第9章 ファン・アイクと油彩画の出発

北方ルネサンス油彩画の勝利/タブローの成立/細密描写/ファン・アイク兄弟中世の秋/写本装飾/ヤン・ファン・アイクの出発/ヘント祭壇画/アルノルフィニ夫妻像/油彩画のトリック

第331回 2022年8月9

北方ルネサンス

 北方ルネサンスは油彩画の細密描写を駆使したファン・アイク(ヤン1395c.-1441)からはじまる。それに先だって14世紀のブルゴーニュ公国の中心、ディジョンに残るブルーデルラムの絵画やスリューテルの彫刻、さらにはランブール兄弟の時祷書を通して、香り高い「中世の秋」を味わうことができる。これまではイタリアのルネサンスを見てきたが、ここからは北方ルネサンスという領域に入っていく。イタリアと北方のちがいをまず考える。ファン・アイクがここではメインになるが、ファン・アイクが出てくるまでの15世紀初めの美術をまずは見ていく。日本ではルネサンスといってもイタリアの紹介が圧倒的に多かったので、北方はわきに追いやられていたように見える。

 ファン・アイクなどは日本でも作品はすごいなというのがわかっていても、借りてきて展示するということはほとんどない。なぜならこの時期の絵画は多くが板に描かれている。板絵は展示をするときに温湿度がデリケートで、すぐに表面がそったり亀裂が走って板が割れてしまったりする。北方だけでなくイタリアでも壁画であるなら、それ以上に借り出せない。それに今から500年前の絵であり、作品数も限られているので、日本にまでやってくるケースはまれだ。印象派のルノワールを借り出すようなふうにはいかない。日本人がじかに接する機会が少なかった。こういう分野というのは作品もそう大きくはなく、目を近づけてゆっくりと眺めてみないとよさがわかってこないものだ。その意味では版画に近いものともいえる。版画を虫眼鏡で見ていくような鑑賞の形態に近い。

 ランブールの時祷書は出発点に位置するがサイズとしては小さい。冊子になっていて現物を見るのは困難で、ほとんど展示もされていない。コンデ美術館というパリの近郊にある美術館だが、なかなか目にする機会はない。画集や複製本がずいぶん出回っているので、よく知られてはいるものだ。

 ファン・アイク兄弟の「ヘント祭壇画」(1432)は、この章で中心になる作品だ。一点といえば一点だが、たくさんの画面が組み合わされて一点の作品に構成されている。このころから油絵という技法が開拓されてくる。

 北方ルネサンスの時代を全般的に把握するのに便利な本は、ホイジンガの書いた「中世の秋」だろう。イタリアルネサンスの外観をブルクハルトから始めるのと対比をなす歴史書である。ファン・アイクが油絵を描き始めるころのネーデルラントの様子を文化史的につづっている。これを読むとこの当時の気分、実り豊かな高揚した文化の形が見えてくる。それはブルゴーニュの宮廷に花開いた一種の貴族文化で、当時のフランドルは貿易でも栄え、イタリアからいろんなものが入ってきたり、またイタリアに向けて返したりという時期だ。北のほうからはもっぱら毛織物を中心に送り出していく。さらには宝石や金工の細工物、工芸品のような細かな加工品が出された。宝石細工を現物でそのまま送るのではなくて、絵にしてサンプルで見せるということも必要になってくる。油絵という画材そのものがそういう用途に適している。

第332回 2022年8月10

油彩画の勝利

 油絵が発明されるためには、何らかの必然性があったのだろうし、必要があったからこそ、それにふさわしい画材が生まれてきた。今まではイタリアではフレスコ画やテンペラ画であったが、それらは透明感に欠けるという点があったかもしれない。何とか透明感を持ったものをつくりたい。それは宝石やグラスの輝きを手に取るような形で表現したい。そんなときに油絵が画材として開発され始めて、試行錯誤のうえ完成するというわけだ。

 今まではファン・アイクが油絵の発明者だといわれることもあったが、油絵そのものはその40-50年前にはネーデルラントでは発明されていて、ファン・アイクはそれを改良しながら大作の制作にもっていった。今では油絵の歴史が始まって500年以上たつがファン・アイクの試みたテクニックがいまだに乗り越えられていない感じすらする。技法的な進化や発展とは、いったい何なのだろうか。コンピュータの開発は日進月歩で目ざましいものがあるが、油絵などというものは年が長く続けば続くほど、技術的に進化していくものではなくて、創設のころに描かれたものが一番できはよく、その後はそれをまねるのだがなかなかそこまで追いつかないという歴史でもある。

