオナルドもアカデミアの語を用いているが、学校組織ではなく知的好奇心を共有するサークルのようなものだったようだ。

 それに対してヴァザーリあたりから出てくるのは美術というのは教えられるものだという考えである。美術などは教えられないもので、限られた天才がつくりあげていくものだとレオナルドは考えただろう。教育システムをしっかりしていれば美術も教えられるし、そうすればレオナルドの域まで達するとアカデミズムは考えた。

 そこに美術学校なるシステムが出てきて、そこで中心になっていくのがデッサン教育だ。デッサンさえしっかりしていればオールマイティだというのは、このあたりから出てくる。それが19世紀のなかばくらいまでは続いていくことになる。そうしたアカデミーのシステムを逆につぶしていくという流れが、近代以降の絵画運動となっていった。とにかくマニエリスムのなかで育ってきた考えかたとしてはデッサンオールマイティ論が中心になっている。

第311回 2022年7月20日

マニエリストたち

 マニエリスムの草分けになるひとりにピエロ・ディ・コジモ(1462c.-1521)がいる。あまり知られない作家だがいくつか奇妙な作品を残している。「アンドロメダの解放」(1510)では神話のいろんなイメージが錯綜していて、ユニークな怪物も目につく。影響関係はよくわからないが1510年代に出てくる。時代的にはマニエリスムには少し早い作家だが、近年興味をもたれている作家のひとりだ。彼のもとからアンドレア・デル・サルト(1486-1531)とポントルモ(1494-1557)が育ってゆく。

 マニエリスムの基本的な流れとしてはラファエロ没後に後を継いだ作家たちからはじまる。アンドレア・デル・サルトはラファエロの助手のひとりだ。テクニシャンでドラフトマン(素描家)としての力量がさえる。色彩的にはマニエリスムの出発にふさわしい原色的なものが目立つ。マリアのオレンジ色の衣服やブルーや赤など原色に近いものを使う。代表作「アルピエの聖母」(1517)では下の台座にレリーフとなっている怪物(アルピエ)が特徴的だ。聖母子がいてキューピットの表情は豊かで、髪の毛が縮れているあたりは、顔立ちもラファエロあるいはその原型のレオナルドをうまくまねている。テクニックとしてはうまい作家だが、いろんなものを寄せ集めていて自分自身の独創性ではいくぶん欠けるようにも見える。ラファエロのような晴れやかな気分は見られず、憂鬱な気分が漂っている。

 「洗礼者ヨハネ」(1523c.)では少年の裸体が目立つ。聖母子像の場合はキリストと同じくらいの赤ちゃんで表現される。ヨハネ自身は十字の杖を持っている。多くは毛の衣を羽織っているというのが見分け方だが、ここではことに少年の姿で表現されるというのはひとつには少年のもつ裸体、女性の豊満なものではなくてまだ大人になりきらない少年のみずみずしい肉体に対する賛美やあこがれが底辺にはあるようだ。これはレオナルドにもあったものでそれを引き継いでいるようだ。ダヴィデ像でも若々しい青年像で表現される。宗教的なテーマではあるが、少年愛の美学に裏打ちされている。

 同じくデル・サルトの壁画として描かれた「最期の晩餐」(1520-25)がある。レオナルドのものをベースにつくりかえたものだが、何人かはレオナルドふうにしている。キリストを中心に、それに詰め寄る者、それと無関係にひそひそ話をする者がいる。手や指の表情でうまくドラマに仕上げていくというのは、レオナルド作品を踏襲している。ここではひとりだけ席を外れているのがユダで、レオナルドではユダを隠しこんでいたのと対照的で、古いスタイルに戻ってしまっている。上方の手すりに無関係な傍観者が二人登場するのもおもしろい。

