第1章 ホルツィウスの銅版画

第580回 2023年5月4

第1節 生涯と版画作品

 ヘンドリック・ホルツィウス(Hendrik Goltzius)の生涯は、オランダが独立へと向かう政治的混乱の中にある。それは一つの時代が終わり、新しい体制が生まれる過渡的な状勢に位置づけられる。美術史的に見ても、後期マニエリスムがバロックに移りかわる胎動の時期ともいえ、ある意味では、初期ネーデルラント美術と17世紀のオランダ黄金時代を橋渡しする要の時代ともいえるのである。しかし、その重要な時代がながらく芸術的には不毛の時期とされてきたのは事実である。

 17世紀にオランダに誕生する風景画は、単にブリューゲルにその原型を見いだせるのみでなく、ブリューゲル以降の作品群が分け持っている蓄積でもある。そして、ホルツィウスがその一役を担ったことも事実である。ただ風景画成立への役割は、ホルツィウスにとってはその一面にしかすぎない。カレル・ファン・マンデルと同時代を生き、活動を共にした彼にとっては、カレルがヴァザーリの写しかえとはいえ、あの時点で過去のネーデルラントの伝統と功績を文章にまとめる必要があったように、自らもまた多くの巨匠の仕事振りを思い返す必要に迫られていたと考えられる。

 彼がハーレムに居住した意味は、初期ネーデルラントの伝統を次期のハーレム派の活動に橋渡しすることだったと言える。しかし、それは極めて逆説的なニュアンスを持っていて、ホルツィウスのみならず、当時のオランダのマニエリストの様式と思想は、イタリア抜きに語ることはできないのである。ただここでイタリアの導入によって、ネーデルラントの伝統は崩壊したと考えるのでなく、より豊かになったという視点が必要である。それはホルツィウスの作品が証明しているし、そうでなければ17世紀にオランダが独自の文化遺産を築くことにはならないのである。彼がイタリア旅行で重大な影響を受けたにもかかわらず、短期間でハーレムに戻るのも、自分の立つべき基盤を認識していたからだった。そしてグロテスクな肉体のはてに、オランダ風景画が立ちあがってくる。本稿ではホルツィウスの生涯を追いながら、風景画独立の様相をさぐってみたい。

第581回 2023年5月5

1.ホルツィウスの生きた時代

 ホルツィウスの生涯は、オランダがスペイン支配から独立する大きな時代の流れに位置づけられる。オランダ共和国が自立するのは1648年であるが、その精神的高揚の時期は、むしろ1617年に没するホルツィウスの生涯中にあったと言える。そして彼の活動の拠点であったハーレムは、オランダ独立史の上からも重要な位置をしめている。

 ハーレムがスペインに対する反乱に加わったのは1572年である[i]。その年の12月から翌年7月までスペイン軍によるハーレム攻囲が続くが、それがかえって、今まで分裂していた人々の間に統一をもたらすことになる。1576年にはオランニェ公ウィレムの呼びかけに応じて、ヘントに南北諸州から代表が送られ、スペイン軍撤去を要求する請願書がまとめられた。ハーレムも1577年1月にウイレムの一隊に組みしたが、スペイン王フェリペ二世は、反逆者ウィレムの首に賞金をかけ、1584年6月にはウィレムは暗殺されることになる[ii]。ホルツィウスは1581年にウィレムの肖像(S142)を1584年にはウィレムの墓(S192)を版画化することによって、自己の立場を表明した。

 ハーレムは攻囲以降、侵略に反逆するオランダの誇りとなったが、宗教的にはカルヴィン主義は支配的とは言い難い。むしろ大部分はローマ・カトリック信者であった。1577年以降、カルヴィニストは徐々に増え、ことに1585年のアントワープ陥落によって、難を逃れたフランドルからの移民はハーレムに住みつき、プロテスタントの大地をつくった。

 彼らがハーレムにもたらした貢献は、宗教のみならず広く芸術家のコミュニティをここに成立させたことだ[iii]。それは絵画だけでなく素描・版画・金工さらには詩や演劇などにも革新的な働きを示し、芸術教育の場としても重要な地点となった。このハーレムのコミュニティが国際的な注目を集めたのはいうまでもない。ルーベンスをはじめデカルトなどもこの町にひかれたし、逆にハーレムの芸術家たちは広域にわたって散らばっていった。