 これは油絵の画材だけではなくて、他の分野でもいえるような気がする。技法そのものが必要に迫られて生き生きと輝いた時代なのだ。その後の仕事は、油絵のもっている乾きやすさや透明感、発色のよさなど、便利なところだけを引き継いでいく。必要に迫られるという点からは遠のき、使いやすいというところで仕事をする。利便性が必然性を凌駕してしまうのだ。そうするとそれにかける意欲はずいぶんと違ったものになってしまうだろう。その意味では先駆的な役割を果たしたファン・アイクがどれだけ質感を出そうと苦労したかという点を見ていかないといけない。それは日本の油彩画の成果として、明治の初め高橋由一の作品を前にした時の印象とも共通する。そこには油彩という画材にはじめて接した、画家自身の驚きと興奮がある。

 スライドで部分をアップで見ると、現物以上に見えることがある。現代の映像を通して油絵の質感や光のきらめきは、うまく目に見えてくる。油彩画は現代のメディアには相性の良いものだといえる。空間的にどうこうというイタリアの壁画だったら建築に付随しているものだから、それを写真にとったり画集にしたりしても、空間そのものが体験として把握できない。ところがこういう油絵の世界は版画なども含めてカメラの目で追っていくと、今まで肉眼では見えていなかったものまでも見えてくる。オリジナルに目を近づけて行けば見えてくるものなのだが、それをカメラの目で拡大していく。印刷物なら目を近づければドットが見えてしまって、斑点にしかならないけれども、オリジナルというのはやはりその威力が強く伝わってくる。

第333回 2022年8月11

タブローの成立

 北方絵画の作品づくりはまず枠があって、その枠のなかにどれだけメッセージを盛り込んでいくかというのが、勝負どころとなっていたようだ。つまりはタブローの成立ということだ。イタリアの場合フレスコ画は壁面に沿って上下左右に向かってのび、まだ足らなければ天井まで伸ばしていける。空間そのものが建築に付随して、日常空間のなかで処理される。ところが北方のものはそうではない。版画なども北方から起こって、栄えていくのがこの後の16世紀の時代である。16世紀に北方では銅版画の最盛期を向かえる。それも原理としては同じで、ひとつの枠のなかで、どれだけ多くのことをメッセージとして語れるかという点にある。だからイタリアでたとえば4-5メートル四方のなかに盛り込まれたメッセージと、新聞紙大くらいとが情報量としてはまったく変わらないということになってくる。

 同じルネサンスという名は持つがネーデルラントの画家がめざしたものと、イタリアでのそれとでは、ずいぶん開きがあったということは言える。北方では国際ゴシック様式という古いスタイルがあって、それを経てやがてファン・アイクが出てくる。そのとき出発点になるのは一枚ものの写本装飾からである。聖書がまずあって、文字があってその挿絵として絵を描く。そこから北方の場合はスタートする。いわば聖書の物語をいかに効果的につたえていくかというのが出発点だ。やがて油絵が開拓されることによって、文字を捨てて絵だけで勝負する。そこに祭壇画という教会のなかに置く祈るための観音開きの絵画形式がつくられていく。

 北方のドイツやネーデルラントで15・16世紀にあるのはほとんどが祭壇画だ。イタリアでは壁画が絵の中心になっていたが、北方では祭壇画ができることによって絵画が大手を振って歩き始めていった。もともとそれは絵である必要はなかった。中世の間は彫刻の場合もよくあった。祭壇そのものは教会内部にあるミニチュアの建築のようだった。彫刻に対して手を合わせて祈る。それが15・16世紀にかけて、絵を前にして祈るという形に変わっていく。そこでイタリアから入ってきた空間のとらえ方、三次元空間を遠近法的にとらえていくことも北方の画家は徐々に学び始めて、それに細かなテクニックが加わって16世紀に北と南が融合するようなスタイルが出来上がっていく。

