美術の中のかたち—手で見る造形

八田豊展 流れに触れる

2019年7月6日〜11月10日

兵庫県立美術館


2019/8/31

 30年前に福井県で見ていた作品とはずいぶんと違っていた。私が浦島太郎でいただけのことだったのだろうが、あの頃は金属板にコンパスで何重もの切り込みを入れて、これでもかこれでもかという力技で魅せる作品だった。当時から目はほとんど見えなくなってられたようだが、その近視眼的で触覚的な表面に、私は棟方志功の面影を投影していたように思う。ささくれ立った鋭利な切り口に、正確な円を連ねる執念にも似た苛立ちを感じ取っていた。穏やかな人だが、怖ろしくもあった。

 きょう新作のコウゾを使った「流れる」というシリーズに触れながら、当時の金属加工と本質的には変わってはいないのだと思った。ことばのそのままの意味で「触れる」鑑賞をテーマとする展示で、参加型鑑賞法ということになるが、目は閉じていた方がよかったかもしれない。柔らかで時おりささくれ立った肌ざわりは、手で触れずとも十分に目で感知できる完成度を保っている。手で見る造形として取り上げることで、企画の枠内で規定されるよりも、もっと自由に接するべきものだろうと思う。創造力が小さくまとまってしまう必要はない。何よりも「楮」という素材のもつメッセージを引き出すのに、目は必要ではなかったということなのだろう。木から紙を漉く手順は、気から神を探る作業であるだろうし、地膚から髪を梳くように、手の感触によって支えられているものだろう。自然と一体になって営まれる神事にも似ている。

 カラフルなポップアートとは対極にある厳しい自然との対話が、ここにはある。囲炉裏を囲んで昔話を聞くような、ゆったりとした時の流れを感じて、ずっとここでとどまっていたい気がする。横の流れは大海を、縦の流れは天空を想起させて、目の前に広がるディテールが、果てしなく視野を拡張させている。至近距離を見つめながらも、焦点は遥か宇宙にまで広がっているようだ。その時たぶん私は夢みるような目をしていたのではないかと思う。


by Masaaki KAMBARA