 ハーレムの絵画的伝統は、15世紀のヘルトヘン・トート・シント・ヤンスやディルク・バウツから16世紀のマルチン・ファン・ヘームスケルクに至る流れの中に継承され、ファン・マンデルやホルツィウスのハーレム・アカデミーを経てフランス・ハルスに受け継がれてゆくものである。ホルツィウスにあっても、イタリアに向ける志向性は強いとはいえ、彼の出発点にはヘームスケルクがあった。確かにホルツィウスの作家としての出発の頃には、ヘームスケルクの様式はすでに古くなっていたが、彼のもたらしたミケランジェロヘの追随は、1540年以降の北ネーデルラントをおおいつくしていたし、彼自身がローマからの帰国後30年以上をハーレムに過ごしたことの意味は考慮されねばならない。ホッサールトやファン・スコレルとともにイタリア帰りの典型として見られるが、イタリア行きが画家としての修業の一手段にすぎなかったという点で、ヘームスケルクの基盤はむしろ北ヨーロッパのフマニスムの伝統の中にある[iv]


[i]  一般史についてはGeoffrey Parker, The Dutch Revoll, New York, 1977, P.159f. ハーレム史についてはJ.J.Temminck, Haarlem:Its Social/Political History, in the exposition catalogue Haarlem, The Seventeenth Century, Rutgers University, 1983,P P.17-27.参照。

[ii] Walter Strauss, Hendrik Goltzius 1558-1617, the Complete Engravings and Woodeuts, 2vols, New York, 1977. 以後路号Sを用い数字は作品番号を示す。

[iii] Frima Fox Hofrichter, The Artist Comunity, in “Haarlem, PP.29-35.

[iv] lia M. Veldman, Maarten wan Heemskerck and Dutch humanism in the sixteenth century, Maarssen, 1977.

第582回 2023年5月6

2.生涯の逸話―精神分析的視点

 ホルツィウスはハーレムに生まれ育ったわけではない。彼の版画の師であるコルンヘルトとの関係でハーレムにやってきて、そこで生涯を終えたのである。その生涯については、友人であったファン・マンデルが、1604年に出した『画家の書』の中で様々な逸話を交えて、詳細に語っている。彼の生前中に書かれたこの伝記が、信憑性の高いものであることはいうまでもない。これによれば、ヘンドリックはステンドグラス絵師である父ヤン・ホルツの長男として、現在のオランダ南部ムルブラハトに1558年の1月か2月に生まれ、3歳の頃には家族とともにケルン近郊ダイスブルフに移り、そこで4年間修学し読み書きを学んでいる。

 幼年期の逸話として、ファン・マンデルは「彼は火が非常に好きだった。一歳、たぶんもう少したってから、彼はほぼ一人で歩くことができたが、熱い油の入った鍋につっこんでしまい、手は赤くはれ炭のようになった」(M356)と伝えている[i]。このやけどのためにホルツィウスの手は不随となり、右手の指は一生のびなかったという。さらにマンデルは、彼の母が病弱であり、度重なる病気は長男である彼に弟妹の世話や家事の手伝いを強いたと伝え、ホルツィウスが美術家として自立するのに、極めて困難な条件を背負っていたことを強調している。

 作家の生涯の記録のうちで興味深いのは、その結婚についてである。ファン・マンデルは簡単に「彼は一人息子のいるハーレムの未亡人と結婚した」(M358)と記しているだけだが、実は1579年彼が21歳の時マルガレータというハーレムの船大工ヤン・バールツの娘と結婚したことがわかっている。彼女はアドリアン・マタムの未亡人で、前夫との間に8歳になる息子ヤコブ(Jacob Matham)がいた。ホルツィウスはその後この義理の息子に手ほどきをし、立派な版画家として育てた。ホルツィウスはその翌年30歳になる妻の肖像版画(S133)を残し、息子は父の死後1617年1月1日の没年を記したホルツィウス像を版画化している。