第334回 2022年8月12

細密描写

 北方の場合はイタリアからの影響が強くて、それが16世紀を過ぎてからはメインになるが、ここで扱う時代は北方独自のスタイルで、逆にイタリアに影響を与えていく。ファン・アイクの絵というのは中心になるのはベルギーやオランダであるが、イタリアにもかなり早い時期に入り込んでいて、細密描写のすごさについてはあっと驚く目で見られていた。ファン・アイクに始まって最後は16世紀の後半期ブリューゲルまでの200年間を初期ネーデルラント絵画史と呼んでいる。ネーデルラントは今でいうオランダとベルギーを一緒にした地域で、15・16世紀ではまだ独立をしていなくてブルゴーニュ公国というフランス語をしゃべる文化圏に属していた。この首都は今のフランスのディジョンにあった。フランスが中心で当時はオランダやベルギーは北のはずれだが、やがて油絵というものが開発されてから、ディジョンという都のある地域よりも北のネーデルラント地方のほうが文化的には優れたものが生まれてくるという形に逆転していく。

 その後、ネーデルラントそのものはスペイン領となる。権力としてはスペインが大きくてそれに支配されるが、文化のレベルからいうとスペインよりも圧倒的にネーデルラントのほうが上で、ファン・アイクも自分自身がスペインやポルトガルまで派遣されて行って、絵を描いて戻ってくるということもあった。17世紀になるとルーベンスが同じフランドルの地でファン・アイクの外交的手腕をみごとに受け継いだ。スペインに行って肖像画制作だけではなく、絵画指導もおこなった。

 油絵そのものが出来上がった由来は、毛織物の肌触りをうまく表現できるとか、宝石や金細工を手にとるように表現できるとかいうことと、もう一つは肖像画をやはりまるでその人がそこにいるように描くという、油絵の写実性にあった。それが実用として役立てられることになる。ファン・アイクがスペインやポルトガルに派遣されるが、向こうでネーデルラントの宮廷に迎える花嫁の肖像を絵にした。画材は油彩で、乾きが早く、それをカンヴァスの上に描いて、丸めて持って帰る。

 今だったらカンヴァスといっても木枠につけられたものを考えるが、もともとの油絵は布の上に描いて持ち運びができることを特徴とした。ポータブルであることは肖像画家があちこち行って描いてもって帰る、今でいうお見合い写真のようなものとして機能していたことを意味する。現代のような油絵の芸術作品という面よりも、実際に何かの役に立つものとして、使われたということだ。それが人をモノとして扱う商品見本だとみると、お見合い相手を人として見ないで、身につけている衣装や装飾品に目が向くということにもなる。

 実際には初期のカンヴァス画は、現存例がきわめて少ない。しかし、亜麻布はネーデルラントでの豊かな生産品だったという点では、その上に油絵をのせるというのはごく自然なことだ。消耗品としての意識があったのと、素材そのものの弱さのゆえに現存のものが少ないという理由付けは納得がゆく。

 貿易のための商品のサンプルとして油絵が使われるというのも含めて、ニーズがあってそこから絵が生まれてきていたのだ。今のように作家が描きたいから描くというような制作態度はこの時期には考えがたい。もちろん描いていく中で自己主張、サインを絵のなかに入れるということなども含めて起こってくるが、作家自身が自己を主張するためでもあるし、商標のためでもある。

 自分はこれだけの仕事ができるのだ、他の者とはちがうのだという意志表示のサインは一種のロゴマークのようなもので、個人商店につけられたイニシャルと考えればよい。15世紀の後半期からデューラーはAとDを組み合わせたモノグラムを使う。作家が自己主張をするというよりも、カンパニーが商品を売るためのトレードマークとして使ったと考えるほうがよいかもしれない。今だったら作家が署名するのは自己主張のほうが強いのかもしれないが、それも考えようによれば、株式会社のロゴマークのようなものと考えられなくもない。

 そのぶん職業意識が強くなっていったころで、画家が職業として成り立っていたということだ。職業意識の希薄だったレオナルドやミケランジェロは署名にはこだわりはなかったかもしれないが、ティツィアーノにとってはサイン(TICIANVS)は重要だったはずだ。隠し落款のように画面の目につかないところに隠し込んでもいる。そのころはイタリアでもそうだが、マスター制度という徒弟制度があって、職業組合がありそこに登録をしてマスター(師匠・親方)になる。マスター(ドイツ語ではマイスター)というものになれば一家を構えて店をはることができる、一種の免許状のことでもある。それにいたるまで何年も徒弟修業をしながら、やがて独立をはたすということだ。

