第14章 ネオダダ

オブジェとアクションラウシェンバーグ:存在と不在のあいだ/アンデパンダン展/河口龍夫の実験/闇の缶詰/デュシャン:英雄伝説/不在の力/中西夏之のパフォーマンス/「絵画」の問い直し/額縁だけのタブロー/デュシャン伝説/再制作/レオナルド神話/ジョーンズ:抽象としての具象/文字と数字/消印有効/消されたデ・クーニング/月の石/ダンボールの機能/クリスト:パッケージの変容/梱包の意味/洞窟のたとえ/浮世の画家

第161回 2022年2月15

オブジェとアクション

抽象表現主義とポップアートをつなぐ位置にネオダダの作家たちがいる。重要なのはラウシェンバーグとジャスパー・ジョーンズだろう。それに先立って出発点にいるのがマルセル・デュシャンである。アメリカの現代美術に大きな影響を与えたひとりとして、デュシャンの名が君臨している。フランス人でありヨーロッパでのダダの運動のひとつの柱だ。ニューヨークにわたってニューヨークダダを展開する。

はじめは絵画らしい絵画を描いていたが、やがてオブジェの概念にとらわれて、最終的にはチェスをするだけの人となってしまう。チェスプレイが芸術表現だという考えにまでに至ったようにもみえ、現代美術としてのパフォーマンスを先取りしていたともとれる。

オブジェはモノそのものであり、さらにその先には何もつくらないような制作理念もうかがえる。チェスをして遊ぶということはひとつの「行為」であり、しかもきわめてコンセプチュアルな生産性を内包している。その後のアメリカ美術の先取りをひとりでしてしまった感がある。絵画運動からは抜け出てしまって、ヨーロッパではダダと同じくイタリアで出てきた未来派の立ち位置とも共鳴している。美術を出発点にはするが、演劇や音楽などターゲットをひとつに絞らないで、拡散していく。

最終的には作家が動くこと自体がアートになる。そこでは抽象表現主義のもつアクションを基軸にして、次のポップアートで顕著になる無機質な、人間の感情を排したような、現代ならではの生産品(商品)をアートの世界に導入してきた。感情のないコカコーラの瓶や缶詰の缶など無機質なものが絵になる。湿り気を帯びた表現と、その対極にある乾ききった現代の製品が、結び付けられる。オブジェはフランス語でアクションは英語であることを思うと、それぞれはフランスからアメリカへ移動する デュシャンの軌跡に対応した概念だった。

第162回 2022年2月16

ラウシェンバーグ(1925-2008):存在と不在のあいだ

1950年代半ばから「コンバイン」(結合)という概念で両者をつなぐのはロバート・ラウシェンバーグの制作である。コンバインによって、鑑賞者は見る対象から目を移すことになる。それまではモノに目を向けていたが、これからはモノとモノとのつなぎ目が気になりはじめる。

「関係」が問われるのは、もう少し時代がさがってのことだが、ラウシェンバーグによって先駆けられたとみてよい。ながらくおもしろがられてきたオブジェの思考を停止した。モノからコトへという推移を読み取るとすれば、ハプニングからパフォーマンスへと興味を移す現代美術の動向がみえてくる。

絵画から離れてコンバインそのものへと移行する。コンバイン・ペインティングという名称ではまだ絵画なのだろうが、そこから大きく遊離していく。舞踊や音楽とのコラボレーションが、この理念の到達点だったようだ。舞踊団をひきいたマース・カニングハム(1919-2009)の公演では、音楽のジョン・ケージとともに、ラウシェンバーグが美術監督として参加している。

それは「担当」ではなく「参加」である。担当は義務と責任をともなうが、参加は自発性の産物だ。あらかじめ仕組まれたものというよりも、ジャズの即興のようにその場での一期一会のパフォーマンスがめざされる。参加とは場を共有する偶然のことで、目的地を同じくして乗り合わせた列車内の光景を思い起こせば、その豊穣な絵になるドラマの誕生が理解できるものとなる。

コンバインはいろんな日常品を貼り付けるという点では、コラージュの延長上にある。それらは国旗や標的やアルファベットや数字などと同様に人間が生み出したものだが、人間の感性を寄せ付けないクールな収集品だった。レディメイドのオブジェだけが独り歩きして感情をもたない存在を組み合わせることで、今までにない新しい美意識を生み出す。

首をかしげた犬の見慣れた置物が画面につながれている。軽い驚きを感じる一瞬だが、スーパーマーケットの入り口に犬を結び付けて、買い物に入ってしまった飼い主を思い起こすと、日常を宿した異化空間が出現する。ビール瓶のイメージなどもジョーンズが使いはじめるが、その流れをその後ウォーホルがコーラで受け継ぐということになる。

 ネオダダではポップなイメージと、それとは背反する表現主義的なタッチの粗さが同居する。やがてタッチをなくしていく方向が、ポップアートとそれ以降には出てくる。ネオダダではまだアルファベットを書くにしても、筆跡の残るような、絵の上の質感を重視している。画材でも古代エジプトで使われていたエンコースティック(蜜蝋)を用いて、重厚なマチエールに仕あげている。

立体物の場合も、量感のある固体という点では、柔らかな彫刻(ソフト・スクラプチャー)を構想していく流れを築いていく。彫刻は固いものと決まっていたものだが、柔らかいという概念を導入すると、布を使った造形として工芸に近いような肌触りの領域に拡張していく。領域を掛けもったり横断したりする流れが出てくる。秩序を問い直し固定概念の破壊をこだわりなく推進するのがダダから受け継いだ本領だと思う。

第163回 2022年2月17

アンデパンダン展

同様の考えかたは日本にも入ってきて、ネオダダ・オルガナイザーズという組織に展開していく。「読売アンデパンダン展」(1949-64)を舞台にしての活動だった。篠原有司男、工藤哲巳、荒川修作(1936-2010)というスケール感のある大いなるキャラクターのもちぬしが登場してくる。インパクトの強いギョッとするような造形だが、今でも篠原の「ボクシングペインティング」(1959-)は引き継がれ新機軸の展開も見られ、アクションを売り物にする点で、60年代よりも過激な様相を呈する。いずれにしてもあっと驚くようなものを生み出すことが求められた。

アンデパンダン展はパリでの「落選者展」(1867)にまでさかのぼる保守的伝統を築いている。落選者たちの逆恨みが前衛精神となって暴走する。入選作と比べてみてくれと主張するのだが、興味深いのはヒトラーがそれを裏返して「退廃美術展」(1937)を企画したことだ。そこでは開催意図がレジスタンスからさらしものに置き換えられた。どちらも大衆の支持を確信してのことだった。国内の美術館から所蔵品が集められた。意味不明のゴミのような絵に大金をつぎ込んだ公立美術館の暴走を告発しようとしたが、それは現代日本でもみられる前衛美術の受難の光景だ。みずからジャンクアートと名乗り、ゴミだと自嘲することもあるが、ゴミかどうかの判断は鑑賞者の眼力にゆだねられている。

略称読売アンパンは、誰でもが出品できて、既成の美術概念をひっくり返すような運動だった。主催者側が寛容だったこともあって、普通なら即シャットアウトされるものが混じっていく。この展覧会を通して前衛作家が育っていく。登竜門にもなっていくが、誰でも出せるので審査が厳しいわけではなく、選りすぐった名作というものではない。