 そして、ホルツィウスとこの妻の間には子どもは生まれなかった。このことは彼が火に対する幼児体験によって潜在化された身体的コンプレックスと、病弱の母親、さらには年上の女性との結婚という諸条件とともに、作家の人格をさぐる上で興味深い事実と言えるかもしれない。またファン・マンデルが伝えたもう一つの幼年期の不幸、「ホルツィウスの父が、誤って気づかずに子どもの口の中に雄黄(絵画に用いる砒素硫化物)を入れてしまった。」(M356)ということが、無意識のうちに父親から逃れる行動に現われたとするなら、彼が師コルンヘルトに従ってハーレムに行くという決定は、重要な意味を持ってくる。それはコルンヘルトに精神上の父親の姿を見いだしただけにはとどまらない。ファン・マンデルは彼が師のもとにゆくまでの心理的葛藤を記述したのちに「ホルツィウスは、聖ヨハネの祝祭の頃にあった大火の少しあとでハーレムに移り住んだ」(M358)と言っている。この大火とホルツィウスのハーレム行きの決心に見られる偶然の一致は、あるいは不自由な手によって知覚し続けてきた火の恐怖が、大火によって一挙に爆発したと見ることもできるかもしれない。

 こうした幼児体験とコンプレックスに固執する解釈は、いささか奇をてらいすぎるものだろう。しかし、火に対するこうした体験が、彼に豊かな造形感覚を植えつけたことは確かだ。エングレーヴァーとして彼が残した代表作の一つ《イクシオン》(S260)に見られる火炎の描写は、すさまじい勢いで見る者に迫ってくる。頭から奈落に墜ちてゆくイクシオンの姿は、確かに彼の創作によるものでなく、コルネリス(Cornelis Cornelisz van Haarlem)の油彩画(ロッテルダム蔵)にもとづいている。しかし両者を比べる時、ホルツィウスの版画の方が優れていることは明らかだ。ことに火炎の風景は、ホルツィウスでは真に迫るものがある。


[i] Carel van Mander, Het Schilderboeck, 1604. ここでは英訳Constant van de Wall, Dutch and Flemish Painters, New York, 1936.(以後路号M 用い数字は買数を示す)及び仏訳Robert Genaille, Le livre de peinture, Paris, 1965.を使用。邦訳は「北方画家列伝 注解」尾崎・幸福・廣川・深谷訳編 中央公論美術出版 2014。

第583回 2023年5月7

3.コルンヘルトの影

 ホルツィウスに版画技法のすべてを教えたコルンヘルト(Dirck Volkertsz.Coornhert)は、ホルツィウスを語る上でまずあげねばならない人物である。ファン・マンデルはホルツィウスを強調するあまり、コルンヘルトを軽んじてしまったきらいがあるが、彼がエングレーヴァ-として自立するのに必要な技法をこの人物は与えただけでなく、思想的な面での影響も強く、広い文化人たちとの交流に導いたのもこの人物であった。彼は1519年生まれであり、ホルツィウスとは親子以上に年齢は離れていた。1545年以来ハーレムに住み、ヘームスケルクの素描にもとづく版画を主に制作していた。

 1572年のハーレム攻囲のために、コルンヘルトはハーレムを去った。彼がここに帰ることが可能になるのは1576年のヘントの講和まで待たねばならない。彼がスペインに対するレジスタンスの士であったことは知られており、1566年には政治的扇動者として捕えられ14週間ハーレムに留置されている。彼の自由思想が弟子のホルツィウスに伝わったことはいうまでもない。1576年以前にすでにホルツィウスが彼の弟子であったことを示す文書が発見されているが、この1月9日付の文書には、コルンヘルトとその「弟子ホルツィウス」(discipele GoIsen)の自由思想の神学的立場について触れられている[i]

 二人の出会いがいつどういう形でなされたかは定かではない。ファン・マンデルは、ホルツィウスが不自由な手にもかかわらず銅版画制作にはじめから、すばらしい出来ばえを示したと述べたあと「当時6、7キロ離れたところに住んでいたコルンヘルトは、彼にエングレーヴの仕方を教えることを望んだ」(M357)と言っている。おそらくコルンヘルトがハーレムを離れクサンテンで仕事をしていた時のことで、いまだ10代の少年にその豊かな才能を見いだし、強引ともいえるやり方で版画制作へと誘いこんだ姿が思い浮かぶ。