 今残っている画家の記録としてはいつそういうマスターになったかというものがまずはあり、それが画歴の手がかりになる。生没年が不明の画家は多いが町の記録でマスターになった年号は情報として豊富だ。早い場合だと20歳ころに独立している。それでも10年がかりの徒弟修業を積んだ上のことではある。マスターになった年がわかると逆算して生年についても推測はつく。

第335回 2022年8月13

ファン・アイク兄弟

 ファン・アイクも生年についてはわからないままだ。作品はヘントの祭壇画が最大級のものであるが、そこには不思議な謎めいた話がいくつも残る。普通ファン・アイク兄弟というのだが、兄はフーベルト弟はヤンという名がわかっていた。しかしヤンの描いた絵は知られるが、兄のものは記録としてまったく出てこない。ただ唯一出てくるのがヘント祭壇画で、そこに署名ではなくて銘文があって、兄がフーベルトであることがわかる記述が出てくる。フーベルトという人物が制作を始めて弟のヤンがこれを仕上げたのだという記述である。そのために兄がいて弟との共同制作であると考えられ、それ以来ファン・アイク兄弟の名が定着した。

 フーベルト作も想定されてはいるが確証のないままで、それ以外はすべてヤンが描いたものだとされている。フーベルトは本当に画家だったのかという疑問が出され、画家ではなくて彫刻家ではなかったかという説まである。それもヘント祭壇画の銘文の読み方に由来する。ラテン語で書かれるが、つづりがpとfが見分けがたいという点があり、その読みちがいによって、pictorと読むかfictorと読むかで画家が彫刻家に代わってしまうというのだ。そうすると絵を二人で共同制作したのではない。この祭壇画は今は絵だけが残っているが、制作当時の姿をたまたま模写したものが残っていて、それによると絵のうえに過剰なまでの彫刻の細工が施されている。

 つまりは祭壇画というのがまだ独立していく移行期の話で、もともとは祭壇が彫刻をふんだんに使って装飾されたものであったが、やがて絵だけのものに置き換えられていく中間地点にある。そうすると兄が彫刻部分を担当して、弟が絵画を担当したということで説明がつくのではないかというわけだ。兄が彫刻家なら彫刻作品がみつかってもいいはずだ。建具の職人の域にあったのか、謎を残しながらも、いまだにファン・アイク兄弟といって二人の画家と見るほうが一般的ではある。

第336回 2022年8月14

中世の秋

 ホイジンガが「中世の秋」のなかでこの時期の美術の特徴をあげていて、それを四つほどにまとめてみると、「写実主義」、「象徴主義」、「死のイメージ」、「生活のなかの芸術」となるだろうか。これらはイタリアと対応させながら見ていくと理解しやすい。写実主義というのはくそリアリズムというのか、目に見えるものを何でもかでもひとつずつ視覚化していく、隠したりせずにさらけ出していく、手に取るようにあらわしていくというものだ。しかし、手にとるようにあらわすのだけれど、それは必ずしも目に見えるものをそのままあらわしているのではなくて、それぞれにみんな意味を持っているのだというのが象徴主義である。普通は写実主義と象徴主義は相反するものだが、そこに描かれているものは何気なく描かれているわけではなくて、意味を持って読み取らせていくものだということが、ネーデルラントの絵の場合は強い。見落としてはいけないということである。そういう目で見直してみると、変なところに変なものが描かれているということも多い。

 絵を読む楽しさという点では北方ルネサンスのものは非常におもしろい。細部に神がやどるという言い方があるが、ルーペを用いて見ていくとまたもうひとつの世界が開けてくる。そういう楽しみのあり方、版画芸術なかでもとりわけ銅版画の鑑賞に近いようなものが出てくる。

 死のイメージというのは、その当時だけではなくてことに15世紀の時代、全体にわたって通じることだった。ホイジンガがここで中世人の持っている喜怒哀楽について触れており、現代人とまったくちがう中世人の泣いたり笑ったりのすさまじさ、おとなであっても男女の区別なく、泣くときは人前でもぼろぼろ涙を流すという姿が報告される。死に対する恐れが直接かたちに出てくる時代であった。

 それから生活の芸術というのは、日常をそのまま絵にしていくという態度のことで、ファン・アイクのなかに出てくる肖像画だけでなくて、細かな小道具、日常生活で使っているものをそのまま絵にしている。それもまた意味がもちろんあるということだ。