ごった返しているなかでは、とにかく目立たなければならない。そのためには音や臭いのするものであったり、パフォーマンスを加えたりして、美術の概念を壊し、問い直していく。日本では少し遅れての1960年からのスタートだった。大まかにいえば50年代後半がネオダダの時代で、60年代に入るとポップアートに入れ替わっていくという流れである。

第164回 2022年2月18

河口龍夫(1940-)の実験

京都でのアンデパンダン展の出品作の一点に河口龍夫の「関係」(1970)がある。よくこんなことが思いつくなと感心する。出品にまつわる四種類の受付票が作品となって、展示されている。タイトルには「関係」とあり、それぞれに受付印が押されている。どんな作品だったのだろうかと考えはじめるとおもしろくなってくる。出品受付でのやりとりを思い浮かべるとさらに興味が増す。出品などはしていない極めてラジカルな概念芸術だと思っていたが、じつはそうではない。出品票は概念ではない。概念ではないことを証明する物証である。

物質としての作品が確かにあって、その受付票だと考えるのが普通だが、半世紀もたつと受付票自体が古色を帯び、オーラを放ちはじめるのだ[i]。もちろんあったとしても、その作品自体でさえも消滅している場合が多い。蛇が自分の尾を食い続けると最後はどうなるのか、あるいは嘘つきのつく嘘は嘘か否かを問うときに感じる得体の知れない不在感に、それは似ている。

おもしろいのは蛇が尾をかじり始めたときではない。かじり終わったときが、最も興味深いとすれば、そのとき蛇の本体は確かにあったということだ。伝説だけが独り歩きする神話上のモンスターにも似て、美術の誕生以前、妄想は人の脳裏に深く刻まれていたにちがいないことを教えてくれる。記録が伝える教訓は、最後に残るのは記憶ではなく記録だという、実に常識的なことだった。ここには考え抜かれた思想が横たわっていることは確かだろう。

 2010年に倉敷でおこなわれた「螺旋の時」と題した展示がある[ii]。およそ現代美術むきではない美術館を縦横に用いた意欲的な展示に、まずは驚かされる。一階から五階までの展示室と階段、日頃は閉まっている裏の通路や非常階段も総動員されている。導線をつくるのは、天井から吊り下げられ、蛇行しながら上昇していく鳥の群れだ。一列になって先導している。雁行する流れに沿って五階まであがる。上り詰めたところに鉛の「ベッド」が置かれている。展示室にベッドが持ち込まれると、異様な雰囲気がただよう。見てはならないものを見たような後ろめたい感覚と、のぞき見の欲望が、そこでは交差する。帰りは途中から脇にそれて、非常階段に入り、螺旋階段を下ってくる。手すりには、無数の鉛の「蓮」 が咲いている。上りへと導いた「鳥」も実際には鉛に覆われた羽根ぼうきで、先端には、植物のタネが埋め込まれているようだ。鉛という無気味な物質が、生命を封じ込めている。


[i] 「コレクションルーム 秋期展」2020年9月26日~11月29日 京セラ美術館(京都市)

[ii] 「螺旋の時 河口龍夫展:倉敷芸術科学大学退任記念展」2010年7月10日~9月26日 加計美術館

第165回 2022年2月19

闇の缶詰

一階の展示室には、闇を封印した「ダークボックス」が二基置かれている。黒い箱は、頑丈なボルトで封印され、開くと爆発する地雷のように不気味に見えている。光を通さない鉄のなかで、闇は発育する。封印された闇を見ようとしてヴェールを開いた途端、闇は消え去る。発想は「パンドラの箱」からくるのだろうが、浦島太郎の玉手箱に似ている。開くまでは確かに闇はあったのだ。この場合の闇とは、夢や希望のことだとすればわかりやすい。希望とは、つかもうとした途端に、指のあいだからすり抜けていくもののことだ。もちろんそれは「時」と言い換えてもよい。のぞいてはいけないと言われながらも、のぞいてしまった伝説は多い。すべては闇を見ようとした人間の悲劇を語るものだ。

ダークボックスとは「闇」の缶詰のことだが、缶詰にしたから中が闇になったと見るのではなく、闇の中を手探りで制作されたからこそ、闇が封じ込まれたのだと解釈するほうがいい。暗室での写真の現像作業は今では薄暗がりでおこなわれるが、本来は闇のなかで手探りでなされるものだろう。中身が「無」であるということは、多くのことを教えてくれる。点・線・面を考え続けたのはカンディンスキーだが、それらはともに無の存在のことだ。画面に点を打った途端に、点は消えてしまう。点は点でなくなってしまうのだ。点には面積はなく、面には容積はない。平面も同じで目に見えたときには、いつも立体になっている。面は厚みがゼロのことを指し、それは目には見えない。

 ぽつんと一台置かれた「ベッド」は誕生を意味するのか、死を意味するのか、眠りを意味するのか。いずれにしても生と死を共に許容する魅力ある装置だ。そしてそれもまた闇に関係している。本来は闇の中にあるはずの秘儀を展示室の光のもとに 置いた違和感も、ダークボックスの意味作用と共通している。ベッドは実はもう一基ある。それは中間点の三階に置かれていて、そこでは輪郭をなす不在のヒトガタの周縁から無数の蓮が発芽している。タイトルは「睡眠からの発芽」とある。そしてこれもまた発芽でないとすれば、無数の矢が突き刺さった死者の残骸に見えなくもない。イメージの上からは東洋の針灸の神秘に近い。確かにベッドは生と死を許容する。

 非常階段は、たぶん降りるためのものだ。螺旋階段を降りて重い扉を開くと入口に戻っていた。ここでの展覧会名「螺旋の時」とは、闇の胎内を手探りでめぐる「善光寺参り」であったようだ。そしてはたと気づいたことがある。もしもこれを反対に回ればどうだったのかと。もちろん入口では脇道は閉じられていたので、導線はひとつしかない。鳥に導かれて上に向かうしかないのだ。五階まで上がって引き返すとき、非常階段の扉が開いていることを確認して、引き込まれるように奈落に落ちていくというストーリーになる。蓮の咲く階段は、真下の水盤につながっていた。仏教的世界観のパロディと受け止めていいのだろうか。

そして会場を去るときにもう一度「鳥」を見ることになるが、このとき実は上に向かって上昇する羽根が、こちらに向かって飛んでくるナイフであったことにも気づく。上昇は実は下降でもあったのだ。行く道を導くナビゲーターは、背を向ければどこまでも追いかけてくるターミネーターになってしまうというアンビバレツのなかに、どうやら真実らしきものが見えてきた。これまで制作してきた作品をつなげてこの場の特性を際立たせる。一期一会の邂逅が鑑賞者の記憶に定着する濃密なパフォーマンスだった。

第166回 2022年2月20

デュシャン(1887-1968):英雄伝説

前衛芸術では最初に手掛けた人だけが意味があって、何でもないようなことなのに、二度目三度目では意味がない。そういう典型のようにもみえる。しかし何でもないだけに、その人がやったからこそ意味がある。展覧会場に便器をもち込んだりするのも、今では語り草になっていて、いろんな解釈が成り立つ。マルセル・デュシャン自身はこれが正解であるという提示はしていない。解釈が多様であればあるほどおもしろがっているというふうでもある。