 ホルツィウスが教えを受けていた頃、彼はネーデルラント独立に向けての闘争だけでなく、カルヴィン派、メンノ派に対立するパンフレットも書いていた。そこには宗教的な強い意志というよりも、自由思想に根ざしたフマニスムの精神というものが見られる。やがて彼はホルツィウスをネーデルラントの文化人たちのサークルに連れてゆく。そこでホルツィウスは出版者プランタンや地理学者オルテリウスなどと知りあった。同じ頃、ホルツィウスはハーレム出身の出版者フィリップ・ハレ(Philip Galle)とアントワープで関係を持っている。ハレもホルツィウスと同じくコルンヘルトの弟子であったが、ホルツィウスとはすれちがいで、1564年よりアントワープで出版者・エングレーヴァーとして活躍し、同地の出版者ヒエロニムス・コックの後継者となっていた。

 この時代新しい文化を担うのは画家ではなくて版画家だった。それはルネサンスの精神が終わりを告げ、オリジナリティよりも情報操作が重要な時代に入っていたことを予想させる。マスコミを征する者が文化を征した。その中心に版画家がいた。

 しかしながら、コルンヘルトはハーレムに戻ってからはエングレーヴィングの制作が見られない。オデッセイやキケロのオランダ語訳という仕事や、政治・社会に向ける多方面の活動が、コルンヘルトに版画制作をやめさせたのだろうが、彼は版画制作をハレにゆずり、若い弟子であったホルツィウスも直接アントワープにあったハレに紹介したようである。ホルツィウスはその後ハレから多くの注文を受けることになり、その関係は1582年にハーレムで自己の版画印刷所を開くまで続いた。

 1583年にはフランスからコルネリス・ファン・ハーレムが戻り、ファン・マンデルもその頃にフランドルからハーレムに着いている。つまりホルツィウスを含めてこの3人がはじめるハーレム・アカデミーの下地がここにできあがったと言える。やがてホルツィウスはファン・マンデルとの結びつきが深くなってゆくに伴い、コルンヘルトとの関係はうすれてゆく。版画制作をやめたコルンヘルトは1587年末にはホーダに移り、1590年10月29日に同地で没した。

 ホルツィウスは、コルンヘルトが死ぬ少し前にホーダに尋ねて、その肖像を素描したようである。ファン・マンデルによればホルツィウスは1590年11月後半から一年にわたりイタリア旅行に向かうから、おそらくホルツィウスのイタリア旅立ちの暇乞いは、師との永久の別れになったと思われる。帰国後、ホルツィウスは師の生涯をたたえて、以前の肖像を版画化(S287)している。そこには強い意志を感じさせる鋭いまなざしをもった68歳の老版画家の姿が描かれ、銘文からその版画が「写生によって描かれた」(ad vivum depictus)ものであることがわかる。四隅にはコルンヘルトが生涯をかけた四つの仕事が象徴化されている。つまり、エングレーヴィング(絵画)・文筆・音楽・そして闘争である。


[i] E.K.J.Reznicek, Die Zeichnungen von Hendrick Gollzius, Utrecht, 1961, S.4. 以下生涯に関するデー夕は本書に拠った。

第584回 2023年5月8

4.版画出版の中で

 コルンヘルトは、版画という芸術的手段のもつ様々な面を開発していった人物だと言える。それは美術というものが大衆化されてゆく時代の要求に対応して、出版美術のはじまりとなり、図像的にも思想的にもイタリアと北方を結ぶ媒体となっていった。そして、ホルツィウスは版画という新しい美術のジャンルが生み出し、育てあげた巨匠ということになるだろう。

 ホルツィウスが、一介のエングレーヴァーから版画の商いをもめざす出版社を兼ね備えた仕事に着手するのは、1582年2月末のことである。この年彼はハーレム市庁の近くに新居を構え、それまで続いていたアントワープのハレからの彫版とデッサンの注文をやめている。ハーレム市の記録によれば、この家に彼は1601年まで住んだようだ。それは晩年、版画に興味を失い、急速に絵画に傾斜してゆく出発点に一致している。