 ジュリオ・ロマーノ(1499?-1546)の場合は遠近法を極端に駆使し、目だましのトリックに挑む。ことにマントヴァにあるものは特筆に価する。マントヴァにはすでにマンテーニャの有名なイリュージョン表現があったが、こちらはパラッツオ・デル・テ(茶の館)の壁画として描かれる。ことに「巨人の間」(1532-4)に描かれたスペクタクルは興味深い。下から眺めあげるようなかっこうで短縮法で描かれている。色彩的にも派手やかで、巨人の間では神殿が破壊されるところがリアルに表現されている。建物の壁面を使って描いてあるので、実際の円柱と絵に描かれた円柱が崩れていくところが重なり合い、現実と非現実が交錯する。従来の安定した壁画空間に揺さぶりをかける。実際の建物とイリュージョンをうまく組み合わせて、絵画なのだけれども三次元空間に仕上げている。

第312回 2022年7月21

ポントルモ

 ヤコポ・ダ・ポントルモ(1494-1557)はマニエリスムの代表的作家のひとりだ。この頃の作家がどんな人となりだったというのを綴った興味深い本をルドルフ・ウィッカウアー(1901-71)が書いている。「数奇な芸術家たち―土星のもとに生まれて」(1963)というタイトルで、これによるとマニエリスムの作家は変わり者が多くて、ポントルモについてもいくつかの逸話が残っている。絵を描きはじめたらそれしかしない。こもってしまって人を寄せつけない。誰にも会わないで絵に没頭する。食べるものはまとめてゆで卵を何十個もつくってそればかり食う。人目を避けるのに木の上に小屋をつくり、あがってしまって梯子を引き上げて人が寄りつけないようにするというのだ。中世以来の職人とはいえない、一風変わったアーティストという呼び名にふさわしい奇妙な人格がこの時期に誕生したということか。食事のことばかり書き連ねた日記が残っている。その日常の羅列は見ようによれば一編の詩のように響く。

 もちろん宗教画ではあるのだが、画面をうねる曲線が目に飛びこんでくる。人工的につくられた構図が特徴的で「十字架降下」(1525-8)では十字架から降ろされているポーズはミケランジェロの彫刻のある一方のアングルから取られたものだろう。あちこちでそれらを組み合わせながら、色彩的にはカラフルな、ことに目だったピンクを使う。それぞれに人物の顔立ちを見ていると、奇妙な印象を与えるし、目がふつうよりも丸くて空洞でぬけているような感じがする。空虚が全体的なポントルモの特徴となっている。

 目がくぼんで真っ黒になってぬけている人物は「エリザベートのご訪問」(1528-9)にも出てくる。エリザベートが右、マリアが左に、さらに別の人物が二人出てくる。足下を見ているとレオナルドやミケランジェロならしっかりと大地に踏ん張っていただろうが、ここでは浮いているような感じが強い。こうした浮遊感、安定していないでふわふわ浮いているような感じがマニエリスムの特徴にもなっている。色彩的にもグリーンやオレンジが目に飛びこむ。浮遊感と重量感は交互にやってくる。マニエリスムとロココは浮遊感を好んだ。マニエリスムの浮遊感はバロックになると重量感に変わる。そこではルネサンスとバロックは重量感という点では共通している。同じ重量感ではあるが両者には静と動のちがいがあるようにみえる。一方マニエリスムとロココの浮遊感にちがいについては、液化と気化の差ではないかと考えている。マニエリスムは形式に従って固形を溶かせ流動化させたが、ロココは固形を一挙に気化させ蒸発させてしまったように思われる。加えていえばマニエリスムで液体化した形体が、バロックでは身をねじりながら急激になだれ込んでゆき、ロココでは軽やかに一息に上昇する。

無原罪の宿り」というような聖母が空中に浮かんで垂直方向に降下する主題は、バロック時代に盛んに描かれた「聖母の被昇天」が螺旋状に上昇していくのに比べてロココ的にみえる。両者の図像は非常によく似ているが、一方は死後の天上に向かう上昇、他方は神の母として天上より降下してくる姿である。「聖母の被昇天」ではなりものいりの壮大な交響楽が聞こえてくるが、「無原罪のマリア」は軽やかな室内楽がふさわしいように、私には思える。アンドレ・マルローは交響楽と室内楽の対比を、ルーベンスとワトーになぞらえたことがある。映画「メリーポピンズ」は冒頭、傘をさしながら静かにロンドンの街に降りてくるが、「無原罪の宿り」を下敷きにしたものだと考えると、名前も確かにマリアの英語名だったと気づくことになる。

