上野アーティストプロジェクト2019

子どもへのまなざし

2019年11月16日~2020年01月05日

東京都美術館


2019/11/30

 魅力的な子どもの絵に出くわした。子どもが描いた絵ではない。子どもと接したおとなの絵である。6人の画家を通して「子ども」という存在の意味を探ろうという試みである。それぞれに子どもへの体感があり、全ては真実なのだが、じつに多様なのに驚く。かつてフランスの歴史家によって、中世には子どもはいなかったという衝撃的事実を提示されて、世界が驚嘆したことがあった。子どもを慈しみ愛玩する対象として見る世界観は、歴史が生み出したものだ。17世紀になると急速に、それまでなかった子どもを描いた絵が増えてくる。折々に見せる表情の豊かさは、その後はスナップショットに収められるが、写真術の進化以前は絵画に託されてきた。ここでも人選は団体展を代表する形でなされたようで、その意味では保守的な絵画の伝統を踏襲するものだ。

 新生加奈(日本美術院)が日本画家であるとわかるのは、その所属先からだ。落ち着いた情感は、表面にぎらつきを拭えない油画では実現できない素材の特性で、それがみごとに子どもというモチーフにフィットしている。まぶしいように目を輝かせる少女の立ち姿がいい。いくぶん不安げに見えるが、自立しようとしている。ポスターになった一作で、タイトルには「少女と宇宙」とある。銀河系を背景にして、個が目覚め、自覚の時をむかえる。

 大久保綾子(一陽会) は母が子を守っている。母性は女性を超えていて、大地の母となっている。地母神とも言える安定感が、子どもの成長にとって必須の条件であることを教えてくれる。母に性がないように、ここでは子にも性はない。ジェンダーという今日的論議を超えた、もっと言えば、それを嘲笑うような響きさえうかがえる。原始女性は太陽だったというのは人権論争だが、社会運動を超えた普遍性を感じざるを得ない確信を秘めたシリーズ表現になっていた。こんな母のふところで眠っていたいと思った。生まれた頃の一時期とはいえ、そうあってほしいと願う絵である。土な香りのする色彩もいい。

 志田翼(独立美術協会)は今時の子どものもつ時代の感性を、みごとにすくいとっている。手を差し伸べながらも表情は不安げで、その先には多様な誘惑が待ち受けている。題名の「たくさん」には、唯一のものをなくした時代という意味が浮き彫りにされる。ベタな言い方だと物質では心は満たされないということになる。選択肢は多いに越したことはないという教育理念で、子育ては行われてきたように思う。何にでもなれる自由を与えることが、子どもの成長だと思っていた。高校は普通科をめざし、親は希望を託したが、子どもはいつまでたっても普通科のままだった。あるいはせめて普通であってほしいというのが、親の願いということだっただろうか。

 豊澤めぐみ(新制作協会) には「死と乙女」という古来からの耽美的な美の崩壊感覚が漂うが、あくまでも現代の感性に色つけされている。目をつむり十字に切られた棺に横たわる少女を描いた一枚「バースデー」は、誕生日に死んだ偶然を意味するのかは不明のまま、神秘のヴェールにつつまれている。制服姿であることで現代に引き戻されるが、衣服を替えてタイトルを「ウェディングデー」とすることもできるし、さまざまな記念日に置き換えることで、豊かな神話を語るものとなるだろう。美しい死を憧れる甘美な作品だった。

 山本靖久(主体美術協会)は重厚な作品で、15世紀イタリアのフレスコ画やテンペラ画を思わせる格調を備えている。子どもはすべて天使のように見える。変形の画面が効果的で、イタリアルネサンスに頻出するトンド画にしても正確な円形ではない。断片を切り抜いた印象は、楽園の一画をのぞき見た姿でもあるが、登場人物は必ずしも晴れやかではない。デリケートな感情が宿る前の原始的感覚といえるものかもしれない。全容を明かさない謎めいた過去の記憶は、旧約聖書創世記をほのめかせるが、宗教性はない。森や樹木や泉の精が息づいた神話世界の未分化が、ゆったりとした時間の流れの中で語られていく。それは繰り返し描かれたゾウの歩みにも似ている。

 木原正徳(二紀会)はマチスのもつ奔放な地中海的気質への憧れが読み取れる。形が何かを見定める前に、赤と青の色彩が効果的に目に飛び込んでくる。野に憩う姿なのに、水に浮遊するようなポーズが、一貫している。裸婦が自然なのは水の中で、野を背負うと欲望の対象になってしまう。山に育った画家は、人知れず海に神秘を描くものだ。クレーの絵を見ているとそのことがよくわかる。ここでも海を思わせるのは、みずみずしい少女のポーズ以外にはないが、ギリシャ神話に根づき、マチスやシャガールにまで引き継がれる、良き伝統の継承を読み取ることができた。


by Masaaki KAMBARA