 アントワープとの決別は、一説では政治的な背景からも説明される。1585年8月のパルマ公へのアントワープ委任は、オランニェ公ウィレムの側に立ってハーレムで仕事をするホルツィウスにとって不都合なものとなったというわけである。しかしホルツィウスの側で、版画制作と出版組織のあり方が変わってきたことは事実である。しだいに彼はエングレーヴァーとしての仕事を弟子にまかせるようになってゆくし、まかないきれない仕事は、その注文をどんどん断わっていったようである。1597年の記録が伝えるところでは、その頃ホルツィウスの銅版画印刷は高度に組織化されていたようであり、その販売圏もアムステルダム、フランクフルト、ベニス、ローマ、パリ、ロンドンヘと広がっていった。

 出版業という点からいうと、フィリップ・ハレもさることながら、やはりアントワープで活躍したヨーロッパの指導的な出版者クリストフ・プランタンとの関係について言及しなければならない。彼は1549年にアントワープに来て、スペイン王フェリペ二世の支持も得て、1575年まで20台の印刷機と150人の職人をかかえる出版所を作った。彼は1583年から85年までの間、レイデンで仕事をしているので、おそらくこの時期にホルツィウスと密接な関係を持ったものと考えられる。その頃のプランタンの肖像(S175)をホルツィウスは版画化しており、書物とコンパスを手にしたその姿は、学者のような風貌を備えている。

 一方、プランタンの方もこの時期ホルツィウスに対して、ある大きな仕事を必死になって勧めている。それはローマカトリックのジェズイット派教会からの依頼で、153点の挿絵の版画化という仕事であった[i](7)。プランタンはこの仕事を引き受けてくれるエングレーヴァーを見つけるのに苦労し、1585年11月9日のローマヘの手紙には、まだ注文を受ける者が見つからないことを伝えている。その後ホルツィウスを説きふせて、プランタンはその仲介としての役を果したかに見えるが、ホルツィウスはサンプルとして《三王礼拝》(S240)を一枚残しただけで、この仕事を断わってしまい、1586年10月23日の手紙でプランタンはローマにホルツィウスの拒否を伝えた。

 のちにこの計画はウィーリクス兄弟が完成することになるが、ここでホルツィウスの取った一貫性のない態度は一考の余地があるようだ。つまりハーレムという反カトリック的地盤で、この商談が極めて難しいものであることはいうまでもない。ことにホルツィウスは、コルンヘルトの弟子として、確固とした思想的な基盤を持っているはずである。ここに一作の試し刷りのもつ意味は大きい。つまり彼のこの仕事に対する最初の承諾は、彼自身の言葉に従えば「仕事の興味や儲けよりも、イタリアを見ることのできる喜び[ii]」ということになろう。宗教的信念あるいは思想的基盤を越えてまでも、イタリアの誘惑は大きいものだったと言える。そしてその思いはファン・マンデルの伝記に伝えられたように、死に瀕した状況の中で、イタリア旅行を決心するという後日譚につながってゆくことになる。

 ファン・マンデルによれば、ホルツィウスは1579年に結婚したのち、ゆっくりとメランコリーが彼をとらえ、理性を失ない無気力の末に胸を病み、3年以上も血をはいた。医者はすべてのことをしたが無駄で、憂鬱病が深く根をおろしていた。「自分の命がいわば絹の糸につりさげられているのを悟った」(N4358)ホルツィウスは、死ぬ前にイタリアの美術を見たいと思い、イタリア旅行を決心する。それは長らく結婚生活によってはばまれた夢でもあった。


[i] 詳細についてはReznicek, op. cit.,S. 187. Strauss, op. cit., p. 343. Timothy A Riggs, Hieronymus Cock, Printmaker and Publisher, New York, 1977, p.222ff.

[ii] この書簡についてはReznicek, op.cit., S.63.