最晩年ののぞき穴から見る「遺作」は、一種の「仕掛け」であり、今日のインスタレーション的な発想にもつながっている。デュシャンの発言やメモが残っていて、読み取るのは難解だが、深い読み取りが可能だ。アメリカではその後の現代アートのきっかけになったという点では、デュシャンの人となりは身近に接した者にとって、一歩抜け出た大きな存在だったにちがいない。

オリジナルがなくなってしまっているというパターンは、ダダが芸術を破壊する運動であるがゆえに理解可能だ。そこには残らないのが普通であり、残るほうが特殊であるという前提がある。美術館に保存するというのではなく、その場限りのものとして成立する。便器が意味を成すのはデュシャンが出品したその展覧会の場だけであり、あとはそれの記録と記憶だけが残る。作品がないことから伝説が誕生する。不在のチカラといってよいものへの期待といえる。今では記録は写真だけではなくて、再制作も行われている。

 日本でも大正期の前衛運動やその後、斎藤義重(1904-2001)などが、戦前のものがほとんどないというので、戦後もずいぶん経ってから、本人が記憶と写真に頼りながら再制作を試みる。もちろん企画はビジネスをともなっている。当然「再制作」の意味も問われたが、実際にはモノがないことのほうがインパクトは強く、不在を力としていたところはある。大正期の前衛運動は、ダダと同様に作品主義ではないところに意義があった。預けていたのが紛失したという斎藤本人の言説がひとり歩きする。本当に存在したのかという疑念も抱き込んだコンセプチュアルな制作風景が浮上する。

第167回 2022年2月21

不在の力

画家自身が不思議な小説を書いている。自分の尾から食い始めた蛇が、すべてを食い終えたときのように、最後がぷっつりと終わってしまう内容だが、これもまた現存しない。高齢になって新人賞を獲得するが、そのいわば「生まれ変わり」には、大正期の前衛運動の末裔として、現存しない作品を擁していた。そこには東京という震災と戦災で灰と化した虚実皮膜の現代史の真実が横たわっている。

戸籍でさえなくなった時代である。中身が空っぽという限界状況は、究極の自由を生み出した。画家だけが目をつけたわけではない。不在の語り部としての斎藤のペシミズムに、ミステリー作家も乗り合わせ、松本清張は「砂の器」(1961)、水上勉は「飢餓海峡」(1962)という具象作品に結晶させた。そこではもともと存在しない戸籍の再制作が試みられている。

デュシャンの場合、作品として展示をするために作ったものは、初期の油彩画、なかでも「階段を降りる裸婦No.2」(1912)が現存作としてつねに紹介される。レディメイドの便器「」(1917)にしてもオリジナルではないが、展示品としては存在している。オリジナルであっても大して意味はもたないもので、記憶を呼び起こす思い出という点にのみ意味がある。「パリの空気50cc」(1919)にしても発想自体はおもしろいし、パリでなくてもその場で缶詰を作れば、その場所の空気なわけだ。

赤瀬川原平(1937-2014)がのちに缶詰を使いながら、ラベルを内側に張り替えて「宇宙の缶詰」(1963)を構想するときの刺激材料にもなる。日本での読売アンパンからハイレッドセンター(高・赤・中)への道筋は、デュシャンをバイブルとしたものだった。赤瀬川は誰もがおもしろがる大衆性へと推移したが、高松次郎(1936-98)や中西夏之(1935-2016)の頭の構造は、赤瀬川の饒舌に対してデュシャンに近い謎めいた寡黙のオーラを放っている。

第168回 2022年2月22

中西夏之のパフォーマンス

 2006年に中西夏之が倉敷で企画した「霞橋を渡る二ツの環」と題したパフォーマンスがある[i]。冬に向かう寒々とした休日の昼下がり、高梁川にかかる大橋でのことだ。「かすみばし」という春先のうららかな響きをもつ700メートルほどの橋上でそれははじまった。直径4メートルもあるような鉄の円環を二つつくり、左右の橋のたもとから転がして橋の中央ですれちがわせ、別れてそれぞれが対岸にまで渡りきるというものだった。

スタッフは60名を数えるが、ものものしい警戒ぶりはさしずめマラソンや駅伝で公共の道路を使うときによく見かけるものに似ている。路上パフォーマンスということであらかじめ警察の許可を得ていたが、そこでの対応はスポーツに向けるほどには、アートに対して寛大なものではなかったようだ。「イヴェント実施のため、橋の右側をお通りください」というプラカードも用意されている。神経質なまでに通行人に気を配っていることと対照的に、このイヴェント、実は「観客」は想定していない。

わざわざ人通りの少ない橋を選んだのは、警察への届けだけの理由ではなかったようだ。ここには写真うつりのよい場所を探してカメラを移動させる撮影班も加わるが、そもそもが見せようという意志も希薄なのだから、最高のロケーションが見つかるわけもない。たまたま通りがかった自転車やバイクの通行人が唯一の観客だった。もっとも通りすぎるのが目的の橋上では、目に留めても立ち止まることはない。

それではこのイヴェントはいったい何を言わんとしていたのだろうか。中西が関係者に理解を求めた文書には「絵画の野外学習研究」のための「実験」とあり、「瀬戸内海とそれに注ぐ、高梁川河口の美しいおだやかさと、水島地区を結ぶ霞橋の形状の魅力」にふれている。間近にいると見えてこないが、遠くから客観的に眺めると、奇妙な光景に違いない。いったい何をやっているのだというのが、通例の反応だろう。それはたぶん「事故」を目撃しようとする好奇心に支えられたものだ。さらに遠くから見ると、今度は事故は風景に埋没して、見極めることも困難なものになってしまうだろう。

環を中心に考えれば、風景は背景である。しかし「環」はいつもそれ自身が見られるものよりも、何かを「見せる」ものとして機能しようとする。環がすれちがうとき二つの円環が一瞬だが、丸メガネに見えるときがあった。環には中西カラーとも言える紫が塗られているわけではない。

さび付いた目立たない鉄の環だった。それが「移動するフレーム」つまりは双眼鏡や望遠鏡と同じく、それを通して自然に目を向けようとする装置であるとするなら、主役はむしろこの環にはなく、「かすみばし」の側にある。自然の条件や社会の規制も含めて、あらゆる意味でこのイヴェントはこの橋とその環境を露呈しようとする。


[i] 「霞橋を渡る二ツの環」倉敷芸術科学大学退職記念イヴェント:中西夏之+倉敷芸術科学大学芸術学部美術学科中西教室 2006年11月23日

第169回 2022年2月23

「絵画」の問い直し

そこで改めて見直してみると、確かにこの橋が奇妙な橋であったことに気づく。立派なトラスを備えた鉄橋であるが、車は通らない。車のためにはもうひとつ別の橋が用意されている。この橋と並行に渡された車両の多いそちらの橋は鉄骨のおおいをもたない。

背の高い路線バスなどもこちらを走るが、この対面の橋からは日食を観測するように、一瞬の偶然でこの事件と丸メガネを目撃した人がいるかもしれない。松本清張の「点と線」で東京駅のホームで偶然みかけた証人のように一瞬見える何秒かがある。違和感のあるちぐはぐな風景が、このイヴェントを通して見えてくる。

立ち止まることが、まずははじまりである。「橋」は相反する意味作用を持つ適切な象徴である。もちろん足早に通り過ぎるものに混じって、景色を眺めようとするものも立ち止まるだろうが、身投げをするものだって立ち止まる。