 ファン・アイクが出てくる一世代前の時代からスタートしてみよう。もともと祭壇というのは、彫刻が施されているものであった。そこにやがて絵画が大半を占めるようになり祭壇画に至る。ネーデルラントでの画家の出発点であるメルキオール・ブルーデルラム(1350c.-1409c.)の板の上に描かれた油彩画が残っている。ここでも彫刻部分の祭壇を閉じた扉に描かれたものだ。「エジプト逃避」に登場するヨゼフが、サンタクロースのような風貌をもっていてユーモラスだ。その後ネーデルラントで展開する世俗性の強い宗教表現の出発点になるものだ。

 ファン・アイクに先立ちブルゴーニュ公国につかえた宮廷画家であり、現在ディジョンの美術館にはブルゴーニュ公国の当時の王侯の墓が置かれていてブルーデルラムという画家名だけでなく、クラウス・スリューテル(1340c.-1405/6)という彫刻家の名もブルゴーニュ公国とともに記憶される。

 墓に埋め込まれた大理石彫刻はひとつずつ見ていくと丹念に掘り出されている。メインになるのは夫妻像だが、それよりもその枕もとにいる天使の表現や、台座をぐるりと取り巻いている「泣き人」に目が向かう。死を悲しんでうなだれているこの人物群像はすっぽりとヴェールで顔を隠してしまっている。それらは顔が見えない分だけ悲しみが伝わってくる。天使については顔もさることながら、足の裏を見せてそれが汚れているのも世俗的でなんともほほえましい。

 日本では墓は芸術作品とは思われていないが、ヨーロッパでは「墓の芸術」が成立している。その後ミケランジェロがメディチ家の墓などに手腕を発揮することになる。墓が芸術表現の重要な場になっていく。泣き人のポーズはさまざまで、ともに大理石によって柔らかな感じの衣装や衣紋の揺らめきを適切に表現している。日本でも翻波式として衣服のひだのなびかせかたは仏教彫刻で発展していったものだ。テクニックからいうと日本の木彫に劣らず高度の技術を要求されるのだろうが、ミケランジェロよりも遥か以前にスリューテルによって達成されたということだ。

 スリューテルの代表作は、同じくディジョンにあるシャンモール修道院の一画に置かれた「モーゼの井戸」という彫刻群だ。今では井戸は枯れて彫刻だけが残る。現代も機能する病院内にあり、まだ十分に整備されていない頃に訪ねたが、精神を病んだ患者の奇声に出くわして、聖なる水を汲み出したにちがいない、奇跡を祈るこの井戸のかつての機能を思い起こしたことがある。中心にはモーゼがいるが、上方には天使が何人かいて、井戸のまわりを彫刻でおおうようなつくりになっている。ここでも泣いている天使の表情は、感情が伝わってくるようだ。ポーズもおもしろく表情豊かで、中世人の感情描写を伝えるものとして、抑制されたルネサンス的な気分とは対比をなしている。イタリアよりも早くリアリズム表現が芽生えたといえるのかもしれない。

第337回 2022年8月15

写本装飾

 その後絵画芸術がネーデルラントで栄えるベースになるのは写本装飾によるところが大きい。「ベリー公のいとも豪華な時祷書」という作品では、時祷書なので1月から12月までのカレンダーと考えればいいが、その表紙の部分には占星術による黄道十二宮が、人体を取り巻いている。男女が背中合わせに立っており、それぞれの星座が人体のどこを支配するかを図示している。たとえば膝の病気は星でいえば何という星が支配しているのかというようなことがわかるし、占星術的な思想を表現もしている。このあとに十二ヶ月の表現がくる。

 1月は宴席の場面で、奥行き表現は十分ではないが、細かなところをていねいに描きこんでいる。様式的には国際ゴシック様式という流れのなかにある。ルネサンスの奥行きのある空間のとらえかたに向かう手前での話だ。まだ中世的な名残が強く残っている。

 2月の場面はよく紹介されるものだ。北方では早くから雪景色が絵になってくる。イタリアでは遅れるが、北方では季節感を表現するという目が育つ。日本にも季節感の表現は豊かで、春夏秋冬を描き分ける。冬枯れた寒々とした季節感を表現したという点で新しい絵だ。日本では吹抜屋台(ふきぬきやたい)と言っている、源氏物語絵巻などで壁を取っ払って室内の光景が見える絵があるが、それと同じ構造を持つ。