 「エマオのキリスト」(1525)も宗教テーマだがその扱いは従来とは異なる。サンタ・フェリチタ聖堂の壁画「受胎告知」(1527)は今ではフレスコ画をはがしてカンヴァスに貼りつけられており、以前に日本でも展示されたことがあるが、ここでも聖母マリアの丸い目は特徴的だ。左側にいる天使はシルエットになっていて、スポットライトがあたるような感じで、これもそっくりの素描が残っていてポントルモの技量がよくわかる。ここでも天使は地に足がついていないようでつま先が立っている。天使には羽根が生えているので浮かんでいてもいいのだろうが、受胎告知では珍しい。

第313回 2022年7月22

模倣とゆがみ

 ロッソ・フィオレンティーノ(1495-1540)の「エテロの娘たちを救うモーゼ」(1523c)では、うごめいている肉体のそれぞれはミケランジェロに種があるように見え、あちこちから取材してそれを合成しているようだ。しっかりとした構図ではなく、人工的につくられた不自然な構図に見える。

 「十字架から降りるキリスト」(1521)では、十字架から降りかけているキリストがいて、マリアとマグダラのマリアが悲しみ、ここでも人物そのものが重力をなくしてしまって、それぞれが宙に浮いているような感じだ。ルネサンスの基調はいかに人間の重みを表現するかであったはずなのだが、ここでは重みをなくしている。それぞれのかたちは、筋肉もしっかりとついているが、人物が命の重みを持って重力に耐えているという感じは全くしない。それはできなかったのか、あるいは効果としてねらったのかということすらよくわからない。同じロッソの「マリアの結婚」(1523)はラファエロが似た構図を描いているが、それをベースにつくりかえたものだろう。

 パルミジャニーノ(1503-40)は特徴ある卵型の顔立ちの女性像が印象的だ。フランス語ではパルメザンと呼ぶがチーズの名と同じで、意味はパルマ出身の画家ということだ。「長い首の聖母」(1535)は図像的にはいろんな解釈がある。ここではキリストが寝そべるが、聖母子の表現としてときおりキリストがだらんとしたかっこうで描かれる。死んだように見えるが、ピエロ・デッラ・フランチェスカでも似たようなキリストが出てきた。意味合いとしてはピエタ像の置き換えと考えられる。キリストは生まれたとたんに人類の罪を背負って死ぬ運命を担わされたということを前触れとして予告するということだ。後ろに白く長い古代ふうの円柱があって、聖母の長い首とイメージの上で対応している。しかしよく見ると円柱は下部では八本の列柱であるようなのに、上部ではなぜか一本しかない。十字架を刻みこんだ卵型の壷はマリアの顔の卵型と対応しているようだ。後にキリコの描く人物像にも結びつくようだが、それが意味するところは不明のままだ。マニエリスムの頃の絵は読み解く絵がずいぶんと多い。意味不明なもの、何か意味がありそうだがよくわからないというものの宝庫だ。

 パルミジャニーノにはまた「自画像」(1523-4)とされるものが残されている。ずいぶん若い先ほどの少年愛の美学を地で行っているような風貌だ。21歳というには少年の面影を残している。若すぎる顔立ちは、レオナルドの描く聖母子でマリアを少女のように若づくりで描いた「ブノアの聖母」(1478)での思考を踏襲しているようだ。凸面鏡を使って自画像を描く。そうするとカンヴァスに手を向けているところが拡大されて見え、それがおもしろかったのだろう。凸面鏡に写されてくるゆがんだ世界がマニエリスムの特徴的なモチーフに成長していく。画家は今まで自画像を描くのに鏡を見てきたはずだが、なぜこれまで鏡が描かれなかったのか不思議な気がする。「弓矢を研ぐキューピット」(1531-4)も少年のもつ初々しい感じがよく表現されている。下に顔をゆがませた天使が二人いるのもおもしろい効果を生む。37才で没するが、天才の没年にはふさわしい一仕事を終えた年齢だった。ラファエロもゴッホも同年齢で没している。

