竹工芸名品展:ニューヨークのアビー・コレクション—メトロポリタン美術館所蔵

2019年12月21日~2020年04月12日

大阪市立東洋陶磁美術館


2020/1/15

 すばらしいの一言に尽きる。竹のもつ柔軟な「しなり」が時にダイナミックに、時に繊細に、私たちに訴えかけてくる。この展覧会が大分で立ち上がった時から、ずっと気になっていた。東京でも見る機会があったが、大阪でやっと見ることができた。東京の工芸館は竹橋にあって、奥まった薄暗い立地は、名実ともに竹にふさわしい。しかしその陰気さを思うと、中之島では華やいで見えた。ロビーに広がる天井まではいあがる竹のインスタレーションは圧巻で、竹の本性のおもむくままに作家が手を貸している。それは壮大な「生け花」でもあり、会期が終わると無に帰するパフォーマンスの妙を伝えている。

 ガラスケースの中では、安宅コレクションの陶芸作品と並べられている。この美術館ならではの試みである。黒々とした重厚な壺だと思って近づくと、竹の籠で驚かされたものもある。陶芸は籠にはなりにくいが、竹芸は壺にはならない。素材の特性ではあるが、見る限りでは壺も籠もない。素材を超えて響き合う造形の競演を楽しむことができた。

 伝統工芸ではあるのだが、アビー・コレクションとしてメトロポリタン美術館に収蔵されている限りでは、用を超えた美の結晶への畏敬の念がうかがえる。アメリカ人の美意識が選び取ったボングーが、日本人のスルーしてしまっていた伝統のもつ前衛精神を気づかせてくれる。400年前の千利休は、すでにこのことに気づいていたのだと思う。竹の先を曲げただけの茶杓を、自作の極みとして作ってみせた。竹のもつ秘めやかなパワーは、出来るだけ手を加えずに造詣の境地へと至るミニマリズムにあり、この美学が利休には下敷きにされている。

かつて上野の東京国立博物館 で、利休の竹筒がデュシャンの便器と並べられたことがあった。さかのぼれば竹の伝統は古く、蘇軾の漢詩が引用され、日本では「竹取物語」にまでたどり着くものだ。平安時代が感じ取った物質的想像力は、まっすぐに伸びて月にまで達するような、子を宿す願いが、そこには内包されている。


by Masaaki KAMBARA