日本ではそれは涼しげに見えるが、西洋では雪景色に寒々としている。部屋のなかで暖炉にあたっている人物を3人描いているが、日常の風俗的な描写がおもしろい。火にあたろうとして女性はスカートをめくり上げようとしている。後ろの男性も同じようにめくり上げて、よく見ると男性のシンボルが丸見えになっている。大らかな農村の光景とも取れるが、小画面をさらにアップにすることで見えてくるという点では作為も見える。宮廷文化のなかからのものではあるが、生活感情がふんだんに盛りこまれている。

 12月では狩りの光景が見られる。ここでも寒々とした冬枯れた空気の緊迫感がうまく表現される。6月9月10月とともに背景にはベリー公がいくつも持っていた居城のそれぞれを描きこんでいる。

第338回 2022年8月16

ヤン・ファン・アイクの出発

 写本装飾という北方独特の絵画技法の上に立って仕事をしていくのがヤン・ファン・アイクである。彼の初期の作品として知られているのは、聖書の挿絵である。油彩画に入る前の若い頃に手がけた仕事だろう。写本装飾によって培われた技法が出発点となる。細かなタッチはその後の油彩画の技法にそのまま結びつくようだ。冊子のサイズだから小さい画面だが、教会内部を丹念に描きこんだものもある。本の挿絵のサイズから、やがて油絵を板の上に描きこみ始める。

 「教会の聖母」(1438-40c.)は写本から油彩画に結晶したそんな一点だ。サイズは幅14センチしかなく、写本よりも小さいほどだ。しかしよく見るとこれはきわめて写実的なのだが不自然な絵でもある。教会の内部に聖母子がいて、教会は大きなものだから中にいる人物はもっと小さくならないとおかしいが、聖母子は驚くべき大きさだ。不自然なのだけれども象徴的な表現と見れば違和感はない。ここでは超自然の光がテーマになっている。画面では祭壇が奥にあるが、通例祭壇は東を向いて置かれるものだ。だとすると左の窓は北側にあたるはずなのに、床面を見ると日溜りが描かれている。北半球では北側の窓から太陽が差し込むことはない。この絵ではあえて北側の窓から太陽光線が差すように描かれているのだ。なぜかというとこの光はキリストそのものを意味する神秘の光だということだ。

 何気なく見てしまうと光が入ってくるという日常の光景にしか過ぎないのだが、実際はありえない光だということで、そこにシンボリズムが成立していく。板の上に描かれている油絵だが、高さは40センチ足らずしかなく、アップで拡大していくといくらでも引き伸ばせるような作品だ。

第339回 2022年8月17

ヘント祭壇画

 「ヘント祭壇画」(1432)の閉じた外面は、グリザイユというが、ねずみ色の色調で描かれる場合が多い。大理石の彫刻をまねたような色彩感覚である。下段の両端にはこの作品のスポンサーであるヨドクス・ファイトという人物とその妻がグリザイユではなく、彩色されて描かれている。中央には受胎告知が描かれ、天井の低い屋根裏部屋のようなところである。イタリアの受胎告知の絵は屋外の庭先あたりを舞台に描かれることが多かったが、北方ではたいていの場合が室内である。当時のたたずまいを持った室内が描かれる。

室内を細かく見るとマリアが答える言葉が、ちょうどマンガの吹出しのように文字になっている。ECCE(見よ)の字が見えるが、この文字をよく見るとこれが逆さ文字であることがわかる。マリアの言葉というのは普通の人間の発した言葉ではないということだ。鏡を通すことによって正しく読み取れる。逆さ文字はレオナルドも用いたもので、残された手稿に頻繁に出てくる。ファン・アイクとの因果関係はないだろうが、ともに聖なる神秘を呼び込もうとしたものだ。

一方、天使の言葉はそのままアヴェ・マリアと読み取れる。AVEはひっくり返すとEVAとなる。マリアを祝うアヴェという言葉は逆になると、人類を悪の道に向けたエヴァ(イヴ)になるということだ。イヴが鏡によって写し込まれているという言葉遊びをかたちづくる。受胎告知を開くとマリアの側にエヴァ立っていて、罪に導く禁断の果実を手にしている。対面にはアダムがいるが、エヴァと対比して表情を深読みしてみるとおもしろい。