第314回 2022年7月23

寓意と空々しさ

 アニョロ・ブロンツィーノ(1503-72)も似通った色彩感覚とモチーフづくりを試みる。「愛の寓意」(1545)はロンドンにあるが、クリーニングをされて明るいきれいな絵になった。ここにも複雑に絡まるいろんな意味があるようだ。中心にいるのはヴィーナスだ。ヴィーナスが弓矢を手にもって、キューピットが彼女に抱きついているが、その口づけはお尻を突き出して奇妙なポーズだ。話としてはキューピットのもつ矢をヴィーナスが取り上げたようで、その後ろで頭を引っかいているのは嫉妬の寓意像だ。ヴィーナスは手にリンゴをひとつもっている。後ろにとろんとした目の少女がこちらを見ている。手にミツバチの巣をもっている。甘いけれどもチクリと刺されるということで、愛を意味付けるもののようだ。足元を見ると怪物であることがわかる。

 後ろでひげ面の頭のはげた白いひげの男性像がいるが、この風貌は土星(サチュルヌス)に共通したものだ。いつも土星は年老いて頭のはげた白髪混じりの男で表現される。土星はメランコリーの遊星だとされる。この考えは新プラトン主義によるもので、この時期の絵画の思想的なバックボーンである。そこでは絵は見るのではなくて読むものだという。絵画を思想にまで高めようとするジャンル間の闘争の結果でもある。

 これは愛の勝利の寓意が、いろいろな角度から語られている。後ろの土星はヴェールをはごうとしている。土星は「土」を支配するものであり、また「時」を支配する神でもある。時間というものを、ヴェールをはぐということで表現しようとした。ヴィーナスの足元にある右下には仮面のようなもの、左下には口づけをする鳩が出てくる。意味が通じない限り、それらは謎めいたシュールな世界の小道具にすぎない。

 「聖家族」(1540c)ではレオナルドやラファエロのものを越えてしまって、薄ら笑いを浮かべる不気味さが、冷たい感じのする女性像に対応している。キリストと洗礼者ヨハネが口付けをしているが、これも顔立ちや体つきはレオナルドふうだが、何か意味ありげなものとして見えてくる。ヨゼフは立派な男性として表現される。すでに見たように中世以来の伝統では老人として描く場合が多いが、ヨゼフがじょじょに復権してくる流れのなかにある。

 ブロンツィーノには肖像画も多くあって、力量があることはそれらを見ていればわかる。衣装の表現力は天下一品だと思うが、モデルの持っている空々しさや冷たさは、生気が感じられないというのが全体を通じていえる。当時の知名人を描いているのだが、それ以前のいかにも血が流れているという肖像画とは異なり、一風変わった生命感のない人形のような特徴が見られる。冷たい感じのする人物像が多いのは一体なぜなのだろうと思うが、それがマニエリスムの時期に特徴的に出てくる効果であり、ことにブロンツィーノの人物のなかに数多く見られる。

 ポントルモやブロンツィーノの描く人物像の空々しさは、形式美を下敷にしながらも、感情を排した会話と、人工的な色彩で、独自の世界を生み出した小津安二郎の映画世界に通じるものがある。赤をポイントとして効果的に画面に点在させる。小津の日記も残されていて、ポントルモと同じく、毎日の食事のメニューを丹念に記録している。小津安二郎と黒澤明は日本映画の美意識を二分するが、これを対比的に見れば重厚な形式を保つ黒澤はルネサンスのクラシックに、小津はクラシックに肩透かしを食わせるマニエリスムの様式を担っているようにみえる。