無意味なことは、つねに何かを考えさせる手立てになる。何人もかかって移動させる「環」の回転は、いわば身障者が車椅子でわたる、安全性を確認するための歩行実験でもあった。ここに選ばれた「かすみばし」は現実の時の流れから隔離された思索のための場でもあり、それを企画者は「絵画」と呼んだ。

この環はその後、別の展覧会にも出品されるが、ただの巨大な鉄の円環ではあるが、これ以上大きくなると手に負えないが、これ以下だと意味がないというサイズだったのだと気づく[i]。パフォーマンスの道具だったが、私の目には風景を掬い取った金魚すくいのわっかのように、そのふくらんだ網の中に、シャボン玉にも似た霞橋の情景を写した円型の、絵のないタブローになっていた。この鉄さびた輪の生い立ちを私は知らないが、きっと多くの情景を目にしてきたのだろうと思う。その展覧会を見てからもずいぶん時間がたったが、いまになってそのとき見たのは二つの輪のどちらだったのかが、気にかかっている。それはよくみるとどこかがちがう双子の兄弟だったはずである。

絵画とはかつては風景を描いたタブローだったが、ここでは風景を見せる装置だった。パフォーマンスで用いた道具には、風景がこびりついている。写真術の成熟後は、枠組み(フレーム)をみせる仕掛けが絵画に置き換えられた。現代芸術は綿菓子そのものよりも綿菓子を作る仕掛けを創ることに興味を移行させたということだ。


[i] 「有為自然:岡崎和郎、伊勢﨑淳、中西夏之展」2015年4月28日(火) - 6月7日(日)岡山県立美術館

第170回 2022年2月24

額縁だけのタブロー

 タブローの時代はおわったが、それを想う郷愁は、大衆レベルではいまだ健在だ。かつては額縁が絵を飾ったが、現代では絵が額縁を飾っている。額絵と称する写真を入れ替えて、高級感のあるフレーミングを楽しんでいる。庶民に許されたコレクターとしての、ささやかな美術鑑賞の姿である。もちろん四隅にピン跡を残してすませる名画鑑賞の場合も少なくはない。

 前面にガラスが入り、フリルのついたスカートのように、装飾過多な額縁を買ってきて、季節に応じて入れ替える。着せ替え人形は、衣服を入れ替えるのであって、人形を入れ替えるのではない。同じサイズの差し替え写真は無数にある。世界の名画だけでなく、五十三枚の東海道もあるし、家族の集合写真も、わが子や孫の描いた落書きもある。

現代絵画は額縁を失って久しいが、庶民感覚は保守的で、壁を飾る絵画の機能を踏襲している。それは現代美術が失った絵画の原風景だろう。その日常風景は暴走した絵画のモダニズムへの無言の批判のようにみえる。

 大衆に根づいたテレビというシステムを考えれば、一つの額縁にさまざまな番組を、日替わりでみせるタブローとして機能していることがわかる。テレビに映し出される番組を制作するのがアーティストの仕事だったが、テレビという装置を考えること抜きには成立しない。それはアートを包括した世界観の問題となる。

第171回 2022年2月25

デュシャン伝説

デュシャンのオリジナルを見るためにはフィラデルフィアの美術館を訪れることになる。のぞき穴から「落下する水」と「燈用ガス」がなす「遺作」(1945-66)にしても仮設で展示は可能だが、見たからといってどういうこともない。人間ののぞき趣味を体感するもので、何がみえるのかと待つ時間が意味をもつ。大掛かりなものではあるが、それ自体が作品というわけではない。重要なのは見るための作品ではなくて、みせるための装置にある。

デュシャン展でのぞき穴に列をなす観客の姿は、デュシャンの目にはどう映っただろうか。みんなで楽しむ秘密の共有をデュシャンは苦笑するか、あるいは思わくどおりだとしたり顔を浮かべるのか。「秘密」と「共有」とは矛盾する言い方だが、モダンアートの方向性を伝えるトートロジーだとすれば、「前衛」を「大衆化」するという理念とも一致するものだ。「のぞきからくり」の仕掛けは、日本でも見世物小屋を飾る大衆芸能の醍醐味だった。アートを通俗性へと引き下げる戦術はポップアートの指向性と同調するものだった。

東京国立博物館でデュシャンの便器と千利休(1522-91)の竹筒が並んだことがあった[i]。美術館ではできない企画だと思うと感銘を受けた。デュシャンがチェスだけしている姿は、お茶だけ飲んでいる千利休のアヴァンギャルドと対応するものだ。デュシャンの大きな肖像が会場を取り巻き、レーニンや毛沢東であるかのような個人崇拝の気味はあるが、デュシャンの顔はそれだけのオーラをもっている。手書きメモを通して始祖の実像が見えてくる。

謎めいた反芸術の肩透かしは、嘘に塗り固められて、ますますミステリアスなものに見え出す。女装をしたローズという名の写真は、紛れもなく真実であり、ムット氏という変名も、確かに手書きで便器に残されている。便器にサインを入れるという着想については考察が必要だ。絵の表面に署名をするのはいつのころからか慣習になった。当たり前に思っている感覚は奇妙だ。モダニズムの流れの中で定着し、やがては捨て去られていく。それは売買の商標であると同時に、所有者の表明でもある。

デュシャンはそこにムットという偽名を使った。つまりデュシャンのものではないことを意味する。量産されたレディメイドにサインを入れることはまずない。この違和感は紙幣に署名を見つけたときに味わう感覚に等しい。同じ機能をもつ小切手(チェック)なら違和感なく署名をしている。自筆を加えることで自分のものだと主張するシミュレージョニズムは、デュシャンにもマンレイにも負っている。最後に点じる一点は、達磨の目のように、名人の名人たるゆえんとなる。

名言はそれがひとり歩きするわけではない。誰が語ったことばかがいつも抱き合わせにされている。「明けない夜はない」という当たり前の事実が名言になるためには、大成した人格の肉声が必要になる。デュシャンに「私は芸術は信じないが、芸術家は信じる」という発言がある。日本でも「花の美しさはない。美しい花があるだけだ」といったのは、小林秀雄だったか。抽象を嫌いつねに名前をもった具体を志向するが、その名が必ずしも本名ではないという点に、現実の虚構性を楽しむことになる。


[i] 「マルセル・デュシャンと日本美術」2018年10月2日(火)~12月9日(日)東京国立博物館

第172回 2022年2月26

再制作

消耗品なら写真でもよさそうなのに、再制作を試みる。作者自身の自作の場合はコピーではなくレプリカと呼ぶほうがいい。しかしこのレプリカにどれほどの意味があるのかという疑問も含めて、現代美術の思考を問うための拠り所となっている。あわせて日本初のTOTO製の便器がガラスケースに入れて展示されていた。美術館にはない博物館的発想だが、かえってポップアートのダダ的性格を伝えるものにみえた。現在では便器が堂々とショールームに展示され、商店街のウィンドウに並んでも違和感がなくなった。加えて便器のメーカーが文化事業に乗り出すことができたのもデュシャンのおかげだといえるだろう。