第585回 2023年5月10

5.肖像版画の制作

 ホルツィウスの初期のエングレーヴィングの作品群で「肖像」のしめる役割は大きい。ごく初期の作品にも地理学者メルカトール(S1)を描いたものや、同じく地理学者オルテリウス(S227)、そして代表作ともいえる先述のコルンヘルト像など、フマニストの肖像が特徴的である。それはホルツィウス自身の交際の範囲を示すものであると同時に、エラスムス以来ネーデルラントに根づいたフマニスト肖像の流れの中に位置している。そこにはエラスムスの語る「たとえ死が私達を引き離すとしても、いつもあなたとともにあるために[i]」という思想が下地として認められる。そういった目で見直す時、師の死の直前に描かれたコルンヘルト像の持つ意味は大きい。それはホルツィウスが実の父ヤン・ホルツを描いた1578年の銅版画(S52)と比べる時、明らかとなる。44歳になる父の姿を彼は、いかにも神経質で猜疑心に満ちた人を見下すような目つきで描いているのに対し、コルンヘルトの堂々として天を見上げる容貌は、極めて対照的な表現だといえる。

 ホルツィウスは、妻も含めてごく身近な友人、知人の肖像を版画化するとともに、注文に応じて多くの肖像版画を制作している。1580年頃には肖像版画のメダイオンを盛んに作っているが、それらはハーレムに住む裕福な市民たちが注文したもので、鎖でさげるようになっていた。そこには宮廷風の優雅な肖像の伝統が認められ、ウィーリクス兄弟などが導入したイギリスのミニアチュリストの成果が取り入れられていたようである。

 ホルツィウスは、こうした注文による肖像版画の仕事をかなりこなしたようである。一時期ではあるが1587年から89年まで、反自然主義的な様式を示したスプランガーヘの感化時代に、肖像への関心は弱まっている。レスニチェクは、イタリア旅行の前3年間は、彼が肖像画芸術を自覚して怠ったと指摘している[ii]が、その頃はファン・マンデルの影響も強いころであるし、同じ仲間であったコルネリスが同時代の一人に告白した「自分は肖像を描くのはきらいだ」という言葉も興味深い[iii]

 しかしイタリア旅行中に、肖像に対する興味は復活し、行く先々の芸術家と知りあいになっては、フィレンツェ、ヴェニス、ドイツの各地で肖像を描いている。帰国後も様々な注文を受けていたようであるが、その頃は彼の名声は確立され、極めて高い報酬を受け取っている。レイデン大学から注文を受けたヨセフス・スカリガーとユリウス・スカリガーの2枚の肖像版画(S309―10)について、彼が1592年にそれぞれ100グルデンずつを受け取り、最初の500枚の試し刷り分についても、各版ごとに11グルデンが追加されたという記録が残されている。

 1600年以降は、版画から絵画への移行期であるが、肖像は素描において新しい発展を示したようである。それは今まで版画制作を前提とした写生による肖像素描であったものが、これ以降は絵筆への偏愛が肖像の素描様式を変化させたと見られる。レスニチェクは、この時期のある素描がオランダの集団肖像画、ことにフランス・ハルスの構図を先取りしているとして、ホルツィウスが国際マニエリスムの強いきずなを切った時点で、17世紀のオランダ肖像画が開始されたと主張する[iv]

 しかし、肖像を写生によるものという限定を付ければ、この分類は難しくなってくるが、1589一五八九年に制作されたキリストと聖パウロを含めた一二使徒のシリーズ(S260―280)は、テーマは宗教画ということになろうが、その半身像が示しているねらいは、様々な人格を肖像として描き分けることであった。そこにはマニエリスムを乗り越えようとする力強さが感じられる。時期としてはスプランガー様式の人体像を追求していた頃であるが、同時にイタリア帰国後に展開される新様式の萌芽がすでにここには見られる。


[i] エラスムスがトマス・モアに送った肖像画に添えられた書面による。J.Pope- Hennessy, The Portrail in the Renaissance, Princeton, 1966, P.96.

[ii] Reznicek, op. cit., S.66.

[iii] J. Rosenberg, S. Slive, and E. H. ter Kuile, Dutch Art and Architeclure 1600-1800, London, 1977P.22. 類以した内容はファン・マンデルも書いて いる。(M397)

[iv] Reznicek, op. cit., S.123.