 画面の中央には金属のたらいとタオルが描かれる。これらは受胎告知にはよく出てくるモチーフだ。日常性を感じさせるものだが受胎告知をシンボライズした小道具である。窓からは当時のフランドルの町の様子が描かれる。

 この祭壇を開くと中央の上には父なる神、左にマリアが、右に洗礼者ヨハネがいる。右端にはイヴが、対になってアダムが左端にいる。奏楽天使合唱する天使が天上の世界に描かれる。地上には「子羊の祭壇」が置かれる。子羊は犠牲のシンボルでキリスト自身のことでもある。父なる神がいて子なるキリストがいて、その中間に鳩がいてこれが精霊を表わし、垂直線上に三位一体(父・子・精霊)をかたちづくる。下には八角形の洗礼盤から泉が沸いている。祭壇の子羊に向かって四方から聖人たちがやってくる。左右の画面もまた中央に向かう聖人や騎士たちだ。

 これも部分の描きこみは複雑で、いくらでも細かく見てゆける。ヘントはゲントあるいはガンとも言うが現在のベルギーの都市名、そこのシント・バーフ大聖堂のなかにある。非常に大きいものだがその教会に行かなければ見ることはできない。この時期のものはイタリアも含めて美術館ではなく教会に多くが置かれている。これを見るために観光客はヘントにまで足を運ぶ。

第340回 2022年8月18

アルノルフィニ夫妻像

 ヘント祭壇画に見る光の輝きは油絵というテクニックのなせる技だ。これはフーベルトとヤンの合作とされるが、ヤン作として残るものでよく知られるのは「アルノルフィニ夫妻像」(1434)である。これも図像学の宝庫と呼べる一点だ。謎めいた絵は本来の美以上の価値をもつ。多弁さが沈黙の美を凌駕してしまうのだ。はじめは何を描いたものかはよくわかっていなかった。ヤン・ファン・アイクの自画像だという説もあった。というのは背後の壁に鏡があって、その凸面鏡にこの二人が背中向きに写っている。その上に文字がかかれていて「ヤン・ファン・アイクはここにいる」と読める。そのためにヤンとその妻がここにいるのだとだれもが考えた。

 しかしその後いくつかの重要な事実が突き止められた。それによると、この人物は特徴ある顔立ちをもっていて、イタリアから来てブルージュにあるメディチ家の代理店にいたアルノルフィニという人物であることがわかった。それではここにいるというヤンはどこにいるのか。この人物ではなくて鏡のなかにいる別の二人の人物のどちらかだということになった。1434年という日付ももったこの文字の解釈をめぐってさまざまな考察がなされたのである。

 ここでも謎めいているのは一本だけロウソクが立っていること。スリッパが脱ぎ捨てられていること。これらも意味があるにちがいない。凸面鏡には後ろに戸口があって、そこにモデルとなった男女の他に二人の人物がいるのが見える。その内のひとりがヤンだとするとなぜ二人いるのかという疑問も起こる。そのとき図像学者が目をつけたのは当時の結婚のシステムだった。当時結婚するときに二人の立会人が必要だというのである。この絵そのものはアルノルフィニ夫妻が結婚をしたときに、その結婚を証明するという二人の立会人がいて、その一人がファン・アイクだったということだ。この署名は二人の結婚を見届けたという証明書の役割を果たすことになる。身長差のある二人は特徴的で、のちの「ロランの聖母」(1435c.)にも登場する。ファン・アイク兄弟ではないかという推察もある。

 ひとつの絵の解釈をめぐってずいぶんと多くの知の結晶を必要としたという話だ。これを凸面鏡のなかに隠しこんでいくというおもしろさがその後も影響を残していく。ファン・アイク以降、鏡をいかに使うかということが油彩画の課題になっていく。ここでも窓枠にオレンジがひとつぽつんと置かれている。リンゴかもしれないが、それならば原罪の象徴で、禁断の果実となる。細部の読み取りをめざすシンボリズムでは、あちこちに謎めいた図像を隠しこんでいるようだ。寒い国から来たリンゴは、エデンの園には不自然な果実だが、15世紀末のクラナッハの時代には北方絵画で定着していく。ヘント祭壇画ではレモンかシトロンをイヴは手にもっていて、まだリンゴではない。