第315回 2022年7月24

マニエリスムの国際化

 イタリアからはじまったマニエリスムは、この時期にあちこちに流れていく。各国のスタイルがあるがスペインに流れていったのがエル・グレコ(1541-1614)。彼は英語ではザ・グリークつまりギリシャ人という意味で、ギリシャに生まれヴェネツィアで学び、スペインに向かいトレドに住みつく。本名はドメニコ・テオトコプロスという。スペイン美術は彼からはじまるが、イタリアのヴェネツィアで起こったマニエリスムの様式をスタートとしているということだ。

 17世紀になるとスペイン美術は豊かな人体描写を備えた一大勢力に成長していくが、16世紀ではエル・グレコのように人体が細く引き伸ばされている。一説によるとグレコが斜視だったからという説明もある。病気が原因で絵画スタイルが決定されるというのはおもしろい事例ではあるが、自然の身体を人工的にゆがめていくというのがマニエリスムの様式なので、時代の流れのなかからも当然説明できるものだ。マニエリスムは時代そのものが斜視だとも言える。グレコも色彩的には黄色や緑、青、赤をどぎつく使うので、その意味でもマニエリスムの流れのなかにどっぷりと浸かっていたことは確かだ。

 もうひとつは人工的なものを組み合わせて、ダブルイメージにするという流れが周辺で出てくる。イタリアでもジュゼッペ・アルチンボルド1526-93)という画家はヴェネツィアで仕事をしていて、やがてプラハに行く。ルドルフ二世(1552-1612)というハプスブルク家の変わった血筋の特異な世界に入りこんで行く。スペイン王家も変わった人格を輩出するが、血縁関係で結婚を繰り返した結果だとも言われる。政略結婚を繰り返して築き上げたハプスブルク家の栄光の代償ということだろうか。彼らは共通して奇想を好んで収集していくが、スペインではフェリペ二世(1527-98)が現われ、一風変わったフランドルのヒエロニムス・ボスのコレクションにのめり込んでいく。

 プラハもハプスブルク家の同じ血筋にあり、地域的には隔たるが、共通の土壌にあり、類似したコレクションを形成した。アルチンボルドは宮廷の要求を満たすために、自分自身が描きたくて描いたというよりも、皇帝の趣味にしたがったということだろう。四大元素を使って人物とダブルイメージと重ね合わせる。「」では魚のオンパレードで人物の肖像を描く。木や岩や山をじっと見ていると人の顔が浮かんでくることはよくあることだ。そういう人間のイマジネーションをくすぐるようなものとして、ダブルイメージを多様化していく。それは偶然の効果をねらったエルンストのシュルレアリスムよりもダリのそれに近い。

 同じ頃フランドルの作家も版画や素描を通じて盛んにメタモルフォーゼを試みている。そこでは岩のなかに顔が隠しこまれている。洞窟(グロッタ)のなかの木が朽ちたところには必ずこのように見える一角がある。それを忠実にスケッチしているのかとも思うし、意図的にそういうふうにやっているようでもある。

 岩が人間の顔に見えるというのはヨーロッパだけではなくて、中国でも山水画などで、ヨーロッパよりもずっと古い時代にずいぶんと行なわれている。自然のなかに人間を見てしまうというのはたぶん人間の習性なのだろう。柳を見ていると幽霊が見えるというのが、日本人の文化のなかにもある。そういうダブルイメージの系譜というのは、その後ことにダリなどがシュルレアリスムの文脈でおもしろがって意識的におこなうものでもある。

 ダリは非常に意識的に行なうが、16世紀では意識的にやるというよりも、自然のなかにそういうものがあり得るぞという自然観でもあり、自然のなかにそれを見つけ出したというほうが正しいという気がする。それを絵画空間のイリュージョンのなかだけではなくて、現実に彫刻として表現するという試みも、マニエリスムの時期にボボリ庭園をはじめ洞窟をあしらって登場する。ボマルツォの庭園には遊び心でつくられた大きな口を開けた怪物がおり、そのノドチンコがテーブルに化けている。ガウディのグエル公園にも似たような洞穴がある。