デュシャンの便器は、実際は90度寝かされているという決定的なちがいがある。寝かされることで用途をなくすのは、抽象絵画誕生のカンディンスキーの例を引くまでもない。そこにデュシャンの意図を見いだすことになる。泉にたまった汚水が逆流して先端から噴水のように飛び出すことを想像すれば、かわいいペニスをもったマヌカンピスを連想させるものとなっている。もちろんそれは偉大なイタリアルネサンスの彫刻家の制作したプットーのパロディである。

「泉」よりも「噴水」の方が、タイトルとしては正しいと思うが、いずれにしてもフランス人が憧れ続けたルネサンスからローマンバロックの彫刻が思い浮かんでくる。デュシャンを通してイタリアが見えてくる。実在の噴水を見たければローマに行けばよい。「ローマの休日Roman Holiday」(1953)はアメリカがつくった娯楽映画のタイトルである。それはアメリカ人から見た「ローマでの休日」という意味と、フランス人があこがれた「古代ローマ人たちの休日」という二重の意味を含んでいるようだ。ローマは今では都市名だが、かつては西洋に置き換え可能な国の名称だった。

第173回 2022年2月27

レオナルド神話

デュシャン神話は冷静に見ると、アメリカの時代の幕開けを飾る謎めいた脚色を含んだものだ。フランス人の三兄弟が同じほどの才能を持ちあわせていたとすれば、その後アメリカにいたかどうかの差しかないようにもみえる。デュシャンは現代美術の祖にカモフラージュされているが、実のところはアメリカ美術の祖であった。

フランス人を祖とすることでアメリカがスタートするのは、かつてイタリア人レオナルドをフランス美術の始祖とした戦術を繰り返している。場の選択は偶然であっても、アートシーンの只中に身を置くかどうかが問題となる。たまたまフランスに晩年を送ったレオナルドもそうだし、たまたまイタリアにいたフランス人画家プッサンの場合もそうだった。カラヴァッジオの時代、プッサンを評価するにはフランスが美術大国になっておく必要があった。

デュシャンがモナリザに髭をつけたのは1919年だが、その後「髭を剃られた」モナリザの市販の複製画に署名をしたのは1965年のことだ。髭をつけたときレオナルド神話への対抗意識を鮮明にしたが、髭を剃ったとき自身がアメリカでのレオナルドの役割をはたす自覚を得たのだと思う。署名はデュシャン自身がレオナルドとなったシミュレージョニズム(盗作)の証明にほかならない。アメリカの側からいうと、かつてフランスがイタリアから芸術的覇権を奪い取ろうとしてレオナルドを利用したように、アメリカはフランス人を人質にする必要があった。

レオナルド神話の成立を追跡すると、世界制覇をすすめるフランスの文化戦略が読めるだろう。同じようにデュシャン神話がアメリカで成立する。レオナルドやデュシャンはほんとうにそんなにすごいのか。こうした疑問が出てくるのも、それが神話と名づけられるゆえんだ。

レオナルドはミケランジェロやラファエロほどに人の目にふれることはなかったはずだ。どこかで大掛かりなマスコミ動作があったということだ。ラウシェンバーグを通して美術市場を拡大するアメリカの戦略を追跡した優れた研究がある。今やマーケティングを抜きに現代アートを語れないことを考えると、かつてファインアートと名づけたものは何だったのかという問い直しが必要だ。

影で糸を引く大きな力を感じるが、それをユダヤの商法であると一元化して、土地を追われた民族の復讐を読み取ろうとする者もいるだろう。人類史未曾有の恐怖が、なだれ込むように戦後のアメリカ文化を築いてきた。アメリカの映画会社の創業者を見渡して、ハリウッドという新天地で映画産業を興した背景を考えてみる。映画に手を出したのは、不動産を信じない動産のもつ不毛を愛したからだと、決めつけの納得をすることにもなる。

デュシャンの場合はまだ神話といわないほうがよいだろう。教祖的風格が去り伝説にとどまってのち、英雄はやがて神話へと運ばれていく。デュシャンを神格化し、オールマイティとみるように仕向けたものが、はたしてあったのか。

第174回 2022年2月28

ジョーンズ(1930-):抽象としての具象

ジャスパー・ジョーンズで真っ先に思い浮かぶのは、アメリカの星条旗標的だろう。それらは弱冠25歳でつくりあげられた。その後の数十年をかけて様々な制作が続くが、若い段階ですでに出来上がっていたということだ。1955年のことだがアメリカでは抽象表現主義が全盛をきわめていた時期だ。旗や標的を考えれば、具象といえば具象だが、いわゆる具象ではない。中間地点にあるあいまいな領域で宙ぶらりんになっている。原理は単純で抽象絵画を模写すれば、それは具象絵画だということだ。標的は円が何重にも並んでいる。標的と考えなければ円を連ねた抽象絵画とみなされる。

アメリカの国旗にしても、知らないものにとっては、星がいくつか並んでいて、ストライプは13本が数えられるという説明が可能な抽象絵画でもある。旗ならばはためいて、風になびくのが普通だが、平板な旗だという限りでは具象性はほとんどもたず、記号としてしか意味をなさない。抽象絵画をそっくりに写せば、具象絵画となる。それでは心に描かれた抽象世界を画面に再現しても具象絵画だろうか。心に描かれるまえに筆が動いていればどうだろうか。この原理と問い直しが抽象と具象の境界を無化していく。

標的については絵であって標的自体ではないかといわれると、そうでもなくて標的に向かって矢を放とうと思えば放つことはできる。標的としても使用は可能だ。そうしないのはジョーンズの価値が標的をうわまわっているからだ。「四つの顔のある標的」(1955)では標的の上部に人の顔が埋め込まれている。そこだけは絵画ではなくて石膏による立体物だ。枠内からこちらをのぞいているようにみえる。標的を狙うものにとっては撃ちそこなって顔に当たる可能性もある。スリリングにそんなことも考えてしまう。標的はジョーンズの作品だが、これが絵画ではなく標的であるためには、標的に矢を当てておけばいい。このことに気がついたのがラウシェンバーグだったように思う。そこからコンバインペインティングという概念にたどり着いた。

立体と絵画との組み合わせから、実際にものを貼り付けていく試みもその後出てくる。平面性といいながら立体に近いようなものを希求する。サムライのいでたちを鎧兜で現代にタイムスリップさせた野田哲哉(1980-)のフィギュアの一点では、ジョーンズの標的が胴の図柄になっている[i]。シャネルのロゴマークやノシの結びが何気なく胴にあしらわれている。この標的をねらって矢を放つ光景を目に浮かべると、撃てるものなら撃ってみろという戦国武将の豪胆な笑いがまことしやかによみがえってくる。

ポップアートでは平面性が魅力となる。抽象表現主義では画面は平面というより、ざらざらしていたりごつごつしていたりする。絵の具の塊がもり上がる。それがポップアートになるとフラットなものになっていく。その中間にあってジョーンズなどは立体物とのコラボレーションを楽しむ。その後のジュリアン・シュナーベル(1951-)の皿を貼り付ける制作などに結び付く要素がジョーンズにはある。

地図数字は好みのアイテムだ。それらに共通して通じるものがある。星条旗や日の丸には意味があるが、単なる記号に過ぎない。この落差を行き来する不条理の真理を演出する。数字なのかアルファベットなのかもよく見ないと区別がつかない。埋もれてしまうようなイメージが出てくる。明確なものではなく、ぼんやりとした色面からは合衆国の地図が浮かび上がっている。


