出会いと、旅と、人生と。ある画家の肖像 日本近代洋画の巨匠 金山平三と同時代の画家たち

2023年06月03日~07月23日

兵庫県立美術館


2023/07/14

 金山平三については、これまで常設展で、小磯良平室と隣り合わせた特設コーナーで、見慣れてきたものだ。たいていの場合は、素通りをしてきたので、たいした興味も引かないままだった。今回、画業を通観して、これまで見過ごしてきた怠慢が、情けないものに思えてきた。風景画家として優れていても、とりわけ強く衝撃を与えるものではなかった。今回じっくりと見始めると、なかなかいいのだ。風景だけでなく、人物にしても静物にしても、実に柔らかなヴェールにおおわれていて、心地よく絵画の醍醐味を味合わせてくれる。花を単独で前面に大きく持ちだした筆致は、生命感をみなぎらせていて、絵画のミラクルだ。ながらく培われてきた油彩画の安定感が、いぶし銀のようにただよってくる。

 一点ではインパクトが少ないからなのだろうか。今回の展覧会で卒業制作の自画像をポスターに選んだのはわかるような気がする。この画家の仕事がはじめての鑑賞者には誤解を与え、観客動員にはマイナスに働いたかもしれない。東京美術学校の卒業制作では自画像が課題にされ、これまでも衝撃的な自画像が描かれてきた系譜がある。多くは天才を自称したひとりよがりの若気の至りに属するが、青木繁や熊谷守一のあとを継いで、ここでもその系譜をたどることができる。メガネをさげて、裸眼で射通すような鋭い視線は、老境を思わせもするが、射止めた対象を逃すことのない、画家の勝利宣言を伝えるものだ。

 仲間意識があったのは、同窓のパリ留学組だったかもしれない。金山は神戸生まれだが、共通の土壌に立ったゆったりとした風景に向ける視線が、安定感を引き出している。満谷国四郎、柚木久太、児島虎次郎といった岡山勢や姫路出身の新井完の作品が、並行して比較されると、確かに似ている。同郷の風土がもたらした信頼感が、底辺にあるのかもしれない。パリに行っても、そんな200キロほどの親近感が、左右するのかと思うとおもしろい。

 旅が制作の原動力だったことは、描かれた地名をたどるなかから見えてくる。それにとどまらないものとして、身体性を画面に定着させた芝居絵がある。三階席からのぞきみるような臨場感をともなって、舞台はリアリティーのある風景と化している。ここでは須田国太郎の舞台を描いた作例を比較材料として持ち出して、展覧会に自由な展開を導入することで、定型に陥りがちの回顧展を活性化させている。

 舞台を描くことで必然的に横長の画面が開かれることになるが、左右の視野からはみ出したリズム感を活かした作品がいくつか見られた。人物の動きが連続するような構成は、歌舞伎にとどまらす普遍的な舞踊に対する感性が見てとれた。庭先で妻とダンスに興じる映像が残されていて、軽やかなステップは、一連の横長の作品と連動するものだった。リズム感を支えるものは、クロッキーふうの素描の妙ばかりではない。階調のあるおぼろげな色彩の変化にもよるもので、闇の中から鋭い眼光をみせた青年の自画像にはない、柔和な自然への讃美と歓喜へと至ったものとみえる。

 常設展示では「虚実のあわい」と題した現代絵画でのめだまし効果をねらった作品を集めた企画もおもしろかったが、「近現代の書」での書家の前衛性に、現代アートのウケ狙いではない、真摯な魂の叫びを感じ取って、書に信頼感を得た。ながらく書については日展や県展を見るたびに、不信感をだきながら素通りをしてきた。それが年齢とともに変わりつつある。東京では相田みつお美術館にも足を運ぶようになった。兵庫県の書家はあまり知らないが、佐賀にいた頃に関心をもった中林梧竹や、福山の書道美術館でみた桑田笹舟や、金沢の21世紀美術館でみた井上有一も展示されていて、懐かしくその作風を思い起こした。書の鑑賞についてはとぼしいが、地元出身ではまずは森田子龍あたりをまとめて見ることからはじめてみようと思った。


by Masaaki Kambara