 一方で私たちはこの絵を前にできる限り謎めいて見えるように努力してきた。しかし実際には昼間でも薄暗ければ一本だけローソクをともすこともあるだろうし、窓際でくだものを食べようとして置き忘れることだってあるだろう。研究者たちは絵に描かれていることは真実であると思いこんで、必死になって当時の慣習を探しまわってきたようだ。ことに図像学者たちは「絵空事」を信じない堅物であることも多かった。中断されたシーンはいつも謎めいて見えるものだ。たとえば食事の途中、手を止めて食事の写真を撮ったとする。それだけでその写真は食事の途中なのにそれを食う人物がいない謎めいた空間に見えてしまうのである。フランスの画家ル・シダネルはそんな人物不在の食卓を繰り返し描いている。

第341回 2022年8月19

油彩画のトリック

 ブルージュにある「ファン・デル・パーレの聖母」(1434-6)は、比較的大きな作品だ。ここでも毛織物のもっている質感の表現は際立ったものがある。しわの一本一本まで描きこんでいくような表現力は、油絵のもつ表現の豊かさを、これ以上はできないというところまで引き出したものといえる。

 ドレスデンの聖母子も、小品だが祭壇画形式を取る。いくらでもアップになるぞという細密画だ。ルーヴルには聖母子像を描いた作品がある。「ロランの聖母」あるいは「オータンの聖母」といわれるものだ。ここでおもしろいのはベランダがあって後ろ向きの二人の人物がいて向こうを見ていることだ。同じセッティングはファン・アイク以降、ファン・デル・ウェイデンの「聖母子を描く聖ルカ」(1440c.)にも出てくる。聖バルバラはデッサン力のよくわかる淡彩の作品だ。肖像画も数多く残るがリアル・スブニール(真実の想い出のために)ということば書きを伴うものがある。絵のまわりのフレームには、枠に石の細工のような見せかけをする。額縁も含めて細工をする。額縁に文字を書き込んでいて、そこまで含めて紹介しないといけないが、絵だけの部分を切り取っている画集も多い。アルス・イッヒ・カン(私のできる限り)ということばをもつ肖像もある。私が描いたという意味でヤンの自画像と考えられるものだ。文字を書き込むのはヤンの特徴だ。

 「ナデシコをもつ男性の肖像」(1436c.)はおもしろい。枠があって手だけが少し前に出ている。影も枠のところにつけてある。ということは外側の枠は実際に立体のフレームなのだが、内側の枠は描かれた平面であり、そこに影を描きこんでいる。まるで手の部分だけが枠よりも外に出ているような目の錯覚を誘う作品だ。

 ファン・アイクの弟子にペトルス・クリストゥス(1410/20-1475/6)がいる。30センチほどの小さな女性を描いた肖像画は魅力的だ。アップにすると画面の亀裂が無数に見える。単なる肖像画なのに小さくハエ(蝿)を描きこんだものがある。実物大のハエだと当然見る者はそれを払いに行こうとする。しかし実際は絵だった。現代ではハエも少なくなったが、当時はよくハエがいたのだろう。現実のハエと描かれたハエとが交じり合って、虚実が渾然となった世界を演出したにちがいない。油彩画の細密描写の力の見せどころであるが、中国にはハエをリアルに描いた驚異の水墨画もある。何でもない筆さばきなのに、写生の精神は細密画とも思えない文人の観察眼にある。「ハエが手を擦る足を擦る」という観察文は、熊谷守一のアリ(蟻)が左右のどちらの足から歩き始めるかという画家の興味へと至る。そこでは油彩画のリアリティはないが、アリは確かに歩いている。

さらにファン・アイクの影響下、凸面鏡をうまく使ったものがある。見えないところを写し出すことで空間は広がりを見せる。「聖エリギウス」(1449)は金工細工師の聖人を描いたものだが、そのもとに二人の男女がやってきて、これも結婚の象徴なのだろう。結婚指輪を注文しているようだ。ここにも凸面鏡があって、窓から二人の人物がのぞいているというセッティングだ。この二人が結婚するに際して、二人の人物が証明しますという絵のように見える。「アルノルフィニ夫妻像」の場合と同じく、ここでもはっきりと1449年という年記が読み取れる。聖人を使いながらも日常の生活場面を写しこんだ風俗的な要素の強いものとなっている。



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