[i] 「野口哲哉展 — this is not a samurai」2021年2月6日~3月21日 高松市美術館

第175回 2022年31

文字と数字

文字を絵に入れるのはクレーなどの絵のなかでも特徴的で、珍しいものではない。同じサイズで連続させるのは、ポップアートでのウォーホルの手法であるし、その後のデジタルアートを思わせる。作品は商品的価値を有し、オークションで高額の取引がされるが、一点のオリジナリティに向ける意志表示と美術市場の操作のゆえだろう。量産にかける方向性は一方にはあるが、ジョーンズのものはそれに対し昔ながらの美術品の伝統的香りを踏襲している。マチエールを売り物にする点で、重厚な伝統絵画の面影を残しているといえるだろう。

数字を使うのは日本の河原温(1932-2014)や宮島達夫(1957-)にもつながっていくが、そこでは無機質な数字のもつ恐怖が演出される。無機質なものに支配される有機的存在の悲哀といってもよい。やがてデジタルアートでは、すべてを0と1の組み合わせに集約させる。割り切れる論理は、人間が希求する宗教にも等しい。

河原温の日付絵画はいまだに感銘を受けそこなったままいるが、太田三郎(1950-)が郵便局で消印をもらい続ける切手のシリーズは、数字のもつ神秘主義に裏打ちされ、日頃見慣れた生活レベルの日常性だという点にシンパシーを感じとれる[i]ドル紙幣を並べるとポップアートになるが、切手という存在に目をつけたのもその延長上にある。しかし紙幣よりも上質なのは、消印というスタンプの存在で、この存在証明が、既製品を唯一無二のものにしてくれる。

切手と紙幣が異なるのは、再利用ができるかできないかにある。捺印をした途端に切手としての価値をなくしてしまう。それでは紙幣に捺印したらどうだろう。もらったほうは嫌がるはずだが、それによって所有者は限定され、他人は使用しにくくなる。そして同時に貨幣としての流通機能も損なわれる。しかし紙幣は実際には使えなくはない。ちょっとした汚れとみなせば、大きな問題ではない。使われたほうが嫌がるだけのことで、流通は可能だ。


[i] 「太田三郎-此処にいます」2019年9月28日~11月4日 岡山県立美術館

第176回 2022年3月2

消印有効

切手に目をつけたからといって、それだけでは作品にならない。執念は日々の繰り返しのなかで実現する。毎日欠かさず消印を郵便局で押してもらう。もちろんそれは存在証明となるから、この日はどこにいたということが記録される。数十年の蓄積が一堂に並べられると、圧巻であると同時に、美術が空間だけでなく、時間芸術でもあるのだと気づく。原点は数字にある。日付を記した消印だ。消印を押してもらうのを忘れた日もあったかもしれない。前の日の消印は押してはくれないはずで、このために「消印有効」という金字塔が打ち立てられてきた。仕方なくスタンプを偽造した日もあったのではと思い、丹念に展示を確かめてみる。

明るみに出ないかとひやひやしている犯罪者の姿を思い浮かべる。犯罪が時効を過ぎても明るみに出ないためには、証拠の隠滅しかなかったはずだ。それを残してしまったがために、足がついた例は多い。始末できなかった悔いが、芸術に結晶するのかもしれない。犯罪者が現場に立ちかえり、原点に回帰する里心のことでもある。

「飛んで火に入る夏の虫」は、身を滅ぼしてまでも炎と一体化しようとする恋心のことで、八百屋お七の狂おしい情念をさすことばだ。理性を超えた不条理の不可侵に芸術は存在する。文書偽造はもちろんなかっただろう。犯罪を嗅ぎつけた私のなかには、芸術はすでに誕生していたということだ。目を凝らして見つめ続けている姿が、何よりもその証拠だ。犯罪捜査官は芸術家に似ている。ミステリーはいつもアーティスティックである。

もちろんそんな楽しみかたでもなければ、消印の集積を一点一点見てゆく鑑賞者はいないはずだ。数字の深奥と神秘に向かうネオダダとの出会いの一瞬だった。ダダの理念からすれば、郵便局員として就職するという選択肢もあっただろう。

この論調でいえば馬好きのジェリコーは競馬の選手をめざしただろうし、ブラマンクは実際に競輪の選手だった。デュシャンもプロのチェスプレイヤーだったということだ。ダダのめざす行動原理に従えば板前はみな漁師になる。つまり料理はいっこうにできてはこない。アルコール中毒の治療に絵画制作が用いられたように、中毒化したギャンブラーな人格には、競馬や競輪の選手になるというのも、デュシャンの教えるダダ的対処法だった。

第177回 2022年3月3

消されたデ・クーニング

ラウシェンバーグはジョーンズと対比的に語られる作家である。「消されたデ・クーニング」(1953)は負の生産性を示す過激な作品だ。ウィレム・デ・クーニング(1904-97)はオランダ出身のアメリカでの抽象表現主義の著名な画家である。

ふつう絵は描くものだが、消してしまうことで作品化する。逆の行為をする不条理の真理がある。描かれる前のもとの白紙の状態に戻す時間性のうちに成り立っている。このとき鉛筆は消しゴムで消えるというマジックが奇跡として必要だ。加えて消される作品は著名画家のものであるという前提も必要とする。

木彫作家が制作を加速するあまり、すべてを削ってしまった姿に近い。消されたから何もしなかったと同じ状態である。すんでしまったものを見ている限りでは、何の意味もない。その間になされた行為と時間性を記憶として思い起こしながら、見つめなおしていく。そこでは神話や物語が成立しているということだ。

絵画に新しい息吹を吹き込んでいくという意味では、ダダの方向性に共通するものだろう。もちろん消された後には山のように消しゴムのかすが残るが、それは木彫作家がすべてを削ってしまった場合と同じように、ネガポジ法の原理に従っている。デ・クーニングのイメージは紙の上から消しゴムに移動してしまったということだ。高松次郎寺田武弘(1933-)にも削りかすを残したままの木彫作品がある。

画家から鉛筆画を一点もらって、目の前で消しゴムを使って消しはじめる姿を思い浮かべる。札束に火をつけて燃やすのと比べてみると、ちがうのは消されたデ・クーニングは、残されたデ・クーニングということだ。イメージは消えてしまった。にもかかわらず、いわば肉体だけは残っている。肉体は滅びても精神は不滅だという常識がここではくつがえされている。

精神をなくしても肉体だけは残っている。紙が燃えればその上に載っているイメージも同時に消えるはずなのに、今では精神は簡単に残る。映像の世紀とはそういう時代だ。ラウシェンバーグはここでそれを反芻してみせる。

第178回 2022年3月4

月の石

絵画にとってイメージとは何かを考えてしまう。「消されてもデ・クーニング」だというのは、日本では「腐っても鯛」というフレーズに対応する。新鮮が命の鮮魚に肩透かしを加えた諧謔は、絵画にとって絵(イメージ)はそんなに重要なものではないという肩透かしだった。人間の尊厳であった自由意志をくつがえす現代科学の方向性と共通するものだ。神の業だとしたこれまでの「偶然」の余地を徹底して否定しようとする。

絵画制作は素材の選択からはじまっていて、イメージメーキングの話だけではない。イメージが下地から剥がされたのは写真術のせいだっただろう。写真術は構造的には遠近法だが、表面的には油彩画のことだった。しかし油彩画はルネサンスでは写実に根ざしたイメージに目が向いたが、バロック以降は絵の具の手触りと匂いに魅せられ、目を錯乱させて身体を麻痺させた。