 洞窟という発想はマニエリスムに特徴的なものだ。魑魅魍魎がそこには潜んでいるような、一種の怪奇趣味、ミステリアスな場所である。それを人工的につくり上げていく。当時でいえばきわめてモダンな現代ふうの庭園の一角を古代の廃墟や密林のようにつくり変えていく。人工庭園といっていいだろう。このイメージは西洋では大きな口を開けた地獄と同一視される。西洋文化のルーツをなす巨石文化のなかで、ことにストーンヘンジが私の目には歯の連なりに見えたことがあったが、それもこの連想に由来する。

第316回 2022年7月25

アナモルフォーゼ

 アナモルフォーゼ(歪像)の一点では、正面から見ればよくわからないが、横から見ると人物が浮かびあがってくるというものがある。絵というのは必ずしも真正面から見るものではないというメッセージでもある。絵は写真を撮るなら真正面から撮るものだ。ところが実際には見上げて見る場合もあるし、真横から見る場合もある。真横から見たときに正しく見える絵というのがあってもいいのだと意識の転換がこの時期に起こってくる。

 上下ひっくり返しても顔になっているというものもある。ある作品では一方ではフランス語でヌッソムトロワ、「私たちは3人だ」と読める。下のほうはドイツ語でウンゼルジントドライ、やはり同じ意味だ。ここで私たちは三人だというが、いるのは反対向けても人間に見える道化ひとりだけだ。逆向きの人物も加えるとここにはふたりはいるが、3人目はいない。よくこういうやりかたはあって、実は3人目は見ているお前だということである。

第三者として安心していた鑑賞者を取り込もうとする手法は、映画史ではヌーヴェルバーグの視点である。映画の登場人物が映画内の役割から離れて、観客に向かって語りかけるのである。彫刻の作例でも同様に私たちは5人だと書かれるがそこには4人しか人物はいないというものがある。そこにいるのは愚者の風貌をもった人物であり、最後の愚者はお前さんだというわけである。

セザンヌの「カード遊びをする男たち」を例にとって考えてみる。これは真横からふたりの男をとらえているが、これが正面を向いた男がひとり、こちらを見ながら座っていたらどうだろう。タイトルの「男たち」は見ている者を含んでいる。トランプをする男たちのひとりとなるのである。セザンヌの世界観が重力に支えられたニュートンの物理学だとすれば、鑑賞者を巻き込んだ新しい世界観はアインシュタインの時代が見つけ出した不安定な宇宙の魅惑に満ちたものともいえる。見ている者を巻きこむこうした空間づくりは、現代では歌舞伎でも取り込まれて、タイムスリップして笑いを誘うものとなっている。感情移入をしていた観客を現実に引き戻し、ヴォリンガーふうにいえば抽象衝動をいだかせることになる

 アナモルフォーゼでは遠近法を逆転して引き伸ばして描くというのは、図式的にはできる。そこでそれを円柱にそってゆがませていくと、シリンダーの鏡を通して正しい像が見えるゆがみの絵が現われる。図として描けるので誰でもできるものだ。中国にも同じような発想の絵がでてくる。ここでも中に金属の筒を立てて、そこに映った像を見ると、女をうしろから男が抱えこんでセックスをしているあぶな絵に出くわすことになる。とんでもないものが見えてくるということだ。本体をなくしてそれを取り囲むシステムだけが残る。これがマニエリスムの特質である。言いかえれば「骨」のありかを知ろうとはしない「皮膚」の表層的感覚を楽しむ文化だったといえるだろう。それゆえに「鏡」や「貝殻」はマニエリスムにとって格好のモチーフとなった。貝殻への興味は近代になっても引き継がれるが、日本では三岸好太郎(1903-34)が強い反応を示した。そこでは「ピエロ」や「」や「マリオネット」もまた命の抜け殻として共通のテーマを繰り返している。


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