DOMANI・明日2020 傷ついた風景の向こうに(2)

2020年01月11日~02月16日

国立新美術館


 風景のリアリティをリアリズム以外の方法で実現した成功例を二点見つけた。一つは森淳一の彫刻で、黒光りする山の峰を思い浮かべる箱庭である。見ようによれば連綿と続く波頭と見てもよい。つまり山と海は自然においては、一つのものであったのだということも教えてくれる。それは人智のすべてを飲み込もうとしている。風景彫刻といえば具象性を帯びるが、光や風や空気や匂いを、硬質な素材のもつ違和感として感じ取らせている。滑らかで柔らかな光沢は、自然が包み込む猛威を、内包するものだ。手で触れたくなる光沢は、目で撫でる触覚感を通して、光のありかを確かめようとするものだ。すべては色彩を排斥して、黒の光と化すという奇跡の中に視覚化されている。黒く光るという不条理が現実にはあるのだ。石を見つけるだけで、あるいは石を削るだけで、さらには石を磨くだけで、この祈りの造形は完結する。

 箱庭を天上から見下ろす地質学に対して、日高理恵子の描く樹木は、空を写すためのフレームの役割しかしていない。シルエットとなって、脇役になりながら、主役の不在に寄り添っている。写実というにはあまりにも淡白で、自己増殖するように、触手を伸ばし続けている。ただのシルエットなのに、自然のリアリティが伝わってくるとすれば、何気なく置かれた空のニュアンスに秘密はあるようだ。その透明感の階調の微妙は、空の高さを意味している。見上げるという姿勢がもたらす肯定感は、地に目を落とす考古学から、天文学への華麗なる変身に由来する。影と化すこと。目立たないことをよしとする世界観が、共感となって、多くの支持を獲得することになるのだろう。

 会場をあとにして次の目的地に向かう街路樹を見上げると、同じシルエットに出くわした。デジカメに撮ったが、見比べるとはっきりとした違いがあった。アートにはなってくれないのである。木を見るか、空を見るか、あるいはその関係を見るかの違いでもあるだろう。カメラはこちらの意志に反して、機械の「自由意志」を主張していた。

by Masaaki Kambara