ミケランジェロがカラーラの山中で見つけた大理石には、すでにイメージが内包されていた。それは目ではなく岩に分け入る身体を通して見つけ出したものだ。発見は素材のせいなのか、一を見て十を知る天才のゆえだったのか。ここでもまた仏教での自力と他力の問題にでくわす。ただの石にしか見えないのに、キャプションに「月の石」と書いてあるのを感慨深く鑑賞した記憶が、私にもある。

「消されたデ・クーニング」が行為の跡形だとすれば、月の石と共通する。月に行って拾ってきた足跡が展示される。何でもない石にしか見えないが、展示するだけの価値のあるものにちがいない。説明しないとわからないが、取り立てて説明しなくてもいい。ガラスケースに入っているだけで十分だ。鑑賞者が何だろうと考え出すとすれば、そちらのほうが重要だ。

もちろんそんなにたいそうに考えなくても、本人があやまって消してしまうことは日常よくあることだ。消されたらデ・クーニングは思い出しながらもう一度描けばいいのだ。記憶喪失の状態を思い浮かべてみよう。記憶を失っていてもその人物だということにかわりはない。右手を失って左手で描きはじめた画家がいた。左手だけで弾くピアニストもいる。熟練した手は失われても、その人であることに変わりはない。筆跡を隠す脅迫状は左手で書かれるが、見破る科学捜査は今では整備されているはずだ。

第179回 2022年3月5

ダンボールの機能

便器と同じように「ダンボール」もまたレディメイドのオブジェとして有効なダダ好みの逸品だった。これの使用については、日本でもこれまで積極的に現代アートに用いてきた系譜がある。特に1980年代によみがえる。素材として魅力はあるが、仮設的で収蔵には違和感が残る。機能主義の立場ではバブル期の新宿で地下道に並ぶ、自発的な仮設宿泊所として機能したが、様々な表情をもつ可塑性の素材という点ではプラスティックに似て、デザイナーの独壇場で消耗品として定着してきた。ダンボールはみせるためのものではなく隠すためのものだ。それをファインアートに適用する点はダダ的だ。

日比野克彦(1958-)のダンボールアートは、具体的で明確なイメージを残すという点ではポップアートの系譜を読み取れる。しかしここで重要なのは扱われたモチーフよりもダンボールという素材であり、それがはらむ問題は大きい。ありふれたできあいの材料だという点ではレディメイドのオブジェであり、消耗品だという点では旧来の美術という概念への挑戦でもある。表層をうわっつらとしてのみとらえ、内面の不在が暴露される。反芸術的側面を見せながらも、大衆性を獲得し、美術品としても耐え続ける点で、80年代バブル期の日本を象徴するものでもある。

ダンボールは何にでも変身する。無宿者の建築になるというのが用の美の主張であるが、ヤンキーの着るジャンバーにしても、野球のグラブにしても、スニーカーにしても、ビッグサイズで、用をなさずにアートになろうとしている。やがてはバブルに至る80年代の幕開きに、富と同居する清貧の象徴を見事に輝かせたという点で、アートはまさに錬金術だということを教えてくれた。

泡のようにはかなく消え去って行く日本経済の狂乱は、ダンボールのもつ特性でもあった。力には反発するが水には弱い。涙にもろい日本人の心情にフィットする。ときには四畳半の室内に青々とした畳を敷いてダンボール製の茶室さえ構想される[i]

岐阜県美術館の所蔵品に日比野克彦がダンボールでつくった一回り大きい運動靴がある。塗装ははげてダンボールがむき出しになっている。荒っぽい表情はゴッホの描いた靴の後続だとすると表現主義に属する。巨大なハンバーガーを布でつくったポップアートの系譜と読むことも可能だ。展示ケースに入るとデュシャンの便器のように機能しないオブジェとなり、ダダの文脈でみることになる。もちろん地面に置けばプリミティヴィズムとして小学生の夏休みの工作に戻ってしまう。

安価なダンボールも美術作品に化けたとたんに、とんでもなく高騰する。その醍醐味はマネーゲームにも似て現代社会の縮図とみることが可能だ。機能性を重視した安価な素材を用途をはずしてアートに利用する。かつての茶の湯の精神である錬金術がよみがえってくる。

ダンボールはパッケージだが、中身を保護する機能を棚あげにして見世物にするという点では、鎧兜や刀剣を展示する姿に等しい。消耗品を備品に変える平和主義は、武器や兵器を封印する有効な手段だ。ガラスケースで手がふれない限り、戦いは美に温存される。ガラスケースは、武器は封印するが、ゴミはゴールドに変える。柳宗悦のことばを借りれば台所から美の玉座にのぼったといえる。

パッケージによって内面に宿る暴虐を無化する働きが、次に「梱包」という概念を生み出すことになる。ダンボールは梱包材のことである。新宿のダンボールの家のつらなりも、今から思うと、地下を細長く梱包したクリストの作品のようにみえてくる。1991年、新しく建った東京都庁との落差があざやかな対比をなしていた。もちろん都庁をすっぽりと梱包するほうが効果的だっただろうが、それにかかる費用だけでもせめて見積書でみてみたかった。


[i] 「起点としての80年代」2018年11月3日(土)~12月16日(日)高松市美術館

第180回 2022年3月6

クリスト(1935-2020):パッケージの変容

クリストの諸作品は、いろいろと考えさせられるところのある、しかも見ていて楽しいもので、その場限りの一瞬の輝きにかける潔さは、ダダと共通する一回限りの邂逅に根ざしている。環境アートという分類もあるが、地球をキャンバスに見立てたシュルレアリスム絵画といってもよい。難解なものでは決してない。よくわかるし、あっと驚く。おとなも子どもも専門家も素人も、楽しめる。

顔をしかめて批判的に見る人もいるだろう。地球環境がひどい状態になっている現況では、こんな無駄遣いをしていいのかという反応はあるだろう。消費社会といういいかたがある。消費経済が加速化していって、そのなかで登場したあだ花のようにみえる。節約が叫ばれる美術の冬の時代には、否定的な見方は確かにある。梱包するのに大量の布を消費するが、そんなに無駄をするならもっと使い道はあるという声が聞こえる。

本名はクリスト・ヤヴァチェフというが、クリストの名が独り歩きする。パートナーのジャンヌ・クロード(1935-2009)とのユニットだった。ブルガリアという辺境の地からの逆襲である。「ダンボール」は社会的意味を内包した素材だったが、「梱包」という概念のもつ束縛的状況も風土を抜きには考えがたいだろう。東欧諸国のもつ自由への渇望は、覆いつくすものの巨大さから察せられる。ヒトラー時代にナチスドイツに虐殺されたり、社会主義の呪縛からの解放であったり、政治状況とレジスタンスを抜きにこの地の芸術はあり得なかった。

「梱包」がもっている多様な意味に思いをはせてみる。本体を隠すこと。あるいは縛り付けてしまうこと。そこでは隠すことによって中身をみせるという背反した二重の意味がかぶされる。パッケージは隠しながら見せることで、商品の場合は包装、人間の場合は化粧という。今まで見過ごしてしまっているようなものを、輪郭をくっきりとした形で浮き出させるのも梱包のわざだ。

ボンヌフ」(1985)の場合、このパリの橋は日頃は渡るためのものであって、じっくりと見ることはない。「旧ドイツ帝国議会議事堂」(1995)をはじめ歴史的な建造物の梱包が目につくが、梱包することによってその中身をのぞき込みたい衝動に駆られる。そこでは歴史が丸ごと梱包されることになる。もちろん言葉にする意味はないが、説明をこえて、梱包の意味を誰もが感じ取っている。

第181回 2022年3月7

梱包の意味

梱包という行為はパフォーマンスであって、残るのは写真による記録しかない。そして数値化される。数字のデータは写真が伝えきれない弱点だ。何万ドルかかったとか、何百メートルあるとか、何十年かかるとか、無機質な数字がデータとして記述される。数字のデータを通して感情を排した造形芸術の特性を浮き彫りにしていく。

じかに作品に接する人は限られた少数だが、多くは写真を手掛かりにしながら、数字のデータが割り振られて、歴史的認識へと至る。それは当事者と歴史認識の対話を可視化する作業でもある。高齢化する証言者というさまざまな戦争犯罪を巡る政治的局面に共通した一大事を、美術が担えるのだという自覚でもある。

建造物の梱包からはては海岸をまるごと梱包するまでに至る。強いメッセージ性は常識をこえた規模のなかから浮かび上がってくる。なおかつ作品とは何か、この人の作品はいったい何なのだろうかという問いが発せられる。自分で梱包の布を縫っているわけではない。巨大な布を前にして現代の技術力に感嘆の声をあげる。その背後にあるのがクリストの意志のちからで、途方もないプランを実現する粘り強い行動力の勝利といえる。

資金調達は絵画制作の場合の基礎デッサンにあたるだろうし、さまざまな交渉が描画行為に相当する。梱包への思いは日本では赤瀬川原平が、やはりダダ的な虚無感をにじませながら作品化している。もちろん原型は先述したようにマンレイだった。

第182回 2022年3月8

洞窟のたとえ

写真は梱包の輪郭線をくっきりと際立たせた。角度を変えれば何が梱包されているかはわからない。写真家はひとめで見通せるシャッター位置を自然と探し出そうとしている。この輪郭線を見つける作業は、印象派をこえようとするポスト印象派のめざしたものでもあった。つまりは絵画を絵画らしいものとして復活させるという意志表示だった。

写真術とは一方向から光を当てて立体を平面に還元する行為のことだ。それは無数のフォークやナイフを組み合わせ光をあてて、壁にオートバイの影を浮かび上がらせる福田繁雄(1932-2009)の「ランチはヘルメットをかぶって…」(1987)が教えることとも通じている。題名は書き直せば「フォークやナイフはバイクに乗って」でもよいだろう。簡単なところでは、両手を使って犬の顔や羽ばたく鳥を影絵にする術は誰でも知っている。

梱包は立体を平面化する第一段階であって、次にある角度から写真に撮るという段階に移行する。それは光によって輪郭が浮き上がった影のことであり、絵画とは実はここからはじまった。壁に写し出された輪郭線をなぞる壁画のプロセスは今では写真によって一瞬のうちに定着してしまった。

プラトンの洞窟のたとえは、リアリティをもってみごとな文章で語られているが、すぐれた絵画論として受けとめることができる。オートバイを見ているだけでは、振り向かない限りそれがフォークからできているなどとは誰も思わない。絵画のイリュージョンには実体のない虚無的なダダイズムが横たわっている。

洞窟にいて壁に映る影を見ているとする。光のやってくる入口を振り返ることがなければ、バイクが無数のフォークでできていると知ることは永遠にない。ヒトは簡単には振り返らないものだ。背中に光を感じても振り返らないということが人類の教訓だったからだ。壁に写し出された自分の影におびえているとして、それを見ようと振り返っても、そこには誰もいない。光を放つ光源が見つかるだけだ。

太陽を見続けると目は焼けこげる。ギリシャには見ると目がつぶれるというメドゥーサ伝説があった。聖書には振り返って塩の柱に変わってしまったロトの妻がいた。決して振り返るなという教えがヒトの血には刷り込まれている。振り返るなというのは光源を見てはならないということであり、日本にもみごとな機(はた)を織る娘の正体が鶴だったという昔話がある。見てはならないものも見てしまい恋に陥る苦悩を描いた平安絵巻の主人公の名は光源氏(ひかるげんじ)といった。写真術は正体を知ることのない影だけを見ている状態のことをいう。そこでは梱包のひもは決してほどけないのである。

第183回 2022年3月9

浮世の画家

ダダへの傾斜のなかで、多くの画家が虚実の試行錯誤のすえに絵を捨てた。私が直接出会ったふたりの画家もまたそうだった。ひとりは斎藤義重、もうひとりは高橋秀(1930-)である。ともに温厚で社交術にも優れ、影響力のある教育者なのに、破天荒なダダ的生きかたを愛した作家だ。わずかに浮き沈みのあるレリーフ状の抽象作品であるが、非具象ではない。シンプルで分かりやすい形だ。本人は画家だといい張ったとしても木工職人とみるほうが正しいかもしれない。はじめ抽象絵画で名を成したが、絵筆を捨て電動ノコギリやドリルを手にする大工の風貌をもちあわせることになる。仕上げにはペンキ屋のように淡々とペイントをほどこす。

ともに私は高年の浮世離れをした飄々とした老師の風格にしか接していないが、それでいてカリスマ的な教祖としての魅力が、まわりを取り巻く若者たちの磁力となっていた。多摩美の斎藤教室からは「もの派」が誕生した。モロー教室からフォーヴィスムが生まれたのを引き合いに出すと、学生の能力を引き出す術を身につけた教師としての稀有な呪力を感じ取ることができる。

倉芸の高橋教室は学生が集まるいつもドアの開かれた解放区だったし、その後は私財をなげうって基金を設立し、若い美術家を支援した。成果の展覧会も開かれている[i]。教員経験のない型破りのふたりの教育は、学校教育を辟易としていた若者の純真に染み入った。作風は情念のあふれ出る抽象表現が40年にわたるイタリア生活でアルテポーヴェラと歩調を合わせるように、いつの間にかミニマリズムへと変貌していた。

高橋の定住先が、パリやニューヨークでなく、時代を逆行したローマというアナクロ都市だったというのが興味深い。時代錯誤の古都はデジタル化をこばむアナログ都市でもあって、古代ローマより変わらぬ職人の手の伝統が息づいている。加えてアナクロニズムは古代ローマ以来のグルメとワインの庶民生活が支えとする夫婦愛の美学もともなって、ゆったりとした時の流れをつちかうことになった。

絵本作家藤田桜(1925-)には「ぴのっきお」(1972)と並んで布貼り絵本「スパゲティならまけないわ」(1984)がある。夫婦の二人展とすることで夫婦漫才を理想とするユニットだと気づかせようとした[ii]。それはクリストと名づけられてもよいし、バッテリーといってもよい。ピッチャーとキャッチャーがともに強打者だというのは、高校野球以来実証されていることだ。回顧展をワンマンショーにしないことで、「素敵なふたり」が完結した。


[i] 「秀桜基金留学賞の10年 そして今」2019年1月18日~2月24日 岡山県立美術館

[ii] 「高橋秀+藤田桜─素敵なふたり」2019年7月6日(土)〜9月1日(日)世田谷美術館


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